はい、アートテラー・とにのそろそろ美術の話を。この番組は私、アートテラー・とにが、アートに関わる方をゲストにお迎えして、トークを送り広げるポッドキャスト番組です。
本日は茨城県近代美術館学芸員の永松左知)さんをゲストにトークをしていきたいと思います。
はい、ということでご出演ありがとうございます。 こちらこそありがとうございます。よろしくお願いします。
長松さんとの関係はちょっと変わっていると言いますか、この番組がきっかけですよね。 そうですね。
この番組をたくさん聞いていただいているということで、Xで多分DMいただいて、そこから交流が始まったという感じですよね。
ということでこの番組を、もうファンということでいいですか? 自分でもなんですけども。
ほぼほぼ毎回聞かせていただいてまして、多分始まった2020年ぐらいだと思います。
もう初回から聞いてます。
何で知っていただいたんですか、その時。
ちょうど2020年に育休から復帰して仕事を再開するっていう時に、家から職場まで、通勤来るまで1時間以上かかるんですけども、
何かその耳が、何か聞くのが欲しいなって。
その時にポッドキャストを色々探して、アート系の番組も探したときにちょうど引っ越して、
そっからずっと聞き始めてっていう感じで。
それまではアートペラトニーという存在を知ってたんですか、知らず。
すみません、そのポッドキャストで知りました。
ありがとうございます。嬉しい話ですね、それは。
いやでも本当に色んな業界の方とかゲストの方がゲストで出てて、
トニーさんの話の回し方もすごい上手ですし、色んなゲストの方も色んな話を聞けて、本当にもう勉強になりました。
その番組に今出てらっしゃる、長松さんが。
そう、本当、ありがとうございます。
ちなみにこの番組ファンということで掘り下げてあれなんですけど、
何か自分たちで自分を見てどうするんだと思うけど、何か印象残ってる回とかありますか。
そうですね、色々あるんですけど、野次さんのチェロを惹かれる回とかびっくりしたりとか、
そう、野次小一郎さんですね。
野次さんですね、この番組ではもうなんか、もう純レギュラーみたいな扱いになって、ご意見版の3人が1人みたいになってますから。
あとはなんかこう、千葉市議の広報の方のお話とかも面白かったですし、
自分に引き付けて言うと、アーティゾン美術館のアポリジナルの展覧会をされた学芸人さんの熱い思いが、
そうだよね、めちゃめちゃ聞きながら合図を打ちたくなるような回だったりとか、他にも面白い方いっぱいいらっしゃいます。
いや、その回に今回もなるように頑張りましょう。
はい、頑張ります。
いや、それ気づいてる。ということで、改めて茨城県近代美術館の中松さんってことですか。
茨城県近代美術館自体が初登場ですので、どんな美術館なのかをまず教えてもらっていいでしょうか。
はい、成り立ちはですね、茨城県立の美術館はそのものは1947年に存在自体はあったんですけれども、
いろいろな既存の建物に回りというか、潜るような形で続いてきて、コレクションも少しずつ集めていたところ、
1988年に新しく近代美術館として建物、そして機関が開館するっていうことになったので、もうすぐ40周年ぐらいになるんですけれども。
場所的には、水戸駅からは少し離れた。
そうですね、水戸駅の南側、水戸芸術館が北側ですけれども、東館は南側の千葉湖という湖のほとりにあります。
やっぱあれですか、春とかだと快楽園とかもあるじゃないですか、やっぱりそういう時はシーズンで人も多いなとかもあったりするんです。
ちょうど梅が有名な快楽園近いので、梅まつりの時期は観光客の方向けにいろいろ考えたりしています。
コレクションとしてはどういうものがって考えたらいいですか。
コレクションはですね、特に日本画がすごく力を入れて集めているんですけれども、
水戸出身の横山大官を筆頭に、赤倉天心のもとで日本画を革新させた4人の画家、横山大官も、
菱田俊司、下村勘、木村武三、その4人は重点的に集めています。
他にも、ちょっと変わりだね、河童の武専と言われる小川武専という日本画家だったりとか。
河童ばっか、河童ばっかってわけではないです。河童を多く描いた人ですね、武専さん。
そうですね。あとは同じく水戸出身の中村常という洋画家の作品も大事にしていて、常のアトリエが美術館の敷地内に復元されてたりします。
中村常のアトリエっていうと東京にもありますもんね。
そうですね。
けどそれとはまたもう1個。
そうなんです。ちょっとそこ複雑なんですけども、うちのアトリエにある武専は本物、本当の中村常、旧像のもので、新宿の方はレプリカだと思うんですけども、
でも場所としてはあちらが本当にあった場所、こちらは復元みたいな、そういう感じです。
中のものはコレクションとして持ってるってことになるんですね。
そうですね。
