家が昔の木材倉庫を改造したお家で、屋根がトタンで、壁もトタンで、内側はベニヤの壁なんですよ。
それはアトリエとして使っていたのがそこで、生活スペースは別ってわけじゃないんですか?
生活スペースはその中にプレハブ、コンテナみたいなやつが中に入っていて、僕の部屋なんかはアトリエが三角形だったんですけど、三角形の端を区切ったさらに小さい三角形のところに部屋があって、そこにテーブルを置いたり、机を置いたりしていて。
そうすると夏は外よりも暑いし、冬は外よりも寒いし、壁と屋根の間に隙間があったりして、雪が吹き込んでくるんですよ。
後になって気付いて、そこ埋めればもうちょっと密封されるんだろうけど、そこにまで全然頭が回らずに、そういう部屋で寒い思いをして寝てました。
ちなみにご兄弟は?
一人っ子です。
現代美術は現代美術なんだけど、画家とかジャンルはどのような現代美術なの?
父親っていうのは、一緒に住んでたのは義理の父親というか母親のパートナーで、この人も現代美術をやってる人なんですよね。
それで二人ともインスタレーションに近いと思いますね。昔はもっと母親とかは鉄の人体みたいな、すごい大きい鉄の人体を溶接して作るみたいなやつを作ってたりもしたし、義理の父親は倉重さんって言うんですけど、母親は勝又で、義理の父親は倉重。
で、僕は離婚した父親の生を引き継いでるから松倉なんですよ。
3人とも身は違う。
面白かったのは、表札は3つ名前が並んでるんですよ。
ややこしいですね。
でもそれが生まれた時から当たり前なわけですから、自分たちはちょっと人違うぞって気づくし。
そうですね。でも最初の頃からちょっと違うんじゃないかなと思ってたと思いますね。
だから親の職業を理解したのはどれくらいなんですか?
これまたややこしくなるから、言うのどうしようかなと思ってたんですけど、神奈川県三浦市に引っ越してきたのは10歳ぐらいで、その前は松倉の父親と勝又が暮らしていたのは、僕も一緒に暮らしていたのは厚木、神奈川県の中央にある厚木で、そこはお寺に住んでたんです。
ややこしくなるかなと思ったけど。
なぜかというと、住職がいないお寺で、そこの掃除とかお手伝いをすると、家賃がタダになるんです。
貧しい生活をするのに、家賃のタダのお寺に住んでいて、お寺からちょっと離れた山奥のアトリエみたいなところに通ってたんですよね。
最初は一応屋根とか壁はあったんですか?
そうですね。
10歳から亡くなったとき?
途端になったんですね。
まあ、あったんですよ。屋根もあったんですけど、ただ台風とか来ると、気づくとベッドがビショビショになってて目が覚めるんですよ。
うわ、何だろうと思って見ると、屋根が飛んでて。
三浦半島は海近いですからね。台風が直撃したら屋根が飛んじゃったりとかして。
松倉さんとそんなに僕、歳変わんないじゃないですか。5、6歳しか変わんない。
そうですね。僕45です。
昭和の話ですよね。昭和初期の話かなと思ったけど、そんなことないですよね。
昭和末期の話ですよ。
要はバブルとかの時代の話ですよね。
2000、何年までアトリエに住んでたのかな。
2002年までは確実に住んでましたね。
平成ですね。
そうですよ。思えない話だ。
でも、親が現代アーティストだっていう認識はどこで来たんですか。
