1. そろそろ美術の話を...
  2. #112 現代美術家の両親を見つ..
2024-07-13 1:02:32

#112 現代美術家の両親を見つめる眼差し(映画監督 松倉大夏)

映画監督の松倉大夏さんをゲストに映画監督に至るまでの経緯や芸術家であるご両親のことについてお聞きしました。 ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://sorosoro-art.vercel.app/ep/11⁠2  番組の感想は、⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠#そろそろ美術の話を⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ でお願いいたします。

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Guest Profile 松倉大夏(まつくら だいか)

  • 神奈川県三浦市出身。現代美術作家の両親のもとで育つ。
  • 法政大学大学院でフランス哲学を専攻。
  • 2004年よりフリーランスの助監督として映画業界で活動。
  • 脚本に携わったNHK特集番組「巨大戦艦大和〜乗組員が見つめた生と死〜」(2012)は、ATPドキュメンタリー部門優秀賞を、NHK特集番組「零戦〜搭乗員たちが見つめた太平洋戦争〜」(2014)は、ATP賞グランプリを受賞。
  • 監督作のWOWOW「君のことを忘れない〜女優・渡辺美佐子の戦争と平和〜」(2013)では、日本民間放送連盟賞 優秀賞を受賞。映画「やまぶき」(2022)のプロデュースなどでも活躍。

Show Notes ちゃわんやのはなしについて

映画制作について

今後成し遂げたいことの話題

サマリー

映画監督松倉大夏さんの両親は現代美術家であり、松倉さんは家族とともに現代アートの環境で育っています。彼自身は長い間美術の道には興味を持っていませんでしたが、映画界への関心を抱いています。映画に興味を持ったきっかけは、子供の頃に参加した野外上映会での経験でした。まだ小さい頃だったため、スター・ウォーズの2番目のエピソード5を見て、内容がよく理解できなかったと思いますが、星空の中に宇宙船が実際に飛んでくるのに感動したそうです。彼の作品は、映画監督としての道のりや親との関係性に焦点を当てています。現代美術家の両親を見つめる眼差しのエピソードでは、映画監督の松倉大夏が自身の映画について話し、親子関係や制作意図について語っています。映画『茶碗屋の話』の告知が行われています。

00:10
はい、アートテラー・とにのそろそろ美術の話を。この番組は、私アートテラー・とにがハートに関わる方をゲストにお迎えして、トークを繰り広げるポッドキャスト番組です。
今回は前回に引き続き、映画監督松倉大夏さんをゲストにトークをしていきたいと思います。
ということで、後半もよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
両親の現代美術家としての活動
後半は松倉さんのプライベートに迫っていきますということで、前半めちゃめちゃ気になっていたのが、ご両親が現代アーティストで、家がプレハブみたいだったという。
どんな家だったのか、すごい気になりすぎたけど、茶碗屋の話の前半はメインだからと思って我慢していたので、そこまで聞いていきたいなと思って。
まず、両親共に現代美術をやっていて、神奈川県三浦半島に暮らしていたんですね。
家が昔の木材倉庫を改造したお家で、屋根がトタンで、壁もトタンで、内側はベニヤの壁なんですよ。
それはアトリエとして使っていたのがそこで、生活スペースは別ってわけじゃないんですか?
生活スペースはその中にプレハブ、コンテナみたいなやつが中に入っていて、僕の部屋なんかはアトリエが三角形だったんですけど、三角形の端を区切ったさらに小さい三角形のところに部屋があって、そこにテーブルを置いたり、机を置いたりしていて。
そうすると夏は外よりも暑いし、冬は外よりも寒いし、壁と屋根の間に隙間があったりして、雪が吹き込んでくるんですよ。
後になって気付いて、そこ埋めればもうちょっと密封されるんだろうけど、そこにまで全然頭が回らずに、そういう部屋で寒い思いをして寝てました。
ちなみにご兄弟は?
一人っ子です。
現代美術は現代美術なんだけど、画家とかジャンルはどのような現代美術なの?
父親っていうのは、一緒に住んでたのは義理の父親というか母親のパートナーで、この人も現代美術をやってる人なんですよね。
それで二人ともインスタレーションに近いと思いますね。昔はもっと母親とかは鉄の人体みたいな、すごい大きい鉄の人体を溶接して作るみたいなやつを作ってたりもしたし、義理の父親は倉重さんって言うんですけど、母親は勝又で、義理の父親は倉重。
で、僕は離婚した父親の生を引き継いでるから松倉なんですよ。
3人とも身は違う。
面白かったのは、表札は3つ名前が並んでるんですよ。
ややこしいですね。
でもそれが生まれた時から当たり前なわけですから、自分たちはちょっと人違うぞって気づくし。
そうですね。でも最初の頃からちょっと違うんじゃないかなと思ってたと思いますね。
だから親の職業を理解したのはどれくらいなんですか?
これまたややこしくなるから、言うのどうしようかなと思ってたんですけど、神奈川県三浦市に引っ越してきたのは10歳ぐらいで、その前は松倉の父親と勝又が暮らしていたのは、僕も一緒に暮らしていたのは厚木、神奈川県の中央にある厚木で、そこはお寺に住んでたんです。
ややこしくなるかなと思ったけど。
なぜかというと、住職がいないお寺で、そこの掃除とかお手伝いをすると、家賃がタダになるんです。
貧しい生活をするのに、家賃のタダのお寺に住んでいて、お寺からちょっと離れた山奥のアトリエみたいなところに通ってたんですよね。
最初は一応屋根とか壁はあったんですか?
そうですね。
10歳から亡くなったとき?
