現代のプラグマティズムの実践
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、長かったプラグマティズム回も、今回が最終回ということで、さらに現代というか、現在に近づいていくというような感じでした。
そうですね、はい。今回ですね、誰かの特定の人の説をね、紹介して理解するとかってよりも、
前回もちょっと最後に兄貴とも話した通り、やっぱりプラグマティズムって、使ってなんぼ?みたいな感じとか、やっぱり理解するだけじゃなくて、
やっぱり現実に適応させて、より理解を深めていくっていうところがあるのかなと思うので。
そうね、なんか絵の具とさ、真っさらなキャンバス渡されて、はいどうぞって言われたような感じがする。
なるほどね、確かに確かに。だからこそやっぱりそれぞれ人によって描く絵が違うってのもあると思うんですよ。
なので今回も僕自身が関心にも引き寄せつつ、本で読んだ内容とかも踏まえつつ、
プラグマティズムを使って、現代的な物事とかを捉えた時に、何が問題になるんですかねとか、
こんな議論が起きますねっていうのをちょっとご紹介する中で、プラグマティズムまさに実践編みたいな、
ちょっとそんな感じでお話ししていきたいなと思っておりますと。
ありがたいです。どんな絵描けばいいか教えてもらわないと描けないから結局。
まあそうね、結局ね、お手本というかなんとかね、そういうのがあると思うので。
まあお手本というとちょっと言い方があれですけど。
偉そうだけどね。
偉そうだけど。
実際ね、ちょっと前回もお伝えしましたが、今回の大きなテーマで言うと道徳とか正義とか政治みたいな感じ。
お手本というのは難しすぎるかな。
はいはい。
でもさ、科学的な心理とか、目の前に物が存在するかどうかっていう存在論みたいな話って、
やっぱり何が正しいのかとか価値ってそもそもあるのかってすごく難しいと思うんですよね。
やっぱり価値みたいな話ってどっちかっていうと道徳とか倫理みたいな話と結びつくし、
やっぱそれが共同体に適応されるものが政治だから、
結構そっちのイメージはまだ湧きやすいかなと思うんですよ。
だからこそ逆に議論しにくいとかあるんだけど、ちょっとそういうテーマにしたくて。
ただこれってプラガマディズムって何かの心理とか答えを出すものではないから、
これが正しい道徳だとか政治だとかってことは、政治は一部言ってるかな。
でもこういうところまでは考えれるよねみたいな、そういう話があるので、
ここをぜひ、自分としても兄貴といろいろ話しながら、自分事として考えるような場にしたいな、なんていうふうに思ってますと。
はいはい、なるほどな。
プラグマティズムと相対主義
でね、ちょっと最初に復習的なんですけれども、結構今回パース、ジェームズ、デュイっていうふうにやってたんですけれども、
ちょっとその中で、いわゆる相対主義みたいな話だったじゃないですか。
うんうんうん。
やっぱりそれぞれの人が、もうこれが真理だって言ったらもうそれが真理になっちゃうみたいな話だったときに、
これを共同体、要は俺たちはこれを真理だみたいな話になると、
それと結局、ある共同体とか文化が、それぞれの独自の真理を持つって話になるんで、
こういう話を自分が中心主義みたいに言ったりするんですよね。自文化、自分たちの文化中心主義。
はいはいはいはい。
よくさ、僕らも、僕らというか、西洋とか東洋とかって言ったりするんだけど、
西洋ではこれが真理で、東洋ではこれが真理だとかっていう、ちょっとステレオタイプ的な話とかも結構出がちですと。
はいはい、家の中で靴脱ぐ、脱がないみたいな話からみたいなね、例えば。
ああ、そうそうそうそう。
それは風習だけど、例えば道徳で言うと、日本では奥行かしくて、遠回しな表現がいいけど、アメリカだったら直接的に言った方がいいよねとか。
はいはいはいはい。
そういうのも文化によって違いますよねと。
ふんふんふん。
で、あった時に、それ自体はまあまあそうだよね、お互いに尊重し合おうぜみたいな話になるんですけど、これは政治の場に適応するとどうなるかっていうと。
ふんふん。
例えば、あんまり別にこれは特定の政治思想を押し付けたいってことではないっていうのはご理解いただきたいんですけれども。
例えば民主主義って、まあいい形の政治形態だよねとかって彼に主張したとした時に、それっていうのは前提として、もちろん民主主義以外の政治もあるし、
そもそもその多様性を否定して、民主主義最高だみたいに言うこと自体が民主主義的じゃないよねみたいな、そういう話がありますと。
