2024-09-11 34:55

#6「自分を大切にするその先にある自分らしさ」(NPO法人PIECES 斎 典道②)

今回の語り手:NPO法人PIECES 斎 典道 

NPO法人PIECES HP:https://www.pieces.tokyo/


内容:人づくりが大事/目的を分けて活動する/市民性を発揮できる環境/そこにしかない景色/好きという感性を育てる/自分を大切にすると社会も大切にできる/応答してくれる環境で自分の存在を感じる/自分を大切にするその先にある自分らしさ/人間の透明化/小さなことから意思決定をする/あの街あの風景で生まれる音


ようこそsocial hive WAITING CAFE 点描の弧へ。

ここは東京文京区本郷三丁目駅の裏にある、小野田総合法律事務所併設シェアオフィス『social hive HONGO』のメンバーが立ち寄るWAITING CAFEです。

毎週この時間のWAITING CAFEは、決まってメンバーの誰かがふらっと立ち寄って面白い話をしてくださるんです。

まるで世界の見え方がほんのちょっと、変わってしまうような。

※番組へのお便りは、socialhivehongo@gmail.comまでお寄せください。


聴き手 : ⁠⁠⁠岡田壮麻(スタートアップ支援家)⁠⁠⁠

常連 : 和賀未青(株式会社ニイラ代表)

HP:⁠⁠⁠https://niila.info/index.html⁠⁠⁠

制作 : 小野田峻(弁護士/小野田総合法律事務所)ほか 

小野田総合法律事務所 : 

HP:⁠⁠⁠https://www.ot-lawoffice.jp/⁠⁠⁠


X [Twitter] :⁠⁠⁠ social hive HONGO(@socialhiveHONGO)⁠⁠⁠

*ご感想は 「#点描の弧」 でお願いします。

BGM:zippy(作曲家。X [Twitter]:zippy@zippy_zippy_)

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Welcome to social hive WAITING CAFE Tenbyo no Ko.

This is the WAITING CAFE where members of "social hive HONGO," a shared office attached to Onoda Law Office, located behind Hongo 3-chome Station in Tokyo's Bunkyo Ward, stop by.

Every week at this time at WAITING CAFE, one of our members stops by to share an interesting story.

It may be a story that will change the way you see the world just a little bit.

サマリー

NPO法人PIECESの斎典道氏は、団体設立からの経緯や人作りの重要性についてお話しされています。特に、支援活動と市民性の関係を考察し、過去の分岐点を振り返りながら今後の活動についても考えています。このエピソードでは、自分を大切にすることが自分らしさにつながることについて語られています。地域の特性や自然との関わりが、個人の感性や社会とのつながりに大きな影響を与えることが強調されています。また、孤独の重要性や自己選択の価値についても議論されており、特に文化や環境が音楽や個人の表現に与える影響についても触れられています。

