コミュニティとパーソナリティ
お聞きの皆さま、お運ばんちは、現役リフォームプランナーの寸尺かんなです。
コミュニティの話をしようと思うんですけれども、とあるプラットフォーム上で、いろんなパーソナリティさんがいて、そこにそれぞれコミュニティが形成されますよね。
このコミュニティは、そのパーソナリティさんの個性をやはり反映して、似た人が集まってくるというか、そのパーソナリティさんが発信する内容に関心を持つ人というのは、やはりある程度そこで選ばれるというか、似たような人が当然集まりやすいですよね。
例えばなんですけれども、私は子供がいない中年女性になるので、例えばワーママっていうパーソナリティさんのペンネームっていうんですかね、その名前にワーママがついていたり、チャンネルにもワーママってついていると、基本聞かないんですよね。
これはもう別に何の対もなく、自分がワーママじゃないからです。ワーキングマザーじゃないので、ワーママって名前がついている時点で、自分は除外されているなと感じるので聞かないんですよね。
これは意図的なターゲティングっていうんですかね、このマーケット用語で言うと。つまり性別や年齢や生活、ライフスタイルとかそういったものがある程度、自分が得意とするというか、自分に近い人たちをターゲットに、そこをマーケットにするということですよね。
なので、自分がそうじゃないとなると聞かないわけですよ。おそらく私はこういったワーキングマザーを歌っているパーソナリティさんの配信というのは全くと言っていいほど聞いてないんですけれども、おそらく育児の苦労であったり、働きながら家庭生活を両立していたりとかっていうことをコンテンツにされている人が多いんだと思うんですよね。
これは私の興味関心事ではないので聞いてないだけなんですよね。当然こういったパーソナリティさんのところには似たような年齢で、似たような苦労をされているワーママが集まっているということだと思うんですけれど、一方でノンフィクションライターの方がパーソナリティーでされているチャンネルではですね、いろんな社会的なテーマ、
いろいろまだ表層に出てきていない社会問題になりうるようなテーマを拾い上げて、そういったことを発信しているチャンネルがあって、ここにはですね、私を含めてこういったテーマに関心を持つ人たちっていうのは、
やはり身近な自分の生活圏のいろんなこととかだけではなくて、世の中でどういったことが起こっているのかっていうことに関心が強い人たちなわけですよね。これはやはりインテリだっていうことになると思うんですよ。
インテリっていうのは定義が難しいと思うんですけれど、私の解釈では単に学歴が高いとか、教養が深いということだけではなくてですね、自分自身の今生きている、暮らしとか生き方っていうのが、社会と密接に関わっているんだっていう、自分は社会の一員なんだっていう、
その社会の関わりの中で、自分自身が生きているんだっていうことをすごく認識している人たちっていうのもあると思うんですよね。これはどういうふうに説明したらいいですかね。
例えばですね、自分が今まで生きてきた中で、自分が選択して、自分が決定して、自分が思うように生きているというふうに思いがちですよね。自分が大学で勉強したいと思ったから大学に進学した。
自分がこの会社いいなと思ったからこの会社に入った。およびそろそろその時付き合っている相手と適齢期だから結婚しようと思ったとかね、子供が欲しいなと思って子供を産んだとか、こういったことは全て自分が選択して決定して、その期決として今の現状があるんだというふうに思いがちなんですけれども、実はそうじゃないというか、それだけではないんですよね。
やはり社会の一員として社会の要請の中で生きているので、その時のマジョリティの生き方であったり、そういった社会の要請に合わせて自分をそこに当てはめて生きているということが多分にあるんだと思うんですよね。
そういったことがやはりその社会と自分というものの関わりとか位置関係がわかっている、もしくはそこにすごく興味があるという人はやっぱりインテリだというふうに思うんですよね。
つまりすごく主観的に、人間というのはどうしてもやはり主観的になっていくと思うんですよね。どんどんどんどん自分だけが何か悲しかったり嬉しかったり、喜怒哀楽も自分だけが何かこう大変な思いをしているとかね、割とどんどん主観的になりがちなんですけれども、インテリの人っていうのはそこから引き剥がして、
いやいやいやっていうね、もっと俯瞰でものを見ようとしようとすると思うんですよね。自分というもののすごく近視眼的になりがちな自分というものをずっともっと距離を空けて、物事をちょっと遠くから見ようとするっていうね、そういう理性的な視点を常に持っていたいと思っていたり、既に持っていたり、持つ訓練をしていたりするものだと思うんですよ。
何か今自分がとても自分事だと思い込んで悩んでたりとか、何かこだわっていたりすることがあったとしても、それぐっとね、距離を空けて見てみたら、そういうことかっていうね、分かることってあると思うんですよね。
