1. 志賀十五の壺【10分言語学】
  2. #83 梶井基次郎『檸檬』朗読 2..
2020-05-14 07:48

#83 梶井基次郎『檸檬』朗読 2/2 from Radiotalk

#落ち着きある #朗読 #小説
「よごれた手拭」です。

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00:00
その日、私はいつになく、その店で買い物をした。
というのは、その店には珍しいレモンが出ていたのだ。
レモンなど、ごくありふれている。
が、その店というのも、みすぼらしくはないまでも、
ただ当たり前の八百屋に過ぎなかったので、
それまであまり見かけたことはなかった。
一体私は、あのレモンが好きだ。
レモンイエローの絵の具をチューブからしぼり出して固めたような、あの単純な色も、
それから、あの竹の詰まった防水系の格好も。
結局、私はそれを一つだけ買うことにした。
それからの私は、どこへどう歩いたのだろう。
私は長い間町を歩いていた。
始終私の心を抑えつけていた不吉な塊が、それを握った瞬間から、いくらかゆるんできたとみえて、私は町の上で非常に幸福であった。
あんなにしつこかった憂鬱が、そんなものの一化で紛らされる。
あるいは不審なことが、逆説的な本当であった。
それにしても、心という奴は何という不可思議な奴だろう。
そのレモンの冷たさは、たとえようもなくよかった。
その頃、私は肺腺を悪くしていて、いつも体に熱が出た。
事実、友達の誰かれに、私の熱を見せびらかすために、手の握り合いなどをしてみるのだが、私の手のひらが誰のよりも熱かった。
その熱いせいだったのだろう。
握っている手のひらから身内にしみわたっていくようなその冷たさは、心よいものだった。
私は何度も何度もその果実を花に持って行っては嗅いでみた。
それの産地だというカリフォルニアが想像に昇ってくる。
漢文で習った、漢を売るものの源の中に書いてあった、花を打つ、という言葉がきれぎれに浮かんでくる。
そしてふかふかと胸いっぱいににょうやかな空気を吸い込めば、ついぞ胸いっぱいに呼吸したことのなかった私の体や顔には、暖かい血のほとぼりが昇ってきて、なんだか身内に元気が目覚めてきたのだった。
実際、あんな単純な冷覚や触覚や嗅覚や視覚が、ずっと昔からこればかり探していたのだと言いたくなったほど、私にしっくりしたなんて私は不思議に思える。
それがあの頃のことなんだから。
私はもう往来を軽やかな興奮にはずんで、一種誇りかな気持さえ感じながら、美的装飾をして、町を活歩した詩人のことなどを思い浮かべては歩いていた。
けがれた手ぬぐいの上へのせてみたり、マントの上へあてがってみたりして、色の反映をはかったり、またこんなことを思ったり、つまりはこの重さなんだな。
03:11
その重さこそ、常々尋ねあぐんでいたもので、疑いもなく、この重さはすべての良いもの、すべての美しいものを重量に換算してきた重さであるとか、思いあがった快虐心からそんな馬鹿げたことを考えてみたり、何がさて、私は幸福だったのだ。
どこをどう歩いたのだろう。
私が最後に立ったのは丸善の前だった。
平常、あんなに下げていた丸善が、その時の私にはやすやすと入れるように思えた。
今日は一つ入ってみてやろう。
そして私はずかずか入っていった。
しかしどうしたことだろう。
私の心を満たしていた幸福な感情はだんだん逃げていった。
香水の瓶にも着せるにも、私の心はのしかかってはゆかなかった。
憂鬱が立ち込めてくる。
私は歩き回った広が出てきたのだと思った。
私は画本の棚の前へ行ってみた。
画集の重たいのを取り出すのさえ常に増して力がいるなと思った。
しかし私は一冊ずつ抜き出してはみる。
そして開けてはみるのだが、国名にはぐってゆく気持ちはさらに湧いてこない。
しかも呪われたことにはまた次の一冊を引き出してくる。
それも同じことだ。
それでいて一度バラバラとやってみなくては気が済まないのだ。
それ以上はたまらなくなってそこへ置いてしまう。
以前の位置へ戻すことさえできない。
私はいく度もそれを繰り返した。
とうとうおしまいには日頃から大好きだったアングルの橙色の重い本まで、
なお一層の耐えがたさのために置いてしまった。
なんという呪われたことだ。
手の筋肉に疲労が残っている。
私は憂鬱になってしまって自分が抜いたまま積み重ねた本の群れを眺めていた。
以前にはあんなに私を引きつけた画本がどうしたことだろう。
一枚一枚に目をさらし終わってのち、
さて、あまりに尋常な周囲を見回すときのあの変にそぐわない気持ちを、
私は以前には好んで味わっていたものであった。
あ、そうだそうだ。
そのとき私は田元の中のレモンを思い出した。
本の色彩をごちゃごちゃに積み上げて一度このレモンで試してみたら、
そうだ。
私にまた先ほどの軽やかな興奮が返ってきた。
私は手当たり次第積み上げ、また慌ただしくつぶし、また慌ただしく築き上げた。
新しく引き抜いて付け加えたり取り去ったりした。
06:03
機械な幻想的な城がその度に赤くなったり青くなったりした。
やっとそれは出来上がった。
そして軽く踊り上がる心を制しながら、その城壁の頂に恐る恐るレモンを据え付けた。
そしてそれは上出来だった。
見渡すとそのレモンの色彩はがちゃがちゃした色の階調をひっそりと防水系の体の中へ吸収してしまって、
カーンと冴え返っていた。
私はほこりっぽい丸善の中の空気がそのレモンの周囲だけ変に緊張しているような気がした。
私はしばらくそれを眺めていた。
ふいに第二のアイデアが起こった。
その奇妙な企みはむしろ私をぎょっとさせた。
それをそのままにしておいて私は何食わぬ顔をして外へ出る。
私は変にくすぐったい気持がした。
出て行こうかな。
そうだ、出て行こう。
そして私はすたすた出て行った。
変にくすぐったい気持が街の上の私をほほえませた。
丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けてきた機械の悪寒が私で、
もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなに面白いだろう。
私はこの想像を熱心に追求した。
そうしたらあの気づまりの丸善もこっぱみじんだろう。
そして私は活動写真の看板画が機体な趣で街を彩っている京都を下って行った。
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