1. 現役リフォームプランナーの業界裏話
  2. ダメな親の子供ほど逞しく育つ..
2025-09-24 19:18

ダメな親の子供ほど逞しく育つ② #448

わたしのファミリーヒストリー続きです。
※パーソナルな内容なので、有料配信に移す予定です。

#リフォーム
#リノベーション
#インテリア
#インテリアコーディネーター
#ファミリーヒストリー
#世代地続きシリーズ
---
stand.fmでは、この放送にいいね・コメント・レター送信ができます。
https://stand.fm/channels/6566a0d64db2e7bbf594a948

サマリー

このエピソードでは、アメリカに二度留学した母と、その厳しい教育を受けた祖母の家族の歴史が語られています。特に、祖母の日系アメリカ人としての苦労や、日本に帰国した際の困難、そして母の才能を見出し育てる過程が印象的です。芸術分野における才能と厳しい教育についても触れられており、日本の文化や経済的状況がこの分野に与える影響、さらに子供たちの自立の重要性が述べられています。

家族の歴史の始まり
お聞きの皆様、お運ばんちは、現役リフォームプランナーの寸尺かんなです。
ファミリーヒストリーの続きになります。
うちの母はですね、アメリカに二度留学し、一度目の留学で私を産み、一旦は日本に帰ってくるんですけれども、
私の父親とは離婚し、その後もう一度一年発起してですね、二度目の留学でちゃんと学位を取得するという目的で、
私を再度子連れ留学をしてね、生き直して無事に学位を取って、日本に帰ってきて、そこからはもうがむしゃらにキャリアを追い求めた、忙しい生活が始まるわけですね。
その回あって、うちの母親は非常に成功したんですけれども、同時にですね、母は母で、実は非常に厳しい教育、
今の言葉で言うと教育虐待にあたるような、非常に厳しい英才教育を受けた子供というか、犠牲者、エリート教育の犠牲者という一面もある人だったんですよね。
うちの祖母、本当に複雑なんですけれども、うちの祖母は祖母で、非常に厳しい人生を送ってきた人なんですよね。
祖母は日系アメリカ人2世なんですね。自分の親がアメリカに渡って、1世、1代目でアメリカに渡った移民だったんですよね。
そこでアメリカで生まれたんで、完全にうちの祖母と、あと祖母には弟がいたんですけれど、2人はアメリカ人なんですね。
アメリカに生まれたらアメリカ人になるっていうのがアメリカなんで、ずっと日本語も多分しゃべれずにずっと日本人コミュニティの一員ですけれど、完全にアメリカの社会に溶け込んで暮らしてたんですよね、うちの祖母はね。
自分の両親はそれなりにアメリカで成功していて、経済的には非常に裕福な幼少期を送っていたようなんですね。
それでうちの祖母は非常に勉強もできたんで、ちゃんとした学校に行って、しっかりした教育を受けて、当時のうちの祖母と同世代っていうと、日本だと大正生まれなんで、こんな豊かでハイカラな生活をしている人って日本人にはあまりいなかったと思うんですけれど、祖母はとてもいい華やかな人生をその当時は送っていたんですが、
途中でですね、祖母がおそらく高校生になるかならないか当たりだったと思うんですけれど、この稼ぎ頭の父親が病気で死んじゃうらしいんですね。病気で死んだのでこのままの暮らしは維持できないということで、
祖母の母親、私にとってのひいおばあちゃんの故郷である田舎に一旦帰ろうということになって、子供二人を連れてひいおばあちゃんは日本にまた帰ってくるわけなんですね。
ところが祖母は完全にアメリカ人として育っているのに、多分日本語もほとんどしゃべれなかったんですよね。それがこんな閉鎖的な田舎に帰ってきて、それはひどい目にあったらしいです。いじめられるしね。
日本語がしゃべれないで、英語の本を読んでたら丸口言われたり、物を投げつけられたりとかね。ちょうどその頃は日本とアメリカの関係性がどんどん悪くなって、戦争がひたひたと近づいてきている時代でもあったんでね。
それはすごく針のむしろのような青春期を送って、祖母はとても苦労したらしいんですね。さらに悲劇だったのが、祖母がとても大事にしていた自慢の弟がいたんですね。
この弟が今でも写真が残っているんですよね。このおばあちゃんの子供の頃の写真とかね。見るとすごいハンサムな可愛い男の子なんですね。このおばあちゃんの弟っていうのがね。