途端になったんですね。
まあ、あったんですよ。屋根もあったんですけど、ただ台風とか来ると、気づくとベッドがビショビショになってて目が覚めるんですよ。
うわ、何だろうと思って見ると、屋根が飛んでて。
三浦半島は海近いですからね。台風が直撃したら屋根が飛んじゃったりとかして。
松倉さんとそんなに僕、歳変わんないじゃないですか。5、6歳しか変わんない。
そうですね。僕45です。
昭和の話ですよね。昭和初期の話かなと思ったけど、そんなことないですよね。
昭和末期の話ですよ。
要はバブルとかの時代の話ですよね。
2000、何年までアトリエに住んでたのかな。
2002年までは確実に住んでましたね。
平成ですね。
そうですよ。思えない話だ。
でも、親が現代アーティストだっていう認識はどこで来たんですか。
多分、すごい幼い時にアトリエにもよく行っていたし、こういうものを作っているのが職業だっていうのは、初期から多分、物心ついた時から認識してたと思いますね。
でも、もともとのお父さんもお母さんも、それから義理の師の方もみんな芸術家だったな。
サラブレットってサラブレットじゃないですか。
そうですね。
子供の頃からアートは好きで。
いやー、でもやっぱりまず反発はありましたよね。
物心ついて、やっぱり思春期になってからですかね。反発はすごかったと思いますね。
例えば、画体が良くなってくると鉄を使ったりとかしてるから手伝わされるんですよ。
手伝わさせられるんですよ。搬入とか。
家業なんだから、それこそ茶割りの話じゃないし、工芸の伝承じゃないですけど、家業なんだから手伝えって言われるわけですよね。
でもお母さんのお父さんお母さんはやってたんですか。お母さんが一代目だったんですか。
そうですね。
もう家業になってるんですね。
家の仕事なんだから、家事と同じように手伝えって言うわけですよ。
お風呂を洗うのと同じように重い鉄板を運ぶのがあるから、ギャラリーまで行くのにあなたもいい体してるんだし手伝いなさいって言われるんですけど、
僕としてはこれは本当に家の手伝いなのかって気持ちもあるんですよね。
あなたは私たちの稼ぎでこうやって生活してるんだし、稼いだ分ぐらい家の手伝いぐらいしなさいって言うんですけど、
でもちょっと冷静に考えてみろよと。作品を売って暮らしている現代美術のアーティストなんて日本だと本当に一握りなわけで、
あなたたちも学校の先生とか、学校の美術の先生とか、お絵かき教室をしたりしてお金を稼いでいると。
本業というかそっちの仕事もしつつ。
そこで生活費を稼いでやっている。
それが僕をそれで育ててくれるって言うならわかるけど、ギャラリーでやるとか展覧会でやるのを手伝わなきゃいけない論理がわかんないなと思って。
息子からすると趣味のお手伝いしてるような感じがある。
そういうのはありましたね。
言ったこともあるんですか?
そうですね。
なんて返されるんですか?
子供なんだから手伝いなさいみたいなね。そういう感じでしたね。
それは何歳くらいの人と?
それでもなんだかんだ言って大学とか、結構学生時代はずっとスポーツやってたんで、土日とかは結構部活行ったりしてたんで。
大学とかにもなってそういうのまだあったかもしれないですね。
でもその反発はあったってことは、美術の道に行こうなんて全く思わない。
そうですね。
やっぱりあとはずっと間近で見てきて、何が仕事なんだろうというか、職業とか何がプロなんだろうみたいなのをずっと多分考えていて。
今でこそ毎年のように海外で展覧会やったりとか、この間は美術館で個展やったりとか両親ともできるようになったんですけど、
もちろん僕は小さい頃からも精力的に活動はしていたけれども、作品を売ってとか作品を作ることで収入を得ていないんだったら、
じゃあ何が職業で何がプロフェッショナルだろうみたいなのはずっと多分疑問にあって、さっきおっしゃったみたいに作品を作ることが趣味なのか。
そんなこと言ったらすごい激怒するわけですよ。プロだというふうな自負もあるわけだし、そういうのはずっと考えていましたね。
それは息子からしてだからちょっとあれかもしれないけど、とはいえ作品はいいなと思ったりはしなかったんですか?
それも現代美術の作品を見て全く何だかわからなかったですね。
結局もちろん良し悪しってね、そもそも美術の価値観っていうか美術の作品の良し悪しってどういうふうにみんな評価してるのっていうのもありますよね。今でもそう思います。
それはじゃあそういうところで育ってもわかんないというか。
全然わからなかったし、例えば学校で教わる美術の授業もあるし、美術史的な流れみたいなことは中学生とか高校生になったらわかると思うんですよ。
例えば風景が、小学校の子供の頃もそうですけど風景が描いたりしますよね。これは風景を描く。できるだけ現実に近いものになるように描くみたいな。
それでも写真で撮ればいいのに何で撮らなきゃいけないんだろうなとか。あとはどんどん成長してきたら家にはいくらでも画集もあるし、みんなそれを見たりとかしてやったりとかしてるわけですよね。
そうすると興味を持って、こういうふうに昔は宮廷で誰かの肖像画みたいなのを描いてみたのがあったけれども、デュシャンみたいにそれを転倒するような。
今までの価値観をひっくり返すようなものを作るのがアートである。なんとなく意味はわかるんですけど、そういう論理的には。だけどこれが良いものか悪いものかって、これが価値があるものなのか、これが世界的に有名なもので、
図録とか辞典みたいなものに載っているものがすごい価値があって、今父親が作っているこれが価値がどこまであるものかなんか判断できないなと思っていて、それはずっと不思議、謎ではあったんですよね。
僕も別にわかるかわかんないかって言ったら、わからないと思うけど、なんとなく勝手にそういう芸術家の息子で育ってきたらわかるのかなって勝手に思い込んだら、そんなことはないんですね。そういう生活をしたところでみたいな。
むしろ疑問が生まれると思いました。
なんて言うんでしょうね。自分の性格なのかもしれないですけど、物事が、僕結局大学では哲学科に行って、そういう勉強もして、大学院も行ったんですけど、それって多分、これが何でなんだろうっていう疑問が多分昔からずっとあって、性格的に言うと思うんですけど。
だからやっぱり、この人たちが作っているこれは一体何なんだろう。
逆にわけわかんないものを見させられ続けたことによって、疑問というものが生まれる。
なるほど。
しかも周りの人たちは、親のアーティストたちの仲間とかは、知った顔で何かいろいろ言うわけじゃないですか。親も含めてね。この人たちは何を言ってるんだろうと、本当にわかっているのだろうか、僕は全くわからないなと思ってましたね。
そうやって問いかけというのが生まれて、哲学というのが生まれるんでしょうね。
そうかもしれないですね。
松倉さんの映画への関心
哲学科に入った時は、どういう道筋というか将来的な、どういう目標は目指したんですか。
高校ぐらいまではずっと部活というか、バスケットボールばっかりやっていて、ろくに学校の授業も出ないで、部活ばっかりやってたんですよ。
それで、大学も体育会系のバスケ部に行きたいと思っていて。
そういうチームがある東京の私立の大学に行きたいと思ってたんですよ。
ただ、途中で大学に行っても結局1年しないで辞めちゃったんですけど、バスケットボールは。
やっぱり当時から、大学に行く時から、映画の道には行きたいと。
それはもうあったんですね。
映画を作りたいというのは多分どこかであったんですよね。
なので、それのためにとか、スポーツをずっと続けていっても、
選手としての寿命は多分短いだろうし、一生の仕事としてどこまでできるんだろう、みたいな気持ちはあったんですよね。
なので、映画を作るためには、追求するためには、やっぱり哲学が必要だろうと思って、哲学の道に行ったんですね。
映画学校じゃなかったんですね、その時。
そうですね。
やっぱりまずは、一つはスポーツをやりたいというのもあっただろうし、
でも大学に行った時には、ずっとバスケットボールを辞めてからは、
大学に通いながら、ずっと映画界へのツテを探していました。
映画界に行きたいと思ったスタートのきっかけは何だったんですか?