ほうほうほう。
ここは理解できる、触るかな。
まあそうだよね、例えばリンゴが大好きだみたいな話をした時に、一番好きだって話をした時に、
あんにみかんとかパイナップルとかはリンゴより劣ったものだって言ってるっていう風に、取れる人もいるだろうし、そういう風に思っちゃってる人もいるよねっていう話。
そうだね、そうだね、それ自体はその人が価値観だからしょうがないんだけど、だからリンゴを嫌いなお前は人として認めるとかって言うと、さすがに言い過ぎだよねみたいな、そういう感じだね。
はいはいはい。
これってさ、第二次世界大戦以降の反省っていうのは多分大きくて、それこそ、いわゆる経済的な方が先進国で、そうじゃないのは後進国で劣ってるからお前ら俺たちになれみたいな、民主主義を導入して経済発展せよみたいなのっていうのはすごく押し付け的で、
それっていろんな文化の多様性だったりとか、その地域の独立ってやっぱり破壊するものだみたいな、そういう反省っていうのはあるわけだよね。
はいはいはい。
ただやっぱりそれ自体はすごく大事、その価値観を尊重するのが大事なんだけど、それが行き過ぎると結局相対主義になっちゃって、
じゃあやっぱりこの現在において最適な政治の形ってなんだっけとか、僕らはどういう風な未来に向かっていくんだっけっていう議論をそもそもできなくしちゃうような雰囲気を生み出しちゃうんだよね。
要は最も良い政治とかって言ってるお前はじゃあ多文化を認めないのかとか、それを作ってお前らまた押し付けるんだろうみたいな、要はそういう風な空気で生まれちゃいますと。
それが悪い相対主義の話ね。
そうそうそう、悪い相対主義の話。
はいはいはい。
プラグマティズムの政治への役割
そういう意味で言うと、国とか政治っていうのは文化とか歴史地理みたいないろんな要因があって、それを違いを捨てて唯一の適切な政治を考えるみたいなことっていうのは、それこそが野蛮な思想で言語道断だみたいな、そういう主張もその通りなんだけど、
そういう政治における真理の探求というか、やっぱりより良いものを追求していくみたいな、そういうものを否定する立場っていうのもまたやっぱりおかしいよねみたいな、そういうことってやっぱり言わなきゃいけないし考えなきゃいけないんだよね。
まあそうだよね。難しいよねそれは確かに。それぞれがそれぞれで自分にとって最高のものを見つけようとすると、またそういう悪い相対主義的になる可能性もあるなんてことを考え始めると何もできないじゃんみたいなね。
そうなんだよね。まさにそれこそ分断しちゃうとか対立しちゃうみたいな、まさに結構現代のまさに起きてる問題なんだけど、ここでプラグマティズムはどう考えますかっていう話なんだけど、これまでも言ってきた通りプラグマティズムはその唯一絶対の真理っていうのは多分ないんだけど、でもどっかに真理自体はあると。
かつそれを探求して、その探求の中でその真理というのは確からしさを確かめていくのが大事っていう発想だから、やっぱりそういう探求する、要はそのより良い政治形態を見つけに行くっていう、そこの探求するっていうことの自由は守らなきゃいけないんだよね。
なるほど。前回最後に言った電気も水道も全部なくせみたいな、そういうのとは違うんだよっていうことを証明しなきゃいけないんだね、プラグマティズムはね。
証明しなきゃいけないし、そこにちゃんと説得力を持たさなきゃいけないですよと。
逆にそういうのって、例えばジェームズ的な本当に相対主義みたいな感じになっちゃうと、やっぱり批判とかではできなくて、せいぜいそういうのもありだよねって認めるか無視するかしかないんだよね。
そうなっちゃうと、例えば仮にナチスみたいな政治体制がもう一回できちゃうとか、もっとひどい要は隣の国を全部滅ぼしてやれみたいな、
仮に生まれたときにそれはもう絶対的に批判しなきゃいけないんだよね、国際的な秩序においては。
それも一人の考え方だし、周囲の国を絶滅させて滅ぼせるっていうのも一つの個人の思想だよねっていうのは言っちゃいけないわけよ、共同体として生きる人間としては。
ここはあえて強く言うんだけど、でもそれってどうやるの?感情論でもべき論でもなく、どうやってちゃんと主張するのっていうのがすごく難しい問題になるんだよね。
そうだよね、論理的にね。
相手を説得できるように。
それってさ、大きい国の話とかだとなかなかイメージしにくいかもしれないけれども、結構個人のね、それこそとても自己中な人とかでも多分そうで、