多分、すごい幼い時にアトリエにもよく行っていたし、こういうものを作っているのが職業だっていうのは、初期から多分、物心ついた時から認識してたと思いますね。
でも、もともとのお父さんもお母さんも、それから義理の師の方もみんな芸術家だったな。
サラブレットってサラブレットじゃないですか。
そうですね。
子供の頃からアートは好きで。
いやー、でもやっぱりまず反発はありましたよね。
物心ついて、やっぱり思春期になってからですかね。反発はすごかったと思いますね。
例えば、画体が良くなってくると鉄を使ったりとかしてるから手伝わされるんですよ。
手伝わさせられるんですよ。搬入とか。
家業なんだから、それこそ茶割りの話じゃないし、工芸の伝承じゃないですけど、家業なんだから手伝えって言われるわけですよね。
でもお母さんのお父さんお母さんはやってたんですか。お母さんが一代目だったんですか。
そうですね。
もう家業になってるんですね。
家の仕事なんだから、家事と同じように手伝えって言うわけですよ。
お風呂を洗うのと同じように重い鉄板を運ぶのがあるから、ギャラリーまで行くのにあなたもいい体してるんだし手伝いなさいって言われるんですけど、
僕としてはこれは本当に家の手伝いなのかって気持ちもあるんですよね。
あなたは私たちの稼ぎでこうやって生活してるんだし、稼いだ分ぐらい家の手伝いぐらいしなさいって言うんですけど、
でもちょっと冷静に考えてみろよと。作品を売って暮らしている現代美術のアーティストなんて日本だと本当に一握りなわけで、
あなたたちも学校の先生とか、学校の美術の先生とか、お絵かき教室をしたりしてお金を稼いでいると。
本業というかそっちの仕事もしつつ。
そこで生活費を稼いでやっている。
それが僕をそれで育ててくれるって言うならわかるけど、ギャラリーでやるとか展覧会でやるのを手伝わなきゃいけない論理がわかんないなと思って。
息子からすると趣味のお手伝いしてるような感じがある。
そういうのはありましたね。
言ったこともあるんですか?
そうですね。
なんて返されるんですか?
子供なんだから手伝いなさいみたいなね。そういう感じでしたね。
それは何歳くらいの人と?
それでもなんだかんだ言って大学とか、結構学生時代はずっとスポーツやってたんで、土日とかは結構部活行ったりしてたんで。
大学とかにもなってそういうのまだあったかもしれないですね。
でもその反発はあったってことは、美術の道に行こうなんて全く思わない。
そうですね。
やっぱりあとはずっと間近で見てきて、何が仕事なんだろうというか、職業とか何がプロなんだろうみたいなのをずっと多分考えていて。
今でこそ毎年のように海外で展覧会やったりとか、この間は美術館で個展やったりとか両親ともできるようになったんですけど、
もちろん僕は小さい頃からも精力的に活動はしていたけれども、作品を売ってとか作品を作ることで収入を得ていないんだったら、
じゃあ何が職業で何がプロフェッショナルだろうみたいなのはずっと多分疑問にあって、さっきおっしゃったみたいに作品を作ることが趣味なのか。
そんなこと言ったらすごい激怒するわけですよ。プロだというふうな自負もあるわけだし、そういうのはずっと考えていましたね。
それは息子からしてだからちょっとあれかもしれないけど、とはいえ作品はいいなと思ったりはしなかったんですか?
