1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #459 【非主観 その2】和辻哲..
#459 【非主観 その2】和辻哲郎、ブーバーから考える「自分」や人間の在り方
2026-09-20 57:31

#459 【非主観 その2】和辻哲郎、ブーバーから考える「自分」や人間の在り方

▼「それ哲ラジオ」おたよりフォーム

ラジオのご感想やコメントなど、お待ちしております!

https://forms.gle/ThJocrLap77ELG7B7

▼「それ哲公園」とは?

それ哲フォーラム(掲示板)を中心に、それ哲カフェ(オンライン哲学カフェ)も開催しています。参加をお待ちしています!

https://www.soretetsu.com/

▼それ哲ラジオ 公式X

更新案内や、番組の周辺の話など。

https://x.com/soretetsu_radio

▼哲学事務所ルディクレア

https://ludicrea.jp/

感想

まだ感想はありません。最初の1件を書きましょう!

00:11
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。 よろしくお願いします。
よろしくお願いします。 前回から非主観から見る他者ということで、前回はあれでしたね、
仏教の空とか優識とかそういうのを見てきたというところでした。 そうですね、最終的にはね、なんかそんな自分なんて固定したもの
あるんですかね、みたいなさ。 どこまで行ってもそれってあるんだかないんだかみたいな、そういう話でね、
割と終わってしまった感じはあるんですけど、 結構兄貴もね、これまで西洋とまた違う感覚ってのを取り戻してくれたんじゃないかなと思ってるんだよね。
そうだね、確かに確かに。 関係性がとかね、あらやしきがとかって、また久々に聞いたなと思いながら。
はいはいはい、ね、いずれちょっと馴染んでもらった上で、まぁ、ともにね、前回もちょっと言ったんですけれども、今回その非主観から見る他者みたいな、あえてこう神そうなテーマにしてるんだけれども、
やっぱその、僕もさっきね、ちらっと西洋って言っちゃったけど、 西洋と東洋って分けちゃうと、それがもうやっぱり分ける分離じゃないですか。
うんうんうん。 やっぱその発想自体が、やっぱ良くないよねとかって思ったりするんで、今回はですね、
えっと時代は同じなんだけど、それこそ西洋も東洋もみたいな感じでちょっと2人取り上げるんですけど、
どっちもね、過去で取り上げたことがあって、1人はワツリ鉄郎さん。 うんうんうん。
で、日本の哲学者ですね。 うん。
で、もう1人がマルティンブーバーさんっていう、オーストリアの人かな。 うんうんうん。
で、その我と何時に言ったことを言ったよって話を、たぶん以前どこだったかな、ちょっと何かのテーマでお話したことはあるんですけど、
この2人で取り上げようと思ってるんですよと。 はいはいはい。
はい。で、まあ時代的には前回からだいぶ進むんだけれども、えっとね、ワツリさんが生まれたのが1889年で、亡くなったのが1960年なんですよ。 うん。
で、マルティンブーバーさんは、えっとね、1878年に生まれて、1965年に亡くなられているので、
おお。 多少10年ぐらいかな、違いはあるんだけれども、ほぼ同時代を生きた人みたいな感じなんですよね。うんうんうん。そうなんだ。ほうほう。
うんうん。で、だからってわけじゃないかもしれないけれども、やっぱり似たような時代、それこそ住む場所とかね、当然そういう文化とか違いども、
03:04
やっぱり20世紀のいろんな激動の世界大戦とかも含めた、やっぱり時代を生きていることだったりするので、上辺を見ると、もちろんね、ちょっと今日そこまで深いとこはできないかもしれないけれども、
言ってることを見ると結構近そうなことを言ってるように感じるんですよ。 うーん。
うん。なので、ちょっとそこの、今回は違いっていうよりはちょっと似たようなところ、みたいなのをお話しすることで、
前回やったような、自分ってあるんだかないんだかみたいなところから、でもそれってもう少し近代的なというか、
僕らの時代に近いところからすると、どんなふうに考えられるんでしょうねっていうところをお話ししていこうと思ってるんですよというふうな感じなんですよね。
はいはいはい。まあそれぞれ似たようなテーマで、似たような視点で話してるんじゃないかみたいな感じね。
まあ、と言うこともできるって感じかな。 うんうんうん。
当然ね、なんかその、いろんなものを無視して、このワツリさんとブーバーさんは同じことを言っているとはとても言えないんだけれども、
少なくともこの非主観とか他者みたいなところにおいては、結構似たようなものが見出せるかもねーっていうのがあるんで。
はいはいはい。
そう、それを今日ね話していこうと思ってるし、皆さんもあれだよね、お兄さんも聞いたときに、確かに似てるねなのか、
なんかハヤトはそう言うけど、ちょっとやっぱり結構これ違くないとか、そういうこともね、なんか考えてるというか、感じていただけたら嬉しいなと思っておりますというふうな感じですね。
うんうん、なるほどなるほど。まあ今回のその非主観のから見る、なんて言ったら、確かに。
全然馴染まないね。
えっとー、そうはね、なんか自分から始めない人間とはね、自分とはみたいな。
あーそうだね、そうだね。まさにまさに、はい。
では前回はね、その無我みたいなところも含めて、人間ってこう組み合わさってたまたまそれいろんな要素が入り合わさっただけだみたいな話があったと思うんだけれども、
今回ですね、大事になってくるのは、まあいわゆるこう、まあこれも関係性ではあるんだけれども、
