00:05
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、前回からバタイユという哲学者を見てきたんですけれども、前回は主にどういう人だったのかというところを見てきたんですけれども、今回からその思想の中身に入っていくというところでした。
そうですね、前回そのキーワードとして、普遍経済学というものと、当人とか精進みたいな言葉があるよというのをお伝えさせていただいたと思うんですけれども、
前回は全くそれが何かというのをお話しせずに、バタイユのことだけを話してしまったので、今回からですね、きちんとその雑音の中でも、その最初の普遍経済学って何なの?みたいな。
経済学ってよく言うと学問みたいな話ではあるんですけど、体系的なものよりはこういうふうな発想をしたら、普通とは違う経済のことは考えられるんじゃないかみたいな。結構そんな感じなんですよね。
学問として考えたな。
なんとなく思想的な感じじゃなくて。
思想もそうなんだけれども、やっぱりこういうふうな観点で物事を見ると、経済っていうのはこういうふうに捉えられるよねとか、捉え直せるよねみたいな。
結構見込んでちゃんとやってるんだね。
かなりちゃんとやってます。もちろんね、いわゆるマクロ経済とかみたいに、モデルがこうでとか数字がこうでとかっていうことではないんだけど、そことの関わり合いもあるし。
あとそのもう一個のキーワードの当人っていうものは、その普遍経済学の中というか、そこと密接に使われるような重要概念という感じなんですよね。
だから今回はその普遍経済学とはなんぞやみたいなこととか、それをなんで俳優が考えなきゃいけなかったのかみたいなことをお伝えして。
次回ね、その当人ってなんだったの?みたいな。
結構壮大な感じになるんだね。
それぞれの画像で1回分くらいになりそうなんですけど。
でもそのくらい丁寧に見ていったほうが面白さが伝わるかなと思うので。
ちょっとそんな感じでね、今回お伝えしていきたいなというふうに思っております。
はい、わかりました。
聞いてる方もね、経済学とかっていうとさ、どっちかっていうとさっき言ったような数学的な部分とかさ、
世の中の経済がどうとか、あとは個々の企業がどうやって収益を最大化しますかみたいな、ちょっとそれは経営学に近いかもしれないんだけれども、
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そういうイメージを持つかなと思うんですよね。
そうですね。
実はですね、馬太由が言うところの普遍経済学って、こういういわゆる僕らがイメージする経済学と全く違うんですよ。
そうなんだ。
全然違うものとして話をしていくので、
ちょっとそもそも馬太由が何を考えてとか、どういう立ち位置から出発して、そういった思想とかを発展させてたのみたいな、
そういうことをお伝えしていこうと思っておりますと。
わかりました。じゃああまり経済学っていう言葉に引っ張られないほうがいいんだね。
そうですね、はい。
わかりました。
対象は経済なんだけど、僕らが見てるものと全然違うよっていうところから始めていきたいですよと。
前回お伝えした通り、馬太由が若い頃から逆説的な哲学を練り上げるみたいな、
そういうこれまでやってきたことじゃない、歴史で積み上げられてきたことじゃないことを自分はやるんだみたいな、
それが自分の使命なんだっていうふうに感じてたよっていう話をしたと思うんですよね。
ここで逆説的って何?みたいな話なんですけど、
これまでの哲学は理性っていうものを重視していたものを、
これをひっくり返そうみたいな感じが含まれていますと。
なるほど、なるほど。
これまでの哲学って、過去のソイルデッドラジオでもお伝えしてきたと思うんですけれども、
基本的には事故とか理性というものがあって、
それがどんなふうに世界を正しく理解しますかとか、
あらゆる根源とか根本みたいなものにたどり着きますかということをやってきたんだけど、
これって結局は理性っていうものを使って、
自然とか世の中みたいなものを人間がある程度制御できるとか、
正しく扱えるようにしていきましょうね、みたいな考え方なんだよね。
だから西洋の哲学から出た科学っていうのも、
ある種理性的に世の中っていうのを切り分けていくと、
ものとか自然っていうのをある種予想通り扱えますとか、
こういうふうに熱を加えたら何度で溶けますとかっていうのはまさに自然科学だと思うんだけど、
それはもう理性でものを制御するみたいな話だと思うんですよね。
この前やった話からすると、必然っていうものをどんどん探していくような話だよね。
そうです、そうです。すべてを必然にしていきますみたいな感じで、
もちろんそこに神様とか、あとは関東でいうとこのもの自体みたいな、
06:04
要は人間の認識を超えているとか、人間の理性をある種超えているものもあるかもしれないけれども、
逆に言うとここからは扱えないけどここまでは扱えますみたいなものをちゃんと選択して定義して、
神とかもの自体とかはちょっとよくわかんないけど、
それ以外のものは人間にとってはちゃんと扱えますみたいな、
そういうふうに切り分けていることと一緒だよっていうふうに思うんだよね。
これがいわゆる王道の西洋哲学の流れでしたと。
なるほどね。そこは切り分けはしているけれどもって話。
そうそう、切り分けはしているけど。
そんな時代にあってというか、流れの中で馬太雄が何を考えたのかと言いますと、
そもそも彼自身は人として生けたらみんなそうと思うんだけどさ、
自分の中にいわゆる制御できない力、ざっくり言うと喜怒哀楽みたいな感情とかさ、
そういうふうに自分で自分を制御できないみたいな感覚って大体あるじゃないですか。
なるほど、あると思うね。
そこにちゃんと目を向けましょうよと。
要は理性で全部扱えるとかって前提にみんなしちゃってるけれども、
そもそも理性では扱えないものとか、
そもそもそういう制御できないものって世の中に人間として生きている間にはあるじゃないかというところから出発して、
これは馬太雄は過剰とか余剰、いわゆる多いということまで呼ぶんですよ。
人間が制御できない部分のことを。
そうです、そうです。
なのでこれまでの哲学はどっちかというと、理性であらゆるものを制御しようというふうな流れだったのに対して、
馬太雄はそもそも制御できない過剰なものがあって、
それって一体何なの?というようなことを問いに据えて物事を考えてくるんですよね。
そうなんだ。この後話すかもしれないけど、この余剰とか過剰というものには、いわゆる喜怒哀楽というものは入ってる?
