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『ユング派心理療法入門 ー治療的関係性ー』デイヴィッド セジウィック(4 後編)
2026-10-28 1:08:25

『ユング派心理療法入門 ー治療的関係性ー』デイヴィッド セジウィック(4 後編)

最終章の後編です。

後編では、ユング派心理療法の治療プロセスについて話をしています。

傷ついた治療者とは何なのか、感染とは何なのかなど語られています。

最後は少ししんみりした雰囲気になりました(笑)

感想

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00:09
それでは、深層心理ラジオのお時間がやってまいりました。話しては、MaeとIでお送りいたします。それでは、Iさん、よろしくお願いしまーす。
お願いします。
お願いします。前回は第4章のところで、セジウィックのユング派心理療法入門の第4章、一番長い章なので、急遽ちょっと第2部という形で分けてお送りしております。
なんとなく、前のところで終わった感じとしては、Iさんの気になったところ、そのあたりからちょっとお伺いしていこうかなというふうに思うんですけど、どうでしょうか。
僕はですね、やっぱりMaeさんが自分は感覚的な人間だって言ってましたけど、僕はどっちかっていうと、理屈っぽいところが好きな人間なので、どうしても理屈というか、そういう話がメインになってくるんですけど、
前回の話の続きで言うと、
前回の回でも話題になかった共感について、セジウィック、2つの側面を話していて、1つっていうのは需要的な側面、取り入れ、英語で言うとイントロジェクション。
これっていうのは、要は相手に対して開かれた態度を取ること、自分の考えを押し付けたりするのではなくて、相手の経験に触れるということで、前回か前々回にお話しした投影とか取り入れみたいな話の中の文脈なんです
けど、
要はクライアントさんが何か話して、例えば大変なことがあったっていうストーリーを話しているときに、相手に対して開かれていることで、クライアントさんが投げてくるものを受け入れるってところがあると。
で、セジウィックの例だったり、あとはよくある話で言うと、ワンちゃんを飼っている人。ワンちゃんが死んじゃってとかね、ペットの。
03:17
それで悲しいって話をしているときに、やっぱり世の中の人間みんながペット飼ってたり犬飼っているわけじゃないので、どうしてもペットを失った悲しみっていうのがね、分かる人と分からない人がいたりすると思
うんですけど。
そのときに共感をしていく中で、一つは相手がそういうペットがなくなって悲しいっていうような気持ちを話している。要は投げ入れてるわけですよね、こっちに。それをちゃんとキャッチするというか、需要する、受け
入れる。
自分の中に入れる。自分の中っていうのは治療者の中に入れる。
これが取り入れで、これが一つ共感に必要。言われてみればそりゃそうだみたいな話ですよね。
ワンちゃんが死んで悲しいって言ったときに、ペットだからね、人間じゃないからねって言ったらそりゃ全然共感できてないってことになるし。
これは分かる話だと思うんですけど。
もう一つは能動的な側面っていうようなことをセイジミックは言ってて。これが投影、プロジェクションって書いてあるんですけど。
要は、今度は治療者が投影をするってことなんですよね、クライアントさんに。
つまり、相手を理解するために相手がどのような経験をしているのか、自分の中でイメージを形成する必要がある。
きっとクライアントさんはこういうことでこういう気持ちになっているんだろうな、みたいなことを意識的にやる。
この投影っていうのは精神分析の流れだと、無意識的にやっているものだと言われているので、
このセイジミックが言う意識的な投影っていうのは、精神分析の言う投影とは違うかもしれないですけど。
たださっき言ったように、ペットを飼ってないし、なんならちょっと動物嫌いな治療者だった場合、
相手の話をまず受け入れる必要もあるし、
でも自分ペット嫌いだし、どうやって理解して共感していこうとなった時に、
自分の大切な人を失った経験とかをイメージしたりとか、そういうのをしていくっていう。
取り入れとか投影って言葉が大事っていうよりかは、
共感には自動的に相手を受け入れるだけじゃなくて、自分が相手を理解しようと思うような能動的な気持ち。
06:00
そういうのが大事なんじゃないかって言ってますね。
これは古風とか代理体験っていうような言葉で言ってたりする言葉に近いらしいんだよね。代っていうのは代わりですね。
患者の体験していることを代わりに体験するみたいな。
そうなると代理体験、代理経験っていうのは一応治療者の逆転位になるわけですよね。
治療者が感じていることだから。
クライアントさんの言ったこと、話したことに対して治療者が感じること。
これは逆転位っていうことになるので、やっぱりその逆転位の感情をどういうふうに理解していくかみたいなのは大事だし、
