はい、アートテラー・とにのそろそろ美術の話を。この番組は、私アートテラー・とにがアートに関わる方をゲストにお迎えして、トークを繰り広げるポッドキャスト番組です。
本日は、アクセサリーミュージアムの田中元子館長をゲストにトークをしていきたいと思います。
はい、ということでご出席いただきましてありがとうございます。
よろしくお願いします。
こちらこそよろしくお願いします。
もう館長とはもう長いですもんね。
そうですね。うちオープン以来から来ていただいて、とても力づけられまして。
後々ね、ゆっくりこのミュージアムがどういうミュージアムかって話をしていただくとして、
去年ちょうど15周年を迎えられて、15周年パーティーがあって、お招きいただきまして、
せっかくなんでとにかく一言お願いしますみたいな感じだったので、
すごく気軽に、あ、いいっすよ、いいっすよ、ぐらいの気持ちで言ったら、
アクセサリー業界の重鎮の方がいっぱいいるようなパーティーで、
なんで僕が赤穂が急にアツアツしてて、変な空気になったけど。
いやいやいや。
僕で良かったのかなって未だに反省してますけど。
全然いい、とてもありがとうございました。
いやいや、本当に。
いろいろな人がミュージアムの作るのに助けていただいたので、
感謝の気持ちで15周年開かせていただきました。
大変お世話になります。
それでもいつか館長には出ていただきたいなと思ってまして、
ちょっと今日は満を持してゲストに出演ということで。
よろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。
改めて田中本子館長でございますが、
アクセサリーミュージアム、どんなミュージアムなんでしょう?
アクセサリーミュージアムとは言ってますが、
ファッションを表すミュージアムで、メインがコスチュームジュエリーです。
コスチュームジュエリー。
これは初めて聞く人もいると思うんですけど、
コスチュームジュエリーというのは普通のジュエリーとは違うんですか?
そうですね。
普通のジュエリーというのは、ダイヤモンド、ゴールド、プラチナ、ルビー、エメラルド、
そんなものを使ったのがジュエリーですね。
有名ブランドもありますけど。
コスチュームジュエリーというのは、材質にとろわれない。
それから時代のファッションについていく。
ですから羽でもいいし、プラスティックでも鉄でもガラスでも、
なんでもあり。
そのトレンドに寄っていけば、形も自由です。
つける場所も自由です。
コスチュームジュエリーって、なかなか聞き慣れない。
男子だからかもしれないですけど、
この言葉自体は結構昔からあったんですか?
昔からあったようですけど、
日本で復旧してきたのは、
そうですね、1980年ぐらいからですかね。
コスチュームジュエリーのミュージアムっていうのは、
僕が知る限りここだけなんですけど、
世界的に見ても珍しいものなんですか?
世界でもコスチュームジュエリーの展示を、
期間区切ってすることはあるんですけれども、
世界でも珍しいのと、
それから時代、1800年代からずっと現代まで、
その時代を区切って展示してますよね。
それもないです。
ですから外国の方いらっしゃると、
すごく感激して喜ぶんです。
海外にもないからってことですね、こう読む。
そうです。
この美術館のちなみに、
コレクション数としては何点って考えたらいいですか?
5万点ぐらいは前持ってたんですけど、
それは服もコスチュームジュエリーもバッグも、
いろんなものを集めて持ってたんですけど、
今はもっと増えて、8万点ぐらいになってるかな。
これがあれですけど、全部館長のコレクションのことですよね。
そうですね。
でもね、寄付していただいたものがいろいろあって、
古いものでいらないお洋服があったらくださいってたまたま言うと、
ハンドバッグも一緒にあげるよとか、
それから友達のファッション系の方が、
私もういらないからって言って、
かかとの高い靴とか、そういうものを寄付してください。
それでどんどん増えてしまうのが大変なんですよ。
でも、もともとは館長のコレクションからミュージアム。
このミュージアムはどうやって作ることになったんですか?
きっかけ的に言うと。
きっかけ的には、私65年ぐらいコスチュームジュエリーを作り続けて、
最初は本業ってことですね。
そして始め10人ぐらいから100人ぐらいまでの、
要するに会社に主人と育てあげたんです。
そしてもうちょっと自分はやり切ったかなって思って。
仕事としては。
仕事としては。
だったら次に言って、
こういう時代、私が生きてきた時代を見てもらいたい。
そう思って、主人に作ろうって言ったんです。
ミュージアム。
ミュージアム。
その時は手元に何でそんなにたくさんあったんですか?
それはね、私ヨーロッパとかいろんなところでサンプルを集めて買って、
会社で持ってたんです。
そしたら、私がそのサンプルをかき回してたら、
通りかかった営業の人が、
またジョーム、そんな汚いものかき回してって言ったんですよ。
くせたりした。
いろんな古いものだから、汚いな。汚く彼には見えない。
それで彼にはそういうふうに、
じゃあもし私が死んでしまったら、
このたくさん集めたサンプルは捨てられちゃうなと思ったんです。
だもんで、社長の主人に、私買いたいんですって言ったの。
訳を話して。
そしたら、お前いくらするって言うから、
結構高い金額言ったんですよ、価値あると思って。
少し負けてもらうつもりで言ったら、
全然わかった。
じゃあその金額お前の通帳から会社入れとくからって言って、
そのまま取られちゃった。
そうなんです。
結構買った時の値段を言ったんですよ。
それで私は家に持って帰って、
必要な時だけ持ってきて仕事に使ってました。
その時の段階では、美術館作ろうかなと思った時には何点くらいあったんですか?