感情的なものは入ってるかな。
例えば三大よってみたいなものは。
はいはいはい。
入ってる入ってる。入ってるというか、
前回ちょっとお伝えしたけど、まさにエロティシズムの歴史みたいな本を馬太雄が書いているという話をしたじゃないですか。
09:02
ある種、制欲もやっぱり、まさに過剰なものとして扱い得る領域なんだよね。
なるほど。じゃあ一緒か。三大よっていうのが物事的な感じするけど、
喜怒哀楽も感情ではあるけど、物事的なメカニズムみたいなのは同じだもんね。
同じ同じ。
だからそれこそ喜びを開放するという時に何かをパーティーをするとかっていうことも結局喜びの表現なわけじゃない?
例えばパーティーで普段は食べないような豪華な食事をしますって言った時に、
例えば生存とか、いわゆる栄養を取るということから考えたら、
その食事っていうのはそこまで豪華にする必要はないんだけど、
喜びを表現するために過剰な食事を取るみたいな話になってくるんだよね。
なんかわかる?
ちょっとまだこの馬太雄の過剰とか余剰っていう、
そこそこ過剰とか余剰っていう言葉にももうすでに、
うちらなりの常識が入り込んでて、
一旦そこで後にしようって今ちょっと集中してるから。
OKです。
その意味では、過剰っていう言葉は制御できないものっていう風なぐらいの意味で、
今は捉えてもらった方がいいかもね。
実際に例として挙げてるものは色々あるんだけれども、
例えば馬太雄が一番象徴的に言ってるのが太陽なんですよ。
いわゆるお日様ね、お日様。
太陽ってさ、物理的に言うと自分自身の水素原子っていうものを核融合させてるのかな。
それをヘリウムにして熱を出すみたいな仕組みの星というか、
ものだと思うんですけど。
そうなんですね。
そうなんです。
水素原子だと思うんですけど、
要は自分を破壊する。
要は自分の構成してる水素原子っていうものを破壊して、
光と熱を生み出していますよと。
そっかそっか。
いつかは燃料も尽きるよねって話だからね。
そうです、太陽も。
星ってそういうもので、かつそれを周りに与え続けていますよねと。
はいはいはい。
これも物理の話なんだけど、
いろいろ調べてみると、
地球が1秒間に太陽から受けるエネルギーっていうものを計算できて、
それがね、一応数字だけ言うんだけど、
175兆キロワットあるんだって。
これよくわかんないじゃないですか。
今、地球上で1年間に消費される電力、
12:02
これが30兆キロワットらしいんですよ。
ちょっと待ってね。
太陽が1秒だよね。
1秒で175兆なんだけど、
1秒ね。
地球上では1年間に30兆キロワット消費されてます。
1年間か。
1年間。
全体が消費されてる。
おかしいでしょ。
はいはいはい。
そうそうそう。
っていうぐらい太陽ってものすごいエネルギーを出してるんだって。
感謝しないとな。そんなすごいんだよ。
そうそうそう。
しかもこれ地球が受け取るっていうだけだから、
当然さ、太陽は四方八方にエネルギーを出してるわけで。
それはものすごいことですよ。
これはさすがに過剰なエネルギーって言ってもやかろうみたいな話なんだよね。
地球で我々からしたら過剰だけども。
我々からしたらね。
これ馬太陽自体が話してるの。太陽は過剰ですよ。
太陽は過剰ですぜというよりは、ちょっと面白いんだけど、
29歳の武太陽さんが太陽肛門っていう本を書いてるのね。
肛門っていうよりお尻の穴のことね。
太陽は?
太陽はおひさもん太陽と、肛門はお尻の穴っていう本があって、
よくわかんないでしょこれ。
これすごい薄い本なので、もし気になった方はぜひ読んでみてほしいんですけど、
読んでも絶対わかんないし、僕もよくわかってないまま話すんですけど、
この熱を過剰に放出する太陽っていうものと、
あと食物、食べたものを体の中で壊して余分なものを出すっていう、
のが肛門っていう働きじゃないですか。
つまり、何か自分の中にあるものを壊して、
余分なものを排出するとか、外に出すっていうものとして、
太陽と肛門っていうのは近いみたいな、そういう発想があるのね。
まあそれはね、こんな話聞いた後だったらわかるってわかるけど、
だいぶ遠いところから引っ張ってみたり。
だいぶ遠いでしょ。
っていう風に、要は太陽っていうのはさ、
そもそも太陽神って言われるみたいに、
いろんな宗教とかの神様とか、崇高のものとして扱われてるわけだよね。
肛門というかお尻の穴なんて基本的には汚いものとかさ、
お食事中失礼します、みたいな感じの言葉だと思うんだけど、
それを結びつけて思想に転換させていくみたいな、
それ自身がバタイルの文学的なというか、
15:01
感覚的な面白さになってるよねって話があるんだよね。
まあそうか、キャッチーだもんね、確かに。
太陽肛門がベストスライダーになってますとか言われたら、
読みたくなったもんね。
ちょっと読んでみたいじゃん。
全然どういうことどういうことみたい。
この辺りの文学的な面白さっていうのは、
次の次、次で当人の話をやって、
思想の話を言って落ち着くので、
その次の回でまたそういうバタイルの文学的な面白さとか、
発想の面白さとかを取り扱いたいなとは思ってるんですけど、
ちょっと今哲学側の話に戻すと、
そういう風に太陽は過剰であるみたいな風には言ってないんだけど、
過剰なもののモチーフとして太陽を扱ったような、
こういう作品とか論文みたいなものがいろいろあるので、
そういう風に太陽っていうものをモチーフにするっていう、
なんだろうな、手分かりがバタイルにはあるっていう感じなんですよね。
直接的には言ってなくても、穴が詰まっちがいじゃないんだね、
太陽というものを象徴としているのはね。
そういうのは間違いないし、そこから経済に行くには遠いんだけれども、
いわゆる生物学的な話っていうのは結構バタイルもしてるんですよ。
まずはね。
