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『ユング派心理療法入門 ー治療的関係性ー』デイヴィッド セジウィック(3))
2026-10-19 1:14:35

『ユング派心理療法入門 ー治療的関係性ー』デイヴィッド セジウィック(3))

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今回は第三章の紹介です。

今回は

情動の科学(錬金術)、転移・逆転移や、アレキサンダーの修正情動体験をセジウィック流に解釈したことについて話しています。

今回も臨床的な話をしています。

感想

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サマリー

MaeとIが、デイヴィッド・セジウィック『ユング派の心理療法入門―治療的関係性』第3章を読み、治療者と患者の関係をめぐるユング派の考えを臨床例とともに語る。ユングの錬金術的イメージは、二人の無意識が混ざり合い、治療者も関係の内部に参加することを示す一方、象徴主義の難解さがユング派心理療法の敷居を高くしたというセジウィックの批判も紹介される。転移・逆転移については、過去の反復だけでなく、現在の関係性と治療者側の反応を扱う重要性が論じられ、治療者自身の傷や防衛を自覚し管理することが治療に関わると説明される。さらに、傷ついた治療者の原型、アスクレピオスとケイローン、関与した逆転移が取り上げられ、治療者と患者が親密さや傷つきやすさを含む関係に実際に関与することが変化の媒体になると語られる。後半では、アレキサンダーの修正情動体験とセジウィックの考えを比較し、治療者が役割を演じるのではなく、実際に巻き込まれながら関係を切らずに続けることの意味が検討される。話者は、患者の怒りを受けて見捨てたい気持ちを抱きつつ面接を継続した臨床経験を例に、すれ違いや決裂の危機を含む関係だからこそ生じる変容があると振り返る。最後に、第3章は心理療法における癒しと変容の働きを考える中心的な章だとまとめ、第4章へ進む。

第3章と心理的錬金術
今日も深層心理ラジオの時間がやってまいりました。話題はMaeとIでお送りいたします。
それでは、Iさん、よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今日は、前回と引き続き、セジウィックの著作である、『ユング派の心理療法入門 ー治療的関係性』という著作についてお話をしていきたいと思います。
前回は、第2章を中心に、心理療法と分析の違い、創造的無意識、それから心理的観戦について話してきました。
今日は、第3章に入ってくるわけなんですけど、治療的関係性、基本と概要という章の題名なんですけど、この本の副題そのものが章の名前になってる、そんな章に入っていきたいと思います。
ざっとですけど、なんとなくこの浄土の科学っていう部分に触れて、そのあと逆転移と修正浄土体験というトピックについてお話をしていきたいと思います。
最初の章がですね、浄土の科学っていう、第3章の最初の節が浄土の科学というネーミングがついてるんですけど、ユングの有名な一節から始まります。
1929年の文章なんですけど、「二つの人格が出会うことは、二つの化学物質を混ぜ合わせるようなものだ。少しでも融合が起これば、両方が変容する。」そういった文章から始まるんですけど、
セジュエックによれば、そもそも節の浄土の科学に括弧して心理的錬金術というふうにも書いてあるんですけど、セジュエックによればユングは治療のプロセスをつかむために科学よりももっと象徴的なものを必要と
した、それが錬金術で、
これがユングの心理療法の根本的な比喩となったと言っています。
その具体的な錬金術書っていうのがですね、1550年の哲学者のバラエン。またこのすごい古いものなんですけど、しかも木版画なんですよね。
で、この本文にはこの図の説明があって、王と女王が出会う。服を脱ぐ。浴槽に入る。交わって一つの体になる。浴槽が棺になる。魂が天に昇り、梅雨が降り、魂が戻ってくる。最後に両聖武勇の姿になって変容が終わ
る。
で、ユングはこの一連の図をですね、治療者と患者の無意識が混ざり合うプロセスとして読んだわけです。
これはあれですよね、天移の心理学っていうユングの本を読むと図が見られたりイメージしやすくなりますよね。
日本だと題名がね、天移の心理学っていう本で、結構ね難しい本ではあるんですけど。
難しいの質がね、中世の雰囲気っていう難しさで、哲学的に難しいというよりかは、出てくるワードとか。
そうだね。出てくるワードだったり、耳慣れないというかね。
順番で言えば。
錬金術の心理だけ、心理学の錬金術。
ありますよね。ユングが錬金術について書いた本。
そうですよね。
それ読んだ後に天移の心理学なのかな。
確か。日本語名なんだったかな。
ちょっと調べておきます。
確か序文にも、その本を読んだ上で、天移の心理学っていうのが、読まないと理解ができないっていう、そういった流れもある本だったりするんですけど。
心理学と錬金術ですね。
心理学と錬金術。これもすごい分厚い本で。
2冊だね。
そう、2冊だったと思う。すごい読むのに苦労した記憶があるんですけど。
錬金術イメージへの批判と豊かな全体性
鉄学者のバラ円っていうのが、何を表しているのかっていうと、錬金術自身が窯に入ってて、浴槽というかね。
錬金術って、非金属を金に変える、そういうやつだけど、図版は金の材料だけじゃなくて、錬金術師と助手の混ざり合う無意識が材料に投影されたものというふうにユングは解釈して。