映画に興味を持ったきっかけは。
それがやっぱり子供の頃から映画が好きだったし、
例えば母親に連れられて、覚えてるのは今でも、一回中断しちゃったんですけど、
今でもまた続いている野外上映会っていうのが、原村、長野かな、の村で上映会があって。
夜に、夏の夜ですけど、野外劇場みたいなところで毎日1週間くらいかな、上映するのがあるんですよ。
1回閉まっちゃったんだけど、今でも続いていて。
僕らは夏になると、そこの近くのアトリエに泊り掛けで作品を作ったりとかしてるのに行って、
僕らもそこに泊まっていて。
僕らが泊まる場所は、昔のバスを改造して、使えなくなったバスを改造して。
なんでそんなとこばっかりあるの?
楽しくて楽しくて。
こんなバスに泊まったことないじゃないですか。
そこに寝床を作れるようになって、ゲストハウスみたいになってるんですよね。
そこに泊まって、夜は原村の映画を見るっていうのがある。
真夏なのに、高度が高いから、夜寒いんですよ。
母親と一緒に毛布にくるまって、一番最初にそこで見たのが、
スター・ウォーズの2番目エピソード5
スター・ウォーズの2番目エピソード5。
まだ小さかったし、小学校行ってるのかな?行ってないのかな?ぐらいで。
そもそもスター・ウォーズの内容なんてわからなそうなのに、
星空の中に宇宙船が実際にビューって飛んでくるじゃないですか。
それに痛く感動したのを覚えてますね。
そこからは結構映画見に行ける時って?
そうですね。テレビも好きだったし、映画も好きだったけど、
そんなに今、同年代で映画監督やってるような人たちみたいに、
夜な夜な学校をサボって映画館に行くとか、
若彼氏頃の救いは映画館だった、みたいな人っていっぱいいると思うんですけど、
そういう感じじゃなくて、やっぱり好きだったけど、
それは多分親の影響だと思うんですけど、
まずは学生映画とか自主映画みたいなことじゃなくて、
仕事として映画をやりたいっていうふうに思ってましたね。
大学に入った時には。
この番組で何度か出てて、僕が大学時代に、この番組のプロデューサーも映像サークルだったから、
自主映画とまでは言わないけど、ビデオ制作したんですけど、
そういうのは増田さん別にされてなかったんですか?
そうですね。むしろ興味がなかったのもそうだし、
それも嫌悪感みたいなものを自主映画とか学生映画に持っていて。
やるならもうプロとしてのっていうことなんですね。
趣味でやってる親を見てきたようなことをしてたからか。
その趣味的なものに疑問を持っていたし、
まずはやっぱりプロフェッショナルとしてお金を稼ぐっていうのが重要だと多分思ったんだと思うんですよね。
大学院での思い
なので一番最初に紹介してもらって、
それは見習いみたいな感じですけど、
大学行ってる間に映画の現場の制作部みたいなことで仕事を始めて、
それは無休でしたけどね。
それは何の映画だった?
それはですね。
ワイルドフラワーズっていう女子プロレスの話で。
それはドキュメンタリーじゃなくて?
そうですね。フィクションの映画ですね。
そこで僕はちょっと遅れてそれこそ合流したけど、
1ヶ月ぐらいはずっと制作部として朝から晩まで働いていて。
いやーこれ結構きつかったですね。
ブラックというか。
そうですね。
どういうきつさなんですか?
まず寝れないですからね、あんまりね。
制作部っていう仕事は一番最初に現場に行って、
一番最後に現場から出るみたいな。
それからその移動の手配とか、
撮影してる人たちの環境を良くするみたいな。
お弁当から移動の車の手配とか、
そういうのの手伝いをやっていたんで、
やっぱりなかなか寝れないし、
学生だとはいえ、やっぱり礼儀にはもちろん厳しいし、
そんなバイトぐらいしかやったことなかったら、
ケチョンケチョン凍られたりするわけですよ。
そういうのはやっぱ大変でしたね。
大変だったなと思ったけど、やめたいにはなんなかったんですか?
で、一番最初は大学生の時代に
ワイルドフラワーズっていう映画で
見習いみたいなことをやったんですけど、
ここでこのまま大学卒業して、
すぐ映画の仕事に入ると、撮影現場の仕事に入ると、
大変だなと思って。
一回経験しちゃったからね。
そう、これ大変だなって。
だけど映画の仕事はやりたいし、
かといって自主映画っていうわけにはいかないから、
自主映画とかじゃなくて撮影現場になると、
やっぱこのしんどい思いをずっとするのか、
それにはやっぱり覚悟と、
やっぱもうちょっと色々考える時間が必要だなと思って、
大学院にも行ったんですよ。
なるほど、なるほど。
モラトリアムじゃないですけど、
もう少し考える時間を、
哲学を追求して、
もう少し作品作りのために
考える時間が必要だなと思って、
大学院に行って、
2年大学院に行き、
2年でだいたい終始論文を出すんですけど、
その2年では終始論文が出せずに、
もう1年行って、
終始論文を出さないといけないっていう状態になったんですよね。
そうすると、学費のこともありますけど、
その時は20代後半になってしまうから、
冷静に考えると、
昔見たテレビ番組で、
99は20代後半でめちゃイケかな?とかで、
カンムリ番組も全然持ってますね。
大活躍してるなと思って、
ふと我に返って、
あの時思っていた20代後半では全然ないと思う。
本当にやりたい映画の現場にいるわけでもなくて、
しかも専門学校卒で映画の現場に入った人たちは、
18、19とかで活躍して頑張ってるわけじゃないですか。
それを考えると、
これは自分このままもう1年いて、
終始論文をやって、
それから映画の現場に行って大丈夫なのかと思って、
これはもうここで踏ん切りつけるしかないと思って、
大学院を辞めて、
2年行ったのですか?
