ウパニシャッドの哲学の理解
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回は物体全の哲学ということで、古代インドのベイダから始まり、ウパニシャッドの最初の方を見てきたというところでした。
はい、今回は物体全の開示さえ終わりにしようと思っているんですけれども、総仕上げみたいな感じで、結局ウパニシャッドの時に言ったブラフマンとアートマンって結局何だったのよって話を改めてしたいなと思っております。
確かになんか全てで終わってる気がする。
そうそうそうそう。変えますって言って、ちょっと繰り返しになっちゃう部分もあるかなとは思うんですけれども、兄貴の理解が深まるという意味でもいいかなと思うし、
これまでってウッダーラ・アーリンさんのブラフマンとはみたいな感じとか、ヤージャ・バルキアさんのアートマンとはという感じで、やっぱりちょっとその人に寄せすぎたか故にちょっと分かりにくいところとか、
なんとなくは理解できるけど、結局ウパニシャッドの中ではブラフマンとアートマンって何なのみたいな話って逆にちょっと言えてなかったなと思ってるんですよね。
もっと言うとちょっと分かりにくいシステムになっちゃったかなと思うんで、もう一回そこを話させていただくことで、「あ、こういうことだったのね。」みたいな感じまで、なんかこうなってもらえたらいいなみたいな。
っていうのをちょっと今回一回お時間いただいて、改めてお伝えしようと思ってますっていう感じですね。
で、ちょっとさっそく言ってくんだけれども、まずブラフマンって何だったかっていうとさ、ある種この世の根源とか、絶対者みたいなものなんですよね。
要はそれを他の国では神と言うかもしれないし、無限なるものとかいろんなことは言うかもしれないけれども、そういう抽象的な存在を、そしてブラフマンという言葉を使ってます。
で、アートマンっていうのは個々のものだし、あとは特に人間ではね。人間の奥底にある存在の本性というか、本性というか、その存在を存在たらしめているものみたいな。
そういうものがアートマンでしたと。そこまではこれまでの説明で大丈夫かな、なんとなく。
まあなんとなくね。もうそれがひとつだとかっていうね、ブラフマンとアートマンひとつだゲームを経てしまってるからもう、この区別があやふやになってるけれども、もともとはそうだってことね。
もともとはそういう、あえて分けようと思えばというか、言葉で区別しようと思うとそういうふうに区別できますよ。
で、ヤーチャーバルキアさんは個人の方にある本性としてのアートマンを重視して、要は現実世界とかを観察したときに、そこから宇宙の根源であるブラフマンで取り付けるよみたいな、
そういうことを言ったっていう話なんだけど。ただ彼ですら、やっぱり全てはアートマンだっていう境地に至るのがブラフマンといったようなことだって。
これ、前回言った下脱の定義。ヤーチャーバルキアさんの下脱の定義としては、全てはアートマンなんだけど、それがイコールブラフマンになることだっていうふうなことを言うんだよね。
一つだっていうか、全てはアートマンだって言ってるくせに、ブラフマンと結局一緒になるっていうふうにブラフマンっていう概念使っちゃってるから、なんだっていう話は前回あったんだけれども、
でもそのぐらいの概念はブラフマンとアートマンはあるってことなんだね、とはいえ。
そうなんです。とはいえ。おそらく当時のバラモンの世界でいうと、その方がわかりやすかったんだろうと思うんだよね。
あー、説明としてね。
説明として、みんなブラフマンは何かっていうのをなんとなく学んでるからみたいな。
で、スタート地点がアートマンでリハーサルしたら、結局あとはブラフマンと一体になるってことで、全てはアートマンじゃじゃんみたいな。
そこで理解できるみたいなね。
正面終了みたいな。
はい。こんな感じなので、
ある種そのウーパニー・シャットの頂点、
ウーパニー・シャットで最大の哲学者はイラジア・バルケアさんとしては、
それがある種真理というか、一番究極の教えですよっていう感じなんだけど、