だから錬金術師っていうのは科学者の原型というより、心理療法家とか医師とかの、そういった先駆者だったんじゃないかっていうふうに捉えていて、
この過程をですね、理解していくっていうことが、治療者と患者の無意識が混ざり合うプロセスを理解していく一つの方法なんじゃないかと。
そして非常に大事なのが、治療者が一緒に入ってるっていうことがですね、どういうことを意味するかといえば、治療者は外から観察する人ではないっていう。
一緒に入るっていうことが大事なんだよっていうプロセスも示してると、そういった主張もあるのかなっていうのが、このバラエのですね、このイメージなんですけど。
ここでセジリックがまたすごいこと言うわけですよ。セジリック自身はユング派の分析家なんですけど、厳しいことを相当書いてるんですね、ここで。
どんなことを書いてるかと言うと、この錬金術のイメージは本当に難解だと。
木版画は素朴で誇りっぽくて、中世美術館の部屋に舞い浴び込んだようだと。
そしてユングは自分の足を打ったと。
治療的関係性について示唆の富む発見を臨床的な解明を深めることによってではなく、精妙な象徴主義によって追いかけてしまった。
さらに続けてですね、これが分析心理学が臨床の世界で無名であることの一員になって、
さらに比喩にはまり込むと経験から離れて純粋に美的な立場に流れていく危険がある。
それはユング自身が警告していた罠だったはずなんじゃないかと。
うん。
結構言ってますよね。
結構言ってるんですよね。
まあ乱暴にね。
さっき俺が言った、転用心理学の難しさってのはまさに、さっき言ってくれたような中世の美術館に舞い込んだようだね。
そうなんだよね。
それが臨床例っていうよりかは本当に象徴主義的に研究されてて、じゃあ実際臨床はどうなのかっていうのはあんまりね。
そうなんだよね。
確かに。
ここまでの流れをね、なんとなく聞いてたり読んだりしてると、
笑いの図版なんて臨床の何の役に立つのかと言ってるように聞こえるわけですよね。
でもここまでこの辺を読んで、個人的にはいろいろちょっと言いたいことがあったりはするんですけど。
さっきもね、この図版が中心に描かれてるユングの著作って、日本語では転用心理学っていう題で読めるわけですけど、
この本は確かに自読では難解で、
序文にユング自身がですね、初学者ではなくある程度経験を持った読者を想定してるっていうふうにまで書いてあったりするんですけど、
ただ様々な体験とか臨床の経験を得て開くと、違った見え方をする本でもあって、
例えばケースで行き詰まってるときに立ち替えると、前には読めなかった一節が読めたり、何でも立ち替えることのできる本だったりするんですよね。
私自身としてはその中心にあるのが、その誇りっぽい図版のイメージの豊かさかなっていうふうにも思ってたりします。
合理性の観点から言っちゃえばですよね。あんな図に意味があんのかっていう主張にはなるんでしょうけど、それ自体はよく理解できるんですけど、
ただ何かを伝えるっていうときに、二つ方法が、手段としては合理性に則って、そぎ落として必要な部分だけ見せる方法と、
もう一つはノイズを乗せたまま伝える方法があると思うんですけど、どっちがいいかってすごい難しいところなんですけど、
日本人は、っていうか日本語ってどちらかというと、校舎がとても得意な文化圏なんじゃないかなと思うんですけどね。
結構曖昧って言われますよね、その言葉が。
曖昧。そう、曖昧だったりとか、多義的だったりとか、なかなかパッと思いつくものがないけど、例えば夏目漱石のね、「月が綺麗ですね。」みたいなね。
I love you?
I love youみたいな、誰かに気持ちを伝えるのに、月が綺麗ですねっていう。
好きだとは言ってないけど、でも月と夜と隣にいるっていうことを全部乗っかってたりとかね。
あとは、今ここに古事記の本があるんですけど、
えーって聞かないでください。
ちょっとまとまって。
で、スサノオの歌とかもあるわけですよ。ある歌詞なんですけど、
あーって何を言うのかわかってんのかな。
いや確かにでもその俳句とかってかなり曖昧だなと思ってる。その歌もそうだけど。
うん、俳句とか歌とかね。
そうだね、と。
うん、そうそうそう。
まあなんか、役も立つ。
いつもや絵描き妻込みに、や絵描き作る、そのや絵描きをとかってね。
かもしれないけど、ただただ妻のために家を建てたっていう歌ではあるんですけど、
でもヤマタノオルチの使徒を得た上で、この妻を守り抜くっていう決意だったり、
この、俳句も立つこの自然な、いつもの自然を見てる情景とか、まあ日常が戻ってくるみたいなね。
まあそういうのが情報としては、何を伝えてるのかってほとんどノイズなのかもしれないし、
まさにこの話をしてること自体がノイズなのかもしれないけど。
まあでも、こういう歌とか、豊かなイメージとかが感情を伝えようとしてるそのものと一緒に、
豊かに乗っかってるって思うんですよね。
で、個人的にはその全体の方に、心っていうものをすごく感じるというか、
心っていう問題とか、心っていう存在って、
そぎ落とした先なんじゃなくて、そぎ落とした先にも心はあるのかもしれないけど、
余分に見えるものを全部乗せた全体の中でようやく表現できるんじゃないか。
まあそれ言ってみれば、関係性だって同じことなんじゃないかと。
治療的関係を必要な要素だけにそぎ落として語ることが本当にそもそもできるのか。
そういう問題もあるし、バラへの図がこう言おうとしてるのは、
そぎ落とせない全体のことなんじゃないかっていうことも思ったりするんですよね。
