1. 志賀十五の壺【10分言語学】
  2. #32 夏目漱石『夢十夜第七夜』..
2020-03-21 05:12

#32 夏目漱石『夢十夜第七夜』朗読 from Radiotalk

00:01
何でも大きな船に乗っている。この船が毎日毎夜少しの絶え間なく黒い煙を吐いて波を切って進んで行く。凄まじい音である。けれどもどこへ行くんだかわからない。
ただ波の底から焼火橋のような太陽が出る。それが高い帆柱の真上まで来て、しばらくかかっているかと思うと、いつの間にか大きな船を追い越して先へ行ってしまう。
そうしてしまいには、焼火橋のようにじゅっと行ってまた波の底に沈んで行く。そのたんびに青い波が遠くの向こうで巣尾の色に湧き返る。すると船は凄まじい音を立ててその後を追っかけて行く。けれども決して追いつかない。
あるとき自分は船の男をつらまえて聞いてみた。
この船は西へ行くんですか?
船の男は軽焉な顔をしてしばらく自分を見ていたが、やがて、なぜと問い返した。
落ちて行く日を追いかけるようだから。船の男はカラーカラーと笑った。
そうして向こうの方へ行ってしまった。
西へ行く日の果ては東か、それはほんまか。東の出る日のお里は西か、それもほんまか。
岩波の上、舵枕、流せ流せと囃している。
へ先へ行ってみたら、水帆が大勢寄って太い小砂をたぐっていた。
自分は大変心細くなった。いつ丘へ上がれることかわからない。
そうしてどこへ行くのだか知れない。
ただ黒い煙を吐いて波を切って行くことだけは確かである。
その波はすこぶる広いものであった。
三円もなく青く見える。ときには紫にもなった。
ただ船の動く周りだけはいつでも真っ白に泡を吹いていた。
自分は大変心細かった。
こんな船にいるよりいっそ身を投げて死んでしまおうかと思った。
乗り合いはたくさんいた。大抵は偉人のようであった。しかしいろいろな顔をしていた。
空が曇って船が揺れたとき、一人の女が手すりに寄りかかってしきりに泣いていた。
目を拭く半ケチの色が白く見えた。
しかし体にはサラサのような洋服を着ていた。
この女を見たときに悲しいのは自分ばかりではないのだと気がついた。
ある晩、看板の上に出て一人で星を眺めていたら、一人の偉人が来て天文学を知っているかと尋ねた。
03:01
自分はつまらないから死のうとさえ思っている。天文学など知る必要がない。黙っていた。
するとその偉人が金牛級の頂にある七星の話をして聞かせた。
そうして星も海もみんな神の作ったものだと言った。
最後に自分に神を信仰するかと尋ねた。自分は空を見て黙っていた。
あるときサロンに入ったら派手な衣装を着た若い女が向こう向きになってピアノを弾いていた。
その傍に背の高い立派な男が立って聖歌を歌っている。
その口が大変大きく見えた。けれども二人は二人以外のことにはまるで頓着していない様子であった。
船に乗っていることさえ忘れているようであった。
自分はますますつまらなくなった。とうとう死ぬことに決心した。
それである晩あたりに人のいない自分思い切って海の中へ飛び込んだ。
ところが自分の足が看板を離れて船と縁が切れたその刹那に急に命が惜しくなった。
心の底から寄せばよかったと思った。けれどももう遅い。
自分は嫌でも大でも海の中へ入らなければならない。
ただ大変高く出来ていた船と見えて体は船を離れたけれども足は容易に水につかない。
しかし捕まえるものがないから次第次第に水に近づいてくる。
いくら足を縮めても近づいてくる。
水の色は黒かった。
そのうち船は例の通り黒い煙を吐いて通り過ぎてしまった。
自分はどこへ行くんだかわからない船でもやっぱり乗っている方がよかったと初めて悟りながらしかもその悟りを利用することが出来ずに
無限の後悔と恐怖等を抱いて黒い波の方へ静かに落ちていった。
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