ある種それを前回ね、そのためには、
5というかカルマを取り除いて100あるものを減らして0にしていきましょうと。
欲望とか欲求っていうのを捨て去って、
本当にピュアな状態になりましょうみたいな。
そういうことを重視するっていうことには、
まさに連続性と繋がりがあるっていう話なんだよね。
そこから出てきた善悪の話はちょっとしたと思うんですけど、
例えばその善、良いことですらさ、
やっぱりそれをある種意識してやってると、
自分は良いことをしてるんだとかさ、
あるいは良いことをしているのに報われないとかさ、
やっぱりそういう傲慢さというか、
おごりみたいなものって出てくることってあるじゃないですか。
いろんな人のカルマポイントを見ては、
あいつをカルマポイントにしたらアーティストいいじゃねえとか、
俺こんなの頑張ってもいいけど、ずっと出てくるよね。
そうなんです。
なので現実的には、やっぱり悪いことをせずに良いことをしようなんだけど、
下脱を目指すとかブラックマンと一体化するみたいなことからすると、
やっぱりもう善すらもやらないというか、
善とか悪とかを超えて、ただやるべきことを淡々とやるのだとか、
やっぱりそういうふうなことが良しとされる。
それがいわゆる修行とか、やっぱりそういうふうな発想に結びついていくんだよね。
実際、ウーパニスタットじゃなくてもっと後の時代のインドの哲学者とかの話なんだけれども、
そういう人たちからすると、いわゆる自我意識だよね。
要は自分というものがあるとか、自分が何か行為をするとかっていうもの自体も下脱への障害であって、
なので、後代の哲学者の人がウーパニスタットを引いて言ってるんだけど、
ウーパニスタットの中に、朝霞も水の葉ってあるじゃないですか。
水の葉に怪我さえいっぱいだから水がつかないとかってあると思うんだけど、
そういうふうな感じで、下脱した人には悪いカルマがつかないっていうことが書いてあるんだけど、
悪いことをしても悪いカルマがつかないっていうことなんじゃなくて、
ブラフマンとの一体化
そもそも罪を犯そうとか、悪いことをしようっていう発想した人も生まれてこない。
それから欲望から自由になってるから、悪いカルマっていうものがつかないんだ。
でもそれはいいカルマも一緒で、そもそもいいことをしようって思ってやっちゃうと、
善のカルマがついてまたカルマポイント上がっちゃうじゃない。
だから、善も悪もカルマポイントが上がるって意味とは一緒なんだよね。
カルマポイント減らしていきたいのに。
なので、そもそも欲求とか意欲っていうものがない状態っていうのが、
いわゆる解放とか自由っていうふうな状態なんだっていうことを言ってるんだよね。
なので、やっぱりこれは後代の印度人愛っていうことなんだけれども、
自分が何かをするとかっていう意味での自己意識とか、
その欲求とかっていうものが全部レースする。
その先に初めて偽雑が現れるんだっていうところまでいくのが、
やっぱりこのブラフマンとかアートマンっていう発想を持った人たちの
独特なというか、やっぱり特徴的な人生観とか世界観ですっていうような感じなんだよね。
なるほど。ほうほうほう。若干悟り感があるよね。
でも本当悟りだと思う。
今の感覚を現世で持ち入れると、だいぶ悟った人感があるよね。
自我もないから、その瞬間を作りつくっては壊してっていう感じで生き続けてる人みたいな感じがする。
そうね、そうね。
やっぱりそういう発想って、キリスト教的なというか、一神教の世界で絶対に生まれてこない。
やっぱり神と自分っていうふうな、むしろそういう分離してるっていうのが大前提にあるから、
やっぱり自己とはとか、神に対する私とは我々とかっていうのが発想に目が向いちゃうんだけど、
やっぱりこのウパネシャトでいうと、ブラックマンでありアートマンで、
俺もアートマンだからみたいになっちゃうと、そもそもね、自と他の教会というのがなくなっちゃうんだよね。
そう、なんかすべきみたいなものが基本なくなるように。
そうそうそう。
