1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #180 「存在」と「性質」の切..
2024-01-17 58:42

#180 「存在」と「性質」の切っても切れない関係

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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00:05
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。 よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回は前回に引き続き、現代経時浄学入門ということで、 前回が存在で今回が性質でしたっけか。
そうですね。 えっと、そもそもで言うと今回は現代経時浄学入門という本を取り上げて今お話ししていますよと。
で、その本の中で柏和田先生という方がその大きく存在っていうテーマと性質っていうテーマがあるよというふうな話をされていて、
これまでは存在について考えようということで、前回で言うとドラえもんとか、あとはポンデリングの穴であるのないのみたいな話をしてきたかなと思いますと。
はいはいはい。あー、なるほどなるほど。
そうそう。なので存在とは何かとかっていう、もちろんそういうテーマもあるんだけども、
そこに対して実はそういう、何だろうな、じゃあ、穴ってあるのとか、フィクションの存在ってどういうふうに考えたらいいのみたいな、
結構そういう存在っていうテーマから広がるものとか出てくる関連するテーマとかっていうのをいろいろ見てきたっていうのはこれまででしたという感じですね。
そもそも経時浄学って何だろうねっていう話をするときに、主なテーマとなるのは存在だったりとか、
性質だったりとか、そういうところだよみたいな理解でいいのかな。
まあそうだね、そうだね。最初に一番第一回で言った通り、もちろんその他にも、例えば他者とか世界とか、いろんなテーマっていうのがあるんですけど、
やっぱり切っても切り離せないというか、現代の経時浄学っていうのを考えるときに、絶対に外せないテーマとしての存在というものと性質というものについていろいろ考えてみましょうよみたいな感じですね。
はいはいはい。なるほどなるほど。
ちょっと思い出してきた。
思い出してきた。
前回そうだね、フィクションのところで何かやったもんね、その内部と外部で分けて考えるとか、なんかそういうのやった気がする。
そうそうそう、そうですそうです。
で、ちょっと前回まで言った存在っていうテーマが落ち着いて、今回はもう一つのテーマである性質っていうのを取り上げたいんですけど、
あんまり細かくやりすぎると自分もよくわからなくなりそうだなって思ったのが一つと、
あとちょっとこれ言い訳っぽくなってるかもしれないんですけど、この本の中では結構その性質っていうものも存在の一部だというか、
その性質の存在性みたいなことを結構語ってるんですよ。
はいはいはいはい。
結構ね、僕は多分年末年始仏教の本とか読みまくったからだと思うんだけど、
だからクーとかでそのものらしさとはないみたいな話とか、そもそも物はあるけどそれは永遠ではないみたいなことをすごいインプットしまくってたので、
03:08
ほうほうほう。
だから性質は存在ってやつときにちょっとインプット感があったのね。
うーん、そうなんだ、なるほどなるほど。
そう。なのでちょっと自分の中でも脅しきれなかったというか。
なるほどね、その東洋モードになってる今ちょっとうまく染み込んでこないんだけどみたいな考え方だったわけね、その西洋の刑事上学がね。
そうなんですそうなんです。
好きな。
これはね、大変申し訳ない話なんですけど、とは言えちょっとこういうことが書いてましたよとか、
その本にそうとこういうことが言えますよ、性質についてねっていう話はできるなと思うので、
それをした上で僕自身の感想であったりとか、こんな風に思ってますよっていうところをお伝えして、
この性質のテーマというのは終わりにしようかなという風に思ってますという感じですね。
はいはいはい。
そこは面白いね、やっぱり西洋と東洋の違いっていうところをそこで感じるよね。
同じようなとこもありつつ、厳密な話し始めるとやっぱりなじまないところみたいな。
そうね。
面白いね。
ここから本題に添えちゃうんだけど面白かったのが、本の中で数形条約とか西洋の中でも主観と客観を超えるとかね、
あるいは二項対立を超えるみたいな、よくさサイトスタジオでも二言論じゃなくて一言論でみたいな話とかって言葉として出したりするじゃないですか。
そこにそういうのを言った人の話を引用して、ちょっとやっぱりこの本の作者としてはそれはちょっとやっぱり変な言葉だよねとか、
二言論を超えるみたいな話って結局何なのみたいな、別にそこ深く突き詰めるわけじゃないんだけど、
ちょっとやっぱり西洋哲学的な感覚からすると、やっぱり勇み足というか一足飛びではねみたいなふうにコメントするところもあったんですよね。
なるほどなるほど。厳密に言うと一言論的なところもスピリチュアルの域に入ってしまうというか、
なかなか語り尽くさないみたいな意味で、安易に振り込めないぞという感覚が西洋の専門家からするとあるみたいな。
そうそうそうそう。
そういうスタンスから見るという話なんだろうね。
そうですそうですはい。
ただあれか、年末年始のハヤトの東洋モードからすると、そうは言ってもそっちからたどり着かない部分もあるんじゃないみたいな、
多分そういう攻めき合いなんだろうね。
そうね。とか単純に表現として、あるものでもなくないものでもなく、あるものでありないものでない、みたいなこういう本ばっかり読んでたから、
06:00
そういう世界もあるよね、みたいなところのモードチェンジというか。
読むタイミング間違ったんじゃないの?
