1. 志賀十五の壺【10分言語学】
  2. #487 日本語って自己チューな..
2022-10-18 09:46

#487 日本語って自己チューな言語!? from Radiotalk

主要参考文献
『日本語と日本語論』 (池上嘉彦、ちくま学芸文庫)

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#落ち着きある #ひとり語り #豆知識 #雑学 #教育
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始まりました、志賀十五の壺。皆さんいかがお過ごしでしょうか。実験者一句です。
今回は、日本語は自己チューな言語だっていうね、テーマでお話ししていこうと思います。
どうでしょうね。日本語は自己チューだって言われると、
侵害だみたいにね、思われる方もいらっしゃるかもしれません。
日本語はね、なんていうか敬語だってあって、他者を思いやる言語だみたいにね、むしろそういうふうに思われる方もいらっしゃるかもしれませんけど、
まあそれも一つの見方ですけど、また別の面を見れば、
日本語っていうのは自己チュー、つまり話して中心の言語だっていうふうに言うことができるんですね。
で、先に言っておきたいのは、この番組全体を通してそうですけど、あくまで言語の話であって、
その日本人が自己チューだっていうことではないんですね。
日本語が自己チューだというか、話して中心の言語であるというお話をしていこうと思います。
まあその前に、その前が多いですけど、日本語は省略が多いみたいな言い方をされることがありますよね。
僕はね、これは省略って言わない方がいい場合の方が多いと思ってるんですよね。
特に主語の省略っていうのが日本語は盛んに行われるっていうふうに言われてて、
まあこのあたりは英語みたいな言語とかなり対照的なんですよね。
英語っていうのは主語っていうのは必須の要素で、一見主語がいらないような文であっても、
it rains みたいに仮主語の it みたいなのを置かなきゃいけないわけですよね。
これと比べると日本語っていうのは明日行く?行くっていうふうに、主語っていうのを全く出さなくても会話っていうのが成立しています。
果たしてこれは省略かというと、僕はそうは思わないですね。
省略っていうのは本来あるべきものが出てきていないっていうことなんですけど、
日本語の場合は出てこないことによって何か表しているといった方が正しいんじゃないかと思います。
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まあもっと端的に言うと、日本語っていうのは主語を出さないことによって、
主語は一人称である、私であるというのを表す言語と、そういうふうに結論づけることができると思うんですね。
そういった意味で日本語は自己中であるということです。
例えば、明日行くわって言ったとき、この主語は誰かっていうと、普通は話して私として解釈されると思います。
これは決して省略ではなくて、もし私っていうのが省略されてて、
明日行くわっていうのが私はとか私がっていうのが本当はあるって言うんだったら、
まあちょっとねそれは違うと思いますね。
俺は明日行くわとか、俺が明日行くわみたいな言い方をすると対比とかね、
他の人はわからないけど俺は行くみたいに、そういう含みが出てくると思います。
そういうのを無しで明日行くわといった場合は、そういう対比みたいな意味は無しに、
明日行くの主語は私であるというふうに解釈されると思います。
このあたりの話は意思を表したりとか、あるいは感覚や感情とか、
こういったものを表す場合によく当てはまるんですね。
明日行くっていうのは一種の意思ですけど、他にもあの車が欲しいといった場合、
欲しがっている主体というかね主語はこれもやはり私として解釈されると思います。
もし私以外、一人称以外が主語だとしたら、
彼はあの車を欲しがっているみたいに何々したがるっていうのをくっつけないといけません。
犬が怖いとかもそうですね。犬が怖いのは私であって、
私以外が怖いと感じてるんだったら怖がっているというふうにしないとダメなんですよね。
こういうふうに主語が何も出てきていないゼロだとしたら、
それは普通一人称私であると解釈されます。
日本語っていうのは主語をこういうふうにね一人称にしたがる言語で、
例えば他にもね受け身文とかもそういったことが言えるんですね。受動態ですけど、
犬が私を噛んだとは普通言わずに犬に噛まれたというのが普通だと思います。
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これは犬というのを主語にするんじゃなくて、
本来目的語である私っていうのを主語にして、
受動態というのを使っているわけです。
こういうふうに日本語っていうのは主語が出てこないことによって、
私一人称が主語であるっていうのを表すし、
もし私が主語じゃないんだとしたら受動態みたいなものを使って、
一人称を主語にしようとするんですね。
ただこういうふうに一人称、私が主語になりやすいのは何も日本語に限ったことではないんですね。
というのが、どんな言語でも文っていうのは旧情報と新情報っていうのを含んでいると考えられています。
全体が新情報っていうこともあり得るんですけど、
逆に全体が旧情報っていうのはあり得ないんですね。
旧情報っていうことは、つまり聞き手も知っていることということなので、
それを伝えたって意味がないので、
大抵旧情報と新情報から文が出来上がっていると。
その時、伝える順番としては、旧情報が来て新情報が来るっていう順番の方が伝わりやすいというかね、
そういう流れのことがどんな言語でも多いんですよね。
そんで、主語っていうのが一番旧情報になりやすいんですね。
つまり話し手と聞き手の間で共通の話題が主語になりやすいんですけど、
日本語の場合は別に必ずしもそうではないんですが、
一人称っていうのが一番旧情報というか共通の話題として最適なんですね。
ある意味、自分が話してるっていうその前提なので、
一人称、つまり私っていうのがお互いの共通の話題で、
なので主語になりやすいという理屈なんですね。
こういう旧情報っていうのは、
なんていうかな、言語の形として軽いものになりやすいんですね。
例えば代名詞とかですね、
英語のitとか、日本語でも彼彼女といった場合は、
これは共通の話題をこういう代名詞に置き換えていると。
その代名詞も十分軽いんですけど、
もっと軽い形としてゼロというものがあるんですね。
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つまり究極の旧情報、話題っていうのはゼロで現れると。
まあそういった理由で日本語の私っていうのは出てこないっていうことなんですね。
繰り返しになりますけどね、出てこないことによって、
主語は私一人称であるというのを表しているということです。
まあそういった意味で日本語は自己中心的な言語であるというお話でした。
最後まで聞いてくださってありがとうございました。
お相手はシガー十五でした。
またねー!
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