自分の洋服屋なんかはやっぱり長い間、
ヨーロッパ行って買っては、
流行の始まりっていうのは、
日本では比較的ファッション60年代って、
まだ外国のものは珍しい時代ですから、
買って着て帰って、
コスチュームジェリーもこうなのよって言うと、
デパートさんなんかなかなか説得性があったわけですよ。
本番を見せることによって。
当時はギリギリだったら雑誌とかでは知ることができても、実物見れなかった。
ミニスカーってこうなの?みたいなので、説得性があって、
コスチュームジェリーの売り込みをするには、
私が着てマネキン代わりにしてたわけです。
ですから洋服とかハンドバッグとかも、
いっぱいあったんですけど、
それで1、2万はあったんでしょうかね。
3万、3万説も出てますけど今、スタッフさんから。
じゃあスタッフが私がごちゃごちゃしまっているのをバレてます。
でもそれこそ僕が一番最初に厚生ミュージアムさん見つけてきて、
多分一番最初に来たのに、たまたま館長もいらっしゃって、
いっぱい喋って急に仲良くさせてもらって、
その時に来たのが、段ボールに何箱もあったみたいな話を。
それはですね、私が会社を辞める時に、
もともとの会社はファッション会社ですから、
シーズンが終わると捨てるんですよ。洋服も一緒なんですけど、
全国のデパートに卸したものは帰ってくるわけです。
それを整理してしまうんですけど、
捨てるんですよ、いらないものを。
私、自分の作った可愛いものが捨てられてはたまらないので、
段ボールに入れて倉庫にしっかりしまってたんです。
捨てずに。
捨てずに。
それで辞める時に、次の社長さんに、
すいません、私、自分の作ったアクセサリーが欲しいんで、
売ってくださいってお願いしたら、いいよって言ってくれたの。
で、一箱、大きな段ボール、一箱、いくらって決めて、
400箱買ったんですよ。
一箱の中に当然いっぱいアクセサリーがビシッて詰まってる状態。
高さ40センチの幅、50センチの長さ、80センチぐらい。
こんな大きな箱なんですよ。
いっぱい入ってる。
いっぱい入ってる×400箱。
とんでもない数っすね。
そうなんですよ。
それで、私がミュージアムするまでもなく、
その一番広い部屋に山となって置いてあったんです。
へー。
それで、ミュージアムを始めるとあたって、
その箱どうしようかって話になったんで、
屋上にプレハブ作ってもらって、そこへ全部引っ越しました。
じゃあそれは未だに眠ってるんですか。
眠ってます。
そこから出す時もあるんですか、ミュージアムの展覧会。
行ったりしてます。
ここショップもあるから。
ショップもあるから。
なるほど、なるほど。
最後の3個は修理するためと、ミュージアムのコレクションのために、
最後の3個か4個は売っちゃいけないんです。
あ、そうか。同じものもいくつかあるからってことですね。
そうです。段ボールにシリーズ。
二度とできないような、私辞める時に二度とできないような技術。
それから珍しい形っていうものは営業は嫌いだったんですよ。
売りにくいから。
なるほど、なるほど。
捨てるマークをみんなつけとって。
言ったら職人技が詰まってるものなのにってことなのか。
私はもったいないと思ったんで、常務だったから捨てさせなかった。
それを全部引き取ってきたわけです。
そういうことなんですね。
そういうことです。だから私たくさん持ってて、さっきの5万点の中にもそれは入ってないです。
これまた別なんです。
別なんです。
それとは別に、サンプルとして集めてた、いろんなヨーロッパのコレクションがあったっていう。
それがそういうことです。
これで今、アクセサリーミュージアムって場所としては有点寺。
この場所はもともとミュージアムを作るためにあった場所なの?
いえいえ。これは主人と家を建てたんです、この家を。
主人と自分の好きな家を建てたんです。
これもともとだからご自宅。
そうそう。で、親を引き取る木だったの。
親のために寝室と居間と衣装室、3つついてて、私たちもそれと同じ規模で、
それから台所とお客様のおせつまとかって考えて、
それからあと、本当は屋上にプール作って、
それからそこの一番広い70年代の部屋。
今、展示室になってるところ。
あそこは主人が映画館、自分の映画館を作る。
すごい、とんでもない話がどんどん出てきて。
それで、屋上はね、プールの掃除するのに、人を雇わなきゃならない。
誰かが家に入ってくる。
プール自分洗うの嫌だ。
って言うんで、やめました。
まあ、そうですね。懸命だった時。
いろいろな問題が。
だって屋上だから、木の葉とか入るじゃん。
だからね、賢くやめました。
それはこの自宅は何年にできたんですか?何年前の?
50年前?40年前くらい。
その時は、だから全然ミュージアムにするつもりはなかった?
全然なくて。
でも、プールを作る気で、家をオーダーしたわけです。
重量計算というのをしてあった。
だからプールに水が入っても大丈夫なぐらいの重さがあるんだ。
洗浄相当持つんですね、いろんな。
それと、私、本が好きで、本を大量に持ってて、
私の書斎は本が3段になるんです。ガラガラガラって。
それで入るから、それも重さに重量で入ってる。
じゃあ結果的にミュージアムにもしやすかったのかもしれないですね。
いろんな施設を上に。
丈夫に人様が来ても大丈夫。偶然、偶然。
でも、ミュージアムを作ろうとなった時に、
最初からミュージアムをどこか建てるんじゃなくて、
自宅をミュージアムに改装しようというのは、最初からアイデアであった?