まあ一言で言うと間みたいな話かな。間っていうものに、むしろその人間というか事故も含めてだし、他者っていうものがあるんじゃないかというようなところをちょっと話していこうと思ってますというところですね。
ほい。で早速にいくんだけれども、ついさんですね、まずからいくと、これですね、たぶんはついさんの回の時にも言ったんですけれども、
彼はハイデガー、たびたびてくる20世紀最大の作者、ハイデガーがいるんですけど、彼はですね、実際ドイツに予約したときに、
実際ハイデガーの使徒である存在と時間を読んで、ハイデガーにも会いに行ってるはずなんですよね。
06:04
おーはいはいはい。
で、学んでいるんですけれども、そこでハイデガーってやっぱり時間なんですよ。時間っていうものが人間存在の根底に根本にあるんだみたいな話をして、それはたぶん今年の年末ぐらいにちゃんと取り上げてもう一回やりたいなと思ってるんですけど、
でもその時間っていうのはわかる、大事なんだけれども、でもやっぱりもう一個捨てられないとか避けられないものとして、空間っていうものがあるんじゃないかと、そんなことを考えるんですよね。
えっとハイデガーがね。
えっとね、わつじさんが。
おーそうなんだ、ほうほうほう。
そう、ハイデガーはやっぱ時間なんですよ、基本に据えてるのがね。でもその時間っていうものを逆に言うとある種ハイデガーを批判的に見るわけですよ。
やっぱりこのわつじさんからすると、特に時間っていうのはハイデガーに言わせるといわゆる死っていうものがあって、死からある種逆算するというか、現在見た時の限られた時間とか、
そういう死を起点とした時の時間性の中において、人間っていうものをどう扱うかみたいな話なんだよね。
おー、はいはいはい。
うん、そうざっくり言うと。
なんだけれども、もちろんそれも大事なんだが、わつじさんに言わせると、やっぱりそもそもやっぱり僕らが生きている、あるいは人が生きているこの空間性とか、
あとやっぱり他者との距離感とか、距離って空間だよって話をしたと思うんですけど、そういった空間性っていうものをもっとやっぱり大事にした方がいいんじゃないかってことを考えるんだよね。
で、実際わつじさんって言うと風土みたいなところが多分有名で、実際取り上げた時にも、なんかモンスン型とかさ、なんか砂漠型とか言ったの何だか覚えてるかな。
あー、うんうん、なんか風土の話の人か。
全然ピンときてなかったんだけど、風土の話はなんか前にしたね。
うんうんうんうん、そう。
やっぱりそれもただ単純に風土、要は環境ってものを捉えるんじゃなくて、人間っていうのはやっぱり空間性っていうものがすごく大事なんだと。
その空間性っていうものを象徴的に表したりとか、構造的に捉えるものが風土だよみたいな、結構そういう繋がりがもともとあるわけなんですよ。
なので、このやっぱりなんだろうな、環境というか、自分が存在する空間性と、その自己とか他者の在り方っていうものを考えた人としてのわつじさんっていうのがいるわけなんですよね。
うんうんうんうん。
多い。で、これもよくある可能なのですけど、やっぱり人間って人の間で描くじゃないですか、というときに、やっぱりこの人、日本のときはやっぱり言葉に注目すると、
09:01
ある種、やっぱりヒューマンっていうよりもヒューマンビーイング的なやっぱりその在り方とか、ちゃんと間にいるっていうことが大事だっていうふうな話があって、
そうすると、やっぱりこれまでね、レビナスとかメロポンでやってきたような、出発点としてのこの私というものは、このある種皮膚というかこの体に閉じたこの個体っていうもの、もっと西洋で言うと脳だったよね、思考とか脳だったと思うんだけど、
それを拡張して体にしたとしても、それはやっぱり日本語で言う人なんですよね。
うんうんうん。
であって、あくまでもその人間として生きるためには、その間っていうのが必要で、その間とは何との間かっていうと、当然他者、他人もそうだし家族もそうだし、地域社会まで行くと当然自然とかも含むような。
うんうんうん。
そういうふうな、もちろん人と人っていう関係もそうだけれども、人と自然っていうのを含むような関係性、間柄みたいな、それからネットワークっていうものを想定しないと、やっぱり人間っていうものは取られないんじゃないかというふうなことを考えるわけなんですよね。
うーん、はいはいはい。
どうだろう、これ自体は結構どうかな、今というのはこの21世紀のね、生きている感覚からすると、割とそうだよねっていう感じだったりする?
まあそうだね、そのなんで人間には間が入ってるっていう話は、なんかまあ道徳の授業でしたかわかんないけど、
なんかある程度こう一般常識って言うとあれだけど、なんか共通認識なのかなぁとは思ってるけどね。
はいはいはいはい、そうだよね。
人と人間は違うよみたいなのってなんか言われた気がする。
ね。でもこれもやっぱりそのワッチーさんとか考えたことがまあ広まって、そういう話になってるってこともあるだろうし。
あとは当然その、これもロッカーの時に言ったような話だけど、いわゆるこう西洋近代的な個人っていうものが発明で、それが西洋から日本に江戸時代かけぐるみに入ってくるわけだよね。
でその個人っていうものが入ってくるんだけれども、でもそれに対してやっぱ違和感とか、でも人間ってやっぱそういうもんじゃなくないっていう、その個人っていうものを踏まえた上での人間という捉え方。
つまりやっぱりこのワッチーさんが言うこの人間っていうものも個人っていうものの思想とか概念に対抗するようなやっぱり発想ではあるんだよね。
あー対抗だったりとか、その個人ありきの考えではあるか、確かに。
個人っていうものを前提するとか相対化した時の人間っていう話かな。
なのでやっぱり僕らはどうしてもその人っていうのは間があるっていうようなことを聞いた時にも、やっぱり人が先とか、やっぱりこう人って個人っていうものがあって、でもその間にあるっていうふうな順序で考えちゃうと思うんだよ。
