はい、それ哲ラジオ。今日も始めていきたいと思います。 よろしくお願いします。
よろしくお願いします。 はい、今回は非主観から見る他者の最終回ということでやっていきたいと思います。
はい。今回に関してはですね、2人名前を挙げてまして、木村敏さんと竹内敏晴さんという方を取り上げますと。
この方々はですね、一般的に哲学者ということではなく、木村さんはどっちかというと精神科医かな、医学の人で、竹内さんは演出家というような、いわゆる舞台の、なんだろうな、舞台演出とかやってるような方?
劇団とかでやってる方って感じです。 年齢的にはですね、2人とも亡くなったのはもう2000年入ってからで、
木村さんは2021年なので、ほんと結構直近までご存命だった方ですし、竹内さんは2009年なのでっていうふうな形の時代感の人たちです。
なるほどなるほど。 なので、どうしても哲学者を取り上げようって人でやるとなかなかこういう方々って取り上げられないんだけど、
知恵までやるとさ、ちょっと僕が好きな人とか読んだ本とかを紹介できるからいいなーなんて思ってるんですけど。
今回なんであえてこの2人を取り上げたかっていうと、第1回さ、仏教の話をしたじゃないですか。
思想的にって話をして、で前回はわついさんとブーバーさんっていう、
要は文化は違う、東西、西洋と東洋って分かれるけれども、結構その関係性とかさ、
間っていうものに注目した事故とか、私の取り上げ方をした人ですよっていうような話をしてきて、結構思想とかやっぱりそっちが強かったと思うんですよ、抽象度が高い話。
でもさ、やっぱどう考えてもさ、自分ってめちゃめちゃリアルじゃないですか。
この生きている自分っていうものって本来は、そんな抽象的なものっていうよりは、もうここにあるものっていうか、まずエメラルド・ポンティオンに行くみたいな話だと思うんだけど、
やっぱりその場を占めていて、そこに存在しているものじゃないですか、既に。
たしかにそうだね。だからこれまでの話で言うと、他者だったりとか、世界と同時に存在させ合ってるのだ、みたいなこと言われても、そんな実感はないよねっていうね。
そうだよね、なかなかね。聞けば確かにそういうこともあるかなと思うけどさ、普段生きてて僕らが、よしなるほど、自分という存在、間と共に生きてるんだとかって、あんま思わないじゃん。
そうだね。
意味で、やはり木村さんは精神家として、逆に自分っていうものを失ったように見える。それが統合失調症とかの話を今日するんだけれども、
統合失調症って、もしかしたら皆さんの中にも身近にそういう人がいるとかっていう方もいらっしゃるかもしれないけれども、
よくね、妄想とかさ、あと思考電波かな、要は自分の考え、頭の中を誰か、他の人に読み取られてるとか、全部触ってるんじゃないかみたいな、
そういうふうなことを本当に思っている人がいるわけだよね。
同情として言ってるときに、やっぱそれって事故と他の境界があるし、なくなっているというか、そういうふうにしか思えない人がいたときに、
そういう人と向き合っていろんなことを考えている人が木村さんなわけだよね。
竹内さんみたいな人で言うと、舞台演出さんだけれども、要はその俳優さんって演じてるわけじゃないですか。誰かをね、役を演じてるわけだけれども、
その演じているキャラクターの言葉とか声っていうものをどうしたらその名前とか出せるのかっていうこととかを向き合ってる人なわけですよ。
その演じているAさんが演じているBさんに話しかける言葉って、それって何なの?みたいな。
それを本当に舞台の中でAさんがBさんに届けるにはとか、あるいはAさんがBさんに届けながら観客にも伝わるにはとか、そういうふうな世界で生きてる人なんだよね、竹内さんは。
って言ったときに、やっぱり他に語りかける言葉とか、そもそも他者に伝わるとはとか、そういうことを実践としてやっていきますと。
おー、はいはいはい。
で、やっぱり面白いなと思うのは、まあこれは別に哲学がすごいとかってことじゃないんだけれども、
今言った竹内さんとかだと、やっぱり自分のやっぱりあり方を求めて、それこそまさに迷路ポンティとかを深く読み込んで、
この迷路ポンティが言ってることって自分がやってることにかなり重なるなみたいなことで頼りにしてたりとか。
やっぱり木村さんももちろん、前回やった和辻とか西崎太郎とかもそうだし、
あと本開くと、今の関係としての事故っていう木村さんの本が今手元にあるんだけど、
ほんとちょっとヘタケでも任一が出たりとか、ハイデガーが出たりとか、
いろんな哲学者、フロイトがそれこそ出たりとかいっぱい出てきてて、
別にそれを引用するのがすごいとかってことよりも、やっぱり自分がやってることって何なのっていうことを見に行く参照元として、
やっぱりその人たちの名前が上がってるわけなんだよね。
なるほど。そうだよね。やってることとか考えてることっていうものを言語化しようとか、もしくは誰かいないのかってした時に大体たどり着いちゃうって話だね、その人たちに。
そうそうそうそう。やっぱりね、そこから学ぶのが大きいって話で。
この前さ、僕ちょっと雑談で身体勢の話したと思うんだけど。
身体勢がわからないって話したね。