そういう共感に失敗した時っていうのは、どっちかっていうと真剣性的な逆転位として生じてしまう。
重要なのは治療者が感情を持つこと自体を問題にするのではなく、その感情がどこから生じてどのような意味を持つのかを吟味することである。
患者によって喚起された感情はそのまま患者に返したり、反射的に治療者が行動に移したりするのではなく、治療者の中で扱われる必要がある。
これも前ちょっと出たけど、
例えば患者とかクライアントさんに、全然私の気持ちわかってないですよ、あなたは心理師なのにって言われたときに、
心理師だって完璧な人じゃないんですよってすぐに怒っちゃったですが、まあ良くないと。
どうしてこの人は怒っているんだろう、私の何が患者を怒らせたんだろうとかっていうふうに吟味しましょうみたいなとこですよね。
これ言うのは簡単だけど、実際やるのは難しいですよね。
すごい難しいよね。
僕も患者さんというかクライアントさんに怒ったことはありますよ、つい。
反射的にもね、つい怒っちゃうときはね。
罵声を浴びせるとかっていうのは、そこまではないけどね。
つい口調がきつくなったりとかね、明らかにどうなるとかそういうのはないですけど。
表情に出ちゃったりね。
じゃあこの逆転、あるいはこの環境感の失敗って何なのかっていうと、
これこそ前から話してるのは傷ついてるってことですよね、治療者が。
患者から投げられたものとかに対して傷ついていたりとか、不快感を感じたり、苛立ちを感じる。
09:08
でセジックはこの傷ついたことをもちろん行動に起こさないで治療者が抱えながら、
それを代謝していくのが大事。
新陳代謝とかの代謝ですね。
メタボライズって。
治療者が患者から投げられたものを抱えて、その意味を考えて、
関係の中でそれについて取り組むことっていうのが大事であるし、
この状態っていうのが一種の感染、コンジェクション。
前に話した治療者が傷つくことが大事っていうのは要はこの辺のことを話していると。
そうだよね。
やっぱり治療者側もこちらが激しい反応をする時っていうのは、
普通に単純に考えて気にしていないことだったら、そんなリアクションをしないはずなんだけれども、
急に抑えがたい感情が押し寄せてきた時って、
やっぱり治療者の方にも何か傷つきの体験があったり、
そこが刺激されるようなことっていうのが、
そこのクライアントの起きてることに何か揺さぶられてるところっていうのはあるかもしれないですよね。
そこが感染だったり、あとは投影でもいいし、転移でもいいけど、
そういう用語で言われてるようなところで。
そこがある意味健康的なあり方だと、
そこが何がクライアントにこの怒りの感情を生んでしまったんだろうかとか、
そういった内省するスタンスでいられるってことですかね。
その感情を味わいながらも、アクティングアウトのように行動してとか反射的に行うんじゃなくて、
受け止めた上で、さっき言ったような代謝というか、
そういうプロセスが健康的な場合には機能するというか。
12:00
そうですね。大事というか理想というかね。
理想だったり、そのあり方がまた、さっき最初の第一部のほうで話しましたけど、
うちなる治療者のある意味、セルフケアのモデルになるような、
そういったあり方が相互交流してる間に、だんだんとそのスタイルも、
治療者のスタイルが患者に内在化していくってことなのかな。
そうだね。ただこの話で、
スイジークッションはちょっと否定的に考えてるっぽいんですけど、
ユングが何かのケースで叩かれそうになったとき、患者さんに。
叩いてもいいけど叩いたら私もお前を叩くぞみたいな。
なんかあったな。
他のユング派だったり精神分析の人でも一人、誰かいたと思うんだけど、
結局反応しちゃうみたいなときもあるらしくて、
身体というか無意識のうちに。
それこそがいいんだっていうふうに主張する人もいるので、
それはアクティングアウトと取るのか、いろんな理論で捉えるのかは別だけど、
この辺は賛否っていうか、使用者のスタンスによって違うかなっていう。
逆転医のときの話でもあったけれども、
神経証券であるとか健康的な逆転医というものが、
ある種プロセスの中でどれも起こり得る可能性っていうのも示唆してたような文章があったように思うんですけど、
避けられないときもあるのかもしれないですね。
まだ気づいていない治療者の傷だったりとか、そういったこともあるかもしれない。
そういった意味では絶えず自分のこと自身も内省して分析しつつっていうプロセスも必要なのかもしれないですよね。
少なくとも精神医学はこういう立場なんだろうなっていう。
どっちかというと、叩いたりしないというか、叩いて代謝してやっていくみたいなね。
15:19
次からも転移の話なんですけど、少し手前になって。
これちょっと面白いなと思ったのは、心理療法は愛であるみたいなことを言ってて、
エロス的な愛じゃなくてアガペ的な愛みたいなことを言ってて。
友達の友に愛で。
治療者は患者に対して、好意的な気持ちを持っているみたいなのが大事なんだとか、
治療を引き受ける上での判断の一つになるんだみたいなことを言ってて。