そういうことをいろいろ思ったりして、ちょっと引っかかるところもあったりするんですけど、
でも全体を読んでいくと、後編のために言っておくと、
セジック自身もこの図鑑を完全に捨ててるわけじゃなくて、
彼は治療効果を説明しようとする努力はどれも自然的に否定的だっていうことも認めてますし、
この章の終わり近くには、治療者と患者の無意識が混ざり合う領域を語るところで、
結局あの図に戻ってくるとも言ってるんですよね。
この一連のイメージは難解さを別にすればほとんどのものより優れてると書いてある。
ただ、この中性の薄暗い光を通り抜けたりすれば。
あとやっぱり、
ユムの研究が臨床じゃなかったってのは大きいんじゃないですかね。
象徴主義でやったっていうところで、
たぶんセジックはどっちかっていうと実践の人な感じがね。
そうだね。
臨床でやってるってことにすごくプライドも感じるというか、
そういうのが文章に伝わってくるんですよね。
実用的な保険っていう記述からも、
実務的にユング派の心理療法が機能するためにはっていう視点もあったりする。
一方で、やっぱりユング派だから、合理性、非合理性、
そういうことを双方的に言ったり来たりしてるっていうところもちょっと見え隠れてたりして。
要はこの批判っていうのはどういうことかっていうと、
中身じゃなくて入り口の高さなんじゃないかっていうふうに感じたりする。
彼が批判してるのは。
入り口の高さ。
入り口の高さ。
やっぱり巷に広がらない、身近なものにならなかったというのは、
そういった敷居の高さをこういう象徴主義が生み出してるっていう事実。
そういうところがあるかなと思うし。
転移の心理学は素晴らしい本なんですけど、何度も立ち返る人ってあんまり聞いたことないわけです。
今でも忘れない臨床心理師の二次試験の面接でですね、
愛読書は何ですかと言われてですね、私は転移の心理学と述べたんです。
変わってますねと。
わかるんですかとか言われるぐらい難しい本ではあるので、
やっぱり事実としてはこういう街もたり広がらないっていうのも事実としてあるかなと。
あれですか。
その面接とか読んでたんですかね、転移の心理学。わかるんですかって聞いたってことは。
そうだね、多分読んでたんですよね。
多分ね、ちょっとお年を召してる方だったので、
もしかしたら結構力動的な感覚を持ってる先生だったのかなと思うんですけど、
なかなか難しいよねみたいな、転移の心理学ってみたいな。
難しいことも知ってたので、読んだことあるんだなって。
そういう経験者でもちょっと難しいなって思うような本でもあるんですけど。
こんな通列な批判をする中でも、
政治学が繰り返し、この説からは離れますけど、
これは重要だって言い続けてるような原型があったりするんですけど、
それが第二章にも書いてあった、傷ついた治療者原型なのかなと思うんですけど、
どうですかね、この傷ついた治療者原型でもいいですし、
アイさんのバトンタッチで今ざっとばっと喋っちゃいましたけど。
そうですね。
ちょっとこう、多少前回も話したことなんですけど、
転移と逆転移、現在の関係性
この章に転移の話が出てくるんですよね。
まず今前さんが話してくれたようなユング派の転移の話じゃなくて、
フロイトの精神分析で言われるような転移の話が出てきて、
要はフロイトのいう転移っていうのは反復なわけですよね。
同じことが繰り返されるっていう反復。
同じことっていうのはクライアントと定義的に言えばその人にとって重要だった他者、
一番有名なのは、有名というか分かりやすいのは親とか。
親とクライアントさんとの関係の中で起きてたことが、
面接室で事業者とクライアントさんの関係者の中で生じると。
これを転移っていったり、あるいは転移神経症っていうふうに言われたりしますね。
この転移神経症っていうのを、
治療者とクライアントさんとの関係の中でやり直すっていうのが精神分析のやり方で。
昔は治療者が会社を越して、クライアントさんというか患者が理解をしていくっていうような一社心理学だったんですけど、
だんだんそういう二人の治療者と患者の関係性からやっていくっていう、
二社心理学になっていたっていうような感じですけど。
一個重要なのが、本文で言うとプロジェクションホックスっていう、
訳すと東映のすり針。
要はクックとかホックみたいな、わかります?
衣類とかかかるみたいな。そういうのがあるっていう話で、
これは何のことかっていうと、プロイトとかはね、
患者が東映をするためには背景が白くないといけないっていう。
プロジェクターのイメージしてもらえればわかりますよね。
白いとこに映すから画像がよく見えるみたいなイメージだったけど、
その辺がやっぱり二社心理学になってくると、やっぱりそういうホックがあるから
引っかかるみたいな考え方が出てきて、
要はブランクスクリーンに例えばだけど帽子とかを投げても引っかかんないじゃないですか。
そういうのが引っかかるためにはフックとかホックが必要だっていう話ですよね。
それは何かっていうと、治療者側がホックだったりフックだったりするわけですよね。
要は中立で何もないのではなくて、何か引っかかるものを持ってるから東映されるんだって、
そういう考えが出てきたっていう感じですね。
もう一つ大事なのが、フロイトの考えは、当時は過去の関係性は明らかにしていくっていうところなんですけど、
さっき言ったように今は治療者と患者の関係性の中でやり直していくみたいな話が出ていて、
それがどういうことかというと、確かに起きていることは過去の反復かもしれないんだけど、とはいえ今は今だっていうような話であって、
