確かにそうだよな、みたいな。
で、自分がそれをね、そうしてることで、なんかこう心地よくエネルギッシュであれるっていうところが、
なんもあるかねえよな、みたいな。
ってなってくるとね、学校のそれこそ日本の法則問題。
確かに。
なんだみたいな。
なんだみたいな。
だからね、なんか腹立たしいみたいですよ、同業者からすると。
こういう髪の色している私は。
なんか、なんていうの?
ネタ見。
そうそう、だし、それがやっぱりどうしてもネガティブに働く業界じゃないかな。
たぶんご存知だと思いますけど。
まあ、そうね。
さいさんもきっと、社会福祉士とかソーシャルワーカーって名乗ってる中で、
このハイブのような場所にいるっていうことは、いわゆる特殊っていうか、
確かにね。
まあ、珍しい。
まあ、そうですね。
ソーシャルワーカー時代も、みんなちゃんとYシャツとかスーツとか着て出勤しなきゃいけなかったけど、
誰よりいち早くポロシャツにして、ちょっと周りの様子をうかがいながら、
でも、誰も言わないじゃん、みたいな。
一人クールビズって。
別に言わない。
でも、やっぱりちゃんとしなきゃな。
なんすかね、別にね、その子の言葉を思い出せば、別に何も害は少なくても与えてないじゃん、みたいな。
だけど、なんかこうね、ちゃんとさせたがる。
なんなんすかね、これ。
市民文化。
文化。
お二人とも、結構、地下市業委会のところなんですね。
確かに、そうですね。
そうですね。
基本的にね、ソーシャルワーク。
ソーシャルワーク。
根っこにあるのはそこですね。
僕も、カフェのマスターですけど、一応、僕もそっちの福祉系でもありますね。
そうなんすか。ちょっと全然、岡田さんのルーツを知らない。
集合意向支援事業所とかで普通に研修とかやってます。
そうなんだ。
毎週、障害者の方に。
そういう人。
そういうカフェマスター。
そういうカフェマスター。
いや、でも、なんかその話で言うと、やっぱり、なんかそういうちょっと福祉的なバックグラウンドを持ってる人が、なんか街中に当たり前にいるみたいなのって、なんか超大事じゃないですか。
カフェにふといるとか、なんか飲み合いやってるとか。
で、なんかちょっとこの話の時に、ぽろっと出てきたものに対して、なんか別に笑い話にするわけでもなく、受け止めつつ、ちょっとなんか手を差し伸べられるみたいな、生活動線にそういうソーシャルワーカーとかが、もっといると。
なんかね、ふらっとその辺に溶け込んでいてほしい人たちですね。
いや、間違いない。間違いない。ね、まあ、鬱陶しさもあるだろうけど。
ちょっとね、おせっかいすぎるとか。
ちょっとすぎるところはあるけれど。
あるある。
そこをさえちゃんと内省していれば。
確かに。まあ、なんやかんや話してますけど、なんか僕らちょっと何やってるかちょっとよくわかってない感じですよね。
そうですね。
そういえば、鞘師さんって何してるんですか。いきなり唐突ですね。ごめんなさい。
唐突に来ました。鞘師さん何してるんですか。鞘師さんはですね、今NPO、PCSというNPOを運営してるんですけど。
はい。
そこでは、一言で言えば市民性を醸成してます。
市民性を調整している。
醸成ですね。
醸成している。
市民性も醸成もなかなか掛け合わせられない日用で使わない言葉だと思うんですけど。
いや、一言で言えば市民性を醸成してます。
すごい、なんか、すごい、空高くなんか見てる感じですか。スカイツリーの上をなんか。
いやいやいや、地に足つけて市民性の醸成に取り組んで。
えー、なんかどんなことやられてるんですか。
そうですね。本当にこれ言葉で表していくのなかなか難しいんですけど。
ちょっとまあ、なぜ始めたかみたいなところから多分喋った方が理解が。
ぜひぜひ。
なので、そこら辺から行きたいと思うんですけど。
PCS今年8年ぐらいNPOになって立つんですけど。
もともと私、ソーシャルワーカーとして福祉の現場、特に児童養護施設。
結構虐待環境にあって、親と家族と離れて暮らしている子どもたちがケアする場所。
関わっていた時期があって。
そこが自分の割と出発点になっているんですけど。
そこにいる子どもたちって、何らか傷をやっぱり、特に心に傷を負っている子たち。
もちろん子どもたちであることには、他の子たちと何ら変わりはないんだけど。
やっぱりその傷の深さっていうものに、その中で触れていってて。
具体的には本当にいろいろ、1日目2日目仲良く遊んでた子が3日目に急に全く関わってくれなくなるみたいな。