この弟もおばあちゃんと同じように田舎に帰ってきて苦労しているはずなんですけれど、こういう帰国子女というのかな。日本に途中から帰国してきて、日本に同化するのに苦労した子供っていうのは、私もすごい祖母の気持ちがわかるんですけどね。
一生懸命に同化しようと無理しちゃうんですよ。自分のアメリカ的な要素っていうのを封印して、英語もしゃべれないふりとかしてまでして、なんとか日本人に同化しようというふうにすっごい苦労するんですね。
多分祖母とおじさんもそうだったと思うんですよ。一生懸命日本人以上に日本人らしく振る舞い、そうこうしているうちにどんどん政治情勢が悪くなっていき、いよいよ太平洋戦争が始まろうという時に、こともあろうにね、この弟さんは結局日本兵として志願して、アメリカとの戦争に参加していくことになり、
結局ね、太平洋戦争時の激戦地ですよね。おそらくフィリピンなのかパラオなのか小笠原諸島なのかわからないけど、とにかくそういった激戦地で戦死してるんですよね。
こういう悲劇にあっているんで、私はね、自分、おばあちゃんと一緒にいて、絶対にこのね、自分の弟の話と、あとアメリカで亡くなった父親の話はね、絶対してくれませんでしたね。
それ以外のね、少女時代に楽しかったね、アメリカでの青春期の話とかね、そういう話はね、いっぱいしてくれたんですけれど、苦労してね、このアメリカから引き上げてきた頃とか、あとこの太平洋戦争の頃にどんな思いでいたかとかっていう話はね、やっぱりもうPTSDですよね。
おばあちゃんはおそらくね、一切話をしてくれませんでした。だからどれくらい辛い思いしたのかっていうことは、想像するに難しくないですよね。だからね、こういう苦労をしてるんで、おばあちゃんはね、また田舎でね、すごい村社会でね、日本の田舎っていうのでひどい目にあってるんで、生涯田舎が大嫌いな人でもありましたね。
母への厳しい教育
その遺伝子はね、みゃくみゃくと私にも引き継がれていて、田舎ってね、もう本当に大嫌いなんですよね。田舎はいい面ありますよ、自然が残っていてね。食べ物がおいしくて、空気が新鮮だとか、いろいろあったとしてもですね、でもそこはもう村社会なんで、村に所属してない人に対してはものすごく冷たいっていうこともあったりとかしてね、
なるべく田舎には近づかないようにするっていう習性が祖母の遺伝子でね、私にはありますね。話が逸れましたけれども、そうやってすごく苦労した祖母はね、もう一生結婚する気はなかったみたいなんですけれど、しかも非常に優秀だったので、
勉強で英語ができるんでね、結局英語で大学の先生になるわけですよ。そこでもう一生独身でも食べていけるだけの経済力があったんで、自分の母親を養いながらいたんですよ。ところがですね、これ前にもどこかで私たぶん話したことあると思うんですけど、
この勤めている大学のお世話になってた学長さんか偉い人が、戦争の後売れ残っているちょうどいい二人がいるっていうね、この二人お似合いだろうって言って、マッチメイクしてくれたのがたまたまうちのおじいちゃんだったんですよね。
祖母はもう堅く、自分はもう生涯独身で行くっていうね、だからまあ多分日本に帰ってきてからひどい目に遭ってるし、なおかつアメリカである程度ハイカラな社会を見てきた祖母にしてみたらね、当時のこの戦中戦後の日本人の閉鎖的だったり保守的だったり、断層除皮だったりするところっていうのは耐えがたかったと思うんですよね。
あんな思いまでして、結婚してね、奥さんにならなくても経済力があるから、自分はもう一生独身に行くってね、堅く決意してたようなんですが、この学長さんのご紹介でね、うちの祖父に会ったら、コロッとあっさり結婚したっていうね、面食いなおばあちゃんだったんでね、自分の好みのタイプだったっていうことであっさり結婚したので、我々、私も生まれてくることができたというね、うちのファミリーヒストリーが継承されたっていう、
まあ面白い話なんですけど、とにかくね、祖母は非常にね、幼少期に苦労しているので、家族っていうものに対する思い入れがね、強烈にある人だったんですよね。
でも、何よりも家族が大事で、でも家族のためならもう何でもするっていうようなね、ちょっとね、愛情型な人だったんですよね。
そこへね、たまたまうちの母親が、戦後生まれてね、団塊世代ですよね、子供がたくさん生まれた世代に母が出てきて、うちの母親ね、なんかボヘッとした、ちょっと足りない子供っぽかったらしいです。