00:07
ようこそ、socialhive WAITING CAFE 点描の孤~。
ここは東京文京区、HONGO3丁目駅の裏にある法律事務所併設シェアオフィス、socialhiveHONGOのメンバーが立ち寄るWAITING CAFEです。
毎週この時間のWAITING CAFEは、決まってメンバーの誰かがフラッと立ち寄って面白い話をしてくださるんです。
まるで世界の見え方がほんのちょっと変わってしまうような、そんな話が聞こえてくるかもしれません。
PIECESの歴史と課題
本日のご来店者は、前回に引き続きNPO法人PIECESの斎さんです。
PIECES始まったときからの話を、私は是非。
8年、そのやっぱり奇跡っていうか足跡みたいのがあって、きっと右往曲折、良いことも悪いこともあった。
手柄を是非。
そうですね。3時間ぐらい。
別日ですね。
必要。
でも本当に色々あって、だから最初からそれこそ市民性って言葉を使ってたわけじゃ全然なくて、むしろ2016年にスタートして18年、19年ぐらいから使い始めたかなとその言葉も。
やっぱり元々は、その人が大事だっていうところは変わらなかったんですけど、極端に言えばすごい市民を育てようというか。
すごい市民。
ちょっとこうマッチョな感じ。
なんかこうスーパー市民を増やしていけばいいんじゃないかみたいな発想が割と最初強かったかなと思います。
影響力を持つ。
そうですそうです。
なので、だからもう育成プログラムですみたいなことを言っていたのもなんかそれかなって。
マチョですよね、育成が言葉として。
非常に今思いがマチョで。
やっていく中で、当時だから子どもたち若者たちの直接的な支援っていうことと同時にその育成プログラムみたいなものをやっていって。
やっていく中で2つの違和感というか。
1つは自分たちが人が大事だと言いつつ、子どもの直接的な支援もしていると。
そうするとやっぱりほんと限られたリソースの中で、やっぱりそれが2つに支援的な活動と人作りのところがあって。
やっぱり自分たちの真ん中はどっちなんだっていう風になった時にやっぱりそこのもう1回人作りの方だねっていう風になっていって。
一旦2019年かな、PCSがもう1つNPOが、当時の副代表のメンバーが作ったNPO。
三角車というNPOがあるんですけれども、そこと一旦別れていくっていうプロセスがあるんですけど。
そこのところは1つ、PCSとしてはもう1回軸は何なのかみたいなことを話して。
別れと再会の物語
そしたらそこのミッションは無理に1つに閉じ込めずに分けていった方がいいかもねみたいなプロセスがまず1個あって。
どういう分岐が起きたんですか?
だからもう本当にPCSというNPOで、そこからやっていた子ども若者の直接的な支援活動みたいなものを事業場とするというか。
渡す形で別のNPOが作られていくみたいな、そんなことが起きていて。
じゃあ目的を分けた方がいいよねっていう。
そうですそうですそうです。その方が結果健全なんじゃないかというので、当然そのプロセスにも結構いろんな痛みがあったり。
少ないリソースとはいえ、それを分け合っていくみたいなところでは何かギクシャクみたいなものがあって。
だから三角車の代表の新井さんという、当時PCSの副代表だったメンバー。
そういう経緯があって、なかなかその後も彼とは私は会えずにいて。
そんな感じになっちゃった。
本当は綺麗に別れられたらいいんですけど。
別になんかすごい大喧嘩したわけでもないんですけども、なんかでもちょっとお互いにきっと、それまでのプロセスも含めてちょっと痛みあっていたりとか苦しんでいたところもあって。
ちょうど今から2ヶ月前ぐらいに、それ以来初めて2人で会ってっていう実は結構感動的な出来事が2ヶ月前ぐらいにあったばかりですね。
市民性の重要性
それはもう感動的な話だね。
私もだからPCSとしても今また新しいフェーズに行こうとしているのもあって、過去のことを一度見つめ直したときに、過去どっかに行けるとしたらどこに行きたいかって言われたらやっぱりその瞬間なんですよね。