そうかもしれない。
一旦今回、形字枠的な性質というところについてその話をしていきたいんですけど、
はいはいはいはい。
改めて日常的な場面から考えていきたいんですよ。
うん。
いきなり性質とはとか言ってもやっぱりこっつけにくいんで、
前回取り上げたみたいに、ポンデリングをもう一回取り上げてみますと、
その存在っていう話でいくと、ポンデリングには穴があるかもしれないしないかもしれないみたいな話を前回したと思うんですけど、
うんうん、リベートしたね。
リベートした、そう。
たださ、ポンデリングを考えるときに、ポンデリングは甘いとかさ、
美味しいとか丸いとか茶色いとかね。
あれも茶色というか小麦色というかちょっと色の表現はあるかもしれないですけど、
そういうことは普通に考えることができるでしょうと。
うんうんうんうん。
っていうときに、この甘さとか味みたいなものをここでは性質っていう風に呼びたいんですよね。
はいはい、なるほどね。
ポンデリング、
どうぞどうぞ。
ポンデリングという存在があったときに、ポンデリングは甘いとか、ポンデリングは美味しいとかね。
ちょっと実語になりそうなもの、明確に実語だけじゃないんだけども、そういうものを性質呼びたいですよと。
うんうんうんうん。
で、その性質っていうのについて考えるときに、さっき言ったとおり、そもそも性質と何かとかっていうふうな問いも言葉として伝えることができるんだけど、
うん。
これってどんなふうに取り組める問いなんだろうねっていうところが出てくるわけなんですよね。
うん、ああ、そうなんだ。
じゃあやっぱりそもそも性質とは何かっていうところを少し考えていこうかって話なんだね、まずね。
大きい話としてはね、うん。
うんうんうん。
ただこの問いに正面から向き合って結構大変だよねと。
例えばさ、さっきの甘さとか美味しさとかだったらちょっと近い感じするけどさ、
じゃあ甘さと丸さって近いかとかって言われたら感覚的にどうかな兄貴として。
ああ、いやまあそうだね。
その今たまたま性質っていうのでくくってくれてるからね、わかるけれども、全然違う概念でもあるよね。
多分そうだよね、そうそうそう。
例えばタイヤとかあったときにさ、
うん。
あの丸いけど甘くはないしみたいな。
そうそうそうそう。
うん。
だからじゃあポンデリングとタイヤは似てますよねとかって言われたらやっぱりちょっと違和感あるじゃない。
まあそうね、くくり方によるというかね。
そうそう、くくり方によるし、だからそういう感覚から言ってもやっぱりその性質とは何かっていう問いはやっぱり結構大きすぎるねっていう話がありますよと。
はいはいはい。
で、じゃあここからどういう風に切り込んでいきますかっていうところがまさに哲学者の力量であったりとかその独創性みたいな話につながっていくんだけど、
09:10
実はこの次の一歩を踏み出す時点で結構話の方向性が変わるよっていうことがあるんですよ。
うんうん。
で、例えばこれまで存在についての話を踏まえるとすると、さっき言った通り性質とはどんな存在かみたいな風に問いをさせることもできますよね。
おー面白い。前やった言葉みたい。あるものがありみたいな。
うんうんうん。
そう、そういう意味になると、ただじゃあ性質が存在するって果たして言えるんでしたっけってまたすぐ次の問いが出てきますと。
うんうんうん。
で、ここをちょっと今日は考えてみたいとね。
はいはいはい。
で、ちょっと本で出てた例とは違うんですけど、ちょっと今回甘さっていうものを考えてみたいんですと。
うん。
で、できるとじゃあ、その、何だろうな、仮に性質は存在するかっていうのを甘さは存在するかっていう風に今度はこう考えてみたいですと。
うんうん。
で、すると、ちなみに今の兄貴の感覚ではどうかな。甘さは存在しますかっていう。
いやー、どうだろうね。甘さはあるけどやっぱ存在はしないというか。
なるほどね。
やっぱ前やったそういう感覚の方に近いよね。
うんうんうん。確かにね。あるとは言えるけど存在するとはちょっと言いにくいみたいな感じだよね。
うん。だからやっぱ今、今日も言ってたけど丸さとかさ、あと数字とかやっぱそっちの方の概念に近い感じがするよね。
はいはいはいはい。ということですね。OKです。じゃあちょっとその感覚を大事にしながら進んでいきたいんですけど。
うん。
まあ、もちろん兄貴が言う通りやっぱ甘さってその、何だろうな、いわゆる物みたいになんかこうやっぱ動かすとか持ってくるとかできないじゃないですか。
うんうん。
甘さを持ってきてとかってことはないですよね。
うん。
で、持ってくれるとか動かせるのは甘いポンデリングとかであって、もちろん甘さそのものではないですよと。
うんうん。
でも一方でさ、じゃあ例えば甘さは味覚の一種であるみたいな感じで、甘さっていうものの存在とか甘さがあるとかないとやっぱり言えますよね。
うんうんうんうん。
このドーナツは甘くないっていう時に甘さが欠けているドーナツにみたいな風に言うと、ちょっと存在っぽい感じもしてくるよねと。
いやーまあそうだしね、あの一般的な感覚で言うとさ、フルーツの糖度とかさ。
はいはいはい。
もう数値化はされてるからね、ある感覚も。
そうそうそうそう。
あると言っても過言ではないかもしれないっていう部分もある。
ね。
うん。
そうするとあれはずらしてやっぱりどっちなんだっけっていうことがやっぱり問えるっていうか。
うんうんうん。
なんだろうな、そういうのを問題にした人にとってはやっぱり大問題だっていう風になってきます。
12:05
うんうんうん。
うん。
まあこんな風に言うと、だから甘さは例えば存在するかみたいな話とか、あとは例えばじゃあ甘さは味覚の一種であるっていう言葉と、
ポンデリングはドーナツの一種であるっていう言葉があったときに、どっちも構造は一緒じゃない?