2年も出さずに大学院を辞めて、
そのまま、
前に見習いをやった時の製作部の上の人に電話をして、
やっぱり僕は映画の現場の仕事をやりたいんですって言って、
呼んでもらえませんか?
ちょうど今空いてるよ。
へー。
だったら今から来なよって言って、
来週から大阪に来てくれるって言われて、
へー。
大阪に行ったんですよ。
そしたら大阪で3ヶ月間、
ずっと働くファミリアで。
でもその2年くらい空けて、
あのきついの嫌だったなと思ってたわけじゃないですか。
その大阪はきつかったんですか?
もっときつかったですね。
いやー。
覚悟決めていったから。
なかなか体制もね、
製作部っていう部署の体制も大変だったし、
慣れないこともいっぱいあったんで、
学生からは一応学校辞めたばっかりで、
キャリアはそんな変わらないですけど、
もう学校も辞めてきましたって言ったら、
責任感というか、
負わされる責任も全然違うんですよね。
周りの見た目も。
やっぱ大変でしたねー。
その大変だなーと、
出来上がった時の感動、
出来上がった時の感動を勝つから続けられるんですか?
どうやってそのモチベーション保つんですか?
最初の頃はでも、
そんなに気持ちいいもんじゃなかったと思いますね。
そういう辛いばっかりだったと思いますね。
どこでなんかいけるかも?
続けていけるかもって思ったんですか?
ただやっぱ僕の中では、
もう他に選択肢はないと思ってましたね。
辞めるっていう選択肢はない。
こんだけ嫌な思いしても、
きつい思いしても、
辞めるっていう選択肢はないなーと思ってましたね。
でも制作部の時っていうのは、
自分はこの映画好きだから、
この映画やりたいって選べるもんでもないわけですよ。
そうですね。
自分があんまり好きじゃないってことはないかもしれないけど、
気の乗らない映画だなと思ってもやらなきゃいけない。
映画に呼んでもらえるっていうだけで、
すべてOKっていう感じでした。
無条件に。
映画じゃないものもあるわけですよね。
例えばホラーDVDとか言っていたら、
そういうのもあって、
そういうのに呼ばれたりすることもあるし、
最初仕事がない時は、
CMの会社の手伝いみたいなこともやったりしたこともあって、
なんで好きな映画の現場に呼んでもらえるっていうだけで、
きついけど、
無条件でいきましたね、最初の頃はね。
前半にも言って、
番組初映画監督ゲストなんで、
映画ジャンル初だから聞きたいことだらけなんですけど、
例えばお笑いだったら、
きついなって現場があっても、
面白いことさえやれば、
いつか目が出るというか、
呼んでもらえるとか、
例えば絵画にしても、
意味沿わない仕事をやっても、
絵が上手かったら、
次のステップ行けるとか、
この制作部のきつい仕事をしてて、
何を頑張ったら、
次のステップ行ける?
それはあれですね、
制作部でも演出部でも、
それぞれ撮影部でもそうですけど、
割と縦割りというか、
都定制度じゃないですけど、
上の人が下の人を引っ張ってくるみたいな、
弟子じゃないですけど、
どんどん上の人が引っ張ってくる、
みたいな感じなんですよね。
ある程度仕事ができれば、
そもそも今でもそうですけど、
今はもっと深刻ですけど、
人不足だから、
ちょっと頑張って仕事ができれば、
すぐ呼ばれるんです。
だけど本当の最初の頃は、
自分ではできると思ってるけど、
生意気だったからなのか、
そんなに言われずに、
なおかつ監督をやりたいから、
監督をやるためには、
助手の中では、
制作部よりももちろん演出部、
助監督の仕事なんですよね。
助監督に行きたいっていうのも、
なかなか言い出せなくて、
なかなか助監督に呼ばれるまで、
演出部になるまでも、
少し1年か、もうちょっとだったかな。
制作部の上は、
プロデューサーとかじゃなくて、
でも仕事じゃ監督だから、
展望したいという。
そうですね、展望したかったですね。
言うしかないというか、
いつか監督になりたいんですよ、
話はしてるんですか?
それをなかなか自分から主張したり、
言い出せなくて、
なかなか知ってもらえずに、
終わって打ち上げの時とかに、
その時の助監督の人たちとかに、
実は僕こういう風にやりたいんですって言ったら、
いや遅いよねって。
もっと早めに
それ言っていたら、
次の作品呼ぶとか、
なんか考えられたのに、
言うのが遅いんだよねみたいな。
ただね、僕としても、
一応プロフェッショナルとして、
一番最初の現場とかは、
月に5万円ぐらいしかもらえなかったです。
月にですか?
そうですね。
今だからいいですけどね。
飲食獣さえ
満たされていれば、
大丈夫だろう?
月に5万ぐらいしかもらえなくて。
大変な世界ですね。
今はもうだいぶね、
そんなのないでしょうけど、
同時代の頃に、
仕事始めたような人たちは、
みんなそんな状態でしたよね。
演出部に行くために、
画家で言うとこのコートポリオ的なじゃないけど、
自分こんなことできます?
みたいな映像を見せたりとか、
とかはあったりするもんね、この業界。
今ではもちろん多分、
みんないろんなものを、
もっと当時より簡単に撮れるようになったから、
やったりするんでしょうけど、
当時はそういうのなかなか
できずに、
僕があまり自分のことを
表現するのが上手くなかったのかもしれないですけど、
女監督の人も、
映画の現場でも、
まず監督になりたいんだったら、
まずは脚本を書けって、
先輩とかっていうのはずっと言われてましたね。
まずは脚本を書いて、
それを認めてもらう。
そういうのが一番近道だっていうのは言ってました。
それで脚本を書き始めたんですか?
あんまり書いてなかったですね。
どうやって女監督の道に行けるんですか?
