1. シンの木工家ラジオ
  2. #68 全共闘運動からバブル、..
2024-05-04 52:17

#68 全共闘運動からバブル、そして令和まで。木工家第一世代が語る木工家と時代。

木工マニア度 ★★★★☆
谷進一郎氏ゲスト回(1/2)。
木工家第一世代の視点から見た木工家が生まれた時代背景や木工ブーム、といった木工家の歴史を語っていただきました。全共闘運動、バブル、そして令和まで。木工家第一世代が見てきた世界を語っていただきました。
東京で展示をすると20万円もする椅子に追加注文の赤いシールが1ダースになっちゃうなんて、もはや現代では信じられないです。

谷さんの今後の活動↓
国展 (kokuten.com)工芸部
◆ 開催日:2024年5月1日(水)~13日(月)◆ 会 場:国立新美術館(六本木)◆ 時 間:午前10時~午後6時

木工家ウィークNAGOYA (woodworkers.jp)毎年6月初旬に全国各地から多くの木工家が名古屋に集い展示やワークショップなどを開催します。
会 期:2024年6月7日(金)〜6月9日(日)※企画ごとに会期が異なります。今後決定する企画により会期が前後する場合があります。会 場:名古屋市内各所

オンライン木工家フォーラム - YouTubeチャンネル
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松本家具での修業
松本民芸生活館における若者の生活
日本の高度成長と環境問題
量産と職人の手作り
大量消費と環境問題
仕事の始まりと民芸家具
木工を考える会と若手の悩み
木工展示会と活動拡大
バブル経済期の展覧会について
展示会の効果と費用
個別のスタイルとオーダーメイド
木工ブーム
卒業生の独立と修業後の方向性
結局、人間性
編み物椅子の制作と販売
仏壇の制作
注文の増加と地方からの需要
かつて自分が作った家具のリペアや新しい使い手をつなぐ仕事も

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00:03
みなさん、こんにちは。シンの木工家ラジオ始まりました。この番組は、シンの木工家になりたい、かぐやの花太郎と、アルバイトのこーぐちくんがお送りする、木工バラエティーです。こんにちは。
こんにちは。
背筋がシャンとしてますね。
今日はね、シャンとしちゃいますね。
ちょっと何かと音も違うなと思った方は、ヘビーリスナーさんですけども、今日はちょっとあるところにお邪魔してるんですよね。
はい、そうです。
ちょっとこーぐちくんからいいですか。
実はですね、長野県は小物に来ておりまして、今回はゲスト会を収録しております。
で、ゲストはなんと、谷慎一郎さんにゲストで来ていただきました。
よろしくお願いします。
こーぐちくんの師匠的な人ですかね。
いや、なんか僕は別に弟子入りはしてないんですけど。
でもなんか木工塾か何かで。
あ、そうでしたね。1年間木工科育成講座っていうのを谷さんがやられてた時に僕参加させていただきまして。
で、月1ぐらいでしたかね。
そうですね。
縁で言うと8回とかですかね。
7回ぐらいかな。
春から秋までっていう感じでね。
冬はちょっとね、この辺も雪が凝ったりすると危ないんで。
県内だけじゃなくてね、もう東京とか遠い人はね、関西からも参加したりする。
で、その時すでにこーぐちくん、うちの工房にバイトに来てくれてたので、谷さんのところで得た情報をまた僕がこーぐちくんから輸入する形で。
横流しして。
横流しして聞いて、機械の整備のことでちょっとこれ聞いてきてよとかっていう。
やってましたね。
今日テーマ何でしょう。
今日はですね、木工科って何?木工科大〇〇世代とかって聞くと思いますけど。
この番組のリスナーさんだんだんですね、裾野が広がってきた感がありまして。
木工界隈じゃない方もリスナー増えてきたので、木工科っていう単語を聞き馴染みない方が増えてきて。
一回その我々の木工科像みたいなの話したじゃないですか。木工科ってこういう人かなどうだったかなみたいな話しましたよね。
ただ我々の木工科像の認識がもしかしたら曖昧かも。ふんわりしすぎなのではみたいなのもちょっと僕ら、特に僕ですけどちょっと感じていて。
その木工科第一世代と言われる人たちにちょっとちゃんと聞いた方がいいかなっていう。
あとはなんか僕もこの仕事をやり始めて、もうちょっとちゃんと木工科の歴史学びたいなっていうふうに思ってて。
流れをたどるとわかることもあるかもしれないっていう感じですよね。
真の木工科ラジオっていう名前つけてるのに、我々がこのラジオで走ってる話ってもうすでに過去にされてた議論なのではっていうのもなんかちょっとあって。
ちゃんとなんか系統立ててというか、なんか知りたいなっていうのを最近感じていたので。
そうなったら聞くのは谷さんしかいないと思う。
今日は再構築というかやってみようということで。
03:02
一回じゃあ谷さんのご経歴から紹介させていただきます。
谷信一郎さん、1947年生まれの東京都出身で武蔵野美術大学で家具デザインを学び、松本民芸家具にて木工修行された後工房を開き、創作と注文による木の家具作りを始められました。
1975年に現在工房のある小室へ移転されまして、個展とかグループ展で作品を発表されて家庭画法や密接などの雑誌にも紹介されております。
講談書より教長の俺の椅子を作るを出版されています。現在は国画工芸部の幹員で国展観戦員をされており、新春文工会会長を務められておりますという、とても花々しい経歴の方ですけれども。