前回も言った通り、本当にいろんなことに話を展開してる人なので、
生物から社会から歴史からいろいろやってるんだけれども、
例えばね、今お伝えしてきた通り、
まず太陽っていうのは過剰なエネルギーを放出しますと。
そこから出発すると、いわゆる太陽の熱っていうものが地球の環境に影響を及ぼして、
さっき兄貴も感謝しなきゃって言ったけど、植物がいわゆる光合成をするとかさ、
それを食べて動物が当然エネルギーを得るとかもそうだし、
人間もね、お日様の光に浴びないとビタミンDとかが出ないよみたいな話があると思うんですけど、
そんなふうに、やっぱり太陽のエネルギーっていうものが元になって、
地球上の生命っていうものが活動してるわけですよね。
だからこそ生まれ変わった話なんだね。
なので、逆に言うと当然ね、太陽がなきゃ地球上の生命っていうのは生きていけないし、
そういうふうに考えると、地球上の生命の、いわゆる生きてるっていうことの根底には太陽エネルギーがありますよね。
さっき言った通り、太陽のエネルギーっていうのは過剰さだったじゃないですか。
過剰なものが報酬されるので、
ここからは面白いというか、バタエルの過激な発想なんだけど、
18:04
ってことは、生命の根底に太陽エネルギーがあるということは、
生命の根底に過剰さがあるということだから、
過剰さというものが生命の本質だっていうふうに言うのね。
いきなり飛んだな、だいぶ飛んだね。
ちょっとロジカル的には苦しいよね。
でもね、ちょっとわかる気もするね。
勢いで言えば、多分もうちょっと僕が勢いで言ったら、おーってなったかもしれないけど、
ここはあえて慎重に言いました。
そうだね。
ほら、こうやって言うと、ちょっと飛んでるからね。
そうね、だいぶ飛んでるとは思う。
ここのロジックの政治さというよりは、
こういうふうに考えたら、果たして僕ら生きてるってことをどんなふうに捉えるかね、
っていうようなことが面白いんだよね。
そうだね。
さっきの過剰と太陽の話からここまで来て、
肛門の話からここまで来て、
ちょっと納得しかけてるもんね。
飛んでるのはわかるけど、
見つけたくなるのは、
そう、そう、そう。
そうかとちょっと言いたくて、
見つけちゃうもんね、すでに。
ちょっとさ、いい絵が見えそうみたいなさ、
いいパズルができそうみたいな感覚あるじゃない?
どういうことを考えるかっていうと、
もちろん植物とかはさ、
太陽のエネルギーを受け取って、
枝とか伸ばして葉っぱを増やしますよと。
動物もさ、子供を産んでは増えていくし、
人間もさ、いわゆる生死と乱死っていうところから始まって、
それが次世代になったらさ、
細胞の分裂をしていって、
1個とかだったね、細胞が、
人間の体で言うと、
60兆くらいのとほもない数の、
要は細胞が集まって、
人間っていう生物をある種、
生かせているというか、
発動させるわけですよね。
もちろんこれはちょっと、
事例をつまみ食いしてからなんだけれども、
いわゆる植物が、
枝を伸ばして葉っぱを増やすとか、
子供が増えるとか、
細胞が分裂していくので、
どんどん過剰さが実現することだよね、
っていうふうに場体は見るんだよね。
ちょっと意外なとこに飛んだな。
そこだったね。
その子孫残すみたいな、
何で過剰って表現するのか。
そう、過剰。
すごいな。
世の中は過剰でできていると、
言わんばかりの。
だって太陽は過剰なエネルギーを、
出しているんだから、
過剰さから生まれた我々も、
21:01
過剰なものであるっていうふうな、
発想なんだよね。
あらゆるものが、そっか。
過剰ですちげるきっていう、
話が始まってるんだね、まさに。
そうです、そうです。
全部過剰だと。
進化論を考えたときにさ、
仮に人間っていうのが一番、
進化している生き物だと。
ちょっとここもいろんな論と、
あるとは思うんだけど、
生物学的には人間が一番、
進化の先にいるとしたならば、
人間っていうのは、
もっとも過剰さっていうものが、
凝縮されているというか、
過剰さを体現している存在だ、
っていうふうに言えるんじゃないかと。
ほうほうほう。
だとしたら、人間には、
過剰さを実現する義務がある、
っていうふうに、
太陽は考えるんだよね。
うーん、なるほど。
ここもちょっとね、
ロジカルでは苦しいというか、
あれなんだけども、
いわゆる過剰さっていうものを、
もとに世界を捉えたときに、
人間っていうものは、
過剰さの果てにできた、
しかも一番、
完成されているというかね、
一番進化している存在なのだから、
この過剰さというものを、
ある種実現しなければならない、
そういう義務を負っているんだ、
っていうふうに考えるのも、
まあ、
わからなくもないというか、
そう考えても面白いねってぐらいは、
あるかなと思うんだよね。
そうだね、これが的確かと言われると、
ちょっと、
ハテナはつくけれども、
まあね、
意味がある人は、
ちゃんとそれを使いましょうと、
そうです、そうです。
ちょっとね、
これは僕の言い方もあると思うんだけども、
ここまで最初に言っていた、
要は、
我々の西洋哲学って、
どうしかって言うと、
理性とかね、
事故っていうものから、
物事とか自然を制御しますっていう、
ある種、
抑えつけるというか、
そういう感じでやってきたんだけれども、
そうじゃなくって、
太陽みたいに、
過剰さっていうものを、
ほとばしらせて、
自分を破壊することで、
輝かすみたいな、
そういうことが人間にとっては、
実は大事なんだぞみたいな、
そういうイメージが、
こういう過剰さとか、
太陽っていうものから出てくるんだよね。
だいぶ、
場体の価値観というか、
だいぶ熱いね。
熱い感じなんですよ。
ここまではイメージというか、
それこそ小説の世界だと思うんだよね。
それをすごく、
学校とかでさ、
講演っていうの?
