はい、それ哲ラジオ。今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回はハンナ・アーレント第4回ということでやっていきたいと思います。
はい、前回ですね、そのハンナ・アーレントさんのいろんな言葉が出てきたと思うんですけれども、
1個一番大事なのが何かって、もし挙げるとしたら、人間の複数性みたいな話をしたと思うんですよね。
なんだっけ、あらわれの何たらみたいなやつだっけ?
そうそう、あらわれの空間みたいな話をしたと思うんですけど、
要は人間って同じだけど違うとか、そういう共通点もあるんだけど、一人一人異なっている。
そこに私たちが生きている尊さとか、一人一人の人間の素晴らしさというものがありますねと。
でもある種全体主義、前々回とかだったら全体主義っていうのは、ある種全員を数にしてしまうとか、個性とか異なりっていうものをなくしてしまう。
しかもそれを上から押し付けるだけじゃなくて、内面からその人の思想とか心情とか、
これが当然だよっていうものを支配することで、全員同じものにしてしまうみたいな、恐ろしい話をしたと思うんですよ。
いやーそうだね、だいぶ後半楽しみだねみたいな感じになったよ。
そうそうそう。
というところでね、やっぱりそういったものを大事にしていきましょうなんだけれども、これはよくある話で、
大事にしましょうということは、今大事にされてませんねっていうことの裏返しじゃないですか。
そうだね。
例えば人に優しくしなきゃいけませんっていうことは、きっと言われてる人は優しくないはずなんですよ。
だから言われてるんだって話だね。
そうそうそう。ってことと一緒で、人間の複数性が大事ですと反応されてここまで言わなきゃいけないっていうことは、
人間の複数性っていうものが失われてるんじゃないかって思ってるわけなんだよね。
もちろんアーレントが生きた近代、ずっと言ってるナチスドイツみたいな話もそうだけれども、
現代においてもさ、例えばXとかで実名であれ匿名であれいろんな人が呟いてますとかっていうときに、
一人一人の呟きが異なってるかもしれないけれども、例えば何か炎上とかをしたときに何かを叩くとかさ、
あるいは何でもいいよ、オリンピックでもワールドカップでもいいんだけれども、
そういうときに盛り上がるってプラスのほうだとしても、
良くも悪くも一緒くたになっているというか、誰が誰かわかんないみたいな。
でもみんなが同じことを言って、連帯とか共通っていういい言葉で作られる可能性もあるんだけれども、
でもそういった一人一人の大事さとか個性みたいなものがなくなっていくみたいな、
そういうふうな動きって全然SNSが象徴的だけれどもあると思うんですよね。
あるいは仕事に対してもそうだけれども、
最近ちょっとニュースになってますけれども、日本電さんって長森さんっていう結構有名な創業社長の方がいらっしゃる会社の話って、
あんまりニュースで見ないかな最近。
いわゆる世界のモーター大手みたいな感じなんだけれども、
いわゆる紛失決算というか、そういういろんなものがあって、
今年の損失が5600億円のカジデスみたいな不正会計かっていうのがあったって話があって、
それはいわゆる創業社長のすごいリーダーシップの中でカリスマだって言われたんだけど、
例えば売上市場主義とか数字絶対に落とせないみたいなところで不正会計とかっていうところをマルチやっちゃってて、
それが今どんどん明るめになってるみたいなそういう話があるんですよね。
というときに本来であれば複数性とかって話していくと、そんなことしたらダメですよとかさ、
数字だけが絶対だなんてありえませんとかっていう人がいてもおかしくないはずなんだけれども、
でもみんな数字第一主義とか絶対ひったつとかって言われてると、
自分がどう思うかとかじゃなくてそれしか考えられなくなって、結局不正にも手を染めてしまうみたいな、
そういうことって普通に現代社会でも起きてると思うんですよね。
全然あるでしょうね。
あるじゃん。
というときに、それってやっぱり複数性がなくなってますねっていう話につながるわけよ。
なるほど。
だから反応アレンということって別に当時ナチスのことだけじゃなくて、全然現代でも通用してることなんだけれども、