武蔵美で家具デザインをお勉強なさって。
そうですね。
だからデザインの勉強されてすぐ松本の方に来られたんですか。
一応新卒で入られたってことなんですか。
ここで言うとあれですけど、武蔵美は4年間いたんですけど、私たちの世代は歴史的に言うと大学紛争。もっと細かく言うと全共闘世代。
私は4年間武蔵美にはいたんですけど、後半はもう学業とか学内での問題もありましたけど、いわゆる全共闘の真っ只中で東大や日大ほどの激しいのはなかったんですけど、
バリケードで封鎖して、それを機動隊が入って排除されたりとかいう経歴があって、その辺からもう学校はろくに行かないで、4年間はいたんですけど来なくていいと言われて。
そうだったんですね。
今はもう残ってないんですけど、機関銀河っていう雑誌がありまして、それはこだわりのある機関紙が出てたんですよ。
その中に松本の特集があったんだ、その記事がね。その中に民芸家具では大学生が職人修行してるみたいな紹介があって、その機関銀河を私が見てたっていうよりは私の母親とか姉がこういうのがあるよと言われて、
じゃあ行ってみようかっていうので、松本家具に修行に行ったというか。
松本民芸家具の説明を一応しておきますと、長野県にあるとても有所正しいと言いますか、歴史ある家具の会社と言いますか。
そうですね、民芸と言えばという。
みたいなところですね。
昔ながらのデザインとか、重厚な色使いとかデザインで今もやってるという。
今もそうですね。我々のような野良の人たちはおらないところですけど。
で、大学卒業されて松本に修行。
そうです。
松本民芸にはどれくらいいらっしゃったんですか。
主観的には3年ちょっとぐらいですかね。
なんか聞くところによると松本民芸の修行はすごく厳しいという話を聞くんですけど。
今はちょっと状況も変わってるようですけど、当時は大学出てこういうことやりたいっていう人も来たりとか、逆に中学出て職人修行したいっていう人とか。
06:06
民芸家具もブームと言っちゃあれですけど、全国の高島屋でね、手伝いがもう頻繁にあってとか言っても、手はいくらでもあればいいっていう状況でもあったみたいで。
創業者の池田三志郎さんという方が、民芸の考えに基づいて松本の木工を起こそうという。
それには従来のタンスとかシャテングじゃなく、洋風な暮らしになっていくから洋家具を松本に起こそうというんで、戦後作られた事業なんですけど。
我々行った頃はそうやって雑誌にも出始めて、もう大変なブームで、全国からまた若い人たちが集まってきたっていうふうなことだったんで。
池田三志郎さんの木工だけじゃなくて焼き物やら民芸品をたくさん集められたんですけど、それの資料館が松本民芸生活館っていう。
今も建物が残ってますけど、そこに若い人たちを寮として住まわせて、そこで民芸を感じてもらいたいというか、そういう場でもあったんですよね。
そういう感じだったんです。それいいですね。
素晴らしい世界のウィンザーチェアとかそういうものの名品をどんどん集めて、資料館としても使えながら、朝早く6時に太鼓で起こされて、それから食事前に一通り全部それを拭き掃除するというか。
磨いてというか拭き掃除して。
拭きながら中には400年も500年も経った木工品なんかもあるんですから、そこからその歴史を感じるというか、私はもうほっとりといたというか、自分が感じたものを50年もずっと活かしているというような感じになってますよね。
でも今民芸って要の美という感じですけども、やっぱりちょっと鑑賞用じゃないですけども、見て美術品みたいな感じになっちゃってますけど、でもきちんと生活の中で一緒に共に過ごして。
そうですね。資料館ですから中にはもちろん食事もイタリアの大きな修道院で使ったテーブルかなんかでみんなで食事をするとかね、そういう暮らしを体験させてもらったわけですけど。
また何か大学とは違った学びの場という。
そうですね。だからその武蔵美は家具デザインを一応勉強したんですけど、あくまでもやっぱりデザイナーを育成する教育機関なんで、私も武蔵美に在学中も自分がデザインするのに現場を知った方がいてて、静岡の家具メーカーに夏休み体験させてもらったりとかってことはしてたんですけど、
そうこうしてる時に全京都大学補佐になった時に、その頃で言うとそれこそベトナム反戦とかそういうテーマもあったんですけど、我々からすると自分が作ったものが大量生産されて、ある名は大量消費が、使い捨てというふうなことがあってものが動いていくというふうな、それがイギリスにされてた。
1968年、9年、70年ですから、70年万博ってのがあって、日本の高度成長の一番の華やかな時代である面、その裏では今で言う環境問題ですよね。だから当時で言うと公害って言って、高度成長の裏で様々な歪みというか被害というかが出てた時代なんですよ。
09:18
だから大量生産、大量消費で自分に引き付けた時に自分がこれからそういうデザインをしていくのはやはり量産を前提とした仕事になりますから、果たしてそれがものづくりとしていいのかどうかっていうのをちょうど考えてはいた時期なんです。
人間関係では使い捨てじゃなく、一人の職人が責任を持ってそのものづくりをするというスタイルでやってるっていうね。じゃあそれを経験したいなというのがあったから、なおのことはそこの関係で出かけたんですね。
あの谷さんがそうやって修行された時代って先ほどおっしゃってたみたいに、中学から出てある意味ちょっとデジ的な働き方と、大学出てデザインを学んでそうやって手も動かしたいっていう人も共存してて、周りに谷さんみたいにデザインを勉強して手もまた動かすみたいな方って多くいたんですか?
