はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回ニーチェ第4回ということでやっていきたいと思います。
はい、これまでニーチェがダイナマイトだよとかハンマーだよっていうところをですね、いわゆる破壊工作をいろいろ見てきたと思うんですよね、ニーチェの。
なんだっけ、ヘイデルとかがやってたシンポシカンみたいなやつもぶっ壊したし、で虚無主義みたいな話になったし、
あとあれか、道徳が、なんだっけ、君主の道徳と奴隷の道徳だみたいな感じで、ルサンチマンだみたいな感じで、そっちもぶっ壊しちゃった4年までだよね、今のところ。なんか壊し続けてるよね。
そうそうそう、っていうところがあって、もう僕らが信じてるこのように心理、これを守ればいいっていう風な価値があるとか、
神の世界なくても人の世界にある愛とか平和とかそういう道徳的なものがあるっていうのも打ち壊して、もう何もなくなりましたみたいな状況です。
やけの原になりましたというのが、第1回、2回、3回を経た今の状況ですね。
というところで、今回と次回ぐらいで一旦終わりかなと思ってるんですけども、その世界をどう生きていくのよとか、その世界に果たして救いというか、
僕らはどうしたらいいんだいみたいな、そういうところをお話していこうと思っております。
はいはい、だから壊して終わりじゃないっていうのがありがたいのかな、みたいな感じだね。
そうそうそうそう、やっぱり人間の中ではそれを壊したいわけじゃなくて、新たな生き方っていうものを真摯に追求しつくした結果壊しちゃったんだけど、
じゃあさえその先へっていうところをもちろん考えてるわけなんだよね。
なるほど。あれじゃあ、都道としてはあれだね、虚無主義と一緒か、真摯にこの世界を生き抜こうとした結果壊しちゃったねみたいな。
そうそう、だから神様とかを信じ抜こうとした結果疑って、信じられなくなっちゃったみたいな感じと近くって、
本当にこの世界のことを考え抜いたからこそ、やっぱり世界というか、今のままではダメだっていうことをちゃんと気づいたみたいな感じなんだよね。
今日もキーワードいくつかあるんだけれども、一番大きいのが力への意志っていう言葉です。力への意志ね。
これ、権力への意志とかって言われたりするんだけど、権力ってどうしても政治権力とか組織権力とかってそっちの方に行っちゃうから、結構力って言われることはあります。
英語だとパワーだからそうなっちゃうみたいな感じなのかな?
パワーね、パワーなはずだな。
イメージとか比較してほしいのは、ショーペンハワーの性への意志なんですけど、覚えてるかな?
まあまあ、なんとなく意志と表彰の意志ね。
ああそうそうそう、っていう、この世がもともと意志であって、それは方向性とかはもったいないカオスなものなんだけど、
僕ら人間みたいに生きる生き物にその意志が入ってくる、その中で働くと、まさにこの生き続けるとか、生存し続けるっていうところが唯一絶対の、なんだ?
ザラキになっちゃうよ、みたいなことを言ったと思うんですよね。
なるほどなるほど。
そう。で、みんちゃんはその性への意志とか、ショーペンハワーが言った意志っていうものをさえ乗り越えようとしたっていうのがこの力への意志なんですよ。
じゃあその意志っていうのはショーペンハワー的な意志みたいな概念をちょっと引き継いでるっていうか、踏まえてるんだ。
そうですそうですそう。そことを比較するとちょっとわかりやすいかなと思うので、そこも何となくたまに起きながら今日ぜひお話聞いていただければと思っております。
わかりました。
はい、いうところなんだけれども、そもそもなんでそういう力への意志とかってことを言い出すのかって話からなんだけれども、
今みなさん焼け野原にいますと、もう神も道徳もない、本当に何を信じていいかわかんないところにいると思ってくださいと。
いうときに、じゃあどうしようかってことを考えていくわけですよね。
で、やっぱり近代哲学というのはもちろんデカルトなんですけど、悪い思う上に悪いありって言葉があったときに、やっぱり思うっていう思考とか理性っていうものが先で、
体とか物質的なものは後というか、そういうふうな心身二元論っていうものを結構何回かお伝えしてきたと思うんですよね。
まあそうだね、だいぶ忘れちゃったからね。あのデカルトですけどって言われても、まあどの?っていうのがちょっと出てくるけども、まあまあ一旦。
はいはい。やっぱりデカルトはもう100回くらいやってもいいね、本当に。
ぜひお願いします。今ニーチェも2回目だしさ、カントとかヘイリーも2回目やったけれども、
イエムもソクラテスとかもさ、プラトンとかもさ、もう何回でもいいからぜひやってほしい、忘れてるからどうせ。
そうね、たぶんちょっとデスコもたえると思うんですけど、じゃあもうちょっと言うと、近代哲学の父デカルトですけども、
さっき言うとね、イエムの悪い思う上に悪いあり小義とエルゴーするんですよね。
要はこれが理性変調というか、やっぱり人間というのは理性というものを使って神の存在も証明できるし、
何なら全員が同じように理性というものを持っているのだから、正しく働かせれば正しい認識に全員がというか、
