1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #407 混ぜるな危険!?ヘーゲ..
2026-03-22 54:34

#407 混ぜるな危険!?ヘーゲルとフォイエルバッハの融合から生まれたマルクス哲学の土壌

▼「それ哲ラジオ」おたよりフォーム

ラジオのご感想やコメントなど、お待ちしております!

https://forms.gle/ThJocrLap77ELG7B7

▼「それ哲公園」とは?

それ哲フォーラム(掲示板)を中心に、それ哲カフェ(オンライン哲学カフェ)も開催しています。参加をお待ちしています!

https://www.soretetsu.com/

▼それ哲ラジオ 公式X

更新案内や、番組の周辺の話など。

https://x.com/soretetsu_radio

▼哲学事務所ルディクレア

https://ludicrea.jp/

感想

まだ感想はありません。最初の1件を書きましょう!

00:11
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回でマルクス編第3回ということでやっていきたいと思います。
はい、前回はですね、ヘーゲルとマルクスみたいな感じのやつと思うんですけれども、
今回はですね、フォイエルバッハっていう哲学者とマルクスという感じで、
さらにマルクスの哲学的な基盤を掘り付けていきましょうというところなんですよね。
はいはいね、全然本をいかねえじゃんっていう話を前回、したがらね。
そうそうそう、まだ道のりが遠いってやったんですけど、
フォイエルバッハね、ここ1、2ヶ月ぐらいで急に名前が出て始めてる人でもあるんですけれども、
ニーチェ界の時だね、前回26円の2月にやったニーチェ界の時にですね、
ニーチェに、ヘーゲルからニーチェっていう流れの中で結構キーパーソンがいて、
それがフォイエルバッハとショーペンハワーだよみたいな、そんな話をしたんですよ、実は。
したんだけど、1回分のさらに半分ぐらいでしか正直フォイエルバッハのことはやってなかったんで、
ほとんどね、なんか名前は知ってるけどみたいな感じだと思うんで、ちょっと今回フォイエルバッハをもう一回取り上げつつ、
マルクスがそれをどう受け取って乗り越えるというか、次に進んだのかみたいな、そんなことをお話ししていこうと思っておりますというところなんですよね。
はいはい、確かあれだもんね、フォイエルバッハはヘーゲルからちゃんと直で学んでた人みたいな感じだもんね。
そうですそうです。
だけども、ヘーゲルの哲学を批判しながら自分なりに発展させてきた人みたいな、そういう感じだったよね、雰囲気としては。
そうそう、その通りです。本当に弟子みたいな感じの人で、結構ヘーゲルが学んでたところをヘーゲルが亡くなった後に、
やっぱりもっと違うところに行けるんだみたいな感じも含めてやっていったっていう人なんだけれども、
すごいですね、ざっくり言うと、ある種、フォイエルバッハが批判するヘーゲルって、
要は前回マルクスもヘーゲルって頭というか理性みたいなものは大事にするけど、体は大事にしてないねみたいなさ、そういうことを言ってたじゃないですか。
そこのやっぱり理性とか、頭を使うっていうところに対する捉え方はやっぱり批判はしてるんですよね、フォイエルバッハも。
なのでそこをですね、ちょっと今日見ていくんですけれども、まずこのフォイエルバッハは何を批判したかっていうところなんですけど、
03:05
結局ヘーゲルって最終的には絶対精神みたいなものがあって、そこにたどり着く歴史の展開っていうものが、精神の現象の旅なんだとかさ、
精神という旅をして最終的には絶対精神に至るんだとか、そういうふうなことを言ってたと思うんですよね。
はいはい、そっかそっか。だから一応理性でとは言ってたけれども、この現実世界もこの歴史をたどると、
もうヘーゲルが言うところのこの精神空の旅っていうものを、この世の中自体がちゃんと体現していて、
この先でもね、この先もどんどんこの歴史がその絶対精神的なところに向かって発展していくんだよっていう意味で、
単なる試行実験じゃなくて、この世の中のことをちゃんと説明しているっていうふうにヘーゲルだったりとか、その周りの人は捉えていたよっていうイメージってことね。
実はね、ありがとう。なんかすごいいい間違いをしてくれて。
えー間違いなんだ。
何かっていうと、ヘーゲルは絶対精神とか絶対地っていうものを出してくるんだけれども、この世界があってその絶対精神に至るんじゃなくて、
この精神の発展っていうものが現れた姿がこの現実なんだっていうふうにするんですよ。
つまり、精神とか絶対地みたいなものが主で、あくまでも現実世界は自由なんだよね。
あー、それなんだろうな。ヘーゲル界っていうか、カントからドイツ関連論シリーズみたいなのを聞いたじゃん。
うん、言ってた言ってた。
全然わかってなかったね、そこ。
普通に考えると現実世界があって、それを説明するためにそういうことを考えたんじゃないかって思うんだけど。
なんかバッチリハマったねーみたいな感じだろうかなって思ったけど、違うんだ。
そうじゃなくて、あくまでも理性とか精神みたいなものを考えたときに、こういうふうな発展の動きがあって、
それをその動きの反映した我々が扱えるものがこの現実なんだっていうふうな話なんだよね。
