1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #458 【非主観 その1】唯識?..
#458 【非主観 その1】唯識?空?「自分」から始めない東洋哲学的な考え方とは
2026-09-16 57:56

#458 【非主観 その1】唯識?空?「自分」から始めない東洋哲学的な考え方とは

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サマリー

今回の「それ哲ラジオ」では、「自分」から始めない東洋哲学的な考え方として、仏教における「無我」の概念に焦点を当てています。西洋哲学がデカルト的な主観と客観の二元論を前提とするのに対し、仏教では「無我」を説くことで、実体としての自己や他者の存在を問い直します。番組では、ミリンダ王の問いを例に、車や人間といった存在が部品の集合体に過ぎず、実体を持たないことを解説します。さらに、仏教における「輪廻転生」と「無我」の間のジレンマを、「我は空、法は有」という考え方で乗り越えようとする試みを紹介します。 次に、ナーガールジュナの中観派が登場し、「一切は空である」という徹底した考え方を提示します。これは、上座部仏教が残した「法(ダルマ)」すらも空であると見なすもので、あらゆる存在は他者との関係性、すなわち「縁起」によってのみ存在すると説きます。しかし、この「空」だけでは、私たちが経験する世界のリアリティや多様性を説明しきれないという批判も提示されます。この問題を乗り越えるために、唯識(ゆいしき)の考え方が紹介され、蛇と縄と麻の例えを用いて、私たちの認識がどのように妄想から事実、そして空性へと至るのかを解説します。唯識では、世界の根源に「識」があり、そこから存在や世界が立ち現れると考え、特に「荒屋敷」という概念を用いて、多様性や因果関係を説明しようとします。 最終的に、これらの仏教的な視点から「自己」や「他者」の問いの立て方が根本的に変わることを強調します。西洋哲学が「我あり」から出発するのに対し、仏教では「本体などない」という前提から出発するため、自己や他者の捉え方が全く異なると説明します。自己は世界の中から見つけ出すものであり、関係性の中で初めて現れるという視点を示唆し、次回のテーマへの繋がりを語ってエピソードを締めくくっています。

新しいテーマ「非主観」と東洋哲学への導入
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。 よろしくお願いします。
よろしくお願いします。 このラジオは、身近なテーマをきっかけに、哲学について楽しく学んでみようという番組です。
哲学好きの弟と、哲学に馴染みのない兄の兄弟二人でお送りしていきたいと思います。
改めまして、兄の環野恭介です。 弟のハヤトです。よろしくお願いします。
はい、今回から新しいテーマということで、 前回だとあれだよね、久々に東洋行こうかみたいな話してたんですけど、どんな感じになってくるんでしょうか?
そうですね、新しいテーマではあるものを、これまでの事故とか他者っていうのをやってきましたっていう、それこそベルクソンとかフロイト、ベルフォンティ・リビナスって西洋の有名なんですけど、
どの人たちも基本西洋なので、やっぱりデカルト的な、自分と他人とか主観と客観っていうのがあって、それをどう乗り越えるかみたいな、そういうふうな前提の人たちを話してきたかなと思うんですよね。
ちょっとそのバランスを取るために、東洋的な事故の捉え方とかを確かめようと思ったんですけど、やっぱりそうすると西洋と東洋が対立してるとか、そこの二元論も単純化されそうだなと思って、
あえて大きな括りで、私から始まらないというか、言葉としては固いんですけど、非主観、主観ではないものから考えた時に自分とか他者ってどうなるの?みたいな、そういう話をしようと思ってるんですよ。
ああ、だしそういう視点も、いわゆる哲学的にちゃんとあるんだよって話ね。
哲学、一応使おうと思ってるのは今回3回分ぐらいで終わるんですけど、今日は、いわゆる仏教で、仏教ってやっぱりそれ哲学上的には邪道の仏教だよってなるんで、
一応、いわゆる初期の頃の定座部仏教みたいなものとか、あとはラーガール寺那ってだいぶ前にありましたけれども、大乗仏教を始めた人と言われる人とか、
あとはみなさん結構これ人気があるんですけど、優意識とか覚えてる? 覚えてる。覚えてるっていう言葉をね。 そうそうそう。っていう、ちょっと初期の頃の仏教の話を今日はしたいなと思ってて。
で、次はこれも前に取り上げましたけど、和辻哲郎とかさ。 あーはいはいはい。 あとマルティンブーバーとかさ。過去ね、スウェーデンスラジオでも話したと思うんですけど、その自分と相手じゃなくて、我と汝っていう関係性とかっていうものがあったような話とか。
我って自分だと思うけどね。 でもそうそう、その辺の話とか。あとね、これ多分初め取り上げるんですけど、あの木村敏さんっていう聞いたことある? いや、ないない。 この方はね、哲学者というよりはどっちかというと精神学者になるのかな?