お前ら俺の言う通りにやれみたいな、それが最高なんだみたいなことを言ってる人に対して、いやいやそうじゃないですよねって言うことは多分大事なんだけれども、
それってどうやったら感情論とか、そもそも人っていうのは平等でみたいな、説得しようじゃないみたいなことじゃない話をしますかっていうのが、
現代のプラグマティズムがまさに向き合っているのが課題というか、そこに対してどんなふうな土台を提供できますかっていう感じになるんだよね。
そうだね。ここに何か答えというか、現時点での真理みたいなものはないの?プラグマティズム的に。
真理はやっぱりないんだよね。ただ前回も言った通り、真理はないんだけど、こういうふうに探求していくのがほぼほぼベストじゃなかろうか、みたいなことまでは言うんだよね。
なぜかっていうと、プラグマティズムはやっぱりその真理というものとそれを探求するとか、それを突き詰めていくっていうことにすごく密接な関係を持って、見出してるんだよね。
要は、バースから言ってる通り、真理というのは探求した果てに見えてくるものだから、人間とは違う真理。
要は、何かどこかに理想の政治形態がポンと置いてあって、それを発見するのだっていうことじゃなくて、
結論ありきではないってことですね。
そうそう。ちゃんといろんな人と議論したり、試してうまくいった、うまくいかなかったとかっていろんなことを繰り返した果てに、そういうより確からしい政治形態というものがあるであろう、というようなことがプラグマティズムの考え方が出てくるんだよね。
もうちょっと厳密に言うと何かっていうと、例えば、まるで道徳的な正義みたいなものとか、政治的な正しさみたいなものは、
それが主張する信念、さっきで言うような、他の国を全部滅ぼして自分の国だけを豊かにするぞみたいな信念があったとして、それは確かに否定しにくいんだけれども、
それは見出す手続きとか、そこに対してどれだけの人が合意しているかとか、そこに対して反省をしてそれを乗り越えたかとか、そういう探求の方法自体はちゃんと吟味できるよねっていうふうに言うんだよね。
おー、なるほどなるほど。
さっきみたいに、要は全部の主義の国を滅ぼせって言った人が、本当にちゃんとその国の原主たる手続きを取ったのか、それはもうナチスは取ったから、それはやっぱりなかなか難しかったみたいな話はあるんだけど、
それをやり始めた時に、本当にそれって国際的な秩序からもOKが出るのかとか、あるいは他の国を滅ぼせって言った時に、他の国の人も関係者であるわけじゃん、その関係者の意見を聞いたのかとか、
そういう手続きっていうのは、ちゃんと一歩一歩踏んだ時に、その手続きはおかしいでしょとか、そんな自分たちの意見だけで言った信念っていうのは信念として確からしくないよねとか、そういうことは批判できます。
逆に言うと、何かを信念として主張するっていう時には、前回の素朴実在論の人の会話でも言ったんだけど、自分が信じてることを修正するとか変更するとか、
人に撤回して、すみません、間違ってましたってちゃんと言える?そういうスタンスで望んだ方がいいよねとか、望むべきだよねっていうことが言うんだよね。
プラグマティズムの手続きと真理の追求
だからプラグマティズムは、政治の話をする時にはどうやら、いわゆる多数決による民主主義っていうことじゃなくて、
その、討議、ディスカッションする民主主義っていう、議論したり探求したりして、お互いに特定の信念を作っていこうぜ、そういう探求とか追求することが大事なんだぜみたいな、
そういうことが論理的に正しいんだっていうところまでは言えるんじゃないかっていう主張をするんだよね。
なので答えはないんだけど、まさに前回の素朴実在論でフラットになったみたいに、そこから始めませんかっていうふうな話をしますと。
なるほどね。共同体とか単位でどこに向かうかっていうことを決めるためのプロセス。そこはできるよねって話だよね。
ここに行くと決めましたっていうとこはどうしてもクローズアップされがちで、そこがすごい力を持っちゃうんだけれども、
さっき言った、決まったそこ自体を否定するっていうのはすごく難しいんだけれども、そこまでの手続きで何かおかしなことがあったよねとか、
何か無理矢理言ってないとか、そういうそこから話すことで、もう一度結論したら正しかったのかどうか検証するっていう可能性はあるよねみたいな話で。
そうそうそうそう。
そっちから行くとね。
そっちから行く。
そっちから行くというのはその結論に対して、例えば相手国というかその国に何か話すときだし、
