1. 現役リフォームプランナーの業界裏話
  2. ダメな親の子供ほど逞しく育つ..
2025-09-23 20:17

ダメな親の子供ほど逞しく育つ① #446

わたしのファミリーヒストリーです。
※パーソナルな内容なので、有料に移行する予定です。

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#リノベーション
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#ファミリーヒストリー
#世代地続きシリーズ

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サマリー

このエピソードでは、リフォームプランナーの寸尺かんなが自身の育ちについて話し、彼女の両親の恋愛関係やその背景を詳しく描写しています。特に、父親が日本に残してきた彼女との浮気や、母親が子供を育てるための奮闘が強調されています。また、子供時代の経験を通じて、母親がどのようにキャリアを築いていくのかについても語られています。アメリカでの生活と日本に帰国した後の家庭環境の変化が、母と子供の関係にどのような影響を与えたのかに焦点が当てられています。

寸尺かんなの育ち
お聞きの皆様、おはこんばんちは、現役リフォームプランナーの寸尺かんなです。
家事という切り口で、女性のいろんな今までの流れを話をしてきたんですけれども、まとめとして、私がどうやって育ったのかといろんな話をしていますが、
私はどう育ったのかという話をしようと思います。
これはかなりパーソナルな自分のヒストリーになりますので、ちょっと話すのに結構勇気が、思いのほかあるなと思って、急に緊張してきましたけれども、
私はアメリカで出会ったうちの母と父が恋愛関係になり、あの当時としては珍しかったのかちょっとどうかわからないですが、授かりというか先に子供ができたんですよね。
妊娠初期は座りですごく体調不良になるんですよね。その大変だった時期に、父は何ヶ月も行方がわからなくなるんですよね。
後からわかるんですが、実は父にはもう日本に残してきた彼女がいたんですよね。この彼女を残してニューヨークに、父は留学じゃなくて、留学をしていたんですよね。
うちの父はもう筋金入りのお坊ちゃんで、とにかくあの当時はまだ日本も貧しかったのに、本当に普通にお金出してもらって、留学をしてたんですね。ニューヨークにね。
そこに母の方は本当に優秀で、アメリカのとある名門の音楽学校、ここまで話してたらもう言ってもいいのかなと思いますが、ジュリアード音楽院に留学してたんですよね。だからもう日本で大変期待されて、送り出されたある種の才能のある子だったんですよね。
ところがですね、運悪くというか、うちの父に引っかかってですね、当時ね、日本人というかいろんな留学生たちがみんな住んでいるインターナショナルハウスっていうね、アパートメントがあったらしいんですね。だから賃貸住宅ですよ。
ここに母はいたら、そこにちょうど同じく住んでいたうちの父とうっかり出会ってしまって、恋愛関係になるんですよね。
当時母はまだいくつだったんだろう、19とか20歳ぐらいで、私の父親はもうちょっと年齢が言ってて25、6だったというふうに聞いています。
2人は恋愛関係になって先に私ができたんですけれども、父は実は留学前から付き合っていた彼女がいてですね、たまにこの彼女と会うために蒸発しちゃうんですよ。
だからこの若い母親はですね、すごい不安な気持ちでいつもいたと思うんですけれども、本当にね、1、2ヶ月とか長い時には2、3ヶ月とか父親と連絡がつかないような状態で付き合っていたらぽっこり妊娠して、その事実を父に伝えられないまま不安な日々を過ごしているうちに、
忠実するタイミングとかも逃してですね、悩みに悩んでいたんですけれど、やっぱりこれはもう産もうと決意するんですよね。私を産む決意をしたらひょっこり父親がまた戻ってきてですね、母が妊娠して子供を産むつもりだっていうことを聞いたら、そこはね父親も腹をくくってよしじゃあそうしなさいということでね。