正しい理性を持ってさえいれば全員がいけるよねみたいな、そういうふうな発想につながっていくわけなんですよね。
はいはい、だから理性なやつダメだぐらいのむしろね、逆に。
そうそうそう、逆に言うとね、働かせられてねえよあいつみたいな感じになっちゃったけど、
それがいわゆる神様的な世界とか、プラトンの二元論だよね、理性の力で真実を見抜きましょうとか、
そういう発想とすごく相性がいいっていうか、もともとそういうものはくっついているわけなんだよね。
うんうん、そうだね、はいはい。
それをニーチャーは疑ってきたじゃないですか、神様ってものがいないんだとかさ、明確な真理と価値もないんだっていうときに、
当然この理性が上で体が下みたいな、そういう発想も疑うわけですよ。
うん、なるほど、ほうほうほう。
で、やっぱりざっくり言うと、前回のショーペンハンのときもあったと思うんですけれども、
彼もね、いろんなところに行って苦しんでる街の人が見たときに、
なんかあれおかしいぞと、世の中ってどんどん良くなってるって言ったけど、
でも現実を苦しんでる人もいるじゃないかっていう、そういう自分の感覚を大事にしてたわけじゃないですか。
うんうんうん。
っていうときに、ニーチャーっていうものもそこをすごい大事にしていて、
もっと言うと、理性とかっていうよりも先に、むしろ抑えがたい衝動とか本能みたいなものとか、
そういうものがむしろ根底にあるんじゃないかっていうことを考えるんですよ。
おー、なるほどなるほど。
これって実は現在の考え方にすごい強くって、
兄貴とか皆さんも聞いたことがあればなんですけど、
悲しいから泣くんじゃなくて、泣くから悲しいのだみたいな、
そういう言葉って聞いたことない?
あー、あるし、やる気なんてないのだみたいな、やれば後からついてくるのだみたいな。
あーそうそうそう、それに近いかな。
やる気が理性かっていうのはちょっと置いておいたと思うんですけど。
つまり、悲しいっていう、いわゆる頭の働きとか、
このことを理解した、この出来事は悲しいのであると理解したから、
その後に脳が信号を発して泣くっていう順番じゃなくて、
これって外のものを受け取って内部で処理してアウトプットするっていう、
そういう発想じゃないですか。
そうじゃなくて、実は泣くという構造によってそこからフィードバックループが起きて、
今自分は泣いているっていうことは悲しいという状況なのだと理解するっていう、
こういうルートもどっちだけっていうわけじゃないらしいんだけども、
そういう身体からのフィードバックもあるよねっていうのが、
たぶん現代の結構一般的な発想なはずなんですよね。
それをニエチは200年先取りしてたみたいに言えるんだけれども、
今この理性変調の理性っていうものがすべてを司っている時代において、
実は体とか身体的な反応、さっきの衝動とかっていうのも、
何か縋ってられないとか落ち着きないとか、
そういうことが先にあって、
だから自分は焦ってるなとか、
だから自分は困っているなとか、
そういうふうに理解されるっていうのは後だよねっていう、
そういうことを考えるんですよ。
おー、そうなんだ。
つまりこれは、神様とかっていう既にある光とか理想みたいなものを、
やっぱり理性で捉えるっていうようなルートじゃなくって、
違うルートから人間っていうものを考えようぜっていうのが発想なんだよね。
あー、はいはいはいはい。
これでOK?
OKOK。
こうでこうでこうだから尊いんですよじゃなくて、
多分これは想像だけれども、
先にめっちゃ尊いみたいな衝動があってから、
こういうことかみたいな、だから尊いんだみたいな、
そういう順番みたいなね。
元々そうだったんじゃないんですか?みたいな疑問もあってもね、
いいかなと思うよね。
そうそうそう。
だからさっきも言ったより、今は皆さんね、
焼き野原にいて、もうあらゆる価値がないですと。
あそこにヒリズムの大地ですって時に、
やっぱりその外から取ってくるんじゃなくって、
内側から出てくるもので勝負しなきゃいけないわけだよね。
で時に兄貴言ってくれたような、なんかわかんないけど、
涙が出てくるとか、なんかわかんないけど、
近づきたくなるとかっていう時に、
これは自分は、すごく尊いと思っているんだとか、
感動で、すごくそれの生き栄の根を抱いているんだとか、
っていうことはあそづけだっていう、
そういうふうな発想をするんですよ。
そういう発想をちょっと持ってみてほしいんですよね。
はいはいはいはい。
じゃあさっき進行みたいな話しちゃったけれども、
デカヤト的に言うと、
ハヤトが、我思うゆえに我ありって言ってくれたけど、
我ある思うゆえに我ありっていう順番もあるよね、
みたいな感覚ってことは。
あるというのも認識だとするとかね。
なんか難しい話になっちゃった。
難しい話になっちゃったけど、
私が存在するのだっていう感覚って、
生じゃなくない?
なんていうのかな、
例えばここにゴツゴツした石に足をぶつけて痛い、
痛いというのもあれだけど、
ぶつけたとか、動けるとか、
それがまず先の生の感覚だと思うんだよね。
痛いとか?
