1. そろそろ美術の話を...
  2. #093 作家と共犯関係を結び、..
2023-10-14 54:57

#093 作家と共犯関係を結び、広げていくこと(プロデューサー 芹沢高志)

アートディレクター・プロデューサーの芹沢高志さんをゲストに、現在に至るまでの紆余曲折をお聞きしました。

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Guest Profile 芹沢高志(せりざわ たかし)

  • 1951年東京生まれ。神戸大学理学部数学科、横浜国立大学工学部建築学科を卒業後、(株)リジオナル・プランニング・チームで生態学的土地利用計画の研究に従事。その後、東京・四谷の禅寺東長寺の新伽藍建設計画に参加したことから、1989年にP3オルタナティブ・ミュージアム東京(現 P3 art and environment)を開設。1999年までは東長寺境内地下の講堂を拠点に、その後は場所を特定せずに、さまざまなアート、環境関係のプロジェクトを国際的に展開している。

Show Notes

芹沢さんについて

学生時代の話題

師匠にあたる人の話題

アートにつながる都市開発の話題

親交のあったアーティストの話題

さいたま国際芸術祭について

サマリー

アートテラーさんは、美術についての話を続けます。芹沢高志さんがアートディレクター・プロデューサーとしてゲストに参加されています。彼はアースデイのデザインをしていた時に、地域計画家のイヤン・マカハグさんと出会いました。彼の提案するエコロジーの知見を活かしたランドスケーププロジェクトにも参加することになりました。そして、その後は禅太郎さんの建築計画に携わり、地下の空間を利用したオルターティブな場所を作り上げる予定です。アートテラーさんは以前はアーティストとの繋がりはなかったので、初めてアーティストと出会うことになります。しかし、この計画によって、P3という場で生身のアーティストと出会うことができました。そこで、世の中には様々なタイプの人がいることを実感しました。アートテラーさんは、共犯関係を広げていきたいと考えており、アーティストとクライアントの関係を超えて一緒に面白がってほしいという想いを持っています。

美術に興味を持ったきっかけ
はい、アートテラー・とにのそろそろ美術の話を。この番組は、私アートテラー・とにがアートに関わる方をゲストにお迎えして、トークを繰り広げるポッドキャスト番組です。
今回は前回に引き続き、アートディレクター・プロデューサーの芹沢高志さんをゲストに、ご経歴を交えつつ、美術についての話を続けていきたいと思います。
はい、ということで改めてよろしくお願いいたします。
前半は埼玉国際芸術祭の話題でしたね。
はい、今回ここからは、もっと芹沢さんを掘り下げていくことになりますので、プライベートな話を...
聞いていいよ。
毎回ゲストに聞いているんですが、いつから美術に興味を持っていましたか?
それがね、なんて言ったらいいんでしょうね。
普通の意味での技術っていうふうに言えなくもない、言えないかな。
どうしてもスッと言えないのは、
ちょうど自分が10代に過ごした1960年代なんですよ。
少しはご存知かもしれないけど、あの頃って日本だけじゃなくて、世界も揺れ動いて、学生運動とかがいろいろあったし、
特に美術が好きとかなんとかってんじゃなくても、
例えば思い出すと、ほとんど学校をサボったりしてた。
新宿、割と新宿に出てくることが多くて、
伊勢丹の遠い面ぐらいにアートシアターってあって、映画館があったりして、あそこやらによく観に行ったりしてたね。
伊勢丹ぐらいまでは、新宿通りのところは普通の街っていうか、一応きちっとできてる街。
明治通りのあそこやらまで行くと、だんだん怪しげというか、
なんだろうな、一味無料って言ったんだけど、
- 歌舞伎町とは別にそっち側まで行ったことないんですか?
歌舞伎町まで行っちゃえば、また大変な世界だけど、
- こっちはまたこっちで?
日曜目とかそこやらに近づくところで、
サイケディックなポスターばっかり売ってる店とか、
ちょっと外れてたのは、あのズムギに行けば、カルジュウロたちが赤テントをやってたり、
なんて言うんですかね、犬もあるけど、ここにあたる式ので、
特に演劇が好きだとか、特に美術を見にどこか行くっていうんじゃなくて、
街歩いてると、時々とんでもないものと出会っちゃう。
いた、なんだ、みたいな。
あの頃は名曲喫茶って言い方でしょうけど、名曲喫茶とかジャズ喫茶とか、
つまり行くとこないから、
たまには敵に行くと、そこに大体、まあ落ちこぼれてる言い方がいいかどうかわからないけど、
すごい映画フリークのやつがいたり、
そのもう、いろいろ、野外のフェスを回ってるやつがいたり、
まあ当然美術が好きなやつとか、
そんなやつがまあ、大体、中学とか高校に、まあじっとしてられないようなやつっていうのが、
なんか、でも街に出て行っても行く場所がなくて、
まあ集まってきちゃってるようなところもいっぱいあった。
だから、まあそういう中に、その、どっぷり入り立ってたわけじゃないんですけど、
でもまあ基本的にそういう、まあ世の中全体がそんな感じではあったから、
いったいその、どっからその美術ってものにその興味を持ったかっていうのは、
まあ振り返っても、よく思い出さないんだけど、
まああの辺りからかな、ぐらい。
でもあえて今の仕事なんかとくっつけて言ってみると、
ちょうどね、69、1969年だけど、
クロストークインターメディアっていうのがあったんですよ。
それはメディアとしてってことですか?
