モラトリウムについて
こんにちは。今日はツイッターでちょっと流れてきていて、気になっていたものについて少し話したいと思います。
流れてきていたメッセージは、大学生が今は早く社会に出なきゃいけないという圧力にそらされているんじゃないかという投稿で、
それに対して、一人それを引用した方が、昔と違ってモラトリウムというのは気軽にできるものじゃなくて、自分でモラトリウムをすると選び取らなきゃいけないものになっているんじゃないかというようなコメントをつけていました。
私も投稿についてそのままスルーできなくて、何度か読み直しました。
というのも、私も大学をちょっとお目に行ったりとか、大学院もそんなに理由があったわけじゃないけど行ったんですよね。
今考えると、それって自分の発達から考えるとよかったなと思っていて、感情面とか社会とかとの折り合い方とかがだいぶ大学院時代、留年時代含めて楽になったなと思っています。
もし仮に自分の子供が同じようにすぐに社会に出てくるのが難しいといったときに、ポンと留年するとか何かするとか、モラトリウムをするというのが金銭的に許されるかどうかというのがちょっと気になっていますし、
社会的にもそれがなかなか許されにくいようになっているんじゃないかというふうな気はします。
昔は、昔っていうとあれですけど、私が学生のとき、もう20年くらい前になっちゃいますけど、その頃は学生の頃に力を入れたこと、学知家とかなんていう言葉もそんなにはなかったですし、
割と留年とか留学とかにも対しても、そんなに強くネガティブに働くことはなかったように思います。
でも今はなんとなく思うのは、前よりかもっと短期的に目標に向かって進むことが期待されていて、
その右を曲折したりとか、少し回り道したり寄り道したりというのが難しくなっているんじゃないかなと思っています。
しなくていい回り道はあるかもしれないんですけど、
それってそのときにわからなかったり、後からやっぱりその回り道が必要だったというふうに感じたりすることはよくあるんじゃないかなと思っています。
なんていうか、そうですね。
全てが仕事もそうですけど、短線的になってきているような気がしていて、
ゴールに向かって突き進んでいく、こういうキャリアのゴールがあってこういうスキルを身につけていくとか、
そういう形で自分の行くべきところを短線的に組み立てていくことが何か求められて推奨されているような気がしています。
これってすごく自分がそういう生き方ができなかったからだと思うんですけど、
それってとても窮屈な気がしていて、
自分の引き出しというんですか、自分の中のストライクゾーンがとても狭くなるんじゃないかなという気がしています。
そういう意味で、ちょっと今のゴールに向かって進む、ずんずん突き進んでいこうという風潮なのか、
多くの人が良しとする考え方はちょっと気になるし、ちょっと反対する部分があります。
もっと短線的に行ってもいいと思うし、もっと回り道してもいいと思うし、
いろいろと楽しみながら、あっちじゃなかった、やっぱりこっちだという風に、いろいろと掴み直すというチャンスが与えられるような社会になってあるべきだなと思っています。
それを個人でどういう風に実現していくかというと、ちょっとまだはっきりしていないんですけど、
私も今、プロジェクトが終盤に差し掛かってきて、過去5年間1つのプロジェクトをやってきたんですけど、今年で終わる予定です。
そうすると、来年からまた新しいプロジェクトを探して、会社は元の会社で仕事をしていくんですけど、
これまで会社とちょっと離れた形で仕事をしていたので、元の会社に戻ってどういう風なプロジェクトをやっていくかというのを見つめ直す時期になってきています。
多分、物事を端線的に捉えると、これ今やっていたプロジェクトに似たようなものを探して、経験を積んでより良いものとか、
このプロジェクトの前にやっていたシステム開発に戻って、システム開発にフォーカスして、これまでの5年分をキャッチアップして業界で活躍できるようにするとか、
そういった形のものが多分端線的な生き方になると思うんですけど、もう少し伏線的な生き方ができないかなと思っているし、それをちょっと模索したいなと思っています。
多分ここでいう伏線的な生き方って、ちょっと掛け合わせたような形、これまでとちょっと軸がずれるような働き方になるんじゃないかなと思っていて、
それはそれで多分試行錯誤が多いかなと思うんですけど、これまでの経験から考えるとそれはそれで面白いんじゃないかなと思っていて、
少し不安を感じつつどうしようかなと思っているところです。
これ以上これからの話なんで、来年のことだし、鬼が笑うので今日この辺にしたいと思います。さよなら。