痛いとか、動くとか。
精神現象学の精神君みたいな話、
そういう話したよね、確か。
ぶつかり合って自分というものを知るみたいな話をしたと思うんだけど、
多分それに近くって、
自分があるっていうのは、
もう既に自分を客観視したメタ的な発想だから、
理性の働きなんだよね。
うわー、そうなの?
ぜひね、ちょっとこの、
一回止めてでもやってみてほしいんですけど、
自分があるっていう感覚を内側から自然に捉えるって、
多分できないんじゃないかと思うんだよね。
何かを通じて、
例えば他のものと比較して、
目の前の冷蔵庫に対して自分があるとか、
自分の心臓の鼓動が鳴っているから自分があるとかっていう風に、
何か多分手続きが必要なはずなんだよ。
なるほど。
なるほどね、確かに確かに。
今物理的にちょっとやってみると、
床に今座ってるんだけど、
そことの接地面の感覚で自分は物理的に存在するのだな、
みたいな感覚に確かになるし、
精神的にも、
ハヤトと例えば会話してるから、
精神的にも自分もいるのだろうみたいな。
確かにね。
なのでさっき言った、
我を思うゆえに我ありをひっくり返して、
我あるゆえに我思うみたいにしたくなるんだけど、
あるっていうこともやっぱり思考とか理性の働きの結果だと思うので、
もっとシンプルに、
ただ、なんだろうな、
動けるとか、ぶつかるとか、
胃のあたりがムカムカするとか、
そういうことが身体的なものなんだよね。
なるほど、じゃあそういう意味では逆にしなくていいのか。
我を思うゆえに我ありっていうのが実は、
デカウトが本当にそう思ってるとしたら、
自分の感覚、衝動みたいな感じだっていう感じか、むしろ。
もしそうだね、
思うというものを本当に身体的に感じられているならそうだけれども、
でも別に脳の電気信号を僕らは感じるわけじゃないじゃん、
何かを思考するときに。
うん、やっぱり思うっていうのはどっか抽象的なんだよね。
やば、なんか変な地雷踏んじゃった。
そうだね、気軽に言ってみたら思ったよりここは。
いや、ハヤトの言うことよくわかったよと思ってさ、
それから逆にすれば、たぶん今の話ちゃんとなると思ったら、
全然違くてびっくりしてる今。
いや、コミュニケーションの難しさですね、本当にね。
恐ろしいね、ごめん。
さっきせっかくしてくれた衝動がみたいなさ、
痛みがみたいな話、分かんなくなっちゃった。
オッケーオッケー、でもね、
ちょっとじゃあ先に進んでみながら、
もう少しこうやって振り返ってみるといいかも。
お願いします。
そのぐらいやっぱり僕らって頭で考えて生きてるんだよね。
だからこういった理性じゃない方の話を今知ってるわけだよね。
そうそうそう、もっと言うと、やっぱりもともと、
特に当時はそうだけど、やっぱり頭とか理性っていうものが、
主役というかそれしかないわけよ、哲学をしようと思ったら。
はいはいはい。
それを兄ちゃんはひっくり返して、
体っていうものから哲学を立てようとか、
新しい価値を打ち立てようってする。
体で?はいはいはい、オッケーです。
そう、体。なぜなら今もうやけの腹になって、
信じるべき価値とか目を向けるべき外部っていうものが
もう全部なくなった状態だから、
理性がどんなに外を探し回っても、
その頼りにするものがないんだよね。
はいはいはい、なるほど。
逆に内側に目を向けてみても、
そのじゃあ内側っていうものも結局が、
思考が作り出したものだから、
それを見ても結局何も出てきませんっていうときに、
頭じゃなくて体から始めようっていう、
それが理性を超えた大いなる理性だっていう風な、
そういう風な発想をしていくんだよね。
わー、オッケーです。はい、了解しました。
ちょっとね、これはじゃあ補足になればと思うんだけど、
なんていうのかな、
だいぶ語弊を恐れて言うけど、
有意識にちょっと近いかもしれない。
うんうんうん。
有意識って要はあらやしきとかまなしきとかって、
よくわかんないけど大きな領域があって、
それを僕らの心とかが理解しますよみたいな、
そういう発想だったの覚えてます?
覚えてるけど、難しい話をだいぶ難しい話で
例え始めたなってまた。
オッケー、やめよう、やめよう。
これ無しにしていい?
