1. 志賀十五の壺【10分言語学】
  2. #664 連用形と体言 from Radio..
2024-06-29 11:13

#664 連用形と体言 from Radiotalk

関連エピソード
https://radiotalk.jp/talk/1064668

主要参考文献
大野晋 (1978)『日本語の文法を考える』東京: 岩波書店.

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#落ち着きある #ひとり語り #豆知識 #雑学 #教育

サマリー

そのメッセージを頂いたのは、番長ちゃうと言っています。今回のエピソードでは、連用形と体言について解説しています。

ラジオトーク百科事典への参加
お便り頂戴しております。すこやすみさんから、拝聴しましたのギフトと一緒に頂きました。ありがとうございます。
番長ちゃうねんというね、メッセージと一緒に頂きました。ありがとうございます。
これは前々回かな、花火に関するエピソードを配信しております。
これは、ラジオトーク百科事典というね、すこやすみさんが企画なさっている企画に応募したというかね、参加したエピソードとなっておりますので、
皆さんもぜひラジオトーク百科事典、聞いたり参加してみたりしてみてください。
ちょっとその企画を取りまとめてるみたいなのが、うまく言葉が出てこなくってね、
とっさに番長と言ってしまいましたけど、番長じゃなくって、正確にはスケバンだということをね、すこやすみさんはおそらく言いたいんではないかと思います。
その説はどうもすみませんでした。
続いてのお便りです。
そわさんとぬふさん、そわさんとぬふさんから頂きました。
動詞あそぶ、名詞形あそび、動詞つる、名詞形つり。日本語では動詞の連用形がそのまま名詞として用いられます。なぜ連用形なのでしょう。
日本語研究の世界ではどのように説明されているのでしょうか。動詞の活用の変遷を踏まえて解説をお願いいたします。
おいせまいり、のやき、くりひろいなどもやはり連用形です。英語では動詞と名詞が同形という例が少なくありません。
ドイツ語では名詞プラス縁が動詞となる例が多数、アルバイトがアルバイトンで動詞、ライズがライザンなどということで、そわさんとぬふさんお便りどうもありがとうございます。
連用形が名詞として用いられるという例は日本語に山ほどあります。
日本語学ではどのように説明されているかというと、あっさり言ってしまうと思いますね。連用形はそのまま名詞として用いられるということですが、
そもそもこの問いの前提ですね。なぜ連用形が名詞として用いられているか、この前提が果たして正しいのかということから考える必要があると思います。
BGM、かかれい、始まりました4月15日のツボ、みなさんいかがお過ごしいでしょうか。寂しい寝たい寮です。
確かに動詞遊ぶに対して遊びというのは、よく遊びよく寝るというふうに連用形として用いられるし、遊びは大切だというふうに名詞としても用いられます。
が、果たしてこの遊びというのは同じ語というか、同じ変化形と言えるのかということから考える必要があると思います。
別個のものだとみなすものも人もそれなりにいるんじゃないかなと思います。
確かに連用形というのは動詞で、名詞は名詞なので、動詞と名詞で全然機能が違うというのもそうだし、決定的なのはアクセントが異なる場合があるということです。
例えば光るという動詞の連用形は光ですけど、光というのは名詞のときは光がだから光-たかたかですけど、
連用形として用いるならぼんやりと光なので光-たか-となります。
こういうのは結構あります。
頼みとか頼みの綱とかいうときは頼み-たかたかですが、彼に頼みとかいった場合は-たか-なので、
連用形と名詞形というか体現でアクセントが異なるので、アクセントが異なるなら別個の単語だろうと考える立場もあると思います。
ただ全ての動詞でこういうアクセントの違いが現れるわけではありません。
さっき言った遊びというのは、よく遊び、よく寝るとかいう場合はよく遊び、連用形のときは-たかたか、遊び、
名詞として使うときも遊びは大切だ-たかたかなので、同じものもあるんですけど違うものもあります。
ですので、この連用形の形は本当の連用形というのと名詞化の形と2つあるというふうにみなすこともできます。
これは一つの見方です。
連用形の形の解釈
ただアクセントが違うだけで同じ単語だってみることもできなくはないというか、
