00:08
ストーリーとしての思想哲学
【思想染色】がお送りします。
今回の話もですね、前回前々回と緩く繋がっている話なんですけど
詩の話、呪文の話っていうのをしていて、思い出したことがあります。
キリスト教には否定神学っていう学問があって、これに似てるなという否定神学というものについて喋ってみます。
まずキリスト教には神学、神の学問って書いて神学と読みますけど、神学というものがあります。
神学には色々なカテゴリーやバラエティがあって、その中で否定神学っていう有名なやつがあります。
この否定神学という眼鏡を通して、詩とか呪文とかの概念を見てみると
また別の角度から概念の理解が深まりそうだという、そういう観点から喋りますね。
否定神学の説明をするには、まず肯定神学っていうのの説明からしないといけません。
肯定神学っていうのは、神を肯定する言葉を用いて、神を何とかして定義しようとする神へのアプローチ方法です。
例えば、神は慈悲深いとか、神は正しい、神は我らの父であるとかの言葉を並べ立てていくと、
いずれは神の本質に迫られるのではないかっていうアプローチ方法であるということですね。
一方で、否定神学は肯定神学を発展させたものです。
肯定神学には問題点があって、そもそもの話だけど、
キリスト教においては前提として、神っていうのは全知全能なんです。
この全知全能の神っていうフレーズは聞いたことがありますよね。
で、全知全能ということは、神とは無限であるという意味になります。
神は無限であるということは、人間が用いる言葉や概念では、神の真実の姿を完全に捉えることができないというふうにされています。
だって、人間が用いる言葉や概念って、あくまでも人間が理解可能な範囲内のものでしかありませんから。
人間が理解可能な範疇を超えた超越的な存在が神なわけだから、肯定神学では神の姿は捉えられないということになります。
そこで、真逆のアプローチとして、神の本質は人間がしゆいしゆるいかなる概念にも当てはまらないとして、
03:03
神は何々ではないっていう否定表現で、神を語ろうと試みる、そういう方法論が編み出されました。
考え方とすると、数学の背反とか背離法に近いかと思いますけど、
例えば、神は宇宙であるって言ったら、
それだと、宇宙という枠の中にしか神が存在していないということになってしまいますけど、
神は宇宙ではないって表現したら、宇宙の外側に広がる無限の空間にも神がいるということにできるみたいな感じです。
もうちょっと具体例を出していくと、
例えば、簡単にwikipediaを引くと、こうありました。
万物の原因であって万物を超えているものは、
光を描くこともなく、変化もなく、消滅もなく、分割もなく、欠如もなく、露天もなく、その他感覚で捉えられるどんなものでもない。
神を否定形で表そうとしているっていうのは、なんとなくわかるんだけど、ちょっとわかりづらいですね。
もっとわかりやすくて面白い例があるんで、そっちも紹介します。
えっとね、神は無限であるっていうことは、あらゆる概念を包含しているというわけだから、
矛盾する概念も合わせ持つということで完璧になるんですよ。
だから、否定心学の言葉では、二律背反する表現というのが散見されます。
例えば、輝ける闇とか、この表現は神もしくは神的なものっていうのは光が強すぎて何も認識できない。
要するに神の本性は知り得ないものであるっていうことを否定表現を用いながらレトリカルに表現したものなんですけど、
こういう表現ってかっこよくないですか?
僕はもう、もはやこれは死だなって思うんですけど、
輝ける闇とか、他にもひそやかにささやく沈黙とか、正気の明帝とかがあります。
死じゃんって感じですけど、それと同時に自問じゃんって思いました。
心学っていう宗教の世界においては、神の無限性とか神の神秘性、神の超越性を表現するために、
こういったほとんど死の形式っていうのを用いています。
これは別の言い方をすれば、芸術と同じ、アナロジーとしては同じですよね。
芸術っていうのは、世界の外側にあると思われる超越的な美に到達しようとして芸術しているわけで、
06:03
その芸術の一形式である死と同じじゃんっていう話でした。
見えない神のレトリックっていう論文に書いてあったんですが、
神とかそういう不可視の存在、見えない存在っていうのは当然ながらそこにいないわけです。
でもイメージの世界では、比喩表現の持つ接触性だとか隣接性といった効果によって、そこにないものを示唆することができます。
これも論文からの引用ですが、例えば、断魂のあるテンガロンハットは、撃たれて死んだカウボーイを想起させるし、
アスファルト道路に記されたチョークの人形は、すでに運ばれた遺体を思わせます。
それと同じように、多くの詩や歌によって、聖母マリアっていうのは、
井戸とか錆のない鏡とか、閉ざされた園といったものによって隠遊的に象徴されてきました。
そんな風に、あらゆる表現方法で、人間は何か超越的なものを表現しようとしてきたわけで、
これまでずっと死の話をしてきたわけですが、
否定心学というちょっと変わった観点から、詩について眺めてみると理解しやすくなるんじゃないかなということで紹介してみました。
というわけで、今回はここまでです。
次回もよろしくお願いします。