せじり君ちょっと正確な文言じゃないけど、もし過去の関係性が本当に今ここで起こっていると考えるのであれば、それは幻想であるみたいな。
今の関係性は今の関係性に過ぎないみたいなことを言ってて、確かにそうだなみたいな。
つまり何が言いたいかというと、過去の関係性も大事だし、今の関係性も大事だよねみたいなことを、ユング派というか、せじり君なのかな、ユング派でいいのかな、考えるということを言ってて。
フロイトはやっぱり、今の青春文学的には違うと思うんですけど、フロイトの時代はやっぱり過去に還元していくっていう還元主義って言われるけど、
ユング派はどっちかというと過去も今も含めた人間全体を考えるっていうところで、全体性ってところですよね。
これはさっきまえさんが話してくれたところがちょっと近いのかなと思うんですけど。
ちょっと被るようなところもね、あったりするっていうことだよね。
フロイト派は、フロイトが転移神経症っていう考えをもたらして、
昔の葛藤、親とか重要な他者との葛藤が治療者との関係の中で新しいスタイルというか形として現れてくる。
それに対してユングがもたらしたのは、出来事への治療者の参加っていうか、そういったところでもあったりするのかなと思うんですけど。
まあ現在考えるって意味はそうかもね。
中立性みたいなところも話しあったけど、
昔は治療者は何にも貫かれない存在で、
そういった自明だとされてきた理想像をひっくり返すような感じで。
結構ユング派って逆転移も重視するけど。
現代の精神分析も逆転移はかなり重要視したり。
どっかのラジオで言ったと思うけど、
ピティコットが1950年代ぐらいに逆転移の憎しみを発表して、
それぐらいの時にユングとかマーガレットリトルとかも、
そういう逆転移の重要性っていうのかな。
言い始めた頃だった気がするから、その辺からちょっと変わってきたっていうか、言い出す人が出てきたのかなって感じですけど。
そうですね。精神分析でも結構そういうのが議論されてきて、
今は、前は逆転移の議論ってそれをどうやって取り除くかっていうところだったけど、
逆に今はそれをどうやってそこに入り込んできて、そこから何かを得るのかっていうような話題になってるってことなのかな。
逆転を自覚するとかって感じですね。自分の問題をなくすっていうよりかは、自覚して対処できるみたいな。
どうぞどうぞ。
いやいやいや。素朴に逆転移とか、そういった種類があるのかなみたいな。
ちょっとそこは後で話します。
もうちょっと先にあれですかね。
結構ね、話すことあるかも。
どうぞどうぞ語っちゃってください。
ちょっとその後に、精神分析は両親との関係に神経症の原因があるっていうふうに考えるんだけど、
ユングフォーはどっちかっていうとそういう原因だけじゃなくて、何のために神経症が起きてるかみたいな、
ちょっと未来思考的というか、何のためにこういう症状が出てるのかみたいな話があって、
で、セジックが書いてたのは、ユングフォーの考えっていうのは、両親のイメージ、これも両親コンプレックスっていうふうに言ってもいいらしいんだけど、
これってのは原型のエネルギーが関係してるんだっていう話で、
要は原型的なエネルギーっていうのがその両親イメージを刺激しているんだっていうことを書いてるらしくて、
これはちょっと珍しくというか、理論的な話らしいんだけど、
ただセジックはとはいえ、フロイト理論が当たってるのか、ユングの理論が当たってるのかじゃなくて、
患者本人が主観的に何をどう見ているのかが大事だっていうことを言ってて、
これはすごい納得というか、こっちの理論をクライアントさんに当てはめるんじゃなくて、
クライアントさんに合う理論とか考え方みたいなのを見ていくみたいな、
すごい臨床的というかね、実践ではそうだなって感じの話をしてたのと、
あとこれも言われてみるとそうだなって思ったんだけど、ちょっとそのまま引用しますね。
より一般的なユング派の視点では、幼少期のルーツそれ自体の解釈より重要な、
現在の転移逆転移の場に不知される葛藤の重要性を強調するかもしれません。
と言っていて、僕なりにこれをさらに解釈すると、
なぜこの治療者である私とクライアントであるあなたとの関係の中で、
このような転移だったり投影だったり葛藤が起きているのか、
ユング派的に言うとそういう葛藤とか転移とか投影が不知されているのか、
っていうのが大事なんじゃないかって言われていて、
これはなんか確かにそうだなっていう、
言っちゃえばなぜこの場であなたと私の関係でこれが起きているのかみたいな、
これはなんか面白いなと思ったんですけど、
これはごめんなさい、ユングの考えなのかな。
政治家、そういう不知の話も大事だけど、
結局やっぱり逆転移が大事なんだと。
この逆転移ってのは前回も話したように感染、インフェクションか、
インフェクションだっけ、が大事だっていう話をしてて、
要はこっから逆転移が大事だよって論調になってくるんですけど、
傷ついた治療者と関係の中の傷
ここで最初のほうは、やっぱり患者の病気が治療者に感染してくるから、
治療者はそれを引き受けなきゃいけないと。
そのためには常に感染されてくるわけだから、
感染されてきたものを点検する必要がある。
要は自分で自分を精査するというか、
そういうのが必要だっていう、
治療者が健康である理由を述べてるんですけど、
ただ一方で治療者の傷が癒しをもたらすことがあるっていう話もしていて、
ここでさっき出てきた傷ついた治療者って話が、
来てくるんですけど、
これも難しいですよね。
