1. そろそろ美術の話を...
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2025-09-13 57:15

#140 Nerhol 種蒔きと烏 Misreading Righteousnessについて 後編(Nerhol(ネルホル))

アーティストデュオのNerholをゲストに、埼玉県立近代美術館で開催中の「種蒔きと烏 Misreading Righteousness」展について伺いました。

⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://sorosoro-art.vercel.app/ep/140  番組の感想は、⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠#そろそろ美術の話を⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ でお願いいたします。⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠番組公式Twitter⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠もフォローをお願いします!


Guest Profile

Nerhol(ネルホル)

  • グラフィックデザイナーの田中義久(1980-)と彫刻家の飯田竜太(1981-)により2007 年に結成されたアーティストデュオ


Show Notes

Nerhol(ネルホル)

展示について

サマリー

ポッドキャスト第140回では、アーティストDUO Nerholの田中義久さんと飯田優太さんが、彼らの活動やユニット名の由来、作品制作のプロセスについて深く語っています。特に、二人の役割分担や共同制作の重要性が強調され、アトリエでの制作環境にも触れられています。ポッドキャストでは、展覧会「種蒔きとカラス」のタイトルの意味や、作品制作における協力の重要性についても語られています。また、展覧会が千葉市から埼玉へ巡回する背景や、新作展に込められた思いについても言及されています。今回のエピソードでは、竹部氏とNerholの展覧会について、新しい試みや作品の展示方法が紹介されています。特に、ヒデン・クレバスや種蒔きとカラスに関連した鑑賞体験について深く掘り下げられています。Nerholが手がけた作品の制作過程や工夫についても語られ、展示空間の特徴や床の素材選びに関する意図が明かされ、時間や構造に対する深い考察が展開されています。ネルホルの展覧会は、埼玉県立近代美術館で開催され、美しい空間デザインと作品コンセプトの融合を目指しています。

アーティストDUOの紹介
はい、アートテラー・とにスのそろそろ美術の話を、この番組は私、アートテラー・とにスが アートに関わる方をゲストにお迎えして、トークを繰り広げるポッドキャスト番組です。
本日は、アーティストDUO Nerholの 田中義久さん、飯田優太さんをゲストにトークをしていきたいと思います。
ということで、よろしくお願いいたします。 この番組でですね、アーティストさんも何人も出演いただいたんですが、
DUOは初めてということで、よろしくお願いいたします。 あらためて自己紹介をお二人からしていただいてもいいでしょうか。
Nerholの田中と申します。 飯田です。よろしくお願いします。
これは二人で言うときは、必ず田中さんから言うとか、 決めたりはしてるんですか、これ。
おぉー、待ち待ちです。
どっちのパターンもあるんですか。 名前はでも田中・飯田って書いてあるんで。
決めはしてないんですか、普段。
決めてないんですね。
なんか立ち位置は左側が田中さんですかね。 立ち位置ちゃんとあるんですかね。漫才みたいな。
できないのに、でも例えばオープニングとかで、 二人で挨拶させてもらうとき、マイク一本になるじゃないですか。
そうするとNerholの田中とみたいになるじゃないですか。
言い出して、みたいな話になって、空気感的に、 こいつら何かやるんだろう、みたいな、空気はありますよね。
まさに千葉市美術館の古典の オープニング行かせていただいたんですよ。
センターマイクで二人が集まってて、 弾き出したときにタイタンのお笑いコンビかなと思って。
ヨシモソとはない、タイタンっぽい感じというか。
どうぞちゃんと拡張問題のタイプと言われる。
二人でセンターマイクで立つのが珍しいというか、 仲良いなって思ったんですけど。
仲はいいんですけど、でも二本用意してくれないよね。
そうですね、あんまり二本用意してない。 取材のときとかトークのときだけですよね。
ユニット名の由来と結成
そうだし、あと身長差があるじゃないですか。
それもまた助長してるよね。
それは別に何だろう。
でも結局間取りにかからないと聞こえなくなっちゃうから。
そういうのも全部ね、ちょっと笑いみたいな、小笑いみたいな。
出てきた時点で笑えるみたいな。
そこで笑い取りたわけじゃないですもんね、オープニングとしてはね。
もっとそっちのほうに振っていく?
嫌です。
嫌です。
でももし人ネタ作って欲しいって言ったら、僕は書けますので。
本当ですか?
僕はお笑い時代でネタ作ってたので。
しかも何組かに作ってあげたこともあるので、
もし寝る頃からどっかでやるって言うなら、 僕は5分くらいの漫才作りますよとしたら。
長くないですか、5分。
3分、1分で作りますよ。
ぜひ、軽んじるなよっていう突っ込みをちょっと。
軽んじるなよっていう突っ込みを1個入れて。
言い方に対してのいらつきがあると。
うちも軽んじるなよってよく言うよ。
口癖だよ、お二人同士で。
でもやってるからとかさ、そういう。
そういう意味ね。
知らないところでやってるからとか。
そういうのもありますね。
新しい、ダブルボケもあるけど、 ダブル突っ込み的なだから。
突っ込みファーストいっぱいくれれば、 二人で突っ込み合うみたいなネタ作ります。
こんなラジオで大丈夫ですよ。
最初から脱線するのも珍しいですけど。
改めて、寝るホルというユニット名というか、 両名の説明をまずしてもいいですか。
これは真面目にみんな聞きたいところだと思うんで。
これは、なでそめみたいなのを 話しするのが一番よくて。
僕が展覧会で作品発表したりしてるのを 棚川さんが見てくれて、
面白いから会いませんかっていう連絡をくれて、 棚川さんの事務所に行って話をしてたら、
始めは全然噛み合わなかったんですけど、 話をしていたら面白いのが最後の方で見つかってきて、
一緒に作品作りましょうかというところから、
作品制作を見せるとかそういうことは何も考えずに 何か一緒に作ってみましょうということで、
二人の共同が始まったというのがスタート。
ある程度作品ができたので、 展覧会をやりましょうかという話になったときに、
その当時のギャラリーのオーナーさんが 名前つけたらどうですかってなって、
こういう名前を二人で考えてつけたっていうところが、 互いの役割としてずっと続いてるっていう。
なんか最近デュオの人だと名前プラス名前みたいな、 そのまま名前でいく人も多い中で、
結構チーム名決めようっていうのは 二人の中で盛り上がったんですか?