これは本当に中立性と真逆の概念ですよね。
中立性とか、あとブランクスクリーンっていうのは、
治療者がある程度自分を出さないで悪心になっている状態。
これを中立性とかって言ったりしますけど。
ここはセジックもいろいろ言ってて、
ブランクスクリーンも大事とも言ってる。
なんでかっていうと、
ある程度患者の要因が映し出されやすいんだろうね。
ブランクスクリーンっていうのは。
要は白紙なので、何かを映し出す、投影する。
患者が投影するときに、
素直に患者のものが投影されやすいっていう意味で、
ブランクスクリーンが必要であって。
そこに何が映し出されるかって言ったら、
過去の関係に基づく定義。
例えば、過去に満たされなかった経験とか否定的な経験が、
治療者との関係に持ち込まれたり。
あるいは患者が望むものを含む定義。
過去の関係にあった肯定的な要素や、
まだ実現していない潜在的な事故の可能性。
こういうのも治療者との関係で、
期待される、要は定義が起きるって言われるので、
ある程度の治療者の中立性だったり、
透明じゃないな、白さが必要である一方で、
18:02
共感っていうのは能動的に自分が何かするとか、
っていう側面もあるわけだから、
やっぱり嫌いな人のことを想像するのは難しかったり、
共感的に想像したりとか。
ある程度、この患者のことを好意的に思う
みたいな気持ちも必要っていうことを言ってて、
これはなかなか面白い考えというか、
なんていうのかな。
精神分析を勉強した人はすごく、
反感を覚える可能性もあるかもしれないよね。
そういう気持ちを持たないでやるのが精神分析であるとか、
心理療法であるっていう考えの方もいると思うんだけど、
でも逆に一般の人からすると、患者にそれはこういうのを
好意的になってほしいよみたいな気持ち。
むしろそうじゃないのみたいな感じがするかもしれないですけど、
少なくとも本当に古い人とか古典的な人たちっていうのは、
こういう患者への好意みたいなのを持つべきではないっていう考えだったし、
たぶん今でもそういうニュアンスというか、
エッセンスみたいなのが残ってるんじゃないかなっていう気は、
だいぶ減ってきたと思うけどね。
そこでその気持ちが行動に移してしまう事件っていうのがね、
あったりもして、そこへのアレルギーっていうか、
そういうのもあるかもしれないですね。
より中立でクライアントのものを映し出すようにするんだと。
自分があまりにものめり込んでしまうと止められなくなってしまうような、
そういった器具とかそういったものもあったりするんでしょうが、
とは言っても能面のような存在でいるのではなくて、
こちらも一人の実論的な人間として、
ものを感じ、何かを思っているその人と対話する、
そこから生まれてくるもの、またそこで混じり合うものっていうものが、
なんかセジフックの心理療法ではすごく強調されているように思いますね。
そうだね、前回か前々回にも話したと思うけど、
なんだっけな、プロジェクションホックだかサイクロジカルホックだかみたいな、
21:07
投影するためにはそれに引っかかる何かを治療者が持ってるっていう話もあったように、
完全な中立性ってのはやっぱりない、現実的に。
ありえないかもしれないね。
ロードしか無理だし。
AIです。
治療者の髪型とか服装とかホワイロとか性別だけでも中立性ってのは難しいわけだから、
完全な中立性ってのは無理だし、
そういう患者が何かを引っ掛けたくなるようなものが治療者にあるっていうのも大事ではあるんだけど、
だからといって何でもオープンにするわけではなくみたいな、
そういう緊張関係っていうかね、中立性と、
そういうところとか、今言ったアガペ的な行為っていうかな。
そう、どこかで何かどこまでも出せばいいんだっていうふうな、一見取られがちだけど、
何かすごくマネジメントしてる部分も、
政治学の文章からはすごく感じるところはありますよね。
そうね、時効開示にも結構この章は裂かれてて、ページ数が。
だからこう難しかったり、要はその出す出さないをすごく考えてやってるっていうのもあるし、
あとはアメリカは結構そういう流れがあるんですよね。
精神分析でも対人関係、関係精神分析か。
要は二者関係、治療者と患者の関係性を考えていくみたいなところで、
時効開示の話がテーマになったりとか、
要はアメリカってそういうとこに関心がある国なんだなって感じ。
そうね、そういったどこで活動してるかっていう部分も大きいのかもしれないですね。
やっぱりその流れの根本は古風党にあると思うんだけどね。
まあそれはちょっと余談なんですけど。
もう一個これはマジそうだねって思うんだけど、
そうやって解釈をしていくわけですよね、その定位関係について何が起きているのかとか。
いうことに関して、何を伝えるかっていう内容も大事なんだけど、
そのトーンとか伝え方が大事って言ってて、これは本当にそうって思った。
そうね、確かに。
例えば本当に一番よくあるのは、
例えば面接中で街中で起こったこととかで、
例えば病院行ってる患者さんがね、お医者さんが私の話全然聞いてくれなくて、
24:05
