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三遠ネオフェニックス ヘッドビデオアナリスト木村さんにお越しいただきました!Spotlight木下と話しています。木村さんのご自宅WiFiが弱く、音質悪いですがご容赦ください!

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木村さん著書『データで強くなる! バスケットボール最強の確率』

三遠ネオフェニックス

日本経済大学

ボックススコア

バスケットボールのインカレ

ライジング福岡

サマリー

今回は、三遠ネオフェニックスのビデオアナリストである木村さんをゲストとしてお迎えしています。木村さんの経歴やバスケットへの取り組みについてお話が展開されています。福岡から千葉へ進んだ木村さんは、アナリストとして活躍し、その役割についても話されています。

目次

木村さんの経歴とバスケットボールへの取り組み
スポーツスポットライトの木下です。今日は三遠ネオフェニックスビデオアナリストの木村さんをゲストにお迎えしています。木村さんよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
いきなり謎の沈黙の間があったんですけど、木村さんとは…
自己紹介してもらっていいですか?
そうですね、ある程度知られている方もいるので、後で自己紹介を改めてお願いします。
木村さんは前のチーム千葉ジェッツにいた時に、僕もシングライスに住んでいまして、家が近かったので、
よく西船橋で年に2,3回お酒を飲むという中で、東海地方に引っ越しされたんですけど、
そのご縁で参加していただいています。
木村さんを知らない人に向けて、簡単な自己紹介をお願いします。
ありがとうございます。
バスケットボールのBリーグのサンエネオフェニックスという、愛知と静岡を渡る地域でビデオアナリストとして働いている木村さんと申します。
よろしくお願いします。
まだ全然サンエネオフェニックスの紹介を慣れていないという一例だと…
詰まったんですけど、詰まっているのは紹介慣れしていないのかもしれないですね。
あらためて自己紹介しないですしね、僕らの間で。
そこもちょっと恥ずかしさはありますもんね。
今回は木村さんの素顔に迫るのは言い過ぎなんですけど、
木村さんがどういった経緯でBリーグに入られて、そしてサンエネに移籍されたのか、
具体的な内容は防ぐとして、どういうキャリアを歩んできたのか聞いていければなと思います。
バスケットボールの始め方と地域の影響
木村さんはバスケ何歳から始めていたんですか?
自分は中学1年生なんで、12歳からですね。
バスケスクールとかじゃなかったんですかね、小学校の時。
そう、小学校の時はサッカーをしていて。
中学校からバスケットを始めて、はい。
そういう天気があったんですか、バスケを選ぶ。
結構、もともとスポーツが好きで、小学校の時はバスケットだから。
野球とサッカーしかない地域だったんですよ、自分の地域が。
で、もともとサッカーをしていて、結構ほんと見るのも好きだしみたいな感じで、
サッカーをやっていたときと同時に、ケーブルテレビ。
マンチェスター偉い時とか、結構サッカーで小学生ながら見てて。
で、面白いなと思ってて、その後にたまたまJスポーツやってたのが、
バスケットの試合。
スポーツ番組なんで、次にあって。
それを見た時に、ワンピースがめちゃくちゃテンス入ってて面白いなって。
あとは、手使えんじゃんって思ったんですよ。
それは結構…
足使えねえじゃんって思わなかった。
足使うの難しいけど、手使えたらもっと人って自在に何かできるんじゃないかって思ったんですよ。
で、バスケット面白いなって思って、ずっとサッカーとバスケットを
まだ地域にバスケットがなかったので、試合だけ見てたって感じ。
で、中学校からバスケットのスタートがあったので、そこに入ったんです。
部活動に入ったってことですね。
で、出身地ってどちらなんですか?
自分は出身は大阪ですね。
大阪のサッカーと野球が盛んな地域にいて、中学でバスケ入って。
そのバスケはどうだったんですか?人、人数多くて競合とか。
地域的にはあんまり人数少なくて楽しくやる感じだったんですか?
そうですね。大阪も全国的にもそうなんですけど、
小学校にまだミニバスケットボールというバスケットのチームがない地域だったので、
そこでやっぱり中学校に入った時にかなりの差がつく。
やっぱりバスケット全国的にそうなのかなって。
自分たち大阪っていうのは結構そうで、やっぱり野球サッカーが強すぎて
バスケットがある地域というのが結構限られてる。
その地域の中学校はやっぱりバスケットも強くなる。
ミニバスケットがある地域は強くなる。
それ以外の地域は結構下のレベルになるっていうのが結構あって、
どっちかというと自分が入ったところはかなり下の方にありましたね。
高校はそのまま地元の高校に進学されたんですか?
そうですね。大阪の高校に進学して。
バスケはそこで?
そうですね。基本的にバスケをして、
高校2年生の時にプレーヤーをやめて、
最初はマネージャーって言ったときでサポートするようになりました。
マネージャーって言われるらしいですね。
僕それ初耳ですよ。
どんだけ飲んでても聞かない話があるんですよね。
マネージャーだったら?