そこに対して結構、ある種率直に考えると、ってことはやっぱり一人一人が複数性を大事にしましょうとかさ、
自分自身の個性とか自分らしさっていうのを大事にして強く生きていきましょうみたいなさ、
結構そういう個人の側にそれを求めるとか、あるいは自分が頑張ろうみたいな、
ちょっと違うか、ヒューマニズムみたいな、ちょっと人間性っても大事にしましょうみたいな、
そういうふうに言われることも多いかなと思うんですよね。
実際の、そうだよね。なんか個性が大事とかさ、あと個人主義だとか、
で、なんか今ハヤトが言ったような文脈が思い浮かぶかな。
そうそうそう。
組織全体でさ、この人の個性を伸ばしましょうとかってそういうことあるかもしれないけれども、
でもやっぱ最終的にはそれって一人一人の責任じゃんとかさ、
あなたが頑張るかどうかだよみたいなことがやっぱりなっちゃうと思うんだよね。
あるいはそれが嫌だから人との付き合いを避けて家にこもってますとか、
それが悪いっていうよりは、やっぱりそういう責任を負うのに疲れちゃって、
そういった集団とか社会から離れるみたいな、そういうことも全然あると思うんですよ。
それって今ハヤトが言ったのって、会社の指示に従ってればいいんだっていう時代がありましたと、
ということと、これからは個性が大事だからお前ら頑張れって言われてるのが実は同じだよみたいな話。
そうそう、どっちも同じだよっていう話。
というか両方が現代の日本においては普通に起きてるよねっていう話かな。
勘弁してほしいよね。
そうそう、どないすんねんっていう話なんですけど、
これでアーレントさんの話に入っていくんだけれども、
彼女が本当にすごいのは、
まさに今言ったような個人の心がけとか、
向上心とか足りないとかそういうことじゃなくて、
構造的にそういった自分らしさだったりとか人間性とか、
そういったものを発揮するのが実は難しくなってるんだよっていうことを彼女は言うんですよ。
しかもそれを前回まで見たような複数性だったりとか、
全体主義とかっていうところと絡めて話してるというよりは、
そういったことをつなげて解釈できるような形で発信してるから、
単なる思いつきとか、いいこと言ってますとかってことは全然ないわけなんだよね。
はいはい、そこはもうさすが哲学者、哲学を学んでましたって話だねさすが。
そう、そういうベースにしてましたっていう人なんだけれども、
なのでちょっと今日はね、前回のこの話でも人間の条件っていう本の中にある種出てるというか、
そこから見るような話なんですけど、
前回のそういった人間の複数性とか現れの空間みたいなところをちょっと踏まえながら、
なんで人がこんなにある種個性を失っていくのか、あるいはそれが大事だって言われたときに、
とはいえそれってどうするのっていうところにこんなに苦しんでしまうのかみたいなことをちょっとお話しようと思ってますっていう感じなんだよね。
わー、そうなんだ。
そんなさ、話、だってあれだよね、アレントさんって1900年代の人だから、
うちら子供のときには全然もうこの人間の条件だけが出てたはずだよね、本に。
全然出てます、全然出てます。
あーでもあれか、なんでね、小学校でやってくれればいいのにって思うけど。
まあ難しすぎるだろうとは思うけれども、人間の条件自体は1958年に出てますね。
あれ今60年前、70年前ぐらいか。
そっか、教科書に載るにはまだ早すぎたのか?
言うてでもうちら1990年とか2000年代の子供時代を生きる。
そうだね、まあまあね、これがなぜかってことはもちろんわからないけれども、やっぱり本当に大事なことが詰まってると思うんでね、ちょっと一緒に聞いていただきたいと思っておりますよと。
はい。
で、彼女がどっから話をするかっていうと、やっぱり哲学を学んだものとしてはって感じで、古代のアテネなんですよ。
アテネの話はたびたび出てくると思うんですけれども、いわゆるポリスっていうものがあって、政治に参加しつつ、生活とかっていうものは奴隷がやっていて、
いわゆる、それこそ前回もあった労働と仕事と活動とかだったと思うんですけど、生きるための労働っていうものは奴隷とかに全部任せてましたみたいな、そういう話をしたと思うんですよね。
そうだね。