ここであれなんですよ。
これもよく言うんですけど、
続ける気もそもそもなくて、
ユニットコンビみたいな、
二人じゃないとできないことをやるために、 その作品を作るためにまずやってたんですよ。
それが作り終えたんで、どっちかというと見せる場を 結果的にいただいたみたいな状態になっていて、
その流れで今言ったようにギャラリストの人が、
うちで展示するなら二人で作ってみたいになって、
本当にその場限りというか感覚的に、 あんまり考えて適当に言ったのが、
結果的にそのまま続けることになっていたっていう。
共同制作のプロセス
今で結成で言うと何年目になるんですか?
18年目?
18年目ですね。
めちゃくちゃ長いです。
もうその後解散の危機とかもなくずっとそのまま?
解散っていうほど近くに入れるようになったんです。
結成当時はまだ東京にいたんですけど、
その展示が終わる頃にはもう静岡に運行していて、
なんならその後八戸って青いの方に7,8年行っちゃったりとかして、
本当に最近だよね、東京でこれだけ近くで。
八戸は6年で、東京に来て今年の4月で11年目でした。
結構長かった。
今僕らはアトリエで収録させていただいているんですけど、
これはお二人のアトリエで撮ってたんですか?
共同アトリエみたいな。
共同です。完全にネイルホールの方。
向こうは私のデザイン事務所。
そういうことなんですね。
結局家賃はひとまとまりになるので、
そこの割合でここはネイルホールが使うときは必ず使えるような状況を作っている。
同時にもう一個アトリエっていうか工房的な場所があるので、
それで各々やるべきことをやって、
こっちで作ったものをこっちで渡したりとか、
そういう感じなんですね。
ここで二人で一緒に作るってことはあんまりないんですね。
そう。やっぱり二人とも仕事しているので、
どっちかっていうと最終的に二人で作業することもあるんですけども、
それはもう一個の方でやっていくという感じですね。
その役割分担的にはどんな感じでやっていくんですか?普段は。
私がグラフィックデザイナーで、
普段は写真家の作品集とかアートブックをメインにやっていて、
いわゆる紙媒体の印刷物を取り扱っていることが多いんですよ。
その発生と、
飯田は主にもともと紙を彫る、彫刻する作家でもあるので、
そこがベースにあることで、
なんとなくそういった分担みたいなのはあるんです。
例えばこっちのアトリエには結構大判のプリンターが2台ぐらい置いてあって、
その撮影した動画を編集して連続写真に落としたりとか、
それを出力してカットして、
彫るための素材を用意するとか、
そこがベースとしてやっているんですよね。
それをこっちのアトリエに持っていくことで、
今度は飯田はそれを彫るみたいなことがあるという感じです。
その時には、飯田さんは完成形みたいなものは、
どっちの中でも完成形があるんですか?
ないです。
まずは被写体を選ぶこととか、
撮影するとか合成とかを共有したりしているんですけど、
そこから被写体、たくさん取得があるので、
構図とかも全部含めて、
そこにどう彫っていくかというドローイングの作業が必ず行われていて、
飯田さんは何パターンかドローイングを描くんですよ。
そこから、この被写体にはこれがいいんじゃないとか、
もうちょっとこうした方がいいんじゃないとかということをやり取りした後に、
彫っていく作業に変わるので、
そこまで共有したら、一旦彫り始めるみたいな。
でも、彫り始めると、
大体予想通りにいかないので、
そもそもその素材がどういうふうに動いていくかとか、
彫ってみないとわからないという状態なので、
出てきたものに対して対応していく作業が生まれてきて、
それはずっと定点で撮影していくように、
今この状態みたいな。
地区一報告というか、今こんなんだよという写真か何かで撮っておく?
そうですよ。基本は毎日制作しているときは、
今こういう状態というのを送られてきて、
全然違う方向に行きそうだったりとか、
もうちょっとこういう可能性があるかどうかというのをメールでやり取りして、
それでも伝わらない場合はオンラインにしたりとか、
直接行くわみたいな感じで行って、
調整してということをずっと繰り返す。
でも、そうなると多分飯田さんの中で彫って、
飯田さん的にはこれOKってなったときに、
神奈川さんがちょっとこれはもう少しこうした方がいいんじゃないの?
っていう感じもあると。
でも全然それはもうない。
ってなったら最後は田中さんが納得してくれないと終わらないんだよ。
どうなるの?最後はどうなりそうなの?