逆に言うと、やっぱりこの人たちは自分の現場の身体勢というのを基づいて哲学者を参照しに行くというか、やっぱりそういうことをやってる人たちなので、
やっぱり木村さんとか竹内さんの話を学ぶというか読むと、その思想と現場感がミックスされたものが味わえるんじゃないかと。
そんなこともあって、最後この二人を持っていきましょうっていう感じなんだよね。
なるほど、頭でっかちというか、ちゃんと身体勢で言い換えしてる人の話を聞いてみよう、見てみようってことだね。
そうそうそう、そういうことでございます。
今日は早速一人目の木村さんなんですけれども、この方はですね、すごいわかりやすく言うと、精神科医でずっと臨床に当たってるんだけれども、
その中からやっぱり自己とか私っていうものを捉えてきますと。
もっと言うと、これインタビューで見てて面白いなと思ったんだけど、
例えば、いわゆる今の日本の統合失調症もそうだし、いろんなうつ病とかもなんだけれども、
基本的には国際的な、もっと言うと西洋的な医学分類っていうものがあって、
この症状に当てはまった人はこういう病名ですねっていうふうな名付けをして診断をしていくわけなんだよね。
だったときに木村さんの違和感があったのが、いわゆる西洋的な話として、
例えば統合失調症は脳のドーパミンが阻害されていてとか、うまくいかなくなっていて、こういうふうに起きてますよとかっていう説はもちろんあるんだけれども、
それは正しいんだけど間違ってるというか、そんなふうに人間の精神的な症状って、
全部還元できるものかみたいな、そういう違和感は持ってらっしゃったみたいなんですよね。
おー、なるほど。
なので、しかもその前提には、例えばそういう、やっぱりまさに個っていう存在があって、
それがある種おかしくなったりとか故障しているから病気になるんだみたいな、そういう存在論的な前提もあるんですよ。
はやとはたまに機械論だけか、そういう感じ?イメージ的には。
機械論的なイメージ。だから統合失調症という、仮に問題だとした時に、
例えば脳のこういう部分とか他のこういう部分がある種故障してしまっていて、
それを手術とか薬とか、あるいは適切な還元をすれば治るとか、戻るとか、まさに故障が治るんだよね。
っていうふうにやっぱり発想っていうものがどうしてもあるんだよね。それはそれでもちろん大事だし、薬を使って症状をつかせるってことももちろん大事なんだけど。
ちゃんと実績も出してきたしねっていうね。
そうそう、実績も出してるし、やっぱりよくなってる人もいるし。
やっぱりそれだけだと一面的じゃないかとか、本当にそれで精神的な病というか症状って、
把握できてるのかってことはやっぱり向き合ってるわけですよね。
外科じゃないからこそのあれだね。
まあね、そうそうそう。
そうするとどこまで行っても、じゃあ自分ってなんだとか、
その病気症状の根本にあると言われている私っていうものから捉え直さないと、
やっぱりこの統合失調症も含むそういった病と言われるものに正しくアプローチできないんじゃないかみたいな、
そういうことを考えて発信されてるような方っていうような感じなんですよね。
哲学書とか読みやすいんで、それこそ関係としての事故か、
よく興味あれば読んでいただきたいなとか思ったりするんですけれども。
今日はその中でも統合失調症でも取り上げるんですけれども、
一応僕らっていうとあれだけれども、
やっぱり身近にそういう人がいた時に、
今でも覚えているのが、やっぱり自分を殺されるんじゃないかとか、
家の外で見張ってるんじゃないかとか、
逆にあなた、ハヤトさんもそういう見張りに来てるんじゃないかとか、
そういうことがあったわけですよね。
それを言葉で言うと、幻覚とか妄想とか思考の混乱ってなっちゃうんだけれども、
それがその状態の人からするともう真実だし、
そういったふうにしか思えないというような状態があるわけですね。
で、これっていわゆる客観的に理性の側から見ると、
理性の働きがおかしくなってるねとか、
それが正しく機能しないねっていうふうな話になるんだけれども、
そうじゃなくて関係性的なところから見ると、
いわゆる自分と他者、本来だったら、
その、なんだろうな、
すべての人間が自分を傷つけようとしてるとかって、
普通はおかしいはずだって気づくと思う。
要は、自と他を分けたときに、
そんなに他人が自分に全部向かってくることなんてないって思うはずなんだよね。
でも、この統合失調症の状況になると、
いわゆる自と他の境界っていうものが揺らいでしまうとか不安定になってしまって、
まさに他人っていうものが全部自分に入ってくるとか、
逆に自分が確かに漏れてしまうとか、
そういうことが起きるんだとか、実際起きてるんだみたいな、
そういうふうな状態にあるんじゃないかっていうふうに木村さんは捉えるんですよね。
なるほど、相当しか見えないというかね、そういうふうに見えるなっていうね。
ある種それはただの妄想だって片付けるんじゃなくて、
本来、多くの人が保てている自と他の関係性とか距離感みたいなものが、
揺らいでしまったときに、やっぱりそういった思考とか発想が出てきてしまう。
なので、あくまでも故障じゃなくて、そういう関係性の揺らぎとか、
やっぱり不適切さみたいなもので捉えることができるようにっていうふうな話をするんだよね。