いや、だから今から言ってもどう説明していいのかよくわかんないんだけど、
代々木の競技場の体感を3日間借りて、
まあパフォーマンスっていうのがいいのかな、
そのまあアメリカの実験的なアーティストが多かったんですけど、
ダンサーとかミュージシャンとかそういう人たちが、
まあその一晩にいくつかの演目をこうやるんだけど、
イベントだったの?3日間。
ちょうどね、まあ多分今から思えばその翌年1970年に、
大阪万博っていうのが開かれることになって、
まあそこでこういうふうにやっていこうとしているその、
まあ例えばアメリカ館とかなんかこういう見せようとしていることも含めて、
そのアメリカの一番アバンギャルドっていうかその、
ちょうどその頃っていうと、
例えばビデオがね、民生用の普通の家庭用のビデオっていうのがだんだん出始めて、
アーティストもそのビデオっていうものを手にし始めた頃、
そうすると一体これで何ができるだろうっていう、
まあ広い意味でテクノロジーとアートのその、
まあごちゃ混ぜ状態を、
今みたいにすごい洗練されてないから、
よけいまあラディカルにやってる連中たちがいて、
まあその人たちのことをこう見せていく。
そういう、
その大阪万博を狙ってっていうか、
その前哨戦みたいなことをね、
やったんだと思うんですよ。
思ってが、
だから実際は何でそんなそこに行ったのかもう全然覚えてないし、
でもまあ基本的にそういう普通体感の、
その会場の中でまあそういうその、
ダンサーの声にいろいろ移動したりなんかしてるのをこう見てるっていう経験自体が、
まあ何だろう、
新鮮だったという忘れられないものがあって、
で、さらに言うとその翌年1970年に、
1960年代の学生運動と新宿の街
東京都美術館でその、
東京メーナーレっていうのをやってたんですけども、
そこにまあたまたま行くわけですよ。
そこのとこでね、地下の彫刻室、
そこに降りて行ったらその、
まあクリストって模試にやったけど、
あの外線も布で包んだみたいな。
その人がまあ、その頃から布で包み込むってことに、
こう異様に入り込んでるんですよね。
床の包装っていう、
床の包装って長い、
包装できないんですよね、普通に書いてあるんですよね。
まあ要するにその白の工事用のシートで、
その床面を全部こう置いただけの話なんだけど、
でもね、まあこうやって説明しない、できないけど、
その床の包装という作品の中に、
まあそこ歩けるわけで入っていくわけですよね。
もう実際その彫刻室全体を、地下は全部こうやって。
そのまま床の、そのまま直接置いてるわけじゃなくて、
少し空間ができてるってことですか。
あの階段から降りてくる、
階段からないから降りてくる。
でやっぱりなんか、
なんだろう、そういう体験っていうのが、
まあ全く初めての時に、
自分でもわかんないその開放感っていうか、
なんかそれをその、
理屈でも説明できる話じゃないんだけど、
もうその、その開放感というのはもう、
やっぱりずっと忘れることができなくて、
多分それは、
それまでそんなちゃんと体制映画的な、
その美術館とかなんかで、
見に行ってたわけじゃなくて、
別にそのアート不安でもなくて、
その、まあそれは言ってもピカソとか見ろとか、
見ましたけどね、
でもその程度の話で、
そこで初めて多分、
まあそれはアートと呼ぶならば、
その、そういう状況っていうか空間の中に、
その69年とか70年の時にこう出会ってしまったこと自体が、
なんでしょうね、やっぱりその原風景みたいにして、
残ってることだしかもね。
その時はもう高校生、大学生です。
あのね、あの頃もう本当にこう、
世界が揺れててっていうか、
東大フロンソーとかああいうのもあったじゃないけど、
それで、なんかこういうのだったら完全にドロップアウトしてやろうかと思って、
それでイチローするような格好でブラブラしてたって言い過ぎだけど、
東京で、そうやってブラブラしてるその時間ってのは、
今から考えると結構貴重だったのかも、
その、まあそうやって自由に街を歩けるじゃない、
で、さっきの犬じゃないけど、
そのいろんな棒に当たりましたけど、
じゃあそういう経験をして、
じゃあそのままそういうことの方向に進んでいくんですか?
いや、だからさ、まあそこまで意識できちゃなくて、
どっちかっていうと消去法で言うと、
自分は文化系よりも理科系的な人間だったんでしょうね。
だからね、最初は数学に行ったんですよ。
へー。
それも神戸大のね、神戸に行ってね。
まあ、理由言うとあんまり馬鹿ばっかりしか言わないけど。
え、でもその数学の道にはじゃあ行かなくて?