その1年後に。
それで女監督、
一番最初にやったのは、
一番最初に仕事を、
制作の仕事を
制作部の人を紹介してくれたのは、
僕の高校の
バスケットボール部の先輩。
ずいぶん上の先輩ですけど、
10以上先輩なんですけど。
OBの方?
そうですね。
熱心に僕バスケットボールやってたから、
そのOB会との繋がりもあって、
僕が大学時代に
映画の仕事をやりたいんだと、
映画の道を探してるんだって言ったら、
同級生で映画監督がいるよって言って、
その人に紹介したんです。
その人に紹介してもらって、
映画の現場に
女監督の役割について
見習いとして入ったんですよね。
その人がインディペンデントのことを、
よくインディペンデントの映画を
撮ってる監督なんですけど、
ヤギ監督って言って。
その人が監督するときに、
女監督やるかって言って、
呼んでもらったのが一番最初で。
女監督って言葉は聞くんですけど、
具体的にどういう仕事をする?
女監督。
一概には言えないんですけど、
大きく役割みたいのがあって、
まずはポジションがあるんですよね。
サード、セカンド、チーフ。
大きく分けると。
女と言ってもその中にも段階がある。
そうですね。
いわゆる日本の映画だと、
女監督っていう風なネーミングが付けるのは、
このチーフ女監督だけで。
混在してるんですけど、
セカンド、サードっていうのは、
正式名称は演出助手だったりとか、
正式な女監督っていう風に
クレジットされるのは、
このチーフだけだったりするんですよ。
大体みんな、
俳優部に近い、
お芝居の周りのことをやる。
演出部はよく言うのは、
俳優の芝居を手助けするみたいな。
そういうのが役割だと言われていて。
演出部はこういう風に演じるんだよ、みたいな感じですか?
そうですね。
サードは主に小道具。
俳優が使う小道具の周りのことを演出、
手伝うというか、担当して。
セカンドは俳優が着る衣装だったりとか、
それからお芝居だったりとか。
例えば専門的なことがあるとしたら、
主人公なり登場人物が窓掃除の仕事をしています。
窓掃除の会社に行って下調べをして、
場合によっては窓掃除の練習を俳優にさせるとか。
このキャラクターだったらどういうものを着てたらいいかとか、
そういうものを衣装部と一緒に考えたりとかする。
サードも小道具とか食べ物とか、
こういう飲み会だったらどういう食べ物がいいかというのを
美術部と一緒に考えるとか。
この人はキャラクターから言って、
ビールがいいのか、最初から焼酎がいいのか。
そういう細かいところの考え方。
チーフはそういうのを踏まえた上で、
なぜかスケジュールをやるんですよね。
全体のスケジュールを担当する。
これは多分にカメラマンとか監督の演出プランと
撮るスケジュールが密接に関わっているからということもあると思うんですけど、
普通だったらプロデューサーとか役職の人が
お金回りをやっている人がスケジュールをやりそうなところですけど、
やっぱりどういう撮り順で何をここで撮るか
みたいなのが多分に演出的なんでしょうね。
だからスケジュールを担当するみたいな割り振りになっているんです。
これはでもランク的にはやっぱりちゃんと
3rdから2ndからチーフになるって感じなんですか?
伝統的にはそういう段階を踏んで上がっていくみたいな。
ただ僕らがやり始めた時には
そういう撮影所のシステムみたいなのはずっと前に崩壊していて、
監督になるのも武志さんじゃないですけど、
異業種の人がなるとか、
自主映画でピアフィルムフェスティバルで入賞した人が
なるみたいなのもだいぶ勢力が大きかったんで、
女監督とか現場上がりっていうのが必ずしも監督になれるわけじゃないっていうのは
みんな多分思ってたんですよね。
松倉大夏の最初の女監督作品
その一番最初の女監督作品は何という作品だったんですか?
渡辺真樹子さんって女優さんが主演してるやつで、
大木さんっていう俳優さんが企画と脚本をやって、
その名優である八木監督が監督をするみたいな作品で、
本当のドインディーズ映画なんですけど、
ただスタッフはもちろんプロだし、
俳優は明媒プレイヤーがいっぱい集まってきて、
今でも初めて女監督やった映画だからっていうのもあるんですけど、
すごい好きな映画だし、
今でももちろん八木監督もそうだし、
主演やって企画やった大木さんとの付き合いがあって、
すごい人生の中で思い出に残っている大事な映画なんですよね。
やっぱりそういう一番最初にやった映画とか、
そこでの記憶とか思い出みたいなのって、
やっぱり今にも通ずるんだなと思って。
それが大体何年くらい前ですか?
それが2008年かな。
でももう結構経ちますね、その時から。
10何年は経つってことですね。
それからはコンスタントに女監督の仕事は?
そうですね。
それこそ映画じゃないのも、
テレビドラマもやったりとか、
連続ドラマもやったりしたこともありますし、
あとは対策映画のセカンドみたいなのもやったことありますけど、
だんだんやっていくうちに、
チーフとかになったら、
自分のやりたい監督とか、
やりたい映画みたいなのにどんどん近づけて、
映画作家って言われるようなちょっと上の世代で、
自分で本も書いて、
自分のオリジナルの映画をやるような人たちと一緒に、
できるようになったし、
呼ばれるようになったんで、
それは自分のやりたいというか、
思い描く映画に近いところで仕事ができるようになったかなと。
松倉大夏の映画監督としての道のり
年間どれくらい映画に囲まれてるんですか?
上限はあると思いますけど。
だいたい僕がやってるような、
ずっとやってきたようなインディペンデントの映画だと、
撮影は1ヶ月以内で、
準備が2ヶ月みたいな。
3ヶ月のスパンをすぐにはできないから、
4本できたらすごいいいペースですけど、
その間に1ヶ月とか休みが入ったりとかするんで、
年間3本とかできたら、
チーフではいいかなみたいな感じでしたけどね。
それこそ前半でお話した茶番屋の話は、
それをやってる間に撮ってるって感じですか?