やっぱりそこは悟りとか下達の根幹にあるそうなんですよっていうところはね、
だいぶイメージが割れてきたと思うんですけど。
ただね、これ面白いのが、当時のウパネシャトの話でいくと、時代の話でいくと、
下達ってのはさっきブラックマンとの一体化ですよって言ったじゃないですか。
っていう時に、それを追い求めるのがいいかというと、実はそうでもないっていう話はあるんだよね。
本当、当時。
ウパネシャトの時代、アジアバルキアの時代。
はいはいはい。
よくね、もうちょっと後の時代の仏教とかでいくと、やっぱり悟りを得たいっていう気持ちも、いわゆる発信って言うんだけど、
それはそれでいいことだと。要はそれを思うことで初めて修行をしようとか出家をしようと思うから、
悟りを目指すっていうことはいいことなんだよっていう話をしたりとか。
逆に下達を目指すっていう、下達を目指し続けようって言うとそれはそれで欲にはなっちゃうんだけれども、
それ自体はでもある種、入り口としてはいいんですよみたいな発想なんだよね。
はいはい、入り口としてはね。
入り口としては。
でも、このアジアバルキアの時代の考えからすると、実はそういう欲求すらも良くないんですって話になってて。
まあ、そうなるよね。でもね、この考え方を決めると。
そうそうそうそう。
これは、前も言った通り、ブラクナンとかアートマンってさ、要は人間の認識とか言葉を超えてますって話をしたじゃないですか。
だからもう、前々回の時にも、アートマンを理解するとかって言った瞬間に、理解の対象としているっていう時点で間違っちゃうみたいな話だと思うんだけど、
それと同じで、ブラクナンを一体化を目指すとかって言ってる時点で、もうそれ間違ってるじゃねえかって話なんだよね。
目指すってなんだ。お前がアートマンでありブラクマンだみたいな話になっちゃうから。
そうだね。外に探しに行くんかいっていうね。
そうそうそうそう。
ないよって。あなた自身がそうだよ、すでにっていうね。よく分かんないやつね。
それこそ全問答っぽくなるやつね。
そうそうそう。困るやつ言われても。
はいはい。なので、目指すとかって発想自体が違いますと。
じゃあどうするかっていうと、まさにイアジアバレキアの時代の哲学者の人たちっていうのは、
こういったブラクマンとかアートマンっていうものを示すときに、一応その言葉は使うんだけど、
それでもなく、それでもないみたいな否定を通じて示すみたいな話になるんですよね。
要は一個のものに意識を集中した時点で、それはアートマンでもブラクマンでもないのよ。
ブラフマンとアートマンの認識
なぜならもう個で分かれちゃってるから。認識したものはアートマンでもブラクマンでもありません。
そうすると、じゃあアートマンとかブラクマンって何て書いたら、認識できないものですとか。
でも認識できないものって言うと、それがあるって思っちゃうから、認識できないものでもありそうでもないみたいな。
そういう二重否定がバンバン出てきちゃうんだよね。
はいはいはい。
で、実際にこんなふうに表現しちゃってるのがあるらしくて、
ブラクマンを考えないという一言と、実はブラクマンについて考えていて、
逆にブラクマンを認識しつつあるって言ってる人には、ブラクマンは認識できてないんだみたいな。
実際にヤージャブラキラさんがそんなことを言ってるらしいんですよね。
はいはいはいはい。
これね、面白いのが、神様の宗教のほうにも否定神学っていう話があって、
否定神学。
否定神学?
そう。これは実際にキウスト教のほうにもあるんだけれども、
神様を話すとか言葉にする上で、
神様はこうだっていう話じゃなくて、神様はこうではないみたいな話で説明していきますと。
例えばこれはもうウィキペディアの話なんだけど、
神様を説明するときに、
非存在ではなく、命なきものではなく、理性なきものでもなく、知性なきものでもない、みたいな。
そういうないっていう言葉を使って表現するっていうふうなものがあるんですよね。
はいはいはい。
だから神様は存在だとか命あるものだっていうふうに言ってしまうと、
そうやって俺らと何が違うの?みたいな。