12:16
でもやっぱりワッチーさんが言ったりとか、やっぱり今回その非主観化のために立ち上がっていただいたのはやっぱりそこじゃなくて、やっぱり間ありきなんだよね。
前回の仏教で言うと要素の繋がりありきみたいな。
その他たまたま今合わさって私という人間がやっているとか、その間というものが先にあり、先っていうのはちょっと言うか、同時、本当は同時なんだけど、
間というものがない人間はいないし、その人間だけでもやっぱり存在できず間というものは必要であるっていう、この両方がないとやっぱり人間っていう存在にはならないよっていう、これが結構大事なところだね。
お互いっていうか、そうだもんね、人は人としてだけで存在できないし、その間っていうのも何か、人なのか何かがないとその間っていう空間なのか何なのか、その概念も発生しえないよねっていう話だもんね。
まさにまさにそういうこと。
繰り返しちゃったんだけど、その人間って人間っていうものは、やっぱり分けられない。これが一つになって初めて間もあれば人もあるし、人もあれば間もあるっていう、やっぱりそういうふうな発想が松井さんにはあるわけですよ。
確かに、今日の話も、ただバーってそうだねそうだねって聞いていくと、結構どっちが先みたいなふうなイメージで捉えちゃうこともあるかもしれないね、人によって。
人が先だなとか、間が先だなとか、やっぱりそういう人によってのイメージって多分あると思うから、そういうことじゃなくて、同時なんだよと、お互いがお互いを規定し合ってるんだよみたいな、
存在させ合ってるんだよみたいなさ、そういうのって確かに結構ちゃんと言われないと難しいかもって思った。
どうしても僕はやっぱり人ありき、個人ありきで発想が強いと思うから、多くの人は。
なのでここはすごく大事な部分というか、あえて非主観から見る他者っていうテーマの時には、そういった分けられないとか、やっぱり閉じちゃダメなんだっていうところを意識、僕もちょっとちゃんとしないとは思って話してるんだけれども、
ただね、とはいえって話がありまして、この厚井さんの人間って両方あって、同時に両方が生きているような話はそうなんだけれども、やっぱりこれはこれで結構難しい問題があるんですよということをちょっとさらっと言ってしまうんだけれども、
15:13
例えばね、この間っていうものが、さっき言ったような家族とか社会とか、そういった集団というものと結びついていくわけなんですよ。
当然さ、レビナスの時にも言ったけれども、一対一の関係っていうものよりも一対一とか三人関係になって、それが社会と国会になるよっていう話ってあったじゃないですか。
そうね、一対一とそれ以上、三人以上じゃ全然違うよねっていう話あったもんね。
そうそうそうそう、それと同じわけではないんだけれども、やっぱり他者との関係とか間っていうものを捉えると、当然その相対としてはやっぱり社会みたいなものが出てくるわけだよね。
はいはいはい。
なのでこのお手術さんの話も、結局やっぱりその個人と社会とか、そういうふうなやっぱり繋がりになっていきます。
そうした時に、その個人っていうものはなので、あえてその個人って言ってるけれども、
それはまさによくイメージされる子、私、私そのものというかっていうふうな子としての存在と、その間として生きる社会的な存在とっていう、この二重構造を持つようになるんだっていう話をするんですよ。
へー、ほうほうほう。
ここ結構実は大事なところで、これまでの西洋的な子っていうのは、あくまでもその個人がその個人のままでどういうふうに社会とか他者と繋がるか結ぶかっていうことがあるから、
別に個人っていうのは引き裂かれるみたいな感覚はそんななかったわけなんだよね。
確かに確かに。
でも今回その人間っていうものが、人としての例えば、私と間としての私って両方が同時に起きるってなると、これってなんか二つあるんじゃないっていう発想できますと。
あーなるほどね、はいはいはい。
でもこれも文人の時にもやったと思うけどさ、やっぱり自分って一つのようでありながらいろんなところにいろんな自分がいるみたいな話があったときに、その根本ってまるしてプライベートな自分とソーシャルな自分、社会的な自分みたいな、そういうものって結構イメージしやすいと思うんですよ。
はいはいはい。
っていうようなところで、やっぱり個人、個々としての私と社会的な私っていうものが分かれるし、でもその分かれるって言っても、結局この私も結局は日本、僕だと日本語を使って、日本語で考えてっていうと、やっぱり日本っていう社会の中でも生きざるを得ないというか、
18:08
そういうふうな、この中に社会が入ってくるし、社会の中にもこの自分が入っていくって、やっぱりぱっとり分かれるものでもなかったりはするんだよね。
っていう中において、その自分っていうものが、個々と社会、プライベートとソーシャルが分かれていく、こういう葛藤がある中でどういうふうにある種生きていくかというか、生活していきますかっていうところが、逆にワティさんからすると大事なテーマになっていくみたいな話なんだよね。
おー面白いね、そっか。もう構造的に、自分から出発しないと、人間という間みたいなものに着目すると、もう絶対に普遍の自分がいるのだ、それが、誰かとの関係性に応じて、ただ変わるというか、リアクションしたりとか応答するみたいな感じじゃなくて、
ワティさんの話だと、構造的に、自分っていうものの像というか、引き裂かれるまでいかないまでのもの、さっきのハエトの話でいうと、丸が重なってる部分はあるかもしれないけど、
一つの丸がギュギュギュって、二つにはちょっと引っ張られて、一つとは言えないというか、一つの丸にはならないよねっていう、構造になってるよねみたいな話は、面白いなと思うね、確かに。今までなかったかもね。