松本界隈ではそういうでも思考は全体的にあったんじゃないですかね。流れというか。なるほど。なんか教科書で勉強しただけでバリケード封鎖とか。
私はその時のむさびでのバリケードの体験とかいうのが本当に今に至るまでずっと形を変えてつながってるっていうことでもあるし、そこで大量生産、大量消費じゃないものづくりを何か感じるんじゃないかっていうふうなものが、それがそのままずっと今に至るまでつながってるっていうことですね。
その谷さんの大量消費とかに対する考えは松本に耳に入られて、よりちょっと固まってきたような感じだったんですか?手を動かしたい。
そうですよね。だからその時代には既に時代遅れという。それこそ大量生産、大量消費することがいいことで、そうやって手作りで使い続けられるものを作るなんていうのは時代遅れだという方に、世間的には言われてて、そんな古臭いこととか過去のやり方だよって言われてたものがそういうふうにこれでいいのかっていうふうな見直しをするような人たちが徐々に出てきて、
やっぱり環境問題というかその当時でいう公害みたいなものを、こんなに人に命にかかるような問題までになるっていうと、果たしてそういうふうなあり方がいいのかどうかっていうふうなものを徐々に考える人が増えてきたと思います。
そうなんですね。ちなみに松本民芸で修行されて、すぐ即立というかご自身で始められたような感じなんですか、そのお仕事として。
細かく言うと、私東京の出身なんで、東京の方に戻って自分で考えたものを作りたいなと思ってはいたんですけど、都内には場所も資金もないですから、とりあえず中古でよく言われる木工の手押し自動消防板を書くのみというのは中古家具屋さんで頼んで、その頃で10万で1式みたいなのがすぐあったんですけど、
12:13
場所がないっていうんで、東京ではなかなか見つからないし、場所があっても電気はね、酸素の200ボルトを使うから家庭用ではダメだと。
一回埼玉で始めて、埼玉の農場をやってる方がね、深澤志次郎っていう作家がいたんですよ。その人が農場をやってて、民芸家具のお客さんで、その深澤さんのところへ行って自分で始めようと思うんですけど。
じゃあみそ蔵があるから、そこ使ったらいいよとか言われて、白いところにね。
素敵ですね、みそ蔵。
機械を貸してもらって、ようやくこれで始められるかと思って、次に行ったら、谷君ちょっと周りから苦情が来てね、こんなところで工房始められちゃ困るって言って。
そうなんですね。
周り全部田んぼに囲まれてて、近所のお家って離れてるんだけど、それこそやっぱりここだけ何百つもあるから農園圏だとかして、みんな革残育をしてるところで、工房なんかできたらその価値が下がると言うんで、こんなところで始められちゃ困るっていうことを言われたらしくて。
それから困って、またさらに知り合いでね、群馬の沼田で知らぬ知り合いにいらしたんで、そこでようやくちょうど建物工場の横の財務工具場で使ってる場所があるから、そこでやったらどうかと。
ただ2年間は無償で貸してあげるから、その代わりその2年のうちに次の場所を探してっていう条件でね。
で、ようやく今そこに立ってますけど、トツモのプレハブとそこに立てて、中古の機械を予約して始めたっていうのが1973年かな。
この小物を見つけた経緯としてはどんな感じだったんですか。
それで今言ったようにその2年間で次の場所を探してって言われて、私としてもやっぱり都会の人間なんで新州、爽やか新州のイメージがあるから。
松本で修行したってこともあるし、どっかいいとこないかなと。長野県って新潟の方に寄ると雪が多いからもう大変だなと。
かといって町の中じゃね、せっかく長野県に新州らしいところに来たのに、ちょっとねっていう感じで。
で、やっぱり人づけに色々こういうことを探してるんだけどって言ってたら、この今自分がいるところの住吉さんっていうか農家のおじさんを紹介してくれる人もいて、
で、訪ねてきて、じゃあ裏のところを使うかって言われて、ここに豚小屋っていうかね、建てたんですよ。
ここ豚小屋が建てたところなんですか。
で、2月ぐらいだったんですけど、町からもね、近からず遠から、東京にも小物っていうともう軽井沢からね、東京の方に出やすいんで。
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まだ東京には実家もありましたから、東京通り行ったり来たりすることもね、行きやすいっていうね。
ほとんどはそれ以来50年経ちますけど、変わらないですね、環境的にはね。多少別荘が増えたっていう感じで。
ちょうどその、だからここで始められたのが、いくつぐらいの時?
それですか、28?
20代の後半ぐらいのことですかね。
で、ここで始められて。で、ちなみにお仕事っていうのは、開業当初から結構あったんですか。
それこそ群馬で始めた時に、もう始めたって言っても誰も知らないんで、それこそ実家のね、棚作ったりとかしてて。
やっぱりその民芸家具はいいわねっていうのが、ちょうど雑誌やら何やらでも言われてる時期だったんで。
やっぱりその人捨てに、東京の神田寺のそれこそ民芸品のお店かなんかで、喫茶店を始めたいっていう話があって。
で、民芸家具に頼むより同じようなものができるんだなっていうんで。
家具と棚を作ったのが、本格的な仕事の最初かな。
で、そしたらそこのお店に出入りしてる人たちが、これいいじゃないって言われて。
次々とその周辺のお客さんがこういうのを頼めるなら、で、本家よりも少し安くできるならみたいな感じで頼まれて作るようになった。
そうか。だからまあその趣味の合う方たちがその喫茶店に出入りしてるので、いろいろとそこから繋がっていって。
そうですね。
お仕事に繋がっていったという。
なんかこう、いろいろ谷さんの活動の中で木工会って読むんですか?これ。
そうですね。正式には木工を考える会。
木工を考える会。
木工の字がね、考えるっていう字を使ってますからね。
これは始められてすぐくらい?もう少し経ってからくらいの?