お互い納得しないと終わらない。
基本的には。
でも納得する瞬間が来るんですね。
来ます、来ます、来ます。
だからなかなか来ないなってときもあるんですか?2人で。
ほとんど来ないです。
だから何か分からない。
指定のポイントがやっぱり全然違うんで、
そもそもこの俯瞰したデータとか画像で確認してるとか、
リアルな状態で確認してるのの差を埋めていくっていうか、
テクスチャーはこんなんでこんな惚れてるよ、
みたいなのをしっかり伝えた上で、
ここがこうなの、どうなのっていうのが。
それで今までの作品の何ていうんですかね、
記憶っていうかそういうのを呼び覚ましながら、
もうちょっとこういうのはどうみたいな。
逆に出来たときに案外惚れてるねとか、
案外浅かったなみたいなのは、
もうちょっとちゃんと伝えとけばよかったなとか、
そういうのもあったりとか、
あとその白をやすったりして削るんですけど、
その削ってる濃度が、
もうちょっと淡い方がよかったな、濃い方がよかったなっていうのは、
本当に最後は田中がこっちに来てもらって、
直接見て一緒に話して、
本当にそこで最後30分くらい一緒に詰めて、
やってあげるみたいな。
だから一緒に最後は作業することは結構多いですね。
うまくいかないやつとか、
あとは絵をガラッと変えなきゃいけない時とか、
制作してる時に。
そういうのをやりとりが、
分業してるっていうよりかは、
割と一緒に並走してくれてるっていう感じが。
これはやっぱり飯田さんも一人で作ってます。
アーティストとしてやる時もあるし、
協力の重要性
田中さんもグラフィックで一人でやる時もあるんですけど、
やっぱり一人でやっててできてるのに、
二人でやったら、
もどかしさじゃないけども、
ちょっと色とあるじゃないですか。
でもやっぱり二人でやるほうが楽しかったりはするんですか?
もちろん楽しみ方とか、
そもそも作っているものも違うので、
そういう喜びもあるんですけど、
前提として、
同じ視点で物を見てるわけではないっていうことがあって、
なので、例えば今飯田も言ってましたけど、
同じ赤って言っても全然違うじゃないですか。
イメージする赤。
それと同じように、
彫刻的な目線から見る視覚性と、
平面的、グラフィック的なものから見る視覚性って全然違くて、
同じビジュアルっていう言い方をしても、
そもそもビジュアル括弧、そこに奥行きが入っている、
その奥行きの加工性が彫刻劇とか、
こちらも視覚イコール空間は入っているけど、
むしろ紙が持っている厚みとかの空間性とかって、
全然違うんですよ。
質地が違うんです。
でもそれはそれぞれの責任というか、
例えば携帯で撮って、
パシャって見られてくる写真の平面的な様子の中に、
彫刻のデプスってほとんど遮蔽されているというか、
見えないじゃないですか。
でも実際は横から見たらちゃんと厚みがあったりとかする。
それは彫刻の目線で目の前で見ている人間しかきちんと把握できないし、
逆に言うと、それを意識する状況で見ている人からすれば、
俯瞰した平面の見え方っていうのは結構弱くなったりするじゃないですか。
ものの強さを感じ取れる人と、
ただ画像になっている状態で、
画像として見る人みたいな。
それって多分両方必要な状態で、
両方をきちんと捉えているかどうかを、
お互いの立場から意見して、
お互いOKってなるまで続くっていう意味なんですよね。
なるほど、なるほど。
だからやっぱり二人じゃないとできない作品だし、
二人が必要なんですね。それぞれの能力が必要。
そうです。っていう構造にそもそもしてますね、制作。
出来上がった時にハイタッチとかはするんですか?
ないです。
二人でやったーみたいなのはなんないですか?
テンション上がらないですか?
ハイタッチしたことは…
出来たーってなんないですか?
売れた時じゃないですか?
売れた時にもしたことは、
なんか酔っ払ってボーリングした時ぐらいですね。
ほとんどないんじゃないかな。
結構淡々と出来上がった時に、これでOKみたいな感じで淡々とした感じなんですか?
やり取りが終わった後に、まだ作業は続くんですよ。
だから、終わったっていうタイミングがあんまりないですね。
展覧会のタイトルの意味
今回、さらにせっかくですので、展覧会が開催中ということですので、
展覧会の話も聞いていきたいなと思うんですけども、
まず改めて、展覧会のタイトルから教えてもらってもいいですか?
どうぞどうぞ。
日本語のタイトルが種巻きとカラスで、
英語がミスリーディングライチャーですね。
これはどういう意味なんでしょうか?
ゴンベが種巻きはカラスが頬張るっていう三重県の民謡という歌があって、
それは意味としては、マジで無意味みたいなものとして使われるんですよね。
だけど、それは種を巻いたタイミングとカラスがついわむタイミングが、
若干の時勢的にズレがあったとしても、
その場所で停電している人にとっては無意味かもしれない。
だからゴンベはバカだな、みたいな。
何回種を巻いてもカラスに持っていかれちゃうよ、みたいな。
という風に傍観しているんですけど、
カラスは咀嚼しないで飲み込むので、
別の場所に行ってフンをしたら、
その場所で種が発芽する可能性があるじゃないですか。
ゴンベは種を巻いたことは無意味がないわけですね。
種巻きとカラスという関係性自体が無意味というものを意味しているのは、
それを結びつけている傍観者がいる時にだけ成立しているわけで、
カラスが何かをフンをした場所に、
そのフンで色んな植物が生えているというところで、
カラスと傍観者が結びつけられた場合、
それは意味があることになる。
そう考えると、色んな世の中のよく分からない結びつけ方が、
もっとちゃんと解釈できるんじゃないかなと思ったんですよね。
初めに英語のタイトルのミスリーディング・ライチャスティスが先に決まっていて、
正義とか正しいことを誤読しているんじゃないですか、
みたいな意味なんですけど、
そういうことは、たくさん日本の文化社会としてある気がしていて、
それを大きく言うこともまた違うし、
それを言っている人たちはそれぞれにおいて正しいことを言っているわけで、
別に間違っていることを言っているわけではない。
それはどう関係性を結ぶかということにつながってきているので、
そういうことを知る。
そういう同時代性にあるんだよということを知ってほしいというのが、
ここに言葉として残したかったことかなと思っているんですけど、
巡回展の意義
こういう展覧会のコンセプトみたいなのは、
やっぱり二人で話し合って決めていく?