ユング派らしいというか、矛盾を固定するというかね。
健康でもあるんだけど、傷ついてる必要もあるっていう。
そうなんだよね。
治療者自身の傷つきが癒す力の尺度だよとかね。
ユング自身は言ってたりしますけど。
ここ大事で、割とあんまりユングとかに触れないけど、
傷ついた治療者っていう言葉だけ知ってる方ってのは、
いなくはないかなと思うんですけど、
やっぱ大事なのは、
患者との関係で治療者が傷つくことが大事って言っていて、
だからこう、
例えば昔不登校でしたとか、精神疾患持ってますとか、
親に厄介されてましたとか、
そういうもともと傷を持ってる人が、
持ってることが大事ってことではない。
あくまで面接場面で、
治療者と患者関係で治療者が傷つくことが大事って言ってるので、
ここはちょっと注意が必要というか、
誤解されやすいとこかなと思うんですけど。
今ここでの関係だったりとか、
起きてる関係性の中での傷。
実際にこの傷っていうのは、面接の中で起きたことで、
またそれをどう、
テラピストがどういう形で受け取るのか、
どう対応するのかっていうこと自体が、
とても大切なところなのかなって、
聞いてて思ったんですけど。
そうですね。精神力は心理療法の目標とか目的として、
目的でいいのかな。スタンスなのかな。
利用すると、心理療法において最終的な問題は通常、
患者が治療者を完璧に圧倒するようになるかどうかではなく、
正念場であったり、治療者が不快であったりするときに、
治療者が絶え間なく、患者にオープンでいられるかどうかです。
傷つくことを恐れるのではなく、傷ついて、
なお、相続けるというかね、患者にオープンでいられるかってところが大事だし、
それが関係性の間で傷つくっていうことなんですけど、
最初に言ったのは、ブッケンビュール・クレイグかな。この傷ついた治療者原型。
ユングも多分、傷ついた治療者自体には研究してるんだけど、
理論というか原型としてやってきたのは、ブッケンビュール・クレイグだったかな。
これが、この傷ついた治療者のイメージがどこから来てるかというと、
ギリシャ神話なのかな。
アスクレピオスという医療の神様がいて、
このアスクレピオスという人は、ケンタウロス族のケイローンという人に育てられて、
そのケイローンから癒しの技術というのを教わるんですけど、
ケイローン自身も治ることない傷を持っていると。
アスクレピオスも傷を持つようになるということで。
ちょっと詳細は省くんですけど、傷ついたりしていく中で、
癒しの力とか技術をアスクレピオスっていうのは身につけていって、
ここからアイデアが来てるっていう話ですかね。
この辺は、セジックの本読めるかは、さっき言ったように、
ブッケンビュール・クレイグの本だったりとかね。
でも治らない傷を持つのは師匠の方だっていうね。
で、弟子は師匠を蘇らせて、ジェウスの雷に打たれるんですけど。
殺されるけど復活するみたいな。
復活するみたいな。
直接治らない傷を持っているのは師匠の方っていうのはね。
さっきの言った、過去の傷。
昔太っ子だったとか、そういう傷があるっていうこととは、
なんかその辺でちょっと通ずるようなところがあるのかなって今ちょっと連想してたんですけど。
たしかに、ケイロンとアスクリピウスの関係性みたいなのも面白いかもしれないですけど。
そこに入っていくと、それこそスティーマの渦に入ってっちゃう。
これはあれですよね。
心理両方の光と影だけかな。
日本語で言うと、ブッケンビュール・クレイグの。
に多分書かれているので、本当に傷ついた治療者、
ないしは傷ついた治療者原型が気になる方はその本を読んでもらっていればなと思いますけど。
逆転移を治療的に扱う
さっきセジュイックの言葉を引用していて、
その治療者とクライアントとの関係性において、
心を開いているっていうことをおっしゃってましたけど、
その開いてるっていうことと、逆転移っていうのもまたつながってくるところなのかなっていうふうにも感じるんですけど。
その開いてるっていうだけだと、
何のこっちゃわからないけど、逆転移の種類っていうのがまた、
自分がどういう心の動きをしているのかっていうことを捉える技術としても、
結構役立ってくるんじゃないのかなっていうこの逆転移の知見っていうのが。
そうですね。
やっぱり、さっき言ったフロイトの最初の方の中立性とか、
最初の方の技法っていうのは、逆転を取り除くとか、
治療者側が逆転をなくすとか、どっちかっていうと、
外科モデルですよね。
だから、そういう意味ではオープンな関係性っていうよりかは、
治療される人、治療する人みたいなのがある中で、
やっぱりだんだんそういう逆転移の重要性っていうのが出てきたりとかしてくると、
どうもやっぱり技術的なやり方では難しい、クローズとのやり方では難しいでなってきて、
だんだんオープンになっていかざるを得なくなったと。
一方でそうなると、治療者側も傷つきたくないから防衛的になったり。
防衛的になるっていうのはクローズドになっていくってことだと思うんですけど。
クローズドになっていくっていうのに気づくとしたら、逆転移としては、
この神経症的逆転移とか、そういう概念が役に立ってくるのかな。
ちょっとその辺の話に移ると、逆転移の種類もいくつかあって、
一つは逆転移神経症っていうのがあるんですよね。
逆転移神経症っていうのはどっちかっていうと、
患者と治療者の関係の中で治療者が感じる逆転移っていうのが、
わりかし効果的というか意味があるというか、
要はそのクライアントとの関係の中で起きてる逆転移のことを、
逆転移神経症。
言ってしまえば、さっき言った転移神経症ってさっき説明しましたよね。