あーうんうん、そうだね。
ね。
なるとポンデリングは存在するしドーナツも存在するよと。
うんうんうん。
じゃあ甘さも味覚も存在するんじゃないっていうのもなんか言えなくもなそうじゃないですか。
いやーまあそうだね、ただ逆も。
うん。
あ、そうそうしっかりだよね。
しっかりね、ドーナツと存在するんだけっていう話でね、ドーナツのイデアを持ってきてよってやっぱりなっちゃうもんね。
そうそうそうそう、まさにまさに。
もしかするとね、これ、あのWittgensteinね、去年やったじゃないですか。
うん。
で、まあ難しい難しいって話があったんですけど、Wittgensteinはね、この哲学っていうのは全部なんだろうな、問題設定が間違っているんだというか、
言葉に衰えちゃったみたいな話をしてたっていうのもされたと思うんですけど、
まさにたぶんこういう話をWittgensteinからしたら、それは問題が間違っているんだとか、言葉扱いが間違っているなっていうふうに言われるかもしれない。
うんうんうん。
かもしれないが、ちょっとこの方向性を突き進んでいきたいんですよね、今日は一回。
おお、なるほど。はいはい。
で、まさに今ね、兄貴ドーナツのイデアとかって言ってくれたと思うんですけど、
やっぱりこの性質っていうのはこの伝統的にね、やっぱ神とかイデアみたいな、そういうものと結構関係してくるんですよ。
へー、はいはいはい。
これちょっとね、現代的にはその普遍者って呼んだりする、普遍ってなんか個別と普遍みたいな、普遍的とかって言葉ってあると思うんですけど、
うんうんうんうん。
それに、もの、何だろうな、他者とかの者をつけて普遍者っていう言葉があるんですよね。
うーん、はいはいはいはい。
普遍的な存在っていうのを、なんかちょっとこう、神とかイデアとかだとあまりにもイメージがつきすぎちゃうから、
うんうんうんうん。
そういうような普遍的な存在、普遍者っていうものを考えましょうっていうようなことが結構哲学で行われたりするんですよね。
なるほど、うんうんうん。
で、これは普遍者がいるとしたら、それっていうのはそのいわゆる個々の存在、これを個物って言ったりするんだけど、
うん。
その個物に性質を与えるような存在者であるっていうふうな定義が行われますと。
へー、うんうんうんうんうん。
ちょっとこの定義もすごいさらっとしたというか、本当はね、違うものもあるんですけど、
うんうんうんうん。
ま、いったんざっくりとそんな感じで。
うん。
そうですね、まずは、わかりやすいのはまさにこうドーナツのイデアとか甘さのイデアみたいな感じだよね。
うんうんうん。
そういうものがどこかにあって、それはもうこの世じゃないかもしれないんだけど、どこかにあって、
15:00
それがあらゆる個々の存在に甘さっていうものを与えていると。
うんうんうんうんうん。
甘さがないものもあればあるものがあるっていうのは、そういう甘さのイデアっていうものがそれを分け与えているかどうかの違いだよっていう発想も、
まあ、いずれできなくはないよね。
うんうんうん、なんとなく世界観は想像はできるよね。
そうそうそうです。
で、これをもっと現代的に扱うとしたら、いわゆるあるものが甘さ性みたいなものを持っていて、
うん。
その存在が、例えばポンデリングならポンデリングに甘さっていうのを付与してますよっていうふうなことが考えられますと。
ちょっと待ってね。
うん。
甘さ性っていうものがあって、
うん。
個物だからそれぞれのものが甘さ性を持っていると、そもそもと。
そうですそうです。
で、その存在がっていうのは、その存在っていうのは不変者があってこと?
あ、えっとね、そうそう。甘さ性っていうのは存在とか、甘さ性っていうのは不変者があって、
それが個物に甘さを与えているっていう話。
あー、なるほど。
で、ちょっとわかりにくいと思うんですけど、
これ、なんていうと、いわゆるこう書筒とか武道筒みたいなさ、いわゆる筒類ってあるじゃない。
うん。
これはもう物質的に多分あるもので、
うんうんうん。
これが要は甘さであると、これを含むものは甘いみたいに考えると、
うん。
変に別に不変者とか甘さ一般みたいなものを考えずとも、
うん。
そもそも甘さを感じる物質っていうのがあるわけだから、
うん。
それを持っているものは甘いっていうふうに言えますよね。
それは普通の感覚だね。
そうそうそう。そうですそうです。
そうすると、じゃあ甘さっていうのも結局は書筒とか武道筒みたいな物質に起因するものだから、
うん。
要は甘さっていう言葉が悪いのであって、
結局は甘さを感じさせる物質がポンデリングとか、あるいはSQMの中に存在する。
だから甘さは存在するっていうふうにも言えそうですよね。
はいはいはい。そうだね。
科学的に解明されたものはそういうふうに表現できるみたいな。
そうですそうですそうです。
甘さというときに、もちろんそういったものを指して、
不変者という甘さというものを示すときに、
いちいち書筒とか武道筒とか、
そういう一個一個の存在、
物質名で分けるっていうのも大変だから、
うんうんうん。
そういうのを甘さっていうふうに括っているんだとか、
そういうふうに甘さを与えるものとしての存在というのを考えることはできそうだ。
っていうのが結構コマの議論で言うとそんなに違和感がないんじゃないかなと思います。
なるほど。そういう意味ではさっきのドーナツっていうところと同じ次元に甘さっていうものが存在し得るっていう意味で。
18:02
そうそうそう。
そういう意味では納得するね。
うん。それちょっとラベル付けっぽくはなっちゃうんだけど。
うんうんうんうん。
そうだね。今の話を聞く前は、
ドーナツと甘さっていうのはどっちかというと甘さの方が概念、抽象的な概念っぽい感じがしてたんだけど、
今の話からするとやっとドーナツと甘さっていうものが同等の位置に来たかなみたいな感じがしたね。
そうそうそう。
コンデリングもオールドファッションもドーナツショットの時のそういうちょっとラベル付けというか。
うんうんうん。
甘さっていうものも近いよねっていうような話があります。
うんうんうん。
ただね、実はこの方向には1個大きな落とし穴がありますよという話があって、
それは結局いわゆる性質、甘さっていうものはどんなふうに認識されますかっていうような話なんだよね。
