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始まりました、志賀十五の壺。みなさんいかがお過ごしでしょうか。志賀です。
さて、今日のトークテーマは、主語です。主語。
この言葉自体はですね、日常生活で平気に使われているものですよね。
例えば、この文章は主語がないから何言ってるかよくわかんないとか、
あの人は主語を大きく捉える傾向にあるからよくないよねとか、
あるいは、主語をはっきりさせてしゃべれとかね、こういうふうに使われることが多いと思います。
ですが、この主語っていうのが一体何ものなのかということを突き詰めていくと、
意外と面白いんですよ。真剣に考えると。特に日本語において。
そういうわけで、今日は特に日本語で主語って何なのかっていうね、そういうお話をしたいと思います。
主語っていう言葉自体は、中学の国語で多分習うんだと思うんですよね、一番最初に。
小学校でもやるんだっけ?ちょっとあやふやですけど、いずれにせよ、義務教育のうちに主語っていう言葉自体は習います。
主語と合わせて主部っていう言い方をしたりもしますけどね。
主語っていうのが一単語なのに対して、主部っていうのは単語というよりは句みたいな感じのものを主部と呼んだりしますけど、
ここではとりあえず主語として統一してお話を進めていきたいと思います。
主語ってどういうふうに定義されてるのかなと考えると、一個は意味から定義するっていうやり方があるんですよね。
多分そういうふうに定義してるものもあると思うんですよ。
例えば何かするもの、何かする人のことを主語と呼ぶみたいな定義ですね。
つまり何か動作をするものや人のことを主語と呼ぶっていうことですけど、私がパンを食べるだと私が主語っていうことですが、
この定義はダメなんですよ。やっぱ不十分で。
っていうのが受動体みたいなのがあるからなんですよね。受け身分というか。
パンは私に食べられるだと、これ主語はパンで、
動作をする人っていうのは私にっていうふうに表されてるので、この場合私には主語とは言えないと思うので、
やっぱりこういう受動体のことを考えると何か動作をする人、するものっていうのは主語の定義にはなれ得ないと言えます。
ちょっと性格悪いように思われるかもしれないですけど、
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受動体なんかいいじゃんか、例外として考えればいいじゃんかと思われるかもしれませんけど、そこは申し訳ないですけどね。
とりあえず意味の面からは主語っていうのは定義できないということです。
英語で考えてみてもそうですよね。
受動体になったら動作をする人とか物っていうのは倍で表されるので、
むしろ目的語だったものが主語になるっていうのが一つ受動体の定義ですから、
何か動作をする人物っていうのは英語でも日本語でも主語の定義にはなり得ません。
なので、却下ということですね。
日本語の場合、こういう定義も考えられるんですよね。
和とかがっていうのがついてるのが主語だっていう定義ですね。
これも危ないです。
まず和から見ていきましょうか。
和が主語。これは非常に危険ですね。
例えば、さっきのパンを食べる例で言うと、
私はパンを食べた。の場合は私が主語。
これはいいと思うんですけど、パンは私が食べたっていうのも平気で言えますから、日本語の場合。
パンは私が食べた。パンが主語。
いやーきついっしょ。やっぱこの場合はパンは私が食べただと私が主語なので、和は主語の定義にはなり得ません。
和がついているからといって主語ではないです。
むしろ主題といった方が正確なんですけど。
では次に、ががついているのが主語。これはどうですかね。
私がパンを食べる。
確かにこういう場合だと、ががついている私っていうのが主語なので、
あ、いいじゃん。よしこれでいこうといきたいんですが、やっぱダメですね。
これ和の時よりは多少マシなんですけど、やっぱががついているからといって主語とは認められません。
例えば、私は水が飲みたいって言った時に、
あ、水にががついている。はい、水が主語です。厳しいですね。やっぱダメでしょうね。
あるいは、彼に英語がわかるみたいな場合だと、
彼にはの方がいいかな。彼には英語がわかるっていう例だと、
英語が主語なのか厳しいですよね。むしろやっぱ彼にはっていうにっていうのがついてるけど、