全然。私は原宿とか渋谷でしたかったんです。
若い人が来るところで。
ところが、お友達のデパートの企画の人で、みんな友達じゃないですか。
彼らに話をしたら、こんな儲からないことはやめなさいと。
彼らはうちは知ってるから。
あれはデパートがして、下にシャワー効果つって、
お客様が降りてきてお買い物する一つのイベントなんですと。
ですからミュージアム単体では立ち行かないからやめなさいって言われた。
で、なおかつするって言ったら、
じゃああんた自宅でしなさいよって言われちゃったんです。
ご事業人とか。
借りてするつもりだった。渋谷とか。
その分だから賃料がかからなくなるよってことですよね。
そういうこと。だから友達は自分家でやりなさいってアドバイスして。
それで自分家でやろうとなった時に、
館長はいいですけどって言ったらあれですけど、旦那さんに言うわけじゃないですか。
自宅をミュージアムにしろって言われたら結構なことじゃないですか。
それはどうだったんですか。
それはあんまり嬉しくなくて、初めは2階に住んでたんですよ。
俺はこの家が好きだ。俺は出ないぞ、この家から。
ミュージアムにするときにもう出てったんですか。
出ないからしょうがないから2階に住んで、地下と1階がミュージアムだった。
なるほどなるほど。
それで8年ぐらい経って、
ミュージアムをもっと大きくしたいなと。
もっと展示もしたいなと思ったんで、
私はここを引き払いたくない。
でも旦那さんが言うこと聞くわけないし、どうしようと思ってた。
そしたら、このミュージアムから1分のところに建て売りが出たんです。
それで見に行った。
ちっちゃな家だ。でも近くていいなと思ったんです。
それで帰ってきて、うちの旦那さんに言ったら、
俺は嫌だ。勝手にしろって言ってくれたんですよ。
言ってくれたってどういうことだよ。
そうですかって言って、売買証明買いたいっていうものをもらってきて、勝手にしましたって言って、
旦那さんに家買ってって約束して、払ってくださいっていう請求書を旦那さんに出したんですよ。
勝手にしちゃったんですね、言われた通り。
そしたらどういうリアクションを取るんですかね。
受け取って払ってくれました。
払ってそっちに移り住んだってことですか。
やむなく。
だって家出たくないって言ったのに、家は出るわ、そのお金は払うわで。
おまけにちっちゃな家だから、ここ通路とか広いじゃないですか、トイレも広くて。
狭いって言うんですよ。ちょっと太り気味の人だったんで、
廊下が細い、ぶつかるって怒るんですよ。
でも言っても、ここら辺の一個立てですよね。
そんなボロアパートとかじゃないわけじゃないですよ。
ここからしたらもう狭く感じちゃう。
とても狭くて、彼としてはあんまり嬉しくて、とても不満だった。
でも、私が怖いから、おそらく。
いやいやいや、でも理解のあるな。
あんまり言わなくて、愛してた。
いや、本当に思いますよ。愛情のたまものですよ。
ミュージアム作った時も、うむって言って、
でも友達呼び寄せて、どんどん盛り上げていったんで、文句言えなくて。
それでおまけに、あれが買いたいとか、これが買いたいとかって言うじゃないですか。
そうすると、しょうがねえなって言って払ってくれました。
だって、しかも僕は田中さんに何度もお会いしてますけど、
パーティー的な、オープニングパーティーとかやると、
すごい嬉しそうにいらっしゃってましたから、そんなイメージなかったです。
内情はね、本当のところはそうなんです。
でもね、人が集まって騒ぐのは、酔っ払いだから好きなんです。
だからね、嬉しいの。
人が集まるのは。
そう、大好きなんです。
やっぱりミュージアムが盛り上がってるのは、すごい喜んでたんですね。
でも、はじめはずっと赤字で、ミュージアムは。
オープンは15年前ってことですから、2010年オープン。
オープンしたときには、もう2階もだから、まだ2階は展示室になってた?
2階は住んでます。
そっか、だから僕が最初来始めたのはそうでしたもんね。
1階と地下1階がスペースだった。
そうです。
上に住んでたんです。
なるほど、なるほど。
じゃあ、自宅を改装するってなったときに、美術館にするっていったときに、一番大変なことって何だったんですか、まず。
展示品の売り分けですか。
年代別に、若い方にしてきたことを分かってもらいたいと思うから、年代別に分ける。
説明する。
それから、それの整理整頓と、それから、あと飾り付け。
どこへ何をどうする。
そういうことが一番大変で、改装はね、うちの旦那さんが自分で指揮して、改装をどうしたらいいというか、ケースも全部自分でやってくれたんです。
別にそのレイアウト、建物のレイアウトは変わってなくて。
ここはね、実は今のショップになってるところは。
今僕らが収録してる場所、ショップですね。
ショップは駐車場だったんです。
ここそうなんですか。
だからスロープになってるんですよ。
いつも入るときには1階から入って、地下1階に降りて、ショップ抜けて、スロープ上がって上にまた戻るみたいになってるのは、もともと駐車場のスロープだったんですね。
それでおまけにここは道具小屋で。
最後の展示室になる場所ですね。
よくアメリカでいろんな道具とか自転車置く場所あるじゃない。
それで、向こうが塞がれてて、旦那さんの映画館になる。
一番最後の展示室の広いところですね。企画展示室。
あれは映画館とバーができる予定だった。
あと今改めて思ったのが、駐車場だったってこと、ここ何台泊まってたんですか。だいぶ広いですよ。
3台くらいですけど、友達も来るから。
そうかそうか、それ用。
ずっとガーって、別に何台、別にいいんですけど。