そうですね。それは結構時間をかけて話し合いますね。
今回出展数は約80点。
作品作りに関しては、先ほど言ったようにラリーとかだったんですけど、
こういう展覧会を決めます。
展覧会の作品をこうやっていこうというのは、
結構二人で話し合って決めていくか。
そうですね。
それは本当に展覧会全体の構造になってくるし、
特に今回はその一つの展覧会タイトルが、
作品それぞれの全体に対してかかってくるような展示の仕方をしているので、
結構なかなか決まらなかったですね。
これは実は番組で千葉市美術館で開催された、
ネルホールさんの水平線をという展覧会だったじゃないですか。
番組に取り上げさせていただいて、
あれから1年も経ってなく、
最初は千葉市美術館でやって、次は埼玉でやるって言うから、
巡回してほぼ同じものが来るかと思いきや、
タイトルも違ければほぼ全然違う。
ほぼ新作展だったんですけど、
これ最初から決まってたんですか?
そうですね。
本当の始めの始めは巡回的なことを考えたりしてたんですけど、
ただ一つ千葉の展示を作っていくときに、
千葉自体に対して出し惜しみができないというか、
そこで一つ全部まとめて見せるっていうことに
重点が置かれていった部分があって、
それと同平行して、
埼玉という場所が、千葉と埼玉って同じ関東圏なんですし、
ライバルですからね。
僕も千葉ですからあれですけど、
飛んで埼玉とかでもバトルするのは千葉と埼玉ですかね。
県民的には。
敵みたいなもんですか?
その巡回は珍しいなと思ってました。
まず関東の巡回は珍しいですけど、
千葉と埼玉だと思ってました。
そういうことを踏まえた時に、
新作というか全く違う展示を考えた方がいいってことは、
やっぱり頭にあったんですよね。
これは今回の展覧会、千葉市美術館が終わってからって考えた感じですか?
千葉市をやる時から同時平行的に、
この埼玉近郊の展覧を何とか考えていたんですか?
展示をすること自体は決まってたんですけど、
中身は、もちろん考えてないことはなかったんですけど、
そもそも結果的には、千葉が終わってから考えたことが、
ほとんど全部投稿されているっていうような。
そうなんですよね。
めちゃくちゃひどかしくないですか?
かつてないぐらい追い込まれてました。
それで普通の人は楽して、
今まで作ってきたものをそれなりにやるんで、
それで何とかお茶を濁すじゃないですけど、
すればいいものをほぼ新作なわけですね。
それは徹底して曲げなかったよね。
ダメだなと思ったらそれをやった。
もし同じ作品を出すなら、
また違ったインスタレーションにするのか、
発見がないと難しいだろうなと思ってたし、
巡回するなら場所がもっと離れてたりするんだったら、
違うお客さんが来て、
場所的な問題として改善できることはあると思うんですけど、
千葉と埼玉はほとんど同じぐらいの距離で、
特に東京の美術ファンが見に行くことが多いわけですから、
ファンからすれば両方新しいのが見れて嬉しかったですけど。
千葉を経て、
今日もちょっと話してたんですけど、
そこまでは今まで自分たちがやってきたこと、
もちろん自分たちを知らない人たくさんいるので、
断片的に見てくださっている方とかも、
結局この人たちは十何年も何をやってるんだろうみたいなところがあって、
包括されている方ってほとんどいないと思っていて、
そういう意味でも一つの串刺しというか、
自分たちがそれだけの時間をかけて何をしてきたかということを、
伝えたいなという気持ちがすごくあったところは、
二人とも一緒で、
それが故にその後に埼玉で展示させてもらうということを考えたときに、
ある種そういう荷が降りているというか、
次に迎えるという気持ちがあったので、
ある種アイディア自体がどんどん出てくるというか、
やりたいこととか、あるいは更新したいこととかすごいあったんですよ。
ただ時間も限られているし、やれる範囲は決まっていたので、
そういう意味では本当に限界までやってギリギリなんとかという感じだったんですけど、
すごく今の考えていることを反映しているという感じですね。
セカンドステージっていいのかわからないですけど、
今までの集大成が千葉市見だとしたら、
寝るごとに第二章が始まったようには見えない。
偉そうなことを言っている。
他の方にもそういったようなことを言われて、
確かに新しいことを望んでいるという意味では更新しているんですけど、
大きなタイミングだったのかなという話は。
そういう意味ではお二人にとっては大変だったともちろん思うんですけど、
1年で見れたというのはいいです。
これが3年とか空いちゃうと、あわりがちょっと長くなっちゃうけど、
本当に去年から今年のこんだけ変わったというのが、
昼間からしたらそこがすごく新鮮で、
あれがあんまりないじゃないですか。
そこまで大きな御庭園をこんなタイミングで見れるというのがあって。
そうですね。
すごいそういう意味では運が良かったというか、
本当に関係者の方に感謝しているというか。
関係者が実は来ているという。
番組に以前出演いただいた朝日新聞の竹部さんが。
少し喋りますか。
喋っていいんですか。
どうぞどうぞ。
すみません、後半からと聞いていたので完全に入団しました。
すでに出演されているみたい。
展覧会の新しい試み
竹部さんがと一緒に組んでやっていたんですね、今回の展覧会。
いえいえ、もう完全にお二人の展覧会なので、
僕は本当にずっと陰ながらずっと応援したくらいの感じですけど。
改めてですけど、埼玉近備の展覧会で、