神様って人間と一緒なんですか?とかどこにいるんですか?ってなっちゃうんだけど、
超えてるんだけど、でも生命なきものではないみたいな。
なきものではない。はいはいはいはい。
だから生命あるものだって言っちゃうとちょっと違うみたいな。
じゃあってことは死んじゃうんですか?みたいな話になっちゃうじゃん。
そうだね。だからレーダーの神話的な神様っていたじゃん。
いたいた。兄弟とかね、兄とか。
あれだよね。そうやって召喚されたりとか、使役されちゃう対象になっちゃうんだよね。認識されると。
どっかに乗り越えられちゃうんだ。今回の話みたいに。
そうなんです。だからこそ否定ってことを通じて示すっていうのは、
このウパニシャットもそうだし、キリスト教とかのいわゆる宗教とかでも行われることなんだよね。
そうすると確かに認識されないもんね。そもそもね。
なので、やっぱりそういうふうにしか表現できないっていう話があって。
これはね、例えば哲学的に言うと、スクラテスの無知の地に近いのかみたいな話になってくるんだって。
要は知らないってことだからさ。
でも実はそれもちょっと違うのが、スクラテスの場合は自分は知らないんじゃないかとか、
正しく知ってると言ってる人も実は正しい知識を持ってないんじゃないかっていう話だと思うんだけど。
ウパニシャットとかにおいては、そもそも絶対者とか、別に神って呼んでもいいんだけど、
そういうものは知識では捉えられないっていうふうな、より積極的な否定になってるんですよね。
ウパニシャッドと下脱の概念
はいはい。そもそも認識の対象にならないよねっていう話だね。
そう、ならない。
それを知らないの、それですらないっていう。
そうそうそう。なんですと。
じゃあ、とはいえブラッフマンと一体化しなきゃいけないわけじゃないですか、離脱をしようと思うとね。
そうだね。言葉もついちゃってるブラッフマンっていうものとね。
ブラッフマンっていうものに、それはもう認識もできないし、理解も大丈夫にならないんだけど、でも何か一体化しなきゃいけませんみたいな無理系が発生してくるんですよ。
そうだね。
そのために必要なのが何?っていうときに、この当時のウパニシャットで言うと、それを知識じゃなくて知恵だって言ってます。
それはある種の直感的な働きで、学んだらできるとかってことじゃなくて、それは実践しかないんだよね。
はいはいはいはい。
そうなってくると、哲学っていうよりはまさに宗教というか、ちょっと神秘思想にも近づいてくるんだけど、
やっぱりブラッフマンを直感したとか、私はアートマンであるということを確信したみたいな、相当しか言えない。
そういう風になってきて、で、実際その気絶した人はどうなるんですか?っていうのもウパニシャットでいろいろ書いてるんだけど、
例えば、その後も、これもちょっと伝説的な感じで、一切の知恵を得るんだとか、
常に晴れ渡った昼間みたいな晴れ晴れとした気持ちで生きていけるんだとか、
二元論を越えていくんで、恐怖とか迷いとか、苦悩とか、あらゆるものを乗り越えれるんだみたいな、そんなことを書いてるんですよね。
へー、だから、釣りの輪廻で輪廻せずにそっちに行くっていうよりは、割と現世のうちからそうなってるっていうような話し方なんだね。
そうそうそうそう。
表現というか。
まさにそれすごい良いところで、要は、このウパニシャットの時代の下脱で言うと、生きてればこの体のまま下脱できるっていうふうな発想なんだよね。
そこが面白いっていうか、そうなんだって感じはね、そこはね。
前回はそこまでちゃんと認識っていうか考えてなかったけれども、実際そうなんだ。
だから、例えばこういう撮影話があって、例えばヘビの抜け殻ってあるじゃないですか。
ヘビの抜け殻はもちろん、抜け殻の方はもう生きてはいないんだけど、新しく抜け終わった後のヘビを生き生きとしてますみたいなのがあった時に、
人間の下脱も一緒なんだと。
体っていうものが抜け殻みたいなもので、一旦下脱しない人はある種捕らわれて、体の殻の中で生きてるんだけど、
