リベラル・コミュニタリアン論争の背景
ストーリーとしての思想哲学、思想染色がお送りします。
前回の続きで、リベラル・コミュニタリアン論争の話です。
ロールズは、あらゆる善に優越させることができる正義という概念を同質して、
その正義の原理を秩序ある社会の根拠にしよう、
そしてそのためには、あらゆるポジショントークをすべて排除した上で考えなければいけないと言いました。
で、ロールズに対して、そんなこと無理じゃねえって言ったのがサンデルです。
サンデルの著書、自由主義と正義の限界という本で反論が展開されています。
どういう反論かというと、ロールズが言うように、すべてのポジショントークを封印するということは、
歴史的な各人の属性なんかも、すべて封印されてしまうことになります。
実際のところ、人間の人格というものは、歴史的なコンテクストの中だったり、
社会的なあれこれに影響を受けながら構築されているものです。
例えば、自分はアメリカ国民であるという愛国心であったり、
自分はシカゴ生まれのシカゴ市民であるという愛狂心であったりとか、
あるいは自分はアメリカ国民であるが、中国にナショナルオリジンがある、
あとはユダヤ教に強い愛着を持っているとか、そういうのが、
人間の人格とは不可分な形で結びついています。
言い換えると、人が心の中で持つ健全な愛着というものは、
その人が持つ歴史的なコンテクストと密接不可分な形で育まれるわけですよね。
だからロールズが言うような、何のバイアスも持たない人間がもしいたとしても、
その人はきっと、何者にも愛着を持つことができないだろうという指摘なわけです。
砕けて言うと、無知のベールに包まれた何の属性も持たない人間は、心を持っているとは言えない。
何にも愛着を持てない人間がよく生きるなんてできるはずもない。
善を育むこともできない人間には、正義を共有することもできないっていう理屈です。
共同体と美徳の関係
これはどういうことかというと、つまり美徳とは、共同体なしには生まれ得ないって言ってるんです。
ぱっと思いつく美徳っていうと、
例えば電車ではお年寄りや妊婦さんには席は譲りなさいとか、
あるいは地方でよくある、いわゆる地元の名士みたいな人たちが、
無償で寄付をしたり待ち起こしをしたりとか、
もっと田舎だと隣近所に野菜とかをおすすわけするみたいな、相互に贈与、贈り物をし合うとか、
そういうのって美徳って言うと思うんだけど、いずれも共同体の存在を前提としているわけ。
共同体なしには美徳は生まれ得ない。
これは実際肌感覚とも一致するんじゃないですかね。
なんていうか、仮に東京で一人暮らししてて、隣近所に野菜をおすすわけするとか、
近所の人に贈与をしたら、なんかすごい警戒されるだろうし、変な人だと思われるはずです。
多分野菜をあげたら、受け取ってくれたとしても、その野菜はそのままゴミ箱行きだよね。
ここが共同体主義者、コミュニタリアンの思想の肝だと思います。
僕たちは良い社会、善が満ちた社会で暮らしたいとみんなが思っているはずなんだけど、
ある社会の中で善が生まれるとすれば、共同体の意識、共同体の心構えが本来不可欠なんです。
でも自由主義は共同体を解体してしまいます。
自治会や近所付き合いのようなコストを踏み倒した方が、煩わしい雑事から解放されて、
より自由に生きられるのは事実だと思うけど、みんなが共同体にかかるコストを踏み倒したら、社会から善が駆逐されてしまいます。
つまり、自由で快適な生活と、善があふれる良い社会とはジレンマの関係にあるというわけですね。
はい、このリベラル・コミュニタリアン論争は明確な勝ち負けがある論争ではありません。
でもリベラル・自由主義とコミュニタリアン・共同体主義が、結構ジレンマの関係にあるということがわかれば、
ロールズ的な、いわゆる政治哲学への改造度もかなり上がるんじゃないでしょうか。
というわけで、今回はここまでです。
次回もまたよろしくお願いします。