それも現代美術の作品を見て全く何だかわからなかったですね。
結局もちろん良し悪しってね、そもそも美術の価値観っていうか美術の作品の良し悪しってどういうふうにみんな評価してるのっていうのもありますよね。今でもそう思います。
それはじゃあそういうところで育ってもわかんないというか。
全然わからなかったし、例えば学校で教わる美術の授業もあるし、美術史的な流れみたいなことは中学生とか高校生になったらわかると思うんですよ。
例えば風景が、小学校の子供の頃もそうですけど風景が描いたりしますよね。これは風景を描く。できるだけ現実に近いものになるように描くみたいな。
それでも写真で撮ればいいのに何で撮らなきゃいけないんだろうなとか。あとはどんどん成長してきたら家にはいくらでも画集もあるし、みんなそれを見たりとかしてやったりとかしてるわけですよね。
そうすると興味を持って、こういうふうに昔は宮廷で誰かの肖像画みたいなのを描いてみたのがあったけれども、デュシャンみたいにそれを転倒するような。
今までの価値観をひっくり返すようなものを作るのがアートである。なんとなく意味はわかるんですけど、そういう論理的には。だけどこれが良いものか悪いものかって、これが価値があるものなのか、これが世界的に有名なもので、
図録とか辞典みたいなものに載っているものがすごい価値があって、今父親が作っているこれが価値がどこまであるものかなんか判断できないなと思っていて、それはずっと不思議、謎ではあったんですよね。
僕も別にわかるかわかんないかって言ったら、わからないと思うけど、なんとなく勝手にそういう芸術家の息子で育ってきたらわかるのかなって勝手に思い込んだら、そんなことはないんですね。そういう生活をしたところでみたいな。
むしろ疑問が生まれると思いました。
なんて言うんでしょうね。自分の性格なのかもしれないですけど、物事が、僕結局大学では哲学科に行って、そういう勉強もして、大学院も行ったんですけど、それって多分、これが何でなんだろうっていう疑問が多分昔からずっとあって、性格的に言うと思うんですけど。
だからやっぱり、この人たちが作っているこれは一体何なんだろう。
逆にわけわかんないものを見させられ続けたことによって、疑問というものが生まれる。
なるほど。
しかも周りの人たちは、親のアーティストたちの仲間とかは、知った顔で何かいろいろ言うわけじゃないですか。親も含めてね。この人たちは何を言ってるんだろうと、本当にわかっているのだろうか、僕は全くわからないなと思ってましたね。
そうやって問いかけというのが生まれて、哲学というのが生まれるんでしょうね。
そうかもしれないですね。
哲学科に入った時は、どういう道筋というか将来的な、どういう目標は目指したんですか。
高校ぐらいまではずっと部活というか、バスケットボールばっかりやっていて、ろくに学校の授業も出ないで、部活ばっかりやってたんですよ。
それで、大学も体育会系のバスケ部に行きたいと思っていて。
そういうチームがある東京の私立の大学に行きたいと思ってたんですよ。
ただ、途中で大学に行っても結局1年しないで辞めちゃったんですけど、バスケットボールは。
やっぱり当時から、大学に行く時から、映画の道には行きたいと。
それはもうあったんですね。
映画を作りたいというのは多分どこかであったんですよね。
なので、それのためにとか、スポーツをずっと続けていっても、
選手としての寿命は多分短いだろうし、一生の仕事としてどこまでできるんだろう、みたいな気持ちはあったんですよね。
なので、映画を作るためには、追求するためには、やっぱり哲学が必要だろうと思って、哲学の道に行ったんですね。
映画学校じゃなかったんですね、その時。
そうですね。
やっぱりまずは、一つはスポーツをやりたいというのもあっただろうし、
でも大学に行った時には、ずっとバスケットボールを辞めてからは、
大学に通いながら、ずっと映画界へのツテを探していました。
映画界に行きたいと思ったスタートのきっかけは何だったんですか?
映画に興味を持ったきっかけは。
それがやっぱり子供の頃から映画が好きだったし、
例えば母親に連れられて、覚えてるのは今でも、一回中断しちゃったんですけど、
今でもまた続いている野外上映会っていうのが、原村、長野かな、の村で上映会があって。
夜に、夏の夜ですけど、野外劇場みたいなところで毎日1週間くらいかな、上映するのがあるんですよ。
1回閉まっちゃったんだけど、今でも続いていて。
僕らは夏になると、そこの近くのアトリエに泊り掛けで作品を作ったりとかしてるのに行って、
僕らもそこに泊まっていて。
僕らが泊まる場所は、昔のバスを改造して、使えなくなったバスを改造して。
なんでそんなとこばっかりあるの?