これはつまりいわゆる認識主体の観点みたいな話なんだけど、
例えば甘さっていうのは諸糖とかブドウ糖っていうような物質によって引き起こされるとしても、
それはあくまで人間の味覚にとっての甘さじゃないですか。
うんうんうんうん。
例えばそれを甘くないって思う人もいるだろうし、あるいは他の動物からしたら、
そもそも味覚がない、味覚というか甘さを感じる味覚がないっていう人もいた時に、
甘さっていう性質って人間がいるからあるんだっけって話が出てくるんだよね。
ほー、なるほど。ほほほほほ。
だからつまり甘さっていう性質はコーネリングの側にあるんですかと、
それとも人間の側にあるんですかというふうなことを問うことができますよねと。
あー、なるほど。そっかそっかそっか。
甘さ、そうだね。ドーナツ、そっかそっか。
そのドーナツってものはそれ単体で、確かに石ころみたいに存在することは可能だけれども、
さっきのようにドーナツと甘さって同じじゃんって考えた時に、
甘さっていうものって石ころみたいに転がってるんだっけっていう話だよね。
人間の味覚センサーと共にしか存在しえないよねみたいな話だね。
そうそうそうそう。
あー、そこは違う確かに。
だから本当その通りで、
ドーナツが例えば放置されて人類が全員いなくなったとしても、
ドーナツは多分あるんですよ。
うんうんうんうん。
でも、ドーナツだけあって人類が絶滅したら、
甘さってあったのかみたいな話は、
ちょっと思考実験としてできると思うんだよね。
いやー、そうね。確かに確かに。
諸島とかブドウ堂は確かにあるかもしれないけど、
甘さはない。ドーナツはあるのに甘さはないじゃんみたいな。
ドーナツ、まあ難しいけどね。
ドーナツも概念っていう風に考えるとないじゃないですか。
ほんとにリンゴあるけどね。
21:00
はいはい、そうですよね。
甘さの要素としての諸島とかさ、お砂糖とか。
そっちの方が分かりやすいかもね。
そう考えればさ、砂糖とかが日本でもあるじゃんっていう意味では、
まだ無理矢理な感じが否めないというかね。
いいですね。
でもやっぱりこうやってくると、
物のカテゴリーとかレイヤー感がちょっと解像度上がってくる感じがするじゃないですか。
そう、確かにね。
これはね、やっぱり甘さってあるのないのとかっていうのは、
なかなか答えが出にくい、出ない問題なんですけど、
これをもうちょっとせめて分かりやすく考える方法がないのっていうところが、
結構本に書いてあるのでそれをお伝えしていきたいんですけど。
なるほど。
前回ね、大鉄と兄貴も触れてくれたフィクションというのを考えるにも、
フィクションの外で考えることと中で考える話があるよねっていうようなことをしたと思うんですけど、
それに近い感じで性質についても、
いくつかこういうふうに区別できるとちょっと考えやすくなるよねっていうのがあったりするんですよ。
へー、はいはいはい。
大きなものが外在的性質と傾向的性質っていうのの2つが上がってましたと。
うんうん。
外在的っていうのは外にあるって話で、傾向的っていうのはそういう傾向があるみたいな、
偏りというかそういう言葉ですけど、ちょっとこれから説明していくね。
外在的っていうのは例えばいわゆる上と下とか、兄と弟みたいに、
ある性質が自分の外にあるものだと決まるものなんですよね。
ほうほうほう。
例えばカンの京介は兄であるっていうのは、弟としてのカンのハヤトがいないと性質としては付与されないわけですよね。
うんうんうんうん。
なのでカンの京介っていう存在がもともと兄だったわけではなく、
そういう外部の存在、カンのハヤトっていう弟の存在によって兄になったよっていうものがあります。
はいはいはい。
上としてもそうだよね。やっぱ何かが下にあるからこそあるものが上だっていうふうに認識できる。
相対的な概念だって話ね。
そうですそうですそうです。
いわゆる外在的っていうのは相対的に決まる性質であるっていうふうに言ってもいいかもね。
うんうんうんうん。
さてこの外在的っていうのは結構思ってるよりも適応範囲が広くてかつややこしいんですよ。
ほうほうほう。
そう。何かっていうと、さっきちょっと相対的だねって話をしたんだけど、
例えば目玉に100円玉があります。
24:02
うん。
この100円玉っていうのはさ、この黄色いある種丸い金属が100円製っていう言葉はちょっとないと思うんだけど、
100円の価値を持つっていうのは性質だと思うんだよね。
うんうんうんうん。
それはなぜかっていうと、実はこれって外在的な理由なんだよね。
もうちょっと話すね。要は100円玉そのままに100円の価値があるわけじゃなくて、
それはやっぱ日本の国の法律とか、召喚手取引の監修とか、あるいは造兵局みたいな機関?
ここだけのものがあって、そこに作られたこの金属片である100円玉というものを100円の価値を持つっていう感じなんだよね。
うんうんうんうん。
そうすると、この100円玉の価値っていうのも100円玉そのものにあるんじゃなくて、100円玉の外にあります。
うん、なるほど。はいはいはいはい。
別に100円玉が何か10円と相対的に100円の価値を持つっていうわけじゃないんだけど、
でも100円玉の価値は100円玉の中にはないんだよね。
はい。ここって何か伝わるかな?
何となく、例えばあれだよね、何でもいいけど、それこそ河原で拾ってきた石ころが、ある人にとっては思い出の品であり、
ある人にとってはただのゴミであるみたいな、そういうところもある意味外在的な話なのかな?
その人の思い出みたいなものが付与されている価値としてみたいな。
難しいな。思い出っていうのがその外在的かっていう話に多分こうなってきて。
あー、そうか。100円の場合はそういう国とかが決めてるんだけど、思い出になっちゃうとそれこそちょっとさっきの主観的な方に近くなっちゃうみたいな。
そうだね、そう。だから別に他の存在用はパンのハヤト以外の存在がなくても、自分がその石を大事にすることができちゃうじゃないですか。
んーと?石を大事にすることができちゃう?
うん。だって石と自分の関係さえあれば、石の中に自分にとって大事なものであるっていう性質は付与されるよね。
あー、そうか。誰が見てもみたいな感じなのか。
そうだね。
第三者を見たときにも納得し得るような性質、その性質を持っているみたいな。
あ、そういうことか。
感覚?