有意識の説明でまた一回言いかかるでしょ。
やめようやめよう、オッケーオッケー。
っていう風に体っていうものを主役にしていくってあるんで、
ちょっとそれがどうなるのかっていうのを、
この後少しお話しながら馴染んでくればいいなって思いながら話します。
すいませんでした、地雷踏んじゃいました。ごめんなさい。
いやいや。
前に体に戻ろうみたいな話っていうのも、
思いつきだったりとか何となくひっくり返したってわけじゃないんですよって話をちょっとするんですけど、
ニーツはですね、ちょっと今回あんまり触れてないんだけれども、
もともといわゆる歴史というか、
古代ギリシャみたいなところの研究をしてたりするんですよね。
で、いわゆるソクラテス以前みたいな、
前もスペイデスラジオでもソクラテス以前の哲学みたいな感じで、
タレースとかイオニア派みたいな、
ソクラテスより前の哲学者の話をしたと思うんですけれども、
トラトンじゃね、
哲学って深掘りしようとした時に、
ソクラテスを超えて、さらに過去ってどうだったのかとかっていうことを考えていくんですよね。
ソクラテスとかプラトンだけれども、
やっぱり大元の神様と、神の世界とこの現世界が違うっていうのは、
もともとプラトン的なイデアの発想を受け継いでるわけですよ。
その世界観がずっと続いてきてたんだけれども、
やっぱりそれだけが唯一の物事の考え方かっていうと、
当然違うよねって話なんだよね。
それこそソクラテスの前のヘラクレイトスっていたと思うんですけど、
万物は流転するっていうのがキーワードで、
これ本人言ってないけどねみたいな話をした記憶があるんですけど、
やっぱりそういう世界っていうのはむしろ移り変わっていくものだとか、
絶対的な固定的なものなんじゃなくて、
むしろ流れみたいなものが世界の本質なんだっていう人も当然いたわけですよ。
なるほど、なるほど。
なので別に、
外に絶対的な価値があるとか、
固定化された神がいるっていうことも一つの思想の時代でしかなくって、
そうじゃないものもあるよねっていうときに、
それを人間ちは取り戻そうとするんですよね。
おー、なるほど。その自由さというか、
そういう感じか。
そうそうそう、移り変わりってもの。
これもちょっと一個キーワードなんだけれども、
ディオニューソス的っていう言葉があって、
ディオニューソス。
ディオニューソス?
ディオニューソス。これ神様の名前ですね。
へー。
こっちは夢だと思うんだけど、アポロンってあるじゃないですか、
アポロン神殿のアポロン。
こっちは太陽の神で夢だと思うんですけれども、
人間はこのアポロン的なものと、
ディオニューソス的なものっていうのを対比するんですよ。
どういうことかっていうと、アポロンってイメージは、
ギリシャの彫刻ね、
円盤投げの彫刻とかあったりするじゃないですか、大理石の。
あれって要は、金星といったら、
筋骨粒々の若い男性で、
要は肉体美の理想っていうものを表現してます。
はいはいはい。
それは僕たちは当然、追えることもないし、
もちろん壊れたりはするんだけれども、
そういう永遠不変の美っていうものを表現するみたいな、
そういう発想がアポロン的だっていうふうに、
ニエチは結びつけるんだよね。
ほうほうほいほい。
これがつまり、いわゆるプラットフォーム的な美でも、
イディアとか、永遠不変の美とか、
逆越性とかっていうものがあって、
それを表現するっていうことを、
要はこれまで施策展をずっとやってきたんだっていうふうに捉えます。
ふんふんふんふん。
でも実は、そのアポロンとは違ったジオニシスってものがあって、
これはお酒とか防水って、
いわゆる狂乱みたいな、
そういう割と乱チキ騒ぎするような神様のイメージなんですよね。
ふんふんふんふん。
つまり彫刻とかで留めるんじゃなくって、
むしろ歌って踊って盛り上がって、
そこでパッて開いたら、
もう次の日はまた日に戻ってますみたいな。
ふんふんふんふん。
そういうふうな働きとか営みもあるよねというか、
むしろそれが古代の芸者も大事にされてたんじゃないかっていう、
そういうことを考えるとか見出すんですよ。
うーん、そうなのね。はいはいはい。
これはさっきのヘラクロイテスに近く。
要は、何か固定して、
美みたいなものを永遠にするんじゃなくって、
いわゆる変化の流れの中に、
ものすごく盛り上がる、
狂乱した時もあれば、
そうじゃない、普段の時もあるって、
日本でいうと晴れ時みたいな感じだと思うんだけど、
そういう変化の中に、
自分の理想を見出していくっていうふうな、
そういうふうな美しさもあるよねっていうことを考えるんですよね、日は。
あー、なるほど。
っていうのをさっきの理性と体、頭と体に結びつけると、
頭とか理性っていうのはアポロン的で、
つまりは固定化された真実とか、
唯一絶対の何か正しさがあるっていうふうなものと繋がってるんだよね。
今言ったディオニソスっていうのは、むしろ体の方で、
体だから別に傷ついたり治ったり、いろんな変化はあるけれども、
それによって喜びとか悲しさとかっていうものを、
むしろ体が動くことで我々は悲しいとか楽しいとか、
そういうものを後から理解できるんだっていう、
そういうふうな発想があるじゃないかっていうふうに対比させるんだよね。
おー、なるほどね。はいはいはい。
そう。そういうふうな時に、今もう、皆さんまだ荒れ地にいますと。