下脱すると、それがもう自分としては何だろうな、ある種体の束縛を超えるというか、アートマンそのものとして生きていけるみたいな。
そうすると、例えば今カンノ・キョウスケっていう人間がいた時に、カンノ・キョウスケっていう枠にも捕らわれなくていいんだ、
俺はアートマンだって言って、その瞬間から生きていけるみたいな。
現代社会におけるブラフマンの思想
だから、今死んだ後にとかじゃなくて、今この瞬間から下脱するってことは全然できるんだよね。
なるほど、なるほど。それにアージュン・アバルティアが言ってるんだ。
どの段階で言ったんだろうね。出刑した後なのかな。
やっぱりおかしいね。感覚がね。絶対この人もう下脱してるよね、どっかの段階でね。
してると思う。でも理論的に言ったらそうとしか言えないってことだったんだろうね。
そうか、自分がどうこうじゃないのか。
いったんアートマン考えたらそうなるよと。
確信はしないかもしれないけど、今自分がアートマン、この瞬間アートマンだとしたら、
じゃあ次の一瞬後にはそれを悟って下脱してる可能性あるよねっていうふうな発想だよね。
あー面白いよね。
いつも彼らのポイントみたいなのをアートマンから引き剥がしたその人生が終わった後に
たどり着くとこじゃなくて、どっかのポイントでパーンって外れて抜けられるように
ひょいって抜ける、生きたまま行くっていうタイミングがあるんだね。
もうやり、理論上って感じかな、普通に言うと。
とはいえ生きてる間はやっぱりね、決めたい飲みたいとかさ、やっぱりこういうことをしたいとか
欲望を本当にゼロにするのはやっぱり難しいと思うし。
あーはいはいはい。
だから死んだ瞬間、死でまさに体からアートマンが離れる瞬間に
やっぱりこの彼のポイントはゼロであるっていう状態を目指すみたいな。
そっちの方が原石にはやりやすいっていうのは正直あったんじゃないかな。
たしかに悟りと似てるよね、たしかに。
人生悟って、そんなに多分人数もいないから、なかなか一般化できないというかね。
そうね。やっぱり人それぞれの悟りがあるからね、やっぱり。
すごいね。
なんかこういう話で仏教で生まれてるんだと、なんだかんだね、
時代背景的にいろんな言い方があった上で、仏陀がみたいな話があったような気がするけれども、
もうすでにここまであったんだね。
そうそうそうそう。
こういうのはやっぱり土台にして、ある種の仏陀が通り着いた真理っていうものが、
その後に仏教になったっていう風な流れだから。
仏陀が仏教を作りましたっていうのはちょっと違うみたいな話はまさにそうだよね。
ああ、そういう話もあるんだ。
あるある。
作ったとは言えないと。
仏陀の教えをまとめたものが仏教になっていったっていう話だから、
仏陀はやっぱりこういうインドの伝統的なバラモンの教えとかクシャトリアの考え方っていうところから、
自分なりに修行をして得た、耐えというか、
真実っていうものを説いたっていう話だからね。
ちょっと言い過ぎかもしれないけれども、
その後この、ちょっと言い過ぎかもしれないけれども、
ヤージやバルキアが考え出したこの世界観だよね。
それの下脱する一方法論だよね。
自分が実践して証明した一方法論としての仏教みたいな言い方もできるのか。
そうそうそうそう。まさにそういうこと。
一下脱の方法だよね。だから一つの。
一つの、そうそうそう。自分がやった方法を教えたら他の人も再現性があったって話だよね。
他の人もできたから、じゃあ俺も俺もって言って広がっていったみたいな。
それが仏教か。
そうそうそうそう。
恐ろしい。
どっちもすごいけどね。どっちもすごい。
本当にね、これを聞いてできちゃう方もすごいし、この世界観を作ったのもすごいし。
いや本当に本当に。
なるほどなるほど。
はい。
っていう風な流れがやっぱりある中での土台っていうのはやっぱりこの一般社会ってあるんですよって話なんだけど、
今ね、じゃあより良い影響の方というか、発展させた仏陀って話をしたんだけど、
やっぱり時代が進んでいくとやっぱりいろんな意見が出てくるようになるんですよ。