そうですね。
なんて言うんですかね。
当時はいろいろな、あんまり…
高校の方からは、
趣味をやってほしいって言われたんですよ。
高校2年生の時に。
自分はいまだによく分かってないんですけど、
マネージャーと趣味の違いが自分でも今は分かってなくて、
なんでか知らないけど、
とにかくお前はマネージャーじゃねえって怒られ続けてたんですよ。
趣味だみたいな。
だからもっと雑用じゃなくて、
チームの加減をしようとしろっていうやつだったんですけど。
木村さんのアナリストとしての経験
一応趣味っていう役職だったのかな。
ただやってることはマネージャーだったのかなって思ってます。
そういうある意味裏方的なところは、
高校から始まり、
で、大学が福岡でしょ?
そうですね。
日本経済大学に進学しました。
大学のバスケ部入ってたんですか?
それはそこでアナリストを始めたとか、
そこはマネージャーで入ったけど、みたいな感じなんですか?
そうですね。
大学に行くときに、
高校でマネージャーをやってたので、
その衛星先が今日本経済大学という大学だったんですけど、
そこのヘッドコーチに誘ってもらって、
最初はマネージャーという形で、
属体制として入れてもらったという形でした。
マネージャーに属体制があるんですよ。
自分も初めて聞いた。
珍しいというか、部活への支援がすごいですね。
今考えると当時のヘッドコーチがそこを大事にしてくれた。
まだまだ上昇経験に乗る前のチームだったんですけど、
その中で選手だけじゃなくてスタッフも大事だと思ってくれたっていうのは、
かなり大きかったから一緒にやりたいって言ってくれた。
そこで最初は本当にマネージャー業をされてたんですか?
そうですね。
スタッフがヘッドコーチと自分ともう一人のマネージャーしかいなくて、
3人で回すってところで、
本当にいろんなことをやってたっていう感じです。
もちろん遠征の日程を送るだりとか、
学校に定期処理をしていたりとか、
あとはテーピングを巻いたりとか、
レフリーをやったりとか、
その中にバスケットにスタッフを取るっていうスコアをつけるっていうのも
一つのマネージャーの仕事だったと思います。
あそこまで、そこが最初の出会いっちゃ出会いなの?
ボックススコアでしょ?
そうですね。今リリーグでも、
リリーグでも今ボックススコアをマネージャーがつけるっていう習慣があるんですけど、
当時、自分が大学1年生の時ってiPadが出始めた時だったんですよ。
それでiPadでボックススコアをつけるっていうのが結構斬新的に、
今まではみんなノートに書いてて、
それを後で計算してみたいなやつがあったので、
そこからiPadに変わってきて、
そういうのもやらせていただいてたっていうのが大きいです。
なんかそんな、
福岡のBリーグのチームに
木村さん多分行かれてたんですよね。
大学の途中で。
それはどういうご縁で、
チーム名も僕ちょっと忘れちゃったんですけど。
ちょっともう少し言ってたっていうと、
大学2年生の最後、大学3年生になる時に、
マネージャーっていう役職からアナリストになりたいっていう風に、
チームの中で決めて、
アナリストっていう役職になっていったっていうところなんですけど、
理由としては、九州で勝って、
2カレで監督に達したいっていうチームの目標があって、
その中で自分がどうやったらチームに貢献できるかってなった時に、
本当に1年生、2年生って本当にいろいろさせてもらって、
マネージャーっていう業務の中で、
ボックスコアをつけたりテーピングを巻いたり審判をやったり、
いろんな業務をやった中で、
どれに特化すればチームの目標に到達できるかって考えた時に、
このアナリストっていう分野が、
九州の中でも全国の中でもまだまだ先を取れる分野なのかなっていうところを感じていて、
まずアナリストっていう職をやらせていただくようになりました。
その後に、自分はプロを目指すっていうふうになったんですけど、
そのタイミングで大学4年生の段階ではプロいけるゲームではないっていうふうに
自己評価をしていたので、大学院に進むっていうふうに進学を希望していて、
その大学の4年生のシーズン終わりから大学院に入るまで、
大学院に入って4月までを当時のライジング福岡、
今はライジングゼファ福岡っていうチームでインターンさせていただいているというふうになっています。
一番最初のアナリストっていう職を知るきっかけは何かあったんですか?
自分は本当にチームが勝ちたいっていうところで、
ラグビーもどうかわからないですけど、バスケットって関東が一番強くて、
その後に関西、東海とか行って、九州ってだいぶ下の方で、
福岡での経験
関東とか関西で行けなかった選手が九州に残って、
あいつらを倒すぞみたいなモチベーションでやっているんですけど、
そんな中で当時の神谷体育大学、同じ大学に入って、
かなりその分野に力を入れて、アナリティクスに力を入れて、
インターンのベスト8まで行ったっていう経緯を自分も知って、
九州でもそこを頑張ればいけるんじゃないかっていうふうに思って、
当時、森茂さんっていう方が神谷で活躍されたんですけど、
その方のいろんな経緯を知って、自分はこの道に進みたいなっていうのが、
あんまり思っていなかったんですけど、
自分はその経緯を知って、
その方のいろんな経緯を知って、自分はこの道に進みたいなっていうのが、
あんまり思っていなかった経緯です。