そう、それでね、またね、
この話もすると本当に馬鹿にされてしまう。
いやいや、嫌いです、嫌いです。
嫌いです、嫌いです。
まあ数学やってて、
それで、ただちょうどそういう70年代の初めぐらいになると、
今で言うとこの地球規模の環境問題みたいなものは、
もういろんな世界中でこう言われ始める。
と同時にね、リューンって砂の惑星っていうSFが、
うん、この前ね、ビルズームが映画化してるよね。
で、その本をね、読み始めて、
たぶんね、生まれて初めて、徹夜して本読んだっていうのは、
SF小説と美術に対する関心
あの経験が最初だなと思うんだけど、
面白くて寝れなかった。
もうついどうなるのかと思って、こういう風に入り込んでるね。
それで、まあ恥ずかしい話だけど、それをこういう風に読んでって、
自分はこういう、そこの中に、まあ惑星生態学というか、
その砂の惑星をこう、まあいかにエコロイカルにこう変えていくかっていうことをやる、
まあエコロジストとか出てくるんだけど、
で、なんかやっぱり今抱えてる地球の問題とか考えて、
そういう惑星生態学っていうのを、
まあ自分はやるべきだみたいに、
そんなSF小説を読んで、そんな思うなって思うけど、やっぱりまあ、
若い時ってまあやっぱり、
ガールズボタンを踊る大作戦を見て、警察になろうと思った時がありますね。
そうですよね。
そういうことです、そういうことです。
こうやってね、
で、ああいう風に考えて、じゃあ建築に移っていったら、
その、まあ数学的な一応の知識とか、それから、
ちょっと前に見たわけわかんないけど、
まあそうやって空間丸ごとなんか、
まああれはアートと呼んでるんだったら、
まあそういう世界とも近くなれて、
なおかつその地球規模の環境問題みたいなものにもアプローチできるんじゃないか、
などと思って、
それで学者編入して、今度建築やりやりなんだけど、
まあ入って半年もしてないうちに、
俺は向いてねえな。
そしたら何が向いてないかと思ったんですか?
いやいや、
例えば机の高さは、72センチにするのか、3センチにするのかとかってものすごく、
確かに、建築家はもうミリで言ってますもんね。
7センチとかなんか言いますもんね。
それがダメなの、俺、こういう細かいことを。
こうやってね、やばって思って、
なんかもうちょっとこうでっかい、
まあ一方だと、地球の問題がどうなのかなって、
いつも頭の中で考えてるじゃん。
当時、ランドスケープとか造園とかそういう分野があることを知っていれば、
何も建築に移らなかったかもしれないんだけど、
なんか、
一応年を食って入っていくからさ、
大学院生とかなんか教えてくれるんだけど、
手やんで、みたいな。
そんなことなしで、すぐ辞めちゃおうと思ってた時に、
自分の師匠に会ったんだけど、
イソメ・ユキヒサっていう人と出会うっていうか、
大学に来て、彼が講演して、それ聞いて、
建築家の学生を集めて、もう建築プロチョンに。
その時に。
全員、それに対する反発をやってて、
僕自体はもう辞めようとしてるから、
一番最後に手を挙げて、熱狂的に彼を指示したのね。
それで、終わってから彼が手招きしてるから、何だろうなと思って行って、
うちのオフィス遊びに来ないかとか言うから、
そこからもうほとんど、
会社って言っても研究室みたいな感じですけどね。
元々、ご存知の方はご存知かもしれないけど、
60年代くらいに日本で活躍した現代アートっていうか、
版画とかシルクスクリーンとかやってた人間なんだけど、
フルブライトでアメリカに移って、
迎えに来たのが大野陽子だったとか言ってたけどね。
ただちょうどその頃って、アートも大きく変わり始める頃で、
アースデイのデザインから地域計画家との出会い
1970年の地球の日みたいなアースデイをやっていく中で、
いろんなアーティストが集まってきて、
やっているうちに、
彼は日本人アーティストコミュニティの
ま閉塞性みたいなのに嫌気をさせていたんじゃないかと思うんだよね。
そのアースデイのデザインをしているうちに、
ある地域計画って言ってますけど、
エコロジーの知見をもう少し我々の土地の利用の仕方に反映していこうってことを
提唱しているランドスケープアーキテクトというか地域計画家がいて、
そのイヤン・マカハグっていうところにランクに入っちゃって、
もうアート界だから一切手を引くからここでやってた。
ちょうど日本で環境アセスメントっていうのを導入するとかしないとか言っている頃、
誰も専門家いないから、それでアメリカから呼び戻されるっていうか、
壊れてやってきて、
自分のチームを作る。
本当にチームって言っても誰も協力者がいないから、
当時建築の方の大学院生とかが集まってそれを手伝ってたかな。
面白いなと思って、学校に行くよりこっちの方がいいなと思って、
それでもう辞めちゃいますからとか言ったら、
あんた大学はそんなに焦って辞める必要ないから、