つまり、ヘーゲルは理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的であるだったかな、そういうことを言ってるんですけど、
つまり、理性で捉えられるものとか、理性が発展した姿がそのまま現実っていうものであって、
その現実っていうものは、分析すると理性って言葉にも至るっていう話なんだけれども、
イコールではあるんだけど、あくまでも主語になるのは精神とか絶対意識とかっていう方で、
06:04
その結果、現れたのが僕らのこの現実世界だっていうふうな、そういう発想なんだよね。
わー、そうなんだ。そっかそっか。現実を説明するある意味自然科学的な態度じゃなくて、
まずヘーゲルのその理性というか、精神現象学的な理論みたいなものがしっかりあった上で、そっちがメインで、
ほら、その証拠として、この現実もまあそうなってるよねーぐらいの順番みたいな。
そうそうそう。それが三年論っていう話なんですよ。
あー、そうなの。それが三年論。
そう。つまり世界っていうのは理性とか三年っていう、要はもう我々人間が頭で考えたものっていうものが土台にあって、
そこから現実が生まれてきているっていうのが三年論の根本的な発想なんだよね。
で、関東の時にやったと思うんですけど、関東は三年論とイギリスの経験論とかっていうものを組み合わせたよっていう話をしたと思うんですけど、
やっぱり関連だけでどこまでも行くっていうのはやっぱり難しいっていう時に、
関東がそこ経験も大事だとか、
いわゆる関連と経験の組み合わせっていうもので、世界とか認識っていうものを表現しようってことをやったわけなんだよね。
はいはいはいはい。
だから平気でも、現実を無視してるわけではないんだけれども、
いくまでも三年、イコール理性とか、別対値とかって思っていただいていいんだけれども、この文脈だと。
それがやっぱりベースにあって、現実世界っていうのはそこから現れたものに過ぎないっていうふうな、そういう発想なんだよね。
そうなんだね。
やっぱりなんか哲学の深みというかね、理解する難しさをちょっと感じるね。
なるほどね。
そうだよね。僕ら普通そう考えないからね、やっぱりね。
いやまあね、こんだけ何だろう、400回聞いていってんのにさ、そういうとこ分かんないんだなと思ってね。
確かに。でも今の実は兄貴の話はすごい大事で、
どっちかっていうとポリエル・バッハはまさにそこを批判したというか、おかしいよねっていうふうなことを言うんですよ。
はいはいはい。
どういうことかっていうと、本当に僕らのほとんど自然な発想に今の話でいくと、やっぱりまず先にこの自然とか人間という存在だよね。
っていうものが先にあって、その人間であれ別に動物でもいいんだけど、そういうものが何かを考えたりとか思ったりして思考っていうものが生まれるじゃないですか。
09:07
だから、じゃあ人間がいなかったら世界ないんですかって話になっちゃうと、そうじゃなくって、あくまでも存在とか自然みたいなものが主語にあって、先にあって、
そこから思考が生まれますっていうふうな前後関係とか主語実語の関係があるよねっていうふうに捉えるんですよね。
なるほど。こっちのほうが、うちらのある意味自然な感覚、今の近いかなっていう感じなのか。
だと思う。で、本来そういうふうに捉えられるんだけど、やっぱりヘーゲルはさっき言った通り、その思考とか精神みたいなものは主語にしてしまって、
むしろそれを自然とか本来あるべき現実世界っていうのから切り離しちゃって、あくまでも現実世界っていうものは思考とか思想とか理性の外から出たものなんだっていうふうに逆転させちゃったんだっていうことを言うんですよ。
なるほどね。ヘーゲルがそうやっちゃったんだっていうね。
そうそう。それに対してフォイエルバッハは、結局それって中世から続く神様っていうものがいたときに、この絶対的なものを現実から切り離して神様が生まれたとすると、
新しい神様を作っているのと同じじゃないかと。つまりヘーゲルっていうものは、哲学っていうものをめちゃめちゃやったような感じがしてるんだけれども、結局別の神を生み出したに過ぎないんだ、みたいな。そんなことをフォイエルバッハは言うんですよね。
へー、そうなんだ。
この根っこで言うと、やっぱり僕らっていうのはあくまでも頭の中の思考とか関連じゃなくて、現実的に生きる人間とか、目の前に存在している自然、そういったものを出発点にして哲学をするべきなんじゃないかと。そういうことを主張するんですよね。
うーん、なるほど。難しいね。そうだよねって言いたくなるふさきも、感覚的には今の自分たちに近いよねみたいな話をしちゃいそうだけど、たぶん違うレベルなんだろうね、次元がね。フォイエルバッハが見ている次元はね。
はいはい、当時で言うとね、でもほんと素朴に言うと、すごく自分の身の回りのこととか実感みたいなものを大事にしましょうっていうことで、思ってもらって全然大丈夫ですよと。
そうなんだね、はいはい。分かりました。
逆に言うと、それが当時受け入れられないとか、それを言うこと自体がヘーゲルの批判になるし、当時の哲学の主流じゃないみたいな感覚っていうのは結構大事かもね。
なるほどなし、ある意味ヘーゲルが生きてるうちは、ヘーゲルがあまり偉すぎて、なかなか言うのがはばかられたっていうのがあったのかもね。
12:14
あーそうそうそうそう。