なるほど、だから機械論的にその人自身の故障っていうよりは、
関係性から出てくる問題、症状かもね、みたいな。
そうそうそう、そうそうそうっていうふうに捉えないと間違えちゃうんじゃないのっていうふうな話をするんですよ。
だってさ、今あす言ってくれた機械論的にこの人が壊れているとか、
この人がおかしいってなると、やっぱりその人へのアプローチになるじゃん。
そうね。
だから投薬とかになるんだけれども、そうじゃなくて関係性の側に問題があるとか、
そっちがうまくいってないってなると、その人と人とか一つの世界、
その人と世界の関わり方っていうものを整えようっていうアプローチになるじゃん。
あー、確かに確かにそうだね。
そう。やると臨床的にもとか、アプローチ的にも全然違う発想になっていくんだよね。
確かに。素人考えだけど、例えば薬だとか手術だとか、そういうアプローチじゃなくて、
本当環境だよね。例えば家にいるのが難しいだったら、
こういうふうなことは多分今病院ではやってないけど、
例えば、すごい適切な環境だよね。
適切な、一人きり以外なら一人きりだし、もしくはこういう人と関わった方がいいかもとか、
こういう会話をした方がいいかもとか、人なり物なりっていうものを整える。
だから本人に投与するとかじゃなくて、
環境を作ることでもしかしたら改善する可能性があるかもねっていうアプローチも、
選択肢として出てくるって話だよね。
そうそうそう。両方を見ませんかっていう話かな。
これはすごい大事だから言うけど、別に個人に投与するのがダメっていうのは全く思わないというか、むしろすごく大事だと思ってて。
これよくあるじゃん、医療はダメだとか、自然に治る方が良いとかっていう発想もあると思うんだけど、
僕は割と医学を信じてるから、すぐ病院行くし。
どっちもね、西洋も東洋もね。医学もあるね、西洋東洋ね、そう言われればね。
あるよね。そこでもやっぱりどっちかだけっていうことはないと僕は思ってて。
両方を見る、だからこそ国境の話に関しても、もちろん個人にアプローチすることも大事だし、
それだけだとやっぱり足りないものがあるんじゃないかっていう発想も大事だねっていう中での、
やっぱり統合失調症というものに目を当てた時に、繰り返しになっちゃうけれども、
その人のいわゆる神経系のただの不具合とか故障というだけじゃなくて、
今ね、言ってくれたような家族とか世の中とか、そういうところの関係性っていうものにも目を向けることで、
見えてくるやっぱりあり方とか、捉え直し方があるんじゃないかっていうのは思うんだよね。
みたいな話があって、後半の竹内さんの話にも行くんだけれども、前半は医療とか臨床の話ね。
後半は竹内さんの、いわゆる舞台、演劇みたいな話になるんだけれども、
竹内さんはね、やっぱりすごい環境を過ごされていて、
この人は今、これも手元にある「言葉が開かれるとき」っていう本を読んだぐらいなんで、
全然そんな全然詳しいわけじゃないんですけど、
状況的には、生まれて1歳ぐらいのときに耳を悪くしてしまって、
そっからはもう難聴ですね。ほぼ聞こえないみたいな。
聞こえないから話せないみたいな、そういう状態で30とか40歳ぐらいまで過ごしてくるんですよ。
一応途中で治ったらしいんだけど、治ったのも結構劇的なんだけど、
薬とか効いて治ったんだけど、学生時代とか幼少期はずっと耳が聞こえないっていう中で生きてるんですよ。
結構同級生とかにも、もちろん関係が作れないとか、
そもそも言葉っていうものが伝わらないから、当たっても伝わらないっていう中で、
やっぱりこう、ある種、自然と言葉を習得してコミュニケーションを取るっていう経験をしてない人なんだよね。
っていう中で演劇の世界に入ってくっても、これも不思議な運命というかね、過ごし方だと思うんだけれども、
その中で感じるのが、それは当時、まだ1900年代半ばぐらいかな、と思うんだけれども、
演劇で言うと、いわゆるいかに俳優っていう人がセリフをある種覚えて、
それを伝えるかというか、表現っていうよりは正しい台本を語るみたいな、
そういうことが要素とされてたような時代だったらしいんだよね。
ちょっとこの辺で時代背景とか、今の演劇はどうなんとかってあんまり詳しくないから、
ないからね、なかなかわかりにくいんだけれども、
でも、たぶんよくイメージすると、ある種その、なんていうのかな、
前ってごめん、素人だから言っちゃうけれども、
演劇をし始めた人がいたとした時に、あるいは自分がやり始めたと想像した時に、
やっぱりどんなに頑張っても、すごいたどどどしくなるというか、不自然な感じになると思うんだよ、やっぱりセリフって。
はいはい、演じてる感が出ちゃうよねっていう。
そうそうそうそう。
だった時に、おそらくこの当時の演劇で言うと、演じるっていう方がむしろ良いというか、
今だと自然な演技がいいって言われると思うんだけれども、
やっぱりこの、どういう風な、
例えばこの畜生っていう言葉は怒りを表しているから、この怒りというものを表現しようみたいな、
そういった思考のもとに演じるみたいなことが行われてたんだと思うんだよね。
それに対して、さっき言ったような、そもそも言葉ってそういうもんなんだっけとか、