常にいろいろ影響を与えたフランスの美術のモネード・カルノワールとかそういう印象派の作品、油彩画とかもありますし、
あとは館内のホールにロダンの大きい著作があったり、そういう感じです。
全部でコレクションは約4000点と。
そうですね。
立派なコレクションですね、そう考えると。
ありがとうございます。
展覧会としても多いのはやっぱり日本画が多いというわけでもない。
というわけでもないですね。バランスよく日本画洋画、海外のものも、夏休みだと子ども向けの企画をやったりとか、
ちょっと現代美術、今回の中西夏の展覧は少し変わり種ではありますけれども、そういうものもやります。
あとちなみに建築が吉村純三さんの設計という。
そうですね。建築ファンの方も結構見学にいらっしゃいます。
なんか建築ツアーって昔やってたの、建築家の方と。
建築家の方が好きな建築家が吉村純三ってあるんですかね。
いい建築を作る人みたいな。
多分あれとあれですね、皇居の新宮殿かなんかも作った方ですよね。
だからなんか、茨城県近代美術館に行くと、なんかちょっと高貴な感じがしますよね。
なんかそのロビーがちょっと広くて、なんかちょっと高級ホテルのような感じのただ住まいだなっていう印象はあります。
本当に手前味噌ですけど素敵な建築だなと思って。
新しい感じもあるし、そのモダニズムのネトロな古き良きっていう感じもあるし、すごく素敵な。
そうですよね。だからもう少し駅から近かったらサラッといれるんですけど。
そうなんですよね。微妙な距離なんですよね。
歩くには遠いし、バスだったらみたいな。
そうですね。
まあまあそれこそありつつもみたいなことですが。
一番有名なのは、たぶん1960年代の前半に活動してたハイレットセンターっていうグループの一人として、
わりと日本だけじゃなく海外でも知られてるんですが、
順を追って言いますと、1935年生まれの方のですね、
東京芸術大学の油絵家を卒業しているんですけれども、
その1960年代、つまり中西さんが20代から30代ぐらいの頃に、
そういった高松二郎さんと赤瀬川玄平さんと結成したハイレットセンターという。
これは高松の高が英語にするとハイだし、
赤瀬川の赤がレッドで、中西の赤がセンターだからハイレットセンターってことですよね、3人組。
実はその3人だけではなくて、もっといろいろ人が出入りしてるんですけども、
グループでいろいろゲリラ的なパフォーマンスをするっていうようなことを繰り広げて、
わりと社会に波紋を巻き起こすというか、注目されるきっかけになったのがそれだったんです。
だから僕が知ってるので言うと首都圏清掃運動みたいな、
銀座の街の中で白い防護服みたいなの着て、
徹底的に路上を掃除するみたいな、
写真でしか見てないですよ、そういうのがあったよみたいな感じなんですけど、
そういうのを見てると結構周りの人が引いてる感じがして、
今で言う迷惑系YouTuberみたいなことやってんのまだみたいな、どうなったのか、当時のノリとしては。
- 今おっしゃっていただいた首都圏清掃整理促進運動とか、
それより前に山手線の中でパフォーマンスするみたいなのもあるんですけど、
普通にそこで何が行われるか知らなかった人たちは、
例えば山手線の場合は驚いたと思うんですが、
掃除のイベントの時は逆に驚かないのが狙いというか、
- 驚かさないように溶け込むみたいなことですか。
- 公共性を装うみたいなのが多分彼らの狙いで、
なんで公共性かっていうと、その当時東京オリンピックを開催してて、
政府によって美化運動というか、みんな街をきれいにしなさいよっていう運動が促進されてたのを
ちょっと皮にくるような形で、彼らは過剰な掃除を一日中する。
でも白衣着て、掃除中みたいな看板を立ててやってて、
そこに来た、見回りに来た警察官にもご苦労様って言われるみたいな。
真面目にもともなことをやってるようなんだけど、実は違うっていうのが、
みんななんか、ん?って思いつつも、掃除だしなみたいな。
- これって目分けYouTuberって言っちゃったからあれですけど、
彼らは別に目分けYouTuberの意味でやってなかったかもしれないですけど、
YouTubeだったら、要するにその模様を動画に撮って、今は発信できるじゃないですか。
この当時ってそれをやってて、これを二次的に、
こんなことやりましたよーは、どうやって発表してたんですか、この人たちは。
- すごい良い流石です。
ちょっと話戻す。山本さんとかは、顔を白塗りにして、
例えば電車に乗って、不思議なオブジェを持って動いているって、
普通に見たら、みんなびっくりするような感じなんですけども、
それをパフォーマンスしてる彼らは、記録をするっていう意識があったので、
カメラマンさんとか、動画を回してる人もいたらしいんですよ。
それが今、我々が展覧会で記録映像を見れる、