講演会とかに来てさ、
答えられたら、
あ、俺も過剰さ、
ほとばしらせないと思っちゃうぐらいの、
暑さを持ってるんだなっていうのは分かるな。
24:00
確かにね。
道徳教育みたいな話になっちゃうと思うんですけど、
自己啓発的な部分の話ができるかな?
ここからが面白いのが、
要はイメージじゃなくて、
ちゃんとね、
現実の社会に適応したときに、
経済っていうものに、
ある種で適応できるよねとか、
そこがフィットするよねっていうのが、
馬太陽の、
独創的な感覚なんだよね。
またちょっと飛んだね。
なんでかっていうと、
馬太陽に言わせるとさ、
いわゆる僕らが考えるような経済、
要は、
投資をして新しいものを生み出してとか、
お金っていうものがあって、
それをものに転換して、
サービスに転換をして、
売り替えをするみたいなもの。
要は、制御するっていうような価値観の中で、
行われている経済学なんだよね。
拡大再生産していこうと。
まさにまさに。
もっと言うと、
いわゆる、
1億円投資をしたら、
少なくとも1億5000万とか2億とか、
要は、元よりも
高い利益を生み出しますよねと。
それが、たとえば上場企業とかだと、
高すぎてもダメ、
低すぎてもダメみたいな。
ちゃんと予測を立てて、
それにマッチするような、
いわゆる経済活動というか、
事業活動を行う会社が、
良しとされるみたいなところって、
あるじゃないですか。
っていうふうに、
要は経済っていうものも、
ある種ちゃんと制御するとか、
いい感じにやるっていうことが、
大事っていうふうになるんだけど、
大優から言わせると、
それは経済の全体の一部でしかないんだよね。
一部、そう。
つまり経済学っていうのは、
広い考え方があるんだけれども、
我々はそういう、
制御するっていうことに
基づいた経済しか知らなくって、
だからそれを彼は、
我々は限定経済学、
要は一部の限定されているものですよ、
っていうふうに呼ぶんだよね。
なるほどね。
そう。
自分自身が考えているのは、
もっと広いから、
それを普遍経済学とか、
一般経済学とか、
っていうふうに呼びますと。
なるほど。
大黒式だね。
自分こそが一般だと、
普遍だと言っちゃうから。
自分も限定の一つとかは言わないんだ。
言わないです。
別の限定じゃなくて、
普遍だと。
これが普遍経済学っていう話なんだけど。
これは哲学っぽいね、
そうなってくると。
じゃあ何が足りてなかったのとか、
じゃあ普遍経済学って何が違うの?
っていうのが、
まさにさっきお伝えした過剰さ
って話なんだよね。
要はさっき
27:00
パーティーの話もしたけれども、
実際に彼が挙げているのが、
いわゆる観光総裁的な
イベントというか、
祭事だよね。
あとは他にも
戦争とかも挙げているし、
あと、
最近ニュースに載ってた
サグラダファミリアの話知ってる?
わからない。
サグラダファミリアってさ、
要はずっと完成しない
っていう建造物があって、
あれがついに
2026年に完成しますみたい
ニュースが最近やったと思うんですけど、
あれって調べてみたら、
1882年から
作られ続けてるんだって。
今からしたら142年前か。
だから
作られ続けてますよと。
もちろんずっと
延々続けてっていうよりは、
いろいろ訴訟問題とか、
お金足りないとか、いろいろあってのことらしいんだけど。
このサグラダファミリアの
話とかしたんですけど、
これって結局、
それを作るとか、
いわゆる観光総裁、結婚式である
お葬式である、そういうのをやるために
使ったエネルギーと、
そこからアウトプットされるものが
基本的に釣り合わないんだ
っていうふうなことを考えますと。
要は、
普通の経済学で言えば、
さっきも言った通り、当然
インプットしたエネルギーとかお金
っていうものよりも、
多くのアウトプットを生み出すことが
期待されるわけですよね。
それが分かりやすく言うと、
プロ字っていう話なんだけど、
要はさ、さっきの
サグラダファミリアの話を考えると、
ちょっとあれが、何が目的で
作られたのかよく分からないんだけれども、
少なくとも
144年
かけて
作るほどの、
いわゆる合理的な価値って
基本的にはないはずなんですよね。
もちろんね、例えば
スペインの観光になっていると思うから、
当然観光的な収益が
とかさ、
向こうそれこそ
140年以上の
リターンを
振り戻らせてくれるかもしれない
っていうのはあるかもしれないんだけれども、
それはあくまでも結果であって、
別にそのぐらいの
リターンを見越して140年かけて
作っている建物ではないはずなんですよね。
結果論から言うと、
アウトプットは大きいかもしれない
というか、
確かに目的としては
よし、
百何十年かけて
観光資源にしていくぞっていう
スタートではないはずだと。
ないはず、ないはず。
だし、少なくとも
建物の基本的な価値って
要は人が
集まるとかさ、住むとかさ、
何かをそこで行うってことを
考えたときに、
30:00
そしたら別にもっと楽な
作り方あるでしょうって思うじゃない。
まあ、絶対もっと合理的な
というか、
いわゆるバダイノとかの
限定経済学、今の国の
限定経済学の中では
絶対非効率的だよね。
そう思います。
面白いね、確かに
百何十年、200年近く
やっているとすると、
当初は違う目的で作られたものが
途中からそういう限定経済学の
枠組みに取り込まれちゃったよ
みたいな話でもあるからね。
そうだね、そう思う。
だからさっき
サグラノファミリアが何のために、
何が目的で、ということが
わからないって言ったんだけれども、
そもそもこの過剰さとか
普遍経済学
というところにおいては、
要はその、いわゆる目的がない
というか、それをやること自体が
目的であるみたいなことを
考えるんだよね。
例えばお葬式とかもさ、
もちろん亡くなった人の
弔いのためとか、
そういうことを
気持ちとして表現して、
生きている人たちを
慰めるためとかっていう風なことが
もちろん
あり得るんだけれども、
それも実は
サグラノファミリアと同じで、
結果であって目的ではない
というか。
だってお葬式がさ、
じゃあなんであの形式でやってるかってさ、
目的から
考えたら別に必然性ってないじゃない?