いろいろと新しい試みをしているということですけど、
ぜひ見てほしい作品、これ、これ、というのがあれば
まずいくつか紹介してほしいんですが、どれからいきましょう。
ヒデン・クレパスの話を。
ヒデン・クレパスですね。
でも、ごめんなさい、話ずらしちゃうようになるんですけど。
一つの美術館の個展で、ほぼ新作で、
一つの展示タイトルに向けてまとめ上げるということ。
あんまりないなと思っていて、
自分たちとそもそもそんな美術館で
ご提案してもらってないんですけど、
これほど一つのコンセプトに向き合って
全てが作られていくという状況って
なかなか機会にないだろうなという感覚があって、
つまり、一個一個もちろん、
そもそも以前から作っているシリーズの
更新しているものだったりとか、
以前に出していたものだったりとかもあるんですけど、
同時にすごく新しく作っているシリーズがたくさんあって、
それらが全て展示を勧誘するというか、
できることで一つのオーバーになっていたりするので、
なかなかこれは、みたいなことは自分はなくて、
一個一個が、一個のコンテクトのディティールでもあるし、
単体でこれから続いていくシリーズにもなっているんですけど、
結構難しいなと思うんですけど。
一体でインスタレーションみたいな、
一つの作品みたいな感じもありましたよね、今回。
そうですね。同時に美術館の空間自体も
それに加担している部分はあるというか、
あの空間を読み解いていくこと自体も
すごくコンセプトに反映されていたりするので、
なかなか難しいというか、ある意味あそこじゃないと成立しないような
組み方をしていることもあるんですよね。
なので、そういう意味で言うと、
例えば入ってすぐのところに、
カーバードというエドワードバイブリッジの連続写真を使用して、
いつものようにレールホールの折り方で彫刻しているものがあるんですけど、
それが千葉にも一部出ていたはずなんですよね。
ただ展示の仕方がすごい変えていて、
なんて言えばいいんだろうな、
円形状の筒形の状態の格子に対して作品を配置している。
木材で作られた?
木材で作られた。
それを鑑賞者はその空間を回ることによって体感していくというような
作品が円の円周に飾られてあって、
人が周遊して鑑賞するという。
普段だったらそれは壁面に並んでいる状態だったんですけど、
そうしている理由としては、
そもそもゾートロープという機械のところからヒントを得ていて、
それは連続に円状に配置されたものをずっとクルクル回すことで、
動画アニメーションのように絵が動いていくような。
アニメの源流って言われているやつですね、数百年くらい前。
それからヒントを得ていたりして、
原型の原型がマイブリッジの連続写真を撮ろうとしていた。
有名な馬の連続写真みたいな。
馬が走っている姿を発見するというような。
それも静止画の連続なんだけども、
ある一定の期間というか距離に対して一定の撮影のスピードと時間を
うまく利用することで連続写真を成功させるみたいな。
そういった流れというか経緯だったりとかを自分たちに取り込んでいくときに、
ただ単純に掘り上げた作品を併出するということよりも、
鑑賞者自体がゾートロープの一体になるというか、
ある意味今回は逆に鑑賞者がゾートロープ化しているという状況が。
あまりにもデカいから回すわけにはいかないからですね。
中心にいる人からすれば回っているんですよね。
人の鑑賞体験としてインサレーションに含むということを考えたくて。
それを聞くと最初の話が種巻きとカラスというのも
鑑賞者の視点の話だったから、そことも関連してくるわけですね。
カリキーとしてという意味ですね。
それに合わせたというか、それにも引用されるような作品をそのままに配置していたりもして。
印象的だったのはあれじゃない?
マイムマイムを覚えて。
マイムマイムというのは輪で回るから。
手を繋いで飛び出して踊って円形になってみんなで楽しむ民謡なんですけど。
鑑賞者はそんなことを考えなくても、作品を見ていれば
気づいたらそのインサレーションに取り込まれていくような配置を考えたりしていたので。
同じ作品でもそれだけ鑑賞体験が変わるようにということは考えていましたね。
展覧会は巡回展でもないし、仮にしたとしてもこれは埼玉でしか見れないことをやっているということですね。
作品が変わるかも同じものは見れても。
空間で強調したいことだったり、配置だったり、
それ自体が展覧会の何を占めているのかというところで扱いが結構変わったりするので、
そういった意味では、全然鑑賞体験は違うかなという気がしますね。
鑑賞者体験の変化
飯田さんが推していたクレバス、これはどういう作品なのですか?
今まで素材を積み重ねたものを掘るみたいなことをやって、
大体200枚くらいですか、写真を?
そうですね、200枚。
最近はもうちょっと枚数を減らしたりしながら、
写真の束というか塊を掘っていくということをやっていたんですけど、
今回はそれを重ねたものを横から見た断面というか、
そこから絵を感じられるようなものを作っているんですけど、
そういう時間軸をどういうふうに素材にしていくかというか、
一枚一枚印字されているものが違っているというものを重ね合わせて、
彫刻の素材にしていくということが、
本当にいろんな意味で結出したすごい作品だなというふうに思っていて、
イデン・クレバスという作品は。
これは僕も衝撃を目指していただいて、
今回改めて作り方をお二人から説明してもらっていいですか?
