1. 志賀十五の壺【10分言語学】
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2022-03-26 09:23

#428 ことばの呪縛(記号学・記号論) from Radiotalk

主要参考文献
『記号論への招待』 (池上嘉彦、岩波新書)

関連エピソード
https://radiotalk.jp/talk/350494
https://radiotalk.jp/talk/353005

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#落ち着きある #ひとり語り #豆知識 #雑学 #教育
00:04
始まりました、志賀十五の壺。
みなさんいかがお過ごしいでしょうか。
Dickie Hendersonです。
言語っていうのは記号だっていうふうにね、言われることがあります。
記号、どういうのを思い浮かべますかね。
例えば、まあ今みなさんこの音声聞いてくださる前に
再生ボタンっていうのを押してるんじゃないかなと思うんですけど
再生の右向きの三角っていうのも一つの記号ですよね。
で、あの三角形が再生という意味を表してるっていうふうに考えられます。
他にも地図記号とか、いろんなものが記号を通して世の中あふれかえってるわけですけど
言語もそういったものであると。
で、今言ったように記号っていうのは必ず表されるものと表すものっていうのがあるんですね。
再生ボタンの場合、表されるものっていうのは再生という内容というか意味であって
表すものっていうのはあの三角形の形ということですよね。
言語学あるいは記号学とか記号論と言われる学問があるんですけど
そういった分野ではこの表されるものと表すものをそれぞれシニフィエとシニフィアンっていう言い方をするんですね。
これはフランス語なんですけど
言語もそういうシニフィエとシニフィアンを持った記号であるというふうに考えられることがよくあります。
ただ他の記号と違って
言語記号っていうのは
シニフィエとシニフィアンっていうのが一色たになってるっていうのが特徴的であるというふうに言われています。
これを指摘したのはソシュールという言語学者です。
関連エピソードがあるのでぜひそちらも合わせて聞いていただきたいんですけど
言語記号っていうのは表されるもの、表すもの、シニフィエとシニフィアンっていうのが切っても切れない
コインの裏表、紙の裏表でもいいんですけどそういったものであるというふうにソシュールは述べてるんですね。
さらに言語記号の持っている特徴っていうのがあって、それは言語の恣意性と言われるものです。
この恣意性っていうのが言語の最大の特徴と言ってもいいのかもしれません。
03:03
どういうことかというと、シニフィエとシニフィアン
表されるものと表すものの間に
自然的な、論理的な関係っていうのがないということなんですね。
学校っていう建築物と、つまり表されるものと
学校という音あるいは文字でもいいんですけど、そういう表すものの間には自然的な関係はないんですね。
あの概念を学校という音や文字で表さなきゃいけない義理っていうものは全くありません。
でこれがちょっと他の記号と違うところで、さっき言った再生ボタンみたいなものは
再生という表される内容とあの三角形っていう図形の間には
少しですけどね、自然的な関係はあるんじゃないかなと思います。
その尖っていく方向に向かっていくみたいな、あの形が再生という内容、意味と繋がってるんじゃないかなと思います。
あるいは地図記号なんかはもっと自然的な関係ですよね。
ものによりますけど、港の地図記号は怒りから来てるわけですけど、
その表されるものと表すものの間には、かなり自然な結びつきがあると言っていいと思います。
記号というものが表されるものと表すもの、
その両方を含むものだとしたら、我々の身の回りにあるものは言語以外にも記号とみなしていいものがたくさんあります。
例えばジェスチャーとかもそうで、お辞儀っていうのは、例えばあれは敬意を表す記号だとみなすことができるし、
うなずくっていうのは同意を表す記号であるということができると思います。
こういうジェスチャーも表される内容と表すもの、この場合は動作ですよね。
その両方を持っている記号であるということです。
ただ言語の場合と同様に、その共同体で共通の理解というか、了解っていうものがないとダメで、
2本を離れてお辞儀とかうなずくみたいな動作をしても通じないかもしれませんよね。
あるいは服装っていうのも記号とみなすことができるかもしれません。
06:01
模服っていうのは、そういう服装をすることによって追悼の意を表しているということになります。
こういうふうに我々の身の回りには記号っていうものがあふれ返っていて、
まあそれに慣れ切っているというか、一種の呪いみたいになっているんじゃないかなぁとね、思うことがあります。
記号っていうのは、表される内容と表すものっていうのがどちらか一方だけっていうのはありえないんですね。
例えば言葉にならない感情っていうのがあったとしても、それを何らかの形で表さないと人に伝えることもできないし、
なんなら自分自身で認識することすらできないんじゃないかなと思います。 内容があったとしてもそれを表すものがないとダメということですね。
逆に何らかの形があるんだとしたら、そこに何らかの意味であったりないよっていうのを想定してしまうものだと思うんですよね。
例えば虹が出ているのを見て、ああ今日はラッキーだとか思ったり、虹っていう現象というかね、形を見ると人間っていうのはそこに意味を与えないわけにはいかないっていうかね、
まあそういう癖になっているんじゃないかなと思います。
言語には線上性という特徴もあるんですね。 例えば秋っていう単語を発するときに、
アーっていう母音とクーっていうシーンとイーっていう母音とっていうふうに順番に展開しなくてはいけません。
秋が来たっていうのも秋が来たっていうふうに単語をこうやって並べないと発音できないんですよね。
まあ当たり前といえば当たり前かもしれませんが、この線上性っていうのは言語の一種の特徴というか制約と言っていいかもしれません。
そういう意味で言うと、和歌なんかで見られる掛け言葉っていうのは、この言語の線上性っていうのを破るものっていうふうに言えるかもしれません。
同時に2つのことを表しているので、 その時間軸上にこう並べていかなくても表現できているっていうことですよね。
今日話したようなこの記号論っていうか記号学について、実は曲を作ったんですね。
この曲はスタンドFMで聴けるようになっているので、概要欄にURLを貼っておくのでぜひ聴いていただけたらと思います。
09:00
一応第一のテーマはラジオについての曲っていうことになってるんですけど、裏テーマはこういう記号学についての曲ということになっているのでぜひ聴いていただけたらと思います。
それではまたお会いいたしましょう。お相手はしがじゅうごでした。
09:23

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