雑に扱われてる感じがして、すごい腹立ったんですよね、みたいなことをしたときに、
解釈って意味では、
つまりその医者と患者さんの関係っていうのは、
今の私とあなたとの関係性のことを言ってるんじゃないかってことを治療者が考えるわけですよね。
つまりあなた今お医者さんに怒ってる話をしてるけど、
私にも怒ってるんじゃないかみたいな。
っていうのを言うときに、
あなたは私にも怒ってるんじゃないんですかって、
淡々と言うと、
しかして私にも怒ってたりするのかな、みたいな感じでね、聞くのでは全然。
どっちが良い悪いは置いといて、展開が違いますよね。
全然違うだろうね。
怒ってもせよね、みたいなね。
さらにそこがね、
治療者が、たとえばいつもだったらそういうふうに、
私に対して怒ったりするんですかね、みたいな感じで優しく前途に伝えられるのに、
そのクライアントさんにはちょっと強く言っちゃうとかってなると、
治療者の方に逆転位が起きてるんじゃないかとか、
そういうのを考えるきっかけにもなったりとか、
そうね。
そういうふうに解釈とか言葉を伝えていくかとも意識して、
これは本当に重要だし、意外と大学院で習わないんじゃないかなって気もするけどね。
そうね、習った記憶はないよね。
でもすごく自分の今この場面で、
自分がどういうムードになってるのかっていうのを絶えず、
セルフモニタリングしてるような自分っていうのがいないと、
なかなかその辺に気づけなかったりするでしょうね。
怒ってるんじゃないですかって強く言っちゃった時に、
もしかしたら自分が自信がなくてね、実は気づいてるんじゃないかなとかね。
自分のことをよく知ってないと、かなりその辺はムードって理解できなかったりするかもしれないですよね。
かなりクロート向けな話になりますよね。
まあ余談ですけど、僕とかもやっぱり聞くわけですよ、たまに。
そういうのは僕に対して怒ってるのかなみたいな話をする時があるんですけど、
やっぱり僕ですらドキドキしますからね、聞く側ですら。
この後どう言われるのかとか。
27:02
ましてやクライアントさんからしたらもっとドキドキしてるんだろうなっていうことですよね。
言える人だったら言うわけじゃないですか、クライアントさんにこれを。
全然聞いてくれたくないって直接。
直接的にね。
それが言えない内緒や意識できてないから、そういう病院でのお医者さんとの話っていうパラレルの話を持ち込んで話すのに、
で、治療者から僕にも怒ってるんじゃないって書いたらさ、ドキッてするし、
いやー言いにくいよなとか思ったりしますけどね。
なんかねすごく言い方によって踏み込まれたって感じる時もあるだろうし、
なんかこう、かもねって一種の気づきだったりとか、
そういうちょっとソフトな感じで言った時に自然と受け止められる時もあるかもしれないけど、
そこのさじ加減で展開をいいようにも悪いようにも変えてしまうって可能性はありますよね。
これ聞いてる人が、もしかしたら治療を受けてとかカウンセリングを受けてるっていう人がいるかもしれないですけど、
まともな心理師だったらちゃんとした感情をぶつけるのを受け止めてくれるはずなので、
緊張するかもしれないですけど行ったほうがいいですよっていう、
思ってることをね、怒ってることを怒ってるって言って、
行ったほうがいいですよね、受け入れてもらえる確実さを。
ほとんどの場合は、よほどのことがない限り。
それを仕事にしてるぐらいのね、感じだから、ぜひね、なんか言ってもらえたほうが嬉しかったりしますね。
そう、こっちとしてはね、言ってもらえるほうがむしろありがたいまでありますよね。
そういう気持ち持ってたんだっていう。
何がそんなに僕のことが腹立つんですかムカつくんですかみたいな話になると、すごい建設的な話になると思いますし。
そうね。
まあね、そこが勇気がいるんだよな。
ほんとそう。
それはね、多少こっちが工夫しないとダメですよね。
言いやすいようにとか、言えやすい雰囲気を作るとか。
どっかでね、否定されるって思わせるようなちょっと空気が出てたりとかね、
何かそういうものを匂わせてしまってるのかもしれないね。
あとは攻撃することで罪悪感を感じる人もいるので、
治療者要因ではなく、そもそも攻撃することに対して罪悪感を感じる人もいるので、
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そこはまた別の話だと思うんですけど。
伝えること自体はね、攻撃じゃないはずだからね。
伝える内容によるけどね。
一瞬へこむ心理師もいるかもしれないけど。
持ち直すから大丈夫ですよ。
僕とかへこみますよね、めちゃくちゃ。
いや、へこみますよ、言われたらね。
へこみますけど、
でもそこで、
心的なこととして、
そういったプロセスとして考えてるのは仕事ですから。
一瞬へこんだように見えるかもしれないけど、
逆に見守ってもらえたら。
ところもあるかもしれないよね。
ということで、
僕の話としては最後になるんですけど、
実際治療展開ってどんな感じになっていくの?
治療的関係性の展開ってどうなっていくの?