そういう意味では、まさに言ってくれた、丸がちょっと重なって大きくなるっていうのもそうだし、やっぱりそれ行ったり来たりするわけだよね。
だから、私っていうのはこういう人間だというよりも、こういう時の私もいるけど、やっぱりこういう時の私もいるよねみたいな感じで、行ったり来たりするっていうことをみんながやってますと。
そうすると、やっぱり社会のルールとか倫理みたいなものに関しても、やっぱり時々変わってくる。
当然相手によって、やっぱりこういう態度がいいよねとか、こういうふうに接するべきだよねとかっていうことも変わってくるし、よくあるじゃん、外国の方からすると、日本の敬語が難しいとかっていう時にさ、
上司にはこういう言葉で、ちょっと先輩にはこういう言葉で、後輩にはこういう言葉みたいなさ、それってやっぱりすごく難しいっていうことだと思うんだけれども、やっぱりそれがある種その関係性における、より倫理とか道徳性というか、そういうものに結びついてるんだってことも言えるかなと思うんだよね。
21:03
わー面白いね、確かに確かに。
それね、他から見たら、自分を全部偽ってるんじゃないか、まあ前の多分文人みたいな話にちょっと近くなるのかなと思うけど、どれが本当のあなたなんですかみたいなね、時に混乱する人もいるというか、そういうふうに見えてもおかしくないもんね。
ただ、今回の話からすると、それはこう無理してそうなってるとかじゃなくて、構造的にそうなってるから、それもそれで自然なんだよみたいな。
うん、できる。ごめんちょっと笑ったのは、構造的にそうなってるから、それがそうなんだよって、すごいそれが多くて、ちょっとわかりにくいと思ったから補足すると、
構造的に丸っていうものが人と間の両方の側にあるから、その間が変われば当然人の側にも影響があるから、あなたはどこにいるんですかって言われても、間と同時に生じてくれるものだから、全然別にその時々の全てが私ですよとか、人間として私ですよっていうふうに言えるみたいな、そういうことだと思うんだよね。
いや、そんな感じです。すみません。あくまで自然体ですよっていうふうに本人はね。
そうだよね。そうですね。なので、そういった意味ではね、ある種自然体な自分っていうものを構造とられるっていうね、すごくいい話かなと思っているんですけれども、
当然ね、やっぱりそんな簡単には問屋が下ろせませんとかってあるわけですよ。どういうことかっていうとですね、ある種こういった人間、間と人が同時に出てくるっていう話があったときにですね、これすごくやっぱり難しいことになるんだけれども、
つまり、要は人のことを考えるときに、これって要は自分の外部では他者とか社会とかそういうものもセットで考えなさいよっていうふうな話になるわけじゃないですか。
むしろ人間ではそういうものであるということなんだけれども、そうなっていくと、ある種人間の発達みたいなことを考えたときに、例えばまず子供とかを考えると、まだ社会とかと馴染んでない家族ぐらいの中で生きていくと思うんだけれども、
そこからさ、世の中の決まりごと、例えば朝に起きて夜には寝るんだとか、信号は守らなきゃいけませんとか、いろんなことがあるわけじゃん。いろんな価値観を身につけて育っていくんだけれども、やっぱり思春期ぐらいになってくると、ある種自我みたいなものが芽生えてくると言われていて、
やっぱり自分はこうしたいとか、世の中のルールなんでこうなってるんだとかってことを思う人が増えてきたりしますねと。
24:00
言うときに、人間の中でやっぱり人による時期というか、やっぱり私っていう子を向き合う時期っていうのがあるんだよねと。
で、それについてはよく言って、一旦その社会性というものを否定して、その自我というものとか自己というものを強めていきますと。
ただそこから大人になったときに、いわゆる利己的な自己、自分のことしか考えない自己っていうものをもう一回否定して、その全体の側とか間の方にある種繋がっていくみたいな、そういうことをワティさんは言ってるらしいんですよね。
ああ、そうなんだ、へぇー。
っていうふうにして、ある種その自己っていうものを、ある種この何だろうな、もう一回否定してその全体に繋がっていくっていうふうな、それが人としての良いあり方というか倫理的な立場だよってことを言ったりするんだよね。
へぇー、そういうふうに成長していきます。
発達って言うとちょっとあれかもしれないけど、成長していきますみたいな感じなのか。
そうだね、うん。
やるときにどうかな、この話ってどんなふうに感じる?
あー、どんなふうに。まあでもまあそうなってるよね、なんとなくね。
うんうんうんうん。
まあそんなもんなんじゃないのって、うん。
そう思うと思うんですよ。まあまあそう言われてみたらそうだねっていう感じなんだけれども、やっぱりこれってすごく実は怖いっていう話があって、何かっていうと要は、
最終的にね、最終的にその全体と繋がるのが良いよとか言われてしまうと、目標というかその個人の発達の到達点っていうものが、
その社会とか家族でも国家でもいいんだけれども、それ全体の方にあるよって話になるんですよね。
あー、はいはいはい。
そう、つまり一回そのうちにこもって否定して何か利己的になるのは良いんだけど、その殻を破ってもう一回社会と繋がらないと人としてはダメですよみたいなことになるわけよ。
うーん。
そうするとさ、そのいわゆる本来は尊重されるべきやっぱり個性みたいなものとか、ある種やっぱりその社会と馴染まないっていうことも大事なやっぱり個人の性質じゃないですか。
はいはいはい。
ね、例えばこれどっかでやったかな、やったんじゃないかもなけど、じゃあ日本社会においてその多数派と少数派がいたときに、
その少数派にお前らはこの日本社会と繋がってない、間を作れていない未活達な人間だいだことを言うことになっちゃうわけよね。