始めてから自分でやっている中で、私長野県にもその頃はいたんですけど、
東京の方で同じくらいの全体の人たちで木工関係の、まだ修行してるとか自分で工房を始めたとかいう人が集まる会がスタートしてたんですよね。
スタートしてたんですね。
もう亡くなりましたけど、秋岡芳生さんって言ってね、デザイナーでもあり、その頃でもご自身で木工に関する本も書かれてるし、
実際に自分の目黒のお家には工房というかドマっていうかね、あったりとかで木工に関していろいろ関心のある方がいて、
その方は今も続いてますけど、東京の中野にモノモノっていうね、秋岡さんの考えを今に活かしている事務所があったりして、
そこを会場に使わせてもらって、そういう東京周辺の木工をやってる20代くらいの方たちが毎月一回集まってみようというふうなことを始めてたんですね。
ちなみに20代の若手の木工関係者の悩みというか、話の種というか、どんな内容だったんですか。
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やっぱりどうやって食べていこうかとかね。
で、集まれば情報交換で、この道具どこで買ったのとか、そういうコミュニケーションの場ではあったと思いますしね。
それはもう時代を越えてというか、不変のテーマですね。
不変のテーマということですね。
食えるか食えないか。
あと、どうやって効率化していくには、この道具どうだっただったという。
ほぼ皆さんね、集まればね。
そういう話ですね。
だから都内で修行中の人とかね、独立というか、それこそそのメンバーの中には宇都田健二さんですね。
今も工芸の人間工房になってますけど、彼はおじいさんの代からやっぱり江戸刺し物をやってて、
自分がこういう時代に伝統的なものづくりを、刺し物をやってていいんだろうかっていうぐらいの悩みもあったみたいですから。
そうなんですね。
そうやって何代目かの刺し物をやってる方も、そういう悩みを持ちながら。
やっぱり同じ全共闘世代でいえば、工房ってね、障がい者のための道具づくりをしてる工房が練馬にあって、
タクノさんとミツノさん。ミツノさんは今も健在でいますし、タクノさんはその後亡くなっちゃったんですけど、
その会の世話人的な役目で毎月黙々という手書きの通信をみんなに発送して、
今度の会はこういうテーマでこういう人が集まるよみたいなことをやったり、あるいは集まった後、その時にはこういう話題になったとかっていうのをしたり。
その通信の中でやっぱり道具屋さんがこういうところに行ってるとか、トレバがここに買いに行ってるとかっていうようなものを情報をみんな出し合ったりとか、
あるいはこんな木工関係の本があるよっていうのを出したりして、私も書かれるようになって、
私も毎月それに合わせて東京に仕事も絡めて行こうかっていう感じで参加するようになったんですね。
その会はどれくらい続いたんですか?
5年ぐらいは続いてたかなと思いますね。
なんかそういった会で話してて、だいたい割と話してるうちにそれぞれ忙しくなってきたりとか、へなしくれるようになってきたりとか。
そういう面ももちろんありますね。
私なんか心がきた時はやっぱり民間の関係の知り合った人で一緒にやってた人もいたりとか、
全く一人ではなかったんですけど、一旦一人に戻った時期でもあったんで、そういうところで互いの情報交換をしたりとか、
また集まってる中で一緒に手高やろうかっていうふうなこともあって、その会に集まってた人たちで、
一応プロを目指す人が半分ぐらい、あとアマチュアで木工をやってるって人が半分ぐらいで、
80人で木工展を東京の池袋のパールの会場を使ってやったんですよ。
結構30人って大状態じゃないですか。
そうですね。それはでもね、ちょうどまだ珍しいというか、マスコミでも取り上げてくれたんで、
21:06
4,000人とかなんか人が来てね、すごかったんですよ。
私もその頃自分で作ったものを持って行って出展したりして、
その頃いろんな形で徐々にその新聞とか、いわゆるマスコミで、
こんな展覧会があったとか、こういう活動をしてるとかっていうふうなのが広まってきて、
後で聞くとなんか、うちの奥さんもその展覧会なんかで見てみたとかね。
そうですか。
だから関心ある人は、今こういうことをやる人がいるんだっていう感じで、
須田さんなんかは須田さんでね、伝統的なものを作ったりとか、いろんなものが出てましたから。
で、さっきのデッコブルは障害者の人のための木の椅子とか、
それこそ寝たきりでいる子どもたちでもそういう状態の人がいる。
それを体を起こして食事が取りやすいようにするとかっていうようなものを、
木でやると一人一人の状態に合わせてオーダーできるっていうので、
今は木はあんまり彼らは使ってないみたいですけど、
そういういろんなさまざまな人が出てきて。
時代的にはそういう活動を始めて、
消費者側としては大量消費とか大量生産に対してちょっと違うんじゃないっていうのも、
うちら消費者側にも出てきた時代も相まって、やっぱり4,000人とかっていうお客さんが来てくれたりとか。
でしょうね。我々も、だからもうただ作ったものっていうよりは、
秋岡芳生さん自身もね、昔で言えばそういうものを集められるってことが結構あったのが、
もう大量生産大量消費の時代になって消えてたのを、
また一人一人の暮らしに合わせて集められるっていうのも考えたらいいんじゃないのっていうふうに秋岡さんも考えた時代なんで、
我々も作ったものを売るっていうだけじゃなくて、お客さんのいろんな細かな要望に合わせて、
注文で作るっていうことも自分のやり方の一つ、作り方の一つとしてはあったって。
その会は結構その後も続いたり大きくなったりしてたんですか?