実際日本語学では別個のものとはみなしてないと思いますね。
動詞の活用の変性を踏まえてという指令があるので言っておくと、
この連用形が名詞として用いられるというのは昔からあることだと思います。
そんなに変わってないと思います。
少なくとも古文の時代にはあったし、
万葉集の時代からたぶんあったんじゃないかなと思いますね。
せいぜい音便が起こるとか、つまり光りてと言っていたのが光ってというふうに、
音が変わるみたいなそういうことが起こるようになったっていうぐらいで、
おそらく昔から連用形は名詞として用いられていたと思います。
ですが、そもそもこれは連用形が名詞、ないし体言として用いられていると言えるかどうかということも疑う必要があると思います。
僕は逆だと思います。
体言が連用的に用いられているといった方が正確というか、歴史的にも結構整合性がとれるんじゃないかなと思います。
この連用形は本来的に体言だっていうのは別に僕のアイディアではなくて、
王の進むという先生がそういったことを指摘しています。
つまり光っていうのは、このイのつく形ですね、はもともと体言であって、
それが連用的に用いられているということですが、
これいくつかその根拠みたいなのは考えられて、
一つはその連用形っていうのは、いわば従属説を作るっていうことですけど、
現代日本語で従属説を作るっていうのは、体言が担っているようなところがあります。
何々したとき、何々する前、した後、何々したところ、何々した場合とか、
挙げればいくらでもありますけど、こういう従属説を作るのに名詞が機能しているんですよね。
それと同じように、動詞の体言形、名詞形というのが従属説を形成するのに使われたんじゃないかということです。
そのように考えると、アクセントが変わるっていうのも一応説明できて、
時っていうのは単体だと時が、だから時っていうふうに、ひくたかっていうアクセントなんですけど、
食べた時とかいうと、この時っていうのはひくひくっていうふうに、
連用的に従属説を作るときにアクセントのパターンが変わるので、
そういうふうに考えると、連用形っていうのは本来的に体言だと言えるんじゃないかと思います。
もう一つの根拠は、このイで終わる形ですね。
これは被覆形と露出形の対立と、僕は一緒じゃないかなと思ってるんですが、
どういうことかというと、お酒の酒っていう単語は酒屋とか酒樽っていうふうに、
ある単語の全部要素、前の要素になるときには酒というあで終わる発音になります。
これが単独で出るとき、こういうのを露出形と言いますけど、露出形のときはイっていうのがついて、
酒井が酒になったと考えられてるんですね。
こういった母音交代のことを転音と言って、関連エピソードがあるのでぜひ聞いていただけたらと思います。
つまり独立するときにイっていう設備字がついていたということで、
この設備字のイっていうのが連用形のイっていうのと同じで、
すなわち体言化の機能になっていたんじゃないかなと、
僕はそういうふうにちょっと思ってるんですよね。
ソア・サントヌフさんからもう一通お便りいただいてます。
少しばかり時期を一視しましたが、文部省松果茶摘みについて、
夏も近づく八十八夜、世にも山にも若葉が茂る。
夏も近づくの盲はどういう意味なのでしょうか。
近現代の日本語では盲はおおよそ以下の意味で用いられます。
1、同様に、僕もその本を読んだよ。
2、数量度合いの強調、5000人盲を覚えた。
3、考え、この子も来年は社会人だ。
今年も残すところ1週間。
4、並列、あれもこれも。
やはり夏も近づくには違和感が残ります。
なおこの文部省松果は作詞作曲とも不詳です。
ということで、ソア・サントヌフさん続けてお便りありがとうございます。
僕は別にあんま違和感は残らないですけどね。
3と一緒じゃないかなと思うんですけど、
この子も来春は社会人だ。
今年も残すところ1週間。
これと夏も近づくは一緒な気がするんですけどね。
要は、お前ももう二十歳かとか、
あとは、風呂も入ったしもう寝るかとかの盲と一緒な気がするんですが、
ちょっと意味とか考えてると具合が悪くなっちゃうんで、
個人的には感慨のもっていうんですか、ではないかなと思います。
というわけで今回のエピソードはこんなところで終わろうと思います。
それではまた次回のエピソードでお会いいたしましょう。
お相手はシガ15でした。
またねー。
11:13

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