彼が主語だと思います。
この言葉からわかるようにですね、がとか和がついているからといって主語とは言えないし、
逆ににみたいなのがついているのに主語っぽく感じる例もあるっていうことなので、
その助詞によって主語を定義することもできないっていうことになるんですね。
なので意味からも、つまり動作をする人や物っていう定義もダメ、和がついているもダメ、ががついているもダメということで、
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じゃあ他にどういう定義ができるんだっていうことなんですけど、ここで英語の例とか考えてみましょうか。
英語で主語を定義するのは割と簡単に思われます。
つまりそのノーマルな文体で、動詞の前に出てくるのが主語。
で、だいたい話はつきますね。
正確には主語と動詞の間に副詞とかも入ってくるので、そういうのを削っていって必要なものだけ残ったときに動詞の前に出てくるのが主語っていうことなんですよね、英語だと。
ただ英語の場合もちょっとそれでは不十分なところがあって、わかりやすい例はthere is a bookとかthere are two booksとかいうやつですね。
で、この場合主語はthereか、やっぱ違うんですねこれね。
これは主語はやっぱ動詞の後に出てきているけど、a bookとかtwo booksだと思います。
つまり英語の場合は動詞の前に出てくるのが主語でいったん型がつきそうですけど、there is a bookみたいなのを考えた場合に動詞と一致するものが主語っていった方が正確かもしれません。
つまりa bookだったらbe動詞はisになるし、two booksだったらbe動詞はareになるっていうことですね。
なので英語の場合は動詞の一致を引き起こす名詞が主語。
ただ英語の場合は過去形になっちゃうともう主語が一人称だろうが二人称だろうが三人称だろうが何であっても同じ形使ったりするので、ちょっとそういうのがわかりづらいんですけど、
より厳密に言うと、実際に主語の定義っていうのを動詞と一致する名詞のことを主語とするっていう言語はたくさんあります。
よし、じゃあ日本語も動詞の一致を引き起こしている名詞を主語としよう。
無理なんですよね。日本語は動詞が主語によって変わるっていうことはないので無理なんですよ。
と思いきや主語によって動詞の形が変わるっていう現象が日本語にもあります。
それが敬語です。ちょっと尊敬語で考えてみましょうか。
例えばここは先生とかにしてみましょうか。
先生はパンを召し上がる。
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これ食べるが召し上がるになっているのは先生っていう名詞のせいなので、これは主語は先生だと考えることができます。
これはパンは先生が召し上がるでも一緒ですよね。パンは先生が召し上がる。
パンはって和がついているようなんだろうが召し上がるになっているのは先生のせいなのでやっぱり主語は先生だと。
あるいは先生には英語がお分かりになる。
なんかちょっと変な気もしますけど先生には英語がお分かりになる。
この場合もやっぱりお分かりになるっていう敬語の形を引き起こしているのは先生なので、
英語がって和がついているけどやっぱり英語は主語とは言えずに先生が主語とこういうことになります。
なので日本語において主語って何なのかって考えると一つの基準としてその敬語の形を引き起こすかどうかっていうのがポイントになっているみたいです。
なので動作をする人物みたいな意味とかがとか和がつくものっていうそういう形式の話ではないっていうことですね。
ただこのことがわかったからといってその日常生活に役に立つかというとやっぱりそれはまた別の話ですね。
むしろ僕にとってはその日常生活で使われている主語を定義する方が難しいような気がしますね。
なんかみんななんとなく使ってるんじゃないでしょうか。
そういうわけで今日のお話は日本語で主語っていうのをどういうふうに定義したらいいんだろうっていうお話でした。
どうかなうまくまとまったかなあんまりうまく話せた気がしないんですけどね。
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ではまたお会いしましょう。ごきげんよう。