みたいなのも、セジリックは書いてくれていて、
ユング派のグッドハートっていう人の考えにも引用してるのかなと思うんですけど、
ざっくり言うと、セジリックは防衛・投影・感染耐性っていうプロセスを経るっていうふうに言っていて、
まず第一段階が防衛とか隔たりって言われるところで、
ペルソナ修復的な関わりっていう話をしてるんですけど、
要は最初、治療者と会うときって、
いきなり一体感のあるような感じってのはなりにくくて、
お医者さんとかにも、病院のお医者さんとか想像してほしいと思うんですけど、
まず最初は、こんにちはって言ったりとか。
よそよそしいところからね。
こういうことがあってとか、
ある程度表面的な話をしていったりとか、
治療者っていうのに対して表面的に適応していくみたいな。
そういうのがやっていったりするし、
あとは最初表面的な関わりやっていく中で、
日常生活におけるところが一時的に回復していったりとかね。
わかりやすいだと、先生と話したらちょっとスッキリして不安が収まりましたみたいな感じで、
ちょっと楽になったりとか。
最初はそういう、
自分の本当の問題に触れるんじゃなくて、
そういう表面的な関わりが行われて、
33:01
それでも大事なプロセスではあるけれども、
こういうのはペルソナ修復的な関わりって言ったりして、
ペルソナってのは自分が外っていうのは社会とかに向ける顔なわけなんですけど、
そういうところが少し修復されていくみたいな段階を減らすと。
次に東洋感染融合っていうような深い治療的関わりみたいな段階になってきて、
最初は先生と話してると安心しますわとか、悲しみでスッキリしましたとか言っていくんだけど、
だんだん先生と話してスッキリはするんですけど、
でも別に僕の腹痛はなくならないんですよねとか、
先生と話してスッキリはするけど、
結局僕には信用できるパートナーができないんですよねみたいな、
そういうだんだん本人の問題に近づいてくる深い関わりになってくるわけですよね。
こうなってくると、さっき言った東洋とか感染とか融合みたいなのが起きてくる。
これが第二段階。
その次っていうのが、これはどっちかというと治療者の面も大きいんですけど、
さっき言ったように投影されたものだったり、患者に移されたものだったりとか、
そういうものを治療者自身が内製したり、あとは新陳代謝したりとか、
そういうのをしていく中で、患者のことを理解して、治療者が理解していく段階。
これは第三段階。
第四段階っていうのが創造的な分離という感じで、新たな関係性の成立ということで、
そういうふうに、ある意味感染したり投影したり一体化してた治療者と、
また一体感を持つのによって分離していくわけですよね。
融合したまま留まるのではなくて、より安定した二人の関係になって、
またそこに新しいものが生まれてきているはずなので、
そうやっておのおの分離していって、
じゃあ治療終了だね、頑張ってね、みたいな感じになっていくっていうのは
プロセスを得るっていうふうに言ってて。
グッドファットもセジックも言ってるのは、綺麗にこういうふうに進んでおくわけじゃなくて、
多少段階が前後したりとか、行ったり来たりすることはあるんだけど、
とは言いつつ、こういうふうに心理予報は進んでいくよっていう形ですかね。
例えば認知行動療法とか、あるいは普通のカウンセリングでもありますけど、
この第一段階で終わることも結構ありますよね。
そうだね。
なんなら、
36:01
もちろん多い。
研究では、初回面接で終わるのが結構割合で高いっていうね。
研究もあるぐらいなので。
やってる自分、我々としてもわかんなくないですよね。
本当に表面的に、ちょっと困ってることを回復して、
じゃあ終わりで大丈夫ですっていうことはあるし。
そうだね。
ある意味、本人が困っているものから解放されているのであればね、
全てのプロセスを得ることなく途中で、いい傾向になってるのであれば、
それはそれで一つの成功って言ってもいいんじゃないかなとは思いますけどね。
それは成功だと思います。
例えば腹痛みたいなところが、極端な話ですけど、
自分を教えてあげてきた親との関係が影響している腹痛だったとして、
例えばでも成長剤飲むと落ち着いて生活はできますっていう人に対して、
それは本当の治療ではないって言って、じゃあ心理学やってみましょうっていうのは、
どうなんみたいな話ですよね。
もちろん根本的な治療にはなってないけど、薬飲んでうまくやっていけるんであれば、
それ以上クラン酸が望まないんであれば、そこで終わるっていうのは自然な話ですよね。
そうだよね。こっちがその人の人生を無理やり変えてしまうっていうのはまたちょっと話が違うし、
洗脳みたいな感じになってしまうと、それは心理療法ではないというかね。
あまりその枠の中に、枠って難しいですね。
当てはめるっていうのもまたちょっと、無理やり当てはめるっていうのもちょっと違うのかなっていうふうに思いますよね。
肩痛い人がね、シップ貼って、これでやってってんのに、絶対手術した方がいいですよとかっていうのはちょっと違うと。
ただ、シップでなんとかやってきた人が、やっぱシップだけじゃどうも効かないとか、
やっぱり一生シップ貼ってんのやだから、根本的に治療したいってなった時は、
手術しましょう。要は心理療法やってみますか、みたいな提案するのは大事ですけど、
とりあえずシップで大丈夫ですっていう人に、いやいや手術をっていうのは、こっちが気を付けなきゃいけないことですよね。
39:01
そうだね。なんだろうね、自分の何かを押し付けてますね。
逆転医ですよ。
逆転医、それこそ逆転医ですよね。
確かに。
というわけで、僕の方はこういうことを感じて、前作とかの治療の終わりについて。
そうですね。今の流れでいうと、そもそも治療の終わり自体にもいろいろな形はあるのかなというのは思うんですけど、