楽しくて楽しくて。
こんなバスに泊まったことないじゃないですか。
そこに寝床を作れるようになって、ゲストハウスみたいになってるんですよね。
そこに泊まって、夜は原村の映画を見るっていうのがある。
真夏なのに、高度が高いから、夜寒いんですよ。
母親と一緒に毛布にくるまって、一番最初にそこで見たのが、
ああ、こういう感じだったなあみたいに。
それで実家から帰ってきて、
うちの奥さんにもうちょっと同調してもらいたくてさ、
聞いてえの?せっかく持ってったのに、
カタログの話とか知らすんだよねって言ったら、
いやあ、あんたもお母さんそっくりだからねって言われて。
自覚ないけど同じようなこと言ってる。
あんたそっくりだから、そういうところがほんとそっくりって言われて、
ああ、自分ももしかしてそういうところあるのかと思って。
聞いちゃってるんですかね。
全く自覚なかったですね。
で、この上映が始まって一昨日から母親が見に来てくれて、
見たんですよ。
そしたらすごい評価してくれて、褒めてくれて、
いやあんたすごい良かったわよって。
これ評判いいでしょって。
すごい私ね、感動して涙が出ちゃったって言ってたから、
どこで泣いたのかなって。
僕ね、親子の話とかもあるし、一緒に苦労した家庭の話もあるから、
一番最後はお母さんの話とかになるじゃないですか。
15代のお母さんの話とかなって思ったら、話聞いてたら、
いやあのね、やっぱり苦労して、あんだけの苦労を乗り切って、
このものを作った、焼き物を作った15代。
彼にやっぱりね、素晴らしいと思って涙したんだよねって言って。
もうクリエイターたちそっちにシンパシーよ。
そうなんだなと思ってびっくりしましたね。
すごいお母様ですね。
やっぱりそこは、母親とか家庭人ってことよりも、
まずやっぱり作り手なんだなと思って。
家族の物語として見るよりも、クリエイターとしての共感が勝っちゃった。
そうですね。家族のことももちろん言ってるんですけど、
でもやっぱり一番涙したって言ってたのは、
どういう風な苦難を乗り越えて、この作品を作るか。
そして作っていくか、みたいな。
そういう作り手のクリエイターに感情を引入して泣いてたんですね。
でもお母さんのも一貫してますね、それは。
ブレてないんですね。
そうですね。
なんかちょっと、家族でしかわかんない褒め方してほしいですよね。
息子としては。
プレハブ小屋から始まってる、壮大なストーリーの。
そう思ってみてほしいですけどね。
そういうところがすごいなというか、尊敬できるなというところもあるんですよ。
やっぱり一緒に暮らしてきて、ずっと見てきて、
そういう貧しい時代をずっと続けてきて、
周りの同年代の人とかでは、もちろん体調を崩して亡くなる人もいるし、
夢破れてなのか分からないですけど田舎に戻ってしまうような友達とかもいるんですよ。
だけどこうやってもう70半ばぐらいですか、
ずっと続けていたら今美術館で古典もやったりすることもできるし、
続けていくっていうのはこんなに大変だけどすごいことなんだっていうのは間近で見てきて、
それは純粋に尊敬できるなと思って。
僕は映画を辞める選択肢がないなと思ってたのは、それもあると思うんですよね。
ずっと困難な生活を続けても金にならない現代美術を続けてきた親を見てるから、
怖いものがないというか。
周りの人は中国に行って撮影してきた時とか、
そこの泊まっている環境とかは劣悪だ劣悪だとかお湯が出ないとかって言ってブーブー言ってたけど、
僕は全然快適だなと思ってた。
あの時の比べたらなみたいな。
思ってたからそれはやっぱりすごいなと思って。
この映画を見ても家族に涙するんじゃなくて、
作り手のものを作る人の生き様に共感して涙するんだなと思って。
さすがだなと思いましたね。
すごい良い話でした。
もうちょっと時間が来てしまったということで、
せっかく改めて告知を。
このお母様も涙した映画の告知をよろしくお願いいたします。