繋がったからこそ、なくなってから批判をしていったんだけれども。これは前回のニーチャー会でもお伝えしたことなんですけれども、そういったことに基づいてフォイエルバッハっていうのは、宗教そのものを批判っていうのをするんですよね。
これがニーチャーの神は死んだとか、神を乗り越えた後に繋がったよって話をおそらく1ヶ月前ぐらいにしたんですけれども、どういうことかっていうと、当時の世の中の人を考えたときに、まだまだ宗教の力って強くて、今でもそういう人もいらっしゃると思うんだけれども、神様が人間を作ったと。
神様が主語で、人間が述語というか、というふうな発想だよね。
これがやっぱり普通の感覚だったわけですよ。
そこに対してフォイエルバッハは違うんだと。
実は人間っていうものがまず先にいて、その人間が、人間の中で理想的なものと言われる、例えば愛とか、慈悲とか、思いやりとか、そういったものを外部に投影するときに、完全な愛とかっていうものを実現した存在としての神っていうものを、我々人間が作ったんだというようなことを言ったんですよ。
おお、大丈夫?すごい大胆なことを言ってない?大丈夫?
いや、なんか処刑とか、よくあるようなことは多分されてると思うんだけれども。
中世とかだったらね。
そうそう、中世は絶対アウトなんだと思うね。
だけれども、そういうことを言っちゃうんですよ。
つまり、さっき言ったこれって平気の絶対値であれ、一神教的な神様であれ、それで結局フォイエルバッハからするとどっちも主語を取り違えてるんだって話なんですよ。
主語っていうのはさっき言った、人間がまず先にやって。
人間っていう存在が生み出したものが、そういったいろんな哲学であり神様でありみたいな、そういうふうに捉えないと本当の哲学ってできないんじゃないのっていうことを考えるんだよね。
ここからは面白いんだけれども、僕らは神様っていうものを仮に作りましたと。
人間っていうものが愛とかいろんなものを理想化して神っていうものを作るんだけれども、
15:06
そうすると何が起きますかっていうことをフォイエルバッハは考えていて。
何が起きるかっていうと、君様がこのすごい存在、要は完璧で愛も知性も持つ存在になればなるほど、
人間っていうものがどんどんみじめになるよねっていうことをフォイエルバッハは見抜くんですよね。
つまりその理想に対してそれを実現できない人間というものが、本当は優れた存在であるはずなのに、
神様に比べればみじめでつまらないちっぽけな存在である我々人間とかっていうふうに、
対象が光り輝けば輝くほど、僕らはこっち側が暗くなっていくみたいな、そういうことをフォイエルバッハは考えるんですよ。
無理芸だもんね。
そうそう無理芸だし、そうすればそうするほどどんどん神様が偉くなっていくみたいな話があって。
これがフォイエルバッハに言わせると、その宗教とか神様っていうものが実は人間っていうものをどんどん阻害している。
これ阻害ってヘーゲルでも結構重要なキーワードだよって言ったと思うんですけれども、
その阻害っていうものをフォイエルバッハも引き継いで、実は宗教っていうものあるいは神様っていうものを外部に作り出したことが、
人間っていうものを自分自身から阻害してしまった。
つまり人間の本来を持っているべき愛とかそういった素敵なものから、むしろ人間というものを遠ざけてしまった。
っていうことをある種暴露するんですよね。
すごいね。
そうなると、やっぱりフォイエルバッハに言わせると、なかなかヘーゲルの哲学とか宗教とかってものじゃなくて、
でも我々が持っている、当たり前に持っているそういった素晴らしい人間としての本質っていうものを大事にしながら、
我々の方が生きていくんだとか、手伝いをしていくんだとか、そういうことをやるのがいいんじゃないかっていうことを考えるわけなんですよね。
難しいよね。難しいけども、
わかんないけど、人類が一周した感じ?もしくは何周かわかんないけど、
ぐるっと回った感じがするよね、たぶん。仮にだけど、神様とかそういう概念みたいなものを人間が作ったとしてだけれども、
作るのにもたぶん何らかの理由があったはず?
1000年前なのか2000年前なのか知らないけれども、
18:05
そこから何千年経ってホエール・バッハとかがこうやって、
いや、これは人間が作ったものだから、仕事の実も対象が逆転してるよ、みたいな話をして、
やっぱり人間の方が大事というか、人間の方にも目を向けようよ、みたいなものって、
一周してる感じがするよね。戻っちゃうと危ない。戻っちゃうと危ない感じがするけど、また、それはそれで大変な気がするけど、
ちゃんと神様を作った上でもう一周してもっかい人間に目を向けましょう、みたいな感じだろうかなと思った。
そうだね。そこにちゃんと目が向けられるようになったし、それを表現できるようになった?
ところも含めて、まさに確かに言ってくれとおり、やっぱり時代が一周したっていう感じなんだろうね、ここで。
こういったとこに対して、ニーチェ前回話したときには、やっぱりホエール・バッハもいろんな批判を当然その後から受けるわけですよ。
ニーチェでいくと、これも前回よかったらまた聞いていただきたいんですけれども、人間の本質って愛とかね、そういった思いとかって素敵なものがあるって言うけれども、
実は人間ってそれだけじゃないよね、いろんな妬みとかさ、それこそルサンチョウの話をしたと思うんですけれども、
そういうものがあって、それすらも含めて乗り越えるってことが大事だから、やっぱりホエール・バッハは言うように、確かに人間が神様を作ったんだけれども、