例えば下脱をする時にさ、前回も言った通り、欲望を捨てるっていうことは出家だよねみたいな。
まあ俗世間を捨てて家族とかさ、子供を捨てるとかっていうのもあるっていう話をしたと思うんですけど、
それに対してさ、いやいや本当にそれって大事なのと。
って言うと現実世界の方がむしろ大事じゃねえみたいなことを言う人も出てくるんだよね。
いやー自分はそう思うよ。
なんだかんだそう思うよ。
なんだかんだね、そうそうそう。
でもそれも単純に気持ち的な話じゃなくて、
要はブラッフマンのような絶対値じゃないですかと。
で、それが要は展開したというか形が変わっていったものはこの世界だとすると、
ブラフマンと日常生活
結局世間って言っているこの世界、日常世界にもやっぱりブラッフマンっていうものがあって、
それはもう尊いはずじゃないかと。
要は世間から離れるって言ってるけど、
世間自体も本来ならブラッフマンの姿が尊いはずなのに、
なんでわざわざ離れていくのみたいな、そういうことを考えていくわけなんだよね。
そこに罪悪持ち込んでんじゃんみたいなね。
そうそうそうそう。
そんな発想も単なる批判。
要は日常生活大事じゃんってことじゃなくて、
うっぱりんシャットとかの内容を踏まえて、そもそもブラッフマンがこういうものだとしたらおかしくねみたいな。
そういうことを議論を延々していくわけなんだよね。
だから全く新しい発想とは議論がポンと生まれるっていうよりも、
とにかくこのうっぱりんシャットがいろんな説とかいろんな考えっていうのが含んでるんで、
そこからこんな解釈ができないとか、
うっぱりんシャットのこの部分を取り上げたらどうかとかっていうふうに延々議論していきますみたいな。
そういうふうな感じなんだよね。
なるほど。
なかなかこのゲームが面白すぎて、別のゲーム誕生したりとか、これが完全に乗り越えられるみたいなところがないのか。
ないね。ないし。
ブラッフマン以外の絶対者的なものを想定してくださいって言うときにさ、できるかって言うと結構難しいんだよね。
確かに。さっき入ったことによって否定進学だっけか。
もうそういうふうになってるから、もうないみたいなさ、認識できないから、認識できないものをひっくり返しようもないみたいな感じなんだな。
だからそれをどうされるかもしれない。あるとしたら無みたいな話になるんだけど、
ブラッフマンって絶対的に有から始まってるじゃないですか。
うったらかあるにかなるときにも、無って言ってる人はいるけどそれはおかしいよっていう批判をして、自分の考えを語ったって話すると思うんですけど。
だからもう純粋な有とかって言われちゃうと、じゃあ無か、みたいな、それしか正直ちょっと発想できないよね、凡人の頭では。
そうだね。はいはいはいはい。
それは純粋な有とは何かっていう意味では語ることはできるんだけど、それはブラッフマンを説明してるに過ぎないから、
やっぱりそれはゲームで戦うしかないんだよね、多くの場合には。
私、いわゆる現代科学においても、どんどん分子、原子みたいなのがどんどん自着していっても、まだこの純粋の有を乗り越えてないんだよね、きっとね、現代科学が。
哲学と倫理的視点の重要性
乗り越えてない。
ここに吸収されちゃうんだね。
そもそもね、一番ちっちゃい物質を探すのは、いわゆる有を探してるわけだから。
うん、そうだよね。
その純粋な有って言っちゃってるから、それまだ証明されてないじゃんって言えるんだもんね。
言えちゃう言えちゃう。
わかんないんだもんね。
わかんない。
取り寄せの奥に純粋な有というものがあるかもしれないじゃんって言われたら、観測できないけどね、見つけたら。
としか言えません。
いい感じなので、そのぐらい奥が深いというか、いろんなことを考え尽くした結果が、
しかもまとまってないから、ある種都合よく取り寄せちゃうみたいな感じもあるんですよね。
なるほど。
そういうふうな偉大な思想というか、そういった原数になっているのが、このベーダーであり、ウパネチャットでありましたよと。
というのが今回、仏陀依然というところでお伝えしたかった話なんですよね。
え、何の話だっけ?