あの時になんかやっぱ彼に対してなんかちょっと申し訳ないなっていう気持ちだったりが、やっぱりずっと残っていて。
そこからコロナだったんで、オンライン上とかでは女性菌の報告会とかでは同じ女性菌をもらっていて、画面上で会うことはあるんですけど、本当に出会って喋ってはなくて。
で、2ヶ月前に本当にだから何年ぶり?5年ぶり?とかに会って、お互いにごめんねっつって。
えー。珍しいんじゃない?そういうの多分。
ね。大人になって。
いや、そうそう。いや、ちょっとだからね。
感動的。
彼にだから会おうよってメッセージ送るときにはちょっと、手が震えるまではいかなかったですけど、なんかすごい緊張感があって。
自分から言った?
そうですね。私から言って。で、また悪いやつで48時間ぐらい返事が来ないんですよ。
ドキドキする。
早く返事が来てほしいな、来ないでほしいな。
本人にもその場で言ったんですけど、いや、あれはキツかったわっつって。
ごめんなさいって。
いやいやでも、なんか向こう向こうでその時のことについて、あとそれまでのプロセスのところについても。
ミッションの違いだとはいえ、それ以外のことも含めてやっぱりちょっとしたいざこざみたいなものはあったんで、
ごめんなさいみたいな感じで言ってくれて、わー、なんかマジで良かったと思って。
やっとちゃんと未来に足を踏み出せる感覚とか。
へー。
っていうのがあったりするので、話とかをしてるとはい、3時間ぐらいかかるので。
いろいろなものが。
だいぶ今ダイジェスト。
ダイジェストバージョン。
まあでもそういうのもありつつ、あとはさっきのスーパー市民みたいなマインド。
結局でも気づいたのは、これも結局なんか支援者とか専門職を作ってるのと同じじゃんと思って。
もしかしたらさっき言った専門性の弊害みたいな。
同じだなと途中で気づいて、結局そういう人が街の中に作られると、じゃあその人が頑張ればいいじゃんっていうことになってくる。
そういうことじゃないよね。
で、やっぱり市民性っていうことを考えたら、もうとにかくそこはグラデーション。
それを発揮する形っていろいろだし、それに気づいていくタイミングもそれぞれだし、
なったらもっと万人にとってのものだよねってなったら、そういう育成とかスーパー市民的なことじゃなくて、
もう一回プログラムの名前も、それまでのユースワーカー育成プログラムみたいな風に呼んでたのを、
シズンシップ・フォーチェルドレンという市民性をもう一回真ん中に置くことで、
みんな誰もが持っているし、誰もが少しずつそれを詰め直していくってことができるよねみたいなところで、
プログラムの名前も変わり、いったのが2019年とかちょうど本当に同じように。
そのあたりは結構一つ大きな分岐点だった。
グラデーションとしてだったと思うんですけど、確かにこのマッチョだけと普通の人とすごい対比があるんですけど、
いろんなその段階の人がいてもらって、いろんな人がそのいろんな段階の人にアプローチできたりマッチングされると、
すごくグラデーションって感じになってすごくいいなって感じましたけど。
ですし市民性みたいなもの、環境によって発揮できる時、発揮できない時もあれば、
常にステップみたいなことじゃなくて、レベル1の人、レベル2の人とかっていう世界じゃなくて、
いい感じでいけたなっていう日もあれば、そうじゃない日もあるし、
こういう環境だったらちょっといけるなっていうこともあれば、
すごい冷たい電車の車内とかだと自分がちょっとアクション起こすと結構勇気いったりするじゃないですか。
でもバスの中でおばちゃんがちょっと、おせっかいのおばちゃんが声出していたら、
自分も一緒にやってもいいのかなって思ったりとか、
そういうお互いの関係性だったり、その場面だったり、その日の体調とかによっても変わってくるわけだから、
そうなると本当はグラデーションで混ざり合ってるし、そっちのほうが自然だしみたいな。
なんか景色みたいなイメージ?
景色、さすがっすね。
いやいやいや。
ごめんなさい、全然わからない。
いや、今ここは通じ合ってる。
わっている景色。
