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#464 あなたは人間?わたしは人間?ハンナ・アーレントが描いた『人間の条件』
2026-10-07 53:16

#464 あなたは人間?わたしは人間?ハンナ・アーレントが描いた『人間の条件』

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00:11
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。 よろしくお願いします。
よろしくお願いします。 はい、今回はハンナ・アーレント第3回ということでやっていきたいと思います。
はい、今回ですね、アーレントさんが描いた人間の条件っていう本を、今回と次回でちょっとやっていこうと思うんですけど、
実はこの人間の条件って、出るのは多分2回目ぐらいなんですけど、以前、働くことと哲学みたいなテーマをやった時に、
アーレントさんの名前で、労働と仕事と活動、3つぐらいあるよっていう話をしたのを何となく覚えてます?
そうですね、それぞれの内容を覚えてないし、その違いが難しかったなーみたいなのを思い出す。
はい、そうだよね。それをこの後また複習もするんですけど、これがその人間の条件っていう本に書かれていて、
これが前回言った全体主義の起源っていう本の、次とか後に出てる本なんですよ。
内容的にも、前回やった帝国主義っていうものがあって、全体主義っていうものは、いわゆる国民だよね。
国民の人間性っていうものを無視しますというか、ないものにしますね。
もう生じさせませんみたいな感じではない?
そうそうそうそう。思想統制って話もあったけど。
っていうような働きに対して、そういったことは起き得ると、社会として。
だった時に、どうしたら私たち人間というものは人間として生き続けることができるのか?
人間性というものを保ち続けることができるのか?とか、すごく切実な問題になってくるわけですよ。
そうだね。
実際ね、あなたさんは人間性というものを剥奪されて、国籍もない中でアメリカに行ったとかって言った時に、
人間らしくあるってことは当たり前じゃないわけですよ。
この人間らしいとはとか、まさに本のタイトルは人間の条件だから、何が人間を人間たらしめるのか?っていうことを考えていくわけですよ。
いやー、すごいタイトルだね。
重みがあるんだけれども。
これ、やっぱりすごい大事というか、丁寧にやりたいなと思って、今回と次回ぐらいで、この本のテーマに沿いながらお話をしていくんですけれども。
さっき言った、労働とか仕事とかなんだっけ?
ここをもう一回、改めて振り返って思ってるんですけれども。
03:05
今言った労働とか仕事とか活動っていうものは、大きな杭としては活動的生とか活動的生活っていうふうに言われてます。
この活動的生活と比較されるのが感傷的生とか感傷的生活って言われるものなんだよね。
感傷って言葉は何かピンとおきますかね?
いやー、やっぱりこないね。
こないよね。普通使わないからね。
見るに照らすなんだけれども、この感傷っていうのはプラトンから繋がるような言葉なんですけど。
プラトン、アリザテレスかな?
いわゆるテオリアみたいに言われてて、ざっくり言うと哲学的な認識力とかそういった知性っていうのを発展させることで、プラトンで言えばイデアを見る。
イデアっていうものを直接感じ取るっていうふうな能力のことを感傷するとか感傷っていうふうに言うんだよね。
おー、なるほど。
これは結構、いわゆる前回やったアグレッシンスさんの神の愛と地上の愛っていうのは結構近くて、
永遠不変なものにどういうふうに接するかっていうことが、やっぱりこの二元論的な神と人とか、イデアとこの世とかっていうときにすごい問題になるわけですよ。
いやー、すごいね。世俗的なものとそうじゃないものみたいな感じでバチッと分かれてるね。
そうそうそう。
そういうときに、専用哲学の世界においては、いわゆる心理とかそういったものを見るっていうことが大事にされているんで、
基本的にこの感傷的生活みたいなものが大事にされてきたというふうにアーレントさんは見るんですよ。
でもね、僕ら人間が生きている上で大事なので、やっぱりこの活動的生活、本当に日々の暮らしとか、
例えば芸術表現とかを含めてそういうものが大事っていうふうな、あくまでもこの現実世界に目を向けていく。
その現実世界での関係性とかに目を向けていくっていうことが、やっぱりアーレントさんはやろうとしたことなんですよね。
で、哲学とかって言うと、やっぱりちょっと偏屈さというか、一人で黙々と目を閉じて、物を考えているみたいな。
もっと言うと、あんまり外に出ている哲学者ってあんまりイメージないじゃん。すごい作家してるみたいな。
うん、あんまりイメージないし、だからアーレントも哲学者っぽくないねって言われてるんでしょう?