むしろその神を乗り越えにはならんみたいな、っていうことをニーチェは言ったわけですよね。
なるほどね。
神は死んだって言って、神がいない秩序とか大事なものとか善悪とかも全部なくなった世界でどう生きるかっていうのを考えたのがニーチェなわけなんだけど、
マルクスはまたちょっと違う観点でホエール・バッハっていうのを乗り越えようとするんですよ。
これがどういうことかっていうのをこの後話していくんですけれども、
マルクスの観点からすると、このホエール・バッハの主語と述語が逆じゃんとか、人間が神様を作って、本来の主体ってのは人間だっていう、ここに関してはめちゃめちゃ評価するんですよ。
そうすると人間っていうものをどう捉えるかっていうことが変わっていくんだけれども、
マルクスすごくて、ここからさらに一歩踏み込んで、いろんな問いを出していくんですよね。
21:02
そうなんだ。
これはさっきに実はこれも兄貴が先取りしてくれてて面白いなって思ったんだけれども、
マルクス何か考えたかっていうと、神様は確かに人間が作り出しましたよねと。
そこでいいんだけれども、なんでわざわざ神様っていうものを人間が作んなきゃいけなかったのか。
あるいは、いっぱい作り出した神様っていうものに、なんでそんなにもうすがりついたりとか大事にしなきゃいけなかったのか。
そういうことはマルクスが考えていくわけなんですよね。
逆に言うとホイエルワッハはそこまで考えなかったんだ。
そうそうそう。
それともマルクスがそういった批判をしている時点では、人間が作ったまでは言ったんだけれども、
じゃあなんでとか、じゃあなんでそれが続いてきたのとかっていうことまでは言ってなかったみたいなんですよね。
なるほど。ただその問いに気づくというか、その答弁を提示するっていうだけでもやばいよねって話ではあったね。
それがベースにあったから、マルクスはその先に行けたっていう話なんだけど。
マルクスによって言うとホイエルワッハっていうのは、宗教的な世界では人間の世界とは違うところにある神の国みたいなものっていうところを、
我々の扱える世俗の領域まで落としたみたいなところで言うと、めちゃめちゃ一歩進めたんだけど。
でも現実世界を見てみると、やっぱり僕らの世界と神の世界は違うっていうふうに思っている人がいたりとか、
それが完璧に解消されたかって別にそうではないよねっていうときに、
なんでこの分離が起きてるんだろうねっていうことを考えるんですよね。
はいはい。たぶん転換点的な時代の、いろんな人がいるっていう状況だよね。
そうそうそうそう。当然ホイエルワッハとかマルクスみたいにそれを気づいてる人もいれば、
全然神様こそが全てで、自分なんてちっぽけな存在って思ってる人も当然いるわけだよね。
たぶん現代でもそういう人もどっちもいると思うんだけど。
っていうときになんでっていうことを考えたんですけど、それが非常に面白いのと聞いたことあるかもしれないんだけれども、
マルクスが言った言葉で、中共は民衆のアヘンであるみたいな、そういう言葉って聞いたことないですか?
ない。ないです。もちろんないです。
基本のことを知らないと思っていただいて。
オッケーです。結構そういう言葉がよく取り上げられるんですけれども。
24:02
だいぶ強い言葉だね。
そうそうそう。この言葉だけ言うと、マルクスがすごい宗教批判をして、
宗教なんてクソだとか、アヘンで人間を堕落させているみたいな、そういうふうな発想に聞こえるんだけれども、
ここまでの話を聞いていただいてわかるのは、
要はマルクスはフォイエルブッハが立てた宗教と人間、あるいは神様と人間の関係っていうものを踏まえて、この言葉を使ってるんですよ。
どういうことかっていうと、さっき言った通り、人間は神様を作って定家したじゃないですか。
じゃあなんでそんなことをするのかっていう話をマルクスが考えたときに思ったのは、
要は我々人間っていうのはフォイエルブッハが言う通り、まずはこの現実世界、自然とか物理的な世界で生きているんだけれども、
この世界での生活がすごく苦しくなってきましたよね。
つまり、労働者として過酷な中で働いているもそうだし、食べるものもなくてとか、自分の尊厳も失われて、生きていくのは苦しいよね。
これって現代だけじゃなくて過去にも起きたよね。歴史を振り返ったときにね。
っていうときに、この苦難に満ちた現実っていうものがあったときに、その痛みを和らげるとか、その辛さっていうものを少しでも弱める。
そのために人間っていうものは神様っていうものを作り出して宗教っていうものを作ったんだと。
つまり、僕らは普段生きるときに痛みとか辛さがあって、それをアヘンっていうのは鎮痛剤じゃないですか、モルフィエのきついやつだとしたときに。
なるほどね。いわゆるちゃんと医療的に使うとするとって話ね。
そうそうそう。っていうのがあるので、その現実の辛さとか痛みっていうものをある種逃れるために、人間は宗教を必要としたんだと。
そこから神様っていうものが生まれてきたんだよっていうことを考えるんですよね。
なるほど。
なんでかっていうと、人間ってさ、一人では生きていけないというか、共同体の中で生きていく生き物じゃないですか。
っていうときに、やっぱり人間の心のどこかで誰かとつながりたいとか、何らかのネットワークに所得したいっていう、ある種本能的なものがあるはずだと。
生存戦略としてみたいなね。
そうそう、生存戦略としてもそうだし、純粋感情的にもそれが落ち着くとか助かるとか、和らぐとかっていうものもあると思うんだよね。