まずは何の写真でしたか?
今回は白爪草というキカ植物のシリーズでずっとやっているんですけど、
同じ白爪草という被写体を選んでいて、
やっていることは普段の制作と同じで、
動画をコマに落としていく。
シークエンスを一枚一枚の連続写真に落としていく。
普段だったらそれが数十枚から数百枚なんですけど、
今回はだいたい2万3千枚から2万5千枚。
2万3千枚なんですね。
2万4千枚が0.01ミリぐらいなので、
3千から2万4千ぐらいの出力の連続動画になっていて。
動画を一コマ一コマ2万4千フレーム。
2万4千フレームを一枚ずつ出力していく。
そうです。それを時系列に並べているという状態です。
2万4千枚は積むとどれくらいの高さになるんですか?
これがちょうど1枚が0.01ミリなので、
そうするとだいたい230㎝くらいになります。
人間よりも全然でかいですよね。
そうですね。今回は全部そのぐらいの大きさになります。
まず積みますと。
これまでは数十枚のものを掘っていくから、
展覧会として見るときには平面でいい。
立体だけど平面に見えるけど、
今回は2万3千枚をスライスする。
縦にグワーッと。
そうですね。
それを断面を見れるということですよね。
2万3千枚の積み重ねの断面。
一部を見れるという。
普段は地表からクレートを見るみたいな感じ。
投稿船みたいなことですよね。
普段の見え方としては。
作品制作の過程
山奥間の投稿船を見ている感じ。
今回は崖を。
地層を見るという。
言うのはすごい簡単だと思うんですけど、
まず2万3千枚、4千枚を出力するのもすごい大変だと思うんですけど、
それを切るんです。
そうなんですよ。
簡単にスパンと切れるわけじゃないですよね。
一枚一枚上下切る。
最初どっちが言い出したんですか。
私ですね。
これ聞いたときに、
こいつ正気かよと思いませんでしたね。
もうその断面が綺麗だっていうのは、
もうずっと昔から言ってたよね。
いつかやらなきゃと思って。
そもそも田中は本を造本しているので、
造本設計の紙の断面の綺麗さっていうのは、
僕も本を素材にしていたので、
嫌が思うでも共通的な美しさの意識としてはあったんですよ。
そもそも写真にこだわりを持って、
初期の方の作品作りをしていたときに、
側面の見え方ってすごい大事にしていたところもあったので、
だからそういうところからも多分意識はすごいあった。
でもそのときはまだアプローチが、
表面に対してどうアプローチしていくか、
そのアプローチしたものがどういう風なイメージになるかっていうのを、
すごくやり取りが必要なことだったし、
そのイメージを固めるまですごい時間がかかるっていうのを感じたので、
まずそれをいろんな素材でやった。
で、ある程度、さっきも田中が言ってましたけど、
千葉で本当に出し切るだけ出し切った。
で、ある程度ところまで行ったってあったときに、
これやろうよっていうのが、
やっぱりあれ綺麗だよねっていうのがすごく面白くないっていう。
その1個前に、
映画1本分印刷したものを積み上げるっていう作品をやってみて、
それもすごい綺麗だったんですよ。
それは断面カットしてないんですか?
それは積み重ねるだけ?
それは完全に映画のスクリーンそのまんまの大きさで、
その比率で、
それを小さくして積み上げるっていうことをやったんですよ。
ちょうど3時間ぐらいの映画だったんですけど、
それと何枚ぐらいになったんですか?
それはフレームを1秒で1枚みたいな計算をしてたので、
実際1メーター60とかぐらいの感じだったんですけど、
でもそれをやって、
いろんな側面見たことあるんですけど、
1枚1枚が全部違う画像で側面が連続的に連なってるものって、
正直見たことがなかったので、
その映画のやつを見て、
これは本当に側面で出てくる部分っていうのは恥なんで、
それがどの先目を捉えるかで、
全く変わるなと思ったので、
小さめのサイズでバシバシ切ったんですよ。
試しにいろんなものを切って、
どういうものがどう動くかとか、
ある程度把握した上で、
それを最大化した状態だったんですよね。
今回は作品としては5点ぐらいあったシリーズ。
それは全部1枚は同じものから作られたんですか?
そうです。同じ画角の中の違う部分の画型を切ってるってことです。
2万3千枚から4千枚切る作業×5ってことですか?
そうです。
どれくらいかかったんですか?
それは本当にとんでもない時間かかっていて、
何ヶ月も、もちろん自分たちだけじゃなくて、
制作過程の工夫
すごい人数でみんなで取り掛かったっていうのがあって、
それでも毎日来てもらって何ヶ月もかかりました。
切ってみるまでどんな段目になるかわからないわけですよね。
それに関しては。
小さいもんプレイをやってたんで、
なんとなく上手なあれはあるんですけど。
途中ですごい調整をしてたよね。
そうなんですけど、
紙の積みが違うので、
本当の縮尺にしようとしたら、
例えば小さいサイズにしたら、
そもそも0.01mmを10分の1の0.001mmみたいな紙は存在しないので、
完全に縮尺はできないし、
あともっと言うと紙の側面に色が見えるってこと自体、
そもそも本当はおかしくて。
確かに確かに。
じゃあどうして側面が白くないで色を持つかって言ったら、
印刷物をカットすることによって、
紙がちょっと、
歯でこうやって、
その微かな色味を視覚的に把握しているだけだったりするんですよ。
それもあってちょっと高く展示してあるのもそういうことですか?