この章の中での治療の終わりで治療者は忘れられるっていう、そういった題目がついたところが、最後にちょっと取り上げさせてもらおうかなと思います。
要は第4段階ですね、さっき言ったところ。
そうですね、第4段階の、もう本当に終わりのあたりのところですかね。
まず施術医はこの治療の終わりに終結を迎えるとも言ったりしますけれども、英語で言うとterminationっていう言葉が終結にあたるわけなんですけど、
その言葉に文句をつけるところから文章が始まるんですけど。
ターミネーターのターミネーター。
そうそうそうそう。映画のターミネーターまで引き合いに出して文句言うわけですよ。そもそも治療者にとっては中立的な言葉かもしれないけど、
英語圏の人からするとそのterminationっていう言葉自体がすごく冷たい言葉であるというふうに言っていて、
軍隊では謝めること自体を言うし、雇い主との関係で言えば解雇っていうことを意味するわけですよね。
その文脈の中でね、映画のターミネーターまで引き合いに出してくるわけですけど、
その言葉自体にいろいろあるんですけど、とはいえ、そもそも心理療法であろうと、
カウンセリングであろうとも、この終わり自体っていろんな思いがあるっていうことがあると思うんですよね。
まあすごくそれって心理師にとって結構つきものだと思うんですけど、
患者さんとかクライアントさん側にもきっとね、なんかいろいろこの終わり際っていうのはいろんな思いが生まれてくると思います。
42:03
セジュイックも、終わりのときには患者だけじゃなくて、
治療者も程度の差があれ、いろいろな思いを感じるって書いていて、
治療を重ねるうちに治療は患者の生活習慣になっていくわけですよね。
枠があれば火曜日なのか木曜日なのか、とにかく何か曜日にするわけですよ。
そして治療者も患者と感情的につながってるから、終わりがきたら治療者の側もすごく何かを感じるわけですね。
正直に言うと、私なんかも終わりが近づくと、
治療者側というかこっち側に離れたくないとか、
終わりたくないっていう気持ちが生まれることがあるんです。
さっきも愛の話であったりもしたけど、
これは単純に悪いことではないっていうか、
いいとこは単純に悪いとか、そういうふうに言える問題でもなくて、
前回も関与した逆転移の話をしましたけど、
治療者の逆転移が関与しない限り、
癒しの力っていうのが働き出さないって政治家は言ってるわけですけど、
この終わりたくないっていう気持ちはある意味で、それだけ関与していたっていうことでもある。
癒しが起こる心理療法の要件として、
必要なことでもあるのかなというふうに思うんですよね。
やっぱりそれだけ関与してると、別れて自分の一部を切り裂かれるようなものに近いかもしれませんね。
繰り返しある決まった時間が特定の一人のために逆れ続けるわけなので、
育て直しとは違うけど、それはもう生活の一部になってるような面があるかなと思うんですよね。
それはあたかも一つの別れであって、死を意味するような消失感も伴うかもしれないっていうことなんですよ。
政治学はそれを治療者にとっての小さな死とか、あるいは手放すことだっていうふうに書いています。
45:04
うまくいった仕事が一つ終わったっていうことではなくて、
たくさんの作業で結ばれた関係が終わって、この人がここを出て、自分の人生の続きを歩いていく。
それは本当のさよならなんだよというふうに言ってるわけですよね。
で、スジェイクも正直に書いていて、かなり長い治療の割には、
その患者が特にお気に入りでなかったとしても、損失を感じることがあるとも書いています。
格好書きでね、時には大きな案度もあるっていうとも書いてあるんですけど。
正直だね。
終わってホッとしたっていう気持ちもどこかであったり。
それだけ関与していると、いろいろこちらも苦しいものがあるから。
すごいリアリティに沿って書いてるなというふうに思うんですけど。
それからここはもう大事なことだと思うんですけど、
長い治療の割に患者が終わりについてあまり何も感じていない様子だったり、
自分自身がそうだったりすると、逆にそれはスジェイクからすると当惑する場面で診断的な意味合いがあるというふうにも書いています。
むしろ何も感じない。
そういったときが治療者にあれば、それは何か逆転移がはっきり出てるというふうにスジェイクは言っていて、
つまりは何も感じないほうがむしろ気にかけるべきことなんであると。
だからこそ終わりにすること自体をよく話し合う必要があるっていうふうに言ってるんですよね。
いわば物作業に近いことを2人でやるってことなんですけど、
スジェイクも治療者は最後まで仕事に留まって喪失体験を扱う必要があるというふうに言っていて、
患者が喪失を感じられるってことは、愛着の能力があって人格がある程度まとまっていることを示す健康なサインなんだと。
そして治療者自身が分離や別れ、死にまつわる自分の葛藤を自覚してるってことが、
患者と同じ葛藤に共感するための基盤になるんではないかと。
48:02
そういうふうに言ってるんですよね。
これは、先週の話題からこの辺はすごく大事に扱いますよね。
じゃあ終わりましょうで終わりじゃなくて、終わりってことに対してどう感じるのかをやっていって終わるっていう。
そうだよね。
そこもせじゆき君はかなり大事にしてるんだろうなーっていうのがありますよね。
やっぱりまだ残ってるような悲劇的な気持ちも、実はこの終わりの場面で出てきたりもするのかなとも思うんですよね。
ある意味、両方に何も感じずに終わりに向けてことを進めようと無意識にしてるんじゃないか。
まだ残ってる否定的な気持ちを何も感じずにそのまま終わってしまえば、避けることにもなり得ると。