どこ、木村敏さん? 木村敏さん。 日本の人で。 日本人です。木村さんです、はい。
っていう人はいるんだけども、この方がね、まさに関係としての事故みたいな本も出されてるんですよ。事故なんだけど関係があるみたいな。そういったものを統合執著とかそういうところから取り上げてる人がいて。
そういうちょっと3段階で、今日は仏教の話、次回は祭りとかマルティンブーバーの話、最後は木村敏さんの話で、主観とか自分っていうものから出発しない事故とか他者ってなんだみたいな。
そもそもね、さっき言った通り兄貴もさ、我と何時って言ったら、でも我って自分じゃんみたいな。あると思うんだけど、その我が主観から出発しないんだよみたいな、なんかそういう話をしていくと。
なんだそれはってなりつつも、多分これ前の迷路ポンティとかレビナスとかとも、全然そもそも出発点が違うねとか、そもそも前提が違うとこんな風に話が膨らんでくんだみたいな。
なるほどね。 そういうことも含めて、やっぱり思想って幅広いよねみたいな、そういうことをみんなで味わっていきたいなと思ってますという感じなんだよね。
仏教における「無我」の概念とミリンダ王の問い
なるほどね。前回レビナスを聞いて、結構その顔とかさ、イリアからの逃避、理解するとはわしづかみであるみたいなさ、ああいう感覚すごい良いなーって思って今それに浸ってるから、ちょっと聞くのが怖いね。なんかそれが壊れそうで怖いね。
壊れるよ。だってそもそも自分っていう存在のさ、王様だとかそんな話したじゃん?レビナスの時に。
してたしてた。
自分で世界を作ってたみたいなさ、そんなもの存在しないからね、今日の話には。
いやー、せっかくね、頑張ってレビナスいいなーって思ったのに、またこうやって忘れていくんだね。
そうだね、確かに確かに。恐らしいな、バランスをとってるとも言えば忘れていくっていうのはちょっと怖いけど、まあまあやっていきましょうよ。
私のメモリが少なすぎるから、全部新しい方で上書きされてるだけかもしれないね、ただ。
まあまあ、何かが馴染んでると、今日の優色で言うと何かが困獣されてるはずだから、荒屋敷に残っていって上がっていくんだっていう、まあそういう話もあるんですけど。
荒屋敷ね。
断片的だと思うんで、ちょっと振り返りながらやっていきましょうっていうのもあるし、本来ならこれだけでも多分ね、仏教的な事故とか立ち上がってるだけでも、本当5回ぐらいやれるようなものなんですけど、
まあ一旦ね、それはさらってるんで、ちょっとあんまり復讐も返せばちょっとつまんでく感じで今回はね、やっていこうと思うんで、
まあそこの意味ではね、気軽に、ちょっとそんなことあってはね、みたいな感じで聞いていただけると嬉しいなと思っておりますというふうな感じですね。
はいはい、わかりました。
はい、ではね、やっていきましょうというところなんですけれども、早速なんだけれどもね、今日やっていく仏教はさっき言った通り、いわゆる定座部仏教という初期の仏教と、
ナーガルジナの中間派って言われる、クーの派手だね、と優衛式っていう、まあこれだけでもね、たぶんもっと500、600年とか間あるのかな、ぐらいの歴史はあるんですけど、
はい、そうね。
うん、それやっていきましょうと思ってますね。で、もう初っ端なんだけどさ、仏教、久々の仏教なんですけど、仏教に無我ってあるじゃないですか、無我。
うーんと、私がないね、の無我ね。
我がない、そうそう、無我ってあるじゃないですか。
はい。
これ、どうよ、ほらもう、仏教は無我ですって言った時点でさ、前回までの話なんだったのってなるよね。
そうだね。
俺が俺がって、自分っていうものはなんだって言ってさ、突き詰めて考えて、自分だけではこの世界っていうものを乗り越えられないから他者を引き受けるんだって言われるビデオだったじゃん。
うん。
無我だからって言われた瞬間にさ、
あのー、デカルト以降の哲学者を全部敵に回したよね。
そうね、それがデカルトよりも1000年以上前に語られてくるみたいなさ、よくわかんないことやってくるんだけれども、
この無我って何ぞやみたいな話は、まあまあ、ほんとにやると難しいんで、すごい思い出していただくって感じでやるんだけれども、
よくね、聞かれるお話として、ミリンダ王の問いっていうのがあるんですよ、ミリンダ王ね。
あー、王様、はいはいはい。
王様にやり取りするっていうのがあるんだけれども、有名な問答の話があって、
そのミリンダ王様がね、その仏教のその賢者を長世奈っていう人に対して、
長世奈って誰?みたいな。
ほんと言うと人間って何?みたいなそういう話を聞くんだよね。
そうすると長世奈はいろいろ答えるんだけど、ミリンダ王が納得しないんで、じゃあ逆に聞くけどねって聞くんですよ。
王様は今日何で来ましたか?みたいな、一緒に話してるんだけど、お前何で来ましたか?って言うと馬車で来ましたって。
だからあって、馬車って何ですかね?みたいな。
馬車ってじゃあ車輪ですか?って言うと、いや違うよって言うんだよね。
馬車ってじゃあ例えば馬ですか?とか乗ってるその椅子の部分ですか?とかいろいろ聞くわけよ。
でも王様は別にそれは全部車じゃないよって言うんだよね。
じゃあその部品を集めた全部ってものは車ですか?って言うと、
でもこれは車輪とかいろいろ集まって車になってるだけだから、
全部を組み合わせたらイコール車かって言うとちょっと分かんないなとかそういうことを言うんだよね。
そうなんだ、ほうほうほう。
そう。で、時にほらね、みたいな感じで、
あなたは車に乗ってきた馬車に乗ってきたって言うけど、馬車っていうものは存在しないじゃないかと。
おー。
つまり人間もそれと一緒で、人間と何かって言われても、手でも足でも脳でもないし、
それを全部まとめたら人間になるかって言うと、
まとまった働きに人間という、あるいはナーガセーナっていう仮の名をつけてるだけであって、
ナーガセーナとか人間というものは存在しませんとかってことを言うんだよね。
うーん、なるほど。
今のやりとりだと、車の車輪とか座席とか、いろいろ集めたものが車でしょうか?みたいな時に、
そうだよって言っちゃいそうなんだけど、違うんだね。
つまり、車の実態って話をした時に、この車そのもので、
要は定義ができると思うんだけど、車そのものがありますかって言われると、
いや、でもその車っていうものは車輪とか座るところとかっていうのが組み合わさったもので。
なるほど。その車輪とか、軸も言ってみればないかもしれないけど、
それと同列に車って存在しますか?っていう質問ですらないよ?になっちゃうっていう話か。
そういうことですね。
わー面白いね。そっかそっか。
論破された。
早いな。
僕らは車というものがあると思っているし、名がせやという人がいると思っているんだけど、