そうですね、確かに思うのは、分析は弱者が強者を倒すツールじゃないですけど、
に近いところはありますよね、正直。
入門のレベルというか、はい。
資金と選手が潤沢なチームで、多分カテゴリー飛ばすだと思うんですけど、
カテゴリー競技飛ばすんですけど、
正直、分析してもしなくても勝てるよというふうにはちょっと思ったりは、
諦めてるわけじゃないんですけど、思うところいっぱいあるんで、
確かに地方の、しかも大学レベルで、そういうムーブメントが一時一時あったっていうのはすごい面白いですね。
僕もこの話初めて聞いたかもしれないです。
やっぱり01の段階っていう段階では、やっぱり1を持った方が強いなっていうのはありますよね。
それがたまたまそういうフェーズにアナリスト界があったかなっていうのがあります。
今、じゃあアナリストが入れば勝てるかっていうのがものすごく難しいと思いますし、
1から10にいくフェーズにおいては、やっぱりお金があるチームがいろんな投資をして、
いくつにおいても投資がされていくチームがやっぱり強いのかなっていうのは思いました。
そこは常に突きまとう問題ではありますけど、
アナリストがいる意味というか、分析をする意味ではあるなといつもこう思いますね。
大学院時代に当時のライジング福岡に行かれて、
その時はヘッドのアナリストの方がいて、その下でインターンとして勉強をしていくみたいな感じだったんですかね。
当時はアナリストがいなかったですね。
というより、バスケット界でアナリストがいなかったんじゃないかなっていうふうに思ってます。
まだBリーグにもなってなかったんですし、
BJリーグだったので、アナリストを作ったよりもアシスタントコーチにいろいろ要望されて、
それに対して応えていくっていうのが大きかったです。
それ結構インターンとして売り込んでいったって感じじゃないですか。
それも当時本当に自分…
縁があって。
縁があったっていうところが大きかったですね。
大学の先生と当時のヘッドコーチが先輩後輩の関係であったっていうところがあって、
そのヘッドコーチが自分がインターン入った後に途中で変わるんですけど、
そういうのもいろいろあった。
ただ最後はやらせていただいたっていうのが大きかったです。
そういう潜在的にやりたい学生って結構多いんですけど、
なかなかチャンスがなかったりする縁がなかったりするので、
木村さんの場合は多分本人の努力が8割と、
たまたまそこで九州界隈で織りなす人の縁があったのはすごい大きかったかもしれないですよね。
自分は本当にそこが大きかったですね。
本当に九州の方々に努力してもらったというのは、
そのあたりの感覚だと思います。
大学でマネージャーをやってアナリストに転身して、
千葉ジェッツへの入団
大学院生になるタイミングで福岡に行き、
そこから大学院卒業して千葉に上陸すると。
上陸、そうですね。
上陸すると黒船として九州に。
それはどういう経緯だったんですか?
ここからはプロの世界になると契約ごとの話になるので、
話せると話せるのがあるんですけど、
その話せる範囲内でいろいろと教えてもらえれば。
そうですね。プロになったところで、
正直今よくセミナーとかで最初に話すんですけど、
大学院2年生のシーズンにこのチームを探して、
どうやって入れるかなと考えて、
ある意味就活みたいな形で言ったんですけど、
最終的には千葉ジェッツというチームに入団させてもらったんですけど、
実はその入るまでに2チームに断られてきたというところが実際あって、
なかなか本当に自分からすると実力がなくて、
なかなか行けなかったけど、千葉ジェッツで拾ってもらったという意識の方が強いというか、
効果がありましたね。
なので自分の実力がめちゃくちゃ高くて、
簡単に入っていったんだっていうのを、
本当に人の縁でなんとか挑もらったっていうところがあります。
2チームに断られてたっていうのは意外ですね。
たぶんその2チームも5年後ぐらいにアナリストという職業が普及してきたタイミングで、
若干の後悔があったのかもしれないですね。
いやいや、わからないですけどね。
でも今は本当に感謝してますね、どっちかというと。
やっぱりプロの世界に入って、自分の力を貸しにせずに
地道にやってこれたっていうのは、スタートの段階で
やっぱり自分の実力としっかり向き合えたという時間があったのかなと。
思っているので、本当に謙虚に居続けられてるっていうのはその経験があったのかなという風に。
自分はどっちかというとポジティブな感じです。
そこで千葉ジェッツは最初に何年いらっしゃいましたっけ?
5年間ですね、千葉ジェッツは。
長いですね、5年間。
で、5年間、最初から最後までヘッドコーチ大野さんと5年間紹介されて。
はい、アシスタントコーチとか役職のコーチは何人か変わっていたんですけど、
大野さんとは最後までヘッドコーチ大野さんとして頂きました。
で、一緒に卒業の時期が来て、
3年に新しい場所で新規行ってリフレッシュして。
そうですね、やっぱりチャレンジを求めてみんなで来たっていうことが。
面白いですね、新しいチャレンジ。
じゃあちょっとその辺の3年の逃避席ましてからもありまして、
千葉ジェッツ時代のBリーグの具体的なバスケの話には
次回ちょっと入っていこうと思います。
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