患者が過去の関係性を治療者との関係に持ってくるみたいな。
それに治療者側が乗っかるって言ったらだけど、
入っていった。
これが逆転移神経症っていうもので、
一方で、用語が難しいんですけど、神経症的逆転移っていうのがあるんですよね。
この辺が混乱しますよね。
神経症的逆転移っていうのは、
どっちかっていうと、治療者側の要因で起きる逆転移みたいな。
例えば、お父さんとの関係性にまだ決着がついてない治療者が、
クライアントにお父さんを見ちゃって、
治療者のお父さんとの関係性をクライアントさんとやっちゃうみたいな。
どっちかっていうと、治療者の側の病的な逆転移が神経症的逆転移。
逆転移神経症はもうちょっと、
今ここでやり直されるべきっていうか、大事な逆転移みたいな。
そういうとこになってきます。
神経症的逆転移が、セジュイックがどんなふうに言ってるかというと、
治療者の感内や感情をきっかけに動き出す。
でもそれは患者とは関係がない。
治療者自身のコンプレックスが患者に向かって転移されてる。
言い換えれば、治療者のほうが患者に無意識の転移を起こしてるっていう。
治療者側のね。
治療者が共感を保てなくなったり。
見てるものが相手っていうか、自分の中にあったりして。
治療者側の中に問題があるというかね。
コンプレックスが刺激されてとか。
そうするとね。
これは正直、我々の役が良くないのか、僕の読みが良くないのかわかんないですけど、
先に言うと間違ってるかもしれないけど、僕が役を読み直した感じだと、
セジックはこの神経症で被逆転、要は治療者側の要因で起きる逆転にね。
もう、しかし一時的に発生することは心理療法の確信に非常に近く、
患者の神経を引き受けるということと関連しています。書いてあって。
ここがね、怪しいというか、本当にセジックが言ってるのか、
ちょっと役にミスがあって起きてるのかわかんないんだけど。
ここは自分の中ではどう捉えたかっていうと、
神経症的逆転医と有用な逆転医っていうのは、
次々続きにあって、要は有用な逆転医に代わり得るんじゃないかっていうことなのかなと思うんですよね。
そう考えると、途中で治療者と患者が会っていると、
治療者の病になるっていうふうに語られると思うんですけど、
それってある意味、こういった神経症的逆転医の状態っていうのは、
ある意味、必ずと言っていいかわからない、ないときもあるかもしれないけど、
プロセスとして得る過程があるんじゃないかと。
なるほど。
そしてこれが有用な逆転医に、気づいて自分で取り組むことによって代わり得るっていうふうにセジックって言ってるのかなって、
ちょっと捉えたんですよね。
僕も近いことを思って、僕がこれを読んで思ったのは、
結局神経症的逆転医ってのは、治療者側の課題とか問題が関係してるわけですよね。
それが一時的に発生するってなったときに、自分で考えるわけじゃないですか。
要は治療者側も自分の問題に取り組んでるっていう状況が起きるわけですよね。
それってでもクライアントがやってることと一緒ですよね、自分の問題に取り組むっていう。
そうだよね。
お互いに自分の問題に取り組むっていう姿勢自体が大事だったり、
その後にセジックが書いてるのが、このように鍵となる要因は治療者が自分自身の感情を管理できるか、
そして自分自身をコンティニューできるかどうかですって書いてあるので、
やっぱりそういう自分の逆転的なものが問題として起きたときも、それをちゃんと管理できたりコンティニューできる。
だから面接に出しすぎないというか、自分で抱えていられるかみたいな。
アクティングアウトするんじゃなくて、治療者が自分で取り組むことができるかどうかっていうことが、
それを有用なものに変え得るかどうかっていうところの鍵ですかね。
そう捉えると、自分の中ではそういった逆転の中にも、
そういった状態になる、自分がある意味神経症的な患者によって刺激されて、コンプレックスが刺激されて、
共感がため持てなくなって、患者と同じような状況になって、そこで自分は気づいてそれをアクティングアウトせずに、自分で取り組むという方法論をある意味で持ってる。
そのこと自体が、取り組むっていうことを患者に見せるってこと自体も治療的なのかもしれないし。
そうですね。そういう話をたぶん瀬尻君はしてるんじゃないかなっていう気もするし。
さっきの話とも重なるんですけど、おそらく瀬尻君にとっては、逆転神経症だろうが神経症的逆転だろうが、理論上どっちでもいいと思うんですよね。
要はちゃんとそれを起きたことを自分で治療者が自分で管理できるか、コンティニできるか、どうかって言えば臨床面接場面が大事だってことを言いたいんだろうなっていう。
その後治療的な逆転医はどういうものかって話が出てくるんだけど。
人生は心を痛めることをなくすのではなく、より管理できるようになる。大事なことであって。
治療的関係性を通して治療的なワークをすることは、転移された患者の病気を生き抜き徹底的に分析することを含みます。
分析するってのはたぶん自分、治療者自身がってことも含めてね。
自分自身を理解していき、患者によって生み出された自分自身の傷に取り組むことによって患者の癒しが達成されます。
これが患者に転移されたとか、感染、移された病気を治療者自身が生き抜いたり、その傷に取り組むことで患者が癒されていくっていうような話で。
この辺は前もちょっと話したけど、精神分析のSARSの考え方に近いのかなっていうところですけど。
この治療的逆転移っていうのと、またこの説でいうと治療的な転移スラッシュ逆転移みたいな、よく転移関係みたいな。