でも車っていうものがあくまでも部品の集めであって、
でもその部品一個一個が車であるわけでもない。それに仮の名を付けたものが車であると。
人間というものの層で、これ語音とかっていう言葉で言うんだけど、識、樹、層、行、識とかっていうのが分かれたりするんだけど、
要は肉体とかさ、あとはイメージとか認識力とかっていろいろ人間にもあるんだけど、
その認識力とか身体とかが集まったものをたまたま人間とか、名がせや、
なんとかカンノハヤトっていう名前で呼んでいるだけであって、
カンノハヤトという存在そのものが実体としてあるわけじゃないよっていうふうな、
そういうことを無我っていうふうに言うんだよね。
わー面白いね。なんか久々この感覚。
でもそうだね。
あるとかないとか。
わーやっぱ、なんなんだろうねこの人たち。ずるいよね。
ずるいかな。
だってやっぱハンドルとかさ、タイヤとか集めたものが車じゃないですよねってなると、
それが例えば車輪そのものにも適用されるわけじゃん。
この木をこうやって放射状にやって、こういうふうに円の部品をつけたものが車輪ですかって言われると、
いや違うみたいに多分同じようになるじゃん。
そうまさにまさに。
じゃあ車輪ってものは存在しないですね。
じゃあこの棒はどうですかとか木はどうですかって永遠にやっていくと何もなくなるよねっていう話でしょ。
そういうこと。
勘弁してくれみたいなね。
つまりそれがまず関係性の世界とかそれは演技の世界だよね。
だからその棒があれから車輪があるみたいに、要はそういうふうに繋がっていくんだけれども、
棒という実態とか車輪という実態があるかっていうと、それはたまたま組み合わせとか今の掛け合わせの中で集まっているだけで、
特定の今この瞬間だけを指してこれが存在するとは言えませんねっていう。
そういうものがやっぱり仏教的なものの根本にあるわけですよ。
もう全然違うでしょ、前回までと。
なんか本当、騙されてるんだかすごいこと言われてるんだかわかんなくなっちゃうね。
そうね。紙一重というか。
まあでもこれはやっぱりその、何だろうな。
いわゆる実態論ではね、私というものは存在するとか、
一個一個のまさに名付けているものっていうものは存在している。
社会は存在しているっていうものと、
社会が存在しないと同じように意思も存在しないっていう感覚。
社会ってあくまでもいろんな仕組みとか人間が作った構造っていうものを社会と名付けているっていう話じゃん。
それと同じように意思というものも名付けているだけではねみたいな。
そうだよね。本来そういう何かが集まってできたものとも言えるからね。
そうそうそうそう。
っていうような話があるんだけれどもね。
無我と輪廻のジレンマ、そして「我は空、法は有」
これ面白いんだよ。仏教の上座部仏教、初期の人たちもそうは言ってるんだけれども、
仏教ってあの、輪廻とかを飾るじゃないですか。輪廻転生ね。
要はお釈迦様、ゴータマシタルタも過去世とかいろんなものがある中で繰り返してたまたまゴータマシタルタとして生まれてきたんだけど、
それが悟って仏陀になりましたみたいな。
あった時に、この輪廻したって何なのと。要は我はないわけじゃん。実体として。
でも輪廻するときに何が輪廻してるのとか、
そのいわゆる仏教ってカルマじゃん。
その要は業を含んでそれを次の来世に持っていくっていうふうな発想なんだけど、
そのカルマとか業って何にくっついてるのとか、
自分がないならそもそもカルマっていうものもないんじゃないみたいな。
そうだね。
っていうところがめちゃめちゃジレンマを起こすのね。
確かに。全部なくなっちゃうからね。
そうそうそう。で、なくなるんだったら別にカルマなんて考えなくていいんじゃないですかとかさ。
別に悪いことをしても、我はたまたまそうやって、今、実体としてはないわけだから。
死んでしまって、無参無賞して、消えてなくなって、輪廻するとしてもそれは今の自分とは全く関係ないから、
別に悪いことをしてもいいんじゃないとか、そういうことにもなっちゃうわけよね。
そうだね。
っていうところに対して、本当にいろんな緻密なことを言うんだけれども、
すごい一言で言うと、我は無い。我は空だと。空っていうのも実際ジョーザブでも使ってるらしいんだけれども。
でも、いわゆるダルマって呼ばれるもの。ダルマが何かって難しいんだけど、
そういう法則的なものとか、いわゆる何かくっついたり集まったりするんだけど、
何が何がくっつくかとかっていうこと自体には一定の決まりとか働きがあって、
それ自体はあるんだと。これは何か、我空法有とか、法有かな。
我は空なんだけども、法、ダルマはあるっていう。
こういうふうな発想でもって、無我なんだけど、ちゃんと我はダルマとして引き継がれるよっていう。
そういうことを考えつくわけよ。すごいよね。何言ってんだって話じゃん。
そうだね。何言ってんだだけど、言われれば確かにそうかみたいなね。
さっき言うと、車が車、たらしめられているような構造はあるよねみたいなのを言うてねみたいな。
そうそうそう。そこは残ってるよねみたいな。
まあまあまあ、はい。
ギリ分かりましたねと。
というところでやっていくんだけれども、
ナーガールジュナの中観派と「一切は空」
それって結局、私というとか車という実態は消したけれども、構造の方にスライドさせただけであって、
結局それって本当なんだっけとか、それで本当に説明しつくせてるんだっけって思う人たちも出てくるわけですよね、当然。
まあ難しいよね。結局何かがあるって言ってるじゃんっていうところでの堂々めぐりみたいなものは感じるもんね。
そう。っていう時にやっぱり現れたのがナーガール・ジュナなわけですよ。リュウジュさんなわけですよ。
彼はもう一切は空だと。
そうやっていうのは、定座部の人たちが残したダルマ、何かないとリンネとかカルマの主体的なもの、カルマが何につくかっていうことは説明できないから、
これは残そうって言って残したものすらないよ、空だよって言ったのがナーガール・ジュナなわけなんですよね。
わー、徹底しちゃったんだね。
徹底しちゃった。
それの代わりに出たものが、さっき言った演技って言っちゃったけれども、まさにこの演技。
要は他者というか、ただ物ですらない可能性もあるから、他との関係、依存関係によってしかあらゆるものとは存在できませんっていうことを言って、
あらゆるものは空であるっていうような話をしたんだよね。
わー、ちょっとこの辺も深掘りたいけど、一旦このまま行こうか。
一旦ね、すごいわかりやすいで言うと、相対主義と空の違いってすごく難しいというか、微妙なところがあるんだけれども、
例えばさ、姉貴がいるじゃないですか、一人ね。
その時に、姉貴の背って高いですか低いですかって書いたらどうする?