元になっているすごく重要な資料なんですけども、
でもある人が書いてるのは、カメラマンとか撮影してる人がいることで、
周りの人からは、これは撮影なんじゃないみたいな、
そういうセット的な、ロケ的なイメージで、
捉えられちゃってたんじゃないのっていうことを書いてる人もいて、
本当に驚かせることになってるのか、それは。
そうかそうか、確かに確かに確かに。
当然当時はもう雑誌も当たり前にあるし、テレビもありますから、
そういう収録とか取材と思われちゃった可能性もある。
そうすると逆に人々も驚きっていう目的を果たしてたんか、
本当にっていうようなコメントもあったりするんですけど。
でもこれを彼らは芸術としてやってた時に、
ギャラリーであるとか美術館にそれを発表、
この当時からしてたんですか、この作品として。
発表っていう形で写真とかを出すっていうのも特にないです。
それこそ週刊誌とかに。
もうちょっと後の時代の美術事情とか、
こういう歴史的なパフォーマンスですよっていう形で紹介されるんですけども、
当時はそこでのイベントっていう感じです。
ちなみにこの3人、ハイレッドセンターとどういう、
誰かがリーダー的な人がいて、その人を考えて他の2人がやってたのか、
それとも3人で話し合って、これはどういう感じだったの、
中西さんはその立ち位置的にはどんな感じだったんですか。
それは赤瀬川さんとかの証言によると、
中西はやっぱり首謀者というか、
ハイレッドセンターは中西が動かしてたっていうようなことを、
いろんな人のいろんな見方があるとは思うんですけど、
そういう証言はありますね。
これをだから最初は、もともとでも油絵を学んでたのに、
絵じゃなくてこっちに行ったってことですか。
そうですね。
当時、中西さんももちろん戦後の美術の流れの中で、
セザンヌとかミロとかピカソとかそういうものの、
いろんな展覧会を見ていて、
今回の展覧会でも学生時代の作品とかを出してるんですけども、
いわゆる油絵を描いてたんですけど、
結局アメリカの現代美術とかもどんどん入ってくるときに、
もっと美術そのものを疑う、
芸術そのものを疑うような流れっていうのも日本にどんどん入ってくるわけですよね。
20世紀の受賞から始まるダダの流れとか、
いろんな生での既成の芸術ではない、
芸術活動をする人たちの活動が日本にも入ってきていて、
たぶん中西さんも芸大を卒業したけれども、
自分は何をやっていこうっていうのを考えたときに、
前衛的な絵画だったりオブジェだったりを発表しつつも、
それだけでは多分、既成の枠組みを超えられないっていうのがあって、
もっとそれをひっくり返していくような報道っていうのを考えたとは思うんですよね。
でもこのまんまこの人はこの道にずっと行ったわけではなくて、
途中でどこかでやっぱ違うんだってなっちゃったってことですか。
それとも一回やり切ったななんですか、このパフォーマンス。
そこを例えばパフォーマンスと絵画の間を、
絵画に戻ってくるんですけども、
接続していたとみるか、切断していたとみるかっていうのは、
いろんな人の意見が分かれるとこでもあるんですけど、
たぶんその時代の人って高松二郎さんにしても赤瀬川さんにしても、
他にもたくさんパフォーマンスしてた人っているんですけども、
みんなもみんなそれぞれの道を行って、
時代的にも、例えば60年代の終わりのほうって、
どんどん経済の成長してて、これから1970年に万博もあるぞみたいな、
で、その万博に向けたわりとスペクタクルなアートに行くような人もいれば、
誰とは言いませんけど、
もっとコンセプチュアルな高松さんとか、モノ派とか、
そういう絵画じゃなくて、ものの存在を見つめるような、
モノ派のグループに向かっていくような人もいればっていう中で、
中西さんは絵に立ち返っていくきっかけとされているのが、
舞踏っていう、
舞踏、踊りの意味の、
そうですね、舞う、踊るとかって、舞踏なんですけど、
舞踏っていうのあるんですか、一般的な知名度がどのぐらいあるのかわかんないですけど。
そのパフォーマンスとして踊る人がいる、いわゆる舞踏家の方の舞踏ってこと。
そうですね、創始したのは肘方達美という人だと言われるんですけども、
肘方達美さんとか大野和夫さんとか、
今で言うと田中美衣さんとか。
そうですね、そこからいろんな人たちが派生していって、田中美衣さんとか、
大落田館の丸赤地さんとか、三海塾とか、
いろんなグループや個人で活動する人が出てくるんですけど、
その大元、一番最初に舞踏っていうのを創始したと言われるのが肘方達美という方で、
その肘方達美と中西さんが出会って、すごくいろいろなことが起こるんですね。
年としてはどんな感じだったんですか。
年としては肘方さんがちょっと上です。
5、6歳上になりますかね。
だけども、肘方さんと中西さんっていうのは、そこも話し出すと長いんですけども、