ごめん。石の方から見たらそれは外在的だよね、確かに。石にとってパンのハヤトという存在が外部にいるから、パンのハヤトにとって大事な石であるっていう性質が付与されたとすると、それは外在的だね。
まあちょっとそれはややこしすぎるから、今の例は多分違うっていう話でいいと思うけど。
なるほどね。
その石ころが公園に落ちてたときに、みんなにとってそれが大事かどうかみたいなところが判断基準でありそうな気がしたよ。
27:08
まあそうだね。
気がしている。100円とか落ちてたらみんな喜んで拾うでしょ。
はい、そうだね。
たださっきの石に関しては拾わないからちょっと違うのか、このハヤトの外在的な性質とは。
ちょっと違うと思うし、やっぱり主観的に誰にとってとか、私にとっては大事みたいな話は、またちょっとかなりややこしさが増すと思うんだよね。
はいはいはいはい。
結構これが冒頭に言った性質がやっぱり存在するとは僕は思わないって話にちょっと近づくんだけど、
この外在的性質って今話じゃないですか、そうすると普通は内在的性質があるのかなみたいな話を考えると思うんですよね。
外と内だから。
実際その本の中にも内在的性質って言葉が出てくるんだけど、あんまり具体的な説明がちょっとなかったんだよね。
そうなんだ。
で、自分の中で内在的性質ってなんかあるかなって思った時に、意外とないというか、本当にそのものだけの存在で、その価値というかその性質を持つっていうことってできるのかっていう話を思っちゃったんだよね。
あー面白いね。ある意味それこそが存在そのものになっちゃうというか、もしかすると的な概念に近づくんだ。
存在っていうのは多分そのものだけができるんだけど、性質っていうのは例えば本当にこの世の中にそのものだけしかないってなった時に、あらゆる性質を持てないんじゃないかって思ってしまったんだよね。
いやーまあ面白いね。すごく哲学的な問いだね。内在的性質とは何かっていうのはイコール存在そのものみたいな。
って思ったので、さっき言った石ころにそういう性質が備わるかみたいな話ってのは結構難しいなと思っていろいろ喋っちゃったんだけど。
あーなるほどね。ただそうだね、今ちょっと傾向的性質だけか、そっちも聞かないとあれだけど、なんとなく今はそういう100円玉みたいなものとか上下みたいな相対的なものとか、そういう誰が見ても今ちょっと理解していますね。
っていうのが1個ある性質の話と、もう1個は傾向的性質ってのは何かっていうと、いわゆるグラデーション的なものとか状況の変化を伴う性質みたいな感じなんですよね。
例えば水に溶けるっていうのは性質だと思うんですけど、水がなくても砂糖とか塩っていうのはその性質を持ってますよね。
30:00
だからその場合、砂糖とか塩自体に水に溶けるっていう性質はあると。ただ水っていう物質があって初めてその性質が出てくるっていう意味では、塩とか砂糖だけでは水に溶けるっていう性質が現れてなくないみたいな。
ただしさっきの100円玉100円玉っていうものの性質を持つとか、上と下っていう性質を持つっていうのはもうすでに現れているというか、常にそういう状態なんだけど、この傾向的性質は何か正しい条件とかがあって初めて出てくる性質であるっていう意味で証別できますよねっていう話があるんだよね。
ほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほ
一つのちょっと参考までいう感じで、ここは聞いていただけたら嬉しいなという感じです。
で、こういうふうな話をした時に、なんかこれはちょっと本の話から外れちゃうんだけど、
なんかね、僕の中でやっぱその性質っていうものが、いわゆる物理的なものと社会的なものに区別できるんじゃないかとかっていうのを結構考えてたんですよ。
今の例でいうと、いわゆる水に溶けるみたいな話は結構物理的な現象じゃないですか。
要は砂糖とかっていうのは、こういう原子構造とか分子構造だと水に溶けるよねとか、
でも鉄とかっていうのは水には溶けないけど、酸には溶けるよねとかっていう話って物理的な話だし、
それはさっき言ったみたいに、認識する人がいようはいまいが起きるよねと。
酸性物が降ったら鉄とか溶けるわけで、それは別に人間関係ないよねと。
酸性物が降るっていうことに関しては人間の活動があるけどね、みたいな、そういう世の中だとした時に。
一方で甘さっていうのは、やっぱり物質と生物が関わりを持つことで生じるものだと思うんですよね。
甘さを感じるっていうのは物理的な現象ではあると思うんですよ。
何らかの、その、諸糖とかブドウ糖っていうような物質を、人間の味覚っていうか未来っていう呼ばれる、
まあなんだ、その下のところが感覚を持って、原子的な信号として脳が甘いと感じるから、
それは物理的な現象なんだけど、やっぱ生物っていうものが必要ですよねと。
さらにさっきの100円玉製みたいな話っていうのは、明らかに人間がいないと世の中に呼ばれなかった性質ですよね、みたいな。
33:05
まあそんな話を考えた時に、そういう純粋に物質的なものと、物と人が、物と生物が関わるものと、
生物がいないとできない性質っていう、この3つぐらいに分けれそうだなって思ったんですよね。
ほうほうほう、はいはいはい。
なんか、そんな風に分けていくと結構考えやすくなるというか、同じ性質でも議論がしやすくなるんじゃないかなっていうことをちょっと自分なりに思いましたと。
なるほどね。この本を読んで自分なりのその性質の分け方を考えてみたって話だね。
そうだねそうだね。そういうのが理解しやすく、理解というか整理しやすかったと思ったんだよね。
うんうんうんうん。
なんか今の話とかってどうかね、役としてこう、なんか、アサルツは確かにねっていう感じなのかどうですかね。
まあね、全然アリだと思うけれども、ここまで聞いてる感じ、そもそも刑事上学に入門するにあたってね、我々素人は。
はい、なるほどね、はいはい。
この存在と性質っていうものに分ける必要があったのだろうかって思うよね。存在だけでいいんじゃないって。
この性質線をなんで説明されてるのかよくわかんない。
なるほどね。
今のところなんだろうっていう存在の延長上というか、別に分けなくていいじゃんって思ってる。
なるほどね、それはちょっと面白い。え、なんで存在だけでいいんじゃんっていうのはどういうことっていうこと?