平均ですってしか言えないかな。普通ですみたいな。
でもやっぱその普通ってさ、要はその基準があって、成人日本人男性とか、そういうふうな基準が初めて普通ですがっているじゃん。
そうだね。
つまり、この姉貴、お兄さん背が高いですかっていう問いには、
そもそも比較をするとか、高い低いという基準を持っているとか、いろんな前提が含まれているわけなんだよね。
そうだね。
逆に言うと、比較するっていうことを想定しないと高いも低いも言えませんと。
そうだね。そんな言葉はいらないよね。
そうそうそうそう。だった時に、このクーっていう発想は、高いとか低いとか、
あらゆる姉貴にさ、いろんな属性があるわけじゃん。男とか女性別もそうだし、年齢とかもそうだけど、あらゆるものは比較によって定義することができるじゃん。
っていう時に、この比較するとか、他者との関係性、これ合わせ関係なんだけど、これを前提において、そこからある種世界のあらゆるものが現れてくるってクーでは言えないんだけど、
そういったところから捉えましょうっていうふうな発想なんだよね。
なので、背が高い低いとかもそうだし、親であるとか子であるとかってことも、同じ人が親に対しては子であり、子に対しては親でありっていう、それも結構関係性じゃないですか。
そうだね。
そう、そういうことも含めて、あらゆるものとか属性とかは、やっぱりその人に所属してるんじゃなくて、その比較するものとか関係してるものからしか出てきませんっていう。
はいはいはい。
ここに目を向けてくるんだよね。
おー、はいはいはい。わかりやすいね、なるほどなるほど。
そうそうそう。なので、前回のレビナスとかはさ、自分ってものがいて、でもそれだと存在ってものが行き詰まるから、
他者、あるいはイリアっていうものを、そうしたら他者を引き込んで自分の世界を壊すっていうところで、解放されるっていう、そういうふうなルートを辿ったんだけれども、
では、自分じゃなくて他者が絶対的だって話だよね。
うんうんうん。
うん。でも、ユウジは自分、ナワガルジュの自分も空だし、他者も空。
世界全体は空だから、もう空しかない、一切は空だみたいなことを言うわけなんだけど。
はいはいはい。
それによって、ある種立体的な自分とか、車としての、さっきも言ったけど、車っていうレイヤーでの自分とか、そういったレイヤーでの他者もいないんだと、
いうことを世界の根底として言うんだよね。
いやー、なるほどね。だから関係でしかないっていうね、全部が空空空空空で、
その時々の関係だけでただ浮かび上がってるだけだよ、みたいな感じで。
で、空も空だよとか言い出すわけよね。
もういい、もういいや。
なるほどね、空も空だ。
全ては空であるっていうと、空も実体化されちゃうから、
うんうんうん。
そう、空っていう車ができちゃうじゃん、そうすると。
だから空でもないって言って、もうよくわからなくなってくんだけれども、
とはいえね、当然、僕らが生きてる世界はあるじゃないですか、
そう考えても自分と相手がいるようにしか見えない世界があって、
それはある種、種族体と言えるような、普通の認識で生きてる世界。
でも、その種族体の上と重なり合って、将棋体っていう、
まさにその空、全ては空であるっていう世界が両方重なり合って、
この世界と成り立っているんだって、二体説って言うんだけど、
こういうことを言うんだよね。
唯識の考え方:蛇・縄・麻のたとえ
なので、その種族、普通に生きてるレベルでは、
自分はとか、あなたはとかって言ってもいいんだけど、
将棋っていう仏の真理が実現された世界では、
今もそれは全部なくなってるよっていうふうな、そういうことを考えるんですよ。
今の話は初めて聞いたかな?将棋体。
あんまり言ってなかったかもね。
言ったけど、言葉としても馴染みがなさすぎて。
忘れたかね。
これは何?