なるほどなるほど、そのままスペースだったんですね。
だからそこも開築じゃないけどって、スペースに変えたんですね。
うちの旦那さんは、家を作るとかっていうのは好きなんですよ。
ですから、そうするって言ったら喜んで、階層の。
DIY的なの、広見さんみたいな感じなの、今で言うと。
細々とね、ここにドア作ってとかね。
ここ、その旦那さんの映画館から、コンクリートを切って開けて通路にしてって。
結構だから大規模に変えましたよね。
そうなんですよ。
そのときに、参考にしたミュージアムってあったりするんですか。
全然。
もうお二人の中でこうしたいっていうので。
家があるんで、それを使うんですよ。参考も何でもできることしかできないですよ。
でも、ミュージアムを作るってなったときに。
言い方していいですけど、ミュージアムでは素人だったわけじゃないですか。
とっても素人です。
他の美術館行って、システムとかを参考にしようとかはあったんですか。巡って。
システムはね、お友達で見ないとわからなくて、飾り方。
ミュージアムの形にするっていうのは、仕事柄いろんなとこ行ってましたから。
あれですけど、あまりケースがミュージアム向きじゃないって、うちのスタッフは言うんですけど、
商売のケース作っちゃったわけですよ。
そうかそうか。商売用のディスプレイケースみたいなのを作っちゃった。
作っちゃったんですよ、主人が。
でも別にたくさん作ってくれたから、私は文句も言わなかったんですけど、
後から考えてみれば、ミュージアム用のケースじゃないなとは思ってます。
でもこれはこれで一つの個性というか、味ですよね。
新しいケースが欲しいってスタッフが言うんですけど、頑張って作りたいとは思ってます。
でも展示用のケースと商売用のケースの一番の違いって、ここが違うっていうのはあるんですか。
照明の仕方が違うって言ってます。
もう少しこう。
それからそんなにたくさん入れるものじゃないと。
商売用のはなるだけ見えるように。
うちのケースは大きいんですよ。
要するにジュエリーショップで見るような感じのケースってことですね。
その代わりに展示品はいっぱい並べられます。
それでミュージアムできたっていう。
最初はできましたってなった時に、結構お客さんはどうやって周知していった感じだったんですか。
いやー、それが一番できないことでした。
僕が多分来たのは、グルッドパスに入ってて、何施設か2000円で、今多分2500円くらいになってますけど、
そこで入ってて、こんなミュージアムあるんだと思って来たのを覚えてるんですけど。
そうですね。
友達がみんな助けてくれて、いろんな人に周知してくれたのと、
それからグルッドパスに参加するということを教えてくれたんです。
グルッドパスに参加するっていうのは、結構いろんな縛りがあるんです。
年間250日以上開けてなきゃいけないとか、どうとかっていうのがルールがあって、
それをクリアするのが一番つらかったですね。
だって館長、今もそうなんですかね。8月とかお休み、夏休みありますもんね。
はい。そうなんです。
だから250日停業するっていうのは大変なんですよ。
最初はそんなに開いてなかったんですか、1年目とかは。
いや、ちゃんと開けてました。
ちゃんと真面目に250日くらいは開けてたんですけど、お客さんが来ない。
当時は。でも今では海外のお客さんも、これは何がきっかけでしたか。
これはね、来たお客さんが、みんなネットで言ってくださる。
ああ、確かに。
一番ね、初めは館内は展示品の写真を撮ってはいけないってことになってたんです。
それですけども、いいじゃないかって主人が言って、
悪用されると困ると思ったんですけど、いいじゃないかって言って、撮っていいことになったの。
そしたら皆さん撮って、ネットに上げてくださる。
これでお客さんがとても増えました。
それもインスタの時代だったのも良かったのかもしれないですね。
そうですね。
だって今ではあれですよね。たまたま先週くらい見ましたけど、
アドマチック天国のミュー展示の会で入ってましたもんね。
おかげさま。
感情も出てます。
そうなんです。やっぱりでも、定備の効果ってすごくて、
翌日お客様はドーンと仕掛けられて、列ができました。
本当ですか。
だから、やっぱり知ったら来たくなるミュージアムですもんね。
それはとてもありがたいことで、手頃な美術館って言うんですよ。小さな。
せっかくなので、ここからアクセルミュージアムの展示について色々とお聞きしたいなと思うんですけども、
5万点、7、8万点あるといった中で、常設は今どれくらい常にしている状態なのですか。
常設は、ヴィクトリアンとアール・ヌーヴォ、1900年代ですね。
アール・デコ、1920年代。
1940年、50年の展示。
それから、60年、70年、これと80年代。
そのくらいのジャンルに分けてます。
それって全部、点数で言うと何点くらい見れる状態ですか。
2000点くらい。
2000点。
絵とか服も混ぜて。
これは、たまに入れ替えたりとかしながら。
そうですね。
別にまた企画展示もやる感じですよね。
特に今は、日本のコスチュームジェリー。
日本で本当にコスチュームジェリーが生まれたのは戦後なんです。
それまでは宝石だったんです、お金持ち。
皆さん貧しかった。
しかし、戦後になって、アメリカ人の奥さんが素敵な格好をして歩いてるのを見て、洋服というものが復旧したわけですよ。
それまでは半分くらい着物だった。
それから洋服になって、アメリカ人の奥さんが着けてる派手なソーシング。
これが、やっぱり皆さん目になって、そういうものを着けるようになってきた。
非常に日本では歴史の浅いものなんです。