国内部の話で言うと、そもそもの国の方針を作るときのスタンスっていうのはこのプラグマティズム的な素朴な自然的な実在論に基づく話し合いだったりとか、
価値観を持ったもの同士でやっていくことで、その見えてくる真理というか、その時の最高の方針みたいなものは見え得るよねっていう感覚ってことかな。
そうそうそうそう。だからやっぱり答えはないんだよね。答えはないんだけど、ここまでは共通にきっと考えられるし、
その上で、討議的認識、ディスカッションしながら真理を見出していきましょうっていう、そもそもその方法論に納得できないとしたらそれはなぜかっていうのを、やっぱりそこはすごく異論できるんだよね。
要はそれと言う真理っていうものをもうすでにあるものと思っていませんかとか、それって要は自分の考えというのは捨てたくない、自分を解き尽くしたいとかさ、いろんな欲求があるっていうふうに思うんだけど、
そういう欲求から始まってて、本来やりたい良い国を作るとか、そういうみんなで豊かになっていくっていうこととずれてませんかとか、そういう議論はやっぱりできるんだよね。
もちろんできない相手はいて、いわゆる没交渉みたいなさ、俺がやりたいことをやるんだみたいな人もどの中にはいるとは思うんだけど、
でもそこがなんだろうな、ちょっと正直プラガマティズムへどう乗り越えるかっていうのは僕もわからないんだけど、でもそういう人とも対応をちゃんとしていこうとか、
きちんとそのお互いに前提条件をすらわせていけると、きちんとこの統議的民主主義というところまではいけるんじゃなかろうかとか、そういうようなことがプラガマティズムの方法論からは言えるっていう感じかな。
うーん、なるほどなるほど。確かに共同体っていう単位で考えるとすれば、さっきのような一個人でそこにそぐわない人がいるっていうと、またプラグマティズム史上主義みたいな感じになっちゃうと気持ち悪いんだけれども、
そこはプラグマティズムの自然的素朴っていう観念からいったときに、すごく自分の世界観が強すぎる人、没交渉の人がいたときはある意味自然淘汰されるよね、このプラグマティズムの世界観で言うとね、っていうのは思ったかな。
そういう人がある意味国家の元首になる可能性はとても低いよね。そういう考え方のもとに手続きだったり討論がなされるとすればっていう。そういうセーフティネットみたいなのはこのプラグマティズムは晴れてる気がするよね。セーフティネットじゃねえか、リスク回避。
もちろんね、そういう人がすごい力を持っちゃってるとかって色々考えたらキリはないんだけれども、システム的にはリスクを少なくするとか、何かエラーがあったときに排除する。排除って言うとあれだけどね。
やっぱりプラグマティズム的には、なるべく極端なものを避ける。で、みんながいいとするものを死ぬとするみたいな、そういう感覚はあるかな。
結局そうだよね、共同体っていうものが主語になった瞬間に共同体にとって意味のあるものとか有用なものってなってくると、どうしてもそこが出てくるよね。そぐわないものっていうものに。
そもそもプラグマティズムは共同体が信じたものが真理だっていう風になってくるから、大きな考え方として。やっぱりそのみんなでどう生きるかっていうことの色合いは、逆に言うとすごく強くあるんだよね。
そこがバランスがいいかとかはもちろんあると思うんだけれども。
だから、すぐもう総体主義になるんじゃないかって話、すぐつながるってことだよね。だからこそ。
そうそうそうそう。だからこそ、なんでもありみたいになっちゃう。そうじゃないよっていうところのバランスを上手くなんとか取ろうとしてるっていうのはあると思うんだけど。
だからこそ、政治とか道徳でも別になんでもありじゃなくて、それが党議的民主主義っていうものが土台になって、その手続きから生まれてくる政治の体制とか法律とか国の運営方針とか、それは多様であるべきでしょう。もちろん独立性があっていいよね。
だからその土台となる方法論っていうのは、ちゃんとすり合わせようぜ。プラガマティズム的にちゃんとすり合わせようぜっていうのはプラガマティズムからの主張っていうのができると、
でも相対処刑なんでもありとか、さっき言った自分たちの文化が中心で、それが独立性だけでいいんだみたいな。っていうようなちょっと雑な感じというのを乗り越えて、どこまでは自由で多様なんだけど、ここからはさすがに統一しましょうみたいな。
共通の土台とバランスの難しさ
