1. 志賀十五の壺【10分言語学】
  2. #55 ことばが違えば見える世界..
2020-04-12 12:01

#55 ことばが違えば見える世界も違う?? from Radiotalk

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こんにちは、志賀十五です。 今日のテーマは
言語、です。 以前ですね、僕このラジオトークで
シャープ47で、言語学と人工言語の話っていうタイトルで
えっとですね 言語っていうのは物の、物とかことの
名前じゃないみたいなお話をいたしました。 というよりもむしろ言語というのは
この世界を切り分けるための道具だみたいな話をしたんですね。 で簡単にお話ししますと
そこで話したのはね、指の話をしたんですよね。 人間片手に指が5本あると
我々日本人は思いますけど、英語だと finger っていうのは
4本しかなくて で
親指は thumb っていう別の名前があるので
切り分け方が違うということですね。 日本語話者だとこの手から出ている長細いものを全部同じようにみんな知ってるけど
英語話者は親指は親指、それ以外の4本は 別物と考えていると
なので こういうふうにね、あの
言語っていうのは世界を切り分けていかに我々は認知するかという、認識するかっていうね、そういう
考えなんですけど それの最もね、あの顕著な例としてですね色彩語彙
つまり色の名前 っていうのがよく挙げられることがあります。これ有名な研究があるんですけど
例えば 日本人って虹は
7色っていうふうに認識してますよね ただ現実的な話をすると
虹っていうのは徐々に徐々に色が変わっているので連続体なので色の 綺麗に分かれているわけではないんですよね
なので言語によってその虹って何色かっていうのはいろいろ
違うらしいですよ それはまあ虹に限らずですねどういう
色をどういう名前で呼ぶかっていうのは言語によって違うと
これもわかりやすい例として日本語の例を挙げると青っていうのがわかりやすいですよね 例えばねあのナッパーの
野菜のことを青菜とか言ったりとか 青信号とかね緑だけど青信号あるいは
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緑だけど青がえるとか言ったりすると なので昔の日本語ではですね青と緑を区別してなかったらしいんですよどうやら
でこういう言語って言うか その古代の日本語に限らずですねあるみたいで
青と緑ってこう連続しているので 青緑とか中華的なものを言ったりするかもしれませんけど
区別しない言語も大量にあると 面白いのがですね
その言語先ほども 色っていうのは先ほども申し上げました通りですね
連続体ですのでどこで区切るかっていうのはある意味我々人間の勝手っていうことなんですよね
極端な言語だと 白と黒しかないっていう言語が
あるみたいです 本当ですかね 白と黒
逆に言うとどんな言語でも白と黒っていう 区別はあるらしいんですよ
でもし 色の名前が3つあるとしたら
3つ目っていうのは白と黒に加えてですね もう1個ってのは必ず赤らしいんですよ
本当ですかね こういうふうにですね今色っていうものを例に出しましたけども色に限らず
現実世界っていうのは連続的であるということで その別の例としてですね例えばまた英語の例ですけど
ハンドっていうのと
アーム ハンドとアームっていうのを区別しますね
で日本語も 日本語もそうか あーどうかな 手と腕
ってそうなってるかな 手の方がちょっと守備範囲広いような気がしますけどとか
あとはレッグと フットですね
で日本語はレッグもフットも両方 足というふうに言うと
漢字で書き分けることはあるかもしれませんけど なので
手とかね
足みたいな身体部位も連続対応をなしているのでそれをどこで区切っておくかっていうのは
またそれも言語によりけりと これもまた前回お話ししたものですけど
唇とリップも守備範囲が違うっていうことを前回お話ししました あの良ければねシャープ47の方
お聞きいただけたらと思います そういうことですねそういうことでですね
言語っていうのは
連続体の世界をどうやって
切り分けてで我々が 認識できる形にするか
っていうことをやってるってことで物の名物やことの名前ではないということです ただねこれもどうですかねとはいったものですよ実際に
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その物理的にというかなフィジカルにものっていうのはあるので 例えば今僕の目の前にペットボトルありますけどそのペットボトルがもし
言葉が
なくてもペットボトルって認識できると思うんですけど その辺がね
ペットボトルって名前をつけないと他のものと区別できないかっていうと必ずしもそう じゃないような気がします
気がしますっていうのはなぜならもう 僕っていうか我々人間は言語っていうものを習得しているのでその言語を以前のね
認識の仕方っていうのを知る術がないので わからないと
だからまあ 言語を持ってないね動物だってものとかね
区別しているはずなので だからどこまでその言語っていうのが関わっているかっていうのもまた面白いところですね
でこういうのねあの言語相対論とか言ったりするんですよ これは
言語が思考を決定づけるっていうね サピアウォーフの仮説とかも言われたりするんですけど
何年か前にねその言語が違えば世界が違って見える わけみたいななんかそんな感じのね本が
出版されているんですけどもまさにそういうことだと思いますその 言語によって世界の見え方が違うと
まあそれがどこまでね 聞いているのかは
ちょっと僕はノーコメントということに したいですけどある程度はやっぱり
まあほどほどだと思います ある程度
言語は影響していると思うし ただ
本能的にというか 本能的に言語がなくても
見える世界というか認識できる世界というのもまたあると思います だからまあ言語相対論って極端なことを言うとその言語がないと世界を認識できない
っていうことにつながると思うんですよね初めて 言語によって
区別する切り世界を切り分ける範疇化するカテゴリー化するそういうことによって初めて 世界を認識できると
まあこれも一つの考え方だとは思いますまあそういう面もあると思います実際 だからまあその
また哲学的な言い方になってしまいますけど命名することによって初めて そこに実現するっていうことになるっていうことですね
名付けるっていうことは 命名するということはすなわちそれは
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区別する 切り分けるっていうことで
それによって初めて 現実世界に現れると
そういう風な言語の見方もあります 今ずっとお話しているのは言語は世界を切り分けるっていう言い方をしてますけど
まあ範疇化するっていう 言い方もしましたが
それは ある意味
で 抽象化っていう意味でも
ありますね っていうのは
例えば現実的には髪の毛って一本一本違う 物質として髪の毛ですけどそれ一個一個に名前つけるわけではないですよね
それを同じものと見なして で
髪の毛と呼んでいると あるいは人間が
例えば動いているとしてその 動くっていうことは
現実的には 動いている場所も違うし動いている人も違うし動いている
その時間っていうねその時空間的に全然違うことをやっているにもかかわらず我々は 動くと言いますねそれは
抽象化しているからですねでもっと細かく言うならまあ 歩くとかね
もうちょっとそれは 細かく抽象化することはできるでしょうけどそれでも歩くっていうのは
例えば足を動かして で前方に移動するみたいなことを
歩くと呼んでいるわけですけどそれでもね 現実的には
その歩いている時間も歩いている人も歩いている場所もいろんな意味で違っているけど 一つ
抽象化して歩くと言っていると なので何をどう
世界をどう切り分けるかっていうことは 裏を返せば
何を同じものとして見るか っていうことと思う表裏一体ということになります
まあ当たり前ですけどすべての事象に対して名前をつけてたらキリがないので抽象化し なきゃいけないのでその抽象化するものが言語であるということです
例えばね言語によっては水とお湯の区別がなかったりするわけですけど我々は水と お湯を
名前をつけることによって区別しているわけですけど 言語によっては
それを温度によって区別せず抽象化して水と呼んでいる言語もございます 水とというかねその言語で水と呼んでいる言語もございます
そういうわけで今日はこのあたりでよろしかったら 番組クリップお願いしますそれではまた次回ごきげんよう
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