種族体よりも将棋体の方が後頭であるとか、後耳であるみたいな、
だからそっちに行くべしとかじゃなくて、
もうどっちもあるというか、
もうどっちもだよみたいな感じだろうかな。
これは多分いろいろあって、ナーガルジナのところで言うと、
将棋体の方がもちろん仏の真理の世界だから、そっちの方が通行であると。
でもこれはどんどんずらやくなっていくと、実はこの種族体こそが将棋体なのだとか、
あるいはこの世こそが仏の真理が実現された世界なのだとかっていうふうな発想にもなったりするので、
あるいはその悟った人からすると、この世が極楽に見えるとか、
それは主観、主観というかその人の悟りレベルというか、認識力の問題ではみたいな、というふうにもなっていくね。
なるほどなるほど。
だから専門家というかね、それをやってきた人たちの間でも、なかなか定義はそうやって別れるというか、そういう感じなんだね。
でもいわゆるイディアみたいに全く違う人間を泳ぐ世界があるというよりは、
やっぱり悟りも人間の修行の果てにあるものではあるので、
実続きであるというか、重なってるみたいな感覚はあるはずだね。
なんかモードの違いぐらいの感じに見えるね、その人の。
まあそうだね。
なんかフィルターなのかモードなのかね。
そうそうそうそう。
いろいろなところがあって、その空っていうものを言ったんですけれども、
これもね、いろいろな批判というか、言うことはできるわけですよ。
仏教の内部の話でも、やっぱりこの空、すべてが空で空も空だってことは要はよしとしましょうと。
実体なんてありませんねと。
まあそれはそれはいいんだけど、やっぱりこの、やっぱり僕らが生きてるリアリティというかさ、
生き生きとした感覚っていうのは、やっぱりどうしても拭いにくいわけじゃないですか。
もっと言うと、長らじなあなたはそれが消えさせることができたかもしれないけれども、
私には無理ですって人も当然いるわけだよね。
そういうときに、その空っていうのはすべてをまさに無効化してくっていうところの力が強いんだけれども、
なんでこんなにありありとした世界が、僕らの生きてる世界というのが生まれてくるのかとか、
こういう自分たちの味わうとかさ、感じるとか、前回ちょっと雑談のときにもありましたけれども、
やっぱりそれってさ、やっぱりどうしても残るわけじゃん。
ほいほいほい。
っていうときに、このリアリティって説明できないんですよね。
空っていうだけだと。
もしかしたら長らじなあは、それ説明する必要がないって思ってるのか。
こうじゃないとないな。
彼も政治の話とかしてるから。
でも空だけだと、この属性、現実のリアリティっていうものから説明できませんねということを言うんだよね。
でもどう?兄貴はそこって意外といけるんじゃないとかって思うかな。
意外といけるかもって今のところちょっと感じてるかな。どうだろうな。
ちょっとイメージそのまま伝えてみるけど、
全部が空っていう真っ赤に透明なものがいっぱいあるわけじゃん。
あるって言っちゃうとダメだけど、あるわけじゃん。
ちょっと待ってね、ここを定義に行こうか。今兄貴のイメージはどうなってるんだ?
透明なものがあるって。
じゃあ、透明なおはじきにしようか。
はいはいはい、一旦想像してみるね。
透明なおはじきが世の中にはいっぱいありますと。
で、空で言うと相対的にしか物事は定義されないとか浮かび上がってこないので。
相対的って言うとね、たぶんね、誤弊があるから。
じゃあ例えば、関係としてか。関係として。
おはじきが全部、誰かとぶつかったときだけ、そのぶつかった2つのおはじきが何かしら色を持ちますみたいな。
で、またちょっとカツンと離れるとまた透明に戻りますみたいな世界を想像すると、
自分たちが、たとえば観のハヤトであるとか、兄と弟であるみたいなものっていう色がついてるのは、その透明なおはじきがたまたまくっついてる状態みたいな話。
はいはいはいはい。
で、あと何かご飯食べて美味しいとか、石に投げられて痛かったみたいな時も、その透明だったおはじきがそういうものとくっついたから、
その瞬間だけパッて色がついてるよっていう風にすると、関係だよみたいなだけで何とか説明できないかって想像してる感じかな。
なるほどね。OK。
どうしても何かを言わないといけないからおはじきっていう言葉が出ちゃうけど、それもね、そうしたときに、
その色がつくっていうのはすごく面白くて、まさに僕と兄貴という関係性があるから兄弟っていうのが生まれますねっていうのはそうなんだけど、
じゃあなんで色がつくのなんだよね。
つまり、全ては関係であるとはいえ、その関係っていうものって何で起きるのとか、
僕と兄の関係が兄弟であるというものは何によって定められるのとか、そういったものはクーっていう概念からだけは出てこないわけですよ。
あ、面白い面白い。確かにそうだね。何でここでこの人とこの人というか、
このおはじきとこのおはじきがぶつかると何でこっちはオレンジでこっちはピンクになるんですかっていうところがないんだクーは。
ない。ない。
参りました。
例えば全てが透明のおはじきで、ただ出会って全部が赤に光るとかならまだわかるんだよね。オンオフだけで。
言ってくれた通りピンクとかオレンジとかカラフルになった時に、色の違いって何で起きるんですかがやっぱ分かんないんですよ。
あー確かに。うわーこれはもうすいませんでした。
でもね兄貴の例えでより聞いてる方も理解深まってくださったんじゃないかと思うんだけれども、
いうところにまだ問題があるわけですよね。問題があると言えるわけですよね。
そうだね、隙があるというかね。
そうそうそう。彼らがずっとそんなこと考えなくていいんだかもしれないけれども、やっぱ考えたくなりますねと。
というところで3つ目に今日有意識の話をしたいんですけれども、
有意識ってあれですね、唯一の有意に意識の識みたいなもので、
その識っていう、これ法イコル心なんだけど、僕らが理解する心ともちょっと違うんだけどっていうややこしさがあるのかで、