結婚することになったらしいですね。私を産んだということでね。この話はまたお祝いになるんですけれども、父は実はこんな調子で行き当たりばったりで、元々の日本に残している彼女とも多分別れないまま、
でも母がね、妊娠して子供産むんだって言われたら、それはそれでね、別れるとは言えなくなって、一応責任を取る形にして結婚したんだと思うんですけれども、多分ね、日本の彼女とは別れてなかったんだと思うんですね。この話はちょっと後にします。
それで私を産んで、結局母はですね、これ以上子供を産んだままね、せっかくジュリアード音楽院にいたんですけれども、とても子供を産んで続けられないということで、私を連れてですね、やはり日本に一旦帰ろうということになるんですよね。
で、3人で一応日本に帰ってきました。ところがですね、この私を赤ちゃんができて、勝手に知らない男と結婚したという事実を双方の親は知らないわけですね。うちの父親の方も知らないし、母親の方も知らないし、うちの父親の方の両親がどういう反応したのかは、ちょっと私も詳しく聞いてないんですけれど、
母の方はですね、もう非常に期待されて、あの当時ね、ジュリアード音楽院に留学させたうちのおじいちゃんとおばあちゃんのね、そりゃね、腰が抜けるほどショックだったと思うんですよね。
家庭の背景
とは言ってもね、やはりあの孫を連れて帰ってきて、それをね、無限に言うことはできなくてね。で、まあ、あのいろいろあったらしいんですけどね、うちの父親を、あの、もう、あの、バリ雑言でね、あの、罵りまくって、うちのおばあちゃんがね。で、まあ、ボロクソを言ったりしたんだけれども、まあ、なんとかね、そこは孫もいるからということで、まあ、この2人の結婚を認めたんですよね。
で、えっと、まあ、あの、実はこの2人はニューヨークで知り合ったんですが、偶然にも母は大阪人で、父親は神戸人ということでね、同じ関西圏なんで、まあ、非常に近いエリアでね、これも運命的ですよね。で、まあ、とにかくまずいったんね、神戸に住むんですよね。
でも、もうあっという間に夫婦関係うまくいかなくなって、で、まあ、だから何のことはない。結局父はですね、この日本に残してきた彼女と別れてなかったんですよ。で、別れてないのに、結局ニューヨークでどこの馬の骨ともわからないうちの母親に、まあ、だから相手の女性から見ればですよ、自分の彼氏がねどられたわけですよ。で、ねどられた上に子供までできて、結婚までされたんですよね。
で、まあ、これはね、もうめちゃくちゃ多分ね、あの辛い思いをされてると思います。うん、なんですが、ここでね、この女性は多分リベンジしたんだと思うんですよね。で、今度は、えーと、だから母はこの父親と非常に不安定な結婚生活を約、えーと、2、3年している間にですね、今度はこっちのだから元カノの方ですね、だから父にとっては元カノっていうのが、まあ、同時申告で、あの元々付き合ってた彼女、うん、この彼女の方も妊娠させるんですよ。
で、この彼女が妊娠したので、もう父親は逃れられなくなって、結局この元カノと、えーと、結婚することを選ぶわけですけれども、その事実を母に伝えず、えーとね、あの、まだ母はその当時、二十歳のね、若い娘で、何にも、しかも音楽でね、英才教育を受けて、もう子供の頃からずっと音楽しかわからないような、まあ、うちの母は母で、世間知らずなお嬢さんだったんですよね。
で、そんな女の子がですよ、ニューヨークでうっかり引っかかった、私の父親のような、あの、いい加減な男の人に、まあ、はらまされてね、子供まで作って、で、まあ、なんとか、まあ、そこは子供ができたんで、結婚までさせるとこまで行ったんですけれども、またさらにですね、あの、他の女性をはらまして、で、そっちに父親が、あの、行こうとしているという事実を母は全く分かってなくてですね。
で、父親は嘘をついて、えっと、いろいろね、家の事情で、まあ、いったんちょっと、あの、形ばかりの、えっと、ちょっと書類を書いて欲しいみたいなね、ことを嘘つかれて、で、まあ、結局ね、離婚届にサインをさせられてるんですね。