え、ちなみにね、仏陀依然でお伝えしたかった話ね。ウパネチャットすごいでしょっていう。
まあ、そうはね。結局ブラフマンとアートマンってね、結局わかんないんだよね。
今回、そこをちゃんとね、わかりましょうみたいな話だったけれども。
はいはいはい。
結局わからない。
わかんないことがわかったでしょ。
わからない。そうやって見聞に巻かれないとダメだよ。
え、なんでわかんないかがわからなかった、でも今回ね。
まあ、そうはね。結局ね、世界観がちょっと、さっきハヤトが言った、ちょっと否定主義学という言葉がすごい概念が面白いしわかりやすかったから。
まあ、そこに行っちゃってるからもう、誰も文句言えないというかね。
さっきの僧侶島で言っても科学的にもう全然違うじゃんみたいな話ができない話をしてるから。
そうそうそうそう。
この中でいくらでも遊べるっていう話だよね、あるいはすごく悪いというかカジュアルすぎる言い方をするとね。
逆に言うと、いや、科学も所詮認識できる対象しか当たってますよねっていうことも言えちゃうわけだよね、この世界観からは。
だから、舞うと取れるんだよね、ずっと。
取れちゃう、取れちゃう。
ああ、やっと、やっとその素粒子にたどり着いたんですね、みたいな。
純粋に少し近づきましたね、みたいな言い方もできちゃうんだよね、ある意味ね。
できちゃう、できちゃう。
そこはね、使い方次第っていう感じなんですけど、ちょっと最後にね。
これをちゃんとやってる人たちがそんなスタンスであるはずがないけどね、ちゃんとやってる人たちがね。
で、最後にね、これはちょっとウパニシャとか離れて、こういった発想とか世界観っていうのを、現代の2020、まもなく5年になろうとしている。
僕らが活かすとしたら何だろう、どんなことがあるのかって話を少ししたいなと思ってるんですよね。
これちょっと雑談に組み込む話で、なんか本に書いているというよりは僕自身が思ってるだけっていう感じなんですけど。
よくある人はやっぱりこうね、それでスラジオでもよく話す、やっぱり二言論か一言論かいった話ってあるじゃないですか。
で、それってそんな簡単じゃないよとか、やっぱりこうなんだろうな。
ある種、事故と他者って別だみたいな、そういう観点から一言論を捉えようとすると、結局はその二言論から出発した一言論になっちゃうような話があるんだよね。
要は神と自分は別なんだけど一つになろうとかすると、要はその根底では二言論の世界観がどっぷり残ってます。
でもこのルパイショットという思想自体は、そもそも自らの個別とか多様性っていうものが存在しませんっていうことが土台なわけなんだよね。
なので、やっぱりそれは純粋な一言論というところから世界を始めませんかっていうのが発想なので、
それは当然やっぱり理解しにくいし、さっき言った通り普通には認識できないんだけど、
とはいえ、自分っていうある種と捉えられそうな存在も完全に孤立してるんじゃなくて、
緩やかにでも他者とか環境とか、もっと言うと世界とかってもっと繋がってるんだみたいな、
そういうふうな発想自体が結構倫理的には大事な感覚かなとは思うんだよね。
たしかにそういう話も出たもんね。
死ぬ瞬間に願えば天国行けるみたいな話だと、結局現世のモラルぐちゃぐちゃになるじゃんみたいなね。
そうそうそう、会いたい放題じゃんみたいな。
日本的には伝統的に言うと、おテント様とか世間様みたいな感じで、それはもちろん悪い意味で使うこともあるとは思うんだけれども、
やっぱり完全に自分と世界が分離した世界で生きるって、それはそれで辛いわけなんだよね。
またさっきの通りで、自分だけが良ければ良いし、死んだ後の世界のことなんか知らんみたいになっちゃうと、
やっぱり個人の感覚化をすれば別にそれはそれでいいって思う方もいるかもしれないんだけれども、
やっぱりそれって本当に倫理的な生き方かとか、やっぱり良い生き方かって考えると、ちょっと違うんじゃないっていう感覚っていうのがちょっとは沸くんじゃないかと思うんだよね。
相当大変だろうね。全員が敵と想定して生きなきゃいけない世の中だから。
でもそれも、じゃあなんで自分以外全部敵ではダメなんだっていう発想には、やっぱり二元論的な世界観では答えられないんですよ。
確かに自分と相手は違うから、味方か敵かに分かれちゃうっていうことを覆せないんだけど、
別に敵とか味方とかじゃないんだと。人っていうのは分かれてなくって、コンテナは全部繋がってるんだっていう発想に立って初めて、
それをちゃんと批判できるというか、それは間違ってるんだっていうふうに言える。
やっぱりそういう、別に二元論がいいとか一元論がいいとかってことじゃなくって、やっぱりそもそもそのレベルで違うっていうことから考えないと理解できない世界があるっていうふうな発想だと思うんだよね。
これ確か以前のカフェかな。僕がその話したときに、自分の自己感覚、もし仮に感のハイトっていう人間がいるとして、