27:05
っていうときに、現実世界、当時のマラキスの世界でいくと、でもやっぱり人は分断されて競争して、お互いに利益を貪り合っているみたいな、そういう人たちもいると。
っていうときに、この共同体を現実世界で作れなくなった人たちっていうものが、ある種神様っていうものを作り出して、
神の前ではみんな平等だとか、人間っていうものが神の前では一つにつながっているとか、
そういうことをある種考えることによって、自分もちゃんとつながっているんだとか、自分もちゃんとその共同体の一員にいるんだっていう、そういう感覚っていうものを持つんだっていうことをマラキスは言うんですよ。
つまり、神様が先にいて、人間を作って、人間はみんな平等だ、ではなく、この現実で生きるのがつらい、他の人と分断もされてるし、つながりがないっていうときに、
神様に一回それを全部預けて、神様が人間のつながりを保証してくれるとすると、自分も人間の一員として生きていいんだとか、
つらくて苦しくても、いつかきっとその人間の中において自分っていうものの、こっちも輝く、輝くとまだマラキスは言ってないけれども、
それもそういうことがあるはずだ、みたいな。そういうことを通じて、現実のつらさっていうものからある種、言い方あれだけど目を背けるんだ、みたいな。
そういうものとして、神様とか宗教っていうものが生まれてきたんだよっていうふうに言うんですよね。
なるほどね。はいはい。
どうよこれ。
まあそうだね、納得性が高い。確かにそうだよね。
そこはアニノーだよ。アニノーとはいえ、それってマラキスさんあなたの感想ですよねっていうふうに言われるかなと思うんだけど、
この部分でマラキスはどこまで、自分の主観じゃなくて、調査というか、何らかの文献だったりとか歴史とか、
そうやってやってるのかっていう、その辺の感じっていうのはあるのかな。本当はもっとめっちゃ調べてるのかな。
えっとね、どうなんだろうな。あるとは思うけれども、さっきこのトイレバッハっていう文脈においてで言うと、
めちゃめちゃその宗教的なことを調べてとか、そういう一時文献にあたって、宗教って実はこうだったっていうふうには言ってないはずなんだよね。
30:09
なぜかって言うと、この後また話すんだけれども、マラキスがやりたいことって、こういった宗教の本質を解き明かすっていうことよりも、
その文脈の中で、だから我々は行動しなければならないとか、だから我々は世界っていうものを作りきらなきゃいけないってそっちに行っちゃうんですよね。
だからマラキスの中での問題意識とか目的みたいなものが明確にちゃんとあるから、
それにつながる物語として、どうしてもここにはそんな時間とか人生かけてらんないみたいな部分ももちろんあるよねっていう。
そういうある意味ベクトルというか、ポジショントーク的な部分もあるよねっていう感じにはなるのか、そこは。
ある。あるし、マラキスから言わせるとここまで伝えればOKっていう感じかな、たぶん逆に言うと。
まあ確かにそうだよね。この部分を明らかにしようとしたら、確かにそれだけで人の人生が一回終わっちゃうというか。
いや間違いなくそう。
になっちゃうのか。
そうそう。だからやっぱりマラキスは哲学者ですかって言われると、
いわゆるこういった宗教的なことを考える哲学者で解き明かした人とかではないと思うんだよね。
ただヘイギルとかフェルバッハっていうのも流れに乗りながら、ちゃんとなんで神様が生まれたのかとかっていうことに対して自分なりのアイディアを出して、
そこからさらに先にいったっていう意味では、やっぱりただの思いつきではないっていう感じではあります。
なるほど。そうだよね。大枠で言うと、さっきの人間と神様の仕事、関係性が逆転してるよねっていうところに関しては、
確かにさっきのマラキスのエピソード、その人が繋がるとかさ、弱い人がみたいな、それよりも納得さは多分高い気がするから、
ある意味今の物語の部分みたいなものは、そこまで全体から見ると、実はそういうことじゃないよって言われたとしても、
人間と神様の逆転みたいなところは多分そんなに揺るがないから、っていう強弱みたいなものはあったのかもしれないね。
そうだね。もちろん今でも宗教を大事にされている方がいるのはもちろん僕も知っているし、
宗教が今言ったような、現実の悔しみから目を背けてるんだって対して、いくらでも反論があるっていうのはもちろん僕もわかってはいるんだけれども、
33:04
マラキスが言いたいのはそこっていうよりは、仕事と実は逆転した。神様が主で、人間というのは自由になっているっていうところから、
人間っていうのはやっぱりもっと捉えましょうと。人間から出発するような発想が必要で、
今言った通り、僕らは現実世界でいろんな辛さとか苦しさを持っていることが、例えば事実でしょうと。
その時に、その問題っていうものは、それこそ神様の世界とか、あるいはヘーゲルが言うような絶対値とか精神の世界じゃなくて、
もともと根っこにあるこの現実の物質的世界。ここに目を向けてメスを入れないと何も解決しないんだぜっていうふうに考えていくんですよ。
いやー、まあね、それもわかる。ある意味、そういう今だよね、マラキスが見ている労働者というか、そういう大変な人たちに対して、
現実投票をやめて目を覚ませみたいな話ってことだよね、さっきのアヘンの話でいうとね。
