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始まりました、志賀十五の壺。 皆さんいかがお過ごしでしょうか。志賀十五です。
今日のトークは、「わかりみ」というね、こういった表現について考えていこうと思います。
どうですかね、皆さんこういった言い方をしますかね。 よく見るのは、
単にわかりみだけって使ったりとか、あるいはわかりみが深いとかね、まあそういった言い方もするんですよね。
僕自身はどうかなと思った時に、 まあ使わないですかね。少なくとも口に出して言うことはないし、
SNSとかそういったネットでも使うことはないです。 ただこれは若い世代だと、
まあ普通に使うんでしょうね、おそらくね。 で、このラジオトークの中でもですね、
ラジオトークってライブ配信というのができて、そのギフトに、 なんだっけ、わかりみくんだかわかりみみたいな、まあそういったギフトもあるんですよね。
ライブ配信で送れるギフトがあるので、 ある意味でそれだけ市民権を得ていると言ってもいいと思います。
ただ人によってはこういった表現に嫌悪感を覚える人もいると思うんですよね。
まあでもこの番組のスタンスとして、 言語に良い悪いのを判断はしないということなので、
この番組のスタイルっていうか言語学がそういった考えなんですよね。
まあそれよりも、なんでわかりみという表現が可能なのかというね、 まあそういったことを考えていこうと思います。
実は似たような話は過去にやってて、 リンク貼っとこうと思いますけど、
シャープ220、ヤバみの言語学というのがあるんですね。 まあそれの続編といった感じになります。
なので、興味のある方はこれ聞き終わった後、 そちらのトークも聞いていただけたらと思います。
まあ一言で言えば、このみというものが もともと形容詞にしかつけなかったのに、
いろんなものにつけるようになったということなんですよね。 守備範囲が広がったといった感じです。
もっと言うと、このみというのは限られた形容詞にしかつけなかったんですよね。
例えば、甘みとか 親しみとかね、それがヤバみとか
寒みみたいに、 本来つけなかったはずの形容詞まで
つけるようになって、さらに品詞の枠を飛び越えてですね、 名詞につくこともできるようになったんですよね。
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学生みとかですね。 さらには品詞がどうこうという話も飛び越えて、
もっと文っぽいものにつくこともできるようになりました。 文っぽいっていうか、長いものにつくようになったって感じなんですけど、
言おうと思えば、例えば、 昔見てた戦隊シリーズみとか言えちゃうんですよね。
だからまあ偉い出世したなーって感じですね。 もともとサっていう設備字というかね、
形容詞につくものがあって、そちらの方が 守備範囲が広いはずなんですよね。
ヤバさとか、厚さとか、辛さとかね。 このサっていうのは、
どんな形容詞にでもつけたんですけど、 そのサよりも、みの方が、
もう勢力をつけちゃったって感じなんですよね。 もう形容詞に限らず、いろんなものにつくようになっています。
そして、今回扱う わかりみというのは、 わかるというのは、動詞ですよね。
つまり、動詞に みがついているわけですが、 もっと言うと、動詞の連用形ですね。
連用形に みがついているわけですが、
はたしてこれは、みというのが 動詞にもつけるようになったと 一言で言ってしまっていいのか、というお話を していこうと思います。
確かに、わかりみというのは、 わかるという動詞の連用形に みがついているわけですが、
すべての動詞に みがつけるわけではないですね。 例えば、書くという動詞にくっついて、書きみとか、
食べるという動詞にくっついて、食べみとか、 こういった言い方は、不可能じゃないかなと思います。
理屈の上では、それぞれ 連用形が、書きと食べなので、 それにみをくっつければいいはずなんですけど、
まあ、ちょっと厳しいんじゃないかなと思いますね。 では、なぜ、わかりみという言い方ができるか、
わかるという動詞には、みというのが つけるのか、というとですね、
このみっていうのが、表す意味として、
こういった感じとか、こういった感覚みたいな、 そういった意味があると思うんですよね。
やばみとかだったら、やばいという感覚、そういった感じ。 学生みというのも、学生っぽい感じですよね。
つまり、これはね、みというのが くっつけるものというのは、
属性や状態を表すものに 限られるというか、そういったものと 相性がいいんじゃないかと思いますね。
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例えば、やばいとか、あらゆる形容詞というのは、 状態を表すので、みとくっつきやすいと。
学生みというのも、学生というのは、その属性を表しているので、みと相性がいいと。
わかるというのは、これ動詞ですけど、動作を表しているというよりは、 状態を表しているんじゃないかなと思うんですね。
書くとか、食べるといった動詞は、いかにも動詞らしい動詞というか、 動作を表しているわけですけど、
わかるというのは、何か具体的な 動作があるわけではなくて、
むしろ、状態を表しているようなものなので、そういった意味で 形容詞っぽいんだと思うんですよね。
なので、わかるが表す 状態という意味と みが マッチしやすくて、わかりみは 許容されているのではないかと 思います。
わかるは 正真正銘の 動詞ですが、先ほど言った通り 意味としては、どちらかというと 状態を表すような ものであります。
わかるは 自動詞か 多動詞かと 言われると 微妙な位置に あると 思います。
英語だと わかるは understandですが、英語のunderstandは 文句なしで 多動詞であると 言うことが できると 思います。
なぜなら 目的語を 取ることが できるからです。
日本語で 多動詞と言うと 書くや 食べるというのは 多動詞です。
それは 目的語を 取ることが できるからです。
文字を 書くや パンを 食べるように 「を」で 表示される 目的語を 取ることが できます。
では わかるとは どうでしょうか。
目的語を 取っていると 言えば 取っているのですが それは 日本語が わかるように 「が」で 表示されています。
日本語が わかると 言った時の 日本語は 果たして 目的語なのか どうかを 考えると 面白い ところだと 思います。
わかると 言うのが 自動詞か 多動詞かを 考えるときに 少し ひっかかるところは 1つは 目的語が 「を」ではなくて 「が」で 出てくる ところです。
もう1つは 動詞の形だけを 見たとき どちらかというと 自動詞っぽいんですよね。
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専門的な 言い方をすると 形態論的には 自動詞と 言ったほうが 良さそうなんですよ。
つまり 日本語で ある という音で 終わる 動詞は たいてい 自動詞なんですね。
上がる とか 下がる とか 当たる とか 余る とかを 探せば いくらでも あります。
この ある という音で 終わる 動詞は 普通 自動詞なので 分かる というのも 動詞の形だけを 見ると 自動詞なんです。
下がる に対して 下げる という 多動詞が ある。
上がる に対して 上げる という 多動詞が ある。
当たる に対しては 当てる ですよね。
分かる という 自動詞に対して 多動詞は 分ける なので 分けるは 完全に 多動詞です。
お金を 分ける という 目的語が 出てくるので 分けるというのは 自動詞か 多動詞か 微妙な ところです。
ひとまず 今日のお話を まとめると 分かる というのは 自動詞か 多動詞か 微妙ですが 意味としては 状態を表すので 分かりみ といった 言い方が 許容されている というお話でした。
というわけで 最後まで 聞いてくださって ありがとうございました。
また 次回 お会いいたしましょう。
ごきげんよう。