うーん、あ、ちょっと待って、そここっちは混同してるだけかな、存在と性質を。
はいはいはい。
うーん、そうなんだ、この性質の着地点が見えないというか、そうなの。
うんうんうん。
ちょっと話の途中だから全部聞いてないからかもしれないけどね。
OK、だからあれだよね、その存在をテーマにするっていうのは、より分かるというか、確かにそれって意味がありそうだよねっていうふうに思ってくれたわけだよね。
まあ面白かった、話は面白かったというわけかもしれないけど。
はいはいはい。
で、じゃあ性質になったときに、そもそもなんでそれを考えなきゃいけないんだっけっていう話だよね。
うん、そうだね。
はいはいはい。
なるほどね、確かに。
そこはね、確かに大事かも。
なんか自分の感覚で言うと、存在と性質はやっぱり基本的には違うんですよね。
うんうんうんうん。
うん。存在っていうのはまさにこう、個物ってさっき言ったと思うんだけど、
例えばね、パソコンとかマイクとか、感の共生というか人間もそうだけど、やっぱり個々の存在。
まあ、物質的なものにまずは限るとして、
物としてある種見たり聞いたり、なんだろうな、確かめたりできるって意味で、
36:01
ある種こう、ありありとした存在感があるみたいなことを言ったりするんだけど、現象学とかの文脈で言うと。
はいはいはい。
で、じゃあその性質っていうのは、やっぱりすごく個物に対すると移り変わりやすい。
うんうんうん。
例えば甘かったドーナツもいっぱい食べたら甘くなくなるとか、
綺麗だったお花もやっぱり時間が過ぎれば見にくくなるみたいな。
あったときに、いわゆるその存在と違って、
なんだろうな、同一性とか、
うん。
そのなんだろうな、そこの世の中の在り方っていうのがやっぱり違うとか、
あるいはそのやっぱり個物に対して性質がくっつくみたいな感覚っていうのが多分前提としてあって。
うんうんうんうんうん。
なので、じゃあどうしてその個物に対して性質っていうのが関わりを持つのかっていう、
結構そういう二言論的な発想が根底にあるんだよね。
なるほどなるほど。
今の話聞きながらそうだね、確かに確かに。
うん。
こっちは分かって分かっただけだからなと思ったのが、
あるその事柄とかね、っていうものがあったときにその存在として捉えると、
確かにそれを例えばね、善なのか悪なのかとかさ、
それが正義なのか、良かったことなのか悪かったことなのかみたいな話っていうのは、
事柄っていうのが存在で、それに対する評価みたいなものは性質だと。
こっちは勝手に捨ててるだったりとか、
さっきハイトが話してくれたそれが、
いわゆるその外在的な性質なのか、その悪とか正義が、
果たしてそれとも傾向的なのかとか、
もしくはさっきハイトが言ってくれた物理的にもそもそも存在、
その悪を内包してるのか、それとも、
社会的な悪には悪とされてるだけなのかみたいな。
そうだね。
そういう意味である事柄とそれに対する評価みたいなところが、
あとそういう風に考えると、
すごくこの存在と性質みたいなものが、
自分の中ではすごいしっくりきたかな。
なるほどね。確かに確かに。
そういう風に捉えるとね。
ありがとう。確かに言われてみればそうで、
もうちょっと世の中的な話で言って、
昔って神っていうのは絶対的な善だったわけだよね。
ほうほうほう。
いわゆる神っていう存在に善っていう性質が、
もうくっついてるというか、もう切っても切り離せませんみたいな。
そこから例えば王様っていうのは、
神の善性とか絶対性っていうのをもらって、
王様っていうのは絶対であるみたいな存在だったわけなんだけど、
そこがどんどん分離していくわけだよね、歴史的にも。
とか一緒だったらまずいよねってことがいっぱい起きてくるわけだよね。
うんうんうん。
要は王様がいうことは何でもよしだったら、
39:02
やっぱり世の中がもう泣いてたんとか、民衆つらいみたいなことがあったときに、
善って何だとか悪って何だとか、
そもそも王様っていう存在そのものが善なのかとかっていうことが、
やっぱり問題として結構出てきますと。
そういうときにやっぱり存在と性質を分けるとか、
存在と性質はどういう関係を持つかっていうところが、
まるで具体的な問題と出てきたりするわけだよね。
それを抽象化したりとか、現実世界とかそういうところで考えると、
存在と性質っていうのはどういう関わりがあるのかとか、
何が同じ何が違うのかっていうことがテーマになってくるみたいな。
そんな感じがイメージしやすいかもしれないですね。
そう考えると確かに神様とか王様側には王様側のロジックがあるだろうし、
それがつらいって言って倒す方には倒す方で、
ただ力で倒してもしょうがないからちゃんとしたロジックが必要に。
力で倒してた時代もあっただろうけど。
そういうロジックが必要になってきて、
現代の民主主義だったりとかそういうものが、
どんどん培われてきたというかね。
話もあるだろうって話だね。
それこそ哲学という分野をそこに寄与してたというかね。
そここそがというか。
ちょっと今いろいろな話が広がったけど、
よかったなと思っているのは、
いわゆる啓示哲学的にというか、
純粋に概念だけを扱うという話と、
それをどう応用しますかという話って、
一緒に考えた方がいいなとは思ったんだよね。
そうだね。
たぶん素人は抽象的なところでいじくることが慣れてなさすぎるから、
混乱しちゃうね。
存在と性質が混同するというか、
そこを違いも分からないみたいなね。
確かに。
リスナー皆さんは分かってて、
この兄貴は何聞いてるんだろうみたいな話かもしれないけれども、
今やっとそこの違いがしっくりきた感じがするよ。
ありがとうございます。
今回僕が冒頭言った通り、
僕は性質って存在とは思えないっていう、
大前提があるんですよね。
でもやっぱりこれまではどっちかというと、
性質って存在するのかとか、
存在と近いよねとか、
ある種、そもそもドーナツって存在じゃないから、
ドーナツと甘さって近いよねとかって、
結構そこが分かりにくいというか、
フワフワしたものは話を進めちゃったなと思ってるんですよ。
なのでちょっとここから、
少し結論めいたというか、
僕の中で思っていることをお話したいんですけど、
明確に性質は存在するかしないかとかっていうのに、
変に言葉を出すものでもないとは思うんですけど、
僕のスタンスでいうと、
やっぱり存在しないと思うと。
42:00
なんでそう思うかっていうと、
さっきもちょっと触れたんですけど、
純粋無垢な存在みたいなものを考えたときに、
それが一個だけありますと。
そういう世界を想像すると、
やっぱりそこに性質っていうものが
やっぱり現れてこないよねって思ってるんですよね。
ふんふんふんふん。
そこには、例えば、
ただ一つのみたいなものが性質だとしたときに、
もうただ一つっていう性質すらもない。
要はもう一個のものしかない。
そのものしかないときに、
1とか2とかっていう数字とかっていうのも
意味を出さないっていうふうに僕は思うんですよ。
色とか形とかも別にそれを認識する人もいないし、
形もそれを比較するものもないし、
要はさっきの傾向性でいうと、
状況っていうのは変わらないから傾向も起きないし、
外にものがないから外在的な性質もないみたいな。
ふんふんふんふん。
っていうふうになると、
やっぱり性質っていうのはその存在が複数あって
初めて出てくるものっていうふうにしか思えないですよね。
おーなるほど。
今日の話で言うと外在だっけか。
相対的っていう表現するけどとか。
そうだね。
100円玉も同じか。
まあそういうね。
ふんふんふん。
第三者みたいな。
そうですそうです。
ちょっとこれは、
あれだったらカットしてほしいんですけど、
僕が一時期宇宙の始まりってなんだ?