で、ちょっとこれは僕も改めてここの辺り読んではなるほどと思ったんだけれども、どうしたら僕らは奴隷に仕事を押し付けてましたとかっていうと、ちょっとひどいなとかさ、自分だけ楽しやがってみたいな、やっぱりそういう気持ちになるじゃないですか。
そうだね。あんまり良いこととはイメージ的にはならないね。
そうそうそう、っていうことなんだけれども、このアーレントさんが考えるところによると、この子材宛てっていうのは、そもそもそういうふうなことが前提とした社会でしたと。
そういうことで何かっていうと、私的領域と公的領域とかって言ったりするんだけれども、これはちょっと日本語的な意味での私的とプライバシーみたい、プライベートみたいな言葉とか、公的、公約みたいな言葉ってちょっと違うので、
あくまでもちょっとゼロベースでまたここも聞いてほしいんですけれども、いわゆるこの私的領域っていうのは、この家族、自分も含めた奥さんとか子供とかの生命を維持するとか、生活を守るとか、そういうふうな領域のことを私的領域って言うんですよね。
で、そっちはイメージが湧くと思うんだけれども、もう一方の公的領域っていうのがいわゆる政治の空間で、しかもこの政治っていうのも今と全然違って、要はアテネという共同体ではね、それにとって何が一番正しいかとか、何が一番ふさわしいかとかっていわゆる禅について話すみたいな感じですと。
だから当時の政治と今の政治とかと比較したときに、これもあとでやるんだけれども、今の政治ってどっちかっていうと予算をどうするとか、法律をどうするとか、そういうことを話すわけじゃないですか。
そういう意味でのある種意思決定期間なんだけれども、当時のポリスみたいな場って、どっちかっていうと、やっぱりこれがアテネにとって一番ふさわしいとか、もちろん戦争の話とかもするんだけれども、こういうふうにアテネというところを運営していこうっていう共通意識をちゃんと作っていくみたいな場なんですよね。
で、これがまさに前回、第3課でやった中での活動、まさにその活動っていうのがこのアテネにおける政治っていう話なんですよね。
つまり言葉とか約束とか許しとかって前回話したと思うんですけれども、そういうものを使って、より利害関係があるんだけれども、別にポリスの中で何かされたかといって自分の生活が苦しくなるとか、食べるものがなくなるとかそういうことはないわけですよ。
そういう生活と切り離されてるからこそ、ある種自由にこれが理想だとかこうすべきだっていうふうなことを伝えるんだけど、当然その理解されるためには、いろんなよく言われる弁論術とか、自分の人間的な魅力とかっていうのが大事だから、
やりとりを通じて自分の人間性を鍛えて、ちゃんと信頼されるとか、自分の言葉をちゃんと相手に伝わるように話すとか、そういうことを鍛えていったみたいな、そういうふうな話があるんですよね。
逆に言うと、そのお金儲けとか、生きるための苦労とかっていうところが全部家の中に閉じ込められていて、家と外っていうものが完全に分かれてましたというのが、このアテネのいわゆる社会の在り立ちだったっていうふうにアーレンとは分析するんですよね。
なるほど。
ここだけいくと、そういうこともあるかなっていう感じだと思うんですけど。
そうね。うん。で、っていう感じだね。それで。
ここからが面白い話で、要はこの2つに分かれているっていうことが何がいいかっていうと、ポリスで政治の話をする人たちではね、ある種、自分の利害関係とか私的な欲求とか、
そういったものを家に置いてきて、純粋にアテネとか共同戦のために何がいいかっていうことを話し合うんだっていう、そういう前提の共通認識があったわけなんですよ。
あー、なるほど。そっかそっか。当時あれだもんね、政治家とかって給料出ないし。
市民の名誉だから、政治家っていうものもなくて、アテネ市民イコールその成人さんができる人なわけなんだよね。
あー、そっかそっか。はいはいはい。
だからもちろん公共的な仕事とかそこに対する若干の報酬とかもあったのかな。しかもあるんだけど普段の政治的な活動はもちろん無報酬なわけですよ。
そういう時にこれだけで現代と違うと思うんだけれども、例えば現代の政治家が、もちろん給料もらって仕事しちゃってるわけなんだけれども、選挙に負けたら無職になるわけじゃない?