うん。だから例えば展覧会自体は、最初の80年のパルコは半分は趣味でやってる。
プロでやっていこうって人たちがグループになって、銀座でやったりなんかしながら10人、15人でやって、
その中からさらに続けようって人が徐々に残って、5、6人になった時点で木の仕事展っていうのをやめて、
木の管理展っていうのの名称に変えて、それから30数年毎年東京で続けてましたね。
30数年。すごい。
そうですね。よく続いたかなと思うんですけど。
その5、6人になっている頃にちょうど1990年ぐらいになりますから、10年経っていわゆるバブルの時期になって。
24:00
やっと僕ら生まれたかな。
ぐらいですかね。
僕が1985年生まれなので。
僕は91年なのでバブル後期ですけど。
その時は東京の八重洲のギャラリーっていうか路面なんですけど、
東京駅と高島屋の間のギャラリーで40坪ぐらいのところで5、6人で出してたんですけど、
もう人がもうぎっしりっていうか。
40坪に結構5、6人って結構な大きさですよね。
出すものもあれですけど、お客さんの方が結構来て、真っ直ぐ歩けないほど人が入って、
私のその頃の代表作っていうか、見物椅子っていう椅子があるんですけど、
その椅子をその当時出してたら、もう次々と注文が、大体20万ぐらいの椅子なんですけど、
もう1回シール1ダンスぐらいになっちゃって。
いや僕ね、この後ちょっと下鞘の話なんですけど、ちょっとその辺の話も聞こうかなと思ったら谷さん自ら。
その展覧会、30年続いたっていうのは、そこで例えば他のメンバーの方もね、
1年分の注文を取るぐらいな感じになったみたいですから。
やっぱその出すとか、そこで展示会する労力よりメリットというか、そういうのも結構あったっていうことですかね。
やっぱり1回出すのに、東京の方はいないんですけど、長野あたりと、
愛知の井崎さんと、岩手の岩泉寺郡工業さんと、東京は野崎さんでやってる人が参加してたんですけど、
岩手から来るんだって何十万かの費用が東京に滞在するんで、
われわれも発券費としては30万ぐらいが自分の体重にかかるから、会場費もありますから、
それでも100万、200万ぐらい売れればっていう感じでしたね。
素晴らしいですね。
すごい時代ですね。
もう今では考えられないような。
やっぱお客さんも、今でもお金持ってるお客さんもたくさんいるんですけど、
勢いが全然違ったっていうことなんですかね。
お客さんの消費者側の熱気もすごかったってことですかね。
特にまたね、そういういわゆるデパートや家具店なんかで売ってる、いわゆる量産的なものとは違って、
一人一人のスタイルもありますし、またその中にはそれをオーダーでね、さっきのあつらいじゃないですけど、
自分の暮らしに合わせて、今はね、いわゆるメーカーでもそのサイズもいろいろオーダーできますよみたいな感じでやってますけど、
やっぱりその頃は本当にメーカーの頃はいかにも量産したっていう感じの、
テーブルで言えばデコラバリみたいなものがあったりとかするのに、
無垢の木を使ってサイズもお家に合わせてオーダーしますみたいな感じだと、
本当に喜んでっていうか、客層もちょうどいたんですよね。
その時代で言うと、後輩とかその下から志す人みたいなのも結構いたんですか?
ですからそれだけ、さっきの80年代の4000人来たりとか、
27:05
次にあった時には注目されると、当然マスコミで取り上げ、それを今度は雑誌等でも取り上げみたいな感じになってきますから、
ちょうど木工ブームという風なことも言われた時代なんです。
こういうウッディーライフとかね、手作り木工辞典とかっていうのが出てくると、
これを見て、こういうやり方をしたりとかこういう生き方をしてる人がいるんだっていうのを見てまた次の世代が。
それこそ、自分もサラリーマンやってるけど、もともとこういうのが好きだったんだよねって言って、この世界に入ってくる人たちが出てきた。
そうなんですね。だから都会で少し息苦しい思いをしながら働かれてる方とか、
やっぱりこんな選択肢もあったんだって思った人が、そうやって心出したりとかっていうことなんですね。
いい言葉だと思いますよ。
だから第二世代っていうと言えば、そういう第一世代の動きを見て、
自分もこういうふうにやろうと思った人たちが、言ってみれば第二世代なのかなっていう感じはしますね。
なるほど。
今ね、谷さんの手元にはかなり重要な書籍というか参考資料が。
いっぱい山積みされておりますが。
だから都会から移住してくるとか地方に、ローカルなところに移住してくるとかっていう動きもあったんですか?
そうですね。特に木工所っていうのは、木工機械をね。
漢字で作ると思うと機械使いますから。
そうするとどの都とその環境が田舎っていうか地方に移してくるのが。
向いてますよね。
中にはもちろんね、都会でやるのがいいんだよって地下でやってた人もいたみたいですけど。
そういう方もいないんですね。
そういう人は逆に珍しいというか、いろんな環境。
例えば長野県も高速道路がつながったりとか、そういうふうなことでどこかに出やすくなるとか。
荷物なんかも従来に比べて宅急便みたいなのが出てきて送らせるとか。
材料も産地じゃないとなかなか揃わなかったものがその後どんどん手に入るようになったりとか。
地方でやることも産地にこだわらずにやることもやりやすくなったっていう面も当然あります。
そういう動きがあったんですね。
地方でやっててもいろんな情報なり物なりが少し手に入りやすくなってきたりとかっていう。
さっき言った長野県と高速がつながったっていうのは。
こちらで言うと関西通道につながったっていうのがね、長野オリンピックが1988年でしたっけ。
それに目指して新幹線も北美高速道路もどんどんつながっていったりっていうようなこともありましたから。
なおさら都会との行き来は。
私なんか自分で初めてね、やっぱり首都圏の方がお客さんとしてはその頃で言うと8割型首都圏の人でしたから。
それと東京都どう行き来するかっていう問題はあった。
30:04
いやいやいやそんなブームがあったとは。
僕らも生きてはいるんですけど。
もう幼すぎてよくわからないですね。
おそらく第二世代か第三世代の話を聞くと、やっぱりその雑誌とかではログハウスと地方の移住と木の仕事っていうののその3つの組み合わせと言いますか。