寂しさだったり怒りだったり見捨てられかんだったりとか、そういったものを最後まで枠を持って思ったことを話し続けてっていうことが物作業の一部なんじゃないかっていうことですよね。
これは、これもまた心理師じゃない人とかにはすごく分かりにくい話というか、
実際に僕もクライアントさんとか会ってて、内面的なものをすごく扱うっていう人じゃない場合には、
によくあるのは、今までありがとうございました先生のおかげで何とかやっていけそうですみたいなとか、先生ありがとうみたいなのがあって。
これが一般的な別れのイメージ。
なんかいろいろあったけど、ここまで来れたねみたいな感じなんですけど、そうじゃなくて、じゃあ終わることが決まりました。
あなたはこの終わりに対してどういう気持ちですかってなった時に、今言った気持ちもあると思うんですよね。
ありがとうとか助かりましたって気持ちもあれば、一歩でやっぱり離れるのは不安だなとか、
もう私は良くなったから別の人と会ってやっていくんでしょうみたいな、そういう嫉妬みたいな気持ちとか。
51:07
それについても、ちゃんと話し合って終わろうみたいなね。
終わりって決めたけどまだそこについて話し合っていこうみたいな。
それはなかなか他の文脈ではない話かなと思いますけどね。
そうだよね、なんか終わり良ければ全て良しみたいなね。
なんかそういう感じで、社会的にはそういうものが円滑にいく一つのやり方ではあるかもしれないけれども、
まあでも心理療法は思ったことを話し続ける。
恋人関係とかは意外となんかもう別れよって言っても、結局最後までとかあるから、そういう話はするけど。
確かにそういった面もあるかもね。
でも終わりっていうのもかなりのビッグイベントじゃないですか。
で、長く続いてきたそういう心理療法である場合で、
そこで何か終わりますっていうことでまた何か生まれてくるものっていうのが深く関与しているからこそ、
何か避けられない気持ちの動きっていうのはあるはずなので、
そこも扱っていくっていうのが、またそこに自覚的であるという治療者の姿勢っていうのが、
また見せるっていうこともまたクライアントにとって、
うちなる治療者としての役割を果たすことにもなるのかなというふうに思うんですけど。
その一方でですね、最後の方に治療者は忘れ去られる運命にあると。
ただしいつもではなく、完全にでもないというね。
すごくなんだろう、え?みたいな。
逃げ切らない言い方ではある。
逃げ切らないなとは思うけど。
そう、わかるよね。
実はね、結構これ好きかも。
この一文好きかもしれないっていうかね。
何ですか?
何だろうな。
なんかそういうスパッとなかなかいかないもんじゃないかなっていうのは、
経験上どうしても感じるっていうところもあったりしますし。
54:00
この文の前に次のようなことが書いてあって。
成し遂げられた良い作用は患者の人格の暗黙の一部になる。
というよりそこに織り込まれる。
前に述べたセルフケアの次元は使える形で続いていて、
その発達における治療者の役割は薄れて消えていく。
これを読んで、そうなんだよなって思ったんですよね。
長いプロセスの中で治療者と一緒に考えた時間って、
だんだん自然なものになっていくっていうか、
ある意味その人の心を構成する一部になって、
そうするとそれはもう意識して思い出すものではなくなって、
全意識的な領域で自律的に働くようになると。
あんまり具体的なことは言えないですけど、
例えば長く親面接を続けてて、
お子さんとどう付き合っていくか、どう見ていくかっていうことを、
長いこと繰り返し繰り返し話していって、
そうすると次第に親御さんの中で自然になっていって、
そうなるとだんだん必要性っていうか薄れていって、
面接の間隔が空いていって、必要性を感じなくなっていくと。
でも何かトラブルがあると、その視点が一時的に失われてしまって、
またこっちに来て話してるうちに、
ああそうだったかって思い出して、また日常に戻っていくみたい。
そういうことを何度か繰り返して次第に、
治療者って忘れられていくような存在でもあるのかなっていう。
シジックも心理療法の集結って決して最終的なものではないとも書いてるんですよね。
ユングの言葉を引いて重要な問題は解決されるっていうより、成長して乗り越えられていくものだと。
ある意味この同じ問題を螺旋のように何度も巡りながら、
その度に少し高いところで扱えるようになると。
問題がなくなるんじゃなくて、問題との関係性が変わっていくんだよと。
57:03
だから親御さんが戻ってこられるのは後戻りじゃないんですよね。
螺旋の一周なんだっていうふうに思うわけなんですけど。
なんかね、私個人としては明確な分断とか急がけな変化って、
意外にも長続きしないようにもちょっと感じてたりして。
劇的に何かが変わったっていう面接よりも、
あたかも自然になっていくようなプロセスの中で、いつのまにか取り込まれてて、
気づいたら必要を感じなくなってる。
そういう歩みのほうが、その人が生きていく力になっていくんじゃないかっていう、
そんな実感があって、さっきの煮え切らない一文が結構好きだったりするんですけど。
ステジックも、変化には自然なリズムがあって、
意識は有機的に染み込んでいく必要があるって書いてあるところもあるんですよ。
作業機の中で書いてあって。
ただここで思うことは、患者さんの方は治療者を忘れていく。
それでいいし、そうなっていくべきなのかもしれないんですけど。
でも治療者の方はどうなんだろうかって向けてみると、
ステジックはね、これは親であることとは違うんだけど、
離れて見送るとか、手放しの感じっていうのが親に少し似てるっていうのも書いてあったりするんですよね。
ただその後連絡取ることも、再び会うこともないっていう点が違うんだけど、