はいはいはい。
で、もちろんその期間もいろいろ支えてくれる人がいるとかっていうのはあるらしいが、それにしても、やっぱり選挙に負けたら職を失うということは、選挙に勝たなきゃっていうロジックになるじゃないですか。
まあそうでもね、じゃないとご飯食べてきないっていう側面も混ざっちゃってるって話だね。
そうそう、混ざっちゃってる。もちろん公共のためにとかっていうこともあるとは思うんだけども、自分の代ってももちろんゼロにはできませんね。
そうなると、例えば変な話、裏金とかさ、ある種悪いことをしてても、やっぱり選挙に勝とうみたいなことっていうのが、ある種起きてしまうっていうか、ゼロにはならないわけですよ。
で、となった時に、やっぱりこのアテネの時の政治とかそこに参加する動機と、現代における政治とそこに参加する動機ってやっぱり全然違うねっていうことを、まずアーネと考えるんですよね。
なるほどなるほど。確かにその割合みたいなものとか、混ざり方みたいなものがだいぶ違いそうだね。
これによって逆に言うと、アゼネで行われていたような、いわゆる政治、当時の政治の中でどうすればもっと我々の社会が良くなるのかとか、どういうふうに生きるということが我々にとっても善なのかっていう話っていうものがどんどんどんどん追いやられてしまった。
まさにこれってさ、ちょっとある種、やゆする感じ、やっぱ哲学ってそういうものじゃんって感じがあるじゃないですか。
我々にとって何がいいのかみたいな話って、ちょっと哲学的な話だねっていう時にさ、ちょっとそれって別に役立たないものとか、そんなこと話してどうなるんだみたいなさ、そういうニュアンスもあると思うんですよ。
そうだね。
っていう時に、この哲学的な話っていうのは、ある程度言わせると、この私的な領域、経済とか仕事とか、そういうものに追いやられてしまったほうの価値だっていうふうな感覚なんだよね。
そうするとどうなるかっていうと、要は、個人の利害関係っていうものが社会に浸透していきますと。
僕らこれ当たり前すぎて何言ってるんだって感じだと思うんだけど、さっきの現代の政治で言っても、基本的に政治家って誰かの利害の代表者っていう発想じゃないですか。
そうだね。
つまり、僕らで言ったら岩手県の政治家っていうのは、多分岩手県民の利益を代表して国に持ってってくれるよねっていうふうに思うし。
あるいは道路族とか、わかんないけど、そういう族みたいなのがあった時に、自分たちの業界団体の利益を反映させてくれるとか、何か法律ができた時に、
そういう自分たちに、ある種都合のいいねってまで言わないけれども、そっちに動かしてくれるとかってことを期待して政治家を選ぶとした時に、
これって利害関係を政治の場に持ち込んでしまったって話なんだよね。
あーれと言わせるとね。
あーれと言わせると。
僕らはそれが当たり前だと思っているから、政治って利害関係の調整する場所でしょって思ってるんだけど、
実はそれっていうのはこの歴史の中で、まさに主的なもの、経済とか労働っていうものが社会に流れ込んだ時に、政治の側がそれを受けて変化してしまったものであって、
もともとの当ての政治家はそうじゃなかったっていうことをあーれんとは見るんですよ。
なるほど。
そうするとどうなるかっていうと、あらゆる場において利害調整とか、あるいは効率性、どうすればもっとうまく稼げるかとか、
どうすればもっとよく生き延びられるかっていうところが、社会全体を支配してしまうので、
そうすると、自分がどうありたいかじゃなくて、どうすれば利益を得られるかっていう、やっぱりその外から内へっていうものがどんどん強くなってくるんですよね。
そうすると、さっきとか今日ずっと話しているこの複数性、人間の複数性、つまり自分を大事にしましょうとか、
もうちょっと人と人の違いとか多様性っていうものをより明らかにしてそれを尊重していきましょうとかであったときに、
でもそんなことよりもその利益が大事とか、あるいはこの同じ利益を得る我々は仲間だよね、ということは同じように行動するよねっていうふうに、
どんどんその複数性を塗りつぶすような方向に社会とか人の動きが進んでいくよねっていうことを言うんですよね。
めっちゃ怖い話が始まったぞ。
今回ホラー会だってか、すごい話今、今早いと淡々と話してるからさ、あれだけどさ、今すごい怖い話したよね今。
もうちょっと稲川さんみたいに話すべきかな。
その場所だったね。
いやー、怖っ。今なんか、今日はなんかコーディみたいだな、ふんふんふんって聞いたんだけどさ、めっちゃ怖いね今の、びっくりした。
ちょっとじゃあその感じた恐怖をちょっと言ってもらってもいい?
前半さ、まさに早いとオリンピックでみんな盛り上がるとかさ、いう話をしたし、
今回アーレントの会だから、その例えば全体主義みたいな話もあったけれども、それと同じことがさ、もっと大きなさ、国とかさ、教会じゃないレベルの規模で怒ってんなみたいなさ、話でしょこれ。
そういう話、だしもっと言うと、どのレベルでも怒ってるって話かな。
例えばさ、ワールドカップで言うとさ、サッカーみたいなやつで非国民だとかっていう言葉があったときに、でもそれってまさに同一性とか排除の論理じゃん?