働きながら適当に行くのか、この人はいないからとか言って、
それが横浜国立大学だったけど、そこは一応卒業するんですよ。
建築、いまだに細かいのはどうでもいいと思ってますけど、
一応理解はできるところまで行ったんだけど、
実際その後は地域計画っていう、
なんで今アートやってるの?みたいな、
ただね、もし大きな工場を作ろうって言った時に、
普通さ、立地をどこに立地するかという計画をする時に、
水がいっぱい使えるとか、高速道路が横に走ってて、
すぐできたものを運んでいけるとか、
物流のことを考えて、
そういう、基本的に経済のことだけで工費を作っていく。
それで本当にいいのかっていうのが、エコロジカルプランニングっていうのの考え方で、
空気のこととか水の流れとか、
だいたい我々の目に見えないけど、立っているこの地面の下っていうのも、
水がいっぱい流れやすい層もあれば、水を流さない層もある。
いろんなものがある。
でも時々こういうふうに曲がってて、
水がすごく吸い込みやすい層が上に出ちゃっている部分もある。
ここら辺で、例えば汚れた水をこういうふうに走り出したりすると、
ずっと全然遠いところの地下水が全部汚染されるとか、
あるいはこういうふうなところを不凍水面と言うけど、
水が吸い込まない大きなコンクリート面にしちゃったりしていると、
雨が降っても不凍水がここから染み込んでいかない。
また遠くのところで水を吸い上げると地盤沈下が起こったりとか、
みんなくっついているというか、
そういうのはあらかじめとにかくわかる範囲でいっぱい調べて、
ここよりこっちの方が作るんだったらいいよとか、
環境に対するインパクトというのがなるべく少なくするような格好でとか、
そういう計画を作っていこうということで、
今から考えたら運営の差で堅い仕事をできたての環境庁とか、
禅太郎の建築計画への参加
国土庁の若い役人たちと一緒になって、
環境の基本計画とか、そんなものを作るとか、そんなことをやったの。
今の段階では全然アートに行く経歴ないですね。
ないけどね、これも今から思えばだけど、
磯部さんの事務所なんかにいて、
ある朝、2階に部屋があって、
急に階段ですれ違った奴が、
風船に乗って変なバイクを着て、
ズボンのバンドのところに手拭いコーヒーをかけて、
そのオッサンとすれ違って、向こうはニコニコしている。
見たからにただもんじゃない。
仇ではない感じ。
帰って行ったら、磯部さんが、今、パイプと会ったかって言うからさ、
パイプって、あのナムジンパイプって言ったら、そうだって言って。
ナムジンパイプとすれ違ったんですかね。
友達なのね、磯部なんかは。
だから、そんなようなことの、
磯部さんも他の職員には全然その後の話なんかしないわけだけど、
なぜかなんか気に入ってくれて、
二人だけになると、ニューヨーク時代の話をものすごく聞かせてくれたりしてて、
彼の友達なんかもいろいろ紹介はしてくれるっていう、
そんな関係だけど、
全然自分がその後の方に行くのに全く考えてもいないから、
それで一応そこからフリーの格好になって、
時々プロジェクトを元に、
磯部さんのチームとも一緒になってやっていくっていうような形をとってて、
しばらく過ごしているうちに、
当時の元同僚だった建築家のやつから、
東京の新宿園と四津屋の中間ぐらいの、
ある禅太郎ができて400年経つんで、
新花壇を建てるっていう、
その建築計画に加わってくれっていうふうに言われて、
そういう建築プロジェクトに加わるかというと、
都市化アーツだよね。
そういうことをやりだして、
その時のオーダーっていうのは、
草っていうのは都心の寺?
横を見てもすごいハイライズのマンションが建てるような、
そこでの住職も僕と同い年ぐらいだったから、
あの時はまだ住職じゃなくて副住職だったの。
自分がついで何かやっても、
ずっと法人やってくるダンガル人をさ、
ここのとこにじっと座って待ってるっていうのも嫌だなって。
せっかくこういう都市内の寺院だったら、
もうちょっと違う役割があたせるんじゃないかみたいな、
そこを考えろと言われて、
それで結局、結果だけ言うと、
池の境内を作っちゃって、
水をひいて、その境内の下をぼこっと掘り抜いて、
ロフト型の空間を作ったんですね。
そこをお寺が使ってないときは、
現代文化に開放しちゃえばいいんじゃないかと。
そういう計画を立てて、
頭の中ではちょうどニューヨークに、
ジャドスンメモリアルチャーチっていう教会があるんですよ。
ジャドスンの使ってない地下室を、
彼らがちょっと改造して開放したら、
ちょうど場所がオフオフオフブロードウェイぐらいなので、
あそこを離れていくと、だんだん売れない段差が層みたいになってた。
カニガワムとか、当時のアバンギャルドですら、
それも古いって言ってるような若い子たちが、
ただ、練習したり発表する場所もないから、
ジャドスン教会に集まって発表を始めた。
そこでやる?