ですから、70年代、80年代くらいから、とても若い人たちが着けるようになって、とても復旧しましたよね。
若い人だから、そんな高いものじゃなくて、というコスチュームジェリーが手を伸ばしやすかったということなんですかね。
アメリカで、そういうイミテーションジェリー、ガラスとか、ジェリーではないコスチュームジェリーが、アメリカではとてもヨーロッパでも人気があったんですよね。
ですから日本へ着けてきたわけですよね、外国の方が。
それで、日本でやっと目覚めて、イミテーションジェリーを着けたいと思う人が増えた。
特に、うちの地は戦後すぐ、コスチュームジェリーの会社を作って、若い人を狙わなきゃダメだというジャンルで商品を作り始めたんです。
ですから、すごく幼稚といえば幼稚。戦後だから材料も木であったり、それからもう革であったり、手細工ですよね。
それから木を彫ったものとか、そんなようなものを商売してました。子供の頃から見てました。
そういう歴史も辿れるということですね、このミュージアムで。
そうですね。
やっぱりここに来るたびに思うのが、1階の展示室はアールデコとか、他の美術館でも、例えば展覧会で見るレベルのものがあって、
でも下の階に降りてくると、他の美術館では見ないようなコスチュームジェリーというところが珍しいなと思うんですけど、
このコスチュームジェリー、本当にコレクションがたくさんある中で、感情的にここはぜひ見てほしいという、
あっさりミュージアムならではだよという展示物とか、部屋とかがあればぜひ掘り下げたいなと思うんですけど。
そうですね。60年代、70年代というのは、マリー・クワントが65年にミニスカートを発表して、
日本の若い人に一気に70年代から流行って、なぜかというと、アーンが70年で。
いわゆるアーン・ノン族ってやつですか、アーン・ノン・ノとか。
アーン・ノンは5年ぐらい遅かったんですけど、アーンが先で、いきなりファッションってこうよって言ってたんで、
急に若い人たちがオシャレになって、ミニスカートを履いたり、あの頃って流行が1年ごとぐらいに変わったの。
とりあえず雑誌でみんな知るんですか。
雑誌の真似をするの。
その雑誌の人たちはなんでそれを、それはもう流行ると思ってやってるってことですか。
雑誌に言われてみんながこう流行っていくわけじゃないですか。
雑誌は海外を参考にするんです。
なるほどなるほど。
一早く海外のトレンドをアーン・アーンが日本で紹介するって。
髪砕いて、それから日本でやっぱり海外行ってファッション見てきて、それ作ってる洋服屋さんもいるわけですよ。
そういうものを取り上げるわけです。
やっぱりその時は憧れは海外なんですか。
皆さん海外までは行けなかった。
というのはね、私1968年からヨーロッパに買い付けに行ってたんですけど、商業渡航って言って観光はできなかったんです。
当時。
当時。で、それも一人18万しか持ち出せない。
あ、もうそういう、向こうでたくさん買うとかできない制約があるんですか。
うん、ただ輸入するのは向こうの人に回ってオーダーして、正規の輸入証を通して輸入するんです。
なるほど。じゃあ18万円以上のものをお土産で買ってくることはできない。
ないです。
それはもう最後税関とかでちゃんとチェックされるみたいなことですか。
それは、でもね税関も結構厳しかったですよ。
でもね、18万以上使ったなとかっていうことは言わなかったですよ。
今言っちゃってるけど。
でも。
自己申告性。
まあでもまあまあ。
海外に行く人少なかった。
みなさん偉い。政府の方とかそういう方が行くんで、海外旅行は。
だもんで、そんな下っ端なアクセサリー屋がドイツとオーストリーで買い付けして、それからパリとロンドンとミラノで市場調査をしてるなんて思ってもないです。
その時は家族一人で行かれてたんですか。
主人と一緒。
ああいう二人。
結婚したのはね、25でね。26でも親が仲があんまり良くなかったから、二人で出せばなんとかなるかもしれない。
たぶんね、お前たち買い付けに行けって急に。
っていうのはね、その1年前に親が世界一周に急に行っちゃったの。
その当時ですか。
当時。
私が25くらいの時でした。
当時は海外旅行が全然まだ自由にできてない頃に行って。
できてない頃に、そういうスワロスキーっていう会社ありますよね。
あそこの会社の人が、日本のアクセサリー屋を目を開こうと思って、アクセサリー屋さんを全部連れて20人くらいで世界一周したの。
へー。
それにね、うちの親はついてて、いろんなものを見たんで、これを若い者に見せなきゃいけないと思って翌年すぐ二人を買い付けに出した。
その時、館長向こうで見た時に、やっぱりその向こうのヨーロッパのは新しいなと思ったんですか。
そうでもなかった。
目から鱗でした。
やっぱそうなんですか。
それだし、一緒に連れてってくれた人が輸出入所者だったんですけど、まずあなたの格好がダメですって言われました。
あの、バイヤーはエレガントであるべきで、すぐしょうがないからセリーヌ行って、ジャケットとスカート買いました。
へー。
お金があるように見えなきゃダメ。
なるほどなるほど。
私その頃髪の毛ね、ざん切りで、日本の。
明治の話ですか。
そういうのが流行ってたんです。
日本では最先端だったね。
最先端してたんですけど、向こう行ったら、バイヤーは金持ちでエレガントじゃなきゃいけない。
なるほど、見た目が。
見た目が。じゃないと相手にしてくる。
だってもう、日本なんて遠い国で誰も知らないんですよ。
私、パリ歩いてて、お前はエスキモーかって言われましたよ。
これは今大丈夫な言葉なのかな。大丈夫か。
でもまあ、それで行って戻ってきた時に、やっぱりそれは日本にもこの新しい文化、広めたいのはあった?