06:00
そう、たぶん。本人もね、そういう辞任がないっていうか。
そうそう、哲学者って言わないでよみたいな話もあったんだけれども。
そういうふうなことなので、やっぱり神への愛もそうだし、この感傷的生活もそうなんだけれども、
そういった一人で真理とか神様に向き合う、それが実は西洋社会において、こういう生き方だよねとか、
そういう形で優れた人たちで、逆に日々の仕事とか生活、政治でもいいんだけれども、
そういったものにアクセクトしている人たちは、ある種そういった真理に向き合う時間がないとか、
神様に向き合うことができていない、なんていうかちょっと、これはやっぱり劣った生き方なんだよみたいな、そういうふうな価値観があるわけなんですよ。
はいはいはい。
言った時に、でもやっぱりそれってだって、おかしいよねってやっぱりアーレントは考えるわけなんですよね。
そういった考え方的には、前回も踏まれたイメージ分けやすいと思うんだけれども、
一人の世界で真理に向き合うとか神に向き合うとかってなると、結局その自分一人の世界っていうものだけがどんどんどんどん膨らんで、
一人っていうか、自分と神様とか自分と真理っていう世界になっちゃって、やっぱりそこに生きている他人とか他者っていうものがやっぱりその主体になるって前回も言ったと思うんだけども、
ただその真理とか神様に至る通過点にしかならないよねみたいなことを考えるんですよ。
まあそうだよね。あなたの心の平穏とか平安は何の上に立ってるんですか?みたいな感じだよね。
そこそこ前、ハヤトも言ってたけど、古代リーチャーと自分が働かなくても奴隷に働かせて、例えば食べるものとか着るものとか、
言ってたわけだから、そういうものの上に平安があったねっていうイメージかな。
そうそうそう。まさに誰かに頼ってるというか支えられているけど、それを忘れて自分の世界と思っちゃうみたいな感じがあるので、
やっぱりこのハンナアレントさんの人間観で言うと、一人で生きてて、その内側というか内面から世界を捉えるってことじゃなくて、
でも生きてんじゃんと、他の人たちと一緒に生きてるじゃんっていう、この複数の人間っていう発想が前提になるんですよね。
09:00
全然違う。
この地球上に生きてる人っていうのは、いわゆる人間、炭素系のマンとかじゃなくて、いわゆるミン、ミンじゃなくて、複数の人間たちです。
いわゆるメンだと。
人たちでしか生きることはできないねと。
よく言われるのは当然、自分が生きているってことは絶対両親がいたわけで、今いなくても絶対に生んでくれた瞬間とか、自分が宿った瞬間はいたよねってことだし、
さっきも言った通り、古代のアテネだとしても、自分がこうやって真理について考えられるのが、奴隷と言われる人たちがちゃんと身の回りのことをやってくれるからだっていう、
そういうことはもう当たり前にあるのに、干渉的生活だとそれを忘れちゃいませんかねと。
なんならそういうふうな生活がリアルっていうものを切り捨てて、その純粋培養の世界っていうものを大事だっていうふうにしてきませんでしたかね、人間はと。
こうやっぱアレントさんは考えちゃうわけですよ。
そうだね、だし今のハエトの話聞いてすごい怖かったんだけど、その複数の人間がいるからちゃんとそれを意識していきましょうねってやっぱ言うけど、その人間に私入ってるかなーみたいな。
はいはいはい。
君は入ってるのかなーみたいな、その人間って誰なんだろうなーみたいなね、怖さを感じるよね、なんか前回の話も踏まえて。
いいじゃんいいじゃん。で、人間の条件がちょっとずつ見えてきたと思うと。
つまり、私って人間なの?とかさ、私はこの相手、今目の前の人のことを人間だと思ってちゃんと接しているの?みたいな、そういうことが出てくるわけですよ。
そうなんだ、うんうんうん。
で、このまさに言ってくれた人間一人じゃなくて複数だってこと、まさにこの人間の複数性っていうことがすごく大事だってくるんだけども、これはやっぱり哲学者だと思うのが、この複数性ってなんだみたいなことを考えていくわけですよ。
おーそっちかー、こっちは人間とは何かしかひっかからなかったわ。複数性かー。
複数ってどういうことですか?
で、ここには2つの要素があって、しかもこれがちょっと反発しあってるんだけれども、1つ目が等しさね、同じっていうこと。
で、もう1つが異なり、違うっていうことの、この2つが大事なんだって言うんですよ。
なんか表裏みたいな感じがするけど。
異なることと違うことって基本的には表裏逆の関係じゃん?