そうですね。
チーフ女監督とほぼ並行して、
ドキュメンタリーの仕事も始めて、
ドキュメンタリーは、
一番最初はおそらく、
ドキュメンタリーとドラマを合わせるような、
NHKの番組みたいなところの女監督として入ってたんですけど、
もともとドキュメンタリー映画が好きだっていうのもあって、
徐々にそういう仕事で、
ドキュメンタリー的な、
ドキュメンタリーの手法も含めてやるようになって、
いつからか半分はドキュメンタリーの仕事になり、
なかなか劇映画ばっかりやってても、
自分の作品って女子やってると、
それこそ台本を書いて、
それが認められてみたいにならないと、
撮れないんで、監督できないんで、
監督がやりたいっていうよりも、
自分の思い描く作品を撮ってみたいみたいな、
それがなかなかできないから、
ドキュメンタリーの方がどんどんウエイトが大きくなってきて、
気づいたら、
ある年はドキュメンタリーの仕事しかしてない、
みたいな時もあったんですよ。
それと並行して、
特劇映画の仕事をやる時もあったりしてましたね。
ある時、
テレビドキュメンタリーをずっとやっていると、
これまた気づくとこが多いです。
よくブレてるなとか言ったり来たりするなと思うんですけど、
テレビの、
みんながみんなそういうわけじゃないんですけど、
テレビのスタッフの中には、
レギュラー番組をやっていて、
ルーティン化しているようなスタッフも中にはいるんですよね。
そうすると、そういう人たちと付き合っていて、
そういうのが重なったりすると、
やっぱりちょっと物足りないというか、
どうなんだろうと思う瞬間があって、
やっぱり映画はその分きついから、
特に映画の現場はきついから、
本当にやりたいとかっていう人じゃないと、
残っていかないんですよね。
これは絶対いいことではないと思うんですけど、
変なところで奮いにかけられて、
それに耐えられるとか、
それよりも気持ちが好きという気持ちが混ざっている、
みたいな人しか残ってない。
そういう人たちとやっていると、
楽しいことは楽しいんですよね。
映画がみんな好きだし、
映画の話もできるし、
テレビみたいなことでやるよりも、
映画の方が面白いなと思って、
最近はあんまりテレビのドキュメンタリーの仕事を
全然やっていなくて、
女監督の仕事をやったりとか、
小さい規模だったらプロデューサーの仕事を
やったりとかしてたんですよ。
その時に、
リーさんからこういう話をもらって、
これは僕が監督するべき
ドキュメンタリー映画なんじゃないかなと思って
やらせてもらうことになったみたいな。
これでもいい?
途中からずっと気になってたんですけど、
映画監督の道進んだじゃないですか。
お母さんは何ておっしゃった?
一番最初は、
母親は、
それこそ中学生とか高校生、学生の頃は、
盛んに言ってたのは、
公務員になりなさいとか。
お母さんの方が言ってたの?
公務員になりなさいとか。
結構教育ママだったから、
勉強して、
大学に入って、
いい会社に入りなさいって言ってた。
どの口が言うんだよって思ってた。
思いますね。
どの口が言うんだよって思ってたけど。
今ね、
映画の仕事をやってきて、
分かるところはありますよね。
自分がやっているような仕事について、
苦労するっていうよりも、
子供にはもう少し楽な道じゃないけど、
まともな道に行ってほしいなっていう気持ちは、
僕も子供できて分かるし、
あと僕としては、
反発はもちろんありましたけど、
両親を見てて、
すごい楽しそうだなと思ってました。
小さい、それこそ小学生の頃から、
子供は早く寝なさいって寝させられるじゃないですか。
だけど寝たくなくて、
なぜなら飲み会をしている親たちが、
めちゃめちゃ楽しそうだったから、
家に集まってみんな酒盛りをしたりとか、
時には怒鳴り合いの喧嘩とか、
殴り合いの喧嘩とか始まっちゃうんだけど、酔っ払って。
でもその人たちはすごい楽しそうだなと思ってたから、
小学生の頃から早く大人になりたいと思ってましたね。
物を作るとか、
純粋に何かを追求しようとしている、
大人の姿に憧れというか、
そういうのはずっとありましたね。
今、映画と現代美術で全然ジャンルは違いますけど、
映画のクリエイターになってみて、
親の作品のメーカーが変わったりするもんですか?
これがまた、
ずるいなというか思うのは、
映画の仕事とか映像の仕事を始めて、
自分で撮ったりするようになるじゃないですか。
そうすると、
ちょっと私、
映像を作品に使いたいんだよね。
撮ってくれない?みたいな。
海と空を二分割した映像が欲しくて、
これ5分くらい回したやつを、
ここでプロジェクションしたいんだよね、鉄に。
撮ってくれない?みたいな。
そうすると、僕も年をとって、
子供もできたのか、
じゃあしょうがないなって、
素直に手伝ってあげるんですよ。
しかも、義理の父親は、
微妙な母親のパートナーであるから、
微妙な親子とはいえ距離感で、
衝突もあったりとか、
お互いの距離感があったんだけど、
映像の仕事を始めるようになって、
最近は彼も丸まったのか、
僕に70年代にやったパフォーマンスを再現したいから、
美術館でやるのに、
誰か撮ってくれないかなって言って、
1時間半くらいに及ぶ7つのパフォーマンスを撮って、
それを横須賀の美術館で流すっていうのを、
やってあげたんですよ。
いつの間に何回でしたっけ?
もう5年くらいになりますかね。
俺多分見てると思いますよ。
本当ですか?
この倉茂さん?
そうですね。倉茂光之さんの。
ですよね。展示やってましたよね。
はい。
それじゃまず倉さん。
そうです。僕が撮ってあげたんですよ。
映画監督の思い
なんかちょっと感慨深いですよね。
そういうふうに反発していて、
手伝うなと思っていたけれども、
今や向こうも歳をとって、
いい歳じゃないですか。
それを頼ってくれるってなると、
やっぱりちょっと手伝ってあげようかなって。
でもやっぱりそういうのもあった上で、
茶碗屋の話を見るとまたなんか味わい深いですね。
監督もそういう思いを15代、14代とリンクするというか。
やっぱりこの間ドキュメンタリーの監督が見てくれて話していて、
ドキュメンタリーってやっぱり被写体っていうか対象者ありきだから、
僕なんかテレビの番組ではやったことあるけど、
上映初めてじゃないですか。
そうするとスポークスマンじゃないですけど、
作品について語る機会っていっぱいあって、
今回みたいにもそうですし、
舞台挨拶とかでも語るんですけど、
どこまでまず被写体のことを、
陳さんたちのことを喋っていいのか。
それから自分は観察者のわけだから、
どこまで自分のことを喋って重ねていいのかとか、
すごい最初は戸惑ってたんですよね。
だけどやっぱりドキュメンタリーだからこそ、
フィクションとはまた、
フィクション以上にって言ったらいいんですかね。
撮り手側の、作り手側の気持ちとか目線みたいなのが
炙り出されるみたいな話をしていて、
でもそうかもなと思って、
これよく言いますけど、
さっき言ったみたいに、
自分の親子を見ている視点みたいなものが、
茶碗屋の話の親子を捉えるのに、
すごい表現されているというか、
現れていると思うし、
そういうふうにして、
ドキュメンタリー映画より作り手の思いとか、
表現みたいなものって、
出てくるのかなと思ったりして、
そういう話してましたね。
それはやっぱりフィクションよりも、
もしかしたらドキュメンタリーの方が、
作り手の思いが表現されるみたいな。
逆説的ですけどね。
っていうふうに言っていました。
これちょっと話がガラッと変わっちゃうかもしれないですけど、
今撮ってみたいなと思っているものはあるんですか?