そうね。
っていうような国レベルもあれば、同じ例えばパートとか組織でもさ、この飲み会に来ないなんてあいつマジありえねえとかさ、
この方針に賛成しないなんてあいつ、この会社にいる意味あんのかとかさ、そういうことを簡単に言ったりするんだけど、これって全部同じだよね、構造としては。
いやまあ同じだし、そっちは身近だからさ、まあそういうことあるよねみたいな、同調圧力かみたいな感じに受け取っちゃう。
だから構造としては受け取らずに、まあそういうことあるよねみたいなさ、感じで受け取っちゃうんだけど、今のハエトの話は、
だから全体主義ってさ、前回かな、その人が生まれた場所によっては、もうその人がそうと意識しないまま、人間の複製性を持たないまま生きていくことになるみたいな感覚あったじゃん?
うん、前々回に話したね、それを。
っていうことが、この経済とか利益みたいなところが黒幕になると、国体とかじゃないよねっていう。
あーそういうことね、民主主義というそのものみたいになってくるからね。
まあそうね、民主主義なのか黒幕の名前はわかんないけど、基本主義なのかわかんないけど、だから全体主義の国に生まれて、その中で生きてくる人と同じように、
ほとんどの場所に生まれた人は、その複数性のない感じというか、奪われた感じ。
だから、生まれながらにワールドカップの観客席に座らせられて、応援させられてるような状態からスタートしてるんだなっていう怖さ、それを実感させられずに、
それは知らないのに、あの飲み会にはいかないなんてとか、私はあれに行きたくないねとか、同調圧力がとか言ってることの滑稽さよみたいなさ。
なるほどね、なるほどね。
そこに対してそうだよねそうだよね、それ大変だよねっていう風に言うことの何たる利善かみたいなさ。
はいはい。
ごめん、ちょっと熱くなっちゃった。
いや、でも本当にそうで、まさにナーレンとはそういった話を含めて、人間のことを労働する動物とかって言ったりするんだけど、
働いてさえいれば良いみたいなこととか、あるいは働くということに対して、あまりにも価値を置きすぎてしまったがゆえに、
それイコールさ、稼ぐこととかさ、そこと全部使ってくるんだけれども、あるいはそれに参加しない人ってなんかおかしいんじゃないとか、
でも自分は労働する動物だから、仕事をして複数生を失って、消費してストレスを解消して、それも大衆娯楽とかに巻き込まれてて、
そうね。
っていう感じでぐるぐるぐるぐる回ってるわけだよね。
その労働する動物の自分を棚にあげて、お前ら労働もしないのかとか、子供に対してもっといい仕事ができるようになりなさいとかって言ったりするっていう、
なんかよくわかんないことが起きてますけど、どうですか?みたいな話なんだよね、これ。
いやー、だってさ、もう一生ワールドカップやってる会場で生まれた子供にさ、その子供がさ、ワールドカップ楽しめないとかさ、上手く応援できないみたいなのって親は焦るもんね。
そうそうそう。え、何言ってんの?サッカー楽し…違う、なんだろうな。え、何言ってんの?声、まず出しなさいよみたいなさ。
そうそう、このリズムちゃんと、はい、たんたん、たたたん、はい、みたいにさ、ちゃんとやってーみたいなさ、なるじゃんね。
そうそうそう、なる、なる。
で、それできないと心配になるし。
ねえ、そうそう、なんかおかしいんじゃないかとかさ、なんかうちのコマ間違ってるんじゃないかとかさ。
スタジアムから出ていくなんて、え?どうすんの?死ぬよ、出てきたらみたいなさ。
そうそう、外なんてないよみたいな。
そうそうそう、そもそもないよっていうね、そうそう。
うん、ね。ちょっとさ、なんかネットとかで野球やりたいなって言ったもんならさ、野球、何それ?みたいな。
そんな、邪教のことをさ、話して、恐ろしすぎるみたいなさ。この子、悪魔の子だみたいなさ。
邪教聞いたら、そうはね、あの、多少の憧れを持ってね。
そうそうそう、ね。みたいなことが、ほんとに起きてますよって話なんだよね。
いやー。
これはでも確かに僕もちょっとかなり衝撃だったのが、さっき言った政治ってやっぱり利害調整だと思ってたわけよ、もちろん。
そこはちょっとね、さっきにとって引っかかったんだけどね、そこに関しては人によってルールあるだろうなーとは思ったから、まあヘイトワーって話ですね。
そうだね。なぜかっていうと、アーレンとかが言ってるのは、まさに家、要は経済とか家計を守るっていうことが、公的な役にどんどん進捗してきましたねって話をしたじゃない?