でもこれが大事だって話で、要はすごいわかりやすく言うとね、ちょっとかなり端緒ってはいるんだけれども、非常にわかりやすく言うと人間ですねと。
12:07
で、人間ってものはいわゆる同じ種ではあると。
なので、言葉が違うとか、生まれ育った文化が違うっていうことはあれども、
お互いに理解し合えるはずだという、そういうふうな意味での等しさとかおなりさっていうものが想定できるでしょうと考えるわけですよ。
はい、はい、まあ犬とかもそうだよね。シーズとシヴァ犬、まあ犬だよねみたいな。
そうそうそう、そういう意味では同じ、犬としては同じだよね。
この人間、私たちっていうものは、種族とか文化とかさっきの犬種とかっていうものを超えて、
一人一人、その固有の存在性として絶対に他とは入れ替わらないとか、かけがえのなさっていうものがある。
そういう意味では絶対に異なってますね、こうちゃんと言うんですよ。
だからシーズとかシヴァ犬である前に、ナナちゃんであり、シュンちゃんであるみたいな。
我々は飼ってた犬で。
そうそうそう、はいはい。
固有性がありますね。
これはもちろん双子だろうが三子だろうが、あるいは犬が名前がついていなかろうが、
そういった人間というのはもちろん違うんだけど、人間同士とか犬同士という意味では、
あるいは人間も犬も動物だっていうことでは同じらしい。
でもそれぞれ違うっていうことも含めて、
もちろん今回は人間の話だから犬とかは入れないとしても、
それ同じだけど違う。
根本的に違うんだけれどもちゃんと通じ合えるっていう。
この両方があるっていうことが実は複数性っていうものなんだと言うんですよね。
へー、ほうほうほう。
これ逆に言うとだよ。
逆に言うと、受け替えのない存在ってさっき言ったじゃないですか。
逆が前回言った、いくらでも代えが利く機械みたいな存在だよね。
固有性とかその人らしさっていうものを失われた人間っていうものを
生み出すのが全体主義だったじゃないですか。
全体主義にはこの人間の複数性がなくなるって話なんだよね。
そうだね。
なので、本来僕らっていうのは生まれている時には他の人と一緒に生きているはずなんだけど、
生まれた時に一緒に生きているはずという、
ある種当たり前にしか思えないというか、
15:03
そういう実感ってものを剥ぎ取って、
全ての人間を個性のない、本当にいわゆる中傷的な人にしてしまう。
ああ。
こういうことをやってのけるのが全体主義だなっていうのが前回から繋がる話なんだよね。
なるほど。これってもしかしてというか、
なんとなく統治する側からして、
大衆は代えが利く存在みたいなイメージで捉えてたんだけれども、
実は大衆個人個人がお互いに、
たぶん本人はそう思ってないんだけど、絶対に本人はあなたを愛してますとか、この人は友達です、
この人は大事で、この人は別にそうでもないみたいなことを言ってるかもしれないんだけれども、
実は大衆たちもお互いを、ここで言う複数性を持って見てないっていうふうに育てられちゃったって話、もしかして。
そういうこと。
とんでもないね。
よく考えてみてよ。当時のゲスタポとかがあったときに、
いわゆる内部告発じゃないけれども、親しい人が告発して、この人はナチスだとか、
そういったことを言って、ケースに連れて帰るとかっていうことが起きてたわけじゃない?
つまり家族みたいな繋がりよりも、
そういった全体的な共通性とか、自分というものは優れた人種である民族であるっていうところでの繋がりが強くなっちゃってるわけよ。
ってなると結局、自分と他者の違いっていうことじゃなくて、同じさ?
要は人種が同じとか、優れた人存在であるっていうことだけになっちゃって、違いっていうものがどんどん剥ぎ取られちゃうんだよね。
なるほど。だからさっき言った、この人は友達、この人は愛してますとか、この人はなんか嫌いっていうものの、
その価値観の判断基準が、その同じ性だけによってるっていう風にされちゃってるっていう感じか。
怖いぞ。すごいね。
めっちゃ怖いでしょ。異なるっていうことが認められない社会なんだよ。
そうだね。だからこれはすごいな。確かに本人たちはさ、本人たちなりにこの人と遊びたいとかさ、
18:00
この人は馬があるとかってめっちゃやってんのに、土台がとんでもないことになってるというか、とんでもないところに立たされてるみたいな感じだね。
なんかね、昨日まで楽しく遊んでたとか、愛し合ってた人も反ナチスとかユジャヤ主義とかって言われたら、もう絶対に死んだほうがいいとかさ。
告白することが出てもしょうがないとかってなっちゃうって、どう考えてもおかしいじゃん。
まあおかしいけど、これはハヤトが前回も多分今回も言ってるけど、
ある意味極論というかさ、ものすごくわかりやすく発露したケースだから、こうやって話しやすいんだけれども、
わかりにくく、たぶん全員が何かの下に立ってるんだろうなとかっていう話やっぱり繋がるよね、たぶんね、これね。
そう、そう。
わあ、面白い。
で、これも極論だし、もちろんそこに葛藤を覚えた人とかさ、後悔した人っていうのはもちろんいたから、
全部が全部ね、ゼロか百科ではないけれども、でもそれがやっぱ違いを認められないとか、
やっぱり自分たちの基準を当てはめて相手を判断するまでいくと、全然今でも起きてることだと思うんだよね。
今でもさ、この誰々さんのお子さんと遊んではいけませんとかさ、
なんで?って子供からすると、楽しく遊んでたのに行かれるけど、親からしたらその育ちなのか生まれなのかわかんないけど、
そういうもので、ちょっと話そうとするとかっていうことって、たぶん今でもあると思うんだよね。
いやー、だからそこを比較すると、ただの二言論だから、この後ちょっと、アーレンとかどういう話になってくるんだってのが、
ちょっと、なんか自分ごとじゃないけどね、すごいリアルになってきたなぁ、なんか。
おー、よかったよかった。
やっぱりすごい怖いことを言ってるってことが伝わるとすごく嬉しいなと思っているんですが、
でね、同じだけど互いに違うみたいなことを言ったときに、
この同じさとか違いさっていうものをどういうふうに人間が見出していくんですかっていうふうに言うと、
アーレントさんはやっぱりそこに対して言葉と行為っていう、この二つを挙げるんですよ。
つまり、言葉発するっていう意味ではアクションだと思うんだけれども、
自分が何かを言うとか何か行動を起こすことに対して相手が反応するじゃないですか。
すると、このやりとりの中において初めて人間っていうものは、他者っていうものに自分が表現されるし、
21:05
他者というものも自分に対して向かってきます。
この、互いにやりとりするっていうことに対して、
アーレントさんはこの現れの空間とかっていうふうに言葉を使うんだけれども、
ただ人と人がたまたま隣にいるだけでは、やっぱりその交流は起きてないっていうふうに考えるんですよ。
そうじゃなくて、ちゃんとお互いに関心を持って言葉を交わし合うとか行為し合うとか、
そういうことが起きたときに初めてこの現れの空間っていうものはできて、
人と人っていうものが繋がり合うとか、何だろうな、ちゃんとお互いの存在というものを認め合う。
つまり、今回で活動的な場っていうものが生まれるんだということを考えるんですよね。
うわー、なんかもう耳が痛いね。
耳が痛い。
もう痛い。
考えちゃう?