その識というものがこの世の根底というか根源にあって、
そこからこの僕らの存在とか世界っていうものも立ち現れてきますねみたいな、そういうふうな発想だと思ってくださいと。
これちょっとわかりやすい話があるのでちょっと話してみたいんですけど、
生き物のヘビと、あと縄と、植物の麻で、打錠麻の例えって言われてるやつがあるんだけど、
ちょっとお話しするとですね、パターンは聞いたことあるかもしれないですけど、
暗い道を歩いてると想像してくださいよと。
暗いのは森とか歩いたときに足元に縄が落ちてましたと。
でも暗くてよくわかんないし森だから、あなたはそれヘビだと思い込むわけだよね。
はいはいはい。
でもヘビだ、やばいってなってびっくりするんだけど、よくよく見たら縄じゃんってなる。
で、ヘビじゃないって思ってホッとするんですよね。
で、あ、やべやべって言って、縄をじーっと見てみると、この縄ももともと例えば麻、植物の繊維とかを寄り合わせて作ったものだから、
今縄って言ったけど本当は麻じゃんみたいな、そういうことを考えてみます。
で、これを、この話が実はその縄有意識の結構重要な三小節っていう、そのステップと重なるよっていう話があるんですよ。
ほうほうほう。
どういうことかって言うと、僕らは、でも有意識で言うと、僕らは普段縄をヘビだと思ってる人なんですよ。
おーはいはいはい。
つまり、さっきミリンダ王の問いでさ、車はありますか?とかさ、人間ありますか?って実体の話をしたじゃないですか。
で、その実体はないですって話をしたんだけれども、そもそも僕らは縄なのにヘビだと思って生きている、そういう妄想の世界に生きている存在なんだっていうふうに有意識で言うんだよね。
はいはいはい。
つまり、いわゆる僕らは事実を見てると思っているんだけれども、勝手に言葉だよねとか、自分の常識を当てはめて、これは空であるとかさ、これは虹であるとかさ、
ていうときに、空とか虹って何なの?ってくれたらめっちゃむずいじゃん。
うーん、確かに。
ね。では、そのどこかの上を見上げたときに青く見える空間を空と呼んでいるだけで、
でも本来空というものを定義しようと思ったのが、その定義さえも人為的なものだから、
本来はその透明な、見える影の空間でしかないものを僕ら空って呼んで、なんかわかった気になってるみたいな。
はいはいはいはい。
つまりこれはさっきの話で言うと、縄を見て蛇だって言ってるのと同じだよって話なんだよね。
うん。
そのものが見えてないわけだから。
そうね。
これを、たぶんこれを有意識のときに一回やったんですけど、変化初心者っていう難しい言葉で言うんですよ。
要は囚われてますって話。
言葉としてはあったね。確かに。
なんとなくリズムを感じたことあるでしょ。
うん、ある。
変化初心者、そう。
それは妄想で囚われていて、本来目の前にあるものなのに、自分の思い込みとか常識とか概念とか、
そういうもので僕らは実は生きてるんで、全然世の中は囚われてないんですよっていう話なんだよね。
はいはいはいはい。
で、第二段階が縄だと。これはちゃんと縄だっていうふうに事実を捉えた話。
これは得た気性っていうんだけれども、つまり日々だと思ったところから覚めて、ちゃんと縄だっていうことに気づくと。
はいはいはい。
そういうのがステップなんだけど、これも、これまでの話でわかる通り縄っていうものも実態はないわけじゃん。
ただ、朝が寄り合わさってできてるものだから、縄だっていうのもやっぱり思い込みというか、本当の意味では正しく見えないんだよね、物事を。
さらに最後の、これは朝だったんだ、朝が寄り合わさってできるっていうものなんだっていうところが、
いわば最後の炎上実証って言うんだけど、朝って言っちゃってるから実態があるように見えるんだけれども、
結局そのあらゆるものは空である、やっぱりたまたま寄り合わさって、たまたま関係性の中でできたものだっていう、
そういうことに気づいた境地ってものがこの朝に気づいたっていうふうな例え話なんだよね。
はいはいはいはい。
なので、そのお話っていうのは、結局蛇と縄と朝っていう3つの段階に対してそれぞれ人間の妄想を見ている話と、
事実を見ている話と、その事実の奥にある空性を見ている話っていう、このレイヤーが対応してませんっていうふうな例え話なわけですよ。
うんうんうん。
唯識における「荒屋敷」と多様性の説明
ここが結構わかりやすいじゃない?
まあ、そうね。イメージはしやすいかな。
そうそう。というときに、なんでさっきの、今日はナアガル・ジュナが言った、空だけじゃダメだっていうものを、
この優位主義は超えられるかっていう話なんだけれども、あんまりその優位主義の細かい話は今日はしないんだけれども、
すべてが空であるとしたときにも、この世界を成り立たせている、やっぱり何らかの仕組みとか働きっていうものはありますね。
で、その働きに対するときに、それを彼らは荒屋敷っていうものを建てたんだけれども、
いろんなカルマとか出来事っていうものが帰っていく場所っていうものを想定して、
荒屋敷にたまったものがまた世の中に現れてくるっていう、そういう円環構造を作ったんだよね。
あー、だからさっきのオハスキの例えで、ぶつかったとき、なんでピンクとかオレンジなの?みたいなところは、
全部荒屋敷のおかげだよって説明がされるわけね、こっちだと。
例えば、優位主義と説明とはちょっと違うんだけど、今日のイメージで言うと、最初は全部赤だったかもしれないと。
最初からぶつかり合って全部赤だったかもしれないけれども、ちょっと濃い薄いが出始めたねとか、
たまたまちょっと黄色が出ちゃったねって時に、黄色が出たっていうことが荒屋敷に残りますと。
なるほど、ちゃんとそれがさっき言った帰っていくって話なんだね。
そうそうそうそう。そうするとまた次に同じように出会った時に、黄色になるものが出てきたりとか、
その黄色からまた緑になるものが出てきたりとかっていう風にして、ちょっとずつちょっとずつ繰り返していくと、
どんどん多様性が出てくるみたいなことが、一応多少は説明できるじゃない?