見えるものみんな珍しくて、やっぱりみんなに見せたいと思うし、説得をしなきゃいけないって思ったんです。
それで、出発さんなんかそういうことはもう皆さん言ってるからわかってるけど、そういう人たちがわかってくれて、うちの品物を並べてくれたわけですよね。
この美術館でマリクワのミニスカート文化の頃が、たぶんそこのスタート地点ぐらいってことですかね。
そうですね。一番大きいのはアールデコの時期に第一次大戦があったんで、ヨーロッパの人たちは女の人も働かなきゃいけない時代になって、
で、洋服がふんわりしたスカートじゃなくて、身体に沿って細いスカートが短いっていうか膝ぐらいのドレスになった。
1950年代ぐらい?
20年代。アールデコです。そういう大きなファッション革命があって、その後の大きなファッション革命がマリクワとですね。
その時は今は当たり前というか普通になったけど、当時はやっぱり斬新でしたか、ミニスカート。
いやもうそれはもう、大…なんていうんですか、辛抱が取り上げるわ。それから親は怒るわ。ミニスカートで階段登れば下着が見えるという親の心配。
それから厚底の靴なんですよ、ソールが。それで足をくじくとかくだらない。
厚底ブーツ流行った時もそういう話あったけど、その前にあったんですね、こういう。
そうです。
その時はかんちゃんもミニスカート履いたんですか。
当然です、ミニスカートと厚底ブーツです。
そこから次どんどんブームが変わっていくって言ったんですけど、じゃあその後どういうブーム。
その後パンタロンになったり、それからジーンズのフレアになったり、それから80年代にエスニックっていう概念、民族のっていう概念。
サン・ローランがロシアンルックっていうのをしたんですよ。
それから民族調っていうのが出てきて、それまでなかったジャンルのコスチュームジェリー。
火の玉のネックレスとか。それからヒッピーありましたよね。
ヒッピーは男の人も女の人もアクセサリーつけましたよね。
ピースマークとか。
そう、バッジとか。それも大きな流行でした。
これもだからこの美術館ではちゃんと押さえてますもんね。
当たり前に飾ったのはその当時のもの。
当時のものです、みんな。自分たちがこれ集めて参考にした商品ですね。
しかも僕がギリギリ知ってる世代でいうと90年代ぐらいのバブルのイケイケのアクセサリーの頭みたいな。
本当に目まぐるしく変遷してるなと思うんですけど、今自分が生きてるこの20年間ぐらいって、
そんなに世の中の女子のアクセサリーがそんなに大きく変化してない気がするんですけど。
これどうですか、2000年に入って。
そう思います。
やっぱそうですか。
服装も派手に変わらず。浜崎あゆみさんが最後ですね。
確かに。
あの、ギャルという現象ですね。あれが最後の大きな流行だったんじゃないかなと思いますけどね。
こういうのも一応全部抑えて。
そうですね。そこの日本のコスチュームジェルのところにありますね。
あと80年代はヨーロッパの有名デザイナーさんのコピーがすごく売れました。
日本で。
日本で。
例えばヨーロッパでいうとどういうデザイナーですか。
シャネル。
シャネルとかの。
すごくそれはカメリアとかパールのネックレスとかそういうものはとてもよくもてはやされました。
でもやっぱり早かったんですか、移り変わりみたいな。
80年代そうですね。ギャルに分かれたとかちょっと上のお姉さん群とかいろいろあって、
ディスコブームってありません?80年代に。それもあったし、それぞれ別れて。
なるほど。
1位には決められない。
エスニックブームの時のエスニックを着てた人はエスニックが好きなだけで、この人はディスコになることはないと。
70年代ぐらいまでは全員が同じ格好で流行ってた。
だけど80年代になってくると、みんなそれぞれ好きな方向へ。
特に今は見えない理由は、確かにみんなが細分化しちゃったから。
さらに細分化しちゃったから、そうか。
だから2000年にコギャルとかヤマンバギャルとか特殊な一段がいればそこだけ目立つけど、一般の人が同じ格好はしないってことか。
今は若い人たちはカラーコンタクトのショップがマルキューにあるというくらい。
だからそういうような動きはあるんです。
なんか聞いた話だと、カラーコンの試着ができるのがマルキューでした。
そう、マルキューです。
それは今、艦長も気にはしてるんですか?カラーコン。
管理が大丈夫かなって心配してます。親御くん。
でもカラーコンタクトも広義で言ったらアクセサリーのジャンルには入ってきて、研究しがいがあるというか。
はい、そうです。それでやっぱり流行っていうのは、今はミニスカートに動きつつある。
またですね。
また。若い人たちはミニスカートです。
なんかあと最近だとエモいファッションとかがまた。
そうですね。それをやってる人もいるし、うちに来る方で着物を新しい。
リメイク?
リメイクっていうかね、着方が新しい。
ハンドバッグは今のハンドバッグで、それから、なんて言うんですか。
着物風に着ないんです。
着物も。
おしゃれ。そういう人がいっぱい。それも一つの部分です。
だからここに来る時に思うんですけど、僕なんかは全然アクセサリーとか着けないし、おしゃれじゃないからなんですけど、
来る時の皆さん、お客さんはおしゃれな方多いですか?
そうでもないって言うのも言いづらい話だけど、アクセサリー着けてきてるな、みんなとは思ったりします?
そうですね。ファッション好きの方と、それから面白そうだから着てみた方と、それから結構中年の方で、
懐かしい、見てみたらね、面白いからって言ったら、私の懐かしいものがあったって、そう言ってくださる方もあるんです。
その世代の人にとって懐かしいし、若い世代からすると、一周回って新しいし、みたいな感じも。
そうですね。こうだったの。もともと若い人に流行の流れを見てもらいたいということで作ったんで、
若い人がああとかって言ってくださるのはとても嬉しいです。
ある時期はね、シーズンには、アクセサリー着けてきたら、おしゃれ割引とかっていうこともしてるんですよ。
今もですか?