そうそうそうそう。その構造は突き止めたから、あとはやるかやらないかみたいなことになっていくと、ちょっと活動家マラキスっぽい感じが出てくるよね、この辺で。
物語というか、話としては本当に納得性も高いというか、そうかもねみたいな部分での納得性も高いから、そこは真実なんだな。
実際正しいかどうかみたいな話をすると、さっきみたいなね、多分人が一生懸けて調べる段階になるんだろうけれども、かといって批判もできないというかさ、そうだよねってなるよね、ちゃんと。
そうだね。だからやっぱりマラキスの観点で言っていくことに対しては難しいよ。宗教ってそんな大変なものじゃないよっていうことはできるけれども、
マラキスからすると、いやいや今そんなこと言ってるわけじゃなくてってなってしまう。何をマラキスは言ってるのかっていうのをまた続けて言うんだけれども、
つまりホイエル・バッハの話をすると、彼はヘーギルというのは観念論だと。神様というものが絶対して別のものに変わっただけで、
結局観念とか頭の話をしてるよねっていうことは言うんだけれども、でもこれがマラキスに言わせると、結局ホイエル・バッハが考えた人間というものも、すごく受動的というか、
自分の大事なものを神様とかに預けちゃって、それを取り戻すとか、じゃあもう一回人間に大事なもの何かっていうのを考えるっていうふうな、そういうことを主張はしてなかったみたいなんですよね。
ホイエル・バッハはね。なのでマラキスに言わせるとさっき言ったみたいに、じゃあそこに気付いたんだったら、もっとちゃんと人間の世界より良くしようよとか、もう一回そこから遡って、僕らが何を大事にするかっていうことを考えようよみたいな、そういうことをマラキスとしては迎えたくなるわけなんですよ。
36:17
つまりホイエル・バッハはちゃんと宗教と術を逆転したんだけれども、人間というものがマラキスと動いてなかったっていう話で。
逆にヘイゲルは全部が観念論、その頭の中とか理性で起きることなんだけれども、それがどう発展するかとか、どういうふうに現実を作っていくかっていうダイナミズムを描きましたよね。
ところがあるんで、マラキスっていうものはこの両方をある種いいとこ取りしてくっつけちゃうんですよ。
へー、そうなんだ。
ヘイゲルの伝承法とかダイナミズム、世の中っていうものがどんどん良くなっていくっていうことは受け取りますと。
これ前回の話だと思うんだけど。
ホイエル・バッハの宗教と術を逆転させて、やっぱり人間というものとかこの現実世界、物質世界っていうものが、我々がやっぱりマラキスとか同時代哲学者っていうものを向き合うべき本来のフィールドであるっていうことを受け取りますと。
これをバッチアップするとどうなるかっていうと、現実に生きる世界というものを矛盾というか伝承法の力を使って前進させることが、マラキスにとって大事なことなんだっていう。
ここに至るわけなんですよね。
なんか恐ろしい化け物を生んでしまったみたいな。
キメラがね、こっちとこっちにいろいろ継ぎ上げした結果、ものすごい異様の化け物が出てきましたみたいな。
作ってしまったみたいな感じがするね、なんかね。
歴史が生み出した本当に、生み出されるべくして生み出された感じがあるんだよね、このマラキスっていうものは。
すごいね、今。
マルクスの雰囲気っていうかイメージがさ、今のね、ヘイリルとか、悪魔合体みたいなさ、感じで。
ものすごいイメージがパンって出たね、なんか。
でしょ?でしょっていうのは、やっぱりマルクスだけを見てるとこれってなかなか見えないんだけど。
はいはい。
こうやってヘイリルの弁償法とヘイリルバッハの死後逆転っていうものをくっつけたらパーンみたいな、なんか放射線の。
ものすごいものできちゃったよみたいな。
作ったワシにも制御できんのじゃみたいな。
39:01
そうそう。よくわかんないね、シラガノ博士みたいな人がいてさ、無理じゃみたいな。
どうしようってね。
へー。
そう。っていうのがマルクスですよという感じなんだよね。
そういうのが。
いやーすごい、その何だろう、凄さとその驚々しさみたいな。
そういうの感じるね、なんか。
そうなんだよね。
マルクスが現実世界を弁償法的に扱いましょうっていうのはわかったとして、
これがやっぱりさすがだなと思うんだけど、
じゃあその現実世界といってもさ、いろんなものがあるじゃないですかね。
国家もあれば都市もあって、いろんな政治もあれば宗教もあればっていう中でいろんな活動があるときに、
マルクスはどこまで行っても労働っていうものをやっぱりフックにして、現実世界を見つけていくんですよ。
はいはいはい。
これ前回もヘーゲルも労働って呼ぶのをずらけてたって言ったと思うんですけれども、
マルクスから言わせると、この労働者、人間が働いて何かを生み出すっていう行為自体が、
世界との相互作用だし、人間というものが何かを作り出していくっていう一つのやっぱり、
すごく尊いことだっていうふうに実際に思えているわけなんだよね。
はいはいはいはい。
なのでこの人間の実践、つまり働くということ、
これっていうものを根本にして、この世界っていうものを解き明かしていこうとか、
このフォイルバッハがせっかくやってくれた死後と実後の転換で、死後にまた戻ってきた人間世界っていうものを解明しようっていう、
あるいはもっと言うと変革しようっていう、これがマルクスが労働とか資本というものに向き合ったっていうところの根本なんですよね。
目のつけどころもやっぱ変だよね。
いや本当に。