うーん。
でもやっぱりそれって社会としてはおかしいし、それも含めてやっぱり共存するというか、一緒に生きていくっていう方がより豊かな社会じゃないですか。
まあ、じゃないですかって言うとちょっとだいぶ思想が強くなったんだけど。
27:04
まあまあまあ。
でも、そのよく本当の意味でも多様性とか、やっぱりそのいろんな人がちゃんと、なんだろうな、一緒に生きていく社会っていうものは、たぶんそういうものだと思うんだよね。
まあ、なんか、なんだろうな、より会話は起こりそうというかね、余地はありそうだよね。
ね、そうそう。これ、あれだったかな、ごめん、ちょっと忘れちゃったんだけれども、その天才性をどう生かすか、社会における天才性をどう生かすかみたいな話を、たぶん過去どこかでやったことがあって、
っていう時にも、その天才性をやっぱり殺してしまうのか、生かすのかみたいな話と、まあこれは近くって、やっぱりその、この和水さんの最初、一旦社会性を否定して子に戻るんだけど、その子を否定して社会につながっていくっていう発想は、
やっぱり、社会っていうものはより重要であるとか、子っていうものは最終的には社会に還元されるものだみたいな、そういう発想にある種つながりやすいんですよ。
はいはいはい。 実際、和水さんはその戦前かな、戦中にかけて、この自分の作ったその人間の論理っていうものを、やっぱりこういわゆる戦争的なものとか、いわゆる全体主義みたいなものに結びつけていってしまうんですよね。
あー、あれ、和水さんだっけ、それこそ東京大学とかの哲学の先生やってたとかって、なんかそういう話あった気がするね。なんか、ちょっとあの、おかかえ哲学者みたいになっちゃったみたいな、なんか。
そうだね、言ってた気もする。実際、東大の教授にもなってらっしゃるね。
うんうんうん。
倫理学。あ、そうそう、倫理学の教授になってる。
なんか日本のその辺の倫理というかさ、価値観みたいなものをちょっと作っちゃったんじゃないみたいな。
はいはいはい、言った気がするな。うん、したしたした、うん。そうそうそう、だからそれちょっと政治的なというかさ、うん。
やっぱりその個人っていうものが、やっぱり日本、やっぱりこう日本っていうものに繋がっていくとか、そこと重なることが人間的な成長であるみたいな。
やっぱりそういう風潮を作ってしまってるんだよね。
なるほどね、これはあれだね、レビナスの時だっけか、ハイデガーがもうナチと支持してて幻滅したみたいなのってレビナスだっけか。
レビナスだね、うん。
その時だと、ハイデガーみたいな人も、そういう思想というか、という方にOKしちゃうんだみたいな落書きがあったと思うんだけど。
30:06
はいはい。
松井さんも今日の話からすると、人と間がどっちが先とかじゃなくて、同時にお互いを存在させ合ってるというか、規制させ合ってるんだみたいな感覚だとすると、
さっき言ってたさ、若い頃一回自我の方に寄って、大人になったら社会と接続すべきだとかさ、する方がいいのだみたいなさ。
そっちの方が正しい人間の在り方なんだみたいなさ、そういう話ってしなさそうじゃない?ここまで考えられる人がみたいなさ。
うんうんうん。
そこはやっぱりミステリーなんだろうけどね。
ハイデガーも松井さんも、時代の流れだったりとか、そこを生きてる一人の人間としてそういうふうになるのか、それとも社会的な何らかの要請によって、そういうふうにしなきゃいけなかったのかみたいな、ちょっとそこはミステリーとして面白そうだなと思うね。
そうだね。実際確かに戦後とかにやっぱりそれを後悔するというか、自分自身の説っていうものをやっぱり振り返るような話もあったとは聞くから、実際いろんな人に批判もされてるしね。
でもやっぱりそれは戦後になってわかるというか、やっぱりその時代の中でどういうふうに世の中を捉えて発信するか、どういう立場で発信するかとかってもちろんあると思うんだけどね。
なので今回で言うと、この後まだブーバーさん控えてるからちょっとあっさりになってしまうけれども、やっぱり今人間っていう話をしたし、
やっぱりその間っていうものも考えながらやっぱり縁を広げていくっていうこと自体は大事な考え方だと思うし、僕らの実家にも馴染むと思うんだけど、それだけにやっぱり行ってしまうと、
結局やっぱりその社会の側とか間の側にやっぱり重きを置いて、結局そっちの方がやっぱりいろんな人と繋がってる間っていう方にやっぱり本質があるんじゃないかとか、やっぱりそっちの方にパワーバランスを持って帰るようなこともあったりするから。
そうだね、パワーバランスの話めっちゃありそうだね。どうしてもそっちの方が引きずられるというかね。
そうなんだよね。そういうところがやっぱり大事にしなきゃいけない。いつも言ってる劇薬とか混ぜるのが危険とかさ、やっぱり哲学って力があるから、発想とか構造に。
33:03
それをやっぱり申し訳せずにやっていきましょうねっていう感じかな。
とは言いつつね、もう一人ちょっと近いというかそういった文脈で話をするんだけれども、ブーバさんですね。
この人はもう本当にキーワード的には、我、汝っていうものと、我、それっていう二つがあるよって言ったよっていうふうな人なんですけど、
すっごいざっくり言うと、我、それっていうのは、いわゆる主観客観の世界だね。
つまり私っていう主観がそれっていう客観、まずは物だよね。これを観察するとか分析とかして利用しますと。
なので、例えば相手、別にそれが人でも石でもいいんだけれども、っていうのは自分とはある種切り離された手段であって、
石を掴んで投げようが、人に何かを命令しやらせようが、それはもう一緒だぐらいの立場なんですよ。
極端に言うとね。だからちょっとこれイメージだけれども、
どっか中世の王様とかが家来に向かって、お前ちょっと戦争行って死んでこいとかっていうときに、
