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始まりました、志賀十五の壺。皆さんいかがお過ごしでしょうか。志賀です。
今回のトークは、最近モヤモヤしてることっていう、 今週のお題トークでやっていこうと思うんですけど、
この今週のお題トークって毎週毎週ハッシュタグがあるんですよね。
そのタグが、モヤモヤしてることなのか、 モヤモヤしていることなのか、
このテルなのかテイルなのか、どっちなんだい?みたいなね。
ちょっと中山錦二さんみたいになりましたけど。
っていうのがあって、なんか2つタグがあるみたいなんですけど、
ただもう昨日というか水曜日のうちにですね、公式のツイッターで、
してるの方が正式だっていうことで、 しているの、いはいらないよっていうこともおっしゃってたので、
最近モヤモヤしてることっていうのが正しいハッシュタグなんだと思います。
ということでね、今回のトークはですね、 このしてるとしているの違い、
このモヤモヤについてね、お話ししようと思います。
この違いっていうのは、言語学の知識がどうこう関係なくですね、
直感としてしているっていうのが正しいというかね、もともとある形で、
それの短縮形というかカジュアルな形っていうのが、 しているだっていうのは皆さんわかると思います。
で、なんでしているかしてるになるかですけど、
いろんな考えがあると思いますけど、
一つは単純にいっていうのが脱落したっていうことですね。
しているのいがなくなってしてるになったってことですけど、
まあそういう考えもあるし、
僕としてはしているがしてるっていう超母音になって、
で、それが単母音化してしてるになったって考えた方が、 まあ妥当じゃないかなと思います。
というのもですね、えといの母音の連続って日本語は えーって発音するんですよね。
政治とかね、英語とか、
これをわざわざせいじとかえいごとか、 意識しないとそういう発音にはならないので、
なのでしているもしているになって、
でそれが短くなってしてるっていう風にね、
まあそういう歴史的変化があったんだって考えた方が、
説明としては日本語の実情にしっくりくると思うんですけど、
いずれにせよですね、
まあしているっていうのが元々の形で、
してるっていうのが短縮形だっていう風にね、
まあその事実はそれで問題ないと思います。
ちなみにですね、したっていうこのたっていうのはありますよね。
加工系のたとか言っていいと思うんですけど、
でこのたっていうのは古典で習ったたりに由来してるんですよね。
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でこのたりっていうのをさらに遡ればてありから来てるんですよ。
なのでたっていうのは元々てプラス存在動詞から来てて、
でそれがぐちゃっと音的に短くなって今たになってて、
でそうなるとまた別のてプラス存在動詞のているっていうのが今現れていて、
で古典の世界でてありがたりになったのと同じように、
ているがてるに今なってる段階だっていう、
まあそういうぐるぐる日本語って回ってるんですよね。
っていうお話を過去のトークでシャープ137でやってるので、
そちらもぜひお聞きください。
まあ今までのお話をまとめるっていうか大したこと言ってないですけど、
しているっていうのは音が短くなってしてるになってるっていうことですが、
でここから考えたいのは果たしてこのしてるっていうのは、
しているのバリエーションの一つに過ぎないのか、
あるいはしてるでもう一個の独立した形として、
しているとは別に機能してるというか存在してるのか、
そういう表現になっちゃってるのかどうかっていうお話ですね。
つまり古典だとてありとたりっていうのは多分もう別個の形式になってたんですよ。
助動詞たりでもう一つの表現になってたと思うんですよね。
それが果たして現代日本語でているとは別にてるで一つの助動詞みたいになっちゃってるのかどうかということですね。
音としては確かにそういう風になってるけど、
まあそれがバリエーションに過ぎないのかどうかということです。
なんか同じこと言っちゃってますね。
これはつまりどういうことかというと、
してるの方がかなり密着度が強いって感じがしますよね。
っていうのがしているだとしてといるでそこで区切りがあるような感じがするんですけど、
しているだとどこに区切りを入れていいかわかんないって感じで、
一つのまとまり感っていうのが感じられると思います。
ただこの感じっていうのは非常にあやふやなもんですから、
これを調べるつまりこのくっつき感っていうか密着感っていうのを調べるテストっていうのが一応あります。
それは間に単語、まあ助詞とか言ってもいいんですけど、