全ての真理が壊れた荒れ地にいるんだけれども、
この荒れ地で役立つのはどっちかっていうと、
どう考えてもこのディオニソス的にはものじゃないかと。
あー、なるほど。はいはいはい。
つまり、固定化されたものがないのに固定化した美術とかを縋ってもしょうがないし、
頭を使ってどこに探してももうないんだから、
そうじゃなくて、僕らが持っているその体とか、表現力とか、
そういうものを使って新たな価値を作るっていうことこそが大事だよねっていう、
そういうことを新たな価値として打ち当てるんだよね。
うんうん、なるほどなるほど。
ちょっとつながってきた、さっきまでの。
あるいは前回までのいろんなものを打ち焦がしてきた話と今回とつながってきたかな。
今回だいぶ寄り道してしまったけれども、やっとつながった感じがするね。
あ、よかった。
ここにチャンスした。
なるほど。
丁寧に体とか、そういう何ていうのかな、何かを生み出していくっていうことを大事にします。
だからあれだもんね。
全部壊れちゃった世界で、またゼロから何か作ろうねっていう時に、
異性とか、そっちだともう材料ないよねみたいなね。
そっちが種にはなり得ないよねみたいな感じだね。
そうそうそう。何しようと思っても、種もなければ土もないし、水もなければ光もないっていう、
そういう世界でどうしますかっていう話だから。
そうなると自分自身が芽吹くしかないみたいな、そういう風になってくるよね。
俺が種だ!みたいな。種であり光であり水だ!みたいな。
危な。そう聞くとちょっと危ない感じになってくるけど。
でも本当そういうことなんだよ。
さっきさにきがね、やっぱりデカルトの我を思うように我々っていうのを反対させたのか反転させたのかなって言ってくれたんだけれども、
そもそもその構造さえ全部打ち破って投げ捨ててるから、
やっぱり何かの使い回しとか、そういうことでは絶対にならないんだよね。やっぱりニーチャー。
そうだね。
恐ろしいでしょ。
なんだろうな。まず話はわかったって感じだね。
そうだね。腹落ちはしないけどみたいな。
あとそれをやれって言われたときに困るけど、まだ全然困るけど。
避けって言われても困るけどさ。
間違いない。今言ってね、柵とかさ、花開くみたいなやつとかに、
それ本当にやらなきゃいけないんですか?とかさ、どうやるんですか?って思ったよね、仮にここまでついてきたとしてもね。
そうだね。だし、花開くのがいいんでしたってみたいなね。
開かなくてもいいんじゃないでしたってみたいなね。
ヘーゲル的なさ、新法主観的なところへと、どっちのほうが価値高いんでしたってみたいなさ。
道徳的にどっちが正しいんでしたってみたいなさ。
常にそういう多分、自己批判的なとこもあるから、柵を落としても果たしてみたいなね。
そういうやつになってそう、その世界にいるやつは。
ここがニーチェの面白く、やっぱりニーチェらしい。
ニーチェの個性が出るところだと思うんだけども、
やっぱりその、迷うじゃないですか、本来。
普通であれば柵か柵ないのかとかさ、生きるべきか死ぬべきかみたいな感じになってもおかしくないんだけれども、
ニーチェは言うんですよ、いやいやと。
ここで、その絶望的な何の価値もない世界においてこそむしろ、
自分の力を広げていくとか成長していくとか、
乗り越えて新しい価値を打ち立てていく。
これが実は人間の根本なんだ、というか。
このショーペン・ハウアーが言った生の意志っていうものを乗り越える、
人間が本来持っている力への意志なんだと。
そういうことを言うんですよね。
つまり、そこには咲く咲かないかっていう発想はなくて、
その状況において人とは咲くことを求めるものであるっていう、
そういう人間感なんですよ。
そうなんだ。
だから、咲くか咲かないか自分で決めろじゃなくて、
いいから咲けというか、咲くでしょうみたいな。
咲くものだっていう。
あなたはっていうか、また構造の話だね。
我々人類は咲くでしょうみたいな。
そうそうそう。
というか、「咲け、お前たちよ!」みたいな感じか、ニエチからすると。
あ、そうなんだ。そこはもう構造じゃない、
ここからはちょっと根性論みたいな話になってる?
若干なってるかな。
構造的にそういう状況になったらってもあるけれども、
前回、前々回から言った通り末人っていうさ、
もう心理とか無くなったとしても、
日々幸せだし、それに生きているし、ハッピーで我々はみたいな。
これ以上かき回さないでくれみたいな話をしたじゃない。
ニエチからすると、それはもう本当に救いようのない人間の堕落した姿みたいな感じなんだよね。
だから、そういう人たちに対して、いやいやお前ら現実を見ろと。
我々は荒れ地に立っていて、倒れるものはこの体一つ、自分の身一つで、
その時にどう生きていくんだっていう時に、今こそ咲こうではないかとか、
咲きたいという欲求が湧き上がってくるではなかろうかみたいな、
そういうことをある種訴えるというか考えるんだよね。
なるほどね。ニエチはどう表現してるんだろう?
花が咲くみたいな話をしてるの?
そういう話はしてないね。
今ちょっと3年とかって話したらそれに乗っかったけど、
例えばなんだけれども、成長みたいな言葉を使うこともあって、
それはいわゆると、より一層所有しようとすることとか、
より一層大きくなることとか、
目的を持ってそれに近づくっていうのは、より一層強くなろうとすること?