自分が難聴で言葉をうまく話せなくてとかっていう風な経験をしてきた竹内さんからすると、
本当にこれが良いんだっけとか、そういうことをいろいろ思うようになったらしいんだよね。
うんうんうん。
っていう中で、迷路ポンティのまさに邪悪の現象を読みながら、
やっぱり言葉みたいなものとか、もっと言うと人の認識みたいなもので、
やっぱり意識で畜生っていう言葉を聞いたから出てくるものっていうよりも、
やっぱりまさにこれも身体性につながるんだけれども、
やっぱり身体で表現しないと、そういったものは他人に伝わらないんだっていうことを、
ある種、実感として作り上げていくわけなんですよね。
わー、はいはいはい。
なので、事故と他者っていう意味で言うと、
要はコミュニケーション関係性って、お互い何かともちろん情報を得たりするわけなんだけれども、
この情報が前言ったかな、物談で言ったかな、
要は今日は晴れてませんとかっていう、まさにニュースとか事実であれば、
多分その身体性ってそんなに必要ないと思うんだけれども、
やっぱり感情的なものとか、何か表現したり伝えたいっていう時には、
やっぱりその身体性っていうものが伴わないと絶対に伝わんないんだ、
みたいなことを竹内さんの演劇っていうところから、あるいは自分の経験から確信するわけなんですよね。
おー、はいはいはい。
うん。で、面白いのが、それを実際にレッスンに落とし込んでたりするみたいなんだけれども、
ちょっと本の中から読むんだけど、こういうレッスンをしてたらしくて、
2人が向かい合うんだって、向かった時にそのAさんがBさんに、
何でもいいけどただお茶飲みに行かないとか、そういうふうな声をかけますと。
うんうんうん。
そうすると当然Bさんは、行こう行こうとか行かないよとかっていうふうに反応すると思うんだよね。
っていうのがあるんですけど、そのやった後に今度はそのBさんが後ろ向きになりますと。
うん。
要は対面しない状態だよね、Aさんから見た時に。
うん。
で、そのAさんが背中越しに反射器に話しかけるんだって。
で、それを最初はめっちゃ近い距離でやるんだけれども、
どんどん1メートル、2メートル、5メートル、10メートルとかっていうふうに話していた時に、
どこまでそのBさんは自分が話しかけられると思いますかっていう、
それを試すっていうふうなレッスンがあるんだって。
へー、ほいほいほい。
うん。
そう、で、そうすると何が起きるかっていうふうな話がいくつか書いてるんだけれども、
そのBさんの方からすると、やっぱりこう、なんていうのかな、
Aさんが近い時とかはやっぱり自分だってわかるんだけど、
離れていけばいくほど、でもなんか全然自分じゃない、
自分じゃない人に話しかけるように聞こえるとか、
あるいはやっぱ声が自分には届いてこないとか、
あるいは逆に、実際に声がすごい自分の背中を触ったようだとか、
いろんな言葉が出てくるんだって。
あー、なるほど、ほうほうほう。
そう、っていう時に、やっぱりこの、要は後ろ向いてるから、
Aさんの方が見えないわけだよね、Bさんからすると。
うんうんうん。
っていう時に、その声が自分に届いたか届かなかったかみたいな話って、
やっぱりそれが伝わる時と伝わらない時があります。
うーん。
想像するとわかると思うんだよね、そういう感覚があるって。
なんかありそうね、うん。
そうそうそう。
っていう時に、まさにこの事故と他者っていう風な話を、
この身体勢とか距離っていうところに置き換えると、
この言葉が届くか届かないかっていうところに、
ある種それが現れてるんじゃないかっていうことを、
たけしさんは自分の経験から落とし込んでいくわけですよ。
ほうほうほうほう。
うん。
じゃあどうしたら声が届くようになるのかみたいな話なんだけれども、
やっぱこうやって、普通Aさんが届けようと思うと、
やっぱりこう、なんだろうな、声を張り上げるとか、
逆にちょっと音をしてみるとかさ、
いろんなことを試すんだけれども、
やっぱりこううまくいかない、届かないんだって。
あーなるほど、うんうんうん。
ただ大きい声出しても、やっぱりこうただ拡散するだけで、
別にBさんからすると、別に自分だとは思わない。
うんうんうんうん。
うん。
で、だった時に、えっとね、
これが多分やっぱりやらないと分かんないと思うんだけれども、
えっとね、実際書いてあるのは、
相手に声が届くとはどういうことか。
で、これはもう声で相手に触れるのだって書いてあるんだよね。
うーん。
声で肩を叩くつもりで話せっていうふうに竹内さんはよく言うんだって。
はいはいはい。
うん。なので、それはもう本当にその人じゃなくて、
もうその人の肩だよねっていうところに意識して、
自分の声でそこに触れるっていう、
そういうことが実現できて初めて、
その遠い距離でもAさんの声がBさんに実際届くんだっていう、
そういうことを語ってる本なんですよね。
どう?今みたいな話。
うーん、いやなんか、あのー、
なんだ、プロの技っていうとあれだけど、
なんか凄みを感じる話だね、なんかね。
いやー、本当にそう。
ね。
やっぱこれ哲学の言葉ではないけれどもさ、
やっぱりこれはこれですごいなんかね、
なんだ、真に迫るものがあるというかさ、
すごく考えさせられる言葉じゃない?