そうだね。
つまり全部が空で、空性しかないと積み重ねとか次への影響というかないんだけど、
この荒屋敷にアーカイブされる、荒屋敷って蔵だって話をしたと思うんですけど、
この蔵に溜まっていくことで、次への影響っていうものは偏りになるっていう話なんだよね。
っていうところを踏まえると、まさに空なんだけれども、
いろんなものが、ちゃんと多様性が出てくるとか、
そういったものが一体関係性があるっていうことが説明できるっていう風なことで考えていくので、
今回その縄、蛇だと思ったら縄だったってあるじゃないですか。
この縄っていうものも、やっぱり僕らがそれを縄だという風に思うとか、
理解するっていうことには、過去の組み重ねとか知識とか、いろんなものが影響してるわけですよね。
その影響すらもなくすわけじゃなくて、それはそれで捕らわれてるんだけどあるんだと。
でもそれは捕らわれだからなくさなきゃいけないよっていう、そういう風な説明ができるようにしていくのがUHK的な発想っていう感じなんだよね。
面白いね。なるほど。
基本、人は蛇、縄を蛇として見ていると。
一段階、これは縄だよってわかるっていうのは、それは当ということではあるんだけれども、
とはいえ、まだまだ朝そのもの、だから空そのものを見てるような営みではなくて、
まだまだ何か別のものに捕らわれて縄と呼ばされてますよね、みたいな風に言えちゃうと。
それはまだ言い忘れちゃってるから、本当の愛のままを見るって意味で朝まで辿り着きましょうねっていう、この3つの例えみたいな話が意味を持ってるんだね、そういう。
すごいね。
ここまでついてきてくれるんだよね。
縄でいいじゃん、みたいなね。もう十分じゃんって思うけど、違うんだね。
違う。やっぱり、実証の奥にある本質を見ましょうなんだけど、
仏教的世界観における自己と他者の問い
今回、非主観から見る事故とか他者って話をしたじゃないですか。
今回、ただの空とか有識の会議になってるけど。
ここまできてやっと、もうだいぶ喋ってるんだけど、最後の結論になるんですけど、
つまり、こういう世界観の中で、事故とか他者って何ですか?って気になるわけだよね。
で、言った通り、事故、無が狙ってしまうと、倫理する自分というか無くなるから、結局自分が何かをするって無駄じゃないですか?となっちゃうと、
それはそれで修行する気にもならないし、修行者になるんですか?ってなるわけですよ。
そうね。
でも一方で、仏教ってのは、そもそも自分の苦しみを照らすとか、
外情仏教になればなれほど、他者、一切主情の苦しみをなくすっていう風なことを考えるわけじゃないですか。
なので、実は他者とか事故っていうものは、実践だからさ、仏教とか宗教って。
その、実践の中に一定に織り込まれてはいるんだよね。
つまり、ルビナスとかメロポンティとかだと、事故がどうやって他者に出会うかとかさ、
まずは自分一人の存在する世界を考えて、そこに一人の他者を出現させて、一対一で考えましょうとかってなるじゃない?
それはやっぱり思考的な話で、仏教の大乗、特に大乗仏教でいうと、そもそも苦しんでいる人たちがいますと。
この人たちを救うというのが我々の使命ですってところが始まるから、そもそも自分たちの痛みの中に他者はいるんだよね、前提として。
あー、はいはいはい、そうね。
いるんだけど全部が空だとかさ、根本は荒屋敷だとかって言っちゃって、
なんで他者はいるのに空もないんだけど、空しかないって言うんですかとか。
その荒屋敷しかないっていう世界からどうやって、どう考えても自分と他者、私とお兄さんっていうふうな存在がいるとしか思えないこの世界というのが現れるんですかっていう、
そういう問いになってくるんだよね。
なるほど。
だから自分とは何か、他者とは何かではなく、この世界の本質は空であり荒屋敷であるはずなのに、
要はそういう根本共通のものがあるはずなのに、なんで自分とか他者っていう概念というか、そういった関係性が生まれてくるんですかっていう、
そういう問いに変わってくるんですよ。
なるほどだし、そういう関係に囚われてるんですかとも言えるってことはね。
言える、そうそうそう。
私、やっぱり普通に来てると自分が相手を理解するのかって思っちゃうんだけど、
でもその自分っていうものも本来本質ではない、本体ではないっていうのはずっと言われてしまうから、仏教とかね。
そういう時に、何が何を理解するんですかとか、そもそもそういうことって分けれるんですかとか、そういう問題が大量に出てくるわけですよね。
なんか説法でありそうな話になってきたね。
なるほど、なるほど。
なので、優位識とかって言っちゃうと、ただね、識だけがあるとか心だけがあるっていうと、自分の心みたいなものがあって、それに対して移すのかってまさに和静神の話っぽく聞こえるんだけど、
この識とか心っていうのは、自分すらも超えているから、そもそもそういう問題になりにくいっていうか、ならないんですよね。
そう、ならないね。
そうそう。
次の話になりますと、他者は何かっていうのはすごく難しくて、これも結局は兄と弟とか親と子と同じような関係性でしかありませんっていう感じになっちゃうのよ。
そうね。
だから、他者ってものはあくまでも自分というものを定義したときに初めて現れる存在を知って他者と呼ぶんだけれども、
その他者も結局はそれは人間だけじゃなくてね、あらゆる存在が空であり荒屋敷から生じているから、そういった意味ではやっぱり根本的には一つというか、区別分別ができないんだよね。
あー、そっか、そうだね。空に戻るとね。
そうそうそうそう。なので、最後整理すると、だいぶ荒いんだけれども、そもそもこの事故とは何か、他者とは何かっていう問いのあり方がガラッと変わりますっていうことをまず一番最初に伝えたかったのよ、今日は。
