~児童養護施設職員 浅沼美祐さんのお話〜
「私なんていない方がいい」と語った少女との出会いをきっかけに、ソーシャルワーカーとしての道を選びました。信頼を失い、大人に心を閉ざす子どもたちと一から信頼関係を築き、「自分は一人じゃない」と感じられる関係はどうやったら生まれるのか。
サマリー
エピソードでは、児童養護施設で働く浅沼みゆさんの経験を通じて、孤独な子どもたちの現実や関連する社会問題について深く掘り下げます。信頼関係の構築や孤立の問題、また愛の反対が無関心であることの重要性について考察しています。
孤独な子どもたちの実態
さあ、始まりました。タダの箱庭ラジヲ。本屋では買えず、増札もされない、読み手から読み手へとギフトされる1万冊の箱庭本について、今日もお話ししていきたいと思います。
ということで、今回のテーマは、「孤独な子供が一人もいない世界に」というエピソード。児童養護施設職員、浅沼みゆさんの体験談を通して、彼女の思いに触れていきたいと思います。
皆さんは、地域小規模児童養護施設ってご存知でしょうか。ここは家庭の事情で、親と一緒に暮らすことができない子供たちを受け入れ、社会が親の代わりになって育てるそんな場所です。浅沼さんは、ここでお母さんのような役割を担い、毎日子供たちのお世話をしています。
掃除をしたり、一緒にご飯を食べてお風呂に入れたり、子供たちの宿題を見たり、まさに家族のように子供たちと寄り添う日々です。
そんな浅沼さんがこの仕事に就くきっかけとなったのは、大学生の頃にアルバイトをしていた保育園での出来事でした。
まだ小学1年生の小さな女の子が、私なんていない方がいいと口にしたそうです。
皆さん、この言葉を聞いて何を感じましたでしょうか。
浅沼さんにとってそれは衝撃的な一言でした。こんなに小さい子がこんなことを言うなんて。
彼女はショックを受け、その経験がソーシャルワーカーを目指す大きなきっかけになったそうです。
自分なんていない方がいい、この言葉がどれほど深い孤独や絶望感を表しているか、浅沼さんはこう続けます。
私はそんな風に思ったことがなかったから、なぜこんな小さな子がそう感じるのか、どんな環境がそんなことを言わせてしまうのか、それが彼女が子どもたちに寄り添い続ける理由なんだそうです。
児童養護施設にいる子どもたちはしばしば大人を信じることができません。大人なんて信用できない、頑張ってもどうせ報われない、世界に希望を見出すことを諦めているように見えることも多いそうです。
そんな彼らと向き合うのは簡単なことではありませんが、浅沼さんは母親と子どものように、一から信頼関係を築くことが大切だと言っています。
子どもたちが大人を試すこともあるそうです。嘘をついたり、反抗的な態度をとったり、こんな私でも本当に向き合ってくれるのかと、無意識のうちに大人を試してくるそうです。
浅沼さんはそれを受け止め、子どもたちが少しずつ心を開いてくれるのを待ち続けます。
彼らは大人の目や言葉にとても敏感で、どうせ否定される、自分のことを必要としていない、そんな風に感じてしまうことも少なくないから、タイミングを見極めることがとても大事だと彼女は言います。
また彼女自身、反抗期を経験してきたからこそ、子どもたちの気持ちが少しわかるとも話していました。
今は逆の立場となり、母親の偉大さに気付くことも多いそうです。
特に子どもたちが大人に対して不信感を抱いている場合、信頼関係を築くには長い時間がかかりますが、それでも諦めずに寄り添うことが重要だと浅沼さんは感じています。
また彼女が強調していたのは、児童虐待のニュースなどに触れるたびに感じる孤立の問題です。
もちろん暴力は絶対に許されないことですが、虐待をしてしまう親もまた孤立しているのだと思います。
彼らも助けを必要としているのに、周囲が気付けず、耐えることもできずに追い詰められてしまう。
その結果エスカレートしまい、子どもの児童虐待みたいなケースにつながることが多いそうです。
誰も助けてくれなかったのか、なぜ孤立してしまうのか、浅沼さんはこうした現実に向き合いながら、社会全体の問題として考えていかなければならないとも話していました。
信頼関係の重要性
社会は競争や尊徳感情ばかりを重視し、その結果育児の慰労税の親や働き詰めで余裕がなくなった父親、家事育児ができないほど過労している環境が生まれてしまいます。
そしてそのしわ寄せが結局は一番弱い立場にいる子どもたちに向かってしまうのです。
浅沼さんは言います。子どもたちに本当に必要なのは寝床や食べ物、就職先ではなく優しさなんですと。
そしてこうも言っていました。愛の反対は無関心。大人たちが無関心であることが子どもたちの孤立や絶望につながってしまうんですと。
みなさんちょっとしんみりしてしまうテーマなんですけれども、僕も愛の反対は無関心であるというのはですね、
若い頃タイで仏教のお寺に僕ちょっと数日というか10日ぐらいですかね、
お寺に修行に入ったことがあったんですけれど、そこでも住職さんが同じことを言っていました。
それは愛のある人生を送りたかったらですね、生きることに関心を持ちなさいというふうに言っていました。
それは愛の反対が無関心であるから。
なので生きることに関心を持つってどういうことかって言ってやらされたのがですね、
ひたすら息をしていることに関心を向けなさいという修行をさせられたんですけれども、
朝から寝るまでずっと今、っていう感じですね。
自分が今息を吸っているな、今息を吐いているな、どういうこっちゃって感じだと思うんですけど、ひたすらそれだけを意識するんですよ。
それに対して何か思ってもいけないというか、ただただ今息をしていることを、今息を吐いていることだけを感じる。
そこにいわゆる関心を向け続けると、和尚曰く今ここに唯一自分が入れている状態になるんだと。
つまり、今日何食べようかなとか、あの人何してるかななんて想像したり考え事をしたりしているときはですね、今息を吐いているなとか吸っているなというところに意識がなくなっているわけです。
その瞬間今ここにいなくなってどこか別のところにですね意識は行ってしまっていると。
なので仏教のお坊さんなんか本当に心静かにただそこにあるみたいなイメージなんですけれども、そういう修行を通して今ここにいる。
愛のある生き方っていうのは生きることに、息をすることに関心をまず向けることなんだみたいなことを教わって、
そこから結構僕も悩んだりとか緊張したりとかこういったときにはですね、
呼吸をただ今息吸っているな、息吐いているなってね、よく深呼吸した方がいいみたいなのがまさにそれなんですけど、
呼吸をすることでそこに立ち返るというかですね、無関心ではなくなって、今この瞬間起こっているところに子どもも含めて目を向けることができるみたいなことにつながるかもしれないななんて思って聞いておりました。
社会全体の問題として
子どもたちがですね、自分なんていない方がいいと感じてしまうような世界を変えるには大人一人一人の関心や愛が必要なんだと思います。
浅沼さんのように子どもたちに寄り添い信頼を築き、彼らが自分は大切な存在だと思える環境を作ることが私たち大人の責任なんではないでしょうか。
今日のエピソードが皆さんに何かを考えるきっかけになれば幸いです。
ということで次回もですね、心に響くお話をお届けしたいと思います。
それではまたお会いしましょう。ありがとうございました。
10:34
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