今後とか。
それは、一つは、
これ公開した時の一番最初のトークゲストに、
コミヤさん。
コントアカシンゴのコミヤさんがトークゲストに来てくれて、
なんでコミヤさんをお呼びしたかというと、
ずっと僕がやりたい企画があって、
コミヤさんが一人芝居をずっとやってるんですね。
毎年のようにやっていて。
それは、線路は続くよどこまでもっていう題名の一人芝居で、
コミヤさんのお父さんが、
戦時中に朝鮮鉄道の駅員さんをやっていたんです。
戦後、命がガラガラ引き上げてきて、
国鉄の職員になって、
ただそのことを、当時のことをほとんど語らずに、
亡くなってしまったんですよね。
コミヤさんはそれを、
一人芝居に、舞台に締めようと思って、
いろいろ調べていくうちに、
ある駅長さんの手記の中に、
コミヤさんのお父さんの名前を見つけたんです。
これはすごいって言って、
その駅長さんの手記を元に、
チョン・ウィシンさんって、
劇作家の人に書いてもらって、
その一人舞台を作ったんですよね。
実際に引き上げてきた人たちの、
本当の実話を盛り込みながら、
一人芝居をやっていて、
僕はそれを見て、ものすごい感銘を受けて、
すごい良い舞台だし、
あとはドキュメンタリー的にも、
お父さんのルーツを探るというか、
お父さんのことを探して、
この舞台が出来上がったっていう、
ストーリーも含めて、
素晴らしいなと思って、
それを映像化したいって言ってたんですよ。
ずいぶん10年前くらいから。
なかなかテレビでは通らない企画だし、
お父さんが働いていた駅は、
北朝鮮の駅なんですよね。
そうするとなかなかそこにも行けないじゃないですか。
今38度線のところには、
1回線路が繋がっているから、
この先ぴょんやんだっていうような、
駅のサインがある駅もあったりするんですよね。
そこまで行って、
その先を望むみたいなことも出来るけどな、
とかって考えていて、
なかなか企画が成立しなくて、
ただ今回の茶碗屋の話をもらった時に、
これが僕が撮るべきというか、
撮った方がいい作品だなと思ったのも、
小宮さんの話もあるんですよね。
家族との共感
繋がるってことですね。
相通ずるもの、
お父さんへの思いとか、
朝鮮半島の問題とかも含めて、
それも運命的なものを感じて、
ずっとやりたいと思っていた小宮さんの作品が、
ずいぶん前にあって、
それがあった上で、
僕にそういうオファーというか、
話が来たのも運命的なものを感じたので、
茶碗屋の話、
これが僕が撮るべきだと思ったっていうのもあるんですよね。
なので、
小宮さんの企画は、
是非実現したいなと思って、
どういう形になるかわからないけど、
どこに行くってなると結構大変だけどな。
それはドキュメンタリーで?
そうですね。
僕は両方やってきたのもあるし、
ドキュメンタリーとフィクションの、
狭間にあるような作品が好きなんですよね。
例えば、今度異作やりますけど、
カルロス・サウラ監督ってスペインの監督だったりとか、
それはフラメンコのダンス劇みたいなものと、
実際にそこを踊るダンサーのドキュメンタリーが、
入り混じるというような作品だったりとか、
イランのキア・ロスタミ監督とかも、
そういう虚実の狭間を作るような作品っていっぱいあるし、
そういう作品をやっていきたいんで、
それこそ舞台芸術と、
小宮さんがやってるのは舞台芸術と、
ドキュメンタリーとフィクションと、
垣根を曖昧にして溶け込むような作品っていうのが、
できたらいいなというふうに思ってます。
それもチチトコの話だし、
茶葉屋の話もそうだし、
よくよく考えてみたら、
最初に見たスターウォーズもチチトコの話だから、
ずっとチチトコの話だなと思って、
途中から聞いてました。
確かに。
本当だ。
そうですね。
一歩繋がる感じですよね。
そうですね。
さっき言いましたっけ、
一番最初に15代に話を聞いた時に、
3年前に亡くなった14代の話を聞いて、
ちょうど同じ年に僕の父親も亡くなっているのもあって、
やっぱりそこに一番胸に響いたっていうのは、
やっぱりそこの共感っていうのもあると思うんですよね。
僕もだから父が3年前に亡くなっている。
だからそれも見てて、
僕もやっぱり父に対して、
九州の父だったので、
亡くなってみて初めて気づくみたいなこともあるので、
というのは映画を見ている時に思いましたしね、やっぱり。
なるほど。
もう1個いいですか?
いいですよ。
その母親がこの間映画見に来てくれたんですよ。
今回初めての劇場用の映画だから、
チラシを前に、
これ今度上映するんだよって言って、
母親のところにチラシを休みの時に持って行って、
実家に持って行って、
どう?って言って、これやるんだって言ったら、
わあすごい、大河も頑張ってるのねって言って、
すごい喜んでくれるのかなって思ったら、
パッとすぐチラシをテーブルに置いて、
奥から自分が前にやった、
ちょうど展覧会のグループ展のカタログができたばっかりで、
ダンボールいっぱいあるんですよ。
そこからカタログ持ってきて、
見て、私ね、私はこんなにうまく写真撮れてるのよ。
デザインもね、このカタログのデザインも私がやってるのよって。
すごい。
自分の話が?
そう!