ブームがあってそういうのに憧れてこの業界に入ったんだみたいな方はいらっしゃいましたね。
小口くんね、直に聞いてきたもんね。
この間聞いてきました。
谷さんを直にそういう雑誌とかメディアで見かけてすごいと思っていたと。
すごいかどうか。
ただこういうふうにやってる人がいるんだということは一般の雑誌やら特にウディライフとかそういう手作りもこじてみたいなので専門的な雑誌にも出てました。
谷さんはその中でも一番最初にそういう系の雑誌じゃなくて家庭画法とかそっち系の雑誌に取り上げられた一番最初の人ですごかったんだよっていう話を。
僕は初めて会った時にサインをもらおうかすごい悩んだんだけど緊張しすぎて言い出せなかったっていうことを言ってらっしゃいましたね。
だからその世代からしてみたら第3世代第4世代ぐらいですか話聞いて。
第2世代第3世代ぐらいかな。
その方が第何世代ぐらいなのかはちょっとわかんないんですけど。
でもまあおそらく。
だからそれを直に見てた方ってことですよね。
たぶん。
うちもだから一人でねやってた時期が86年ぐらいまでかな。
その後誰かやっぱり仕事をねちょっとテーブル一つでも大きいのになっちゃうと一人で動かせないしみたいなね。
誰かいないかなって言ってそれこそ訓練校なんかに声かけて東京から来てもらった人が最初でそれが86年ぐらいかな。
その後は雑誌とかで見た人でやりたいんですけどって人が訪れてくるし。
うちも最初に入ってもらったスタッフも5年ぐらいで自分で始めたいって言うと今度は代わりに入ってもらうって言って。
今現在はねもう誰もスタッフは全部訴中してもらったんですけど。
うちもまあその頃で言って1年分ぐらいの受注がある時期ですからそれをこなしてきながら自分で作りたいものもその展覧会に出すとかっていう風なスタイルで始めてるから。
技術専門校当時で訓練校とかその後高山のオークビレッジがね。
彼らがその匠塾っていう木工塾を始めてでそこもそれこそ稲本さんは年上だけど障子さんとかね同じ年代なんで交流があったんで誰かこちらにねスタッフとして紹介してくださいって言って。
それこそ義銭でも先生知ってて誰か死亡の人がいたら紹介してみたいなことも探してましたけど。
35年間ぐらいに大体うちに20人ぐらいの方を人が入れ替わって手伝ってもらってましたから。
33:07
そんなにいらっしゃったんですね。
谷さんの卒業生というか。
でもあれですかねその谷さんが当初家具をってなった時第一世代の人たちの働き口というか修行先としては伝統的なところで修行して。
そういう人ばっかりでもないですよね。
誰が代表っていうのも変ですけど。
須田さんのようにおじいさんの代役でやってるという方ももちろんいましたけど。
須田さんもだんだん作品として伝統工芸展中心にやっていきたいというので。
私たちはあくまでもやっぱり言ってたように扱いというかオーダーを取りながらでも自分のスタイルも出していきたいというみたいな感じだったんで。
そういう志向の人たちでさっき言った5,6人が残ってやるようになったんで。
同じ年代の人たちも伝統的なものを修行した人もいたしそうでないタイプの人もいましたよね。
でも下の世代は割と谷さんのところの門を叩いたりとかオークビレッジで通ったりしながら。
そうですね。
自分のスタイルというんですかね。作りたいものをみたいな。
自分が見て感動したものを自分の形にしていきたいという。
私なんかも自分で初めてから京都の黒たつあきさんというすごい人ですけど。
レジェンドというか。
それは木工の分野でレジェンドということなんでしょうけど。
私も民間家具にいる時代はその頃ライティングビューローってわかります?
わかります。
あれなんかブームで民間家具っていうビューローみたいな。
私も最初の頃はビューローいくつも作りましたけど。
それとかロッキングチェアーとかね。
いうのが民間家具の花話以降。
確かにその辺はすごい花型家具感ありますね。めちゃめちゃわかります。
そうですね。ライティングビューローだりロッキングチェアーだり。
ロッキングチェアーはもうそんな感じしますね。
今その頃に比べたらビューローなんか誰が使ってるのって感じになりますけど。
それでもやっぱりあれですね。物としての魅力もあるし。
スタイルというかライフスタイルでやっぱりかっこよくロッキングチェアーっていうのも憧れはありますよね。
そうですよね。
あと谷さんのところ20人近くの卒業生というか子たちが卒業していったわけじゃないですか。
何か世代ごとじゃないですけどその子たちの特徴というかなんか思うところってあったりするんですか。
もちろんいろんな人がいましたから。
こちらも10年も20年もいてもらうと仕事はできるんだけどその分給料も上げてもいけないっていう悩みもありますから。
やっぱりそういう時からただ働いてもらっていいんじゃなくて自分が独立したいという意欲を持ってる人じゃないと。
そうであればこちらも作るだけじゃなくて例えば営業というか接客とかね。
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デパートも一緒にやらせるとか行った先で一緒に美術館見て回るとかね。
やっぱりその同じような考えで逆に言うと彼らにしても4,5年修行してその上で独立していきたいという風な方向でしょうから。
こちらもまあそのぐらいで入れ替わってもらったほうがその給料も抑えられるし。
お互い最初からそういう意欲のある人を求人してということだったんですけど。
結果的には20人中10人ぐらいが今全国で一応独立して工房を持ってやってますけどね。
でも私と同じように家具中心でやってる人が今少なくなってますね。
そうなんですね。
やっぱりこの間の松本来てた坂井君とか彼らの方もカトラリーとかツアーとかね。
そういうもの中心になってます。
結構日本全国から谷さんのところに集まってたっていう。
だから遠くから来てもこの近くの環境が良くて小物でも2人いますし、
あと上田足田君とか県外の出身なんだけどこの辺に住んでる人もいるし、
逆に福岡の坂井君みたいにまた実家に自分の出身地に帰ってやってる人もいます。
なんか福岡の坂井さん展示会でこの間小口君と会ったりして、
やっぱり卒業生のそうやって活躍したりとか個展なりはなるべく足運ぶようにしてたりするんですか。