みたいなものがめちゃめちゃ興味が出る。
考えたり知られたりしたときに、
世の中で結構ビッグバンとかインフレーションみたいな
そういう一つの点から宇宙が広がってきたみたいな
物理的なものとして言われたりするんですけど、
結局その根底にあったのって変化だよねっていうふうに
思ったときがあって。
変化。
変化。
要は何かが変わらないと
そういうビッグバンを起こすような熱を持つとか、
推進力が生まれるってことはなくて、
それがなければ常に一定の無の状態が
一生続いてたと思うんですよね。
何かが変化したからこそ、
この宇宙とか地球みたいなものも生まれてきたって思うと、
何かが変化するっていうのは
この宇宙の根本だというふうに
僕は思ってるんですよ実は。
ほうほうほうほうほう。
逆に言うと変化が起きたっていうのがこの宇宙の根本だから、
変化がない宇宙っていうのも多分あって。
あーなるほど。
別の宇宙を私が考えたときにね。
だからこれはなぜこの世の中は変化するんですかっていう問いは
実は間違いで、
いや違う、変化っていうものが起きたから生まれてるのはこの世界だから、
変化が先で世の中が後だっていうふうに思ってるんですよ。
はいはいはいはい。
だから次論で言うと、
要は性質っていうもの、何かが変化するとか、
45:04
その変化したときに何かと何かが変わるっていうときに、
それを認識したときに起きてくるものであって、
やっぱり性質っていうものがどこかに存在するとか、
甘さっていうものが甘さそのものとしてあるっていうふうに僕は思えないんですよね。
なるほど。
そういうのも全部変化、存在っていうよりも変化だっていうふうに捉えるとって話ね。
そうですそうです。
存在って言っちゃうとちょっと固定されてるような雰囲気もあるけれども、
そこにちょっと変化っていう概念を加えとこうよって話ね。
それは通り。
甘さっていうのもあれ変化じゃないですか。
例えば甘いチョコを食べた後、みかんは甘くないみたいな話で、
結局あれも甘さっていう感覚の差分を取っているものだと思うから、
結局変化だったと僕は思うんですよね。
なるほど。甘さもある意味相対的な感覚でしかないと考えるとね。
そうそうそうそう。
なのでやっぱりそれは存在って思うとは違うというか、
存在と存在があって初めて変化としてのとか関係としての性質ってのが出てくるって思っているので、
そういうふうに思うと、やっぱりこの性質っていわゆる存在者っていうものよりは、
存在と同士の関係を示すタグみたいなものじゃないかなっていうふうに、
僕は自然、そっちのほうが自然だなっていうふうに思っちゃうんですよね。
なるほどなるほど。
実際そういうふうな表現とかもあるんですよ。
その存在ってタグじゃないかとかラベルじゃないかみたいな話もあって。
そうなんだ。哲学的にもそういう表現してる人がいるんだ。
そうそうそうそう。
ただやっぱりそっちの方向でいくと結局性質はないとか、無等はないかみたいな話になっちゃうので、
どちらかというとその存在として性質を取られている方が発展しやすいとかっていうような流れもあるんじゃないかと想像するんだよね。
ちょっとごめんなさい、ここは僕の勝手な想像なので、歴史的にはもっと違う発展の流れもあると思うんですけど、
みたいなことを完全に自分の所感として今お伝えしましたという感じなんですけどね。
はいはい。でも分からなくはないと。
子供向けの本とかでも読むじゃん。ビッグバンが始まってとかってさ、
それ以前は何もなかったですって言われたときに、
それが始まりですって言われるとさ、でもビッグバンがあるからにはそれの前は無だって言われても、
その無のところにじゃあなんでビッグバンが生まれるの?その前は何だったの?っていう疑問が当然生まれてくると思うよね。
出てくるよね、そうそうそう。
だからそこに対する考えというか、反射して変化みたいなのって面白いと思うよね。
自分の場合はもう不思議だな怖いなで思考が止まっちゃってるけど、
48:04
ちゃんと考えたときにね、変化する宇宙もあった結果宇宙がこの宇宙で、
ということはずっと無のままである変化しないっていう宇宙も存在するんだろうみたいなのでは、
話としてはすごい理解できるし、
あとさっきの甘さみたいなものがね、
これはやっぱ性質というものは存在しないという時に、
じゃあ意思は存在するみたいな、
そこの違いっていうのも今のハヤトの話だと結構明確な気がして、
本当に嬉しい。
じゃあその意思というものと甘さの違いみたいなものがあった時に、
やっぱり意思はやっぱり、
うちらが認識する鍵はだけれども、
やっぱり見て触れる物質であるっていうところだしね、
意思の持つ硬さっていう意味で言えば甘さと同じような話で、
相対的に人間が石を投げられたら痛いけれども、
じゃあ石が鉄にぶつかったら石の方が砕けるっていう意味で、
とても相対的な概念だし、
そういう意味での存在と性質っていうのが明確に違うものっていうのは意味はわかる気がする。
嬉しいです。
今兄貴がすごくいい例を出してくれて、
存在と性質の一歩を進めたいというか、
冒頭言ってたら東洋の方に少し話をずらしたんですけど、
東洋の方でもそうですし、
存在的に言ったけど石って本当に石として存在するのかっていう話も疑いますよね。
要は石も砕いたら砂になるしってなった時に、
やっぱりそうやって人間がまさにそれをラベルとしてつけたものだとすると、
今度は逆に石っていう存在も実は性質だったんじゃないかみたいな風にも考えることができますよね。
そうだね。さっきのハヤトの変化っていう概念を頭に入れておくと、
その話もスムーズに入ってくる気がする。
そうそうそう。
これを仏教では諸行無常って言うんですよ。
そうなんだ。それを諸行無常って言うんだ。
諸行無常。
あらゆるものは変化する無常である。常ではない。
うん。はいはい。
し、だから仏教で言うと存在もやっぱり存在しない。教育的にはとか。
うん。
もちろんこの前にあるものはあるんだけど、
それは教育的な存在ではないみたいな話は結構そういうことに近いんだなって思ってるんですよね。
うん。はいはいはい。
そう。なので、やっぱり存在と性質っていうものも存在が確かで性質があやふやだっていうこともない。
やっぱ合気のような今言ってくれた変化って話でいくと、実はもう存在も変化するし性質も変にするみたいな。
だから変化だ、諸行無常だっていうような話もできるみたいな。
いやー、その変数入れると一気に全部崩壊する感じするよね。西洋哲学が。
51:07
ある意味ね、人間もある意味土に帰るみたいなところまで含めるって話でしょ。さっき石と同じでさ。