多分それって別に当時言うと当たり前というか、あり得るし、
その王様がその人に対して、あんまりその心情的なつながりとかって多分持ってないはずなんだよね。
どっちかというと手段としての、ひとつの駒としての兵士みたいな。
話したときに、それって言うのは我、それの関係ですと。
で、もう一から言ってたら、我、汝っていうものは、
これはお互いの関係性やお互い認め合うというか、応答性があるんだよね。
つまり、さっきの王様例で言うと、王様がお前、戦争行ってこいというときに、
でも実はこの王様と家来は幼少からずっと一緒に育っていた親友でしてみたいなさ。
で、その兵士の方も王様のいろんな葛藤を想像しながらも、
一言わかりますって言ってきますとかって言うとかってなると、また全然違う発想になるんじゃない?
発想が見え方になるんじゃない?
まあまあそうだね。
で、どっちの方がドラマになるかっていうと、多分その後者の方だと思うんだけど、
そういうふうにお互いの関係性をちゃんと持っているとか、呼びかけ合って応答し合うみたいなところでいくと、
それはやっぱ主観客観の分析とか手段っていうことじゃなくて、
その繋がりがあるみたいな、そういうふうなことを考えるんですよね。
はいはい、そういうふうに分けられるってことね。
そうそうそう。で、本当の自分、本当のって誰なんだけれども、
この我っていうものに関して言うと、
36:03
基本的には本来、僕ら人間の在り方っていうのは、我が自分の方にあるんだと。
ただそれが、いろんな社会性とか理性を使うとかって時に、我がそれに関係になっていくんだけれども、
でもその、僕らがやっている分析的なものっていうのは、
やっぱり一回取っ払って、本来的な我・男児の関係に戻りましょうね、みたいな。
そういうところがあるし、ブーバーさんが言おうとしていることなんですよね。
へー、あ、そうなんだ。ほうほうほう。
うん、すっごいザック言うとね。
そう。で、そうすると、じゃあ渡辺さん何が近いか。
やっぱりこの、そもそもの発想として、
我・男児っていうのはさっき言った応答関係みたいな話だし、
まじきっとも切り離さないみたいな関係なんだよね。
はいはいはい。
うん。もっと言うと、男児の側が呼びかけに応えてくれないと、
この関係性って成り立たないんですよ。
つまり、僕だけがいくらお兄さんと、我・男児関係を作りたいと思って、
一緒にこうしようとかああしようとかって言っても、
お兄さんが我・それ関係で、弟なんてなんだ、どうにでもないとかって思っていると、
その関係は成り立ちませんみたいな、そんな感じなんだよね。
あー、なるほどなるほど。ほうほうほう。
うん。つまりそういう意味でも、ある種始めに関係性があるというか、
お互いにそういった応答関係っていうものをして始めて、
この我・男児関係っていうものが成り立つというか、
そういうふうな形になっています。
うん、だしそれが、本来そういうふうに我と周りっていうのは、
我・男児と繋がっているのが本来だよね、みたいなぐらいの感じなの?
あ、そうそうそう。
あー、そう言ってるんだ。なるほどなるほど。
だから、我・それの方が例外ぐらいの感じなんだ。
まあそうね、例外というか、それが後からできてきたんだけれども、
それがもう、この近代、やっぱ彼がいた1900年前後っていうところはもう覆い尽くしてるよね、みたいな。
はいはいはいはい。
そういうふうな捉え方をしてるっていう感じかな。
なるほどなるほど。みんな思い出そうよ、みたいな感じか。
あ、そうそうそう。ちゃんと取り戻そうよ、みたいな感じだね。
これは哲学なのかな?宗教とか。
実際ね、これはね、すごいいい質問ありがたくて、
これはどっちかっていうと宗教に近いですと。
っていうのは、このブーマン自身はやっぱりそのユダヤ教の伝統の中で結構いろんなことを考えてきたりとか実践してる人なのね。
おー、はいはい。
ユダヤ人なんだけど、なのでその、今言った我・男子関係っていうものも、その人と人との関係ではもちろんあるんだけれども、
その根底にある、なんだろうな、やっぱりこの、まあ永遠の男子とかって言ったりするんだけれども、
39:00
そういうふうな物落としの神みたいな、やっぱり絶対的な神様と自分との関係っていうものがまず根源にあって、
はいはいはい。
その、私と神というお互いに通じ合っている関係を使って、他の人間とも同じような関係を作るっていうふうな、そういう発想があるんだよね。
なるほど、なるほど、そっか。だから論理というか、この話の作り方は、いわゆる哲学、誰が聞いても絶対そうなる論理っていうよりは、
こうしましょうみたいな、ちょっとこう理想じゃないけれども、そういうのはあるってことね。
そうだね、そういうふうに捉えてみてはどうですかっていうところもあるかな。
うんうんうん。
で、そういう意味で言うと、まさにそこがこのブーバーさんの難しいところでもあるんだけれども、やっぱり人と人間じゃ本当に関係性を、
誰とでも作れますかっていうと、それはそれで難しかったりするじゃない?
さっきのまさに例だけどさ、相手が我それ人間だったら無理だからね。
そうそうそう。やっぱりそこに神というものを置くと確かに、いわゆる神と人っていう愛し愛される関係っていうものがあって、
それを人間に応用することで、今この世にはびこっている暴力とか不安みたいなものを乗り越えましょうっていう発想自体は、それはそれでいいんだけれども、
でもやっぱりこれはどうしても、いわゆるユダヤ的な絶対的な神様っていうもの抜きにはやっぱり成り立たない発想でもあるんですよ。
いやー、そうだね。神様との我なんじっていうものを応用するっていうよりは、人間関係でもあるじゃん。なぜか全員と仲良い人みたいなさ。
はいはいはい。
大切なその潤滑優みたいな人っていると思うんだけど、そういう人がいる場だったりとか、もしくはそういう人に仲良くしてもらうことで、どんだけ対立してるとか仲悪いやつでもとりあえずコミュニケーションが取れるみたいなことってあると思うんだけど、