死者の死を
痛むというときに、
僕らがその方式しか知らないとか、
その方式が正しいと思うから
やってるだけであって。
確かにな。
家で暮らしにいてもいいのか、別に。
そうそう。別にね。
もちろん法律的に
例えば、お葬にしなければ
とか、こういう風に埋葬しなければ
とかはあるけれども、
別にそれを
すると本当に
僕らの心が満たされるのかっていうのは
実はその前提って
ないんだよね。
おー面白い。確かに。
形式の方で
理解してるかもしれない。
そうそうそう。
なので、あれは実はそういう風な
儀式とか、
そういう風にお坊さんを呼んで
お経を上げていただくっていうのは、
別にそれによって
何かが起きるというよりは、
それ自体が
何だろうな、僕らにとって
それをすることで
死者と自分が
ある種、何だろうな、
尊敬を持てると信じているとか、
そういう風な世界の中で
生きているっていうことでしかないんだよね。
そうだね。そういう価値観の中で
たまたま育ったようにしないと
そうそうそう。
もともとをたどると、自分がそこにたどり着いて
死者を傷むと
何か、
どう作っていくかって
33:00
自分で考えて編み出した方法じゃないもんね。
ではない。
ただそれが今はかなり
まさに
場谷におるところの限定経済学に
取り込まれちゃって
お坊さん2人呼んだら
いくらですとか
こういう風に
何人呼ぶんだったらいくらですとか
なるからかなり経済学チック
なんだけど
なるほど。
あるいは20、30で
取り込まれちゃってるわけなんだ。
あるいはお金高くないとしても
そう主張することで
心が癒されるってのもすでに何かに
取り込まれてるし
それにお金が絡まってることもすでに
経済に取り込まれてるし
みたいな。
まさにそういうことです。
もうちょっとさ
昔のこととか
僕らの地元の
いわゆるキリキリって
地域あるじゃないですか
父親の実家の
父親の実家の
葬儀の時とかあったと思うけど
まさに町中の人たちが集まって
もう
お寺の
ところでぐるぐる回るみたいなこと
1回兄貴よく
あると思うんだけど
あれもいわゆる合理的に
というか経済的に考えたら
別にそんなことはする必要はない
ですよと
要は
なんだろうな
もっと言うともっと昔言えば
いわゆる誰かが亡くなったとか
あるいは誕生した、生まれたっていう時にはさ
みんなでパーティーだとか
って言ってそれより
合成な振る舞いものをするとか
そういうことをやってたと思うんだけれども
いわゆるそれって
本当は目的がない
というか
行為をすること自体が目的になっているはず
なんだよね
そうなんだ
要は
ごめんね
今バラバラ言ってたと思うんだけど
もう1回また入れの絵ってことに戻ると
つまり
さっき言った通り
限定経済学では再生産とか
拡大っていうものを目指すんだけれども
そういう風な
目的を持たないものが
この普遍経済学で扱われる
過剰な逃避行動なんだよね
はいはいはいはい
やっぱり
何かお葬式をすることで新しいものを
生み出そうとしているわけではないじゃないですか
ああ
なるほど
そこはちょっと分かってなかったわ
確かに
お葬式だとかお祭りごとでさ
地球人が集まると絶対これ理由あるでしょ
目的あるでしょって思ったんだけど
今回の話の中で言うと
いわゆる
また言うとこの限定経済学
今の
拡大再生産的な
経済
反転化すると
それでみんなが集まることで
何かが拡大再生産される
そう
終わった時に
36:00
食べ物増えてるとか
人が増えてるみたいな
そういうことはないでしょ
そうですそうです
せいぜい
混沌でしょうね
そうせいぜい混沌
分かりました分かりました
そうだね
そういう意味で言うとお祭りとかも
集まって
地域の住民が
豊かになるから仲良くなるってことは
あるかもしれないけれども
それは結局集まるってこと自体が
目的の活動なんだよね
なるほどなるほど
そうだね
何なら確かに葬式もお祭りも
いつもは食べない豪華な
お肉とかが消費したってことは
減ってるはずなんだもん
減ってるはずそう
そういうことなんです
これをバタイオは非生産的
消費っていう風に呼んでいて
これを
通常の経済学における
生産的消費っていうような
ものと区別するんだよね
同じ消費でもまさに
いいお肉を食べるっていうのは
非生産的なもの要はちょっと
食べるみたいな話で
生産的っていうのは
いわゆる
栄養上必要な十分なものだけ
食べるみたいなものはかなり
生産的消費に近い
そんな感じのイメージなんだけど
さっきのお祭りとかお葬式っていうのは
ただただ集まるだけじゃなくて
そこで
大晩振る舞いがされるとか
お祭りでしかできない
写的とか
くじ引きとか
そういう風なものが演出としてあるとか
本来だったら別に500円出して
500円のものを買った方が経済的なんだけど
500円出して
くじを引いてわざわざよくわからない
ものを買うみたいな
そこに楽しさを覚えるっていうのは
やっぱり僕ら人間の行動としてあるし
それっていうのは
本来的な合理性からすると
生産的消費だよね
っていうような感じなんだよね
逆に言うと
今はそこもかなり経済化されてるから
どんどん過剰さが減っているし
コロナ以降どうしても
大晩振る舞いだと思うと
だいぶ減ってるとは思うから
結婚式とかも
どんどんやらないご家庭とか
ご家族も増えてるだろうし
でも本当は過剰であるとか
経済的合理性を
超えてるってことに