で、ちょっとこの子心配だわと、おばあちゃん思ってね。で、まあうちはだから、その祖父も祖母も頭がいい人で、あの非常にシャキシャキした人たちだったんでね、そこへうちの母親がボヘッて、なんかね、なんかね、とろい子だったらしいんですよ。
で、それをね、非常に心配した祖母が、何かね、お稽古ごとをやらせないとダメだと思い立って、まああのある楽器をね、母にやらせたところ、たまたまね、才能があったんですよね。
で、もうこれはこの子はちょっと才能あるから、ちゃんとやらせたほうがいいよっていうことでね、でも次々にそうなってくると、もうこの先生に習えとかね、でもこうなってくると東京の偉い先生のとこ行ったほうがいいとかね、いうふうにしてもどんどんどんどんね、この母の教育に時間もお金もいろいろかかるようになってくるんですよ。
で、それにね、うちの祖母はやはりね、ものすごく夢中になるというか、それは大変だとね、いうことで、まあ母のこの教育にものすごくね、もう熱心になっていくんですよね。
で、これは当時のね、この我が家の様子をね、あの見てた親戚の人とかとしゃべるとね、いまだにその語り継がれるぐらいね、すごかったらしいんですよ。
もううちの祖母の、あのこの土豪というかね、この罵声というか、もうどなり散らす声が、近所その数ブロック先からも聞こえるっていうぐらいの、えっとどなり声をね、あのまあうちの母にね、あの言ってるっていうようなね、そういうあのなんか感じだったらしいですね。
つまり、あのうぇーっていうね、もうあんたこんなこと何回言ってるのわかんないみたいな、もう何回サボってるんじゃありませんとかね、もう何百回でも何千回でも練習して、ここ直さないとダメでしょみたいなことをやられて、もうすっごい厳しく育てられてるんですよね。
だから母は才能あったんで、どんどんまあそのそういう意味ではその楽器は伸びていったんですけれども、一方でものすごく実はね、内向していってたんだと思うんですね。
だから母は、あのだからね話がちょっと長引いててあれなんですけれど、このように非常に厳しい英才教育で、家でも外でもものすごく期待されて厳しく育てられて、で音楽はもちろんやってたんですけれども、すごく辛かったらしいです。
でもうあの音楽器をやってるんで手を痛めてはダメだっていうことで、学校の友達とあの家外活動をやったりとか、あとその何だろうあのスポーツとかもやっちゃダメだとかね、あとあの修学旅行とかいう林間学校とか学校でこの泊り込みで行くあの家外活動がありますよね、こういったものもレッスンがあるんで行っちゃダメだったんですよ。
だからちょっとね特殊な育ち方してるんですよね。よくね私があの子供の時母がね言ってました、あのあんたに才能があったらどうしようと思ったって、で才能なくて本当良かったわって言われてたんですよね。
芸術分野の厳しさ
っていうのがだからもうね、あの誰だろう今だったら誰だろう、バイオリニストでハットリモネちゃんとかね、あとあのこないだのショパンコンクールでね、あの2位かなに入賞したソリタさんっていうねピアニストとかね、ああいうまあ本当にすごいね世界に通用するぐらいの才能でもない限りね、中途半端にちょっと才能あるぐらいじゃもう絶対にあのもうダメなんだって言ってましたね。
ダメっていうのはもうだから潰しが効かないと。でそのちょっとした才能であってもね相当にあの幼少期にその異常な訓練を受けるんですよ。だからもうお金も時間も労力ももう桁違いにかけてそこにね自分の才能を伸ばすために注力する割にね見返りがあまりにも少なすぎるわけですよ。
今ってだってそうやってもう音楽だけで食える人ってどれぐらいいます?で世界的にコンサートやってそのコンサートの収益で食べていけてる人ってもうほんの一握りなんですよね。もうたくさん音楽を学んでる人ね、ある程度才能があって有名な人っていうのはいても、その中で本当に音楽だけで食えてる人っていうのはもう本当に本当に一握りなんですよね。
だからこういうねやっぱり芸術だけでね飯が食えるようになるっていうふうにやっぱりなっていくのがね次のステージだなってよく思いますね。
日本っていうのは特にそういう文化レベルが欧米に比べて少ないっていうかね低いのはやはりねこういう芸術、音楽とかね美術とか何でもいいんですけれど、こういうクリエイティブなことをやってる人たちがあまりにもねこの経済的に自立できない社会だなっていうところがあるんですよね。