この土台は揃えておいて、ここから先の自由を認めましょうとか、そういうところまではちゃんと主張するっていうのが、ある種現代のプラガマティズムの一つの在り方なのか。これももちろんプラガマティズム全部はこうだとか、何か今言ってくれたんだけど、要はプラガマティズムがそもそも素朴実在論であるっていうのもちょっと違う。
相棒まではパトナムさんの話だから、パトナムさん以外の人は別にそうは思ってなかったりもするっていう感じでもあるんだけど。
すでに土台揃ってないね。
だからやっぱり、もっと言って共通の土台に立つってどれだけ難しいかって話はね、やっぱり大前提あるとは思うんだよね。
だからやっぱり物事をちゃんと考えようっていう時に、ちゃんと同じ土台から出発して、自分の真理はこうだ、自分の真理はこうだっていうような、そういう世界観っていうのが一つの望ましい方向性じゃないですかっていう、そこの説得力はあるのかなって思うんだよね。
ある意味ね、確かに理想論かもしれないし、今のハヤトも土台を揃えるのがすごい難しいって話は確かにと思って、逆に真理、目標、方針、そっちを揃えるのは簡単なのかもしれないね。そっちの方がコストが低いのかもと思った。
ほんとそうなんだよね。だからちょっとこれはすごくリアルな話だったかもしれないけど、要は相手の土俵に乗った瞬間に負けちゃうみたいな話ってやっぱりどうしてもあるんだよね。
要は、例えば中国っていうのがいわゆる民主主義っていうよりは一等が国を支配して、支配というか運営してってなった時に、それは民主主義っていうルールとかに乗っちゃうと、もう中国ってやっぱり国の成り立ちが変わっちゃうんだよね。
そこにやっぱり乗れないわけよ、中国っていうのは多分。政治のことはあんまり詳しくないんだけど。だから、どうしても同じ土台に乗りましょうっていうのは、土台を作った側が有利だから、そこに乗った時点で、「いや、俺はもう自分の好きな勝手な国を作って、お前らの国とは違うルールで運営するんだ。」っていう人たちからすると、
それは交渉に見えて、幸福なんだと思うんだよ。幸福ってはもう、負けてるって話だと思うんだよね。伝わってるかな、今言ってること。
多分これ例が具体的すぎるから、あれなんだけれども、例え話にしたほうがいいかな。
例え話にしようか。
例えば、何らかのスポーツがあった時に、例えばジャスサッカーで、ずっとサッカーをやっている人たちがいて、サッカーってものが全世界的に有名になりすぎてみんなサッカーやってます、という時に、一方で野球をやっている人たちがいたんだけれども、
自分たちは、やっぱり世界の流れ的にも、サッカーやったほうがいいって言われてるし、じゃあサッカーやろうかって言った時に、今から野球からサッカーに転向して追いつけるの、その人たちにと。
もうバリバリプロで、いろんな研究し尽くして戦術とかやってる世界のチームに、今まで野球やってたと、サッカーの差の字も知らない我々が、じゃあ明日からサッカーやりますって言って、その人たちにどう対抗するのと、もう一瞬で負けるし、その人たちの戦術とかを学ばないといけないじゃん。
その時点で、もうパワーバランス崩れてるでしょっていう、それが一国の、一つの国の生き死にを左右するかもしれない選択っていう場面で、じゃあその野球やってた人たちは、明日からサッカーやりますって言えるかね、簡単にっていうような話だよね。
そうね、そっちの方が綺麗だね。とても良い例えだと思います。
例えばね。
っていう難しさがあって、だからじゃあその野球をやり続けるとか、野球じゃなくてサッカーでもなくてラグビーをやりますみたいなことをやった人たちを単純に批判できるかって部分もあるかもねみたいな、そういう難しさはあるって話だよね。それを具体例にしちゃうと。
ある。
あるし、民主主義っていうのが本当にいいみたいな話って、要はスポーツとはサッカーであるみたいな暴論にもやっぱり聞こえちゃうんだよね。
いやそうだよね。
だからサッカー以外のスポーツやってるお前らとかってマジでありえねえとかって言われたらそりゃ嫌だよね。
野蛮だとか、やっぱりサッカーやらないと落ちてないよみたいな話をしちゃうわけだもんねっていうね。
そういうことそういうこと。
まあしちゃってたか。
かといってさっきの今日の話を言うと、じゃあ野球をやっててもいいですよ。俺は野球やってればいいんだ。こっちはサッカーをやってるからいいんだ。っていう世界でもないと思う、すでにっていうね。
そういうことそういうこと。
そこはやっぱり混じり合っちゃってるし、サッカーと野球の人たちが交流するときにお互いのコミュニケーションが取れないとかってことが起きちゃう?