それでそれが、後にあるポストモダンダンスがそこから生まれて、
ジャドスン教会派っていうようなものが出てきたり、
それは遠目で見てたんで、
もしかすると、急にお寺で、
でもお寺ってあんまりそういうのやってないから、
地下の空間を活用したオルターティブな場所の創造
だったらそうやって開放するだけで、
何かの役に立つのかもしれないって言って提案して、
当時はバブルが終わりかけてる頃だったから、
まあそういうラッキーさもあったんでしょうけどね。
いろんなお金集めとかそういったところで。
まあそうかと言って、とにかく地下の行動をオーディトリアムとして設計したんだけど、
そういうのを作ってもいいやって言って、留職たちと。
その日の会議のことは本当によく覚えてるんだけど、
作っていい、じゃあこのプランで行こうみたいな。
だからまあやったみたいな感じで。
普通建築とかああいう都市環境の開発でもそうだけど、
まあだいたいクラウントからそういう話でやろうってことになった。
まあそこのところで、おーって感じでそれを完結させていけば終わるわけで、
まあはいさよならっていう言い方はあれだけど、一応プロジェクトはそれで自分の役割で終わって、
また違うところを狩猟民みたいな感じで動いていくのかな、建築家なんかもみんなそうだし。
で、やったっていう感じだった。
その会がなんかシーンとして、
で留職がなんか一言、でも一体それ誰がやんだって言うんだよね。
作ったはいいけど、運営するやつを。
誰がやんだって、そういうクラウントのお寺だって言おうと思ったんだけど、
それまで2,3年ずっと一緒にやってると、これ寺には無理だなって。
ここのお寺のみなさんじゃ。
うんうん、まあ普通の町場の寺だしね。
で、ちょっとこう勢いがなくなってから、
ちょっと口ももって黙ったので、
その時4,5人いたけど、全員なんか顔見んだよ。
松井沢さんも。
でも俺みたいな感じなんだって。
確かに言い出しっぺだしなって。
でもすんごい甘く考えてて、
当時はさ、まだ西部も元気だったから池袋の西部デパートの美術館があって、
そこの横にスタジオ200っていうね、もっと多目的な空間もあったし、
あとまあ専攻してるのは佐賀町のエキュリティスペースとかあったし、
まあそういう意味ではオルターティブな何かを作っていくってこともできると思うんだけど、
別に美術館で働いたこともないし、
それかもし僕がその美術系の大学とかなんか行ったらさ、
先生とか一緒の友人たち、同級生とかに聞いていけるんだと思うけど、
全然違うとこから出てきてるから。
コネがない状態なんですね。
全くないんですよ。
だから余計甘くも考えられて、
まあそんなん小屋の親父っていうか、
例えばシューの半分ぐらいなんかちょっと見とけばいいんじゃないのとか、
なんかそういう思いもあったし、
まあじゃあやるかってことになって、
それを動かすためのためのP3っていうチームを作って、
あ、それがチーム名だったんですか?
チーム名。
それでそこから始まるんですよ。
そうやって始まったらもう全然思った事がない。
違う場所をこういう風に管理していくっていうのも大変だし、
これは好か不好かだけど、
全部地下の空間だから、
音を出す人はやりやすいんだけど、
そうは言っても反響する、
すごいあれになっちゃうから、
設計段階でサウンドブロックっていう、
スリットが入ったブロックをこういう風に積み上げて、
それをそのまま壁面としてはブロック剥き出しにしたんですよね。
音の方は急応してうまくいったんだけど、
電気をつけてみると、
スリットが入っているからものすごい島だらけ、島模様。
ホワイトキューブの全然、極端に違う方になっちゃって、
これはそこに絵を持ってきて描けても全然どうしようもないし、
一応お寺の空間として始めたけど、
そんなにすごいお金があるわけでもないから、
コレクションなんか持ってないし、
自分たちはやったこともないから、
ギャラリーとか作品を売るってことも、
どうやったらいいのかわからない。
で、やれる方法としては、
そういうオルタンティブな方向、
当時そうやって出かけて、
出始めたようなオルタンティブな大寺さんの場所の在り方、
美術館でもギャラリーでもないっていうようなことが、
その流れの中に入っていけるかなっていうようなことで、
佐賀町に聞きに行ったりして怒られて、
怒られたんですか?
どういう怒られ方なんですか?
まだ計画段階の時にね、
当時は割と安易な格好で、
都市開発の方で、
とりあえず文化関係のことをやって、
それで数年あってから、
そこをちょっと有名にして、
ぶっ壊して建てるとか、
中澤新一に文化事案でって言われて、
そういうのやめなさい。
EAで名言なんだけど、
文化的に言い上げしていくみたいなこととか、
佐賀町なんか真剣にいろんなそんな甘えがることで、
現代アートに関わろうとしてるのに、
現代アートって見たことあんの?みたいな感じで怖いんだけど、
なんでその子なんかやってんのが、そんな急にね、
そうなの?