ちょっと一般市民ちょっとついてみてね。
ちょっとマッチョすぎて。
さゆさんの話聞いてたら、たぶんマッチョな人がいる光景はあんまり浮かばないんだけど、
市民性っていうのを女性っていったときに浮かぶのは、その人がいやすい生き方でいる景色。
はい。
だから、たとえばその人は今日はお子さんが病気で、外に出れないから活動はできない日もあるし、
でも仕事とかだったら、マッチョな人だったら張ってでも行く、みたいな。
たぶん私もそういうサーリーマン時代だった。
だけど、それはきっとあんまりいいことはなくて、というよりはその人の体調が良いときをきっと選んで活動をする。
だからお互いに悪い影響を与え合わないみたいな。
だからラジオじゃないけど、周波数がわりとキーンと音がならないみたいな。
カチッて合う。
なるほど。
うん。
整った景色みたいな感じですか?景色っていうのは。
整ってるっていうよりはもう景色の一部みたいな。
たぶん市民っていう。
なるほど。
人がワーっていう、そこに溶け込んでる感じが。
違和感なく景色として存在してるみたいな感じ。
花があったり、建物があったり、子供がいたり。
で、市民性のプログラムを受けた人はいるんだけど、あんまり取り立ててフューチャーされない感じがする。
あんまり目立っている花みたいな感じでもなく。
ない。だけどなんかじわっと。
そうですね。
いいね。
その話でちょっとだけずれるかもしれないですけど、
私たちがやってるC4Cと呼んでるプログラムの講師で、九州大学の大学院の滝田さんっていう人が講師として参加してくれていて、
その人は風景と市民性っていうテーマでここ何年か喋ってくれていて、
風景、ランドスケープとシーズンシップですね。
本当もうこれは滝田さんの受け売りでしかないですけれども、
ランドスケープも語源をただるとスケープのところもシップと同じなんですよね。
要するにその状態ものの状態っていうものを表して。
で、滝田さんそこに繋がりがあるよねっていうふうに言ってる中で、
例えばどこか中山間地域とかに行ったときに、
そこにあるのは山があったり駅があったりいろいろするんですけれども、
そこを見てなんかさびれた街だなっていうふうに思う人もいれば、
なんて心が落ち着く街なんだ、風景なんだって思う人もいて、
要するにそこにあるものは同じなんだけれども、
それを見る人によって風景っていうのは変わっていくっていうのがある。
市民性みたいなものも結局自分だけで存在してるわけじゃなくて、
人との関係性だったり、どこにいるかっていうことも含めて立ち現れてくる、
だったり形成されていくっていう。
人は一人でに市民性を帯びるんじゃなくて、
周りに影響を受けながら市民性というものが現れてくるっていう話をしてくれて、
本当にそうだなと。
風景が人によって風景になっていく。
見方によって風景っていうものが生まれてくるっていうことと同時に、
同じように市民性というものも誰と関わるか、
どこにいるかとかそういうことの中で自然と帯びてくるものみたいな。
面白いなと。
主体的にこの部分で、例えば人の部分だったら人の部分だけとかって見ちゃいがちですけど、
もっと広義に環境も含めた大いなる何かの中の私みたいなものの集合体というか、
めちゃめちゃちょっと高い話してますけど。
でも本当にそうで、
フィーシーズの中でもみんなで話してますけど、
やっぱり人が支援をしすぎようとしちゃってるよね。
人が人を支えようとしすぎちゃってるよね。
そうじゃなくて、もっと私たちの周りにはいろんなものがある。
実際に例えば子どもたち、私の知り合いから聞いた話だと、
自然との関わり
その子の関わってる子とかは放課後、学校から帰る前に、
校庭の端っこに立っている大きな木に向かってブツブツとその日会ったことをつぶやく。
そうすると自然と心が癒されて自分の家に帰っていく。
ちょっと学校で嫌なことがあったときにもそういうことをして、
日常とつながっていくみたいな。
それってまさに別に人は介在しなくて、そこに木があって、
そういうものの力っていうのもやっぱりあるし。
なるほど。
だからもっともっと、