あと、そうだね、経済を守るっていうのは、家計の話かな。
これは、もともとは家計しかありませんでした、なんだよ。
だから経済が、形成催眠が自己責任でしたよねって話をしてるんだよね、ヘイトワー。
だし、あ、てことはそもそも経済っていう、今さ、概念があるから言葉を使ってるけど、経済っていう概念がなかったよねっていう感じか。
本当にそう。だから、社会とか経済とか言っちゃってるんだけど、そもそも生活っていう場は家計しかありませんでしたと。
だからその、家計を回せる人、当時のあたりで言うと奴隷とかもいて、ちゃんとそういった稼ぎがあって、自分の生活をちゃんと回せる人だけが、市民として社会、政治に参加してましたと。
あー、わー、面白い。全然違うわ、イメージというか。わー。
そう。だから今政治って言葉も使っちゃってるから混ざるんだけど、これ別に当時がいいってわけじゃない。これ後に言うんだけど、アレンとは別に当時がベストだって言ってるわけじゃないんだけど、
私的空間と公的空間が分かれていたので、私的空間をきちんと回せる責任のある人だけが公的空間に来てましたと。
わー、はい。やっとイメージが。
そう。
だから、どうやって明日のご飯を確保しようかとか、まさに家計だよね。収支とか合わせようかってことは家の話なので、これはポリースっていう公共の場とは一切関係がないことだったんだよね。
わー、そうだね。
そう。でも今の僕らって政治っていうものも予算があってさ、予算委員会ってめちゃめちゃ大きいじゃん。
で、そこでこの国の収支は何兆円で、支出は何兆円で、赤字がこうだから。で、それぞれの領域にこの予算を割り振ってこういうふうに運営していきますよっていう、そういったことを政治の場で話すわけじゃない。
これって当たり前のように思えるんだけど、それはアーレンとか言わせると、ただ家計が国っていう規模に拡大しただけだっていう話なんですよ。
わー、そうだね。
そう。じゃあどこで、この日本はどこに向かうべきかとか、日本という国、あるいは世界にとってどういうものが善なのかっていう会話って、まさしくどこで行われてるんですかってなるんだよね。
おー、はいはいはい。
うん。そうやってなくなっちゃったよねっていうことなんですよ。
わー。
でも、これまた戻るんだけど、でも、そのじゃあ善、なくなった善がどこに行ってるかっていうと、まさに今日冒頭に言った、お前はどうしたいとか、あなたらしさって何ですかっていう、そっちに戻ってきて、
本来公的な場で一人一人が対応しながら作って飾った善っていうものが、あなたの人生どうするっていう個人に戻ってきてるっていう、こういうある種追いやられたものが個人に落ち着けられてるっていう風な流れがあるんだよね。
わー、すごく変わっちゃったね。
そうね、恐ろしいでしょ。
うん。
わー、どうしよう。すごいね。
ね。だからさ、社会の側がさ、もう経済とかそういったものに押しつぶされて、そういった善とは何か?
アーレンと言葉で言うと公的な空間だし、もっと言うと活動だよね。人と人が許しと約束っていうものを通じながら理解し合うっていう、これがある種一個の理想なんだけど、それはもうなくなっちゃったわけよ、社会の場から。
そうだね。
そう、素朴にいやいや、一人一人が思いやりを持てば世の中は良くなりますとか、その悪に打ち勝つ善なる心が大事なんですとかっていうことって、今はその社会の側の問題を全部無視して、基本責任は個人に押しつけてませんかって話なのよ。
いやー、面白い。めっちゃ面白いね。押しつけてるし、さっきのさ、やっぱスタジアムの中の例で言うと、本来的には自分がそもそもこのスタジアム内で生きていくのかどうかとか、そっから考えるっていうのが善とは何かとかさ。
例えば、いきなりこの内からさ、どっちに向かうべきかっていうのは、多分そういうレベルから話すべきものなんだけど、やっぱその社会みたいなものが先にバーンとあって、生まれた時からスタジアムみたいな場合だと、その中での最適化みたいな話だよね。
自分がこのスタジアムでどう振る舞ったり、どう生きていくのが善かみたいなとこが、いわゆる善です、悪ですっていう風になっちゃうことがめちゃくちゃ多そうだよね、そもそもみたいな。
そう、多そうだし、それを突き詰めると結局は、まさにそのスタジアムが今どうあるかに合わせていくとか、要はそういう大衆性に馴染んでいくっていう、そっちの選択を取ることが増えるはずなんだよね。
いや絶対そうでしょ、危ないもんだって。
そう、危ないじゃん、迫害されちゃうじゃん。
でなると複数性が消えるじゃん。