本当は意味があるんだよ
っていうのが結構この馬太裕的な
考え方の大事なとこなんだよね
ここまでの話はね
少しいろいろバラバラ話しちゃったので
整理すると
僕らが普段経済学と呼んでいる
39:00
限定経済学
馬太裕のところの限定経済学
っていうのは
基本的には
生産とか新しい富を
生み出す
これを目的とした
消費とか投資
っていうものしか想像されませんよと
消費っていうのが行われると
必ずどこかで生産っていうのは
セットで生まれてるはずなんだよね
一方で普遍経済学
馬太裕が言うところの過剰さの
経済学っていうのは
人間っていうのは過剰なエネルギーを
持ってる要は太陽のエネルギー
っていうのをもらって
人間っていうのは根底にも過剰さが
あるから
実現する義務がありますよと
つまり消費っていうものに
重点が置かれて
生産っていうものがむしろ低くなる
というか
生産のために消費をするんじゃなくて
消費のために消費をする
そういう活動
っていうものが大事なんだよ
っていう話なんだよね
なるほど
どうだろう
ここでワーとはちょっとなんなくて
馬太裕が言うとこの
普遍経済学
馬太裕はこれだけ
だから限定経済学を批判
してるわけではなくて
この世の中の
いわゆる経済活動だったり
人間だったりの
活動を
説明するのに
限定経済学だけだと
足りないよと
経済学の視点も盛り込んだ方がいいよ
っていうスタンスなのか
人も限定経済学を
やめろと
あらゆるような
変経済学的に
動かすべしって言ってるのか
どっちなのか
ただ現象を説明している
馬太裕はどっちなんだろう
前者だね
普遍経済学の中に
生産に
結びつく消費と
生産に結びつかない
消費っていうのがあるよと
この生産に結びつく
っていうのがみんながやってる
限定経済学だから
一部でしかないよっていう話だね
じゃあそれやめろって言ってるわけじゃないんだ
やめろって言ってるわけではない
全然
なるほど
やめろっていうのは明らかに
おかしいというか
自然の中で
人間が物を生み出すってことも
もちろんあるから
それだけだと大事な物が
欠けちゃうよね
それだけで人間のことって
本当に人間とか
生き物のことって
説明できないよねっていう話だね
なるほどちょっと見入れていただきます
だからバタインが
言ってるのは
限定経済学的な
まず生産ありきだね
42:00
生産防止生産
ありきで
それを消費させる
消費することでどんどん拡大していく
っていうのは
今日ハヤトが言ってくれた
例えば
お葬式とかを
払ってありがたがある
それで愛をされたわー
って思ってるのと
じゃあ同じことで
そういった価値観を
ただ享受してるというか
ちょっとあんたたちも取り込まれちゃってるよと
人間っていうのは本来そういう
もんじゃなくて
葬式だったりとかさっきの
お祭りにしてももともと当初
その国内再生産的な
お祭りって
なんかやるっていうとこじゃない
別の
なんか目的があったでしょと
それを
そういったものが
お金に全部取り込まれちゃって
お金を払うことで楽しいと
思わされてるかもしれないんだけど
あんたら元々違ったでしょと
祭りしたくてしてたんでしょと
そうそうそうそう
ある意味その
普通の経済的なところに取り込まれて
例えばおいしいもの
スーパーでおいしいものを買って食べるというか
豪華なレストランに行く
みたいなものも
実はその派生で
もっと
人間が本来持っている
大量の過剰から生まれた
生命が持ってるだろう
過剰的なエネルギーってものを
それは消費であると
だからそういった
えっとなんだろうな
お敷世の
誰かが生産してくれたものを
消費するっていう
お敷世のものじゃなくて
もっと根本的な
消費っていう欲求を
お前らちゃんと本能的に
満たせようと
みたいなのがあったら
はいはいはい
本能的に満たすのは
良いみたいな話
ではないんだけれども
そこまでは言わないんだけど
でも
普通に読むと確かに
そっちを進めているというか
その方が良くねっていう風に
読めるかなとは思いますと
あくまでもまた言えば
思想家として
そもそも西洋地策っていうのは
理性による制御っていうところに
始まっているものを
過剰さとか理性で扱えないものがある
っていう風に考えたら
こんなにいろんなことが考えられるね
というところから出発しているから
そこに対して
ああせよこうせよっていうのは
そんなにないんだよね
自分で読んでいる限りではね
私生活とかでは分からないけど
なるほど
例えば喜怒哀楽の
コントロールみたいな
そういう話はしてるのかな
コントロールとかまではしてないんだけど
さっきのさ
それこそ性欲みたいな話があったじゃない
だから例えば性欲っていうのは
いわゆる
要は
45:00
異常な性行動
とかってのがありますと
例えばさ
ネットの記事とかであるけれども
なんかこう
何だ
木に対して欲情しますとかさ
車に対して欲情します
みたいな人がいたときに
それってちょっと
普通っていうか
一般的な感覚からすると
ずれてると思っちゃう
と思うんだよね
それは何でかっていうと
結局
いわゆる
性欲っていうのは例えば人間に対して
抱くものですとか
子供とか子孫を残す
っていうために人間育ってるものです
とかあるんだけど
それはあくまでも
生産を目的とした性欲になっちゃうんだ
やっぱり
自動車っていうのもあるじゃないかと
そういう
欲求の持ち方っていうのも