みたいな話もあるし、
自分自身を克服するとか、
さっき言ったように価値を自ら作り出すとか、
そういうふうな表現をしてるかな。
そうなんだ。
なるほど。
なるほど。だからあれか。
全部さ、今の話って、ヘイゲルに話してもいいことだって言いそうじゃん。どう?
どうだろう?ちょっと教えてほしい。
成長するとかさ、自分の弱さとか、
弱点を克服してとか、もしくはいいとこ伸ばして強くなっていこうみたいなさ、
なんかヘイゲルとかヘイゲルが好きな人、当時ね。
もう、なんか固くめそうじゃない?
あー、オッケーオッケー。
で、だからこそ、この虚無主義だったりとかレサンチマンっていう、
そこを通り抜けた上でじゃないと、この話をしないと、
ニーチェの本当にいようとしている成長みたいなもの。
進歩みたいなものだよね。
ある意味一周回って、ヘイゲルとかの進歩主観と似たような話というか、表現になっちゃってるかもしれないんだけれども、
この虚無主義レサンチマンを通ったことで全く別のものが生まれたよっていう、
ここに気づくというか、そこを踏み落ちてないと、
このニーチェを誤解しちゃうよみたいな感じになるのかなって今思った。
はいはいはいはい。
でも面白いね、確かに今の話だけだと近いとか似てる、
要は何か目標とか目的があってそこに向かうっていう発想になってるなって思ったわね。
もう一個今の話でいくと、言葉をちょっと増やしたいんだけれども、
ニーチェが特徴的だったように、遠近法主義っていうのがあって、
遠近法っていわゆる美術とかで、絵を描くときに近くのものが大きくて遠くのものが小さいみたいな、
あの遠近法なんですけど、要は誰の視点からものを見ますかって話なんだよね。
つまり、ヘイゲルとニーチェが仮にいたとして、成長は大事、自分を乗り越えていこう、そろそろだと言えたとしますと。
僕も言えるかわかんないんだけど言えたとして、ヘイゲルはその成長を先に絶対精神の満ちた世界があるって言うんだよね。
ニーチェはそんなものはもちろんあり得ないって言うわけよ。ここが絶対的にわかり得ないところなんだよね。
なるほどね。その先の世界観というかね。
何を目標にしますかっていうときに、ヘイゲルは絶対精神とか世界の発展っていうものを目的にします。
ニーチェは何を目的にしますかって言われたら、あなたが決めることだとしか言えないんだよね。
これが遠近法って話。要は自分の視点の中で、これこそが自分の生きる目的だ、生きるに値するものなんだ。
要は自分はこういう風に咲きたい、赤い花として咲きたいとか、白い大きな花になりたいとかっていうのは良し悪しがないんだよね。
道徳も全部超えてる世界だからってことはね。
だからそこに善悪の基準もないから、そういう意味では何をやってももちろんいい。
それぐらいの意思っていうものに従う意味ではね。それを他人が気をつけるのはダメとかっていうのも道徳な話だから。
最悪、自分以外の存在を全員殺し尽くしたいとかっていう人がいたとしても、それ自体は否定はできないんだよね。
また別のレイヤーで否定はするとは思うんだけど、本当に心の逆さを望む人がいたときに、
それを望んだということとか、それを身体から受け取って行動しようとすることを止めるロジックは、この場においては今ないんだよね、まだ。
この話の流れというかね、この世界観、今の段階でね。
これは次回乗り越えるのが英語会議っていう話なので、それはまたやるんだけれども。
そうなんだ、あるんだ、ちゃんと。
ある、ある。今この瞬間で言うと、やっぱり、例えば前回言った道徳な話でも、
世界は平等でありできた、みんなが美しい花になることがいいのだっていう人もいれば、
いやいや、俺だけが綺麗な花になればいいのだっていう人もいればっていうふうに、やっぱりいろんな考えがあるじゃないですか。
これもやっぱり防衛はできないんだよね、絶対に。
そうね、一人一人が歓喜でそう思ったら無理だよね。
そうそうそう、そうなんです。
なので、さっき言った遠近法主義っていう、自分の見方っていう話でいくと、
正しい見方とか、外に頼りになるものがないんだから、
自分の身体、目で見たものとか、音で聞いたものっていう、そういったものをフルに使って出た目的とか目標とか方向性、
それに従っていくことしかできないんだっていうことが、力への意志っていうふうな話なんだよね。
はいはい、なるほど。
はい、ここまで荒れ果てた神も道徳もなくなった世界に、どういうふうなロジックで生きていますかっていうことが、
力への意志と遠近法主義っていう言葉で言って説明しましたっていうところまでなんだよね。
うんうんうん。
どう?ちょっとニーティアの世界観見えてきた?