肘方が舞踏家なので、舞台で踊ります。
舞台で踊るための舞台美術とか、あるいは宣伝美術、ポスターとか招待状とか、
そういう周りの美術とか舞台上の美術をやるときに、肘方達美っていう人は、
当時の前衛的な画家とか彫刻家をものすごく引き込んでいた人なんです。
中西さん以外にもいろんな方が関わってるんですけど、
中でも中西なつゆきと肘方達美っていうのは、すごく濃い関係というか、メイン。
特に60年代の舞台は中西さんがすごく仕事をしているっていうところで、
それは、ただ舞踏の美術を担当したっていうことだけではなくて、
中西さんの海外の志向を深める、そういう出会いだったらしいんです。
でも中西さんってハイレットセンター時代とかは、本人がパフォーマンスしてたわけじゃないですか。
自分が舞踏をやろうにはなんなかったんですか。
そうですね、そうはならなかったのと思うんですけど、
でもいろいろその身体的な感覚とかはきっと得るものがあったのかなと思うんですよね。
たぶんその、ハイレットセンター時代に、自分の体だけじゃなくて、結構中西さんってものを使う、洗濯バサミとか。
なんか見たので言うと、洗濯バサミを顔に大量につけて、芸人さんみたいなことやってる。
あれはなんなんです、洗濯バサミ。
洗濯バサミを使ってパフォーマンスに、おっしゃったように体につけるとか、
あとは東京都現代美術館にある、洗濯バサミは各般行動を主張する。
キャンバスに洗濯バサミがバーって、むらがるようにつけられて、
そういうものも発表したりしてるんですけど、
オブジェとか、自分の体そのものを変容させていく対象だった、
みたいなところがあると思うんですよね。
だから武道の美術においても、肘形達美さんはもちろんその肉体があるけれども、
その肉体と対峙するようにというか、
共演するような形で美術作品を中西さんが提示していくみたいな、
そういう捉え方をしてたんじゃないかと思ってる気がする。
じゃあそれでまた絵画のほうに戻っていくっていうのは、
ちなみにハイレットセンターは解散したんですか、じゃあ。
それがね、そこはなんか明言されてないんですよね。解散はしてない。
じゃあまだ続いてるかも、いまだに続いてるかもしれない。
そうですね、そこはハイレットセンターについてすごく掘り下げた、
展覧会とか学芸の方が今までの歴史にありまして、
そういう人たちが中西さんをはじめ、メンバーにすごく問いただすという。
どうなってんの。
で、そこでちょっとメンバーは口ごもるみたいな。
まだ解散はしてないんですよね。
そういう感じなんですか。
それはそっちもありつつたら、こっちはもう中西さんのソロ活動みたいなことなんとして、
今度は絵画をやっていくみたいな。
そうですね、ハイレットはなんていうか、ただのグループとはたぶん捉えてなくて、
中西さんの理由の言い方で言うと、一個の架空の人格みたいな。
ハイレットセンター氏みたいなのが活動していましたよね、みたいな。
だからそれと自分の活動はやっぱ別。
なるほど、なるほど。
そういうのもあります。
で、これじゃあ絵画というか、また平面に戻って、最初はどういう絵を描くようになるんですか。
武藤の美術の中で、まずポスターとか、今回の展覧会場でも紹介してるんですけども、
すごく得意な色使いの宣伝美術を手掛けるようになっていくんですね。
具体的にはピンクと緑っていう、なんか不思議な、補色関係。
それがだんだんオレンジと緑になっていくんですけど、
そういう色合いっていうのを武藤の美術の中で使うようになっていって、
それが60年代の半ば、後半から自分が描く絵画でも、
そういう色合いでまず描き始めるっていうところがあります。
その時は何か具体的なモチーフを描くんですか。
そうですね、具体的なモチーフも現れてきます。
それも今回紹介してるんですけども、
男の人が自分のシャツをこう開いてはだけるようなモチーフが真ん中にあって、
周りに景色が描いてあったり、筆の跡が雰囲気的に散らかってるような、
そういうモチーフだったりとか、
ただ何かを映すっていうようなものではちょっとないんですけども。
なんでそういうの描いたのかってのは分かってないんです。
本人は結構喋る、名言はしてるんですけども、
皆さん感じ取ってくださいのタイプなのかっていうと。
絵を直接解説するってことはあまり中にしたことはないんですけども、
すごく文章を書かれてる方なのでとか、
いろいろ結構対談とかお話ししてる記事も多いので、
それを追っていくと、だんだんこういうことかなっていうのを探るのが私の指導となったんですけども、
だからその体全面を描いてるっていうのは、
中西さんの一個の絵画論と関連付けられるのかなと思うんですけど、
すごく得意な考え方で、絵画と人はもともと一体だったっていう発想があるんですよ。
すごい話、聞いたことない理論が、絵画と人は一体だった、もともと一体だった。