それは本当に思ってもらえない。
そうですよね。
でもね、佐賀町でも大竹新郎の時、
三上成子って、ちょっと早くなっちゃったけど、
成子ちゃんとか、
最初にそういう、つまり、
アーティストとの出会い
自分のそういう人脈っていうのはないわけだから、
そこのところで、
初めてアーティストっていう人たちと会ってくる。
でもその計画、
P3っていうのを作って、
初めてそこで生身のアーティストっていうのを会うんですよ。
それでやっぱり、
世の中ってずいぶん違うタイプの人がいるんだなぁって。
それまではさ、
いくらエコロジーをどうのこうのとか言っても、
やっぱりそれはクライアントっていうのがいて、
クライアントの抱えてる問題とかさ、
それから課題というか、
解決しなきゃならない問題があって、
それを解決してくれっていうふうに頼まれて、
それに対する対価をもらうっていうことだよね。
これは数学で言うと、この問題、
その解決型っていう、
まあそれは、この社会の中の、
多くの仕事はそういうわけで、
なんか抱えてる課題を解決していく。
そのプロフェッショナルっていうのは、
これはよくアート、デザインってそんなに分ける人はもちろんないんだけど、
やっぱりデザイナーっていうのは、
やっぱりあるクライアントが抱えてる問題を、
美的にちゃんと解決する職能ってあるじゃないですか。
地下アートスペースの活動
僕はそれまで地域翼の方であっても、
そういうデザインとか、
課題解決型のとこにいたわけですよね。
でも初めてね、
なんでこんなことをやるのって、
誰にも頼まれてなかった。
こうやって、しかもさ、
静かに黙ってりゃいいのに、
なんか急に大げさに騒ぎまくるもんで、
これは問題発見型っていうのはすごく良い言葉だけど、
実際問題を起こす奴にしか言えなかったんだよね。
黙っとけばいいものを掘り起こして勝手に。
でもね、やっぱり、
今特に街でこういうことをやりだすとさ、
確かにさ、さっきちょっと話してくるような、
自分の家の前に綺麗な花があるのに、
今度ゆっくり見ようみたいなこととか、
いつも忙しいから先送りしちゃってるじゃん。
そこのとこに急に、なんでこんな綺麗な花があるのに、
お前気がつかないなって騒ぎ出してるさ、
よくこんな汚いとこに生きてるなみたいな感じで、
わーわーわーわー言い出して、アーティストって。
そうじゃないものを自分で作ってこうやって見せる。
それをしかも誰かに頼まれて、
お金いくらもらってやるってんだったら、
少しは理解できるわけだけど、
なんか、ある意味クラウドが自分とも言えるわけだけど、
こういう人たちがいるんだというかね、
それがすごいショックって書かないけど、
ずるずるって、だんだんアーティストと一緒に仕事することがこうやってついてて、
もう本当に引っ返すことができない。
あの日以来?会議室以来?
つくつくのが人生って事故だなって、
本当にまあまあ巻き込まれて、そういうこと多いんですけど、
なんかね、そういうふうな状況で、
もう引っ返しがつかないような感じになって、
今日だというか。
異なる文化との関わり
こんなのにも呼ばれ、こんな番組にも呼ばれ、あの時以来。
その禅寺のスペースはいつまであったんでしょうか?
10年間はね、やっぱりお寺の方もいろんなことをやっていく中で、
お金もだんだん大変になるので、
ちょっと新規の事業を始めなきゃいけなくて、
それでもう場所がないから、その空間を、
まあその寺本来の事業のために使いたいとか、
それはまあ当たり前にいいよって言って、
それで最初の5年間くらい、1989年に開いたから、
5年間くらいは割と威力的なことをやってて、
その後いろいろその寺との交渉の中で、
まあ年間2本とか3本くらい、
だけどその枕木になる地下の空間だから、
逆にね、アバンギャルドの音楽家とかダンサーたちが、
なんかそれも勝手に集まって、
なんか前歯なんかいろんな、いろんなことやったなぁと思い出します。
その中で一番印象的だったアーティストだったり、
ダンサーだったりっていうと誰ですか、その時代の。
そう簡単に言えない。
いっぱいいるからってことですか。
そう、あの、そうだな、本当にね、
まあそれは極端な話だけど、
まあそれはそのもちろん少しのお金をいただいて、
こうやって貸してくるような格好になってるから、
一体それが何をやる人たちなのかっていうのもよくわかんないから、
まあスタッフたちは、
モダンダンスに入れ込んでるやつとか音楽のお友さん君とか、
まあその頃さ、みんなさ、まだ売れてもいないわけで、
そういう人たちがなんか世の中に集まってて、
朝行ったらなんかうちのスタッフと、
お友さんがこの機材をなんか動かしてて、
で、俺も言ったらなんか後ろ向いて、
あ、見つかった?とか言うから何?とか言ったら、
彼がなんか香港の映画館の映画音楽を、
その場でまあなんか作ってたのね、
あの本で編集してたらしいんだけど、
まあそういう意味でそのアーティストにもうその場所を、
まあ格好よく言っちゃえばもう解放しちゃうような格好で、
お友さんとかアマちゃんとかの、あのお友さんとかですよね?
そこでやってたんですか?
なんかいろんな人たちが出入りして、
出ましたけど、そのディレクターの僕はほとんど把握してないままいて、
その何が起こっていくのかっていうのは、
自分でもびっくりしながらこうやっていくっていう、
まあその頃はそういう場所があったからね、
その力もあるんだと思うんですけど、
でもそのお寺が、じゃあそこのスペースはもうなくしにしましょうって言ったら、
一旦引き返せたっちゃ引き返せるわけじゃないですか、アートの世界が。
まあそうそうそうそう、引き返せたことも引き返せたんだね、だけどね。
そこからどうなってって、このいろんな芸術祭のディレクターとかいるってことですか?