見えてきた。見えてきたけど。
うんうんうん。
まあ、そうだよね。ニーチェが生きた世界、時代で、
このニーチェのこの話を、世界観を作るには、確かに一旦リセットしなきゃダメだったのかなっていうのもあるし、
リセットしたこの世界って、まあでもそうだよね。一旦リセットしないと、
シムシティとか、ああいう箱庭系ゲームの感じで、
めっちゃビルも建ってきたし、すごいいい感じになってきたんだけれども、
自分作りたい街とか、あと自分が本当にいいよねって思う街だったりが、
あれ?違うぞと。もしかすると、もう人間的レベルで考えても、この街違うぞってなったときに、
そのビルとかを全部活かしながら、完全に違う街を作り変えるっていうのは無理。
だから、一旦焼け野原にして、UFOとか呼んで全部焼け野原にして、
そうするとまた、一旦さ、一旦文明がなくなっちゃったみたいな。退化した。またゼロからだっていう感じになるんだけれども、
たぶんイメージした新しい街はまたできていくじゃん。できるっていうかね。
そういう感じ?一旦だいぶ戻したなというか、真っさらに本当にしたんだなっていう感じ?
なるほどね。
なんて伝えればいいんだろうね。
第一回でもダイナマイトだとかハンマーだとかって言ったけど、ちょっとダイナマイト感感じるじゃないですか。
めちゃくちゃ感じる。
おそらくこれは僕の感覚なんだけれども、シムシティで街を作り直すみたいなこと以上に、
シムシティというゲームを作り変えたらマインクラフになったみたいな。
そのぐらいの変化なんだよね。
なるほどね。
つまりシムシティというゲームにおいてはこういうふうなものがいいとされるとかさ、
例えば人がたくさん住む街がいいよねとかさ、
発展している都市というのは素敵だよねみたいな価値観は残るじゃん。仮に街が壊れたとしても。
確かにそのステータスはあるだろうね。人口と、あと税金収入みたいなのがありそうだね、残りそう。
そうそう、例えばね。
自分はその世界において、これを大事にしていきたい、人じゃなくてお金を大事にしますとかって言う言葉があるんだけど、
それは選択でしかなくて。
外の価値観にまだ残ってるんだよね、やっぱり。
そうじゃなくて、いやシムシティ、自分が得てるものはシムシティじゃなかったって言って、
衝動に任せていろんなものを作っていったらマインクラフトができてました、みたいな。
そのぐらいの感覚だと思う。
なるほどね。
マインクラフトには人口、ちょっとごめんなさい、両方知らない方は申し訳ないんですけれども、
マインクラフトにはそれとも人口とか発展とか、そういうものが良いというステラスは基本ないんですよ。
そうだね。
価値観とかルールが違う世界が出来上がったときに、まさにみーちゃんはこの違うルールの世界っていうものを作り上げようとしたんだよね。
今日のまでの話だと、違うルールっていうよりは、一旦ルールなくしたみたいなところまでっていう感覚でいいのかな。ルールも変わって。
今回のルールで言うと、力への意志っていうものが、このルールっていうか根底にある世界って感じだな。
つまり、いわゆるキリスト教的なところとかプラトン的なところで言うと、
どっちかっていうと神の御徴とか、そういう真理があって、それをどうにか受け取る、受け取れないんだけど、それにあやかって生きるっていうのが世界のグラウンドルールでした。
それが根本だった。そうじゃなくて、自分の体というものから湧き上がるこの力への意志。
これによって作っていく世界なんだっていうグラウンドルールに書き換えちゃったっていう感じだったね。
なるほど、そっかそっか。ちょっと文明が退化、一旦、もう一回栄えていくために一旦滅ぼした感があったんだけど、そういう感じとも違うんだね。
それってイメージで言うと、神様がこの世界は間違えた、作り直してもう一度やるとか言って、人間がこの世界に希望があるみたいなファンタジー的なもんとかあると思うんだけど、
それは正しさが先にあって、より正しい世界を作るっていう流れなんだよね。
そうじゃなくて、正しさそのものを壊すっていうのが、今回ねえちゃんがやったことだから、
文明とか都市とか宇宙を作り変えるって話じゃなくて、そもそも我々が寄って立つべき価値観って何?とか、
その価値観から生み出された世界とか文明ってどうなるの?とか、そういうふうに考える必要があるよね。
はぁはぁはぁはぁはぁ。
なるほど。
まずいけどね。
まずいっていうか、恐ろしいけどね。
さっきのシムシティマイクラの例だと、確かにすごくわかりやすいんだけれども、
たぶん現実起こってるのは、シムシティでさっき言ったビルがたぶんめっちゃ建ってるみたいな。
人口もいっぱいいてお金も流通してるみたいな。
うん。
それはさ、全部なくなって完全にマイクラを新規データ、スタートからできればいいんだけど、
はいはい。
そのビルも建ってる道路もあるみたいな状況のまま全部マイクラのシステムに変わったから、
超混乱するみたいな感じが大きいですよね。
そうなんだよね。まさにそこはほんとそうで、
要は現実は当然そんなにすぐ変わらないし、人間の思考もそんなにすぐ変わらないときに、
やっぱりなんだろうな、すげえ異物なんですよ、どう考えても。
うんうんうん。
そんなの受けられないよとか、そんなこと言っても、
ビルにこんなにたくさんいるじゃないですかって言ったら、今人がいるときにダイナマイトいらないくださいみたいな話になっちゃうんだよね。