そうなんです。
そうするとやっぱり不変なものっていわば変わらないものってあるのかっていうのは、
西洋的に言うといわゆる魂みたいなものとか、本質みたいなものだよね。
それがやっぱりあるっていうのが西洋的な、西洋の基本だし、
西洋的にそういうのはないっていうのは、ソロとか仏教の基本であるから、やっぱりそれぐらい対立してるんだよね。
あー、そうね。でもまあ、それらもね、結局言葉でちゃんとやりとりしなきゃいけないっていう意味では、
それぞれの異部を理解した上で突っ込んでいくみたいなね。
だから今の諸行無常的な概念で言うとさ、今回は刑事上学で言うとさ、
存在はなくて性質のみが存在するとも、下手したら言えなくはないような。
まあそうだね。
そっちに近いよね。
確かにね。要は変化しているその時々に対して名前をつける、
タグをつけるってことだけは存在するみたいな。
そうね。だから性質が存在って言っちゃうとおかしくなるか。
だから性質だけがあるだとまだ許されるかな。
性質だけを理解することができるとか、
そういうのが言葉としては近いかもね。
人間も存在じゃなくて性質なのが。
そうそうそう。
たまたま人間の中で虫だったりとか草だったりしているものが
今はたまたま人間としてあるだけで、
次はどうなるかわからないというような話だから。
さっきのあれか、溶けるかもしれない塩とか砂糖と同じような概念ね。
今はたまたま固形の砂糖だけど、
一瞬先は溶けてるかもしれないみたいな話と近いと。
そっちは固形の方を人間と表現して、
溶けた方を虫として表現するならばと。
面白いんだよね。
仏教だといわゆる仏というものだけは本質として変わらないという人もいれば、
仏というものが変わるんだという人もいて、
そこに変わるか変わらないかという議論が出てくるみたいな。
どこに土台を持ってくるかでここまで違うんだね。
途中ちょっと迷った感じ、迷子になった感じだったけど、
なんとなくその存在と性質というものの概念の違い、
なんでそこを分けなきゃいけないのかみたいなところが見えてきた気がするかな。
うれしい。
ごめんなさい、僕の趣味で今問いを読んじゃったんですけど、
逆にそれによってちょっと西洋のことが見えてくるというか、
54:02
逆に西洋の形状枠が何を大事にしているのかというところも
ちょっとお伝えできたんじゃないかなと思うので。
なるほど、確かに。
処理を無情で終わらせずにね。
今のこの固形になっている今の砂糖をちゃんと見ようよみたいな。
そういう意気込みみたいなものは伝ってくる気がするよね。
そうね。
だからやっぱり処理を無情に、逃げないというのは変な話だけど、
やっぱりそれで済ませないとか、それで良しともできないものがあるんだよね、
この現実世界にはやっぱり。
言うて砂糖あるじゃん、認識してるじゃん。
変化の途中だろうとなんだろうと、
変化の途中を我々は認識してしまってるんだからみたいなね。
その世界でも生きていくしかないんだからっていうような話があるんで。
そこのスコープの違いとかが確かに皆さんと共有できると、
確かにそれは分かるねとか、
ちょっとそこは自分のスコープじゃなかったねとかっていうのが分かりやすくなるかなと。
僕も今なんか掴めた気がしちゃうんで。
はいはいはい。
そういうところも大事にしながら、今後はまたいろいろお話したいなと思っていますという感じですね。
最後の性質について少しだけまとめさせていただくと、
そんな感じで存在するかしないかもそうなんだけど、
性質があるかないかとか、性質と存在がどう違うかとかっていうことだけで、
やっぱりすごくいろんなテーマが含まれてくるんですよね。
それも東洋に行けばそもそも全部変化するかっていう話もあるし、
フィルト原子体に言わせれば全部疑似問題になるって問題も、
いろんな立場によってもとにかく扱い方が違うんだけれども、
ある種の切手してないというか、
ちゃんと物事に向き合おうと思うとやっぱりこういうことが大事になりますよと。
うんうんうん。
やっぱりパニキーが言ってくれたような善悪みたいなものとか、
道徳とかもそうだし、
価値とは何かとかね。
そういうこともこういう性質とは何かっていうものから
やっぱり広がってくるテーマなので、
やっぱり今後、性質とそのものについてまた触れることは少ないかもしれないですけど、
実はこうやって性質について議論してるねみたいな。
うんうんうんうんうん。
そういうふうに立ち返ってくる場面っていうのは結構あるんじゃないかななんて思ってました。
というような感じですね。
なるほどね、そうはね。
というかむしろ常に存在と性質について語ってるんだとも言えるって話だね。
今までは本当的な土台みたいな話をしてくれてるわけだね。
そうですそうです。
だからこそ年収の第一回のテーマとしていいんじゃないかと思って扱ったっていう感じですね。
うんうんうん、なるほど。
それはちょっと迷子をやるわけだよね。
ここまで抽象的な話をしてたって話だね。
そうですそうです。
なるほど。
はい。
57:00
なのでちょっと抽象的な話は一旦ここまでかなと今回はと思ってまして、
次回はね、結構大きなテーマの中でも今回触れられなかった他者、他人っていうものを取り上げてみたいですと。
今回の話に引き付けると、例えば他者って間違いなく存在はするじゃないですか。
存在、そうはね。
一旦素朴に考えて。
東洋、変化っていうのは一回抜いてね。
西洋的にね。
東洋的に言ったら他者も存在しないから一旦そこは切り抜けるんだけど。
西洋的な哲学の流れで言うと、他者っていうものはもっと日常的に僕らの生活においては他人っていうものは存在してますよと。
はいはいはいはい。
他人ってやっぱどんな存在なのってことを調べたときに、
例えばいわゆる僕にとって兄貴みたいな存在とマイクとかパソコンっていう存在はもちろん違うわけだよね。
うんうんうん。
それでじゃあなんで違うのみたいな話を、
例えば前回調べたサルトルの実存主義とかとも結構繋がる話なので、
そういうところと絡めながらちょっとお話ししていきたい。
次回のテーマは他者、他人っていうものをテーマにいろいろお話ししたいというふうに思っているというような感じです。
はいわかりました。了解です。
では次回ですね、他者ということで引き続き楽しんでいきたいと思いますので、
引き続きよろしくお願いします。
お願いします。
今回もありがとうございました。
58:42

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