人間には全然あるし
それを
満たすっていうことも
過剰な人間の
あり方としてはありだよねみたいな
そういう風な感覚はあって
だから文学の方では
場体は結構いわゆる
グロとかエロとかなんだろうな
そういう方にやっぱり
親和性が高いんだよね
そうなんだ
なるほど
さっき太陽光もみたいな話があったけども
自分の中の何かを消化して
外にあると
それが今言った
性欲だった場合に
過剰な物として出てきたものの
考察っていうものは
結構
場体に関しては
だいぶ緩いんだね
緩い
制限も受けてないんだ場体は
だから全然
だからね
そこから社会の話だと
ちょっとこの後また話すんだけれども
その上でどういう社会がいいかって
話はちょっとまた別としてあるんだけど
なるほど
あるんだけれども
例えばさ
これはちょっと今僕が思ったこととして
いわゆる
快楽殺人者みたいな人がいますと
人を殺すことでしか
喜びを得られませんとなった時に
道徳的にどうか
とかを置いといて
その人の過剰さが
人を殺すということで
現れるということ自体には
別にいいも悪いもないんだよね
一旦価値観抜きにして
そっかそっか
過剰っていうものをどう表現するか
逆だな
この世の中に現れている
そういったものを
経済学的な観点から
表現するのは無理があって
場体の
経済学
経済学という話で
社会的な話は聞いていないから
そこでだけで表現すると
48:00
世の中に現れている
例えばそういった
これ経済じゃないけど
快楽殺人みたいなものを
説明の内容として
よくわかんない怖いじゃなくて
人間の過剰なものが
現れた結果としての
一つみたいな
表現される
良いも悪いも言ったら置いといて
そこはちょっと別の話でね
そう
このソース実はめちゃめちゃ大事で
なぜかっていうと
これを限定経済学的に捉えると
要は
それはもう狂った人であって
理性のない人間であるから
精神病院閉じ込めてしまう
ってなるんだよね
そうすると
そうすると
今度は
精神病院に払っている
国の医療費が
経済の話にまた戻ってくるんですよ
その人を生かすか殺すか
そういう結構過激な話になっちゃって
なので結局人間一人の命も
経済に回収されちゃうんだけど
バタンギの言うような感覚で言うと
そもそもそういう人間というのはいるし
それは過剰さの
発露の一つであると
じゃあそこに対して
どう扱うかっていうことが
全然限定経済学とは違う
発想ができるはずなんだよね
っていうふうな意味で
ちょっと今
パイラックス宣言書みたいな
極端な例を出したかあれなんだけど
いわゆる
普遍経済学はこうだ
というよりは
今日の時点ではそういうふうな考え方をしたときに
さっきのお葬式とかも
そうなんだけど
僕らが当たり前だと思っているとか
何の疑いもなくやっていることっていうのは
結構違うかもね
みたいな
そういう感覚までは
持っていただけるんじゃないかと思うんですよね
いやーそうだね
なんか
お葬式も今はサービス業な感じだけれども
やっぱ根本からいくと
違うよねっていうの
松井とかも
地域の祭りとか
地域の観光祭とかは
再生産ともらわないけれども
今日のサグラダファミリアの例みたいに
例えばネブタ祭りとか
ああいうのも
完全に経済に取り込まれた観光資源として
収益を生んでいるわけで
ただ元々どうだったの
みたいなところまでいくと
いいね
そこをフラットに見る感覚って
ないかも
全くなかったかも
だから
全部お金で換算したくなっちゃう
そう
やっぱり経済効果が
これ何万人来ていくら落としたみたいな
話になっちゃうじゃん
ただ一方で
例えば地域活動だったり
お祭りだったり
お金だけでは換算できない
51:01
ソーシャルインパクト的な
話も出てくるわけで
こういったものとの繋がりみたいな
そこも確かに
めちゃくちゃもどかしい部分
あると思うから
お金では換算できないけどめちゃくちゃインパクトあるのに
みたいな
あるから
そういうのとまた親和性が高かったりすると
面白いかなとは個人的には
そうなんだね
それはまさに限定経済学では
扱えないものを無限経済学で
扱おうという話になるし
またちょっとこれも
少しダークな例でもあるんだけど
岸和田って
大阪の岸和田に断じり祭りってあるの
知ってる?
テレビとかで見たことある
そうそう
あれって岸和田出身の人とかに聞いたんだけど
結構ね
一人ぐらい亡くなってるらしいんだよね
お祭りで
でも続けるのよ
あれって普通に考えたらさ
要は合理的に考えたら
福しかないというか
死ぬなんてみたいな
発想になるじゃない
このコンプラの世の中で
やっぱり現地の人からしたら
それが当然というか
そういうことが起きるし別にそれで良い
みたいな感じらしくて
その感覚は
同じ日本人の同じ
関西に住んでる僕から
僕は東北の人間だけど
生まれはね
やっぱり現代に起きる人間ですら
結構絶望的に違うなって思ったのね
人が死ぬお祭りが
当たり前に行われてるんだよ
やばくない?
冷静に考えたら
だいぶ確率がある
事故が多い
それで良しって
結構
合理的とか
なんだろうな
普通に理性で考えたら
やっぱり人が死のないようにやろう
ってなっちゃうんだけど
それで良し
するのはまさに普遍経済学的かというか
場体的な価値観だなって
僕は思うわけなんだよね
それが世の中に
いっぱいあるだろうな
だってハヤト
高校でさ
ハヤトの時って棒倒しあった?