うん。
逆に言うと、さっきまで話した全体主義の場とか、
互いの違いっていうものを認められない場っていうものは、この現れの空間がないんだっていう。
いやー、そうね。なかったりとかないように仕向けられてるみたいな感じか。
できないようにとかね。
うん。っていうふうなことなんですよ。
まあないというか、もしくはその現れの空間の方向性も規定されちゃってるみたいな感じか。
ないというよりは。
どうかな。ないと思う。
でもこのアーレントにいるところの現れではないのか、それは。
そう。複数性がないからね。
それは僕と兄貴っていう違う人が出会ってるんじゃなくって、同じイデオロギーの中での人が2人いるだけだから、
そこにやっぱり本当の意味での交流とか、お互いの違いを認め合うような、
相手というものがちゃんと自分と違う存在としてでも通じ合ってるんだって、やっぱりその実感ってのは生まれないよね。
が現れだから、人がハヤトと出会って、
いやー、あの話聞いた。あれいいよね。そうだよね。おー、みたいな。
それは現れの空間ではないんだね。
兄貴が一方的に言うってこと?
なんだろう、ある意味全体主義の世界の話をしてるんだけど。
はいはいはい。
そこだと。
すごい紙一重だよね。
あいつの意見を問いかけるって意味では、違う意見が出てくるってことを想定しているとも言えるじゃない。
うんうんうん。
読んでないよって言われることを想定しても、本来ならそうなんだけれども、
全体主義においては、おそらくあの新聞を読んだっていうことは、読んだことを前提とした問いかけなんだよね。
はいはいはいはい。
だし、おそらく良かったよねって言われたときに、良かったと言われることを前提とした交流というか問いかけなんだよね。
24:05
そうだよね。だって読んでなかったりとかさ、あれはちょっととかって言ったらもう危ないもんね。
そうそうそう。もうその瞬間で、ぴぴーみたいな。
ここにいますみたいなね。この人連れてってくださいみたいな。
そうそうそう。
なるほど。
なっちゃうわけよ。
もっと現代的に言うとさ、僕は兄貴にさ、ああ久しぶりみたいな感じで言ってさ、
最近読んだこの哲学書はこうぜこうぜ、ああぜこうぜって言って1時間話してたらさ、もう現れないじゃん、この場には絶対。
兄貴なんかもう絶対シュンってしちゃってさ、シュンってするのか怒って帰るのかわかんないけど、
でもコミュニケーションじゃないじゃん。
現れで言うとどうなるんだ、それは。
そこに対して、やっぱりちゃんと反応、もちろんその場から立ち去るとかね、それも全て反応だから、
それを僕が受け止められれば、この話はつまんなかったかとか、ちょっとなんかテンション上がって話しすぎちゃったなって反省すると、
ギリギリするたぶん現れの空間なんだけど、
例えば僕があいつなんだよとか思って、じゃあ次は別の人に話しに行こうとかって言うと、
この観のハヤトさんはもうサイコパスです。
なんだそのモンスター。
でもそういうことってやっちゃわない?結構。
まあね、やっちゃうかもしれないし、あるってあるもんね、そのモンスターとは言っちゃったけど、あるもんな。
やっぱりこれはもう程度問題で、やっぱり今こそ夏ドイツっていう、一番わかりやすい内景って言われる通り、
例を引いてるからこうなっちゃうけど、やっぱり大金少なから絶対僕らの身近にもこういうふうな、
現れの空間ってもので表現できる世界はあると思うんですよ。
そうつまんない会議とかって言うと、誰も現れてませんみたいな。
いやー、なるほどね。さっきちょっと面白そうだと思ったからハヤトに確認したいんだけど、
さっきハヤトがさ、一方的に自分の、例えば哲学、この哲学書よかったってマックス立てるみたいなのは、
現れてないって言ったけど、
これは当たり前、考えてみれば当たり前かもしれないけど、
自分から誰かに働きかけないみたいなさ、そもそも。
例えばバスで隣になった人とか、隣の人に話しかけるかどうかみたいな時とかに、
黙っていれば現れないじゃんみたいな、それはもうそこで現れないよねって感じ。自分をそもそも表現しない。
言葉と活動がないからね。
27:00
言葉と行為か。それがないとやっぱり現れない。
マックス立てる方が悪いって思っちゃったけど、
逆のケース、自分が何も表さないってことも結構あるんじゃないかなって思っちゃって。
あるある。それがまさに孤独だよね。要は他者の現れと出会えないとか、
現れの空間が生じない。要はお互いに無関心で、
傍観者を決め込んでると当然現れの空間はないから、
そうすると人はどんどん、
そうするとどんどん人は孤独になって繋がりを求めるっていう風な、前回言った孤独な大衆。
そういったものになっていくって話。
なるほど、なるほど。資本主義のせいだけじゃないかもしれないけど、
そうやって人々がそういう働き方とか、ライフスタイルみたいなものになった時に、
一方でそういう孤独みたいなもの?