人馬一体って言葉を使う、人と馬が別々なんだけど一緒なんだ、一同体に。
絵画と人はもともと一体なんだけど、
画家っていう存在は普通の人はできないけれども、
画家という存在は自分の体から絵を削ぎ落とすことができるんだ、
みたいなことを考えるんですね。
自分の人格から取れたものみたいなことなんですか、中西さんにとって絵画というのは。
最初はそういう剥離するっていうような言い方をしていて、
そうすると、体の前面を描いているような絵画とか、
それ以前にも画廊で発表しているのが、
自分の体を石膏に、人の体を石膏で飾ったような、
半立体半絵画みたいな文字があったりするんですけど、
そういうものもそういう思想を表しているのかな。
この考え方は、ずっとこの人は今後も続いていくんです。
その発想みたいな、結構核になる思想なんですか。
でもその、何て言うんでしょう、絵画について本当にいろいろユニークな発想をする方なんですけど、
それはもう本当一例で、他にもいろんなことを考えていくんです。
年代を追ってあるんですけども、
例えばもうちょっと後になると、絵画の形はどこから来たんだろうということを考えて、
縦に長い円筒を切り開いたものが絵画なんじゃないか。
縦にチョキチョキと切ると、開くと四角くなりますよね。
それが絵画の形なんじゃないかっていうことを考えて、
その円筒をイメージさせる、実際円筒のドローイングとかもあるんですけども、
それを絵に描いていくっていうのが、今回の展覧会に出てるエメラルドの大雑工作品なんですけど、
そういうものが表されてるとか、もうちょっと後になると、
ご覧になったと思うんですけど、キャンバスに弓がついてる。
ありましたね、本当に弓がついてる。
本物の弓。
竹で作った弓がついてるんですけど、
あれもただ面白いから弓をくっつけたのではなくて、その時の中西さんの思考が表れてる。
それはどういう思考になるんですか。
すごく説明するの難しいんですけども、
そのキャンバスに弓がつく作品っていうのは、1978年ぐらいに現れるんですけども、
その頃の中西さんの文章を読むと、
最初はさっき、絵と体が密着してて、ハクでした、みたいな話をしてた。
今度はすごく絵と自分の体を遠い距離を取るようになっていくんですね。
その中西の言葉でいうと、無限遠点って言うんですけど、
無限に遠い点。
遠いの遠いの遠ですね。
宇宙の遥かの、遥か彼方にある点を中心としたものすごい巨大な円があって、
その巨大な円の端っこが画面に触れてるんじゃないかっていう意識を持ち始めるんです。
円ってか、でかい球体というか。
球でもいいのかもしれないですけど。
の中の一部ってことですね。
その中でっかい円だか球だかの端っことちょきちょきと引くのが平面みたいなこと。
そうなんです。
そして絵画があるってこと。
そうなんです。
キャンバスって普通に四角いので、縦の線って普通に直線。
我々は直線だと疑ってないと思うんですけど、
それが本当は直線じゃなくて、でっかい曲線の一部なんじゃないかっていうのを考えた。
今おっしゃったような、その巨大な円だか球だかわからないですけれども、
それの接してる面が絵画なんだっていうことを考えた。
地球は平面の、その辺の地面は平面に見えてるけど、でっかい地球で考えたら球水平線じゃないよっていうことなんだ。
ニュアンスとしては。
そうですね。
ってことは、絵画が目の前にあって、鑑賞者がそこで見てると、
その無限円のでっかい円の中に鑑賞者とか画家はいる状態になるってことになりますよね。
内側にいるってことか。ってことですね、円の。
そこがちょっと難しいんですけど、画家は鑑賞者のことまでは書いてないんですけど、画家もその円のどこかに際にいるんだ。
つまりものすごい外周が大きいので、その画家と絵もものすごく離れてる。
例えばさっきの宇宙の例で言うと、太陽系の中にあったら地球と何かの、
水星とか別の星。
ものすごい距離があるわけじゃない。
そういう感じで画家と絵もものすごい距離があるから、その距離を表すために、よく写真とかで出てくるんですけど、
長い棒に筆とかハケをくくりつけて、すごく距離をとって今度は。
物理的に、本当に実際自分でも物理的に距離をとって。
とってはものすごく離れたいんだと思うんですけど、絵が描ける距離っていうのは、その棒で実現していく。
なんかその写真とか映像とかあったらそういうことなんです。
あえてなんであんな変な描き方してんだろうと思ったら、なるべく距離をとって描きたいからそうなってくるんだ。
だから最初は密着してたものが、今度はものすごいスケールで離れて、その絵と身体っていうのは距離があって絵が成立するものなんだと変わってくる部分があるんだと思うんですけど。
当時中西さんがそうやってその都度その都度発表してたんですか、文章で。