そうだねー、まあ、確かにその声だとちょっと分かり、
あー分かんないというか、演劇か、だとちょっとあれだけど、
例えばその音楽のライブとかを想定すると、
例えばこの人の歌なんか入ってくるなとか、
はいはいはい。
音の演奏は届くなみたいな、
そういうのはちょっとそっちで想像すると少し入ってくるかな。
確かにあるかも。
あるかもね。
音のデカさだけでもないし、
上手さだけでもないし、
フレージングの良さだけでも、
テンポの良し悪しだけでもないんだよね。
はいはいはい。
上手い人の上手いというか、
目が向く演奏みたいなのって、
確かになんかいろんな要素がある気がして、
さっきの方に触れようとするか、声で、
もしかしたらそういう人を引きつけるとか、
人に届かせる演奏をしている人っていうのは、
意識的か無意識的か似たようなことをしているのかもなっていうのは、
今の話聞いて、勝手に自分なりに解釈というか、
変換して捉えてるね。
そうね、確かにそれは絶対あると思う。
アーティストさんとかそう思うし、
多分それがローマ人で言うとバイブスみたいな、
まさにこの振動というかさ、
震えるってやっぱ体の話じゃない?
心だし体だしっていうところだとした時に、
それと単純に音が振動だからとかってこと以上の、
繋がってる感というか、
この人は今自分に語りかけているんだみたいな感覚を、
やっぱり人はお互いにやり取りしながら、
コミュニケーションとか言葉を交わしている、
そういうふうな場っていうものはあるんだよってことだと思うんだよね。
いやー面白いなー、確かに確かに。
自分もプロの演奏だとね、それがみんな上手いからあれだけど、
アマチュアでやってたから、いろんな人の演奏を聞くとやっぱあるんだよね、確かに。
全然違うから。
しかもこれ面白いのが、この本に書いてるんだけれども、
このレッスンでAとBが話すって難しさ、このレッスンなんだけど、
この難しさっていうのは本当は話しかける側よりも、
聞き分ける側の注意力にあるんだっていう話を言ってるんだよね。
そうなの?
だから今ね、聞いてくれたアーティストの話も、もちろんアーティスト自身の技量とかもあるけれども、
それを受け取る観客側とか自分の側にも、やっぱりそれは試されているというか、
とこあると。
例えば変な話、じゃあね、武道館で何万人っているときに、
所詮、この何万人のうちの自分は一人だから、
このアーティストと繋がることなんて無理だよねって思ってる人と、
自分はこの数としては2万人いるかもしれないけれども、
絶対にこのアーティストと自分とは繋がることができるんだと思って聞いてる人って、
絶対その場で感じる情報量とか質感とかって違うと思うんだよね。
あー、なるほどね。
確かに。2階席の後ろの方でめっちゃ感動して泣いてるみたいなね。
そうそうそうそう。
とか、もう今目が合って私に今この歌を語りかけて歌ってくれてるんだって人って多分いると思うんですけど、
それを客観的に見ると、何言ってるの?見えてるわけないじゃんみたいなさ。
そうだよね。一番前とかの方の席ならまだしも、なんでこんなところで泣いてるの?みたいなね。
そうそうそうそう。でも今の話で言うと、レッスン的には別にそれが5mだろうが10mだろうが100mだろうが、
届くときは届くはずなんだよね。
っていう話のレッスンだもんね、これね。
そうそうそうそう。
っていうところで、まさにお互いに通じ合うとか、届くと届けられるっていう関係性っていうものがあるんだよっていう話を言ってくれてるんだよね。
わー、そうなんだ。面白いね。
ちょっと今のアーティストの話はこの場で話したから、本に書いてるわけじゃないんだけれども、
でもやっぱりそういうことを言ってるなと思いますと。
で、言ったときに、やっぱりこの竹井さんの話は事故と他者というよりは言葉とか声が届くって話だけれども、
やっぱりこれも、いわゆる言葉っていうものは思考の乗り物で、ただ情報を伝達するっていう発想とは全然違うと思うんだよね。
だし、自分の中に伝えるべき言葉があって、それを相手に届けるんだっていうことじゃなくて、
やっぱり受け取る相手もいて、初めて自分の声が届くし、
逆に自分の届けたいものがあって、初めて相手が受け取れるっていう、この関係性とか相互作用みたいなもの。
はいはいはい。
っていうところが、やっぱりすごくこの自分と相手、人と人のコミュニケーションってここにおいて、
役立つというか、考え方としてやっぱり大事だと思ったりしますと。
いやー、確かにこれは面白いね。
なんか自分ではね、届けるのが自分だとすると、やっぱそっちは主人公みたいに考えちゃうんだけど、
そこもやっぱり、もっと上手く届ければ届くはずなのに、みたいなさ。
思っちゃいそうだけど、そこは相互作用だと思うことで、
よりできることとか、やらなくていいこととか。
もしくは聞く側も聞く側のいろんなスタンスはあるんだろうけど、
なんかちょっとこう、視点が変わるというかね。
今ちょっと思い出したからさ、雑談というか自分の話なんだけれども、
だいぶ昔、もう20代くらいのときに、若いときに、
お店で働くことがあって、いわゆる店舗で物を売っているときに、
列とかができてた、待機列ができて、
お母さんは列整理とかしてたのよ。
そのときに、押さないでくださいとか、前に一歩進んでくださいとかっていう話をしたときに、
当時、今思い出したんだけど、結構声大きいタイプで、
やっぱり伝えなきゃと思って、まず大声で話したのよ。
前に進んでくださいという感じだったら、
近くにいた人にすっごい睨まれて、叫ばないでくれるって言われたのね。
そのときにすごい張ってしたのが、
本当にそれは今でも覚えてるんだけど、やっぱり届けようじゃなくて、とにかく大声を張り上げて、
ある種、支持しようじゃないけれども、
こっちもやっぱりちょっと列できても大変で、わちゃくちゃになっててストレスかかってるから、
ちょっとやっぱり投げになったというか部分も多分あるんだよね。
で、とにかく叫んでたら、叫ばないでよって言われたときに、
逆にこの人、すごい申し訳ない気持ちもそうだし、
この人には僕がただただ叫んでるんだってことがバレちゃったんだみたいな。
だからやっぱりそのときは届けようって全く思ってなく、ただただ声を張り上げてるだけなんだよね。
っていうのを指摘されて、すごい恥ずかしい思いがしたっていうのが今ふと思い出してきたんだけど。
へー、そういうときにこっちも忙しいんだよって、いらつくよりは、やべえみたいな感じだった?