無視したり罵倒してきたりみたいな、そういうことがあって。
よくある試し行為みたいなことが言われるんですけど。
この大人がちゃんと自分に本当に関わってくれる、信じて関わってくれる人なのかとか、
自分がこの相手を信じられるのかみたいなことを、たぶん彼らなりに試している。
それはきっとだから、その傷を負った背景には大人に対する信頼感の無さみたいなものがあると。
そういった傷に触れて、突然生活している中で後ろから飛び切りが飛んできたりみたいな。
なかなか長い話ですね。
だけどそれは別に彼らが悪いとかそういうことじゃなくて、やっぱりその環境の中でどうしてもそうせざるを得ない。
彼らなりにそうやって対処して生きている。
もちろんその子たちに触れて、しっかりこの子たちのケアをしていかなきゃいけないなと思うと同時に、
この深い傷を負わせる前に何とかできたんじゃないのかなと。
そこの問題意識が芽生えてて。
でもやっぱり日本の中でソーシャルワーカーとしていっていこうとすると、
結局やっぱり問題が起きてから、傷が深まってから対処していくみたいなのがどうしても通常の関わりになっちゃう。
ってなった時に自分の生きていく道はどこだろうってなった時に、
たまたま同じような問題意識を持っていたNPOの一緒にやってきたメンバー。
彼女は医療者として、児童精神科医というところで同じように深い傷を負った子たちのケアをして、
そういうのがあるんですか。
半年ぐらいかけて、自分のことも大切にしながら相手のことも大切にしていく。
その両方を大事にするって、なかなか簡単なことじゃないので。
難しいですよね。
めちゃくちゃ難しいし、プログラム終えたからって言ってそれが完璧に当然できるわけじゃない。
それを対話をしたり、レクチャーを受けたり、リフレクションって呼んでる、
実体験の中で自分の願いがどんなところにあるのかとか、
自分でどんな価値観を持っているのか、
人の行動の背景にはどんな願いがあるんだろうみたいなことを、
みんなで対話し合うみたいなこととかを含めてやっていくっていう、
いわゆる研修とかともちょっと違う、そんなプログラムをやり始めて8年経ちました。
8年もやってるんですか。
すごい。
人の在り方みたいなところを、みんなで考え続けるみたいな活動なのかなって聞いてて思ったんですけど。
そうですね、まさに。
割と子供のこととか社会のこと、社会のために子供のためにって願う人たち、
特に市民の立場で願っている人たちも結構やっぱり多いなと。
もうやればやるほど感じてるんですけど、
この人たちの多くはやっぱりこう、何か知識が自分は足りないとか、
スキルがないとか、なんかそういうふうに考えがちなんですけど、
これは私たちが専門職としてやってきたから思うことなんですけど、
専門性ってそんなに無敵じゃないですか。
もちろん専門性で救えるところはたくさんあると思ってるんですけど、
実はなんか、人が人をこう支えるって、
その専門性よりも、私たちの言葉でいう市民性。
なんかその人の太したところから滲み出てくる思いとか、
ついついやってしまう関わりとか、
思いがけず出てきてしまう感覚とか、願いとか、
そういったことのほうが実は人を幸せにしているんじゃないかみたいなことを思っていて。
で、あればそこのみんながそれぞれの市民性、
っていうものを大事にして生きていく、変わっていくっていうことで、
なんかもう少し日常の風景変わってくる。
なんかこうあふれ出ちゃう、その人らしさみたいな。
そうです。
心の、言葉は難しいけど情勢というかなんていうか。
そうですね。
でももともとみんな持ってると、市民性は。
多くはり少なくはり持ってると。
だけど、なんかどうしてもやっぱこう肩書きとか、役割とか、立場とか。
資格とか。
資格とか、まさにそういうものによって、
なんか少しずつそういう自分の制約してしまうとか、
こうせねばならないみたいなもの、目的とか意味とか、
なんかそういったものに囚われすぎてしまうのかなと。
だからそういうものを一個ずつこう少し取っ払いながら、
なんか生身の自分から出てくるものなんだろう。
なんかそこをもう1回ゆっくりと立ち止まって見つめ直すみたいな。
なんかこうある人が、あるプログラムを受けた人が言うのは、
イメージ、そうです。
瞬間法則とか、市民性の情勢みたいなところっていろいろあったと思うんですけど、
あれってなんかどんなところが根本的な課題だと思う?