センスがおかしいよねって話になってくるんだね。
そうね。これがどっちが先なのか、その思考力があったからここにきついたのか、
やっぱりセンスがあってここに至るためにいろんなことを勉強したのか、
ちょっとこれは両方でしか言えないよね。
だってあれだもんね、人によってはそれがいわゆるその異性者のほう、国家を応援する側、
労働者じゃなくてね、そっちの時点で語ってもいいわけだもんね、例えば。
そうそうそう、もちろんもちろん。
それこそブルジャーの資本家がいるわけだから、むしろ資本家のほうが世の中を動かしているのって言ってもいいわけなんだけど。
だったりとか、もっと抽象化してもいいんだもんね。人間とはみたいな話をかじれてもおかしくはないんだよね。
おかしくはない、うん。
ただマルクスはそこを労働者、働いているこの人たちっていう、そこにピン止めしちゃったんだよね。
42:07
なぜなら、彼らが一番苦しんでいるし、一番救いを求めているからっていう。
私、あれだよね、物を生み出してるから、世の中との関係性も一番直接的かつ強いであろうみたいなこともあるってことだよね、物を生み出してる。
そうです、そういうことです。
食べるものも、着るものも、みたいなね。
そう、本当に悲しき獣みたいな感じ。なんか、俺は世界を幸せにしたかったのにみたいな。
したかったのにって何?もうバッドエンドみたいになってるじゃん、もう。
これから話したくてさ、マルクス自体は別に何か人を謝ったとかさ、別に政権を転覆したわけじゃないけれども、
やっぱり彼の思想とかっていうのが、いろんな人を解釈した結果やっぱりいろんな、第二次世界大戦とかもそうだし、そういったいわゆる世の中の分断には繋がっていくから、
さっき言ったね、いないけどマルクスを生み出した博士はもうこんなはずじゃなかったっていうし、
マルクス自身も俺が見たかった世界はこうだったのかみたいな気もなるしみたいな。
やっぱりちょっとそういうストーリーなわけなんだよね、僕から見えてる世界で言うと。
まあでもね、そうだよね、悲しきモンスターみたいなのに例えちゃった時点でちょっとマルクスの哀愁みたいなものも含めてね、ちょっと出てくるね。
一体にそれを投影しちゃおうかなっていう感じ。もちろんこれはマルクス自身がどう思うか分かんないけれども、そういうのがありますよと。
で、もう一回ちょっとフォイエルバッハに話を戻すと、これはマルクスの第1回でも言ったかなと思うんですけれども、
マルクスが書いたものの中でフォイエルバッハに関するテーゼっていうものがあるんですよ。
これめっちゃ短くて、本当にその11個、フォイエルバッハっていうものを踏まえながらいろいろ書いてますよっていうふうな話なんだけれども、
これの最後の第11のテーゼっていうものが、前もちょっと触れた哲学者、哲学党に対して、哲学者たちは世界を様々に解釈してきたと。
しかし大事なのは世界を変えることだっていう話で。
これ要は哲学者っていうものは何だ力もない、その原理的な力もない、何だ頭でっかちだっていうことじゃなくて、
さっき言ったヘーゲルにせよ、フォイエルバッハにせよ、やっぱり昨年の世界のことは解き明かしてきたよねと。
世界が精神の運動で絶対値に至るんだとか、それも含めて逆転していて神様っていうものを人間が作ったんだとか、
45:07
そういう世界観っていうものはかなり充実してきたんだけれども、
もう一歩現実を変えるとか、この世界っていうものにそれを影響を与えていく、
これっていうことをやってこなかったから、ある種自分がそれをやるんだと。
つまり哲学的なとか解釈、いろんな解釈っていうものをちゃんと受け取った自分だからこそ、
そういう世界を変えるっていうことで今やっと踏み出せるんだっていうふうな、そういうことはやっぱマルクスは聞かれるわけなんですよね。
はいはい、なるほどだし、その、なんだろう、哲学者たちは世界を様々に解釈してきた。
はいはいはい。
この解釈っていうのはなんかいいね。
なんかどんな感じがした?
いわゆる解き明かすとかさ、
解明するとかだと、
ちょっとさっき言った、いわゆる自然科学的というかさ、
ちゃんと物理法則みたいなものがあるとか、答えとか真実があるものを見つけましたっていう感覚になると思うんだけれども、
あえてなのかわからないけれども、解釈してきたっていうのはちょっとした皮肉?
皮肉じゃないけれども、いわゆるその、
なんだろうな、自然科学じゃない、人文側というかさ、こういう哲学的な生き並みの限界というか、
その学問の、それは何なのかみたいなものを、こういうことで表現してるのなーみたいな。
はいはいはい。
ところがなんかね。
うんうんうん。やっぱりその、
若干やっぱりその皮肉見てるかって、少し距離とってる部分は確かにあって、
これさっき言ってたんだけれども、
この訳文でいくと、
よく出てくるのが、哲学者たちは世界をただ様々に解釈してきただけであると。
つまりそこで止まってるみたいな訳にはなってるんだね、日本語訳としては。
そうなんだ。
ちょっとこれが、原文をちょっと読んでないからわからないんだけれども、
本当にそういう、性もそれだけだっていう感覚なのか、
それともやっぱり解釈してきたということ自体には価値を見出してるのか、
というところは多分あって、おそらく僕としては後者なんじゃないかなと。
それこそ僕の解釈なんだけれども。
マルクスはちゃんとそれを否定するんじゃなくて、哲学を否定するんじゃなくて、
48:04
例えばその土台を使って先に伸ばしている。