例えばラジオとかそういうポッドキャストとかも、
別に直接私に聞いてる人は話しかけてるわけではないけれども、
自然と流れてくる音によって、音楽によって、
ちょっとほっとしたなとか、気持ちいいなみたいなってことはあるかなと。
だからベクトルをあんまり人から人に向けすぎることばっかり考えずに、
その周りにあるまさに風景として人って支えられているんだろう。
そこの感覚はすごい大事。
そのあたりすごく、先ほどからめちゃめちゃうなずいてますけど、
自分の感性
そのあたりってどう感じてますか?
風景もたぶん本当にそうだなと思うし、
そこにしかない景色みたいなのが大事じゃないかなとか、
地域も。
そうですね。
文京区とか東京以外の県外の場所とか、
そこにしかない時期とか風景とか、
そういうのがすごく影響しあっていそう。
だからそのお子さんが木に話しかけるように、
私もこの間広島行って、
友達が落納花やってるんですけど、
落納の場所にあったしだれ桜が、
すごい大きくてきれいだった。
一本ドーンって立ってるんだけど、
それが写真に撮るしかないって思ってたくさん撮ったんですよ。
でも花を写真に撮るなんてことなかったんですよ。
だからその人っていうか、人じゃないんだけど、
しだれさん。
しだれさんがすごいオーラがあって、
なんか歓喜されちゃった。
そうそう。きれいできれいで仕方がないし、
力強いし、人にしか見えないなみたいな。
だからそういうのを言うとちょっとおかしい人って言われるけど、
でもなんかそういうもんじゃないかなって。
まず見入っちゃうと。
そうですね。
まずその景色に感動しちゃうみたいな。
人と人もそれも起こるし、そこにやっぱり自然がないとおかしい。
意外と不思議なんですけど、
人ってあるけど、時間ずらしたらそこにあるって気づくとか、
しだれさんも多分見られる状態のわがさんがそこに行ってるから、
なんかすごいってなってますけど、
もしかしたらわちゃわちゃしてるときに行ったら、
素通りして見たりとか。
確かに確かに。
そこもさっき言ったその日、この時みたいなのが起きてるのかなっていうのは聞いてます。
引き合うみたいな。
とかね。
そのときにやっぱこう、自分の感性というか、なんか無理やりちょっと。
ソーシャルハイブ、ウェイティングカフェ、天秤の子、
新しい当たり前をデザインする実践者たちの日常。
なんですけど、そこもさっき言ったその日、この時みたいなのが起きてるのかなっていうのは聞いてます。
引き合うみたいな。
とかね。
ただそのときにやっぱこう、自分の感性というか、なんか無理やりちょっと話を元の方に戻しちゃう感じになるかもしれないですけど、
なんか自分の感性、要するに自分が何を大切にしてるのかとか、
そこの感覚を持ってるって本当に大事なことだというふうに思うし、
やっぱり日本でよくよく思い返せば、
この間もある人とご飯一緒に食べてて、
感性って大事だよねみたいな。日本って知性はすごく育てようとするけど、感性って育たないよねみたいな。
丸とか三角とか四角、
例えば三角って、
角の内角、角の和が180度でみたいな話とか、四角形って、
円周率ってみたいな、そこの公式を学んだりはするけど、
丸とか三角とか四角とかの内、どれが好きみたいな話って絶対になんないじゃないですか、学校の中で。
でもそういう好きとか楽しいとか気持ちいいとか、
そういう自分の感覚をちゃんと知れているってすごい大事で、
だからさっきシダルザクラに心を惹かれるみたいな、
それもずっとスマホを見て歩いていたらきっと気づかないと思うし、
でも自分の心地いいところって心配にありそうだなみたいなアンテナを立てて生きているって、
それだけでもたぶんきっと豊かになれると思うので、
だから究極、すごいすごい抽象的になっちゃうけれども、
今このVC'sの活動をしていく中で、
世の多くの人たちと自分って大切に生きてきてますかっていうことを、
共有できていけたらいいと思ってるし、
皆さんにとって、皆さんにとってっていうとなんかあれですけど、
みんなにとって自分を大切にするってどういうことですかみたいな、