そういうのに近いんだろうね。そういう人と仲良くしてれば、その人と仲良いっていう感覚で仲悪いやつとコミュニケーションを取ろうとするんじゃなくて
その人がいるからこそ、いないと逆になり方ないコミュニケーションみたいな、もしくは人間関係みたいなものがあるとして
42:01
たぶん神様ってそういうポジションなんだろうね。だから自分が神様と我男子関係を築いてますっていうことがある。
で、もう完全に敵対してる人も同じ神様と我男子関係を構築してますという時に、そうすると絶対直接のコミュニケーションは無理なんだけど
その超絶潤滑油っていう存在があることで、なんとかコミュニケーションを取れるみたいな、だから逆に言うとそれがいないともう完全破綻しますみたいな
コミュニケーションが。そういう感じなイメージが湧いたね。
そうだね。でも本当その通りで、これは神様を信じればね、信じればやっぱり全員が潤滑油っていうものを使ってやっぱり馴染むことができるというか、お互いに我男子関係を築くことができるとも言えるんだけれども
まさに逆に言うと、やっぱり神様がいないとしたらとか、神様っていうものに頼らないと結局そういった環境を作れないって
同じ問題をはらんでるわけだよね。そうだね。
だからやっぱりこれをある種言ってしまうことが、例えば僕と兄貴がめちゃめちゃすごい兄弟喧嘩しまくってますと、で、もう全然口も聞きたくないとかっていう時に
誰かが来てさ、我男子が大事だから同じ神様を信じてみようよとかって言われたとしても、仮にそれをやったとしても、それって本当に僕と兄貴の関係が解消されたのか、
ただ共通の神様っていう存在がいたからなんか表面上うまくいったように見えるだけで、結局根本の問題解決されてないかっていうと結構後者に近いと思うんだよね。
本来は何かそこに折り合わないものがあって、気に食わないものがあって、そこに目を向けた時にお互いにはこれは自分が間違っていたとかさ、兄貴にもこんな言い分があったんだっていうふうなものがあるかもしれないのに、
それをある種覆い隠して、神様が純活いうでやってくれてるから仲良くしましょうとかっていうと、やっぱりこうある種表面上の問題解決しそうに見えるとか、僕と兄貴がそれで仲良かったように見えるかもしれないけれども、
やっぱりもっとその現実の泥臭い部分とか、葛藤みたいなものがやっぱりなくなっちゃうねとかっていうのがありますねと。で、これは難しくて、じゃあその葛藤ってすべきなんですかとかさ、本当に口も聞きたくないような人と仲良くすることって必要なんですかとかさ、そういうこともあるわけじゃない?
45:07
でもそこも含めて、そういう問題とかテーマに向き合うってこと自体に意味があるっていう立場もあるし、そんなつまんないことをいがみ合っているぐらいだったら、神様であれ社会であれ、いろんな外部の力を借りて仲良くしなさいよっていう立場も全然あっていいと思うんだけど、
こういうふうな問題というか、テーマにぶち当たってくるのがこの自分っていうものが関係性とともにあるとか、間と同時に出てくるとかっていうと、やっぱりこの外部との関係性っていうものがここまで差し迫ってくるみたいな、そういうふうな感じなんだよね。
なるほどだし、どうだろうな、今ちょっと話聞きながら考えてたんだけど、神様的なものとの我男子関係のどこまで通用するというか。
神様とはちょっと会議的というか、あえてそういうスタンスで話してくれたと思うんだけど、意外と官邸改善じゃないけどさ、そこを特価会議として、和田亀が完全に解ける未来もあるかもなっていう。
わかり合える日が来るかもなっていうのも感じて。
なんだろうな、例えばさ、ハヤトと兄弟喧嘩してるんだけれども、お互い好きなアニメが一緒で、その好きの度合いがもう完全にファンとかじゃなくて、
もうハマりまくってると。そういうことなら全部知ってるし、もうそのためだったらいくらお金使ってもいいし、もうイベントだったら絶対行くし、もちろん映画とか公開されたら初日に並んで行くし、
映画館の椅子に正座して見るぐらい邪魔だけどみたいなさ、ぐらい完全にもうどっぷりと。だけど仲は良くない本人たちは。会った時に、どうだろう、そこまでの状況がになってたら、どうなんだろうな、ダメか。
ダメかな、可能性があると思うんだけどな。
だからね、僕と兄貴がそのアニメを通じてお互いを理解し合うとか、通じ合う可能性があるんじゃないかってことだよね。
48:01
はいはいはい。これはね、非常に難しい問題で、例えば、宗教の話だから宗教に寄せちゃうんだけども、やっぱりキリスト教とユダヤ教とかってあるじゃないですか。
近いからこそ相入れないとか、お互い神を信じてるからこそ反発し合うとかっていう関係性ってあるわけじゃないですか。
それは違う宗教同士の話だよね。
じゃあやめておくか。カトリックとプロテスタントの話とかする?
いや、それも違うじゃん。アニメの解釈の違いの話で喧嘩しちゃってるじゃん、それって。
解釈だったりとかさ、やっぱり誰を推しとかさ、あそこのシーンではあの人はこう思ったはず、みたいな。
そこでローソン起きちゃってるじゃん。そうじゃなくて、もう完全に一致させてる。認識と愛が一致してる状態。
だからちょっと直論かもしれないけどね。
わからない。もしかしたらその状態だったらなる通常あるかもしれないし。
でもその中においても、でも俺の方が好きだとかさ、俺の方が愛が深いとかさ、そういうことを言い出す可能性もあるよね。
それはもう人間の強盗しか言えないな、なるほどね。
そう。だから、なんていうのかな。かつやっぱりそれが難しいのは、じゃあ僕と兄貴の兄弟喧嘩ぐらいならいいけれども、
じゃあそれはさ、やっぱり地域とか社会とか国家とか地球とかって広げたときに、全人類がやっぱり心からドハマりするアニメって多分ないと思うのよ。