消えた、消えました。
ってことは全体主義になるじゃん。
はい、なりました。
はい、もう終わりです。このスタジアムは全体主義です。
まあそうだよね、だって、そうでもね、複数性消えちゃったし、一部の人当てがそうやって、そもそもこの外の世界であるかもしれないしみたいな話をしながらも、任務を取れないでいるみたいな話で、そもそも、
たぶん善悪とか倫理観みたいなものも、その中で危険されちゃってるみたいなとこだから、そもそもその中でさっきみたいにちゃんとリズム打てよみたいな、そこが善悪になっちゃって、
この席を立って外に出るみたいなとこはそもそも対象にすごくなりづらいし、危ない、死ぬかもしれないというか、ご飯食べてなくなる可能性が結構ある危ない選択、危ない思想みたいな感じになっちゃうってことなんだよね。
そうそうそう、だからさっきのワイドカップの話でいうと、ちゃんと応援する人には配給というかご飯をもらえるけど、できない人にはもらえませんとかってなったらさ、やるしかないじゃん。
そうなんだよね。
でもそれも、でも自由だよとかさ、もっと頑張って自分なりにやっていいんだよとかって言われてもさ、そんな自分なりにやったらご飯もらえないしってなるとさ、合わせなきゃいけないっていう、もうなんか善意の振りして悪意を振りまいといたような感じになっちゃうわけよね。
いやー、私もとことんスタジアムで行くけど、スタジアムの中では、自分はリズムはちょっとなっていう人に対して、あっちは応援歌歌ってるから歌得になるならあっち行きなよとか、あっちは演奏してるからトランペットとか弾けるんだったらあっちの方がいいよみたいないろんなのがあって、
あなたは、子供とかに、あなたはもう歌が上手いから、リズムはちょっと、歌は上手くてリズムはあれっていうのもおかしいけど、なぜか全部音楽みたいになっちゃったけど、あなたは歌の才能があるからもうそっち極めなさいみたいなさ、リズムはいいからみたいな、そういう選択肢がめちゃくちゃその中でも準備されてて、
めちゃくちゃ多分そのやりがいを持って、よし、私リズムはダメだったけど歌は頑張る!みたいなさ、そういう逃げ道というか、その選択肢か、スタジアムから出る以外の選択肢はいっぱいいろんな選択肢があるっていう感じもしたよね。
そういう意味で言うと、全体主義は言い過ぎだし、そんなわけはないっていうね、ちゃんと個人個人の思想心臓とか大事にされてるとかってあるかもしれないけれども、やっぱアレントに言わせるとその構造自体はもう変わんないというか同じだから、そういう社会においてまさにヒューマジデム道徳に期待するとか人間性を高めようとかっていうことは、もうある種機能しないんだよっていうふうなことなんだよね。
で、これが逆に言うと、やっぱりその人間性を高めようとか、人々への心分けが大事だって言う人に対しての、ある種恐ろしいほどの警告というか批判というか、そんなことができるようになったら苦労しないんだよ、お前ら本当に社会のこと見てんのかって感じなんだよね。
だからこそアレントはやっぱりその個人個人の努力じゃなくて、ちゃんと社会っていうものをどう良くしていくかとか、そこにきちんと一人一人人間が目を向けてこの社会を良くしようとか、あるいは使う人も悪くならないようにしようっていうふうな、そういうところに冷静な目を向けないと本当にやばいことになるよっていうか、なったんだよっていう。
あれを伝えてるんだって感じなんだよね。
いやー、そうね。
だから子供一人生まれたとこで、その手を振るの頑張るとか、世界各国の頑張るみたいなことをしてたりとか、一部の人は、いや、私は前で笛を吹いてる人になるんだみたいな。
で、それがいいみたいなさ。
あの前で笛を吹いたり手を振ったり旗を振ったりする人になるにはね、どれくらい勉強しなきゃならないのよ、みたいなさ。
で、そっちの方が給料も高いし、みんなからちやほやされるし、すごいって言われるし、みたいな。
で、その中でやってることの滑稽さみたいなものをアレントは伝えたいというか、話せるみたいな感じだよね。
そこじゃねえよみたいな。
そうだね。
でも、そうなっちゃうしょうがなさみたいなところか、構造の話。
そうだね、個人から見ればしょうがなさだし、やっぱりそれは、きちんと気づいてないと本当に良くないよねって感じかな。
すごい話してるね。
で、アレント収支すごい、ちょっとすごすぎてさ、やっぱりちょっと僕も、まずはちゃんと伝えなきゃと思ってすごい淡々と喋ってるんだけど。
台本作った時の結果も、うおー!みたいな、アレントすげえ!みたいなことになってるんだよね。