そこは結構考えたいなと考え続けていきたいな。
たぶん自分を大切にするって突き詰めていったときに、
やっぱりさっきも話した話じゃないですけど、
やっぱりそこには他者や社会っていうものが出てくるんじゃないか。
自分一人で本当に自分が豊かになれるかって言ったらそうじゃないし、
だからスタートは自分を大切にするっていうことでいいと思うし、
透明化と孤立
でもそれをしっかりと突き詰めていくというか、
その人なりのものをちゃんと大事にしていけると、
きっとそこの先には私たちになっていくような気もする。
自分を大切にしているとその社会も大切にしていくのか、
なんか不可分な話のように思いつきましたし。
そうなると自分ってどこからどこまでが自分なんだろうみたいな話に感覚としてはなった。
なりますなります。
だから市民性っていう言葉にいったのかなって。
そうですね。
ようやくうっすらわかってきました。
そうなんでそうなんで。
だからこの私の市民性って私が作ってきたものじゃないし、
周りからの影響を受けて。
逆に言えば私が誰かに影響を与えているっていうその感覚もすごい大事なこと。
自分が社会にちゃんと生きているってことが周りからも認められているし、
自分がいることで誰かにちょっとした影響を与えているっていうその感覚を持てるだけで、
少なくともあんまり孤立していかないはずなんですよね。
なんで自分はここにいるんだとか、自分なんて意味がないとか、
生きてる意味がないみたいな。
やっぱりそうなっていってしまうのってそこの響き合いみたいなもの。
あるいは応答性というか。
最近、文京区から多摩市っていうところに引っ越しをしたんですけど、同じ東京の中で。
都心から郊外みたいな感じ。
そうですね。
もちろんまだ住んで1ヶ月とかなんで、
いろんな側面が当然ある、これからも出てくると思うんですけど。
応答性が高いな、この街っていうのを今感じていて。
応答性?
応答ですね。
人と人の?
人と人との。
要するに街の中、近所とかを散歩してて、
うち5歳と2歳の息子がいるんですけど、
犬連れて歩いている人とすれ違うときに、
あの犬かわいいねみたいなことを子供が言うわけです。
そうすると散歩している人が、触る?とかって声をかけてくれるんです。
これって今まで暮らしていたところで当たり前だったかなっていうと、
いやそうでもないなみたいな。
やっぱりみんな歩く速度もちょっと早いし、
まずその声が、あの犬かわいいなって言ってる声が聞こえてるのか聞こえてないのかわからないし、
聞こえてたとしても、多分スルーされていることの方がやっぱり多くて、
圧倒的に応答してくれることの確率というか頻度というかが高いんですよね。
道端に咲いている花を本当に綺麗だねって子供たちが言ってる。
そうすると近くにいたおばちゃんが何か話しかけて、この花はね、みたいな。
話しかけてないのに何かそこで一緒になるみたいな。
何かそういう誰かのふとした一言とか、
そりゃスーパーの中でもそういう体験もいっぱいあるし、
この1ヶ月過ごしただけでも本当にどんだけのそういう応答があったかって感じなんですけど、
それがあるとやっぱり自分が少なくとも別にここにいてもいいんだというか、
ここに排除されてる感じが少なくてもないし、
そういうものがやっぱり当たり前にあるんで、
少なくともやっぱり孤立はしにくいだろうし、
何か一人一人がそこに生きてるっていうことが否定されてない感じになってから、
ちょっと受け取った人も他者に対して同じように振る舞おうかなっていう感覚も生まれるかもしれない。
スタートは自分を大事にでいいんですけど、
何かそこから生まれてくる私たちの感覚がちょっとずつ広がっていくので、
ってあるんじゃないかな。
環境を変えてからようやく気づいたりとか、
そういうのをいる中で気づくっていうのも何かいろいろ難しさもありますね。
伝えなきゃいけないことでもないのかどうかっていうのもありますけど、
何かそこを伝えていきたいっていう時に、
何かすごい環境を変えてくださいっていうのも変な話で、