まあ行ける範囲ですけどね。
なんかそういう時にどんなお話するんですか。
いやいやもうみんな活躍してて、それこそ逆に今は彼らの方が注目されてると、
昔谷慎一郎工房で修行しましたっていうのが出てるとうち大ということになりますから。
そうですよね。嬉しいというか。
でも結構な確率でと言っちゃいけないんですけど、方が独立されて活躍してるって考えると、
ここでの修行というかはすごかった、実りあるもんだったってことですよね。
ね、おそらくそうなんじゃないかと思いますが。
それは本人に聞いてみないと。
でも割合としてはね、だからその20人中10人が一応活躍してるって言うと、
まあいい方かなと。
でも逆に残りの10人はもう連絡がどこで何してるか分からないっていう風な状態の人とか、
私たちも例えば4年間いてもらう間に、最初の2年は先輩としてもう1人いて、
自分が後輩で入ってもらうと、次の2年は今度は逆にその人が先輩っていうか次の相手っていう感じで、
4年ずつで連れていくと仕事もうまくね、伝わるし、
私が東京で展覧会行ってずつの間でも全く経験がないっていうよりはそういう風に繋がっていくかなと思ったから、
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だんだん最後の頃はもう半年で辞めていく人もいるし、辞めてもらう人もいるしみたいなことでグダグダになってきましたけど。
でも最初の方はそうやって世代が繋がってというか、きちんと重なってやってたわけですか。
やっぱりタックミュージックみたいなね、障子さんに誰かいい人いませんかっていうと、この人ならいいと思いますよっていうのをちゃんといわばね、
先生っていうか指導する立場の人から見て、この人なら推薦してもいいなみたいなのがちょうどあったから、
いい人っていうかちゃんとした人が紹介してくれたのでよかったですよ。
最初の頃は雑誌を見てきてって言ってね、やってみてもらうといろいろこうちょっと問題が生じたりすることもあるんで、
結構厳しいテストに、うちに入るときのテストもね、いろいろ面接はもちろんだし、簡単な作業してもらうとかね、いろいろなことをやったんですけど、
結局それはあんまり意味がなかったというか。
となるとあれですか、最終的には人間性の話になっていくんですか。
人間性と、でも本当にね、中には全く学校は理科系、工学部系の人が来てね、
例えばこういう形のね、側線なんかこんな感じでしょって言うと、それが角度がタンジェントの何とかですかとかね、聞かれても、
それはでもこうなんだけど、わかんないとかね、感覚的な人間なんで、そういうちょっとギキシャクはありました。
そういうことですね、ナンアールであるとか、曲律がどうであるとか、どの辺で繋がっているのかとかっていう、
どういう文化で育ってきたかでちょっと違うという。
同じ日本語を喋っていても。
なんか先ほど、今の若い子たち、割と家具じゃなくて小物中心の人が多いなという感じで、なんか今の若い人たちに思うところとかって。
いやそれはね、でも本当は彼らも家でやったし、自分でも家具作りたいと思っても、なかなか今のハンローというかギャルとか自分でインスタとかで販売してるんでしょうけど、
やっぱり家具そんなにいらなければ、矢をなしに小物でいろいろ充実させていくということになっているのかなっていう気はしますね。
私たちの頃は、家具系にしちゃってあれですけど、やっぱりお客さんが。
割と家具を求められてたってことですかね。
すごかったですよ。
特にだから私と同じ世代よりもやっぱり一世代上のね、今でいうもう20歳くらい上の人たちは、やっぱりそういうものに興味もあったし関心もあったし、それを裏付ける経済的なのもあったんでしょうけど、
そういう人たちがいたから、私もね、いくらいいものを作ってもそれが売れていかないと全部不要在庫になりますから、そういう点では支えてもらった面はありますね。
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そういう20くらい上の見る目とお金と熱意を持っているお客様たちがたくさんいたっていう。
ちょっとでいいからその展示会を見てみたいですけど。
本当そうですよね。
バンバン赤いシールが貼られて。
これ買ってくんですかって感じのね、こっちも驚くような。
やっぱり谷さんってそうやって驚くんですね。
だってね本当に高島屋とかデパートなんかでもね、いかにもこういいバッグ持ってね、いかにもファシャルしてきてるんじゃなくて、
長靴履いたようなね、おばさんが来てこれ説明したら、じゃあこれ頂戴とかつって、50万100万のものを買ってからずっとね。
いやすごいですねそれ。
それはすごいですね。
こっちがびっくりしてしまう。
びっくりしちゃう。
そうだ赤いシールの説明した方がいいのかな。赤いシールあれ売却済みのシールですね。
売却済み。
売却済みとか注文とか。
注文済みとか。
それがダース。
1ダースで。
1ダースになっていくという。
信じられない。
だからその編み物椅子は本当にね、
だから毎年さっき言った30何年続いててなんかやってる間で、
何かテーマを持った家具を作ったらっていうのを5人で話し合ったんです。
で何か作ろうかって時にうちの奥さんと相談して、
編み物用の椅子。
趣味でやってたんで。
アメリカにはね、
ソーイングテーブルって言って、
裁縫用の下にカゴをスライドしてくるようなね、
テーブルがあるんですよね。
でその椅子に座って下にスライドするカゴがついてる。
それだとその編み掛けのものもちょっとそこにしまってくるとかいうのはどうかなと。
で椅子でもアームがついてなくて、
こう編み物をする時に指示が動くでしょ。
この時にちょうどいい。
でちょっとこちらにスペースがあると、
そこにテキストを置いたりお茶を置いたりできるかなっていう風なことで考えて作ったんですよね。
それがもう大受けで。
やっぱそういう趣味の方が割と買われていくんですか。
そうですね。
それとゆっくりした姿勢で編み物をしたいっていう。
高さも35センチくらい座面の高さにして。
結構低いですね。
そうしたらおばさん体型の人にはもうぴったりだわっていうんで。
そっかそっか体型変わってきますもんね。
足の長い子が座るとちょっとバランスが悪いんですけど、