例えばはとかだけとかさえみたいな助詞を間にスコーンと入れることができたら、
密着度はあまり強くないということになります。
例えば赤くないっていうね、
こういう表現にはっていうのを割り込ませると赤くはないってなりますよね。
まあ別の助詞でもいいけど赤くさえないとかっていう風にそのまま助詞をスコーンと入れることができるので、
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これは赤くとないの密着度はあんま強くないってことになります。
一方ですね、同じないでも動詞にくっつくないは微妙にというか全然話が違うんですよ。
例えば書かないっていうね、こういう表現にはっていうのを入れようとして、
書かはない、何語だよみたいなことになりますよね。
つまりこれはっていうのはそのまま入れることできないんですよ。
言うとしたら書きはしないって言わなきゃいけないんですよね。
なので動詞の場合は密着度が強いものに無理やり何か入れようとすると、
連用形が出てきたり、あとはするっていうのが出てきたりするんですよ。
今の例だと書きはしない、連用形はそのあとしないっていう風にするっていうのが出てきてるっていうことですね。
密着度が強い表現だとそういう現象が起きます。
例えば他にも書けばっていうのはこれも書けは、わざとちょっとうまくいかないんでさえとかにしますか。
さえを入れようとして書けさえば、もう無茶苦茶ですよね。
つまり言うとしたら書きさえすればっていう風にやっぱり連用形と形式動詞って言っていいと思うんですけど、
するっていうのが出てくると。
他にも書きますだったら書きはします。
あるいは書きたいだったら書きはしたいっていう風にそのまま助詞を入れることができずに、
連用形とか形式動詞するっていうのが出てくるのは非常にくっつき度というか密着度っていうのが強いということになります。
逆にですね、例えばやりもらいとか呪術表現とか言われるもの、
つまり書いてくれたとか書いてもらったとかこういうものって密着度はあんまり強くないんですよ。
つまり書いてはくれたとか書いてはもらったとかっていう風にはっていうのがそのまま入ってきますよね。
連用形とか形式動詞するとかも全然関係なくはとか入ることができるので、
他にも書いてきたとか書いてみたっていうのは書いてはきた、書いてはみたっていう風にそのまま助詞が入れるので、
かなり密着度は緩いということになります。
ここからですね、ここから本題に戻ってですね、書いている、このているから見てみましょうか。
これははがそのまま入りますね。
つまり助詞がそのまま割り込めるので、書いてはいる、こうなるので密着度は緩いってことになります。
問題は書いてるですね、書いてる。
もしこれが書いてるにはを入れて、入れることができずに書いてはいるとしか言えないんだったら、
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書いてるっていうのはているっていうのはているの一つのバリエーションに過ぎないということになりますが、
そうじゃなくてもし書いてるにはを入れて書きはしてるってなったら、
これは密着度がかなり強い別の形式になっているということになります。
つまり書いたが書きはしたになるのと同じで、書いてるが書きはしてるになると、
そのたっていうのと同じレベルで独立した形式になっているということになります。
どうですかね、みなさんこれ書きはしてるって言えますかね。
書いてはいるの方が僕自身はちょっと自然かなという感じはするんですけど、書きはしてる。
これね、僕自身ちょっといろいろ振り返ってというか自分で反省してみたんですけどよくわかりませんでした。
というのが僕自身は西日本の方言話者なのでこういうとき取るっていうのを使うんですよ、書い取るっていう。
これにはを入れると書きはし取るってなるんですよね。
これは普通に自然な表現なので。
この取るっていうのも歴史的にはておるから来てるんですよ。
これもやっぱりてプラス存在同士から来てるんですけど、
これは書きはし取るになるってことは取るっていうのはておるとは全く別個の形式で独立してるっていうことになるんですよね。
だからこれね、僕自身の母語の影響で方言で書きはし取るって言えるので書きはしてるって何か言えるんじゃないかっていう気がしてるんですけど、
ちょっとわかんないです。
なので皆さんコメントがあったらぜひ教えてほしいんですよね。
書きはしてるって言えるかどうか。
もし言えるんだったらてるっていうのは独立した形式ということになります。
というわけで今日のトークはこんな感じでした。
なんかもやもやしてることってことでしたけど、さらにもやもやしてしまいました。
また次回お会いしましょう。
ごきげんよう。