だから最初の隔離の時代もこう思うみたいなことを何かのとこで発表してて、
で今78年になったらこの無限遠点の話を描いてるってことで。
そうですね、割とその時代時代で発表してて、それが80年代ぐらいになってきて、
いろんな美術館で個展とかをするようになると講演会でそこをまとめてお話しされてたりはするんですけど、
文章は割と最初の頃からいろんなところに描いてる。
中西さんが最初に言った、いや俺も今頑張ってついていってるんですけど、その絵と人が一体だったっていう。
ここに当時だとして、もしDRタイムで生きてて、よくはわかんないけどなんか頑張って納得したとするじゃないですか、
くっついたら、そしたら急に今度無限遠で、いやもう全然、あなたが言うから信じて、
なんか絵と一緒だって言われてたのに、真逆のこと言い始めたよって、おいおいってツッコミ入んなかったんですよ、この当時。
だって言えることが180度変わってるというか。
でもなんかたぶん人体一体っていう思想が変化しちゃって全くなくなったわけではないんですよね。
そこをたぶん確認して、すごく身体的な直感というんですかね、結構よく出てくるエピソードに、
中西さんって1935年生まれなので終戦が10歳ぐらいになるんですけども、東京の方なんですが疎開してたんですね、北陸の方に。
で、東京に帰ってきたら自分の実家の野家野原、がれきだらけみたいな、そこで絵を描いてる画家を見たっていう。
遠目に見たら、画家はニーゼルに向かって何かこうボソボソやっている、
まるで動物の鶴が何かをつついているような形に何かをやっていって、
そこを近づいてみると、画家が絵を生み出しているっていうような、そういう小さい頃からの体験とかも踏まえて、
身体的な感覚で最初は多分、絵と人は一体なんじゃないかと捉えてると思うんですけど、
いろいろその武闘の世界とかを経ることで、だんだん自分の絵画家みたいな、スケールの大きさみたいなものを獲得していきつつ、
別に最初のものが消えたわけでは多分ないですよね。
最初の頃の初期の絵画って割と生々しいタッチとかモチーフがあって、
後の方になると割と抽象的な感じだと思うんですけど、その生々しさが消えるわけではないじゃないかなっていうのは私の見方なんですけど。
当時中西さんはどういうポジションで、例えば中西さんを慕って若手がくっついてくるタイプなのか、
あと評論家がこの人すごいよって押すタイプなのか、中西さんどういう、言い方すごい悪いですけど、よくわからないこと一人でやってるじゃないですか。
これは当時どう受け止められてたんですか。
中西 そうですよね。すごく美術史の中でも何々派とか、物派とか具体とかあるじゃないですか。
それにも位置づけづらいし、本当にピンで個人で活動してた方なので難しいんですけど、
ポジションに例えばその絵を、武藤の後絵を再開して発表してたのは南蛾廊っていう日本の現代美術の蛾廊の草分けみたいなところで発表してて、
その南蛾廊とか武藤もそうなんですけど、例えば滝口修造さんとか、その当時の前衛美術について描くいろいろな人が中西さんについての評論を書いてたりとか、
本当に批評家だと遠野さん、遠野由悠さんとか中原雄介さんとかそういう方々とも親しかったし、批評を書いている。
だから前衛的な美術というか、そういう現代美術の中ではすごく名前は知られてると思うけれども、一般的にはなかなかっていうところはあったかもしれないですけど。
ここのカリスマ的なポジションみたいな感じだった。
そうです。琉波に非常に位置づけづらいけれども、本当に一人でユニークな道を切り開いてるっていうようなところがあったのかなと思いますね。
なので、研究続けるといっても、その場で何かできるわけではない、職場でできるわけではないし、職場職場の仕事があるしっていうことがあったんですけど、ちょうど2011年に東日本大震災があって、その震災をテーマにっていうとあれなんですけども、
いろいろな日本で起こる震災をめぐるアートを集めたような企画っていうのを当時の館長がされたんですよ。それが2年後の2013年だったんですけども、その時に中西夏由紀さんにインスタレーション作品の制作っていうのをしていただいたんですよ。
そこでやっと茨城近備と中西夏由紀さんのつながりが生まれて、それはもう本当に東海の館長をはじめ、必然性があって、制作をしていただいたわけなんですけども、そこでも震災の津波で北茨城にあった六角堂っていう岡倉天神が作ったお堂があった。
それが流れちゃったみたいな要素がありましたね。 茨城 そう、流れちゃったんですよね。で、そのまま六角堂をモチーフにしたインスタレーションを中西さんは考案したんですけども、で、実際に現場に来て作ってくださったんですけど、ご本人はその3年後に亡くなられちゃったんですね。