例えるとチャーリーチャップリンがいますよね、喜劇王の。あの人が何か言っていたのが、例えば喜劇と悲劇っていうのは距離というのかな、どこに視点を置くかで、まったく同じ事象が喜劇にもなり得るし、悲劇にもなり得るって言ってたんですよね。
多様なコンテンツの存在
例えばバナナの川に足を滑らせて、つるんとこけちゃう人がいたとしますよね。これをこの人、このバナナの川で滑ってこけちゃった人の主観で見ると、これは悲劇になるんですよね。
なんでこんなひどい目に遭うんだっていうね、なんて運が悪いんだっていう話になるんですけれど、これをね100メートル、200メートル離れたところで、他人がこのバナナの川で足を取られて滑っている人を見たら、喜劇になるんですよね。なんだあの人、バナナで滑ってるよ、ははっていうね。
だからこういうことなんですよね。だから常に物事っていうのはものすごく近くで見てしまうと、ものすごく近視眼的になってしまうんですけれど、話してみたら何かちょっと違ったものになるっていうね。
なんかちょっと私違う話をしているような気がするんですけど、つまりインテリの人っていうのは、どんな物事もですね、例えばどんなに悲しい出来事もですよ。
例えば自分の身内が死んだりとか、自分自身に何か不幸が起こったとしてもですね、ああもうなんて自分は、なんて自分は不幸なんだと、どうしてこんな目に私が会わなきゃいけないんだっていうね。
どうして私がこんなに真面目に生きているのに、なぜ私がこんなこんなこんなっていう風になっちゃうんですけれど、これをもうちょっとね、やはり俯瞰してみたら、
まあこんなことも起こるよねと言って、もう少し冷静に対処していくっていうか、病気になったんだったらそれをどうやったら治療できるのかとかね。
身内が亡くなったんだったら亡くなったで、どうやってこの悲しみを克服するかということを、もう少しその冷静に考えていくということができるんですよね。
これは感情の話をしてますけど、感情に限らず、社会的なことだったり経済活動であったり、すべてのことにおいて、主観的になりがちな視点をぐっとね、やはり話して、もっと社会との関わりで自分自身を見つめたりできる人っていうのがやはり私はインテリかなっていう風に思うんですよね。
このノンフィクションライターのパーソナリティで、私が大変ファンのチャンネルにおいては、やはりね、ものすごくインテリの人が揃っているんですよね。
物事をなるべく俯瞰的に見たい、もしくは俯瞰的にすでに見れている人たちが、この人のコンテンツが面白いと思って集まっているので、とても知的な人たちが集まっているのは当然なんですよね。
一方でですね、こういった社会的な事象とか、そういった社会病理的なことには全く興味はなくて、どうやったら部屋のいろいろぐちゃぐちゃがきれいに片付けられるかとか、そういったことに興味がある人たちもいて、
これは私全然バカにして言っているわけじゃなくて、これは日常的な困りごとじゃないですか。家が一向に片付かない、時間がなくて、なかなか整理整頓がうまくいかない、整理整頓しようにも自分一人で暮らしているわけじゃなくて、
そういう家族がいたり子供がいたりして、なかなか思うように暮らしがすっきりとしないとか、そういった悩み事は当然あって、そういった人たちをターゲットにした整理整頓をテーマに置いたチャンネルもあったりとか、それは全然普通のことというか、
大きなプラットフォームの中では、いろんなコンテンツがあり、いろんなパーソナリティがいて、それぞれ切り口が違う、関心事も違うというので、全部澄み分けされているわけですよね。
だからそこはそれぞれ、いろいろ聞いている人もいるし、クロスオーバーで整理整頓のコンテンツを聞きながら社会病理に切り込むノンフィクションライターのチャンネルも聞いたり、いろんなものをクロスオーバーで聞いたりしている人たちももちろんいらっしゃるでしょうし、
そういったプラットフォームというのが、本来そういうふうに自由にいろんな部屋があってね、ここでは工作を教える部屋、教えるというか工作をする部屋、ここではお絵かきをする部屋、ここでは読み書きをする部屋とか、読書して読書会する部屋とか、いろんな部屋があって、あと時事問題を議論する部屋とか、いろいろあってそこを自由に行き来して、
好きなようにいろんなものをかじっていくっていうね、本来そういう学びと成長っていうのはおそらくそういうプラットフォームを目指してたんだろうなというふうに思うんですよね。
ビジネス環境の変化
これがどういうわけか、全然だから違うテーマ、コンセプトのコミュニティ同士が何かちょっと派閥のようになってきて、大元の原因や理由はちょっとここでは私はわからないので、そこに言及することはないんですけれど、
ただ今、この棒にまつわるいろんな事象を見ていると、私が今まで大きく言うと4社の会社を渡り歩いてきたんですけれど、幸か不幸か、私が今まで渡り歩いてきた会社に倒産して亡くなった会社はないんですけれども、