あったよ
今はあるか知らないけどさ
とか牙栓とかも
あったけどさ
絶対怪我人になった
絶対怪我人に出るやつね
確かに一緒だね
今PPAからさ
大ブーイングなんじゃないの
子供の毎年
骨折者出るような
運動会って
あるの?
絶対休憩車来てたもんね
毎年ね
一緒ですわ
全然僕も一緒でしたわ
そういうもんだと思ってたもん
何なら
やらなきゃやられるみたいな
54:01
熱くなってたでしょ
飛び蹴りとか
僕は支える側あったけど
飛び蹴りとかしてたもんね
確かに
あると思うよ
ありますね
伝統的なとか
野蛮って言われがちなもの
他に
この辺りは潜んでるね
伝統だね
そういう犠牲があったとしても
勝つことの勝者の方に
光が輝いて
広がることの方が大事
確かに
すいません気象の皆さん
全然僕も一緒でしたわ
難しそうだね
特定のコミュニティ
共同体の中で
これこそはかっこいい
これこそは絶対だ
伝統的な価値観だったり
伝統的な価値観だったり
強力な
共通認識の価値観があると
やっぱ難しいよね
自分もそれに
憧れちゃう部分もあるし
そうなんだよね
じゃあそれが煮えだしたらどうなるかって
骨折するよりもたぶん
ひどい周知が今後待ってるからね
間違いないね
そうね
後は3年間
学校に居場所がなくなるとかって
確かにあり得ないもんな
そこの活躍が
ヘラルティに決まっちゃったり
学校のスクールカーストとか
うんうん
あるある
まさにそこに繋がるんだけど
社会の話をしたと思うんだけど
今まさに学校とかさ
地域の話をしたと思うんだけど
この非生産的な
消費で
実はその共同体とか
社会っていうものと密接に繋がってるんですよ
っていう話が
また言うよりは必然的に出てくるって言ってるんですよ
へーそうなんだ
これってなぜかっていうと
例えばさ仮に
僕が一人で
過剰性を実現する
例えばさストレス発散しようと思って
海ですけぶんみたいなことを
おっしゃとしても別に世の中に
何かが起きるわけじゃないじゃないですか
うんうんうん
つまりこれはまさに発散であって
消費ではないよと
おーへーそうなんだ
で
複数人の過剰さみたいなものが
合わさって
凝縮してそれが一気に
放出することで初めて
世の中で過剰さが消費される
ってことが起きるんですと
へーはいはい
さっき言った運動会の
騎馬戦しかりお祭りしかり
あるお葬式とか結婚式
でもいいんだけど
それって個人的なことなんだけど
やっぱり人を呼んでやるとか
お葬式と一緒にやるからこそ
そういう風な消費
というよりはその生産に結びつかない
消費が行われてくるし
その儀式を行うことで
いわゆるこの
体感とか共同体的な
絆とかあるいは
57:01
内と外みたいな感覚っていうのが
出てきますと
わー面白いね
そうかその発散っていう概念と
消費が違うんだっていうのが出てきたことで
なんか一気にこう
深みが増すね
そうなんですよ
そう
だからやっぱり
それを一人じゃなくて複数人でやることが
めちゃめちゃ大事で
かつ日頃はさやっぱり
つつましくさなんかで
あるもので生きてとかさ別にね
贅沢せずに暮らしてるっていう人が
たまたま
儀式の時には
やっぱりもう大晩振る舞いを
するとか
パーティーの時には
高いものを食べるみたいなことをした時に
今日は特別な日なんだっていうことで
絆ができるとか
やっぱりそのある種
死をも恐れないことをやってる我々
っていうのは我々として
この地域に生きる
者たちなんだっていうふうな結束が
強まるみたいな
強まるね そういうことに繋がる
っていうのがこの
普遍経済学から出てくる
社会学的な視点なんだよね
次回話すことなくなんない?
大丈夫?
いっぱいあるのよそれが
全然あるのよ
なるほど
この後輩だって
だいぶ
経済の話が
この社会的な
方への振りみたいな感じが
だいぶ厚くなってきて
繋がってるのは
全部その過剰さ
っていうところから始まって
栄養とか生命とか
そこを生物学から経済になって
社会になるっていう
そこが全部繋がってるっていうのが
我々のめちゃめちゃ面白いところなんだよね
楽しみになってるから
より
なるほどね
そうなんです
なので今回で
その普遍経済学って
そもそも何なの?みたいなこととか
どういうことを言おうとしろって話は
なんとなく伝わったかなと思うんですけれども
次回その当人の話をするんですけど
それがまさに今言った
生産に繋がらない
消費とか
目的のない消費
消費のための非生産的な
消費のことを
ある種当人という言葉で表してる
っていう感じなんだよね
なるほど
やっと心得たね
さっき今回のまとめみたいな感じで
場体が
消費のための消費が大事
あったでしょみたいな雰囲気が
全然わかんなかったんだけど
なんとなく見えてきたかな
なるほどね
すみませんね
やっと一回やってなんとなく
見えてきたっていう感じで
本当に申し訳ないんですけれども
ちょっと懐かしい感覚
ちょっとこのぐらいつかるんですよやっぱり
多分
なので今回は
限定経済学じゃないや
1:00:01
普遍経済学とは何か
っていう話を大枠して
次にその
キー概念である
消費のための消費としての当人
ということを説明しますと
これでだいぶ
場体が言おうとしていることとか
場体が結局何がすごいのか
ってことが伝わってくるんじゃないかなと思うので
ちょっとですね
また次回も楽しみにして
一緒に聞いていただけるとめちゃめちゃ嬉しいなと思ってる
という風な感じですね
はいでは熱くなってきたところで
次回も楽しんでいきたいと思いますので
引き続きよろしくお願いします
お願いします
今回もありがとうございました