自分が表す空間なんか減ってんだけどみたいな。
もしくは誰かのある上に接する空間減ってんだけどっていう話になってたのか。
そうなんだよね。
すごいすごい。ハンナ・アーレンとでいろいろ繋がってくるね。
見えてくるじゃん。
これもすごいハンナ・アーレンさん絶賛しかしたいんだけども、
でもねと、じゃあさ言葉と行為で人と関わりましょうとかってなるとさ、
おーやるぞ、ポジティブだーみたいになるじゃん。
そうだね。やっぱりコミュニケーション大事みたいな話に着地させられることもできそう。
もちろん大事なんだけど、
でもこのやっぱり現れの空間ってものを開くっていうことは、
それはそれでめちゃめちゃ大変というか、リスクも当然あるんですよっていう話をするんですよね。
いやー、そうだよね。全体主義からの流れというかさ、
ハンナ・アーレンさんの世界観でいうと結構リスキーな感じあるよね。
いわゆる全体主義の中でって話だけじゃなくて、
やっぱりこの人と関わるっていうことに、
ある種切っても切り離せないやっぱり難しさとか問題というか、
そういうことがあるねって話をするんですよね。
これどういうことかっていうと、
さっき言った活動的生活の中に、
労働と仕事と活動って3つがあって、
ちょっと今日あんまり話せなかったんだけれども、
労働っていうのはいわゆる生命維持活動みたいな、
生命維持のための、要はリンゴとってきて食べますとか、
海で魚をとってきますとかっていうのが、
あとに何も残らないっていう意味で労働だというふうに、
アーレンさんは言うんですよ。
例えばリンゴをとるためにハサミを作りますとか、
30:02
魚の吸いざを作りますっていうのは、
あとに残る人工物を作るっていう意味で仕事だというふうに言って、
その仕事とか労働っていうものを超えて、
生存に直結するわけじゃないとしても、
人と人が交流し合うとか、
さっき言った言葉とか行為っていうものによって通じ合うっていうのが活動だっていうふうな、
そういうふうにアーレンさんは考えるんですよ。
一人で完結するだけの干渉的生活、
その真理と向けますとか、
一見の設計図とか目的があって、
このハサミを作ったらOKみたいな仕事っていうもので、
ある種、何回でもやり直してもいいし、
誰かに迷惑をかけることって少ないんですよ。
そのハサミがうまく切れなかったとしても、
自分がもう一回作ればいいかとか、
やり直せばいいかってことで自分に返ってくるんだけど、
今日話しているような活動とか、
現れの空間っていうものは、
当然他者と関わっていくわけなので、
干渉とか仕事とか労働とは違う性質があるんですよね。
この性質は何かというと二つあって、
一つが不可逆性っていうものと、
もう一つが予言不可能性、
予言とか予見、見通すとかさ、
予言はいわゆる占い、
占いは予言だとした時に、
予言っていうあらかじめ見たり言ったりすることができないっていう、
この二つがあるんだって話をするんですよ。
なるほど、確かに確かに。
これさっきの兄貴との例でもそうなんだけれども、
兄貴が新聞読んだって聞いた時に、
仮に僕が朝ものすごい辛いことがあって、
新聞を読む時間すらなかった時に、
こんなことがあって新聞読めなかったんだよって言われたらさ、
そんな軽々しく聞かなきゃよかったなとかって思うとするじゃん。
っていう時にやっぱり言ったこととかやったことって取り消せないんだよね、絶対に。
予言の不可逆性ってものがあるし、
その新聞読んだっていう時に、
本来であれば読んだか読まないかとか、
あるいは全く違う、
そんなことよりこっちの方がって言われるってことも含めて、
何が返ってくるかわかんないんだよね。
そうだね。
で、まずそもそも自分が一回、
外に出した言葉とか行動っていうものは取り消せませんっていうことと、
それがどんな影響を及ぼすかっていうことが、
本質的にはわかりませんっていう、
この二つがその活動というか交流の中には含まれるんだって言うんですよ。
33:00
わー、そっか。
だから全体主義みたいな、
そういう世界観を想定しなくても、
もう原理的にリスキーなんだよって話か。
そうそう、そういうこと。
要はめっちゃ怖いというか、
あれさ、その全体主義的な話を言うと、
相手が何を言ってくれるかも大体わかるし、
不可逆性はあるにしても、どうなんだろうな、
でも命令とかであれば一回やって、
でももう一回こっちの命令に書き換えますとかっていうことは、
多分できると思うんだよね、仕事であれば。
やっぱりその活動っていうふうな触れ合いにおいては、
自分がやったことがどんな影響を及ぼすかっていうことは、
やっぱり完全にはわからないし、
相手と繋がりたいと思ってやればやるほど、
相手が離れていくってことはあるわけじゃん。
ある種、自分っていうものが見受けが取りにくくなる。
要はそれだったら何もしないほうがいいんじゃないかとか、
あるいは何が起きるかわかんないから結局踏み出せませんとかっていうことは、
全然あると思うんだよね。
全然あるね。
前回さっそく全体主義の中で人っていうものは、
人間性を奪い去られて機械になります。
その逆で人間らしく生きるために、
ある種自発性とか自由っていうものを実現して、
他者と掛かり合いましょうっていう時に、
この不可逆性と予言不可能性っていうものが襲いかかってきて、
果たして本当にそれをするのかとか、