その頃のおばさんたちには私にちょうどいいわって言って、
もう編み物しないけどこれを玄関に置いてとかね。
そうすると、ほら銀行の人なんか上げてもらうのもあれだけど、
玄関で済ませた時ちょうどいいじゃないとか。
じゃあこれ2つちょうだいとかって頼まれたりとかね。
その編み物椅子のうちでも伸びにしたら100脚くらいは作ったかな。
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すごいな。
そうなんですね。
ちょっとなんか計算しちゃうのがあれですけど。
今はさすがにもう注文ないというか、出してもいいませんけどね。
そうやってテーマから生まれていったメイクというか。
それはもうそうですね。
あのテーマでどういう椅子作るかっていうとこっちで考えてたんですけど。
中には私のハーブチェア、1人じゃ持てない。
その椅子を注文された方なんかもやっぱり展覧会に奥様が来て、
うちの旦那が柔らかいソファに座ってると腰が痛くてダメだって言って。
木の椅子でちょっと安定感のあるしっかりした椅子が欲しい。
私なんかもそれまでは椅子はできるだけ動かしやすい、
できるだけ軽い方がいいだろうと思ったら、
逆にしっかりした木の椅子があるといいんだって言って。
そういうお客さんもいらっしゃるのかっていう。
その方に作ったのが第一応で、
ソファの代わりになるようなどっしりした椅子なんですけど、
アームも広くとって、そこにお茶を置いたり本を置いたりできるぐらいのアームが付いてるっていうタイプの椅子。
それもこういうことを望んでるお客さんもいらっしゃるっていうので、
それもまた作って展覧会に出したらすごい欲しいっていう人がツインツインと。
そういう生活したいですね。
そうですね。
今一つ前に作ったら残ってますけど、
それも延べにして一脚ぐらい作ったんです。
その一脚、あまり値段言ったんですけど、70万とかいう値段だったんですけど、
それが展覧会に出たりしたわけですから。
すごい。
これですよね。
この椅子ですね。これは見たことあります。
これ、僕書籍で見たことありますね。
これを展覧会に出してたら、講談社の編集の人がこれを作る工程を本にしませんかみたいな話になって、
そのライターの人が来て、これを作る工程を一緒にやって文章にするというので、
俺の椅子を作るっていう本にこれがなったんです。
そういう経緯だったんですね。
最初は奥さんが来て注文したというのを引っ掛けて作ったんですね。
その書籍が俺の椅子を作るっていうことですか。
これが今谷さんが本を見せていただいていますけど。
すごいですね。谷さん関連の書籍だけでも結構。
私だけじゃないんですけど、途中からこっちは仏壇ですけど、
これも私今50年になりますけど、後半戦は仏壇で食いつないできたんじゃないでしょうか。
結構仏壇とか寿司とかの注文が多いということですか。
それも最初はやっぱりテーブル、椅子、食器棚みたいのを注文でどんどん作ってたんですけど、
ある時にうちの作った食器棚見てて、
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こういうシンプルなので仏壇を作れないかというお客さんが来て、
え、仏壇ってでもちゃんと決まりごとがあるようだし、いいんですかって言ったら、
いや自分が新兵衛から気に入らない仏壇に入れられるの嫌なんだよ。
その方は男の人でした。
自分が生きてる間はそれをウイスキーのボトル入れたりして使って、
自分が死んだらこれを仏壇にしろって家族に言っておくからって。
ウイスキーがご本尊と。
こういう方もいるのかというので仏壇を注文のものももちろん納めて、
自分でもまた作って展覧会に出したりすると、
次々と来た方がこういうのはいい。
中にはご夫婦で来てて、いいわねって言ってたら、
次の年奥さんが来て、そう言ってたら主人が亡くなったんで、
こういうのを頼みたいっていうようなことになったりして。
なんとなくシンプルでスマートな仏壇にしたいっていうのって、
最近の流れかと思ったら割とそういう要望ってあったんですね。
今頃すれば30年ぐらい前にそういうきっかけがあって、
作る度に広がってて。
それこそ家庭画法で2000年の家庭画法では、
最近木工館が作る仏壇が評判がいいとか特集されたんですよ。
いわゆる漆塗りで彫り物がしてあって。
だけじゃなくて、30年やったメンバーが、
みなさんが仏壇が頼まれるようになったって言われるから。
そしたら家庭画法でその辺りの人を中心に紹介してもらったら、
みなさん全国から注文が来たみたい。
注文だから四国とか島根とか九州とかからも。
家庭画法って都会の人も見てるけど、
特に地方の奥様たちが見てて、
これ東京で流行ってたわみたいなのを見てるみたいで。
そうなんですね。
注文だから地方から注文が来たりして。
仏壇ですね。仏壇が来てる。
この手の値段ばっかり言うと200万ぐらいしますから。
おーすごいなー。
材料も礼、岐阜の桜え芽木の一級品を使ってますから。
材料も高いんですけど、
でもやっぱりそういうものを求めてるっていう方もいたんでしょうね。
そうか。やっぱ自分が亡くなってから入るものですからね。
最後に選ぶ家具じゃないですけど、
いいものに入りたいですよね。
うちのテーブルとか椅子を使ってるお客さんたちも、
うちも100年は使えるぐらいなことで売り込むわけですから、
もうそれをリピートすることはないんです。
最近でこそね、削り直しとかテーブルなんかに関しては、
昔作ったものの直しができるかっていう話は来たり、
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中には大きな端末があるんだけど、作ってもらったんだけど、
もうマンションに越すんで、いらなくなっちゃうんだけど。
でも誰が作ったかわかってるから捨てるわけにはいかないんだけど、
どうしようって言って。
で、若い人に繋いだりすることも時々ありますけどね。
そういう流れいいですよね。
そういう流れはいいですね、とてもね。
だから谷さん最初の時言ってた、大量生産、大量消費に対する
ちょっとした谷さんなりの回答というか。
そうですね。
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