視線をずらせるようにしているということですか?
真上からすごい角度で鋭角に見たら真っ白になるし、
それらをもっと細かく言っていると、
なぜ段差鋭でバチンと切らないかって言ったら、
その手切りによって生まれる段差から色を拾いやすくするためなんですよね。
手作業とはちょっと幅が違うんですよね。
そうなんですか。一応裏はどれくらい?
指定してるんですけど、
0.1ミリとかの調整はできないので、
微妙に凸凹になるんですよね。
手作業ゆえの。
それがある種、色を拾う行為にもなるし、
またそのもの自体の身体性だったりとか、
物質性みたいなものを帯びたりしているっていうのもあって、
そういった調整、あと最終的に薄くコーティングしているんですけど、
それによってインクの滲みが前に出やすくしたりとか、
特に細かいところの調整をしないと、
意外とああいう風にはならないっていうのがあって、
それらの失敗というか、やり直しみたいなのを結構やってますね。
一回作るまでに何回かやったとその調整。
何回もやり直しますね。
あれ微妙に5つ全部サイズが違うんですよ。
あ、そうなんですか。
それは何でですか?
それはですね、もはやまず噛み合ちとある一部のトリミングというか、
その部分と色柄の計算をするのも相当実は大変なんですけど、
同時にこれは本当にやるまで気づかなかったんですけど、
インクが乗った部分とインクが乗っていない部分で、
噛み合ちが微妙に変わるんですよ。
でもそれが積み重なると?
そう、数百回程度ではそれは感じできないんですけど、
2枚をかける2枚を乗せると、
それが本当にちょっとしたビザでも変わってきちゃったりするんですよ。
それをコントロールするのは不可能で、
なので縦軸の部分というのは大差が生まれるというものになりました。
とんでもない作品ですね、そういう。
本当にやってみてはーみたいな。
途中でやめたいのはなかったんですか?
なんとか作品にするということを、
いろんな知恵を相当にして一個ずつやっていったという感じなので、
やめたいという感じはならなかったですけど、
展示空間の意図
なんかでもこれが褒め言葉なのか全然わからないですけど、
仕事からいろんな作品を見ますので、
例えばいわゆる超絶技巧系のすごいラデンだとか、
そういうのを見てきているわけで、
それは本当に素直にすごいなと、超絶技巧だなと。
ネルフォルさんの作品はそれが言われたらすごいとわかるんですけど、
本当に輝かすぎて、
そのすごさがすごく見えないからすごいいいなと思ったんですけど、
嬉しいです。
もう本当に一つの物質として、
単純に綺麗だなと思っちゃったんですけど、
その裏にはこういうっていうことが。
本当にそれはすごくありがたい言葉で、
こんなにやってますみたいなものって、
ある種、ガッツとか技巧性とか、
工芸的なものとかもそうですけど、
すごくやっぱり大変なものっていっぱい世の中に存在していて、
そう簡単にできるものじゃないじゃないですか。
でもそれによって担当される美術もあっていいと思うんですけど、
やっぱりそれよりも鑑賞者が、
そのもの自体がどういう構造とか、
どういうものかとかって関係なく、
いきなりすぐ対峙して感じ取れる何かみたいなものに
すごく興味があったりして、
その興味があるからこそ、
たぶん二人で力を合わせている部分もあるというか、
それはもしかしたら、
これが一発で彫刻ですって言いたいとか、
これは写真ですとか、
いろいろあると思うんですけど、
そういうことではなく、
それぞれがやれることを考えて、
それが一つの形に結実したときに、
そのものから出てくる何かみたいなものに
すごく惹かれているというか。
なので、
すごい大変だったでしょうっていうのは、
大変でしたっていう感じではあるんですけど、
それ以前にこれは一体何なんだろうっていう感覚に
いただきたいというか。
もちろん方言も素晴らしいと思うけど、
やっぱりすごいなと思って、
その作品がすごいっていうことで、
その作品ばっかりフューチャーになっちゃいがちで、
この作品で何かを考えることはあんまりないと思います。
それは別に方言の良さだと思うんだけど、
ネイルフォンさんの作品って、
やっぱり見てる人が、
例えば時間の経過とは何かとか、
積みか空間とは何かとかって、
何か考えたくなるというか、
ついつい考えさせられちゃうんですよね、
作品見てる時に。
それって多分やっぱりそこがすごく作ってますが、
買っちゃうと、
多分そこまで作品に入り込めない気がしてて、
だからそこがすごく絶妙なんだなっていうのが、
今の話聞いてて、
すごいよくわかりましたね。
そうですね。
でもじゃあこのシリーズは今後も作っていきたいのもあるんですか?
どうですか?
作っていくと思いますけども、
やっぱり初めての試みだったので、
やってほんとに気付いたことがいっぱいあって、
同時に、
今回、キカ植物っていうものをテーマに作ってますけど、
そこに限定することもないことなのかもしれないし、
もっとこういったものであったらどうなるだろうとかって、
僕らもやってみてはこういう風になったっていう感じだったので、
今は逆にそれを踏まえて、
何ができるかっていう展開は考えていきたいなとは思います。
ちなみに作品の2万3千枚のうち、
一番上から下に向かって時が進んでるんですか?
そうです。
完全に時系です。
それを踏まえてみるとまた見え方が違うと思います。
そうですね。
本来はなので、
崖とは逆ですね。
なるほど。
普通は地層だったら下から積み上がっていってるってことですね。
そうです。
ちなみにその作品が飾ってあった部屋で、
もう一個個人的にびっくりしたのは、
埼玉近備よく行ってるので、
埼玉近備の床のカッペットが剥がれてると思って、
衝撃的だったんですけど、
あれは意図的に剥がしたんですか?