それをしてよいのかっていうことが突きつけられますっていう、
こういう地点に人を立たせるわけですよ。
いやー、確かに確かに。
あれでもね、
ドラクエとかFFとか何でもいいけどさ、
RPG操作しててさ、
部屋の中に村人とモンスターのキャラがいっぱい立っててさ、
その人たちに話しかけたら戦闘になるか、
めっちゃいい武器もらえるかみたいな部屋があったときに、
めっちゃ怖いよね。
そうだよね、しかも別に人間だから仲間ってわけでもないってことですね。
そう、そこでめっちゃ強い村人との戦闘に突入する可能性もあるし、
こっちの敵に話したらめっちゃいい武器もらえたりとか、
そっちの敵にやったら意外と弱い敵だったとかさ、
っていう部屋がいっぱいキャラがいたときにさ、
そういう感じでもね、全くヒントなしにぶち込まれて、
よし攻略せよ、みたいなさ、もう帰るよね、もう出るよね。
確かにちょっと嫌だなってなるかもね。
36:00
でもこれが人間が置かれてる状況なんだっていうふうにあるし言っちゃうわけなんですよ、アーレントさんも。
いやーもう誰にも話しかけずウロウロしてたいね、もうね。
それはもうね、孤独な気持ちで。
つながりのないね。
みたいな意味で、やっぱこう絶望にある種落ちるような場面を提示するんですよね。
はいはいはい。
で、さらにね、そこから進んでいくんですけど、
やっぱりアーレントさんはそこに対して当然その先、要はある種救いみたいなものをちゃんと用意してくれてるわけですよ。
それが本当にありがたいなと思うんだけどね。
えっとね、さっき言った不可逆性と予言不可能性。
取り返しは効かないっていうことと、誰も見通しないっていうこの2つを何とかしたわけじゃないですか。
確かにそうね、そこは問題なんだからね。
これが診断結果で言うとね。
全体主義を超えたいですので、自由に人と人がお互いの同じさと違いさっていうのを認めながら生きていく社会にしましょうと。
そうするとこの不可逆性と予言不可能性っていうものはぶち当たっちゃうから、
これは何とかしたいねってことに対して、アーレントさんがじゃあこれがあればいいよって言ったのが、
本当なんかすごいなと思うんだけど、1個目が許し。許すってことで。
2つ目が約束って言うんですよ。
どういうことかって言うとね、これちょっと倫理とか政治的な話も含むんだけれども、
まずさっき言った不可逆性、一回やったことがぶり消せません。
だったら人ってもう何もできなくなっちゃうと思うんで。
そうだね。
でも僕らはある種お互いに許し合うことができる。
つまり第二期が新聞読んだって言って、僕がそんなこと聞くなんてそこがないねってなったときに、
ごめんって言ってさ、絶対許さんって言ったらもう無理じゃん。もうそれ以上コミュニケーションないとこないじゃん。別ゆるですよ。
その人とはあんま話したくないから。
そうそうそう。でもいいよいいよって知らなかったもんね。実は今日こんな大変なことがあってさって話して、
お兄さんそうだったんだ、じゃあごめんねって言ったらお互いに許し合うみたいな。
っていうことってすごく日常的、それこそ小学校でも幼稚園とか保育園でもそういうのかもしれないけれども、
これって実はめちゃめちゃすごいことなんだっていうふうなことにアランチさんは目を向けるんですよ。
つまりね、この許すっていうことがなかったら、僕らは本当に避けて何もできないし、一回犯した罪とかっていうものが一生つきまとう。
39:01
で、あの時ああしなければよかった、あるいはもっとあの時ああしとけばよかったって過去の後悔とかで、自分が自分を許すってこともあるわけじゃん。
ああ、はいはいはい。
他人が自分を許すってこともそうだし、自分が自分を許すってことも含めて、
この許しっていうものがないと人ってやっぱり絶対自由にはなりません。
うんうんうん。
そういうふうなことを考えるんだよね。
確かに。
で、ある種のやっぱりアランチさんの宗教的なことも持ってくるんだけれども、
やっぱりこの許しっていうものをすごく重要視したというか、大事なものだと言った人が過去にいて、
その人はすごいって言うんだけど、それがいわゆるイエス・キリストなんだよね。
イエス・キリストっていうのは、自分が十字架にかけられることによって、いわゆる人類の罪を注ぐというか許すっていうようなことを実現したわけじゃない。
なので、この許しっていうものがあることによって、宗教的にもそうだし、あるいは政治的にもちゃんと、
例えば罪を犯した人とか、何か悪いことをした人が一生、お命を注げないとしたら、
やっぱりそれってもう関係性が閉じるし、たぶん恨みつらみだけが増えていって、絶対に交わらない。
現れの空間が出ないじゃないですか。
そこに対して、今の日本で言うと、もちろんそれは一定の法律とかさ、そういった仕組みがあるわけだけれども、
ちゃんと罪を償えば、10年経てば社会復帰が許されるとか、そういうことも含めて、
そういうふうなことをちゃんと許すっていうことを、個人のレイヤーだけじゃなくて、社会のレイヤーがちゃんと保障しているっていうことがすごく大事だってことも考えるんだよね。
なるほど、なるほど。
それがあるからこそ、やっぱりちゃんと悔い改めて新しい生活を送れるとか、新しい関係ってものをちゃんとつなげることができる。
なるほど、確かにその表し方もいろいろだもんね、確かに。
うんうん、あ、ごめんなさい。現れの空間の現れ、表しってこと?