なんか普通、まずその一周に働き出しちゃった若いスタッフたちを、
急にそういうお寺の事情で入ってたら、
ならってもいかないよなって思って、
じゃあしょうがないから、まあしょうがないんですよ。
会社っていうかそういう組織を作って、
その雇うかっていうような感じで、
そのP3の別動体っていうか、
P3っていうのは一つのレーベルなわけだけど、
それを動かすようなお寺組織も作り、
それからね、まあやっぱり運が良かったって言えば良いんだけど、
禅寺の下の空間で割とそういうアバンギャルなこともやるっていうような感じっていうと、
一家にも欧米人が好きそうじゃん。
禅好きだし、確かに。
でね、だから自分のコネクションも何もないし、
何にも分からないままやるんだけど、
なんか東京で禅寺の地下に、
なんかそういうアートスペースができたみたいな、
それ向けなアートを見てるらしいって言うんで、
日本に来る奴が強制的に成田に出るまでの時間をやってくんだよね。
ここにある、その場所にある。
だからね、次々いろんな人がやってきて、
だから何も分からないまま、いろんな連中が次々来るわけでしょ。
で、その中で最初に仲良くなって、ドイツ人のイゴギュータっていうのがいて、
そのイゴギュータがちょうど、
名古屋のアーテックっていうのに呼ばれた時に、
ドイツに立つ直前に思いついたワールドプロセッサーっていう、
光る地球儀の上に、いろんな環境とかなんかの問題を図する作品を作ろうと思って、
で、日本に旅してるうちに何かアイデアが出るかもしれないんで、
それをリュフィも、そっちが名古屋を持つから、何か運んできてたよね。
で、こんなこと考えてんだって、面白いじゃんって言ったら、
じゃあ作ってこようかって言うから、どうするの?とか言ったら、
前はホテルに戻ると、地球儀とお風呂が一緒にあって、
その周りにあるフィルムをへっぱがして、その上にいろいろ何かやって、
毎日持ってくるの。面白いなって。
それで、来年100以上作って見せようなんてことになって、
それでそれをやるの。
そうすると、今度はそれを見に蔡国鏗っていう中国人が、
この前まで国立新美術館でお手伝いをあてました。
こうやって会うなりに、私、開発でアートしてます。
また変な…
次から次の…
柔道つなぎで変な…
次々にね、だからそれは本当にありがたい話と思うけど、
アーティストのネットワークっていうか、
それも使ってくださったんだと思うけど、そういうふうにあって、
次はIZONEとかI.E.Kみたいな感じで、
東京行くんだったら、まあ寄れみたいな感じで、
僕らほとんど、そういう意味での営業的な努力とかはあんまり、
ほぼせずに、既存のアート界っていうのよりも、
そんなに先生方に会っていくこともなく、
まあなんだろう、かっこよく言えば、孤独に…
というか、やり方だけは今日わからなかったっていうのもそうなんだけど、
そういうのを4,5年やっていくと、
まあいろんな人脈っていうのができて、
そこで、ここは無くなったんで、
はい、さよならと言うかって言った時に、
特に佐藤教徒の付き合いの中で、
だんだんさ、自分たちが別にその小屋っていうか、
それを守っていくことがすごく重要なんじゃなくて、
自分たちの性格がね、
佐藤さんもいろんなところに行って、
自分のプロジェクトを展開していくっていう、
まあ誘導民的というか、ノマディックな感覚は持っているわけで、
そうすると、やっぱり建物を持っちゃうと、
どうしてもここを守らなければいけないというのが、
すごい強くなっていってしまう。
で、僕自体の性格も、
まあ割とそういう風な移動とともに何かやっていくっていうのは、
綺麗じゃないわけ。
それで、じゃあだったら、
まあこの藤町寺のところは畳んで、
で、その後はまあ、
自分たちが興味を持っているランドスケープのところに出向いていって、
そこにビースに作っちゃいいんだみたいな。
なるほど。
佐藤、まさかそんなことをやると、
全く思っていないまま巻き込まれて、
中央区のゴフィーサーマークの西の当てまで行って、
万里の頂上1万メートル延長するっていう彼のプロジェクトがあるんだけど、
銅河川をゴフィーサーマークに10キロ伸ばして火付けるってさ、
すごいあるハメになっちゃって、ハメになっちゃって。
砂漠に行ったんですか?
