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こんにちは、すけです。今日はですね、日曜日なのでゆるーく雑談なんですが、タイトルにある通り、なぜ琉球王国の歴史は語られないのかというテーマでお話をしたいと思います。
いつもと全く経路が違うテーマなんですが、お話ができればなと思っています。
なんでこんな話をするかというとですね、この前、1,2週間前ですね、沖縄に行っておりまして、
たまたま現地のおばあちゃん、沖縄そば屋さんのおばあちゃんとお話をする機会があったんですね。
話が盛り上がって、自分はあまり人見知りなんで、あまり他人の方、初めてお会いする方とお話することってないんですけど、
気づいたら2時間くらいですね、そのおばあちゃんとお話をしておりまして、たまたま僕が散歩していた時だったんで、
その時にですね、沖縄の歴史の話になったんですよね。
その時にポロッとそのおばあちゃんが正直ですね、鹿児島の人が憎いだとか、
あとは内地って言われている本州、僕らを含めた本州の人たちが正直好きになれないっていう話をされてたんですね。
そこは軽くお話は聞いたんですけども、そこまで深いところまでお話する時間がなかったので、
東京に帰ってきてですね、琉球王国の歴史、沖縄ってどういう風になり立ったんだっけってところを調べてみたら、
結構これって憎いことを沖縄に住まれている方、琉球王国はされていたんだなってことがわかったので、
今日誰も聞いてないと思いますが、ちょっと自分の生理のがてらお話をしております。
なのでもしこれを聞いている方の中で沖縄に行かれる方がいらっしゃればですね、
琉球王国ってもともとこういった成り立ちだったんだってことを知っていくだけでもだいぶ違うかなと思ったので、そんなお話です。
全部この琉球王国のお話をすると時間が足りなくなってしまうので、
参考のYouTubeですね、大人の教養TVで僕がよく見ているYouTubeがあるんですけども、
そこの琉球王国の歴史というもので1時間くらいの動画でまとまっているのでそちらを載せておきます。
ざっくり言うとですね、これを聞いてみなさんでまず沖縄って聞くと何を思い浮かべますか?
自分であれば沖縄蕎麦とか、あとは朱梨城の豪華なものとか、あと三振、チャンチャチャンチャチャンみたいなそういう楽器ですよね。
あれってもともとどういった成り立ちだったかというと、
あれってもともと琉球王国って朝攻貿易って言って、
中国との貿易で、昔で言うと蘇ですね、
琉球王国と蘇の貿易によってすごく栄えた国だったらしいんですね。
これは中学の歴史とかでも学んだかなと思ったんですけども、そこからが僕初めて知ったんですけども、
今で言う江戸時代、日本で言う江戸時代1500年くらい、徳川家康が関ヶ原の戦いを終えて勝ち抜いて、
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統一をした、全国を統一したのが関ヶ原の後ですね。
江戸時代が始まる1500年くらいの時にですね、
琉球王国に薩摩藩、今で言う鹿児島県が攻めてきた、突然攻めてきたんですね。
1500年までは結構安定的に琉球王国は栄えていたんですが、
急に薩摩藩が攻めてきたと。
何かというと、薩摩藩って歴史詳しい方であればご存知かもしれませんが、
関ヶ原に負けてるじゃないですか、東西の戦いで、
西側についたので薩摩ってのはだいぶ領土減らされて、
薩摩っていう領土は残ったんですけども、
税収の確保が難しくなった、藩の財政が非常に厳しい時期だったので、
新しい領土を獲得したいということで、
琉球王国に目をつけて、薩摩、鹿児島から琉球に上陸をしてきたんですね。
当時徳川家康が天下を取っていましたが、徳川家康としても、
この薩摩の動きを許したのかって話なんですが、
これはもう言っていいよって話だったらしいんですね。
なんで言っていいよって話だったかというと、
日本としてはですね、徳川幕府としては、
中国との貿易をすごいしたかったらしいんですね。
さっき言った、琉球王国って朝攻貿易って言って、
中国との貿易が盛んだったので、友好関係にあったので、
琉球王国を利用することによって、
日本と中国の貿易を活性化させようっていう狙いが徳川家康にあったので、
徳川側と薩摩藩の思惑が一致して、薩摩藩が琉球王国に攻め入ってですね、
それでほぼ壊滅状態というか、1500年平和だったの琉球王国って、
兵士はもう弱小兵士なんですね。
なので、約上陸をして10日から15日ぐらいで、
首都の手裏城を陥落させてるらしいんですね。
こういった流れがあるんですけども、
自分はそこを初めて、そこで、
あ、鹿児島の首都が憎いってそういったことだったんだって、
おばあちゃんの話からここで繋がったんですね。
ちょっとこれ話し始めるとバーって話をしてしまうんですけども、
これ、流れは一応概要欄に貼っておきますね、今話す流れは。
で、ちょっとだいぶ端折るんですけども、
で、薩摩藩が攻めてきましたと。
で、しばらく琉球王国は日本の族国にありながらも、
超高貿易をしながらですね、
存続を続けたわけなんですが、
その後、皆さんご存じの明治維新が来ますよね。
明治維新になると、
琉球王国をですね、
新政府側が琉球王国を強制的に併合する動きを取るんですね。