そうそうそうそう。だからやっぱり見透かされてるんだなみたいなさ。
なるほど、そういうふうにちゃんと伝わってたんだね。
良くないことが伝わってた。こっちが雑なことが伝わってたって話だよね。
やっぱりそれってあるよなーって、いろんなとこで。
今ちょっと記憶のフタ開けると嫌だから閉めたけどもう一回。
そういう失敗。いやでも、せっかくの早いとも大事な身体勢じゃん。
まあまあそうね、感じたっていう。
そうね、なんていうのかな、やっぱり今の話で言うとさ、やっぱり僕とかは、前に進んでくださいって言えば、
みんな前に進まなきゃいけないと受け取ってくれる、なぜならそういうふうに指示しているからだみたいな。
やっぱりそういう、よく言えばシンプルだけど悪く言うと、本当に解像度の荒い世界で生きてたわけですよ。
あれだね、だからレビナスかって言うと、やっぱり掴んでるよね、理解してるというか、わしづかみにしてるよね、やっぱりね。
そうそうそうそう。だからその時の前に進んでくださいは別に張り紙であろうと、
機械録音をされてテープレコーダーの音声であろうと一緒なわけだよね、僕からすると別に。
それは、その場にいて役割を与えるからやってるって言うだけで、やっぱり本来、こっちはそれ使ってるのと同じように並んでる人もそれぞれ掛かってるわけだから、
それを創造した上で、こういうふうに声をかけようとか、大人もいれば子どももいるしとかっていう中で、
こういうふうにやろうとかってできる人が多分、コミュニケーションが上手いとか、
接客業が得意とかって、いろいろな人たちが多分やってることだと思うんだよね。
そういうの自分でね、そういう感覚が鋭い人たちはね。
そうそうそうそう。やっぱり今でこそそういうのって大事だってわかるけれども、
当時はもうそんなこと一切思ってなかったし、あるともわかってなかったから、
やっぱりその後は自分が上手くいかないなとか、やっぱり俺、接客向いてないなとか、そういうことを思った記憶だね。
なるほど、でもそれはまだ救いがあるよね。それでさ、なんだあいつらみたいな、俺こんな頑張ってるのに文句言いやがったよみたいなさ、
動かねえし、動かねえしみたいな、外に向くよりは良かったんじゃない?
逆に外に向くことって少なくて、あんまりお前らがダメだみたいな、自分がやってないからだよな、ちゃんとみたいな、そっちに向いちゃうかな。
なるほど。自己肯定感的な話なのかな。もうちょっといろいろあるのかもしれないけどね。
そういう辺とかはね、またおいおい、時々は突然で掘り下げるかもしれないですけれども。
なんかそういうのある?人に届く届かないとかさ、前半のなかなかね、精神的な病みたいな話は多くないかもしれないけれども、
自と他の境界が良い意味でも悪い意味でも崩れるみたいな、そういうのってあったりする?
うーん、届くのと届かないか。でもやっぱりそれで一番すぐ出てくるのは、さっきの演奏のところが大きいかな。
そうかさ、実際演者側でやった?