そう行きましたよ、もう。
ビバンとみたいな世界ですよね。
3回ぐらい死にそうになった。
もう本当に。
へえ。
まあだから、
まあそれも含めて人生事故だって思うけど、
まさか自分がね、ゴフィーサーマークの西の果てまで行って、
中国人と一緒にそんな火薬のプロジェクトをやるとは思ってもいないわけですよ。
最初の話ではないけど、
一つの時代感覚みたいなものっていうのは、
自分の中ですごく重要っちゃ重要で、
今でも鮮明に思い出す、
蘭州って町から火薬館っていう西の奥地の町まで、
シルクロードを1日で700キロぐらい走っていくわけですよ。
その時に、ちょうどね、あのランバダっていう曲が流行ってたけど、
それの中国バージョンを雇ったウイングル人のタクシーのウンちゃんがもうガンガン駆けて、
そこのところに中国人2人と日本人が乗ってさ、
ウイングル人と4人で時速百何十キロずつの、
何十分かにね、失踪してたんですよ。
で、変な中国コースでランバダを駆けて、
これがやっぱり20世紀末に生まれてきた、かっこよく言えばね、惑星文化っていうか、
なんかそういう感じだなって、
すごくそれを身に染みて感じたことがありますな。
だんだんそこからね、もうちょっとこう、
その肺たしみ的な、あれがすごく今は増えちゃってきてるけど、
あの頃なんかなんか、そのアジアのとこで、
なんかまた欧米とは全然違う感覚がね、生まれていくかもしれないなと。
広げていく共犯関係
香港なんかでも映画、
恋する惑星とか、もうこう出始めて、
なんかね、勢いがあったなぁと思って、
今もそれはもうちょっとみんなで復活しようよみたいな、
気持ちはすごく強くあるけどね。
でもその経験もあって、
そこからずっとだからいろいろやってきたわけじゃないですか。
ちょっと思ったんですけど、目の前半の時に思ったんですよ。
で、今のそのゴビ捌くのもそうですね。
さすがにそれはやめてくれよって思うことはあった?
例えばプロジェクトと言われて。
そういうのは割としょっちゅうあります。
断る時もあるんですか?それとも結構もう面白そうなと思って乗っちゃう方ですか、セリフは。
やっぱり断る分っていうのは面白くない時。
面白い時にはしょうがないよ、これは。
さがというか、なんというか。
それを実現させるためにどうしたらいいのかってのを、
僕もうちのスタッフたちもそこを真剣に考えてくる。
ということで、もちろん上手く言えないんだけど、
そのアーティストとクライアント対なんとかの関係とか、
プロデューサーとディレクターの関係とかいうのは、
だんだん超えていって、
あるやつが上手いこと言った、共犯関係。
確かにアーティストとやるときは共犯だなと。
できればその共犯関係を、
語法的な共犯なんだから、
こういういろんな公共団体とか、いろんな主催者たちにも、
共犯関係を一緒にしてほしいなというのは、
すごく強いんだけど、なかなかそうはいかない。
一緒に面白がってほしいってことですね。
だからちょっと大変だけど、
あえてこれを実現させるためには、
ちょっと目をつむったり、こういうふうなことをやっていったりすることが、
それを実現するためには、
それをやれば前に進むってことになると、
まさに犯罪って言い方、共犯なのに一緒にやってくる。
その感覚ができたときには、ものすごい達成感というのがあるな。
やっぱりそれが面白くて続けていく部分もある。
そう、もうやめられない。
国際芸術祭の共犯関係
いよいよ終わりの時間が近づいてしまったんですが、
改めて埼玉国際芸術祭で、
前半ではスケッパーの話がありましたが、
他にもこんな共犯関係をやっているという面白いことがありますよとおっしゃれば。
今度はね、アーティストと言っても、
ジャンルが映画の人、演劇の人、
いわゆる美術的なあれもあるけど、
いろんなジャンルの人間がここで作品を発表してくれるって感じで、
もう時間もないから、どれに注目してほしいというのもあるけど、
そのごっちゃな全体が。
しかも、そうやって加わってくれた人たちが、
それこそ目というアーティストを確認して、
ある種の共犯関係としてこの芸術祭を作ろうというふうに
みんな思ってくれてやっていく。
それが一体感も含めて、
今度一番期待している、
これから本当に今日から毎日減ってくれるものが起こっているでしょう。
これはちなみに一般の参加者というか、
参加できるものもあるんですか?
だから僕らも共犯関係になりたいなという人もいると思うんですか?
勝手にスケッパーになってほしいな。
頼まれてなくても、自分がスケッパーだと思えばいいんだ。
なってもほしいし、いろんな参加者のプログラムが…
公式スケッパーと非公式スケッパーが出来上がるみたいな。
いいんじゃないですか。
それもいいんですね。
こちらの展覧、国際芸術祭は12月10日まで行われていますので、
是非是非我こそばという方は非公式スケッパーで。
無理。
いろいろとお話を聞きたかったので、また機会があれば、
是非この番組に遊びに来ていただきたいなと思います。
他にも今後芸術祭とかやられる可能性はあるんですか、埼玉以外に。
それは神のみずを知るが。
わかんないし、でも何かやってみたいところがあれば、
是非やりたいなとは思いますけどね。
埼玉国際芸術祭自体はまた次決まったりするんですか。
結局3年後。
それはさ、今回のがどういう風になるかということも含めて、
なかなか全国的に見ると世の中に芸術祭という文化芸術関係の公共がやってくるというのは厳しい状況に来てはいることは事実なので、
それを我々の税金の使い方として、僕は文化芸術というのを使っていくのは全然始めるべきではないと思っているから、
そういうので全国でそういうのが続いていくといいなと思っているんですけどね。
3年後じゃなくても他の芸術祭があれば是非また告知を兼ねてこの番組に遊びに来ていただきたいなと思います。
小森教授どうもありがとうございました。
ありがとうございません。ありがとうございました。
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