で、当時の沖縄の、
その時は沖縄で、
琉球王国の一番偉い王様をですね、
無理やり拉致をして、
拉致をして新政府、東京に連れてきて、
強引に琉球王国は新政府の族国に入りますっていうことを調印させて、
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沖縄県っていうふうに無理やり解明をさせて、
もうその時点でですね、
琉球王国は沖縄県ってなったらしいんですね。
当然それで起こるのは中国なんですけども、
中国は起こるんですが、
その後何が起きたかというと日清戦争が起きたので、
日清戦争が起きて、
中国はもう何も言えない状況になってしまって、
本来であれば、
中国からしたら沖縄って、
弟分みたいな国だったんですが、
それを日本に強引に取られてしまって、
今の沖縄県ってものがあると。
そこからすごい悲惨だ、
こんなことあったんだと思ったんですけども、
明治政府、新政府になって、
税の徴収とかが、
各都道府県に対して強く出るようになってしまって、
沖縄県としても税収の確保がすごい厳しくなったらしいんですね。
沖縄県が何をしたかというと、
人頭税というもので、
今であれば所得税って、
年収とか収入に応じて、
自分の税額が決まるという仕組みがあると思うんですけども、
人頭税、人の頭の税と書くので、
人数に応じてですね、
人数が家族、5人家族であれば、
5人分の年収とか収入問わず、
1人いくらです、
30代はいくらです、40代いくらですという形で、
そういう形で人頭税を取り立てるらしいんですね。
そういう形だと、
家族に病人とか妊婦さんとかいる場合は、
自分で働くことが難しいので、
税金を納めることがすごい厳しかったらしいんですね。
そこで何をやったかというと、
こんなことあるのかと思ったんですけども、
いわゆる人べらしというものが、
各基地で横行したらしいんですね。
要は家族の人頭税、
頭数を減らすですね。
なので、例えば妊婦さんって、
3メートル間隔の岩から、
ジャンプさせるらしいんですね。
3メートルの幅を飛べない奴は、
飛べなかったとしても、
自分で畑とかを多く耕して、
税金を納めることができないから、
死んでもいいという判断を家族内でして、
殺すようなことが起きてたらしいんですね。
あとはマラソン大会みたいなのさせて、
集落でマラソン大会みたいなのさせて、
時間内にゴールができなかった人は体力がないから、
こいつは税金を納める能力がないってことは
判断されて殺されるとか、
そういったことがあったらしいですね。
そんなことがあったのかっていうことで、
自分はすごくびっくりしたんですけども、
このYouTubeを見ただけなので、
他にもいろんな解釈があるかと思いますが、
自分、琉球王国の歴史って、
今まで触れてこなかったなと思ったんですよ。
っていうのは中学校、
さっきちらっと言いましたけど、
中学校の時に、
琉球王国が超高貿易って形で、
相当の貿易で非常に栄えたっていうところまでは、
なんとなく記憶があるんですけども、
薩摩藩が攻めてきて、
その後明治政府が強引に琉球王国を併合して、
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沖縄県に改名をして、
強制的に文化をですね、
沖縄、琉球王国の言語をですね、
強制的に日本史上に変えていく、
併合政策みたいなことをしていって、
っていったことが、
僕は初めて知ったので、
その結果、
僕がおばあちゃんと話した時に、
琉球王国を攻めてきた薩摩藩が憎いって話をされてましたし、
後に太平洋戦争になって、
私たちを利用して、
その本土決戦の時間稼ぎをしたのが事実だから、
私は許せないっていうことをおっしゃってて、
そのおばあちゃんの旦那さんが、
もともと朱利に住んでいる方で、
琉球王国の子孫の方らしくて、
そういったお話をされてるって話を聞いて、
沖縄にはそんな歴史があったのかっていうことを、
改めて思い知らされたので、
これはあくまでも、
琉球王国の歴史を知るきっかけだったので、
皆さんも興味がある方は、
概要欄にYouTubeの動画を載せておきますし、
今日の流れを、
薩摩藩が1500年まで平穏に暮らして、
薩摩藩が攻めてきて明治維新が動向って流れを書いておくので、
興味がある方は調べてみればいいかなと思います。
僕も、
沖縄、
実はですね、
行く急が来年の2月までなので、
もう一回、
沖縄よかったねってことで家族で行くことになったんですよ。
次回は、
3週間くらいですね、沖縄にまた行こうかなと思ってるんですけども、
その時にまた沖縄に行くときは、
また違う視点で見られるし、
沖縄に住まれている方に対しても、
僕としても見る目が変わるかなと思ったので、
やっぱりね、歴史を知ることはすごく大事かなと思っていますし、
僕も歴史が、
個人的に柴梁太郎大好きで、
歴史小説ばっか読んでるので、
こういった放送もたまにはできればなと思ってますので、
そんな話をさせていただきました。
ということで今日は、
なぜ流域予告の歴史は語られないのかというテーマでお話をしました。
今日も素敵な週末をお過ごしください。
分かりづらいところがあれば申し訳ありませんでした。
ぜひ皆さんでも動画見てみてください。
スケでした。