だからもっともっとこういう人たちを支援していけるっていうかねちゃんとマネタイズできるようなね社会でないといけないなと思ったりします。話戻すととにかく中途半端ではねもうあのせいぜいね町のピアノの先生とかね誰かだからお医者さんの奥さんになって、町の子供たちにピアノを教えるぐらいがちょうどいいんだって言ってました。
それぐらいの才能だったらいいけれども中途半端にどこかの国内でやっているなんとかコンクールとかで入賞するレベルだったらそこからねやっぱりやっていくには相当ハードなんでやはり大学で教授職に就くとかねそういったことがセットにならないとやはりね社会的に自立していくには非常に厳しいんですよね。
とにかく母は私が凡人だったことを大変喜んでいたっていうね。そんなことがあったりね。とにかく変な家なんですよね。
母はこのように非常に厳しい育ち方をしながら子供にはね同じ人生は絶対送らせたくなかったっていうのはね強烈にあったそうなんですよね。
なのでねあえてもう私にはそういうねあの自分がやらされたような厳しい教育とか一切やらせなかったって言うんですけれど私はねこれかなり長い間適当な言い訳だろうとずっと思ってたんですよね。
だから自分が結局若くして母になりねそれも計画的な計画的に私を産んだわけじゃなくてもううっかりうちの父親に払わされてできただけの子供ですしね。
本当に未熟な親で結局父親に逃げられてねえらい目にあったけれどもその後すごく自分のキャリアを追い求めて大変な思いして
月に半分も会えない親子関係でだからまあ割と放置というかねネグレクト気味で育ててしまったことへの言い訳で言ってるのかと思ったんですけれどこれは本当にそうだったみたいですね。
これは母はもうえっと何ていうかな主義主張を持ってあえて自分の道は自分で切り開けるような子供になってほしいっていうのはあったみたいです。
だから何でもかんでもその親が先にレールを引いたりとかねえっとあのお膳立てしてやるっていうことでえっと自分は幸い才能があったから何とかなったと
あのうちのおばあちゃんがあれほど厳しく自分を育ててくれて時間もお金もかけて自分が猫の今の自分があるのだからそういう自分の両親があって厳しく
監視管理してくれたおかげだってことを感謝しつつもね一方で何かねやっぱり人間性みたいなものがねあの
欠落しているというか傷ついているということもねあのやっぱり一方であるらしいんですね私にはそういうエリートとか
あのそういうすごい秀才の人の気持ちがまるきりわからないんであのちょっとねそこは想像するしかないんですけれど
それぐらいえぐい育ち方をやはりしてるんだと思うんですよでもそれは例えば
この音楽の世界に限らずスポーツ選手とかあのなんだろうこういう
芸能人とかねそういう人たちが子供のねなんか3歳とか5歳ぐらいから
英才教育を受けてずっともその世界でもがあってやってる人たちがどれほど厳しい人生を送ってるかということは何となく想像できるじゃないですかでそれを思えば
まあ母の言ってることはねあの間違ってはないんだろうなってことは思うわけですよああいうふうにしてしまうと確実に何かねその子供らしさとか
人間らしさみたいなことがあのまあなくなってしまうんだっていうのがあるそうですよ
やはり子供らしい子供時代を送ってほしいその中でね自分で自分の何だろうできること才能というのかなっていうものを自分で見つけていくっていうね
あのそういうしなやかな自立した人間になってほしいというのはあったらしいんですよ
まあでもねもうちょっとなんかねやり終わったんじゃないかとまたもういつもそれはねもういつもいつも思うんですよねあのそうは言ってもさあっていう
音楽の才能はなかったのはもうわかったからまあでもなんかもうちょっとね私はとにかくだから英語しかしゃべれないで日本に戻ってきたわけなんで
じゃあせめて何度も言うにアメリカンスクールかなんか入れてほしかったなとかってアメリカンスクールがどれぐらい学費が高いのかとかっていうことは子供時代は知らないんでね
だけどなんか父とか思うことはあるんですけれどまあでも母には母の言い分があってそれはね今となればねその通りだったんだろうなと思ったりします
はいというわけでねこの話ちょっといっとこまで続くのがわからないんですけれども 続きはまた次回といたしますごきげんよう
19:18

コメント

スクロール