で、それで、あの、騙されて、まあ、離婚の書類にサインをしてしまって、で、もう、あの、私と、あの、まだね、あの、赤ちゃんで、えっと、まだ血飲み子だった私と母親は、えっと、完全にね、あの、露頭に掘り出されるっていうことになったんですよね。
さすがにこれはかわいそうだということで、えっと、父の、えっと、だから母親、私にとっては父方のおばあちゃんは、私は全く記憶にないおばあちゃんなんですけれども、あの、母曰くね、えっと、このおばあちゃんに私はとても似てると言われています。
あの、私は本当に会ったことがなくて、あの、とても残念だったなと思うんですけれど、すごくね、いいお母さんで、えっと、父親とね、別れた後も、このお母さんとはね、あの、会いたいなといつも思ってたって、うちの母が言ってましたね。
それぐらい、なんか、あの、素晴らしいね、女性だったそうなんですが、うん、ただね、この母親はやっぱり弱点があってですね、このうちの、だから父親であるね、ちょっとこの自分の息子が可愛くて可愛くてしょうがなくて、で、こういうふうにダメな息子なんですよ。
で、あの時代に、今そうやって女の人そこら中で払わしたり、あとはね、あの時代に、あのマヤジャンでね、あの、借金作ってね、あの時代にですよ、えっと、いくらって言ってたかな、なんか2000万ぐらいの借金を作って、それもあって、えっと、家にね、もう帰ってこないようなこともあったそうです。
もう、あの、ヤクザがね、借金取り立てに、あの、その当時住んでいたね、神戸のあの、あの、賃貸住宅の方にね、あの、押しかけてきたりとかっていう怖い目にもあったりしてるそうなんですよね。だからもう、うちの父は本当に、本当にろくでもない息子なんですけれど、そんな息子ですけれど、ね、おばあちゃんにとっては可愛い息子だっていうことでね、結局、この息子の決断を後押しせざるを得なくなったんですよね。
ですけれども、非常にね、私の母のことを可愛がってたみたいなんですね。なので、まあ、私のお父さんのね、新しい女性、だから、まあ、この女性から見たら自分の方が長く私の父親と付き合ってる、ね、も、もともとからいる彼女なわけなんですけど、この女性のことがね、あの、全然気に入ってなかったみたいなんですよね、おばあちゃんはね。
で、私の母の方が可愛いと思っていて、で、私の母の才能とかをね、とても高く買ってたみたいで、あなたはね、私の息子が本当にひどい目に合わせて、本当に申し訳なかったと思うけれども、あなたには才能があるから、あなたはね、必ず、いずれ成功するから、応援してるからっていうことでね、で、可愛い孫と、ね、その息子の元奥さんとね、泣く泣く別れたらしいんですけれど、その医者料代わりに、えっと、とある大学のポストを母に、
えっと、紹介してくれたって言うんですよね。父方のね、あの家は本当にすごい名士だったんでね、こういったコネクションもあって、そういったことをしてくれて、まあ、でも涙の別れがあったというね、いう、まあ、母には辛い経験があるんですよ。
母の再留学
で、そっからですね、母は、もう背に腹はかえられないっていうかね、もう頑張るしかないっていうことで、え、そのジュリアド音楽院をね、まあ、中退している自分が、え、学歴重視の日本で、たとえどんだけね、あの、その音楽の才能があったとしてもね、やはりね、あの、定職に就いたりとかするのは非常に厳しいんじゃないかっていうことで、1年発起してですね、もう一度再び留学することを決意するんですよね。
で、その時にですね、あの、うちのおじいちゃんとおばあちゃんはもう反対して、えっと、留学するなら孫は残していけっていうね、うん、あの、カンナは家に、俺たちが面倒見るから、あの、お前が一人で行ってこいって言うんですけれども、母は絶対嫌だと、もう何が何でも私を連れて行くって言って、まあ、またまだ小さいね、幼い私を連れてですね、再びアメリカに留学するんですよね。