そうですね。
床を剥がすことはなぜか、
作品を作る以前から決まってたんじゃないかくらい。
そうなんですか。
一番初めにそれは決まってたよね。
何かやらないとまずいっていう、
この空間かっていう感じはあったよね。
割りをする時に大きなスペースと、
こっちは2部屋で、
こっちは建築を見せる。
だからその空間は欲しいよねとか、
そういう大きな振りみたいなのがあって、
そこに何を入れようかとかの時に、
もともと計画してた作品って、
もう作ってもないくらいに計画で、
無くなっちまったものもあるけれども、
そういうのがここに入ってとかっていうのを
構想はずっとしてたんですけど、
その時に、
大きな部屋がスコンと抜けていること、
そこにどうやって作品を何個配置するかとか、
そこで大きさを決めたりとかをしていたんで、
それが実際にどう見えるかってあった時に、
展覧会が始まって、
前の展覧会が開けた後に、
サラーの状態で会場見れますよって言った時に、
これって剥がれるんですかね?
今回のために剥がしたってことですよね?
剥がしたら、すごい綺麗だったんですよ。
でも、そこにはカーペットを接着している糊が付いていて、
これだとまずいって言って、
その糊をどう除去するかみたいなことを、
次の展覧会をやっている間に話をしながら、
どうやって構成するかとかを一緒に考えて、
ただ剥がしただけじゃないんですね?
そうなんです。
糊がめちゃめちゃあって、
表面に薄いウォルタルを混ぜた液体を塗って、
足がくっつかないようにしている。
これは番組で使っていいのかわからないので、
今日よかったら消してください。
前に小屋さんの展覧会に行った時に、
先に長野で見せたんですよ。
すごい感動して、
これが埼玉近郊に来て、
どうなるんだろうと思ったら、
感動が薄れてたんですよ。
なんでだろうと個人的に考えた時に、
オフィスみたいな床が、
多分相性が良くなかったかなと思って、
だからあそこ彫刻には不向きな、
天井だかもあんまないじゃないですか。
と思ってたから、
ネルホさんのあれを見た時に、
時間の考察
この手があったかみたいな。
最初からあれ、
とりあえず手もこれでやったらよかったじゃん、
ぐらいに思ったぐらい。
多分、今回の作品も特に、
木の作品とかもあったんで、
やっぱりあそこが床を剥いだのは大正解だったし、
床のテクスチャーと作品が、
またマッチしてる感じもあったんですよ。
そうですね。
本当にコンセプトとして見るならば、
そもそもやっぱりカーペットって、
数十年間ずっと使われてきていて、
踏み流されているカーペットっていうものが、
すでに床に存在していて、
それはある種、
時間の蓄積を帯びていて、
それを剥いだものを、
カーペットを積み上げることによって、
生まれる積層みたいなものっていうのは、
興味があったっていうのはあるんですよ。
ただ、それ以前に、
まずこのビネスカーのこの空間を、
建築から捉えたときに、
おそらくこれは、
もう作品がない状態で、
完成を見せているなっていう感覚があったんですよ。
黒川さん。
完全に、
展覧会の美しさ
もちろん展示スペースだということは考えていらっしゃったと思うけども、
空間として最も美しいのは、
壁面も必要ないし、
ガラスもちゃんと見えていて、
それが公園を、
公園とガラスの間に、
さらにまた黒川さんの建物が見えていて、
その公園の奥に駅が見えるっていう、
風景を見せたいっていうのもあっただろうし、
カーペットを敷きたかったわけでもない。
それらを全部加味したら、
この空間は本当に美しいっていう風に感じて、
そこをむしろ引き受けるというか、
取り込む形で、
自分たちの目指している作品のコンセプトと
共鳴させることができたら、
面白くなるんじゃないかっていうのはあって、
それの先だって一番初めに決めたのは、
まずカーペットを剥がすみたいな。
でもこれってことは、
展覧会終わったらまたカーペット…
戻します。
その作業も待ってる?
待ってます。
なので積んでるものは綺麗に
あそこに戻ってくっていう。
今積んだらそこをベンチみたいに使ってください
みたいになってるのがね、一画にあるので。
それも踏まえてちょっと見ていただきたいなと
思うんですけど。
ぜひ展覧会のタイトルにもなっている作品もあるので、
ぜひこの辺りはちょっと番組の後半でまた
引き続きご紹介いただければと思っております。
展覧会の告知とプレゼント
ではですね、改めて企画展の告知を
よろしくお願いいたします。
どっちから?
どっちから担当しますか?
じゃあ僕のほうから。
はい。
じゃあ一言よろしくお願いします。
ゼルホルタネマキとカラスミス・リーディング・ライチャースミスは
埼玉県立近代美術館を会場にして、
会期は10月13日までやっております。
ぜひ皆さんお越しください。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、ここでリスナーの皆様に素敵なお知らせです。
今回ご出演いただいたネルホルさんの
埼玉県立近代美術館での展覧会チケットを
抽選でなんと10組20名様にプレゼントいたします。
パチパチパチパチパチ。
さあということでご希望の方は
番組ウェブサイトのお便りフォームへご応募いただくか
ハッシュタグそろそろ美術の話をつけて
Xに投稿してください。
締め切りは9月23日。
当選された方には番組プロデューサーより
直接ご連絡を差し上げます。
ということで皆様からのご応募
心よりお待ちしております。
57:15

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