そうそう、演者側でもやってたから。例えば路上でやるとかって時に、まさにそれじゃん、
立ち止まってもらえるか、都道にされるかって、まさに届いてるか届いてないかの証明みたいなものだから、
そういうのはコミュニケーションではパッとすぐ出てこないけど、演奏場面は結構出てくるね。
夜の繁華街で演奏してみたりとか、昼間のイオンみたいな商業施設で演奏した時はどうなるかとか、
あとは同じ音楽をやってる人たちが集まるイベントで、同じような人たちがどう聴くかみたいなね。
いろいろ場によってとか、あとはこっちはさっき言ったけど、音を聴ければいいのかみたいなさ、
とにかくガチャガチャやってれば立ち止まるかっていったらそうでもないし、みたいなさ。
そういうのを思い出すね、なんか。
まさに僕も話しながらさ、まさに牢状ライブとか想像したんだけども、
例えば新宿駅とか行くと、駅は大阪よりだけど牢状ライブしてる人がいるわけだよね。
やっぱり人によってすごい人分かれができる時もあれば、やっぱり全然寂しい時もあった時に、
これってやっぱり何なんだろうなっていうのをやってる人は考えるわけじゃん、音が。
そういう時に、やっぱり歌の上手さとか選曲っていうだけじゃないいろんなものが影響してる時に、
まさにこういう世界に行くんだろうね。
例えばそういう、いわゆるジャズフェスみたいな、いろんな人たちがいる中で自分たちが演奏する場とかがあるわけじゃん。
とかっていう時に、例えば今日これやろうと思ったけど会場の雰囲気がこうだからこっちに変えようかとか、
そういうことって起きると思うんだけどさ、そういうのってどういうふうに考えたりとかってあったのかな?
演劇とかロックミュージックとか、ああいうのは箱に入れてから見せる。だから箱に入れるみたいなところがあると思うんだけど、
路上はまたちょっとたぶんそこがまた違うから、ちょっとした流通論みたいになっちゃうけど、
まず2人足を止めてもらうみたいなことはすごい意識してたかも。
面白いね。
なんかめっちゃね、毎日のようにやってましたじゃない。あ、でもやってたな。やってたわ、一時期。
車であちこち行ってたよね。
車でっていうか、歩いてさ、住んでる町の繁華街に行って、演奏して、そのお金を貯めてみたいな。
だから視線もそうだよね。だからあなたをために弾いてますじゃないけど、止まってくれそうな人に向けて、
まずは足を止めてもらって、そうすると2人止まれば、その横に止まりやすくなるじゃんみたいな。
まずそこスタートだったな。だからとにかくでかい音でやって、みんな集まれっていう感じよりは、
まずはあなたのため、まずはあなた止まってくださいみたいな。
そういうのはね、当たり前すぎると思うんだけど、でもそれが本当の意識はしてたかな。
だからそれに対して、日によって明るい曲だったり、日によってそうでもない曲だったり、
場所とか、そこにいる人数によって、音量とかもガチャガチャやるのかやらないのか、
少し普通に聴くのかとか、声、自分ボーカロじゃないからあれなんだけど、
ボーカロがめっちゃ張るか普通に歌うかとか、そういうのは多分あるんだと思うよね。私やってたと思う。
そういうことで多分磨かれるんだと思う、その無意識というか知らぬ間に。
面白そう。
そういうことも含めてこういった関係性とかコミュニケーション、人と相手をどう捉えるかっていうところで、
全部変わってくる、繋がってくるなっていう感じでね、今日話してきたんですけれども。
今の兄貴の話とかちょっと新鮮だったな。音楽やってることはもちろんしてたし、
いわゆるちょっと設計というか、別に歌謡曲とかっていうよりは、
ある種、普通にずっと馴染みのない音楽とかやってたじゃん。
まあそうだね。だから民族音楽だったりカントリーだったり、いろいろそういう雰囲気のね。
だから人気曲をやって、また聴いてもらった方もやっぱり違うだろうから。
ところでね、たぶん逆に兄貴はそういった身体性というか、コミュニケーションをしてた中でたぶん悲しいこともあっただろうから、
そんな話でも聞けたらまた嬉しいななんて思いましたね。
そんな感じでね、今日も話してきたんですけれども、今回は非主観から見た者というちょっと大きな括りで、
仏教から、前回のワツイさんとかブーバーから、今回の哲学者ではない人としての木村さんとか竹内さんという方を出してみたんですけれども、
結構ね、共通詞のどこまで行っても、やっぱり主観っていう、ここから始めるんじゃなくって、やっぱりそうじゃないもの。
仏教っていうところの、そのね、御運みたいな関係性とか、ワツイさんみたいな間みたいなところもあれば、今回みたいな、
むしろご主人の人とかとその関係性というところから見たときに捉えられる症状のあり方とか、
捉え方があるよっていう話をしてきたんですけれども、ここまで行くと、やっぱり事故とか他者っていうのはそんな簡単じゃないなとか、
特に前回言ったみたいに、社会の側に個人が吸収されるというか取り組まれるみたいなことも含めて、
そんなに個人ってかっこたる、本当に絶対不変のものとかってもちろんないよなっていうこともあるなと思うので、
こういった発想自体はすごく大事にしたい。やっぱりどうしても出発点は定めたいじゃないですか。スタート地点はここです、みたいな。
そうだね、確かに。いわゆる理性があれば、今日のハヤトの例で言うと、ちゃんと声が聞こえれば、大きな声を出して、
声が聞こえればみんな動くはずみたいなので、ちゃんと理性を上手に使えれば相手に届くはずっていうのがまずあるじゃん、一つ。