いやールール違いすぎるけど、そこどうしようねと。いやこっちはこっちだからバット使わなきゃダメだと。手は使うなと。
ボールの大きさも違うしとか。
国同士の真理の追求とバランス
そうそうそう。
とかっていうことを全部一個一個やっぱり整えられますかって言うとやっぱりそれも難しい。
せめて俺らはスポーツマンシップって大事だとかって土台を作ったときに、でもスポーツマンシップって何?みたいなことがまた出てきてみたいな感じのいろんな議論が出てきちゃうと。
そもそもなんで野球やろうと思ったんだっけ?そもそもなんでサッカーやろうと思ったんだって?っていうところまで立ち返ると意外と同じだったりとかね。自分の国のためみたいなね。
そういうすごい根本まで。どこかでそこからどこかでずれてるとか、どこかで同じ、どこかで違うみたいなところを本当はやれるしやりたいよねっていう。
ただまぁ実際難しいっていうそれが理想論と言われかねない難しさがあるという話だよね。
で、なるとやっぱり議論が結局拡散しちゃうからフラグアメティズムはその方法論に焦点を当てましょう。
はいはいはいはい。
要はお互いに語り合うとか、議論し合ってより正しいっていうものを真理として認めていくっていう、そういう手続きを踏むっていうところから始めませんかっていう、そこにまずフォーカスするんだよね。
それは国同士で言うとサッカーと野球に共通する真理っていうものを見つけられるかもしれないねっていうところが国同士だと言えるって話だよね。
言えるっていう感じだね。なのでやっぱり難しいんだよね、そのバランスをどう取るかとか、そもそもバランスなんてあるのかみたいな話になっちゃうんだけど、
やっぱりそこに対して共通の立てる土台をなんとか提供しようとか、そこから始めていくとより良い未来にちゃんとたどり着くっていう、
より良い未来が何かもわかんないし、そもそもそれがあるかもわかんないんだけど、それがないって言ってしまうと虚無主義になっちゃうしとか、
そういう中で頑張ろうとする意志っていうのが出てくるとか、結構そういういろんな現代においては難しい中で、
プラグマティズムだからこそできるような主張とか思想がある。
なるほど、今回ちょっと具体的とは言ってたけど、結構抽象的な話ではあるんだけども、多分あれだよね、今聞いた話からすると、
このプラグマティズム的な感覚を持っていることで、さっき言った、例えば相手を否定、自分が最高で相手はダメだみたいな、
価値観を自分が持たない、自分の共同体が持たないとか、全然そのやっぱり主張違くても、やっぱり前向きな技能を進めるみたいな、
余地を残しとくみたいな、そういう姿勢みたいなところがプラグマティズムのある意味実践の形みたいなところなのかな。
そうだね。やっぱりどう共存するかとか、やっぱり共同体って話が今日出てたけれども、やっぱり人と人がどういうふうに一緒に暮らしていくかっていうところはすごく根本的にあるんだと思うんだよね。
それはやっぱりアメリカっていう国で生まれたっておっしゃってたと思うんだけど、アメリカって合衆国じゃない、要は国ぐらいの権限を持つところが集まって一つの国を作ってるって意味では、
それぞれが独自性を持ちながらも、やっぱりまとまってるっていう、そういう政治って国の成り立ちをしてるわけだよね。
そういう国でどうやって我々は生きていくのかとか、どうやってより良い未来を作るのかっていうことが、たぶんこのプラグマティズム的な思想にもかなり入ってるんじゃないかみたいな話も書いてたんだよね。
なるほどね。そういう国の何かちがったり、価値観と結構やっぱり戦後性がある、どっちが先かって話だけると思うんだよね。
そうそう。
はいはいはい。
だからやっぱりそこが、異なる共同体がより良く共存するっていう、たぶん前提である価値観はやっぱりプラグマティズムにはあって、
俺の共同体だけが最高だみたいなのは、やっぱり良くないよねっていう暗黙の了解はあるんだよね。
そこはそりゃそうかなとは思っていて、この21世紀の時代において、お互いにちゃんと認め合うとか尊重し合うとか、
やっぱり自分たちが良いってことと相手も良い、だからあなたも良いし私も良いみたいな、ちゃんとそういう土台っていうのがやっぱりすごく大事な姿勢だと思うし、
だからといってみんな違ってみんな良いって、これはもう金子美津さんのもちろん有名な詩だけれども、っていうのを拡張しとけちゃうと結局相対主義っぽくなってしまうっていうところの、やっぱり危ういバランスがある。
そこは都合よく解釈しちゃうとねって話ですね。
だからそこの難しさとまさに向き合っているのが、この現代のプラグマティスムなのではなかろうかと。
もちろん別にプラグマティスムはこれだけ扱ってるわけでもないし、めちゃめちゃもっと広い厳密な議論もしてるから、
あくまでもちょっと僕が今の関心で話すとこうなりますというだけの話なんだけど。
なるほどね。確かにこのプラグマティスムが実践的とか、そういうふうに言われる理由も分かった気がするけど、
分かってきた気がするけど、どうなんだろう?鉄学のジャンルでいうとどうなの?