どうなんですかね。
まず、そもそもその本質的な課題は何かっていうことの一つに、
もしかしたら私も含めて、
こういうことに取り組む人たちのマインドセットも結構大きく影響してるかもなというのを思ってて、
今はやっぱり課題って言葉が出てきてるんですけど、
私自身もですし、やっぱ団体出しやってるときに、
課題としてつぶ立ててしまうところがやっぱりあって、
なんかこう社会課題に取り組むみたいな。
でもその社会課題に取り組むみたいなことを言い始めて、
そういうマインドになったときに既にもうなんかこう、
距離が出てきてしまってるというか、
要するにこういう取り組みって、さっきも言ったように、
全員に関わる話だと思ってて、その市民性って、
誰かだけが持ってればいいとか、どこかにだけあればいいじゃなくて、
いろんなところに必要なことで、
何かこうすごい意識高く何かをしようと思ってる人たちだけじゃなく、
日常を作っているみんなが少しずつ持っているといい話だと思うんですけど、
そこで何かこう課題とかって言うと、
いや何かちょっとそっち側の話でしょみたいな、
一層距離が生まれてしまう感じがあるなと思ってて、
だからこそ何かこう私たち自身が、
何かもしかしたら何か声を上げて頑張りすぎることが、
もしかしたらこの本質的な課題の一つになってるかもしれないっていう、
その辺りにはやっぱり自覚的にある必要があるのかなというふうに思ってて、
何かもう少しシンプルなことなのかなと思ってて、
本当に何か私たちが取り組むことの原点には、
自分のことを大切にしようと、
本当に自分のことを大切にしようと思ったら、
きっと何かそこには自然と他者の存在も何か出てくるのかなというふうに思ってます。
自分が心から心地いいと思うこととか、
豊かだなって感じる瞬間ってどんなことなんだろうみたいな、
基本的にはそれでいいと思ってるんです。
その感覚をしっかり一人一人の人が持ってるっていうことだと思ってて、
何か自分が心地いいっていうことを考えてきたら、
自然と何かちょっと自分の範囲を超えてくるところも出てくるのかなというふうに思ってて、
何か道を歩いてて、
誰かの家の庭先に咲いている花が綺麗だなって思うその感覚、
それってすごい大事な何か豊かな感覚だと思うんですけど、
何かそれを眺めているうちに、
でもここに咲いている綺麗な花が綺麗であり続けるためには、
何かそれを育てている多分人がいて、
庭先に花を植えている人がいて、
その人の心も豊かでないときっとそこにその花は咲かないというか、
心に余裕がなかったりトゲトゲしてたりするときっとそこにその花はないと。
っていうことを思えば、
何かその家の人とちょっとすれ違った人かに、
この花綺麗ですねの一言ぐらい言うと、
もしかしたらその人はここにまた花を植え続けてくれるかもしれないみたいな、
何かそういうものかなと思ってて、
だからそういう意味で自分がまず心地いいっていう感覚、
何かなって考えていくときっとそこに私の存在が生まれていく。
その目の前の一人っていう人の存在を大事にしていく。
何かそういうことでいいんだろうなというふうに思っている。
なっていくと何かそんなに変に課題課題とかって、
やっぱり言うことじゃなくていいのかなと。
何か課題っていうよりもっと身近な、
自分を大切にする活動みたいなことなのかなっていうふうに思ったんですけど。
そうですね、まさに。
わかんないですけど一つの生命と捉えると、
何かちょっと変な話。聞いてたら止めてください。
どうぞそのまま言ってください。
何かその課題、それこそあえて言えば課題になっている部分も当然あるんだろうというふうに思うんですけど、
でも片一方で別に生命として巡っているものも同時にあるんだろう。
何かちゃんと機能不全な部分もあるけれども、機能しているという。
巡っているところもあるんだろうなというふうに。
やっぱりそこにも同時に目を向けていく必要はあるだろうし、
さっきも言ったようなここに咲ける花が綺麗だなって思うその人の心とか、
そこにお花を植えている人の営みとか、
何かそういったものってちょっとだけ人を豊かにしているし、