で、ああもう嘘か、亡くなられたんだなと思っていたところ、ちょっと話が長いんですけど、なかなか今、美術館って作品を購入する予算とかって少なくなってきて難しいんですが、本当に奇跡的に中西さんの絵を収蔵することができた年度が訪れた、その4,5年後に。
それは六角堂の作品とはまた別で。 茨城 別に絵画作品なんですけど、でも私はもう今しかないと思って、茨城と中西さんのつながりっていうのもものすごく強いものがあるし、没後、2016年に没されてからちゃんとした開講展っていうのがまだなかったので、もう私が本当にやらせていただくしかないのではないかと思い込みました。
で、そこから展覧会の企画を立てていったっていう。 なるほどな。その時のちなみに茨城さんが購入したのはどういう絵画なんですか。
茨城 それは2011年に描かれたすれ違いS字型還元っていう抽象的な、本当に晩年の絵画になるんですけど、グレーの字に紫の色の点が有機的につっているような、そういうもので東日本大震災の数ヶ月後に描いたものだったんですが、
それを購入させていただくことができたので、それが東海の中西夏行き作品の第一号だったんですね。
なるほど。当然今回の展覧会にも出てたじゃないですかね。 この話が前後ちゃってあれだったんですけど、読みなり、読みがあった作品からは、ずっとそのでっかい、長い絵でずっと描き続く。
その中でも晩年までずっとそういう方をしてた。 茨城 そうはですね、細部まで全部それをでやってるかどうかっていうのは断言できないです。
基本的には長い絵のものを使って制作するっていうのが中西さんのスタイルで、油彩画はそうなんですけども、それ以外に水彩画を描いていたり、ドローイングでパステルや鉛筆や木材、
いろんなものを使ってドローイングを描いているので、それをもちろん手で描いてるんですけども、それを油彩を制作する時には長い絵で常に距離をとるっていうのは一つある描き方だった。
そこからなんかもう思想が変わったりはせず、結構ずっとそのまま、それともなんか新しい発想もやっぱり生まれてくるんですか。
うん。でもその、なんて言うんでしょう、基本にあるのはまずすごく遠い距離から、まるで絵に対して自分は遠隔操作をするかのように描くっていうスタンスなんですけど、
そうですね、今回の展覧会の構成でも第4章を区切りにしているのが、1995年の着陸と着水というインスタレーションの始まりなんですけど、それの第一号っていうのは神奈川県立近代美術館の鎌倉館、
今鶴川岡ミュージアムって名前変わっちゃいましたけどね。
鎌倉館でやった古典で初めて発表した着陸と着水っていうインスタレーションがあって、それが晩年まで絵画と並行して続いていくんですけど、
その着陸と着水で多分中西さんがまとめ上げたというか、自分が考えていることを形にしたのは、水平と垂直ってよく出てくるんですけど、中西さんがその、なんて言うでしょ、
絵のことだけではなくて、もう世界観に近いと思うんですけども、自分たちは安定した大地に立っているんじゃないっていう、我々は不安定な水面の上に着陸しているような場にいるんだっていう、
それは図録でも書かせていただいたんですけど、いろいろな意味があって、日本っていうその日本列島を足場にしているっていうことは、例えば地震がものすごく多いとか、
1995年って言うと阪神大震災に越し。
もうその不安定な場っていうのは、それより前から中西さんが考えていることではあるんですけど、地理的にもそういう要素がある国だし、文化的にも結構、中西さんって遡っていろいろな時代の文化を研究する方なんですけども、
日本文化っていうのはやっぱりいろいろこう、昔は中国の大陸が影響を受けてきたし、明治以降は西洋の影響を受けてきたしっていう、そういういろいろなものを受け取りながら受容しながらできている文化でもあって、そういう足場の二四角さみたいなものも意識して、
いろんな意味があると思うんですけども、その不安定な大地っていうのは。日本で絵を描くっていうことはどういうことかっていうのを突き詰めるときに、決して安定した陸地に立っているのではなくて、不安定な大地にいて、そこに画家っていうのは、想像上の水平な面をもう一枚、現実の地表の上に貼って、そこに立って絵を描いてるんだっていうような考えを。
でもやっぱり、一回言ったら肉体で、やっぱり画家がどこに立ってるかとか、肉体はすごく重要な人なんですね、そういう意味で言うと。
本当に、画家がどこに立ってるか、で、絵はどこにあるのかっていうことを、すごくいろんな文章で書いていて、絵に何を描くとか何を表現するっていうよりも、絵は一体どこにあるものなんだろうかっていう存在論的なことをずっと追求していく。
確かに、いろんな画家は、絵の中、キャンバスの世界、キャンバスの中に何を作るかっていうのは、いろんな画家がこれまで言ってきたけど、どこで描くかとか、どこに立って描いてるかって、重要なことでははずなんだけど、たぶん誰もそこを指摘してなかったですよね。