あ、そうそうそうそう。現れの空間に自分をどう表すか、みたいな。
そういうことね。
なんとなくただコミュニケーション、ただのコミュニケーションを考えてたんだけど、それが、例えば満腹するとか、強盗に押し込むみたいなこともあり得るんだもんね。
言葉と行為だよね、活動なんて。
そう、言葉と行為。
行為だからね、あるんだ。あと殴っちゃうとかね。
42:00
そうそう、全然あるある。
そこに対して、やっぱり許すってことができないと、もちろんね、絶対に許せない憎しみをどうしたらいいんだってことももちろんね、人生の中にあるわけだけどね。
その気持ちはその気持ちとして個人に尊重しつつも、やっぱり許しっていうものが一切ない人間関係とか社会っていうものは、やっぱりどうしても成り立たないよねってことも同時に言えると思うんだよね。
そういうふうな話で、この不可逆性っていうものを乗り越えましょう。
あともう一個ね、予言不可能性ってあったと思うんだけども、これを乗り越えるのが約束です。
約束ね。
約束って、人と人がさ、明日16時にここで待ち合わせましょうとかって約束じゃん。
なると、未来がちょっと見えるじゃん。
そうね、何があるかわかんない。
言うよ。
何があるかわかんない。実際は会えるかどうかわかんないけれども、少なくともそこでいたら会えるかもしれない。
お互いに会おうという意志を持っているっていうのが約束だとしたときに、
約束をすることで、人っていうものはその予言できない未来、全く見通しが立たない未来に対して、ある種安心できる立ち位置というか、見通しって持つことができるっていう。
そういうふうな話なんですね。
そうね。
これは約束ってもちろん個人の話もそうだし、例えばいわゆるスローガンとかもそうだと思うんだけれども、会社であれ政党であれ、マニフェストとか立てるじゃん。
これって本来はやっぱり政党と国民との約束なんだよね。
自分たちの党が政権を取ったらこういうことを実現しますとか、こういうふうにして世の中をより良くしていきますっていうことを政治の人たちは掲げるわけじゃないですか。
それが本当に起きるかどうかわからないし、実現できるかどうかも言ってわかんないんだけど、そこに対してそのほうが良いとか、そういうところに自分も近づきたいっていうところで投票をしてたときに、これは約束の良い面です。
分かるとおり、悪い面で言うと、要は全体主義的な話だよね。
つまり、掲げられた約束が誰かを排除しましょうというか、特定の人のためだけに都合のいい世の中を作りますってなると、その特定の人には喜ばれるけれども、当然人っていうものはやっぱり排除されるっていうことになるから。
45:00
その人たちからすると、じゃあ日本から出ていこうとか、この国から出ていこうっていうふうなことが行動として現れるわけだよね。
約束っていうのは、さっきの許しっていうものも基本的にはポジティブ。不可逆性と予言不可能性を乗り越えるっていうものなんだけれども、
そもそも人間の関係性というものは良義的ではあるから、本来的には現れの空間というものは良い関係というか、お互いの生活をより良くするものではあるんだけれども、
現実的には兄貴が言ってくれた通り、盗むとか、お互いに傷つけ合うとか、約束したことがあるし、より悪い方向に行ってしまうということもあり得る。
まあまあそうだよね。だって、自分の生活を良くするとか、自分たちの生活を良くするとか、自分たちの正義を貫くというか、
良い方を選択していくってなると、それはぶつかる時もあるよねっていうね。
少なくともそれが建設的なぶつかりであれば、やっぱり今日の冒頭で言った感傷的生活じゃない、一人でこもって市民と向き合うっていうことじゃなくて、
ちゃんと活動的生活において他者と触れ合うとか、複数性の中でちゃんと他者と関わっていくってことにおいて、この世界ってものが、私、許しと約束によってより良くすることができる。
ああ、確かにそっか。複数性みたいなところが前提にあれば、まだ対話の余地があるというかね。
そうそうそうそう。自分たちを優遇するっていうことに対して、やっぱり強いてあげられてる人がいた時に、やっぱりその人たちのことをちゃんと考えるとか、
そうした人たちにとってもちゃんと良い社会を作るってことは、ちゃんとその出会いというか、現れの空間があればできるはずなんだよね。
なるほどなるほど。一方的にはならないし、一方的な場合は現れてないというか、その空間ではないってことだもんね。
そういうことを交流できないってはず。
はいはいはい。
はい。そんな形で、かなり分かりやすく今日話しちゃったから、冒頭の感傷的生活と過疎的生活から最後の許しとか、約束まで繋がったりし、よくも悪くも繋げちゃったんだけれども、
でもちょっとこれは申し訳ないと思いながらですけれども、ちょっと僕もちゃんと人間の条件を全部読めてるわけじゃないんですよ。