ほうほうほうほう。
なぜなら、そもそも無我とか本体はないっていうふうな発想で考える人たちだから、
その人たちが考える事故とは何かと、
私というものは明確に存在をしていて、我を思うゆえに我ありじゃんでかるとは。
その存在しているものから事故とか他者を捉えるっていう話と、そもそも本体などないっていうところから捉える事故とか他者の話って、
当然全然違いますねってところがまず根っこにあるんだよね。
わー、はいはい、そうだね。
今の話を聞いて想像するイメージが全然違ったから、面白かった、確かに。
ちょっとあれだね、自分がいるのだと、やっぱり主人公感はどうしても拭えないというか、
マイクラとかでいうと、自分の目線だったりとか、自分を後ろから見てる目線、自分視点になっちゃうよね。
さっきの仏教の話、空で何もないのだ、自分もないのだ、谷もないのだ、みたいな話になっちゃうと、
ちょっと上から、空から全部を見てるような視点な感じがしたね、なんか。
そうね、そうね。やっぱり一人称、三人称とか言った時に、やっぱり西洋の方が一人称的で、やっぱり自分というものがまずありますと。
そこから世界を理解しますというふうな話なんだけど、やっぱり今日の仏教の話でいくと、
第三者がどこにいるのか一旦置いておいたとしても、やっぱり先に風とかあらやしきっていうより大きな構造があって、
それが現実に現れる時には、何か自分と他人と言えるような存在とか、自分が世界の中にあるというような空間把握とか、
そういうふうには捉えられないものがあるよねって、やっぱりそれは二次的なものとして扱われるんですよね。
すごいね。ごめん、もう一回言い直すとあれだね。だから、自分が世界を見捨てに行く、他者を見捨てに行くっていう感覚と、
世界の中から自分を見捨てに行くみたいな、他人を見捨てに行くみたいな、そういう出発点の違いみたいな感じがしたね。
いいね。中っていうのはすごく本当そうだと思うな。
自己理解と世界観の出発点の違い
中。
あれ、世界の中って言ってなかった?
あ、言った言った。そこなんだ。世界の中ね。
いや、なんか思ってるのと違うところ。
あれ、違うところだった?
世界が大きいところから自分を見捨てに行くみたいなところの感覚を褒められたのかと思ったら、中っていうすごいピンポイントなところに引っかかられたから、
あれ?
いや、でもほんとそれ大事で、やっぱり空からとか第三者っていうと客観っぽく、客観っていうかね、いわゆる対照化したんだけど、
あくまでも自分っていうのは世界の中からしか引き出せないというか、
要は、あれらしきが、あんまり今日説明しないから言葉だけなんだけど、
まなしきっていうものを通じて自分に接続されて、そこから五色の世界が出ますみたいな、そういうふうなものがあったときに、
自分っていうものはやっぱり世界の中から見つけ出すものっていうか、
さっき兄貴のおはじきの例で言うと、おはじきが散々色んな色に光っているじゃないですか、
中でたまたまこのピンクの中でもこの色に光った、このおはじきが自分であってことに気づくみたいな、そういう営みなんだよね。
だから西洋でピンクの俺のおはじきがあって、ピンクのおはじきが周囲のおはじきを理解していくじゃなくて、
たまたまピンクに光ったものをなんか知らんけど自分として引き受けなければならないみたいな、
そういうふうな発想が内側から中からっていうことにつながるなって思ってるよね。
ほうほうほう、なるほど。
ごめん、これはちょっと、この3つの今日話したものがそう言ってるというよりは、
そういう仏教的な発想を含めた自分の環境ではあるんだけど、
意味で、今日は仏教的、特にこの3つ、
ジョーザブ仏教とかナラガルジナの宗観派とかユイシキが言った事故と同じだとか何かって話じゃなくて、
そもそもやっぱり自我とか捉え方が違うから、問いの立て方とかそこに向き合う向き合い方が全く違いますっていう、
そういう話をしたかったですって感じなんだよね。
なるほど、そこまでわかれば今回の話の内容自体だったりとかは、
まとめと次回の予告
まずはって感じじゃない。だってあれだもんね、今回で終わりっていうよりは、
この違うんだよを元に次また話を進んでいくんだもんね。
あ、よかったよかった。
それできます。
一旦今解体したまで、全ては空だよって言ったところまでなので、
その発想を踏まえて次、そまつじさんとかブーバーさんとか、
あとその次の木村ビンさんとかっていう人を触れ合いながら、
もちろん直結したわけじゃないんだけど、なんといけば関係性が先だよとか、
先というかそれがやっぱり主体だよって、主体って言う言葉って難しいね。
関係性を伴わない事故とか他者っていう概念っていうものはありえないんだよって話かな。
前回の雑談で言うと、実践の伴わない幸福、本当の幸いはないよっていうのは一緒だね。
はいはい、深めてるね、事故理解をね。
つなげていきますね。
はい、というところでね、前回まではだいぶね、
低要的な硬いというか、わりとしっかりの話が続いたので、
一旦ちょっとそれを壊すというか、一回ね、リフレッシュするためにも、
こういう話をまずは第一回としてお伝えしましたっていう感じですね。
はいはいはい、わかりました。
では次回ですね、今回のこの感覚を元に、事故、他者、一体何なのかというところを深めていくというところで、
楽しんでいきたいと思います。
では引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
57:56

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