そこを確かにハッとさせられるというか。
本当に、だから、絵画っていうものがあるのはあるんだけれども、それが一体、動物学者が動物を研究するねって言うとあれですけど、絵の生態を研究していくというか、どこから生まれてきたんだろう、人はどんな形だったんだ、それはどこにあるんだろうっていうようなことを、本当にすごく真面目になんですけれども、いろいろ考えてユニークな絵画館っていうのが作られていく。
ちなみにこの着陸と着水のシリーズの一作目はどういうインスタレーションになるんですか。
鎌木に行かれたことあると思うんですけど、展示室の吹き抜けのガラスが外の外光が入るような、吹き抜けの展示空間があったじゃないですか。
そこに、それこそ舞台のようにステージを作って、その上に白い金属の砂なんですけれども、それを塩漏りようになりますか、グリッド状に並べていって、四隅に測りを、天秤ばかりを吊るっていうようなものなんですけど。
もう絵画じゃないですね、もうそこは。 もう完全にインスタレーションで、それを担当してた学芸員の方の設置の様子とかについて語ってて、ほんと田植え作業のように砂を置いて、その砂を持った後に今度は小さい金属の玉を置いてくるんですけども、それがインスタレーションの第一号。
そのシリーズは基本そういうものですか、それとも毎回違っていく。 そうですね、毎回違ってはいきます。第二号は今度は大きい砂膜を吊り下げるっていう、それは都言日で発表したんですけども、砂膜交線っていう、その砂膜を吊り下げるタイプのものだったり。
その膜には実は穴が開いていて、最初のインスタレーションでは丸の砂の山だった。その砂膜では丸い穴。 丸が今度結構重要になってくる。そこは彼はパフォーマンスはしないんですか、パフォーマンスもするんですか。
その時は都言日ではパフォーマンスはたぶんされてないと思うんですが、そのシリーズが続いていって、ちょうどその都言日の古典と前後して東京芸大の先生になる、教授になるんですけども、その体感点っていうのは退職される点なんかが2003年にあって、
2003年の時とかには公開のパフォーマンス、公開制作をして、砂を盛った膜の上で垂直に立ち上げたキャンバスのような膜の上に描画をする、繋がり棒で描くっていうのをいろんな人たちの前で見せてるっていう。
だから舞踏をやってたことで、やっぱりそこも繋がってるんですね、全体的にいろいろとっていう。
本当に細かくお話していくと、さっきのユミの作品とかインスタレーションも、もともとの舞踏の美術で中西さんが考案したものとリンクしていたりとか、それを引用する形で使われてたりとか、すごく関係はあるんだと思うんですけど。
それって学芸員さんがすると考察しがいがあるというか、どういう感じですか、研究対象として考えた時には。
そうですね、今まで本当に大先輩たちがいろんな個展でもすごく深く研究をされてきてるので、私なんかが言うのは本当あれなんですけど、でもとても面白いです。
いろんなジャンルでやっぱり舞踏のことも理解というかよく調べないとその繋がりがわからないし、ハイレットセンターの活動と舞踏も繋がってたりするし、
ハイレットと絵画も設定があるし、いろんなところを見ていくとすごく面白いので、本当に文章もよく書かれる方で、本の仕事、想定とか総話とかもものすごくたくさんやってる。
そういうドローイングを見ていくと、これとこれが繋がってくるの、いろんな発見があるので面白いです。
ちょっとぜひぜひまだこの後半でも少し聞きたいなとその話を思ってるんですけど、多分僕今日の収録望む前に思ってたんですけど、
多分今日は過去一難しい回になるなと思って、覚悟してきたんで。でもそれぐらいなんかやっぱり掘り下げがいのあるというか、人なんだなっていうのはすごくよくわかって、
ぜひぜひ後半でもたっぷり、実はもう時間が来てしまったので、この分は後半にまた続けていきたいと思うので、改めてちょっと展覧会の見どころ、
茨城県会場だけでの作品とかもあるとですね。 そうですね。巡回展なので、基本的には同じものが巡回するんですけれども、
少しずつ入れ替えなんかもあって、特にその先ほど言った六角堂をモチーフにしたインスタレーションというのは茨城だけの再生作。
これも見れるということですね。改めて展覧会の告知ということで、タイトルと日付をよろしくお願いいたします。
茨城夏雪 緩やかに見つめるためにいつまでもたたずむ装置。こちら茨城県近代美術館での会期が今年の11月12日から2027年の1月17日までになります。
そして現在は生存現代美術館で開催中ですね。こちらが11月3日までということでございます。ということで、後半もこの後もぜひよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
次回も永松さんとのトークを続けていきたいと思います。