で、これはですね、あの、アメリカはね、もう、あの、ニューヨークはね、都会すぎて、やはりつらかったらしいんですね。もう、あの、孤独だし、治安も悪いしね、当時のニューヨークは。で、まあ、もうとてもやっていけないっていうことで、えっとね、あの田舎のね、インディアナ州っていうところの、インディアナ、インディアナ州立大学っていうところも非常に音楽が、あの、有名な大学なんですよね。
で、まあ、ここに、まあ、どいなかなんですけれども、まあ、こちらの方がね、あの、で、自分が習いたいと思っているユダヤ人の有名な、あの、先生がいるっていうことでね。で、そこに私を連れて留学するんですよ。うーん、だから、すごい母親なんですよね。で、当時まだ、母はだから、20、えー、だから、えっと、5歳ぐらいになってたのかな、この時には。
で、ここで、まあ、私を、まあ、あの、アメリカのね、幼稚園に放り込んでですね。で、その当時、ね、日本人も全然いなくて、で、もう私はだから、ここですっかりアメリカに馴染んでね、日本語が全く喋れない、まあ、子供として、まあ、ある時期まで成長するっていう、まあ、ルーツがあるんですけれども。
まあ、こんな感じでですね、母は、えー、私をね、だから、えーと、5歳かな、6歳ぐらいまでは、もう、自分のそばをね、片時も離さないようにして、えーと、私を育てたんですが、まあ、いよいよですね、あの、アメリカの大学を無事に、あの、修士号を取ってですね。で、本来なら、ここのね、その大学の先生たちからもすごく可愛がられて、で、まあ、向こうの、あの、オーケストラとかにね、ポストあるよとかね、言われてたらしいんですけれども。
ちょっとね、やはり子供と2人でね、アメリカでこのまま暮らし続けて、で、オーケストラとかに入ってしまうとですね、もう、あの、ずーっとね、巡業の日々なんですよね。もう、あっちで、あの、コンサートだとかね、あっち行ってる、こっち行ったりとかって言って、あの、飛び回るような生活で、で、しかも子供をね、抱えてっていうのはね、やはりね、自信がなかったそうなんですよね。
で、この点に関して私はね、あの、まあ、冗談ですけれども、あのままね、アメリカにいてくれたら、私の人生はもうちょっとマシになってたんじゃないかとかっていう、あの、たらればのね、あの、アナザーストーリーが、まあ、私の中にあるんですけれども、まあ、でも、それはね、無理もないと思いますよ。
やはりね、あの、女一人でね、あの、子供を抱えて、あの、アメリカでね、ずっと暮らすっていうのは、それは相当に大変なことなので、まあ、母がここで帰国することを決断したのはね、やむないことだと、今の私ならもちろん思ってます。
で、まあ、とにかく帰ってきてですね、で、まあ、帰ってきたら、まあ、そっから母のもうがむしゃらな、あの、キャリア爆走人生が始まるわけですよね。で、まあ、もう帰ってきたらですね、おじいちゃんとおばあちゃんがもう、えーと、もう、おじいちゃんとおばあちゃんも大学の先生たちだったんですね、我が家はね。
で、もうちょうど、この時にはまるで母が離婚してね、で、子供を連れて帰ってくるのを待ってたかのように、えーと、まあ、二人とも定年してですね、あの、のんびりしているという時期だったんですよね。で、定年した後も、あの、非常勤とかでね、あっちこっちの大学に二人とも行ってましたけれども、まあ、フルタイムで働いてないんでね、まあ、喜んで孫の面倒を見るよっていうことで、まあ、じじばばに娘を託して、もうその後はね、まあ、ほったらかしっていうよりはもう駆けずり回ってました。
で、まあ、とにかく、まあ、でも、母はね、その甲斐あってね、非常に社会的には成功した人です。あの、この時代の段階、ジュニア世代、今の75歳から78歳世代のど真ん中の母ですけれども、この当時ね、まあ、2割か3割もいたのかなっていうぐらいのキャリア女性でね、社会的にある程度成功を収めることができた、あの、ごく一部の女性の一人だったんですよね。
で、もちろんそれを支えたのは、あの、協力的な母の両親、ね、私にとっての祖父母のサポートがあったからこそ、もちろんできたこととはいえね、まあ、あの、すごい、あの、すごかったなと思うんですよね。