治療的逆転移はどちらかというと治療者の中に起きるものだけど、
またこの転移逆転移関係で見るものもあるのかなと思うんですけど。
本文では治療者は白紙ではありません。
自分の自己を連れて面接室に来ると。
二人の人間と二つの無意識がある。
治療者は心理的な意味で傷ついた、傷を持っていて、人生はすでに傷ついていて、患者によってまた傷つけられる。
そしてこの二人の傷が無意識の中で混ざり合っていくと。
そういった混ざり合っていって、それに対処していくっていうのが、この治療的な転移逆転移関係。
っていうふうに捉えることができるのかなという。
それがさっき前さんが話してた転移の心理学に出てくるのは図版に近いですよね。
二つのものが混ざり合ってっていうところだったり。
この全体のことを、この姿勢というか、
このこと自体はあれなのかな。
やっぱりセジュイックの造語で言ってる、関与した逆転移ってことにもつながってくるんでしょうかね。
そう思うけどね。急に自信なくなるけど。
そういうことだと思うんだけど。
そういうことなのかなと思うんですよね。
関与した逆転移と修正情動体験
本文ではこの関与した逆転移っていうのも、そういう造語が出てきて。
インヴォルメントだっけ。
エンゲージドだっけ。
エンゲージド・カウンターファランス。
セジュイックは言ってるのが、患者と治療者がお互いにしっかりと噛み合った地点のことです。
無意識のつながりが出来上がって、二人が巻き込まれている状態。
彼自身が書いてるけど、
エンゲージメントとインヴォルメントといった言葉は、どれも親密さのイメージを持ってる。
治療関係は極端に親密で、だから親密さにつきものの敏感さ、傷つきやすさ、危険を伴う。
その中でなぜわざわざインヴォルメントとカウンターファランス、逆転移のほうを強調するのかというと、
患者の転移は抵抗があっても自動的に関与してくる。
転移関係によると。
それが治療の前提としてある。
けど問題は治療者の側も関与するかどうかっていうことだっていうふうに言ってるんですよね。
治療者の逆転移がある意味で関与しない限り、
治療的関係性の癒しの力っていうのは動き出さない、働き出さない。
というふうにも解釈できるのかなというふうに思うんですけど。
そこから続いてきて、親しくなるとその人の親密さの型が現れてくる。
関与した関係の中で現れたからこそ、それは修復されると。
関与した関係そのものが変化の媒体になる。
この造語がこれからまた入っていく修正浄土体験のものの、
そういう体験の非常に重要な土台になってると思うんですね。
この関与した逆転移っていうのがね。
この修正浄土体験っていうのは、本文にもありますけども、
もともとは精神分析家のアレキサンダーっていう人の概念で、
本文に書いてあったのは、
心理療法を短くし改良する努力であるアレキサンダーの理論、修正浄土体験やテクニックは、
治療者の中立性を諦め分析家による役割演技を店員や会釈の記写化へと急に方向転換するように思えたので、
フロイトとかは批判的だ。フロイトって当時の人たちは批判的だったっていうふうに書いてるので。
今のことを簡単に、おまかに言うと、
患者が過去に扱い切れなかった浄土的な状況に、今度は好ましい条件のもとでもう一度晒されること。
それが治療的に働くっていう考えが、このアレキサンダーとフレンチだったかな。
フレンチ。
フレンチが提唱したっていうふうに言われていて、
アレキサンダーが例として出してるのはレミゼラブルっていうやつありますよね。
ビクトール融合の、日本語だとアーム状とかですね。
アーム状とかの。
ジャンバルジャンの例を挙げたっていうふうに言われていて、銀の食器を盗んだんですね、彼が。
司教はそれを咎めずに許したと。
それまでの世間から受けてきた扱いとは全く違う応答に出会って、彼は変わるみたいな。
そういう例を出してるんですけど、ただ当時これがすごく批判されたんですよね。
さっきも愛さんが言ってくれたんですけど、古典的な精神分析が前世だった時代にこの考えは非常に批判されたんです。
治療者が中立性を捨てて役割を演じることになるわけですよね。
もう中立性どころじゃないと。
それは転移と解釈を薄めてしまうんじゃないかっていうふうにすごく批判されたんです。
患者が予想してるのと、わざと逆の態度を取るっていうことまで戦略的に含んでて、
その関係自体が不自然で戦略的すぎるっていうふうにも見られていたし、
正当派にとってはこの人を変えるっていうこと自体、あまりよく見られてなかったっていうふうに言われていたりします。
ただこのセジュイックは、ここからセジックの話をしていくと、
本文ではユング派の心理療法は解釈の陣営にいたことはないって言っていて、
ユングは還元的な分析に批判的で、心理療法は統合的であるべきだと。
そしてユング派の心理療法が強調するのはただの修正浄土体験ではない。
治療者が感情的に酸化する変容をもとらす浄土体験だと。
だから治療者も患者も何らかの仕方で変わる。
同じ仕方、同じ程度ではないにしても。
また本文に、さっきの還元しながらの逆転医は修正浄土体験に対する少し次元と視点を表している。
統合は解釈によってではなく治療的関係性への癒しの酸化を通じて達成される。
治療の手こがかかるのは解釈よりも浄土の方だと。
ここは重要なんかなと思うんですけど、演じてみせるのではなく酸化する。
言葉にするとこれだけの違いなんですけど、
でもこの違いには何を意味するのかってどうですかね。
私も経験上の話でしかこれを話せないんですけど、
でも何かこういう経験ってないですか。
こういう経験?