だから理想論というか極論になっちゃうんだな。
そうそうそう。つまりこれは全人類が心から信じ合える宗教はありますかって話は多分同じで。
確かにアニメもさっきの話だよね。まさにオープニング曲のアーティストの選定から、声優のキャスティングから、
選んだ制作会社から、その絵柄から、動きから、みたいなところから含めて、さらに内容の解釈だったりとか、
キャラクターの性格、立ち位振る舞いみたいなものすべて、プロット、構造、エンディングというか結末みたいなね、含めて全員が完全にそれ最高ですって思うっていうのは、
51:05
アニメを運営してるっていうか作ってる方が、お前らこういう見方やから絶対こういうふうに見ないと殺すってしないと実現できないって話だね。
そうそうそう。実現できないし、実現したとして、それを受けたら全部知らないといけないから、つまり2時間の映画の1秒ごとに、あのシーンの何分何秒のあの時のあのカットのあの表情いいよねとかっていう会話が成り立つってことでしょ、それは。
それはね、僕の考えた最強の世界だな、それは。やっぱなっちゃうんですよ。
なっちゃうね。だから、たぶんそれを本気で説明する人はそれを思ってるんだね、その世界のね、その世界線を。
だからやっぱりそうなると外の世界、要は今言うとアニメの例えでもいいし、神様でもいいし、政治でもいいんだけれども、それを究極の最高の全人類が幸せになるものを作ろうっていうのはどこかで破綻すると思うんだよね、やっぱり。
怖いな、確かにその世界で、いや俺あのキャラのあそこのシーンの心情ってこういうことだと思うんだけどって思うことがどんだけ危ないことかみたいな話になってくる。
遅く通報ですよ、そんなの。遅く死刑ですよ。
まああれだね、確かにな。あの天動説、地動説じゃないけど。
そうそうそうそう。地球が動いてますとか言ったら、もう処刑みたいなさ、やっぱそうなっちゃうよね。
みたいなことがあるので、やっぱりその、今回そのね、人間、人と間みたいな話の関係性ってことをしたんですけれども、やっぱりそれを考えることは僕は大事だと思うし、
やっぱり子っていうものが子だけで成長してるとは思ってないんだけれども、やっぱりそのいかに全体性っていうものがやっぱり人間を捉えに来るかとか、
そこに対して近づくのではないか遠ざかるのではないか、やっぱりそれがある種個人の責任とか個人のあり方を引き受けなきゃいけないとかっていうことを突きつけてくるかみたいな。
結構そういうテーマとも関わってくる話なんですよね。
いやー面白いね。確かにレビュラー的なさ、3人以上集まったらルール確かに必要だよねっていう側面はすごい面白いんだけども、
一方で今回の話を聞くと、そのルールが逆に人間をどこまで危険にしてくるのか、制限してくるのかっていう危うさ、もしくはその、制限とは逆だよね。
まとめにかかってくるのかというかさ、同じベクトルに喜んで進ませようとしてくるのかだったり、逆にいやいやみたいなさ、そのバランスというか確かに面白い視点だね。
54:13
実際、次回ね、社会性みんなところから見るよって話したと思うんだけども、西洋哲学の中でも。
やっぱそっち行くとまさに社会とは国家っていうもののあり方とはとか、正当性とはとか、どこまで国民というか人に対して影響を与えられるものなのかとかっていうところを結構掘り下げていくので、
測らずも、そこまで台本の時に意識したわけじゃないんだけれども、ちょっと測らずもそこの鉢渡しになるような感じがして、今すごくいい流れだなって個人的には思って話してますね。
面白いね、確かに。前回レビナスでも、人間の理解とか社会の理解、もういいやゴールだって思ってたけど、全然違かった。
そうなんですよ、やっぱり果てがない、終わりがないものだなってところなんですけれども。
今日はね、ちょっとワティさんの話とブーバーさんの話と言いつつは、だいぶ触り手がブーバーさんもほんとサラッとになっちゃったけれども、
今日話したかったのは、2人っぽいと通じながらも、やっぱり関係性と人間が同時に起こるみたいな立場というか、
人っていうものが関係性がないとなりたくないし、その関係性も当然人がないとなりたくないというこの触れ幅みたいなところをちょっと見たかなと思うんですよね。
でもやっぱりその触れ幅、触れるからこそ、やっぱりその社会とか全体っていうふうな問題も起きてくるし、
やっぱりそこと自分っていうものの取り上げ方っていうものは切ってもわけない、離さない発想があるよというところを見させてもらいましたよと。
というところなんですけれども、次回は哲学者じゃなくて、木村敏さんっていう精神科の方と、
あともう一人ちょっとこれも2人にしたほうが面白いと思って、最近読んだ本の人で、竹内俊春さんっていう人がいるんだけど、
この方はね、今手元の方、演出家だな、劇団とかの。
っていう人がいるんですけど、その人2人を並べながら、日本人の特により現代に近い方々がどんなことを考えたのかとか、
ちょっとそういう、割とリアルな話ですね。今日みたいな、ちょっと抽象論に行くとさ、やっぱり最強の神様、哲学、アニメみたいな話しちゃうんだけれども、
もっと現実的に、精神に病を抱えた人がどうかとか、舞台とか演出、演劇の中で俳優っていう人たちがどう振る舞うかとか、
そういうところからも、やっぱり実行とか他者とか関わり方とかっていうのが見えてくるなと思ったんで、そういう2人を取り上げてお話ししていきたいと思ってますというふうな感じですね。
57:09
はいはい、わかりました。次回ですね、その2人の話の中身に焦点が出てくるというところで、楽しみにしていきたいと思います。では引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
57:31

コメント

スクロール