びっくりしてうんざりして。
ああ、そうだった。こういう人たちと一緒に暮らしてたんだと思って。
すごいうんざりして。
いやあ、そうだよなあ、現代美術家、
芸術家ってこうだったよなあと思って。
いや多分ね、悪気はないんですよ。
たまたまその日にそのカタログが届いちゃったもんだから。
そっちが勝っちゃったんですね。
そうなんです。
偽タイが。
表現者が勝っちゃうんですね。
自分が。
息子を褒めタイよりも。
しかもね、
自慢をするっていうね。
自分がこんだけ頑張ったっていうね。
すごいっすよね。
いやあ、そうなんですよ。
だからこの間遠くに来てくれた松本さんっていうドキュメンタリー監督の人がいて、
その人ずっと草間弥生を追っているドキュメンタリーの人で、
草間弥生のやつを見たらもうちょっとその時げんなりしましたね。
作り手のクリエイター
ああ、こういう感じだったなあみたいに。
それで実家から帰ってきて、
うちの奥さんにもうちょっと同調してもらいたくてさ、
聞いてえの?せっかく持ってったのに、
カタログの話とか知らすんだよねって言ったら、
いやあ、あんたもお母さんそっくりだからねって言われて。
自覚ないけど同じようなこと言ってる。
あんたそっくりだから、そういうところがほんとそっくりって言われて、
ああ、自分ももしかしてそういうところあるのかと思って。
聞いちゃってるんですかね。
全く自覚なかったですね。
で、この上映が始まって一昨日から母親が見に来てくれて、
見たんですよ。
そしたらすごい評価してくれて、褒めてくれて、
いやあんたすごい良かったわよって。
これ評判いいでしょって。
すごい私ね、感動して涙が出ちゃったって言ってたから、
どこで泣いたのかなって。
僕ね、親子の話とかもあるし、一緒に苦労した家庭の話もあるから、
一番最後はお母さんの話とかになるじゃないですか。
15代のお母さんの話とかなって思ったら、話聞いてたら、
いやあのね、やっぱり苦労して、あんだけの苦労を乗り切って、
このものを作った、焼き物を作った15代。
彼にやっぱりね、素晴らしいと思って涙したんだよねって言って。
もうクリエイターたちそっちにシンパシーよ。
そうなんだなと思ってびっくりしましたね。
すごいお母様ですね。
やっぱりそこは、母親とか家庭人ってことよりも、
まずやっぱり作り手なんだなと思って。
家族の物語として見るよりも、クリエイターとしての共感が勝っちゃった。
そうですね。家族のことももちろん言ってるんですけど、
でもやっぱり一番涙したって言ってたのは、
どういう風な苦難を乗り越えて、この作品を作るか。
そして作っていくか、みたいな。
そういう作り手のクリエイターに感情を引入して泣いてたんですね。
でもお母さんのも一貫してますね、それは。
ブレてないんですね。
そうですね。
なんかちょっと、家族でしかわかんない褒め方してほしいですよね。
息子としては。
プレハブ小屋から始まってる、壮大なストーリーの。
そう思ってみてほしいですけどね。
そういうところがすごいなというか、尊敬できるなというところもあるんですよ。
やっぱり一緒に暮らしてきて、ずっと見てきて、
そういう貧しい時代をずっと続けてきて、
周りの同年代の人とかでは、もちろん体調を崩して亡くなる人もいるし、
夢破れてなのか分からないですけど田舎に戻ってしまうような友達とかもいるんですよ。
だけどこうやってもう70半ばぐらいですか、
ずっと続けていたら今美術館で古典もやったりすることもできるし、
続けていくっていうのはこんなに大変だけどすごいことなんだっていうのは間近で見てきて、
それは純粋に尊敬できるなと思って。
僕は映画を辞める選択肢がないなと思ってたのは、それもあると思うんですよね。
ずっと困難な生活を続けても金にならない現代美術を続けてきた親を見てるから、
怖いものがないというか。
周りの人は中国に行って撮影してきた時とか、
そこの泊まっている環境とかは劣悪だ劣悪だとかお湯が出ないとかって言ってブーブー言ってたけど、
僕は全然快適だなと思ってた。
あの時の比べたらなみたいな。
思ってたからそれはやっぱりすごいなと思って。
この映画を見ても家族に涙するんじゃなくて、
作り手のものを作る人の生き様に共感して涙するんだなと思って。
さすがだなと思いましたね。
すごい良い話でした。
もうちょっと時間が来てしまったということで、
せっかく改めて告知を。
このお母様も涙した映画の告知をよろしくお願いいたします。
映画『茶碗屋の話』の告知
ドキュメンタリー映画茶碗屋の話は、
神戸元町映画館で7月6日から、
それから愛知にある名古屋キネマのいで7月27日から、
横浜シネマリン8月17日から上映があります。
まだまだ全国順次公開予定ですので、
茶碗屋の話のホームページをご覧いただければと思います。
自主上映会のお申し込みを受け付けていますので、
もしあれば株式会社ツモモさんですので、
今度の問い合わせをお願いいたします。
ということで、そろそろ収録終わりますけども、
収録いかがだったでしょうか。
楽しかったです。
良かったです。
自分の話ばっかりしてる感じがしますけど。
いやいや、全然全然。
本当はトニーさんにも工芸と美術の違いとか、
実際をちょっと聞いてみたかったなと思いました。
前半そういうこと言われてスタートした後は、
割には聞かれなかったので、
確実にお母様の血引いてますね。
そうかもな。
と思いました。
ついついね。
いやいいですよ。
また新しく上映されるとかなって、
告知だよりはいつでも来ていただきたいなと思いますので、
またぜひいつでも遊びに来てください。
お会いしてお話をさせてもらいたいです。
パワフルなお母様もよかったら送り込んでいただければ、
番組で。
そうですね。
美術館の展覧会のタイミングとかね。
あればぜひぜひちょっとお話を伺って、
怖いものを見たさんもありますけども、
お話を伺ってみたいなというふうに思っております。
松川さんどうもありがとうございました。
ありがとうございました。
この番組は不定期配信です。
番組の告知と感想募集
各種ポッドキャストサービスでのフォロー、
報道をお願いいたします。
感想はハッシュタグ、そろそろ美術の話を今後聞きたい。
テーマやゲストは番組ウェブページまでお願いいたします。
01:02:32

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