プラグマティズムの難しさとバランス
他の鉄学結構批判しちゃってるじゃん。真偽はないみたいなさ。
はいはい。
どうなの?はぶられてないの?鉄学の業界的に。
最初ははぶられてたし、もっと言うとあんなことやって鉄学じゃないぜみたいなこと言われてましたと。
でもやっぱり考えれば考えるほどそうだよねみたいな話とか。
確かにエオは唯一絶対の真理みたいなものを求めてたんだけど、
それってすごくめちゃめちゃ強い前提だよねみたいな前回も言ったんだけど、
結局それってやっぱ神がいるとか、この世界ってのはもう既に作られたものがあって、
それを我々を解き明かすんだみたいな、結構そういうスタンスから始まってるよねっていう話は、
よくよく考えたらそうだよってやっぱりみんな思うわけよね。
なるほど、そういう冷静さはあると。
もちろんもちろん。
やっぱり現代、この20世紀において、純粋に真理はあるとか、
純粋な真理っていうのを求めているのだってこと自体がむしろ危ういみたいな。
じゃあそんぐらいの影響を与えてるんだ、鉄学界においても。
そうそう。だからこそこれまで残ってるし、今でも発展してるっていうのもあるんだよね。
やっぱり純粋な真理があるって、結局それって神がいるっていうことと何が違うんでしたっけってなっちゃうと思うんだよ。
うんうんうん。そして結論日記でその論に組み立ててるよねっていう、
簡単に論破されちゃうのかな、こういう現代でお前の知見とかあると。
そうだね、論破されるし、それって結局態度としてすごく独善的じゃないですかみたいな。
うんうんうん。
っていうふうにはすぐに言われちゃう。
っていう意味ではすごくある種の成功をしてるというか、
ちゃんと力を持った思想として、やっぱり現代もこうやって活発に色の議論が行われてるみたいな感じだし、
プラグマティズムの実践と役割
やっぱり今回の政治みたいな話もそうだと思うんだけど、
やっぱりただ単純に自分の視点だけで考えたりとか、
それこそ感情論的にさ、もうなんか玉砕とかありえないみたいなことじゃなくて、
じゃあなぜそれがダメだと思うのかとか、
なぜそういうふうに言えるのかっていうことはちゃんと言葉で考えていくっていう意味ではすごく役立つ思想じゃないかなって思うんだよね。
あーはいはい、確かに確かに。
逆もまたしっかりだもんね。疑うのがダメなのか、信じるのがダメなのか、
なんでダメなのか、なんでいいのかって表裏一体で同じかもしれないみたいなね。
そうそうそうそう。
それはね、やっぱり前回のパソダムさんの科学的実際論から内在的実際論に行ったけど、
結局それって裏返しするだけで全然乗り越えてなかったみたいな。
うんうんうん。
そう、やっぱりそういう話になっちゃうし、結構そうやってありがちだと思うんだよね。
なんか、何かを批判して自分は正しいって思ってる人って、結局その正しさっていうところから逃れられてないよねみたいな。
はいはいはいはい。
だからその正しさとかを捨てて、ちゃんと自分がもっとオープンになっていくとか、
いろんな意見を受け入れて、なんだろうな、自分の意見を修正できるとか、
より良いように他の人ともちゃんと議論ができる。
それもさっき言った通り共同体で生きるという前提があればこそだけど、
ちゃんと自分のことを相手にも分かってもらうっていうのは大事だよねとか。
そういう発想にすごく適正があるというか、親しみがある哲学なのかななんて思う感じですかね。
うん。なるほどね。
確かに私、自分のスタンスもそうだし、
ゼロベースのところから何かを考えていくとか、
人と話をする、対話をするっていう時の捉え方っていうのも、
そこに対してもとことんフラットであるっていう姿勢を貫ける。
自分が外界から、もしくは自分の頭で考えるとか、自分の目で捉える、いろんな認識する。
色をつけずに見るっていうスタンスが良しとされてるというか、
それをどうやるの、それがどういうことなのっていうのを、
すごく実践的なというか、具体的に示してくれてるなっていうのは本当に思ったね。
よかったよかった。
今回冒頭で言ったように、色があると、絵の具がありますと。
白はキャンバスも準備しました。
そこまでは本当にやってくれてるっていう。
ただそれが本当に難しかったんだな、だし、
それをやり切ろうとすると、本当に理想論と言われないほど難しいんだけど、
ただやっぱりそこは想定しておかないと、やっぱり間違えるというか、
だからこそ間違えちゃうことってすでに人間やってきたよねっていうのが、
戦争だったりとかね、色々という話を踏まえてプログマティズムが考えてきている。
今でも発展し続けているみたいな話だね、そこはね。
発展なのかね。
まさに展開し続けてるっていう感じかな。
やっぱりプログマティズム社がそうやってどんどん先へ先へ検証して、
次の課題へというのが、ちゃんとそこに含まれているプログマティズム自体も