当たり前だけど。
そういう意味で、やっぱりこうなんていうのかな、
壮烈なことを言っているし、すぐには受けられないだろうっていうことを、やっぱりニーちゃんは言っている。
あー、それもわかったんだ。
そうそうそう。これ前回、62回とかに言った気がするんだけれども、
やっぱり自分の思考とか理解できるのが200年後であろうみたいな。
いいいいいいい。
で、今そのね、1900年から200年経つかみたいな話なんだけど、
ほんとやっぱりそのぐらいなんだよ。
あー、それニーちゃんが自分で言ってたんだっけか、それ。
あ、そうそうそうそう。
あー、そういうことなんだ。
やっぱり理解されないであろうっていうことは、やっぱりわかってるというか、勘してるんだよね。
なるほどー。
いやー、なるほど。ちょっと面白い世界観だし、
あと早いときにチラッと次回でみたいな話が出たけれども、
たぶん今のまま、この世界観のままだと、
ちょっともう相対主義というかさ、何でもありすぎて怖いじゃん。
うん、そうだね。
そこについても、ちゃんと言及というか考えてるんだね。
うん、そう。
なんかね、忘れてるけど、この世界になると相対とか言ってらんないんだよね。
言ってらんないんだ。
言ってらんない。他人のことなんかもう気にしてらんないってなるんですよ。
だって、他人の意思で自分の成長とか発展とか自分を乗り越えるっていうことがグラウンドルールだって言ったじゃん。
そうなると、すごいやっぱり自分中心主義であると思うんだよね。
そういうときに他人がどうとかってやっぱり言ってらんなくって、
自分がこうありたいとかこうなりたいとかに対してどこまで真摯に、
真摯って言葉もちょっと陳腐なぐらいなんだけど、
本当の意味で向き合いますかみたいな、そういうふうな問いが出てくるんですよ。
それが英語を排気とかって話なんだけれども、
次回まで聞いていただくと、
そういう相対主義とはまた違う問題が出てくるのかとか、
前回ハヤトが言っていた、他人のことは気にしらないってそういうことかみたいなことが見えてくるかなと思うので。
ちょっとごめんなさい。出だす感じで申し訳ないんですけれども。
今回と次回の2回分で、
荒れ果てた世界をもとに21がどういう世界を作り出そうとしたのか、
どういうグラウンドルールのもとでどんな振る舞いをすることが良いとしたのか、
ということを伝えたいと思っている前半回ですね。
なるほど。ありがとうございます。
今回だけの話を聞いても、
確かに初めてマイクラっていうゲームがあるんだよって聞いた時に、
このゲーム何ができるの?みたいな。
何ができるの?って思っちゃうよね。
何かやってみたら夜になったら撃たれて死んだんだけど、何これつまんねーみたいな。
今その状態ね。
今その状態、今その状態です。
なので今回で言うとしりけいとんぼというか、
若干腹落ちが悪い感じはあると思うんですけど、
次回まで聞いていただけると、
そういう考えもあるかとか、そういう言い方になるのかって言って、
さらに悩むみたいな感じもできると思うので。
結局悩むんだね。
悩むよ。無理だもんだって。
と僕は思ってるんだけど、
無理だもんってのは何なのかみたいな話を、
次回にお伝えしようと思ってます。
今日まとめると、
さっきデカルトの話もしたんですけれども、
理性とか世の中に真実があるとか、
それを見出せるとかいうものが、
全てアポロン的ってニーチャーが呼んだ一つの流れのもとにあります。
このニーチャーはアポロン的なものっていうのを全部規範して、
ディオニウソス的って言われているプラダとか流れとか、
そういう内から湧き上がる衝動を、
後から理性が理解するんだっていうふうな考え方に変えて、
この荒れ果てた世界っていうものを生き抜こうとしたんですよね。
生き抜こうというか、
そういう世界の生き方っていうものを立ち上げようとしました。
これっていうのがニーチャーが言わせると、
ソルカイテスとかプラトン以来続く、
哲学の伝統っていうものを打ち壊したっていう話だし、
そういった意味で新しい生き方っていうものを提示はしてるんだけれども、
アニキが言ってくれた通り、
今は全員が全員力の一種に本動されて、
よくわからんけど自分のことばっかり考えてるみたいな世界って、
まだ無法地帯じゃん。
万人の闘争状態になりそう、また。
そうそう。
なっちゃうんで、
この世界に何が欠けてるのかっていうのが次回ですね。
伝えていく英語回帰とか、
あるいはそれを生きる人間というのが超人であるっていう、
これも名前を聞ければわかると思うんですけど、
ニーチャーの超人というのが何なのかっていう話をして、
一応今回のニーチャー回最後にしたいと思ってますって感じですね。
はいはいはい、わかりました。
はい。
了解です。
結構綺麗に5回でまとまっちゃったから、
でも1回くらいが密度濃いし、大変だと思うんで、
ちょっと良かったらまた次回というセットで聞いていただくとか、
何回か掲示台でニーチャーってこういうことを言おうとしたのかなとか、
さすがに自分もその感覚は受けられないなとか、
そういうことも含めて感じながら、
次回聞いていただけると嬉しいなと思ってますというところですね。
わかりました。
次回ニーチャー編最後ということで楽しんでいきたいと思います。
では引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。