要は演じてみせるっていうテクニック上の関わりじゃなくて、酸化するっていうのはね。
怒りと決裂を含む臨床経験
一応ポッドキャストで配信されてるから細かくは言えないんですけど、
自分の経験から話をするとですよ。
あいさんよく知ってると思うんですけど、
私自身はクライアントに怒りをぶつけられることがよくあるわけですよ。
これはこっちが理解できてないからなのか、相手を傷つけてしまうことがあるわけです。
それは私自身の不得手のせいなのかもしれませんけど、
ただそういうすれ違いとか、いわば決裂を思わせるような出来事が起きて、
それでもなお面接が続いて、お互いにその溝を埋めていく、あるいは乗り越えていく。
そうすることで、より豊かな変容が起きることがあるっていうのは、
それはなんとなく私は経験的に知ってるわけですよね。
細部は言えないですけど、なんとなくイメージして話しますけど、
ある方、その方はずっと感情を抑えてきた人でした。
怒りを表に出したときは、相手との関係が切れてしまう。
そういうことを繰り返してきた人だったんですけど、
私はその方を怒らせてしまったんですね。
後から考えると、私はその方が感情を抑えてるっていうことを理解してなかったんですよ、そもそもね。
面接は順調にいってると思ってたんです。
つまり、相手を軽く見てたんですね。
おそらく私はその方がそれまで周りの人たちと繰り返してきた関係を、
面接の中でそのまま再演しちゃったんですよね。
今日の話で反復されたってことですね。
反復されたと。
どこかで私はね、それに気づいてた部分もあったと思います。
怒りを向けられたとき、私の中に悲しさがあったんですよ。
そしてそれと一緒に見捨ててやりたいっていう気持ちもすごい浮かび上がってきたんですよね。
でも、怒りを向けられても関係を切らずに面接を続けたんですけど、
それがその方にとって意味のあることだったらしいんですね。
この中で起きた冗談の日々とか、いろいろもっとあるんですけど、
でもね、ざっとした流れとしてはこういうことなんですけど、
世辞を読み返すと、いくつかのことで今の経験と重なるところがあって、
順調だと思って相手を軽く見ていたっていうのは、
さっきの神経症的逆転移の微妙な形だったのかもしれないなって、
繋がりを見失ってたのに気づかなかった。
そして見捨ててやりたいっていう気持ち、あれは私の気持ちであると同時に、
その方がこれまで怒りを出すたびに相手の中で呼び起こしてきたものだったんじゃないかと。
セリウィックの言う患者は、その現実を治療者の中に呼び起こすっていうことを言ってますけど、
そう考えると、このアレキサンダーとの違いっていうのが私には少しわかる気がするんですよね。
私が見捨てない人を演じたわけじゃないんですよ。
実際に見捨ててやりたいって気持ちがあったわけですから。
実際に巻き込まれてて、でもその上で関係を切らなかった。
もし自分が最初から何にも感じずに穏やかに受け止めて見せただけ、
そういう予定調和として振る舞うことをしていたら、
同じことが起きたかどうかっていうのが私にはわかんないわけですね。
最終的にうまくいったんですけど、
関与した関係の中で扱われたからこそ、修復されたんじゃないかっていう、
セリウィックの言葉でもあるんですけど、
そういう自分のケースを考えながら、
この浄土大権というアレキサンダーとセリウィックの観点の違いっていうのは、
関与した関係の中で修復されるっていうことが意味があるので。
だから最初にノイズの話しましたけど、
すれ違いとか決裂とか、面接にとってはノイズだったりするけど、
ないほうがいいに決まってるんですけど、
私もね、心がざわついたりしないんで。
わざと起こしてるわけじゃないわけですよね。
でもそれをきれいにそぎ落とした面接では、
起きなかった変容があるんじゃないかなっていうふうに、
私は思ってたりするんですけど。
なるほどね。
ちょっとそんな体験を思い出したりもしてたんですけど。
経験的にそういう役割を演じるだけだったら、
それこそAIとの関係だって、
AIなんて完全に役割を演じてるわけじゃないですか。
そういうものとある意味、役割を演じてしまうと変わらないわけだけど、
でもAIが相手が何か言われたときに、
本当に冗談的に何か思ってないのと、
治療者が本当に感じているっていう質的な違いだったりとか、
非常に質の問題に関わるところだったりもすると思うんですけど、
それがセジュウィックの言ってる修正常動体験なんじゃないのかなと。
変容常動体験?
修正常動体験。
修正常動体験。
変容?
変容常動体験って言いたいんじゃなかったっけ。
変容常動体験かな。
アレキサンダーの修正常動体験そんなに僕は勉強してるわけじゃないから、
何とも言えないとこはあるけど、
第3章のまとめ
確かに修正ってなると片方が修正し、正しくしてるって感じだけど、
どっちかっていうとやっぱりセジが関与していくというかね、
どっちかが直すとかっていうよりかは、
お互いに混ざり合って変容していくみたいな、
そういうイメージの人なんだろうなって感じで。
ここまで話していくってことで始まったので、
そろそろ締めのほうに入っていきたいと思うんですけど、
終わり方がどうも慣れないっすね。
ここまで話すの。
確か第3章自体がこの修正常動体験で終わってて、
次は第4章に入っていくってことですよね。
今日はなんとなく最初に錬金術の図版の話から入って、
セジがユンガーポケットを掘ったっていうと言っていたけど、
それがユンガーの身近にならなかったという結果になっていたりとか、
あとは愛さんが逆転移の話だったり、
傷ついた治療者っていう話から修正常動体験まで話をしてきました。
結構難しい話ではあったかなと思うんですけど、
結構重要な章なんじゃないかなと思うんですよね。
結構重要な章で、心理療法の変容だったり、
癒しをもたらす働きについての話というか、動きっていうか。
そういうのが今日ざっと全体を通して話してきたところなんじゃないのかなというふうに思います。
ユングっぽい話もあったし、分析との接点というか、
そういうのもあったりとか、わりと面白い章だと思うけどね。
やっぱり中心的な章だったのかなというふうに思います。
次は第4章で、これで最終章に入っていくということになりますので、
じゃあ今日はこのあたりで終わりたいかなと思いますけど、いいですか。
はい。
じゃあ今日はありがとうございました。
ありがとうございました。
01:14:35

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