それがこの体に包まれたこの存在だけじゃなくって、世界全部感のハイトだぐらいにもし重いだとすると、
それってもう自己中心的にしても、それで世界中心とイコールじゃんみたいなことを話したんですけど、
その際にその感覚の根っこに置けなって思ってるのが、このアートマンとかブラフマンの考え方なんですよね。
要は自分アートマンというものが世界の絶対者でブラフマンと一緒だとすると、アートマン中心主義でも別に世界と交わっちゃうというか、調和できちゃうみたいな。
っていうのは全然ある世界観かもなって最近思ってるんですよ。
これも二元論的に取られると、世界が自分とかなんて傲慢だみたいな。世界征服ではシャイなかってなるんだけど、そういうことじゃないんですみたいな。
感覚っていう感じなんだけど、今の話なんか伝わってるかな。
うん、わかるよ。そもそも理想論の話だけどさ、全員がお互いのことを考えましょう、そういう話だよね。
そうねそうね。でもね、お互いのことすら考える必要がなくて、自分のことを十分考えていれば、自分イコール世界だとすると自然に世界のことも考えるよねっていうふうな発想。
だから、あえてお互いとかを持ち出す必要もなくなるみたいな感じだと思うんだよね。
自分が広がるときに家族だったら家族のことを考えるだろうし、学校だったら学校のことも考えるだろうしっていうふうに広がっていくっていうような発想だと思うんだけど、
やっぱりさ、現代って結構ね、分断みたいなものがテーマになったりとかさ、やっぱり政治とかの話になっても、ナショナリズムで自分の国だけ良ければ良いみたいな発想とかってね、世の中で結構あると思うんですよ。
戦争とかもそうだよね。自国民が良ければやっぱり北を侵略しようみたいな話って。もちろんそういった国際的な力学の中では一理あるのかもしれないけれども、やっぱり和を大事にするというか、人と世界が繋がっていくっていう意味では、こういったインドの哲学とかウパネチャットみたいなもの。
ウパニシャッドと現代社会
なんだかんだ結構大事な原性なんだろうな、思想の源になってるんじゃないかなとやっぱ思うんですよね。
そういうのが、あえてウパネチャットっていうものを、あるいはその中にある一元論的な世界観っていうものを現代に生かすとしたら、そんな感じなのかなーとか思ってます。
はい。そこまで仏陀営善っていうふうにテーマとしてインドの哲学っていうのを伝えてきたんですけれども、せっかくなので仏教の話もところどころ触れてたと思うので、雑談の前に仏教にも少し足を踏められたいなと思ってるんですけど、メインテーマとしては演技ですね。演技。
あー、はいはい。
兄貴がずっとわからないよーって言ってて、いつか取り上げますよって結構取り上げてなかった話なんだけど、これって結構今回出てきたカルマとか輪廻みたいな話もかなり繋がる発想なんですよね。
はいはいはいはい。
もっと言うと、この語があるから演技があるって言えるぐらいなんだけど。
うんうんうん。
なのでそれをちゃんと説明したいなっていうところと、それに加えてね、さっき仏陀の話もちょっとしたと思うんですけど、仏教の根本的な教えとして、四方陰って言われる考え方があって、
諸行無常、諸法無我、一切皆苦、涅槃若情ってことで4つなんだけど、まとめて四方陰って言うだけで、これが結構仏教の根本的な教えだみたいな話なんだよね。
ほうほうほうほう。
うん。これについて結構ね、自分の中で最近理解が深まったなというか、それこそウパイシャットの流れを踏まえると結構めっちゃわかるなみたいな話があるんで、
演技っていう話と四方陰っていう話、これも次回伝えることで、そういうふうに仏教とインドのウパイシャットで繋がってんだねみたいな話をできたらいいのかななんて思っております。
日本の思想と哲学の探求
ぜひぜひ。
はい。そっから雑談を挟んで、次は日本みたいなことを振り上げたいんだけど、
古代ギリシャで西洋やりました、インドで東洋やりましたってなったときに、
最近はちょっと前に言ってくれたけど、日本ってどこなのとか、日本の思想の流れってあるの?みたいな話聞いてくれたと思うんですけど、
思想とか、考え方、世界観、人間観っていうところを話していきたいなと思って。
その先にさらに日本の哲学とかも一緒にやったほうがいいかなと思ってるんで。
ああ、そっか。それはあるのか。
あるある。西田貴太郎さんとかね、やっぱりあるんで。
そういうところまでちょっとね、年末年始ぐらいを挟んでやっていこうと思ってますっていう感じですね。
分かりました。では次回はですね、ブッダのあたりを挟んでまた日本の話を見ていくというところで、
引き続き楽しんでいきたいと思います。では次回もよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。