今、ミリアムハスケルテンをやってますので、何かコスチュームジェリー着けてきたら。
それはもう自己申告で、これ着けてきたよって見せればいい?
そう、着いてるから。それからね、玄関に入る前に着けましたとかね、結構いろいろね。
持ってきて、ミリアムハスケルを持ってきて、見せて、着けないで入れてね、100円引いてねっていう方もいるんです。
せっかくなので今出てきた、このミリアムハスケルっていう名前なんですけど、僕が不勉強であれだったんですけど、コスチュームジェリー界では有名な方。
そうですね。アメリカのデザイナーで、一時代を1920年ぐらいから非常に人気が出て、とてもアメリカのファッション界では有名な方ですね。
企画展のタイトルが今ここにありますけど、ミリアムハスケルをご存知?って聞かれてるあれですけど、だからご存知じゃなくても大丈夫なんですね。
これをきっかけにっていう。
シャネルとかそれよりは有名ではないんですけど、ただ商品をちゃんと自分で作ってる、とても1920年代ぐらいから活躍した方なんですけど、
今回のコレクターの渡邉麻里先生から聞くと、ショップに絵を掲げて、それと同じものを3個しか作らなかった。
その片輪ですね。
一つの形で。
1個は店のサンプルのために置いて、2個売って。
なんで2個なのって麻里先生に聞いたら、社交会でパーティーで会うときに何個も売るとぶつかるから。嫌われるから。
かぶらないように。
かぶらない。そういう考え方をしてましたね。
例えばシャネルとかイブ・サン・ローランとかってブランドになってたじゃないですか、ここシャネルって。ミリアムハスケルっていうブランドはあったりするんですか?
あったりしたけど、初期はアンサインドって言ってサインがないんです。
ミリアムハスケルが作ったものは、どっかの業者で卸してるようなものなんですか?単純に名前出さずに売ってたってこと?
自分でショップ持ってたんです。ホテルに。そういうショップを持ってて、発表して作ってたみたいです。
相方の人がデザイナーが良くて、ハスケルは企画と営業ですかね。フランク・ヘッスっていう人がついてて、作るほうに回ってて、素晴らしい作品を作ってました。
知る人と知る存在の中で、ファッション界で。
そうですね。1960年くらいから大量に売り出すようになって、ハスケルも引退したりして、でも名前自体はとても有名ですから、大量に売るようにして、今でもまだブランドはあるんじゃないかと思います。
今も人気のミリアム・ハスケル好きが結構いるんですね。
そうですね。ただやっぱり、ヴィンテージのミリアム・ハスケルっていうのは、魅力っていうか材料も違うし、とても魅力が、私はあると思います。
ちょっとせっかくなので、最後にミリアム・ハスケルの展覧会について伺いたいなと。さらに深掘りしたいなと思うんですけれども。
ここから入られますか?どうしますか?
学芸員の北村です。どうぞよろしくお願いいたします。
今回の企画担当。今、館長がいろいろとご紹介してくれましたけども、どれくらい知られてる存在なんですか?
どれくらい?
僕がちょっとあまりにファッションに疎いからあれなんですけど、一般の女性だったら知ってるレベル?
日本の一般の女性はあまり知らないかもしれないですね。
アメリカでは非常に有名で、やはりアメリカから見に来られたお客様ですとか、私アメリカにいたのよっていう留学生とか、そういう方はミリアム・ハスケルやっぱりご存じです。
向こうに行ったら、ミリアム・ハスケルのコレクションが一括で見れる場所とかはあるんですか?
一括で展示している場所っていうのは、ちょっと私は存じ上げないんですけれども。
このミリアム・ハスケルの展覧会っていうのは相当珍しい?
相当珍しい。アンサインドが今回多く出てます。
サインがないやつ。サインがないのにどうしてミリアム・ハスケルのものだってわかるんですか?
それはやっぱり、我々でもとても見分けるのは難しくてですね。
このコレクターであって、コスチュームジュエリー研究家の渡辺真理先生。この先生はやっぱり研究の末、パーツであったりとか作り方であったりとか、そういったもの。
もしくはさっき田中も申してましたけれども、当時の絵ですよね。ショップで販売するための絵であったり。
あとはそれこそWWDとか、そういった当時の雑誌に出てるようなものなんかを、そういったものから多分これは。
それだぞっていうのを調べてる?
そうです。
大変な作業なんですね。
本当に大変な作業ですし、本当に研究されて、今でも本当にこれはミリアム・ハスケルなのかって言われてるものってすごく多いんですね。
賛否両論あるものではあるんです。このアンサインドというジャンルだけに関して言えば。
なんですけれども、やっぱりミリアム・ハスケルが目指したものであったりとか、ミリアム・ハスケルとフランク・ヘスという人が本来デザイナーとして働いてたんですけれども、
その2人の仕事の仕方、信念、そういったものから、これはミリアム・ハスケルのアンサインドであるっていうのを集められたのが今回の企画展でございます。
今回展示としては何点くらい出てるんですか?
全部で227点なんですが、前期で今157点展示をしています。
じゃあ後期も入れ替えがあるってこと?
入れ替えがなんと70点以上ございます。
じゃあ全後期来なきゃダメですね、全部見るためには。
しかも今回スタイリング展示っていって、当館見てらっしゃる方だと割と見慣れてしまってるんですけど、お洋服にコスチュームジェリーをつけて、その時代をちゃんと感じてもらう。
これは田中の信念としているところではあるんですけれども、これを渡辺真理先生にもご了承いただいて、本当にそれをやって頂戴って言っていただいて、今回スタイリストとちゃんと当館の当時のお洋服とミリアム・ハスケル当時のものをつけて展示っていう、本当にちょっと私はドキドキしている展示をしております。
あと、すみません、不勉強でまた質問なんですが、ミリアム・ハスケルの特徴っていうのは何かあるんですか?これがミリアム・ハスケルだなってわかるもの?
