1. 声でのこす“らせん階段日記”
  2. #123 欲しいのはエピソード
2024-09-15 13:32

#123 欲しいのはエピソード

この一つの生命体に

いったいいくつの存在が関わってるの?

 

#ココハコ

#らせん0915

#らせん9月

#らせん階段日記

#あたまのなか

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おはようございます、えぬです。
声を頭のてっぺん、頭蓋というところに向かって、そこに当てるようにして話すと、その人が持っている本来の声が出ると。
出るというか、本来の話し方、声になるという動画をね、昨日見つけまして、今やっています。
いつもと声が違うかな?という、今日は始まり方なんですけども、
今日は収録したいことが一つあって、何でも思った通りにすぐにできたり、願いが叶ったりするっていうことと、
結構、四苦八苦したり、悩んだり、辛かったり、生涯を乗り越えたりっていう方がいいと。
そういう人生の方がいいと、どちらでしょう?皆さんは。
私はね、基本、本当に、そんなね、何かしたいと思ったら、そのしたいということが叶うことは、いいことだと思うんですよ。
願いもね、すべて。何か四苦八苦するとか、苦労するとか、そんなことはなしに、こうしたいと思ったらすぐそれが叶う。
それが一番幸せじゃないかって思っているんですね。今でも思っています。
何かを乗り越えてとか、できなかったことができるようになった時の喜びとか、多少はそういうのも経験したことがありますけど、
なぜこうなりたいと思ったことがパッと叶うっていうことは、それは喜びがそれでは減ってしまうとかね。
私たちは、達成した時の喜びを味わうために四苦八苦したりするんだという話をね、読んだり聞いたりするたんびに思うんですよ。
それとは別の視点で、例えばじゃあ映画があるとして、
映画は何が楽しいかっていうと、見てる人がですよ。
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それは、いろんなアクシデントがあったり、ハプニングが起きたり、
そうしながらも、その主人公が見事に乗り越えていく時にはもうダメになるんじゃないかっていうぐらい挫折をしても、
でもふっと運命的な出会いがあって、手助けをしてもらいながらとか、
そういうドラマがあることで、見ている側はその映画を楽しめるんですね。
よく人生は映画だ、映画みたいなものだ、ドラマのようなものだ、とか言いますけど、
私、騙されそうになるなぁと思うんですよ。
騙されそうになる。
それは、本当は人生っていうのは、自分が中心にいて、見ている人のことなんて全然関係ないんですよ、本当は。
だから、映画は見ている人を楽しませるために、山あり谷あり苦労あり涙ありということが、
そういうアクシデントやエピソードが起きない限り、見るに足らない、見る価値のないものになってしまいますね。
でも、人生は誰に見せるわけでもなく、自分が望み通りに、何の苦労もなしに、
こうしたい、はい叶いました。あれができるようになりたい、はいできました。
それで何が悪いのかなってやっぱり思うんですよ。
だけど、この話はここで終わらなくって、思うんだけど、そうはならないじゃないですか。
でね、なんでかなーって、もう一回考えてみたんです。
人生を山あり谷あり振り返ってみて、
あああれは、あのアクシデントは辛かったけれど、あれがあったから今があるなーとか、
自転車、乗りたいなと思ってから乗れるようになれるまで、
どんだけこけて、あざつくって、けがして、失敗したことか、
乗れるようになった時の、あの初めてペダルをこいた時の喜び、あれは忘れへんなーって思う。
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なんで思うんでしょうね。
なんとなくですね、人間は自分っていうものがあって、
そして自分やと思っている、この私がこうしたいって思った時に、その通りにはならない。
ならないところを一生懸命やる、時には挫折する、泣く、落ち込む、苦しむ、
こういうことをなぜそれでもやるんでしょうね。
それはあたかも映画を見ている人がいるかのような見せ場を作ったり、
何か見ている人が楽しんでくれるような、ああ素晴らしいドラマだった、ああ素晴らしいストーリーだったと、
主人公が最終的には夢が叶ってよかった、そんな風に楽しんでもらいたいがために、
まるでそうしているような、私たちは自分が思うからやっていて、
自分のために叶えようと思っていて、叶えば自分が嬉しい。
あたかも自分が主体で、自分が主人公で、主体で生きていると思っているが、
なぜそんな感動エピソードなんかいるんでしょうね。
しんどいのは自分なのに、もちろん叶えられた時は喜びも自分です。
でも始めからできたらいいのに、もしくはできないことは望まなければいいのに、
なぜ感動させるような、なぜハラハラさせるようなドラマを生み出そうとするんでしょうね。
って考えたんですよ。日曜日の朝。
一体何を言いたいの?って思われるかもしれません。思われるでしょう。
でもそれでも言いたいんですよ。頭の中にあることをね。
もう少しだけお付き合いください。
私は私を生きている。この人生を生きているのは私であると思っていますが、本当にそうなのかなと思うわけです。
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今思っている、今そう考えている結論、それは私は私ではないのではないかということです。
私を生きている私と、それを見ている、見守っていると言ってもいいかもしれませんが、
見ることを任されている、見ることが全てであるとしている私と、
二通りあるのではないかなと思うんです。
何々と何々というふうに、完璧に二つに分かれているのではなく、
融合していて、その境目は曖昧だと思いますが、
でも、私一人、私だけということはないような気がしています。
観察しているもう一人の存在がいて、その存在は私たちと一緒ですよ。
映画を見るときに、見せどころのない、めりはりのない、山場のない映画、延々と見ることができるでしょうか。
山あり谷あり、ハラハラドキドキ、だから見るんですよね。
そういう存在が誰にももう一人ついていて、そして、
生きている私と見ている私は完璧に区別されるものではないので、
時に境界線が曖昧になるので、だからこそ気がつかない。
でも決して、二つの存在が役目を入れ替わることはないし、
完璧に融合されることもない、そんな気がしています。
アクシデントも、ハプニングも、命あっての振り返りができるもので、
だからこそ、アクシデントもハプニングも、そこそこゆるいものがいいんです。
そこそこゆるいもので、後から振り返って笑えるもの、
そういうものはたくさんたくさんあってもいいなと思います。
見ている私が楽しんでくれたら、生きている私も嬉しい。
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音声配信と一緒です。聞いてくださっている人が喜んでくれたら、
配信する私は嬉しい。もっともっと配信しちゃおうって思うことができる。
そんな感じ、そんな力関係というか、
そういう存在が誰にももう一人ついている、そんな気がしているんです。
今日はどんなハプニングで、どんなエピソードで、
もう一人の私を楽しませようかな。
だから何が起きても面白い。
何が起きてもチャンス。
そんなふうに捉えて生きていると、
体の力が抜けて、生きやすくアイデアも出やすくなるのかなと考えている9月です。
日曜の朝、えぬの頭の中でした。
それでは良い一日をお過ごしください。
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