どう伝えていけばいいんだろうこの大統制とかっていうのもちょっと思ったりします。
環境がそれだよっていうのもですね。
西山の言ってた自分を大切にするその先にあるものっていうのが、
多分その人らしさとかが立ち上がるみたいなところと同時に、
さっきの地域によってちょっと歩く速度が違うとか、
声をかけるかけないみたいなのは、きっと透明化みたいな感じがする。
またちょっと新しいのが出ました、透明化。
景色の次の。
人間が透明化されると多分すごく人は孤立を感じるっていうか、
だからそのいるんだけどいないように扱われる、
まあするっていう、
人と人がすれ違ってもぶつからないようにいくのは大事だけども、
同時に全く関わりも生まれないみたいなことがたくさん起きているから、
孤立とか孤独って言葉がすごく出てくるんだし、
それによってすごく生きづらいという言葉はあんまり好きじゃないですけど、
暮らしにくい感じがする。
本当にそうですよね。
だから大統制とか、
透明化しないっていうことは、
自分を大切にしたことと多分イコールになってくるのかな。
まさにですね。
NPOを作った時のこういう話を最初にしましたけど、
関わってきた子たちの中には家族もいて、
友達と言われるような同世代の子もいて、
何なら支援者みたいな人と関わっているっていうケースもあるけど、
そのなお、自分が透明人間のように生きてきた、
まさにそういうことを言っている人の存在があったり、
要するに人との関わりはあると。
何なら支援してくれる人もいる。
だけど本当の意味でこの人に自分のことをちゃんと考えてもらえているとか、
この人が自分のために何かしてくれているとか、
自分と共にいてくれているという感覚がないって。
なかなかこう、
それを受け取った時には結構、
というか、
何とも言えないですね。
もしかしたら私もその一人だったかもしれないし、
だけどやっぱりそこの透明、まさに透明化みたいな、
透明になっているもののところに少し輪郭が生まれて、
少し色がついてっていう、
人が人として見えてくるってすごい大事な感覚だと思うんですけど、
いるんだけどいないっていう、
そこが少し変わってくるだけで、
だいぶその生きている感覚って変わってくるよね。
確かに。
いるんだけどいないっていうと、
そうですね。
いるみたいな。
そうですね。
いる、そう、
ほんとすれ違っている。
確かにそこにいる。
孤独と自己選択の重要性
新宿とか歩いてても人いっぱいいるわけじゃない。
確かに確かに。
でもなんかあの中にいるとすごく孤独な感じがします。
私はするんです。
そうですね。
人が多ければよいほどそう感じたりもする。
そうですね。
後ろに。
それが透明化なんですね。
またちょっと違うのかもしれないですけど、
やっぱり距離感がすごく遠くなる瞬間がある。
大勢の中にいる自分ってなったときに、
だから埋没?埋没とも言わないんだけど、
いったん埋めるみたいな。
で、土から出てこれない。
埋まったまま出てこれないみたいな。
引き上げるパワーが自分になければ、
今はまあまあ埋まっててもいいやっていう瞬間はあるんだけど、
よしってこう、引き上げられない。
埋まったままみたいな。
人は結構別にその年齢じゃない。
そうですね。
性別でもない。環境でもない。
環境によっては、みんなでうずもれてる集団のほうがおこちいみたいな。
もしかしたら。
あったり。
そこもその人のやっぱり自分の幸せってなんだろうみたいな。
そうですね。
もちろん孤独でいるってすごい大事なことで、
子どもたちと接してても、
子どもたちが孤独でいる時間ってめちゃくちゃ大事だと思うんです。
自分で自分の中の妄想の世界に入っているとか、
空想の世界に入っているとか、
誰にも邪魔されずに外の風を感じているとか、
すごい尊い時間だと思うんで。
だから孤独が良くないとかって話は全然ないと思うし。
でもなんかこう、
自分が望まずして孤立させられてしまってるというか、
やっぱりそういうことはあるんだろうなって。
だからなんかこう、みんながね、
私もそうです。
なんかこう、一人になりたい時もあれば、