ハスケルだなってわかるものといいますか、特徴だけで言うと、全て手の作業で作っている。いわゆる今で言うハンドメイドですね。
もちろんパーツっていうのは、それこそ職人さんに作っていただく、今で言う腐食パーツですとか、いわゆる金属でできているものですとか、貝殻もあります、プラスチックもあります、そういったさまざまな材料を一つ一つワイヤー、糸で繋ぎ合わせて、重ね合わせて一つの作品を作るっていうものなんですね。
ついでにアンサインドとサインドの違いとかちょびっとしゃべってもいいですか?
いいですよ。
ありがとうございます。
これでダメですって言ったら、言うわけないです。
ありがとうございます。
そもそもアンサインド、先ほど申し上げたハスケルとフランクヘスが一緒に信念を持って作っていたものなんですよ。お洋服に合わせるトータルコーディネートができるために作ったもの、非常に大らかなものが多いんですね。
一方でやっぱり第二次世界大戦っていうものがあって、その間も彼らは一生懸命あるパーツだけでものづくりをする。
それはアメリカっていう土地からそんなに攻撃なんかもありませんでしたし、経済もある程度安定してた。
女性たちにはまだコスチュームシェリーが必要だったっていうのもあって、一生懸命ないながらにものづくりをするんですね。
それゆえに材料も本当に自然のものであったりとか、裏側の金具部分がプラスチックになってしまったりとか、そういううよ曲折もある。
その時代を見ながら第二次大戦後に、今度世界中でも我慢してたからもうキラキラつけるんだいって言ってる人たちのために、すごくジュエリーによった作品が作られる。
これがいわゆるサインドと言われるもの。
サインしてある?
そうなんです。裏側に今度はサインが入っているようになる。
このサインは本当はハスケルはつけたくなかったんですけれども、あまりにもハスケルの真似が増えてしまったので。
なるほど。やっぱそれぐらい人気だったんですね。
それぐらい大人気だった。
お店なんかに、その時になるともうセレクトショップなんかにかなり卸してたので、つけてくれないと困ると。
うちも本当にハスケルだって言えない。
売る方からしたらそうですね。
本当そうだろうなと思うんですよ。
なのでつけるようになったんですね。
なのでその頃になるとすごくジュエリーによった。
もちろん宝石は作ってないんですよ。
それでも本当にキラキラしたものになる。
ドレスにつけるようなデザインになってくるわけですね。
それが割と今のハスケルの形。
現在もミリアムハスケル社があるんですけれども、アメリカに。
少し華奢ですけれども、そういう少しジュエリー路線っていうのは今もついている形になりますね。
今回そのジュエリー路線になる前のものがメインでついているってことですね。
そうなんです。すごく裏側。
とても迫力があるんですね。
たくさん展示物があることはわかったんですけど、
館長最後一押し、このミリアムハスケル一番見てほしいってありますか?
洋服に全部セットされてるんで、やっぱりトータルで見てほしい。
1個だけじゃなくて。
つけ方もいろんなつけ方をしてます。
クリップが、裏側が鏡が入ってますんで、
裏側の作りが見えるんですよ。
そういう展示にしてるんですね。
そうです。2階が。
それですから、裏側見ていただくと、そのつけ方、ピンじゃない。
ですから、バッテン付けとかいろんなつけ方をできるんです。
そういう意味で、結構珍しい作り方をしてると思います。
そこの見どころの一つってことなんですね。
この展覧会、改めて機関、まずよろしくお願いいたします。
今回、前期が4月25日まで開催しております。
後期が4月28日から7月25日まで。
この時に、先ほど申し上げました入れ替えがございますので、ぜひ前期、後期見にいらしてください。
これだって1月13日から始まってて、7月25日まで半年あるじゃんと思って余裕こいてると、前後期でほぼ違うってことですね。
おっしゃる通り。
やっぱり2回来なきゃダメですね。
絶対あるあるですよね。駆け込み。
しかも今手元にあるワトナビマリさんというコレクターさんのミディアムハスケルアンサイドコレクションの最後の企画って。最後のって書いてありますよ。
先生がもうこれ以上はできないと。もうやってられないと。
どういうわけ?やってらんないって。
ということで、サインドのコレクションはもちろんまだお持ちではらっしゃるんですけれども、
とにかく今アンサインドというものをこれだけ一緒に展示できるコレクションの形でお見せできるのは今回が最後ということで。
世界的にも珍しいコレクションですね。
本当にそう思います。
これと合わせて常設展もってことですもんね。
そうですね。常設展よりも今回は迫力がありますよ。ミディアムハスケル。
これをきっかけにアクセサリーに興味を持ってもらってもいいですしね。好きな方は持っているんですけれども。
今のコスチュームは手作りで材料はいろいろなものを使っているので、今のものとはまた。今あまりああいうものを作っているところがないですね。
職人技的な工芸的な楽しさもあるってことですね。
ぜひ皆さん見に来ていただきたい。その時にはコスチュームジェリーを身につけてご来会いただくと100円引き。
これは別にミディアムハスケルじゃなくてもいいってことですよね。
はい。
コスチュームジェリーなら。
そう、大丈夫。
分かりました。ぜひみんな来ていただければと思います。
ということで引き続き後半もお話をいろいろと伺いたいと思いますのでどうもありがとうございます。
ありがとうございました。
ということで次回も田中茂子さんとのトークを続けていきたいと思います。