で、もちろん批判も多いですっていうのはあって、次回とかの話とかもまさにそうなんだけれども、やっぱりちょっと真っ直ぐさしすぎて、切れ味鋭すぎて。
なんかね、痛いんだよね、やっぱりこう言われてる側からすると。
まあ、あの、度性論期間みたいな話でしょ。
ああ、そうそうそう。
今それ言われても分かってんだよみたいな話ではあるんだろうね、スタジアムの経営者たちにとって。
ああ、そうだね。
分かってんだよみたいな。
でもこれしかないじゃんとか、でも今ここでスタジアムいる人たちが幸せそうじゃん言ってみたいな。
そうそう、このスタジアム無くなったら、ここにいるこの大勢の人たち死ぬよ、半分みたいな。いいの?みたいな。
例えばね、パッと今無くなったらみたいな。
そうなんだよ。でもこれが次にまた来るんだけど、ナチスドイツなんですよ、これも。
えー、そうなんだ。
人間がいかにやっぱり自己欺瞞っていうか、やっぱりそのちっちゃい善をやるような感じで大きな悪に染まるのかみたいな、そういう話もあるんですよね。
つまりね、今のスタジアムの経営者の話だけれども、
彼らはいいと思ってるだけじゃないですか、このスタジアムをこうやって運営することが、ここで生まれて死んでいく人ってハッピーだねと。
そうそうそうそう。
でもその外にはさ、例えばね、荒がりした土地しかなくて、みんな死んじゃうみたいになった時に、
そのいいことをしているという自覚により、やっぱり全体をコントールしているとか、自分たちの優位性を担保しているとか、
あるいは仕方がなかったんだとか、そういうことになってませんかねっていうことがあちこちにあるわけなんですよね。
はいはいはいはい。
っていうのを、まさに次回にやるんですけど、このアイヒマンっていう、いわゆるナチスドイツのガス質送りだよね。
っていうものを主導してたと言われてる人の裁判に、このアーレントが傍聴というか、それを聞きに行った時に実際に見聞きしたこと。
そういったことから、このアイヒマンって何だったんだ、今言ったスタジアムのまさに経営者ですよ。
ナチスドイツという国の運営のためにはユダヤ人を地図から消そうとしたわけじゃないですか。
地図というかね、原始として。
それってまさにスタジアムの経営者の執行だよね。
このスタジアムを運営するためには多少の犠牲は必要だ。
ナチスドイツという国家を反映するためにはユダヤ人という犠牲が必要だ。
同じじゃん。
このアイヒマンっていう人はどんな人だったのかとか、どういうふうなことを話したのかっていうことを踏まえてアーレントが考えたこと。
これを次回お伝えしますという流れですね。
なるほど。
スタジアムの背景をもっと考えないとね。
なんでそのスタジアムの人たちを迫害するに至ったのか。
リアリティをね。
リアリティを追求していかないとね。
なるほど。
ちょっとごめん。
今日もいろいろバツ喋っちゃったんだけれども、
やっぱり大事にしたい人間の複数性ですね。
これっていうものを大事にしましょうっていうこと自体が、ある種おかしい人になっちゃってます。
なぜならば我々はもうスタジアムで生きていて、その社会というか世界というか、
そこからやっぱりその複数性とか自分らしさみたいなものを出すっていうことがすごく難しいようになっちゃっている。
労働とか経済とかっていうものが広がっていたことによって。
そうだね。だから自分らしさっていうものも推し規制っていうのかな?
の感じになってるよねって話はね。
そういう社会において、僕らっていうものはすごくやっぱり難しい生き方をしなきゃいけないというか、
そういう社会にいるんだけど、いるんだっていうことが今日お伝えしたかったことです。
次回はまた本というかテーマもちょっと変わるんですけど、
繋がりとしては今言ったまさにこのスタジアム、我々が自覚してなかったことだよね。
僕もお兄さんもスタジアムで生きているんだっていうことを今初めて自覚をしたときに、
その運営してる人というか、そのスタジアムを良かれと思ってやってる人ってどんな人なんだっけと。
ということを見るのが次回というような感じになっております。
ちょっと苦しいとか難しいところもありますが、
もうちょっとこのような分析した構造というのをアーレントさんの手を借りながら一緒に見ていきましょうという話ですね。
はい、わかりました。
次回はアイヒマンのところの話を見ていくということで楽しみにしていきたいと思います。
では引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。