よく長かったクライアントさんとか、私自身もふと思うことがあるんですけど、
あの子今どうしてるのかなとか。
思うね。
あの方は今も音楽続けてるのかなとか、
なんかふと思うことがあるんですよね。
なんかそれって、
個人というか亡くなった人への思いに近いものもあったりするのかな。
なんか思いを馳せるっていうかね、
時折思い出す感じ。
でも思い出すっていうことは、
その人が私の中で死んでいなくて、
生き続けてるっていうことでもあるのかなっていう。
それもある意味で内在化って言えるのかなと。
患者さんの中に治療者が織り込まれていくように、
1:00:00
治療者の中にもその人が残っていくっていうかね。
終わりは一つの死だけど、
でも死はある意味で生でもあるっていう、
生と死のそういうメタファーも感じたりするんですけど、
そんなふうに思ったりするんですけど。
で、この最後に、
治療がうまくいったとき、
患者は長く続く感謝を抱くとも書いています。
何年も経って、
治療者との時間を振り返って本当に助けられたっていう、
言うかもしれないと。
なんとなくね、
皆さんも心理師とか聞いていらっしゃる方もね、
どの学派にもかかわらず、
こういうことって感じるんじゃないでしょうかっていう、
そんなふうにちょっと最後の章は思ったりもしたんですけど、
どうですかね、終わりって。
やっぱりまあ、独特な感じはありますよね。
うん。
こっちもね、ずっと会ってた人。
心理療法とか、感染医とか別にいいんですけど、
結構ですね、長いと本当数年会ってくる人とかもいるんでね。
そうだよね。
やっぱりその人と本当に、
金輪際会わなくなるわけなので、
結構な悲しみというか、悲しみっていうか、
気持ちは湧いてくるし、
クランさんもどういう気持ちでいるかわからないけども、
けどやっぱり、なんていうのかな、
我々がずっとクランさんの心の中の大半を占めるってのはやっぱり違う気がするというか、
クランさんは日常をね、
どれなりにうまくというか、それなりにスムーズに過ごせることが大事だと思うし、
それには我々っていうのはあんまり大きい地位を占めないというかね。
でも一方で、なんかあった、うまくいかなくなった時に、
我々のことだったり、あるいは我々と話したことの一部が思い出されたりとか、
そういう意味では確かに、織り込まれてる感じっていうか。
そうなんだよね。
なんか無意識までいかないけど、ちょっと頑張って意識したら思い出せるよね。
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領域にはいるのかなとは思うけど。
イメージで言うと、僕は自転車の運転を思い浮かべてて、
最初はやっぱり補助輪つけたりとか、後ろを親が持ってとか、人に走っていって、
でもだんだん手を離して走れるようになったりとか。
最初の方は乗ってる方も後ろ振り向いたりしてとかやっていくんだけど、
だんだん体に馴染んで走れるようになると、もう後ろも振り向かないし、手助けも必要ないし、
どんどん前に進んでいけるんだけど。
ふとした時に、そういえば一緒に自転車の練習してくれたなとか。
そういう時に普段はほとんど思い出さないし、
下手したら一生その場面は思い出さないかもしれないんだけど。
そういうふとした時に出てきた。
確かに。
やっぱりその人が自分で考えて生きていける力っていうのが、最終的に残るっていうことが何よりも大切なことではあるから。
治療者のことを忘れ去られても、その力だけが生き続けてくれるといいなと思いながら。
あれですかね、これもうちょうど終結の話だったから、
そろそろ終わりの方に話をしていきたいかなと思うんですけど。
今日は第1部、第2部と第4章をちょっと2回に分けてお話をしてきました。
私自身が持ってきたもの、話したことっていうのは、治療者は親にはなれない。
だから枠っていう船に2人で乗って、そして降りた後も船も治療者も忘れられてくるけど、
残るのはその人が自分で考えていったり生きていく力っていうのが残っていく、
そういうプロセスがあるんじゃないのかなっていうふうに思いました。
はい。
アイさんはどうですか、全体通していかがでしたかね。
全体通してじゃないですけど、やっぱり終結の話したからかやっぱりしんみりしてますね。
ちょっとね、いろいろ話しながら思い出しちゃったりしている自分もいました。
治療がうまくいったときに、長く続く感謝を抱くってクライアントだったり患者側が思うって書いてあったけど、
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治療者側も感謝してるところあるんじゃないかなと思うんですよね。
そうだね、そういうときもあるね。
やっぱり治療者側が率先して、ある意味課題に向き合っていく姿勢を見せる部分もあるんだけど、
でもどこかで支えられてる部分もあったりして、
やっぱり船っていう、一緒に乗って乗り越えていく感じっていうのがね、
やっぱりメタファーとしてすごく合致してるのかななんていうのが、ちょっと今日最後に思ったところでございます。
でも次からある話もちょっとポップアップか。
今日までは結構何年もわたって、前と合いで翻訳をしてきたもので、
何か形に残したいっていうので、かなりマニアックなニッチな内容ではあったと思うんですけど、
ちょっと最後までお話をしたかったので、何回にわたったのかな。5回か。
5回にわたって、瀬尋一くんの話をしてきましたけれども、
また次回にはちょっと内容が変わっていたり、ちょっと違う内容にも触れていきたいと思っております。
深層心理ラジオ、今日はこのあたりで、お相手は前藤愛でした。
またありがとうございます。また会いましょう。
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