そんな並大抵のことではなかった、あの、まあ、また特殊な母の場合はね、その特殊な会社員とか、そういうのじゃなくて、あの、誰にでもできない、あの、特殊な才能を、まあ、持っていたおかげでね、あの、それをうまく、あの、引き伸ばすことができたっていう、まあ、幸運にも恵まれていたし、本人の努力もあったし、周りのサポートもあったからこそ、もちろんできたことなんですけれども、まあ、一方でですね、あの、娘の私にはすごいしわ寄せが、
日本での生活と家族の支え
しわ寄せが来たこともまた事実なんですよね。私は、だからもう小学校の頃にね、だから日本にも帰ってきたんですけれども、えー、まあ、ほとんど母と会うことはなかったです。もう、あの、月にね、母はね、結局、えーと、東京でも仕事しながら、大阪でも仕事しながら、あと、その、もう、全国をね、あの、まあ、その頃はね、もう、それこそ、だからもう、演歌歌手のようにね、そこら中を巡業してるんでね、もう本当に忙しかったんですよね。
でも、大阪にも仕事があるんで、まあ、月の半分は、えーと、大阪に帰ってきたら会えるっていうね、だから毎日、毎週ね、母が、えーと、帰ってくるのをすごく楽しみにしてましたね。月に、あの、だから半分弱ぐらいは母に会えるんですよ。
で、それ以外は、じいちゃんとばあちゃんとね、一緒にずっと、あの、じじばばと孫でね、3人で、まあ、一応仲良く暮らしているっていう日々だったんですよね。で、母はですね、まあ、滅多には帰ってこないんですけれども、一生懸命稼いでね、大変だったと思うんですよね。
あの、クラシックの音楽家なんですよね。クラシックっていうのはね、そんなに食べれるもんじゃないんですよ。本当にね、出るお金が多くて、で、まあ、楽器もお金がかかるし、で、自分たちのね、演奏会っていうのをしょっちゅうやるんですよね。
でも、この演奏会ってね、ほとんどね、あの、慈悲演奏会みたいなもんでね、あの、要するに、あの、持ち出しがすごく多いんですよ。自分でチケット代を1回も全部自分が持って、そっからね、あの、知人とかね、身内に売りさばいていくっていうことでね、とても大変なんですね。
さらに衣装代とかね、あとステージとか、あと、あの、演奏の、あの、練習したりするのにスタジオ借りたりとかね、あの、もう、とにかく大変なんですよね。お金がとてもかかる。で、いろいろ苦労した、したんですけれども、うちの母はね、まあ、あの、幸いですね、あの、大学に、あの、ポストを得ることができたんですよね。
なのでね、あの、二足のわらじっていうのか、まあ、だから自分の演奏活動プラス大学での、えっと、ポストがあるっていうことでね、まあ、非常に、あの、経済的にも安定しながら、あの、キャリアをね、積むことができた、まあ、運のいい、あの、人ではあると思うんですけれどもね、まあ、そのおかげで、まあ、私は、だから、そういう意味では何不自由なく育ててもらった上に、まあ、自分のいろんなその、なんて言うんでしょうね、教育、その日常的な、えっと、教育、
みたいなものは、めちゃめちゃ厳しい、あの、おばあちゃんがね、主に、私をね、世話してくれて、もちろんおじいちゃんもなんですけれどね、今思うとね、えっと、この二人は私にとっておじいちゃんとおばあちゃんですが、今思うとまだ、当時だから、二人とも60代後半なんで、元気だったんですよね、今思うとね、うん、だからめちゃめちゃ元気でエネルギーも有り余ってるんで、
あの、おじいちゃんとおばあちゃんと孫というよりはね、もう自分たちにとってはね、三人目の娘、うちの母は、あの、もう一人、あの、私におばがいてね、母と、えっと、その母の妹と、まあ、二人姉妹だったんですが、もう私のことはね、たぶんね、三女ぐらいのつもりでね、もう、もうフルパワーでね、フルスロットルで育ててくれたと思うんですよね、だからそれはね、あの、めちゃめちゃ厳しくて、孫に甘いね、あの、おじいちゃんとおばあちゃんっていう感じでは、
全くなかったですね。はい、というわけでね、ちょっとこの話、ちょっと長引いてしまって、あの、続きは次回とさせていただきます。ごきげんよう。
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