そういうものって意外と日常の中に広がっている。
今日もここに来るときに電車の中で赤ちゃんを抱えた、
お父さんがそこで抱えてたんですけれども、
行ったときに近くにいた外国人の人がニコッとお声にかけている。
いやーいいよねみたいな。
こういうことってでも起きてるじゃん。
だからそこもやっぱり大事で、
むしろそういう人の他者に与えている良い影響というか、
そういったところもきちんと大事にしていくことで、
もしかしたら今その課題と言われていることがだんだん薄まっていくようなこともあるので、
だから変に課題課題とつぶさってそれを解決しに行こうという、
それもそれで大事だ。否定もしろにしないし、
大事な営みであると同時に、
何かそういう人の願いとか価値観とかから生まれる、
まさに何か滲み出てしまうそういう豊かさっていうのを、
何かちょっとずつちょっとずつ豊かにあり続けるようになる。
もう少し社会に開かれていくようにという、
何かそこに向かっていけるという。
文化形成みたいな、
この言葉ちょっと安っぽい感じかもしれないですけど、
もっと何か浸透させていく何かみたいな、
湧き水作ってるみたいな、
そんな感覚なんですけど、和歌さんはどう感じましたか?
ちょっと真面目な言葉で言うと、たぶん予防的なアプローチっていう気がするし、
なんかやっぱりどこか自分と切り離された課題っていうか、
自分の外側にある社会の課題みたいな風になっているところは若干あるのかなと思ってて、
まあ当然あって共通のゴールを作っていくことに意味があると思うんですけども、
なんかどこかそこに自分がいないっていう感覚だったり、
なんかあんまり心地よさの方は少なくとも入ってない。
うん。
なんかそっち側でみんなで共通の目標を作っていくっていうのも片一方で大事なんじゃないのかなみたいな。
みんなで楽しく一緒にやろうよみたいなのを前提になるというか、
こうすべきとかじゃなくて。
しかもそれも良ければやりませんかぐらいの自由参加みたいなのができたらいいなぐらいな感じのものを感じました。
そうですね。
それなんかやっていく上で楽しいポイントとか、今後こんな感じでやっていきたいとかってあるんですか?
そうですね。楽しいポイントは、
まあ割と私たちの組織にいる人たちみんな共通してはいるんですけど、
やっぱり一人一人のちょっとした自分の持ってた価値観がそれだけじゃないことに気づくとか、
そういう本当に人のちょっとした変化、変容みたいなもの。
そこってやっぱりすごい尊いなと思うし、
そういうことが積み重なっていく瞬間に出会えた時にやっぱり喜びを感じるし、
じゃあ何かそれがね、子供の孤立を解消するとか貧困をとかっていうことではないのかもしれないけど、
そうやって他者と関わろうという思いを持った人の少し目指しが変わる、価値観が変わる。
自分には持ってない価値観を人との対話によって取り入れていくみたいな。
それによってその人の在り方が少しずつ変わっていくっていう。
そうすると結局その後その人が出会っていく多くの人たちとの間みたいなものが変わってくるんじゃないかなと。
関わりだったり、変わり方、時間の過ごし方、仲間との関係性みたいなものが少しずつ変わってくるんじゃないかなと。
なんでこのC4Cのプログラムを受けた人も、みんな最初は子供に子供にとかって言ってるんですけど、
なんかパートナーとの関係性がちょっと良くなりましたとか、
職場でなんかちょっと孤立している人になんか気づいたら話しかけてる自分がいましたみたいな、
そういうことにもやっぱり影響している話を聞いて。
やっぱそういう本当にちっちゃな変化なんですけど、
その人の人生長く見ていったときには結構大きく変わっていく。
なんかそんなことなのかなと思ってるので、
本当にちっちゃな気づき変化みたいな。
まあコントロールできないのはわかっていながらも、やっぱりそういうのが出てくると嬉しい。
なるほど。
いけに波紋がファーっていってるみたいな。
まさにその感覚ですね。
影響を与え合うっていうことが多分良い効果を生むっていう。
だからその最初の方にも話されてたお子さんの試し行動に関しても、