そういう痛みであり続けているっていう。
それは手伝う会の人はどういうかは分からないけれども。
そこは3Pというか色々あると。
そうするとプログマティズムの人たちはそういうことをやろうとしているというような感じですかね。
へー、なるほど。
はい。
なかなかこれは面白かった。
今日の話もあったけど、やっぱりその審議はこうですとか、自分たちはここに向かっているんですって言われた方が
まとまりやすいと思った。
そうだね、そう思う。
今回みたいに、じゃあ絵の具とキャンバス準備しました、はいどうぞって言われると
やっぱり一気にチャットするというかさ。
そうだね。
そこからみんなじゃあ、どうするどうする、何描く、何描くとかさ、
あなたもいいですね、こっちも上手いですねとかってなっちゃう難しさがある。
だったら、ほらあそこにあるリンゴを描きなさい、上手に描きなさいって言われた方が楽っていうね。
そうだよね。
その難しさを感じて、そこは面白かったかなって。
いいですね、確かに。
そういう意味ではね、ちょっと雑談でも今話そうと思ったのが、やっぱり企業の働く場面で言うと、
最近にはパーパス系が出てきたりとか、ビジョンとかミッションとか、
会社が何を目指すかみたいなのってあると思うんだけど、
それも多分プラグマティズム的に言うと、
それは心理なのかとか、それって手法なのかとかって、
多分いろんな転用ができると思うんだよね。
他に言ってくる通り、やっぱりビジョンが明確な方がみんなの目線が揃いやすいけど、
それやっちゃうと結局それだけになっちゃって、
要はこれもちょっと今世の中的にあれだけど、
そういった不正が例えば行われちゃうとかさ、
結局そっちが何らかになっちゃう。
手法とかの方が何らかになっちゃうみたいな、
多分そういうとこって結構表裏一体だなと思ったりして。
もう中古社。
そうそうそうね。
はいはいはい。
みたいな話が出ちゃうから、
なんかね、そんな風にいろんなことに応用できる。
まさにこれまでやってきたように力強い思想とかっていろんな応用ができるよねみたいな。
そんな話なのかなって今ちょっと僕も話しながら今、
兄貴にいろいろ言ってもらって感じてるっていうとこですね。
うんうんうん。
そうね、やっぱり答えを示してくれるっていうよりは、
今何が起こっているのか、
今どういう環境、世界で生きてるのかっていうのをきちんとほぐしてくれるような感じがしたね。
それがね伝わって嬉しいし、
ここまで話さないとなかなかプラガマティズムのダイナミズムみたいなのってわからん。
確かになかったね。
本当にお付き合いいただいた兄貴もそうですし皆さんもありがとうございますと。
本当にありがとうございました。
いいとこでございます。
次はね、実はまたちょっと人ベースに戻ろうかなと思ってて。
はいはい。
ストア派プラガマティズムってちょっと流派というかね、
そういうものを取り上げてきたんだけど、
次はウィトゲンシュタインっていう人を取り上げたいなと思ってますと。
なんか名前聞いたことはある気がするけど、難しそうな人じゃない?
名前だけでしょそれ。
名前だけでしょ別にそれ。
あのさ、あれ聞いたことあるかな。
ウィトゲンシュタインの言葉とプラガマティズム
語り得ないことについては沈黙しなければならないみたいな言葉って聞いたことある?
うん、聞いたことあると思う。
これがウィトゲンシュタインさんの言葉なんですけど、
たぶんね、ニーチェの神は死んだと。
同じ対話になるのは結構近いぐらい、なんか聞いたことあるけど何言ってるかわからんとか、
それって何?みたいな人だと思うのよね。
はいはいはい、まあ時代もわかんないやん。
時代的には結構プラガマティズムと近くって、
今回言わなかったんですけど、
この前回のパトナムさんとか、今回の議論も、
結構ウィトゲンシュタインさんのゲーム理論、言語ゲームみたいな、
ゲーム理論じゃない、言語ゲームっていう考え方を結構参照してるらしいんですよ。
へー、そうなんだ。
なので、今回共同体とか言ったところもかなり近い発想があるんで、
ウィトゲンシュタインさん、名前的にもたぶん面白いし、
このプラガマティズムのちょっと根底にあるみたいな発想としても理解するとね、
すごい繋がりがあるかなと思うんで、
ちょっとね、僕もそうやってちゃんと読んでないので、
次回のテーマはウィトゲンシュタイン
ここから台本作るために読まなきゃっていう感じなんですけど、
ちょっとね、次はそういうウィトゲンシュタインさんをテーマにやっていきたいなという風に思っている感じでございます。
なるほど。
確かにね、名前だけは知ってるシリーズみたいな感じで有名人だね。
そうしたらそういう人もやっぱりやると楽しいかなと思うんで。
次回ウィトゲンシュタインということでまた楽しんでいきたいと思います。
今回もありがとうございました。
ありがとうございました。