今日の声をかける方と聞く方、どっちも大事みたいな話があったけれども、これも理性がある人はちゃんと相手の話を聞けるはずだ、みたいになっちゃうと、
たぶん今日の演劇のレッスンの話とは違う話になっちゃって、そこの違いっていうものを認識するというか、その視点を持っておくっていうのが、今回聞いてすごい思ったね。
そこを混同されちゃいそうな気もするじゃん。ちゃんと正しく伝えれば伝わるはずだし、ちゃんと正しく聞く技術があれば聞けるはずだ、みたいなさ。どうしてもそっちになっちゃいそうじゃん、みたいなのは思ったね。
そうだね、そうだね。 それとは違うんだよっていうね、今回の話は。
本当にそう。じゃあこれちょっとね、もう一個だけ竹内さんの話で、さっきさ、レッスンの難しさは聞き分けられるかの注意力にあるって言ったじゃん。
それだけだと、じゃあ聞く側がよく注意してきなきゃダメなんだって感じるそうだって私は思ったんだけど、直後にね、書いてるんだけど、なぜなら話しかけられる相手Bさんだよね。
Bさんは自分一人しかいないのだから、自分が話しかけられているに決まっているという約束ごとに囚われていて、本当に相手の声を聞いていないことが多いんだって書いてるのよ。
はいはいはいはい。 つまりAとBでレッスンしてるから、絶対にAさんは自分に話しかけているんだって頭ではわかるじゃん。でも、それに囚われてるとAさんの声は聞こえないっていうか、Aさんの本当の声を聞いてないんだっていうことを言ってるんだよね。
うんうん。 これは僕は正直わかんない。頭で書いてることはわかるけど、実感としては正直わかんないのよ、これ。
あ、そうなんだ。 ふーんって感じ。
え、そうなの?聞く側にちょっとこう、なんかそうだよねってなんない?
いやなんか、その場に立ったらなるのかもしんないけど、今じゃそれに自分は重ねられますかって言われると、ちょっとわかんないやっぱり。
あーそうなんだ。はいはい。どっちかっていうと、やっぱそのロールプレイみたいなものに役割的なとこで、声が聞こえたら聞こえましたみたいに言っちゃうかもみたいな。
そうで、なんかモゾモゾしちゃう気がする。
モゾモゾしちゃう。 そろそろ3回目ぐらいで、そろそろ私に書けられた気がしますって言った方がいいかなみたいな。
あーはいはいはい。
1回目だと嘘っぽいけど、2、3回目ぐらいで言うのはいいんじゃないかなとか、そういう小賢しいことを考えちゃう。
そうね、逆しらだね。なるほど。
どやされると思った方としたらね。
自分もね、その場にいたらね、いまいちピンとこねえなと思いながらやってるかもしんないけど、なるほどね。
っていうのがあるんで、まさに言ってくれた通りで、やっぱり理性で聞くとか、声を聞いてるから聞こえてるんだとかじゃない世界というか、実感っていうのは絶対あるし、
これをやっぱり大事にしましょうねっていうか、大事にすることで見えてくるものがありますよねっていう感じかな。
いやー、面白いね。これは妄想だけど、さっきのようなレッスンで聞く側ではね、今、ハヤトみたいなことをしてると、
たぶん先生からしたら丸わかりなんだろうね。
だから、これ勝手なイメージだけど、ちょっとそこのお前と、いま考えただろうって言って。
本当はわかってないだろう、聞こえてないだろうみたいな。
なんとなく、本当に聞こえてないっていうことを認める?
そういうレッスンな気もするね。
そうだと思う。
それを言われたら、この人は本物だみたいに思うだろうね、その先生のことを。
そこからね、自分は聞き分けられないんだ、それを。
ところを本当に認めた上でじゃないと積み上げていけない何かってあると思うし、
本当に聞こえる人は、たぶん先生とか見たら、あ、こいつ聞こえてるわ、みたいな。
それもわかっちゃうから、そういうのが起きてるんだろうなって思うね。
はい、という感じ。でもさ、やっぱり実戦の話はね、それはすごくイメージがしやすいなと思うので。
引き継がれて面白いからね、どんどんそういう話に乗っちゃうんだけど。
いろいろ出ちゃう。
なので、今後そういうこともやっぱりやりつつ、次回からまた少し抽象度高い話になるかもなんですけれども、
特に20世紀の作者の中でも、個人というよりは社会の側ですね。
これを割と深く考えていった人たちを取り上げていきますという感じなんだけれども。
最初はですね、ハンナ・アレントを行こうと思ってるんですよ。
ハンナ・アレントさん、働くことと節約とかで少し名前出したときあったと思うんですけれども、
あの時はどっちかっていうと、いわゆる働くことというか、生活みたいな人間の働くってことになってたんだけれども、
この方は、やっぱり政治とか社会とかそういうことに切り込んだ人という方がむしろ有名だと思いますので。
まずはこのハンナ・アレントさんから、次回20世紀の哲学、社会編みたいな感じを、
また2,3人ぐらい続けてやっていこうかなと思ってますという感じですね。
はいはい、わーわかりました。
最初に一回雑談というかお知らせがね、今ちょっとまだできないんだけど、
今やってるプロジェクトというかあれがあって、
完成したらその雑談を挟んでお届けしようと思ってるので。
わかりました、了解です。
次回からですね、ハンナ・アレントの話に入っていくというところで楽しみにしていきたいと思います。
では引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。