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こんにちは、志賀十五です。
今日も志賀十五の壺、やっていこうと思います。
外国語を学習していると、いろんなことで戸惑っちゃいますよね。
例えば、英語の場合だと、スペリングと発音が全然違うじゃないか、みたいなね。
そういうことに戸惑ったりするわけですけど、というか、僕がそうだったんですよね。
初めて英語を習い始めた時に、なんでこういうつづりでこういう発音になるかな、とか、
こんないつまで経っても覚えられないんじゃないかな、とかね、そういうことを思った記憶がございます。
あるいは、英語のbe動詞っていうのもよくわかんないですよね。
あれは何なんだ、という感じですね。
日本語のいるとかあるに相当する場合もあるわけなんですけど、
これはthe eyes openとか言われるもので顕著に現れるものですよね。
あるいは、I am hereといった場合、私はここにいるっていうことで、
日本語のいるに相当してるんだな、というのがわかるわけですけど、
問題は、I am a studentとかいった場合、私は学生だ。
こういう場合にもbe動詞って出てくるんだな、とか、
あるいは、She is beautifulとかいった場合ですね、彼女は美しい。
日本語だったら美しいだけでいいところを、やはりここもbe動詞っていうのがいるんだなってことですよね。
というわけで、今回のトークはbe動詞とかあるいはあるといった存在動詞ですね。
これについてちょっと考えていこうと思います。
特にトークタイトルにもあるように、日本語のあるを中心に考えていこうと思います。
日本語の場合はですね、存在を表すのにいるとあるという二つあって、
いるの方は生物に使って、あるの方は無生物に使うといった大まかな使い分けがあるわけですけど、
ドラえもんとかだったらいるが使えたりね、いろいろその愛着度みたいなものが関係してるんですけど、
大まかに言って、いるあるの二種類があるということですね。
このいるとかあるっていうのは、be動詞と違って日本語の名詞文では出てこないんですね。
さっきの例で言うと、私は学生だというようなものですね。
いるとかあるが出てくる代わりに、だというものが出てきてるわけです。
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ただちょっとね、これ考えてみると、このだというのは潜在的に存在動詞のあるというのを含んでるんですよね。
まあだだとね、ちょっとわかりづらいですけど、であるっていう形でも言えますからね。
私は学生である。
これはちょうど英語でI am a studentで、名詞文でbe動詞がいるのと同じように、
名詞文であるっていうのが出てきてるっていうことですよね。
で、このであるから最後のるが落ちちゃって、であっていう形ができて、
それが縮まって、共通語ではだという助動詞ですかね、になってるんですよね。
歴史的にはそういう音変化がありました。
関西では別の音変化が起こって、やーになってるし、
あるいは中国地方とかだとじゃーっていう発音になっています。
だからまあ、だもやもじゃも、全部であるから来てるんですよね。
なので、英語の名詞文でI am a studentみたいに、
be動詞が出てくるってなんか変な気もしますけど、
まあでも、だっていう助動詞の歴史をひも解いていくと、あるっていうのを含んでるんで、
実はそんなにおかしくないのかもなーという気がしますね。
では次に、形容詞文を考えてみると、
She is beautiful が、日本語では彼女は美しい。
この美しいにはどう考えてもあるっていうのは潜んでなさそうなんですけど、
実はそうでもないんですね。
これはね、確かに終止形の美しいにはあるっていうのは潜んでないんですけど、
他の活用形だともうバンバンあるっていうのが含まれてるんですね。
例えば、美しかったっていうのは、もともと美しくあったっていうことで、
ここにあるっていうのが隠れてるんですね。
あるいはやや古風な言い方ですけど、
美しかろうとかいうのも美しくあろうなのであるがあるし、
こういうふうに形容詞の活用って実は存在動詞あるとの組み合わせなんですよね。
古典ではありですけどね。
なので、英語の形容詞文でbe動詞が出てくるっていうのも、
日本語で彼女は美しかった、この例文がふさわしいふさわしくないは置いておいて、
美しかったみたいに過去形のときにこのあるの名残が観察されるっていうことを考慮すると、
理解できなくはないかなという感じですかね。
というわけで、今までの話をまとめるとですね、
英語の名詞文とか形容詞文でbe動詞が出てくるってなんかしっくりこないなって感じもするんですけど、
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日本語のだとか、あるいは形容詞の活用にあるっていうのが隠れてるっていうことを考えるとですね、
意外な共通性っていうのが見えてくるんですよね。
実はね、このあるっていうのはもっと別の場所に隠れていたりします。
それは過去形のたというものですね。
見るに対して見たとか、食べるに対して食べたとかいうこのたですね。
このたというのは遡ると古典で言うね、助動詞のたりに相当するものです。
で、このたりっていうのはさらに分解しててありという形から来てるんですね。
なので、てありからたりになって、それがたるっていう形になって、
で、ここでもるが落ちて現代語のたになってるんで、やはりね、過去形も潜在的にあるっていうのを含んでるんですよね。
実はですね、このたの歴史については過去のトークでお話ししてるんで、そちらでも詳しく言ってるんで、
これ聞き終わった後でいいんで、そちらも聞いていただけたらと思います。
ほいでね、このたっていうのが潜在的にあるっていうのを含んでるのはね、どういうとこで確かめられるかというと、
たとているっていうのが同じように使える場面っていうのがあるんですよね。
つまりそれは英語の現在官僚みたいな文脈です。
例えばね、現在官僚の学校で習う言い方だと官僚養法とかいうものかな、だと、
もう食べているとも言えるし、もう食べたとも言えるんですよね。
で、これはているの方はいるっていう存在動詞を含んでるし、たの方も歴史的にあるっていうのを含んでるんで、
似たような意味になるんですよね。
他にも経験を表すような場合でも、その映画は見てるでも、その映画は見たとも言えるし、
あるいはもうついたとか、もうついてる、どちらでも使えるかなって感じですよね。
これがね、日本語のたの面白いところだと思うんですよね。
そもそもこのたっていうのは過去を表してたわけではないんですよね。
専門的にはアスペクトっていうものを表してて、ちょっとこれ説明が長くなっちゃうんで端折りますけど、
過去を表すのは古典では木っていうのがあったんですけど、
それが廃れちゃってこのたりが過去を表すようになって、現代に至ってるわけですけど、
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若干そのたりの名残みたいなのは今言ったように観察されるということなんですね。
今ちょっとね、英語の現在完了みたいな話をしましたけど、
中学の英語でね、もう訳し方にすっごいこだわる先生とかいるんですよ。
例えばね、ちょうど来たところだって訳しなさいみたいなね。
ちょうど来たでも別にいいはずなのに、来たっていうのは過去形だからこの現在完了の訳にはふさわしくないみたいなね、
もう頭かった人がいるんですよね。
まあこういうことって僕が言うまでもなく良くないことですからね。
そういった先生はどんどんどんどん少なくなっていることを願うばかりでございます。
というわけで今回のトークはいろんなところに潜んでいるあるの話でした。
例えば名詞文のだとか形容詞の活用とか、あるいは過去のたとかですね。
こういったところにあるっていうのは潜んでいるぞというお話でした。
というわけで今回のトークはここまでということで、また次回お会いしましょう。
よろしかったら番組フォローお願いいたします。
それではまた。ごきげんよう。