本来読むともっといろんなことも書かれているし、解説本の段階でももっと違う議論ももちろんあるんだけれども、
一旦ね、このハンナアレンとかいうところの全体主義、前回話したところから、いかに人間が自由になればいいんだけど、その自由ってやっぱり簡単ではない。
48:10
はいはいはい。
やっぱりありきたいものではない。
うんうんうん。
っていう話としての今日のテーマってものをちょっと思ってきた。
なるほどね。ごめん、哲学素人として一個質問なんだけどさ。
ほいほい。
たまにハヤトがさ、この人間の条件はちゃんと読んでないんだけどっていう時の、読んでないっていうのはあれだよね。
解説本とかさ、そういうのは読んでるけど、原著を一時一句全部読んだわけじゃないんだけどっていう話なんだよね。
そういうこと、日本の翻訳のものだけれども、それ自体をきちんと読んで、自分の中で理解したわけじゃないよっていう話。
っていう話だよね。
ごめん、素人から聞くと、ハヤトがハンナ・アーレントの台本を書くにあたり、
まああんま本読んでないんだけどねっていうふうに受け取る。
ああ、そういうことか。
そういうことかと思ったけど。
っていうところがあるから、何か誤解されるかなーみたいな。
そういうことじゃないってことはね、もちろんね、わかるとは思うんだけど。
限られたことしかできないってあるけれども、一応ね、もちろんね、何冊か本を読んで、論文とかを読んで、
はさせていただいてはいるものの、それでは足りませんという話。
もちろん足りませんっていう話ね。
というふうな感じでね、今日ちょっとお話してきたんだけれども、
やっぱりこうね、前回のアーグシンスの愛、通知だけども、やっぱりこのいわゆる永遠のものとか、
心理とか、もっと言うと現実がつらければつらいほど、そういう世界に救いを求めというか、
やりたくなる気持ちはすごくわかるというか、それはあると思うんですよ。
まあまあまあ。
救いを求めたい。
でもやっぱりアーレンとは、それも含めてではなくけれども、やっぱりこの現実世界とか、
他者と生きるっていう、この地上を大事にしましょうということが一貫するというのはと思うんだよね。
そうね。
逆にそうしないと、やっぱり一人一人の人間というものが、より大きな社会とか国家というものから、
やっぱり人間といったものを剥奪されるし、人間として生きるということすらやっぱりできなくなってしまう。
そうね。
そう。
地点から考えていくとこういうふうな話になるよね。
そんなことかなと思うんだよね。
はい。
でね、やっぱりこう、なんだろうな、結構今日はね、希望とか救いの話だと思うんですけれども、
でもねと、さっき言ってた現れの空間とかってあったと思うんだけど、
51:01
結構これって今の現代日本においても割と少なくないですかっていう話なんだよね。
いやー、それは多いよね。結構リアルに。
さっき言ったお座れさんとかが誰住んでるかわからないとかもそうだけれども、
人と人がちゃんと生きている社会においてって実感って、
正直ほんと身内家族とかちょっと仲の友人とかさ、
仕事の中でもちょっと距離が近い人とかそういう感じだと思います。
やっぱりこの現れの空間って今どうなってるのとか、
それに対してどういうふうにやっぱり改めて僕らは生きていくのっていうふうなことも、
これやっぱり人間の条件っていうふうな話から出てくるので、
これをね、次回取り上げることで、
今日は前回のテーマを土台にしながら、
このいわゆる共通空間とかね、
そういった話なんだけど、そういった場みたいなものをどういうふうに大事にしていくか。
そういうことをね、次回のテーマとして取り上げたいと思っております。
そっかそっか、今回前半だもんね。
終わった、満足してたけどさ。
あらわれの世界の感覚を大事にしてこうって思って、
わかった気になってたけど、学んだ気になってたけれども、
そっかそっか、まだあるんだね。
ちょっとね、前回も今回も情報量濃かったからね、
なかなか施策しないところもあるかなとは思うんですけど、
一旦ね、ちょっとバーッと話した上で、
雑談会かその手前か、ちょっとまとめ会みたいな感じで話したいなと思って、
一旦はね、このアーレントさんの考えたことというか、
議論流れっていうものをちょっと一緒に取り上げることを引き続きやっていきたいと思いますというような感じですね。
はいはい、わかりました。
次回ですね、人間の条件第2回と後編ということでやっていきたいと思います。
では、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
53:16

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