なんかちょっと今変わらないでみたいなこともあるし。
そういうのはそれの人なりのやっぱり、
でも選択だと思うんですよ。
ちゃんと自分がそれを選べているっていうことは多分大事で、
本当はこうありたいんだけれども、
でもっていうなんか、それはちょっとこうどうにかしていきたいよね。
文化と環境の影響
選択肢はちゃんと用意しておきたい。
うん。
それを自分でちゃんとこう意思決定できるというか、
小さなことから意思決定できるみたいな、
そういうことの積み重ねは大事にしたいです。
私の息子が今大学生なんですけど、
面白いなっていう話があって、
彼が春休み、この春休みに、
イギリスに一人で行ったんです。
音楽が好きで、
音楽図鑑に、自分から一人旅始めて行って、
2週間行ってきたんで、
どうだった?って聞いたら、
木がなかったんだよね、ロンドンには。
ロンドンのエアビーとかを渡り歩いて、
友達のとこ行ったりして、
とにかく木がなくてビルばっかりで、
息苦しかったんだよねっていうのと、
でも、音楽を聞いてて思ったのは、
あの街で、あの風景で、
だから生まれる、生まれるって言ったかな、
なんか音が、あの街にしかできない音があるんだなって思った。
なんすか、知的な。
ちょっと親バカですけど。
あの街にしかない?
だから、そのジャズにしても、
音楽がどういう風にできあがってくるのかっていうのが、
景色とか、空気とか、気温とか、
あとやっぱり、すごく雨が多かったり、
ちょっと曇ってて、暗くて、
っていうのが、なんかかもし出す、
それこそ情勢と同じだと思うんですけど、
だから、そういう音楽が生まれるんだって思ったんだよねって言われて、
深いと。
なるほど。
今日のピーシスさんの市民性みたいなのが。
その情勢っていう言葉とすごく、
音楽がたとえなのは、ちょっと違うかもですけど、
なんか作り出されるものっていうのは、
たぶん、その時その場所と、
あと過去とか、今とか未来とか、
たぶんつながっていくから、
なんかその息子の言った言葉に、
意地悪な、みたいな。
そういう意味で言うと、日本だと民謡とかがあるじゃないですか。
だから、そういう農耕、
ちょっと前、農業とかって言ったけど、
農耕文化みたいなのも、たぶん大きく影響してたりもする。
文化っていう意味を捉え直すのも、
市民性とか、情勢とか、ありそう。
天気とか環境みたいな話ありましたけど、
そこも含めて、なんか情勢される何か。
もうきっと、風景とか景色とか、
イコールなのかもしれない。
そういうの感じてないですけど、実は感じながらそういうの出ちゃってるのかもしれないですね。
だから、やっぱり日本は四季があるじゃないですか。
ああいう豊かさっていうのは、おそらく、
人との関係の情緒的なところには、影響してるだろうなって思う。
ずっと常夏の赤道に住んでる人たちにはない感覚が、
もしかしたら、その環境の中で情勢されてるのかもしれないし。
だから、日本人はまず天気の話するよねっていうのは、たぶんそういうことなのかなとか。
今日は、ピーシーさんのその情勢について。
そう、ちょっと小話を。
できた。
いいな、ロンドン行きたいな。
本日のカフェの営業はここまでになります。
今回カフェに立ち寄ってくれたのは、NPO法人ピーシーズの西さんでした。
事業内容について興味のある方は、ぜひ概要欄からご確認ください。
概要欄からは、ソーシャルハイブ本郷を運営している小野田総合法律事務所のホームページもご覧いただくことができます。
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そして、番組ではお便りを募集しています。
概要欄のお便りフォームから感想やご質問をお寄せください。
明日はどんな自分をデザインしますか。
それではまたのご来店、お待ちしています。
ソーシャルハイブ、ウェイティングカフェ、天秤の子。
新しい当たり前をデザインする実践者たちの日常。
34:55

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