1. ストーリーとしての思想哲学【思想染色】
  2. #82 ブルデュー5 余談/個人..
2024-08-11 08:09

#82 ブルデュー5 余談/個人的な話

ブルデューから敷衍して個人的な話を余談的に行います。

「文化資本の商品化」が、文化資本が纏う権力性を解体し、権力闘争を無効化するんじゃないかという話です。

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ストーリーとしての思想哲学
思想染色がお送りします。
前回まででブルデューの話は終わったんだけど、余談をしてみようと思います。
個人的な話です。
僕は今、ポッドキャストで思想哲学の話をしているし、仕事も文学関係の仕事をしているんだけど、
思うところがあってビジネススクールで経営学を勉強したんですよ。
いわゆるMBAですね。
というのもディスタンクシオンの話を聞いて同じことを思った人もいると思うんだけど、
哲学って、じゃあどうすればいいのかまではカバーしていないんです。
文化資本格差みたいな話は、もしかしたら構造的な問題だから政府が考えるべきことなのかもしれないけど、
でも僕たちのような一般庶民にもできることはあると思います。
ブルデューが言うように、文化資本の格差が社会階層の格差を再生産しているのであれば、
僕たち庶民階級はどうしたらいいのか。
いわゆるロマンとソロバンの話なんだけど、思想哲学はロマンを示してくれます。
一方でソロバン、お金については普通取り扱いません。
でも文化資本の話は経済格差の話とかなり結びついていたし、
上流階級とそれ以外との文化格差は経済的必要性に束縛されているか否かが重要な論点でした。
ということは身も蓋もないんだけど、
庶民にとっては生活していくためのお金という問題に結局のところを帰結していくわけです。
そのため、思想哲学と同時に経済及び経営を知らないといけないなと考えるようになりました。
今言ったように、文化資本イコールロマン、経済イコールソロバンという、こういう二項対立で捉えたとき、
普通こういう構造になっていると思うんだけど、文化資本のようなロマンを追い求めれば生活が困難になる。
逆に生活していくためのお金を強く追い求めればロマンとはかけ離れてしまうという、こういう二項対立構造があると思います。
この二項対立をアウヘイベンして何かしら陣定勢を作らないと、なかなか文化資本格差は解消できないということになります。
理屈の上ではこうなるよね。
で、陣定勢なんだけど、経済活動における財、いわゆる商品のことですが、この商品、プロダクトについて、
僕はプロダクトに思想があったらいいと考えてます。
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というのも経営学的に、昔と今とでは経済のゲームルールが変わっているからです。
昔の経済活動のゲームルールとは、欠乏への手当でした。
単純化して言いますけど、昔は消費者は、冷蔵庫、エアコン、車、住宅、こういったものを所持していなかったから、
商品が行き届いていなかったから、その欠乏に手当てするために生産するということをしていました。
需要と供給の関係において、需要が供給能力を上回っていたということです。
だから供給能力を増やして、増産して、で、ロジスティクスを構築して、隅々まで商品を行き届かせるというのが基本的なゲームルールでした。
一方で、現代はすでに供給過剰になっています。
行き届いていない必需品というのがもうあまりないよね。
物が溢れている、つまり供給能力が需要を上回っているから、普通にしてたら売れないわけです。
だからマーケティングとか広告で何とかして商品を売るとか、あるいは消費者でさえまだ気づいていない需要を掘り起こすとかしないといけないわけです。
まあ、これ自体は決して悪いわけではないです。
時間経過とともに供給能力が増加して、商品の限界利益がだんだんとゼロに近づいていくというのは、
資本主義的にすごく健全な状態だし、消費者としては嬉しい状態です。
もう少し解像度を上げると、商品には機能的価値と情緒的価値とがあります。
機能的価値というのは、例えば冷蔵庫だったら冷やすという機能のことを指すわけですが、
冷やすという機能だけしかない冷蔵庫が複数種類あった場合、普通は一番安いのを選びますよね。
だから機能的価値だけだと値下げ競争に修練していきます。
他方で、情緒的価値とは何かというと、機能的価値のような客観的事実に基づくものではなく、
主観的感情と紐づくもののことを指します。
端的なところで言うと、ルイ・ビトンのような独自のオーセンティックな世界観を持つブランドであったり、
もうちょっと身近なところで言えば、地元の農家であるマルマルさんが作ったお米とか、
そういうストーリー、世界観を内包するもののことですね。
で、世界観の指針となり得るものと言えば、何よりも思想じゃないですか。
ここで言う思想っていうのは、哲学も含む思想哲学全般のことを言っています。
このね、いろいろなプロダクトが、成長的価値として思想哲学をもっと下地に持つようになったらいいと思うんです。
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今は思想がある商品っていうのは、まだ少ないと思うんですよね。
いや、あるはあるけど、ビーガン向けの食べ物とか、フェアトレードのコーヒー豆とか、SDGsに配慮したリサイクル、アップサイクルとかね、
でもまだまだ全然少ないし、方向が画一的です。
全部何か良いことをしようとしているという意味で、
学校の先生が言うような、道徳的で良いことをするという方向に偏っていると感じています。
もっと思想で遊べる余地があると思います。
遊ぶっていうのは、もちろん特定の思想をバカにするとか、おもちゃにするとかそういうことではなくて、
芸術作品の下地に思想や哲学があるのと同じく、
思想や哲学を下地にした、モチーフにした商品というのがもっとあったらいいと考えています。
だからそういうのを誰かに作ってほしいっていうわけじゃなくて、
自分でもそういうプロダクトを作ってみたいなと、そんなことを考えています。
はい。まとめると、文化資本の商品化が文化資本がまとう権力性を解体して、
権力闘争を無効化するんじゃないかと、個人的にそういうことを考えていますという話でした。
あとね、みんな思想哲学について難しく捉えすぎだと思っています。
たくさん勉強した後でないと思想哲学を語っちゃいけないなんてことは全然なくて、
思想や文化資本でもっと遊んだらいいと思います。
ということで、個人的な話で恐縮ですが、今回はここまでです。
また次回もよろしくお願いします。
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