今、民事再生になって他の会社に吸収されたりとか、あとは事業自体をガラッと変えて、会社の名前は残っているものの全く業態を変えている会社とかね、いろいろあって、だから会社がだんだん社用になっていくところっていうのはもうすでに4社のうち3社で見てきてるんですよね。
その時にね、やっぱりそっくりなんですよね。結局、いろいろ夢や理想や希望があって始めていた事業なんですけれども、なかなかやはり現実的にうまくいかず、いろいろ内部で批判も起こり、もうちょっとどうしてこういうふうにできないんだとか、いろんな声が上がり混乱してきた時にですね、
やはりね、内部で批判されることがだんだん耐えられなくなってくるんですよね、上層部が。その上層部が結局、そこでね、だんだんビジネスマインドを失っていき、非常に個人的な気持ちになっていくんですよね。
だから、先ほど言った、その俯瞰でものを見れなくなっちゃうんですよね。で、そうなってくると、だんだん自分に反対意見を言わない人たちしか身の回りに置かなくなり、自分の耳障りの良いことしか言わない人しか集めなくなり、結局ね、そういうことをするので、どんどん本当の情報が入ってこなくなってくるんですよね。
これは同じ、私もね、人としての気持ちとしては、それはわかりますよ。一生懸命やってることにどんどんダメ出しされたら、適当に怠けててね、あなた怠けてるからダメよって言われたら、自分が悪いなって思って反省もすると思うんですけれど、一生懸命ね、心血を注いでやってるにも関わらず、結果が出ない時に、
あなたこういうところがダメなんですよっていうことをね、その正論で言われたりするとやっぱり傷つくでしょうし、腹も立つっていうのは、まあ人の気持ちとしてわからなくはないんですけれど、やはりね、これはでも多くの人を巻き込んでの事業なので、それはね、あのやっぱりそういうふうに個人的に、主観的に捉えちゃダメなんですよね。
そういう批判っていうのを個人的に受け取ってしまっているから、やはりダメなんですよね。だからインテリじゃないんですよね。インテリっていうか、やっぱり、不観で物を見れないっていうところで、もう全然一流のビジネスマンでは全くないんですよね。
結局ね、トップがそういうことに恐らくなっているので、自分に耳障りのいいことしか言わない人たちを集めていった結果、どんどんそのプラットフォームの中から優れたコンテンツとかパーソナリティが、なんかこう隅に追いやられていき、そして大したことないって言ったら失礼ですけれども、
あまりコンテンツとして価値がない人たち及び、あまり良からぬ思惑でプラットフォームを利用しているパーソナリティたちが暗躍するっていうことを、そういう隙を与えてしまっているのかなっていうふうに感じます。難しいですよね。だから多分ダメになるんじゃないですかね。
なので、今でも本当にすごくそれでもね、プラットフォーム自体がだんだんダメになってきつつも、いいコンテンツを作り続けているパーソナリティさんがいらっしゃるということなので、大丈夫っていうか、この人たちがまただからどこか、
肥沃な土壌というんですかね。とても栄養がたっぷりある良い土壌、つまり新しいプラットフォームがあるんじゃないでしょうか、ということでね。
最後に言うんですけれど、そういうとてもインテリなリスナーたちのことを悪質って言ったんですよね。どこのドイツかわかんないんですけどね。
このね、だからつまりね、全く相入れない価値観とか、あえて言いませんけれど、プラットフォームじゃなくてそのコンテンツ自体のクオリティがだいぶ差があって、当然だからそこに集まっているリスナーたちも全然質が違うというか、質っていうか種類が違うというふうに言います。
全然だから個性が違うリスナーたちが揃っているので、当然そこは相入れないのはわかるんですけれど、例えばこの悪質だって言われているリスナーたちがおのおのね、いろんなその全然違う個性のプラットフォームじゃなくてコンテンツの方に飛んでいってですね、そこでコメント欄荒らしたりとかね、反対意見を言ったりとか、アンチコメントをバンバン書き込んだりとかしてるんだったら
悪質なリスナーということになると思うんですけれど、おそらくね誰一人そんなことしてる人は一人も少なくとも私が見ている限りいらっしゃらないので、まったくまったく言われのないことをね、なんかこう言われてるんですよね。
インテリが攻められるっていうのは世も末というか、なんか嫌な感じがありますよね。常に全体主義が盛り上がってくる時っていうのはね、反知性主義っていうかインテリを叩くっていう風になってきますんでね。
これが幸いなことに、別に国家全体になっているわけではなくて、ここの非常に非常に狭い村がそういうことになっているだけなのでね、この村を見限るというか、いつかそのタイミングが来るんじゃないかなという風に思ってちょっと話してみました。
はい、もう知らねえっていう感じですよね。はい、ではごきげんよう。