っていう方が正しい捉え方じゃないかなっていう風には思うんだよね。
なるほど。だからまあ、基礎研究ばっかりしやがってみたいな、
めっちゃそれ重要だけども、
ちゃんとそこから社会に役立つものというか、にしてこうよ、みたいな話だよね。
だから基礎研究ばかりはしないみたいな話に近いのかな。
もっと言うと、基礎研究って科学的には終わりはないけれども、
哲学的にはもうやったじゃなくて、ヘーゲルも出たし、
こういう側派もいるし、ある程度世の中のことって考え尽くしたじゃないか、
解釈し尽くしたじゃないかっていう発想もあったんじゃないかなと思う。
だからその解釈を発展させることよりも、
もちろん世界、この今困っている労働者とか資本主義の世界の中でのいろんな矛盾とか、
そっちを変える方が大事じゃないっていうふうな捉え方でもできるんじゃないかなと思うんだよね。
だからもう哲学者が解釈を増やす必要などないんだっていうふうにも言えるかもしれない。
哲学者の仕事だったりとか、哲学がやるべきこと?
みたいなものに対するヘーゲルって話なのね、まさに。
あーそうそうそうそう。
こういったものを通じてマルクスは実際にやっぱり世界を変えるとか、
世の中をより良くしていく、マルクスにとってのより良くしていくに向き合っていくんですよっていう感じなんですよね。
なるほどなるほど。だからまあ行動しろってわけじゃないのか。
いいから何かやれとかじゃなくて、ちゃんと哲学をやってる人たちに対してバランスの話をしてるって話だね。
あーそうだねそうだね。
というのが今回お伝えしたかったフォイエルワッハとマルクスっていう感じなんだけれども、
ちょっとまとめると、ヘーゲルっていうものはあくまでも観念、理性とか、絶対精神、絶対地っていうものがあったときに、
そうやってフォイエルワッハに寄せると神様と一緒じゃないかと。
人間以外のものを先に立てて、そこから人間とか現世界が生まれてきているっていうところはやっぱりおかしいよねっていうところから、
むしろこの人間とか現世界っていうものを主語にした哲学とか発想が必要だよっていうことを言っていって、
これはマルクスも大賛成です。
でもやっぱりただそれを主語と実語を入れ替えるだけじゃダメで、
その主語、人間っていうものがどう生きるのかもそうだし、
51:02
この人間が実際に苦しんでいる世界っていうものをどういうふうにやっぱり支えていくのか。
ここに実はヘーゲルの伝承法っていうのを持ってきて、この運動性、ダイナミズムっていうものを実現しようとした、実装しようとした。
っていうところがマルクスがヘーゲルとかホイールワーカーから受け継いだものなんだよ、というところを前回、今回とわたってお伝えしてきましたっていうふうな感じなんだよね。
はいはい、なるほどね。
これもちょっとわかりやすく伝えてる部分はあるから、これがマルクスの真実ですとかっていうわけではないんだけれども、
ベースとしてはこういったものがありますっていうのを押さえるだけでもちょっと見え方が変わるんじゃないかなって思っていますよ。
そうだね。やっとこの3回目にしてさ、ほら、マルクス誕生したじゃん。
ああ、そうだね。
悲しきモンスターが。
けま落としね。
だからその生まれたモンスターがこれから資本論なりなんないみたいなね。
ところでやっとなんか、確かにいきなり2話目でさ、そのモンスターの実態というかイメージない中で、
マルクスのふわふわしたさ、なんかマルクスっていう人がおりましてみたいな。
で、そのマルクスっていう人がこういうことをやってきました。
どれにもそのもう緑色の衣装をした、悲しきモンスター。
イメージが悪すぎる。
っていう具体的な像を結んだのがすごい嬉しかったから。
でもそうだね。ちょっと言い過ぎた感はあるけれども。
やっぱりそういったマルクスが何を考えたかっていうときに、そういうことを次から資本論の世界にちょっと突入していって、
もちろんね、全体ビルなんてできないから、ちょっと一部つまみ食いとかになっちゃうとは思うんだけれども、
この資本とか、もっと言うと経済だよね。
っていうものをどういうふうに今捉えたんですかっていうところに行くと、やっぱりまた見えてくるものが感じるものが違うかなと思うんで。
次回からいよいよマルクスの資本論の話、そこに行こうと思いますという感じですね。
最初はね、商品っていうところから行くと思います。商品。
なんで資本の話をかっていうといきなり商品で、いわゆる売り物だよね。
話があるんだっていうところがあるんですけど、これもマルクスがなんで商品っていうものを軸に据えようとしたのか。
軸というよりはね。
据えようとしたのかとか、そこからどういうことが導き出せるのかっていうのが、結構これが哲学的なんですよね。
やっぱり最小単位とか、その根源的なものから始めて、そこからいろんな概念に発展させていくっていう手法がやっぱりめちゃめちゃ面白いなと思うんで。
54:00
次回ですね、その資本論の話に行く中でも商品っていうところを手掛かりに。
このマルクスの粉式モンスター、マルクスの世界観っていうものを見ていこうと思っておりますというふうな感じですね。
はいはい、わかりました。
次回ですね、次に資本論が入っていくというところで楽しみにしていきたいと思います。
では、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
54:34

コメント

スクロール