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2021-12-17 16:55

009:読書メモはいっさい不要?

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僕これを時々言うんですが 音アウトプットってのは同じだと思うんですよね
それが前も言ってましたねそのインプットをしているときに僕らはアウトプットを 同時に行っているっていつも思うんですよ
それあれですかねそのそれこそだからはいさんが家な人を読んでいるインプットを している時はだから非同期にアウトプットしているとことそれでもその場でアウトプットしてる
その場でしているつまりあの皆さん言っているインプットというのはやっぱりちょっと 言葉としてもそうなんだけどコンピューターチックすぎると思うんですよ
同じ内容がインプットされるはずがないんで 僕と大橋さんが家な人を読んだんでは脳内に発生しているイメージが全く違うはず
なんですよ 違った形で入り込むはずだと
入り込み方はもしかするとある程度同じかもしれないけどもうその瞬間に出して いくものがあるんですよ
僕たちの中にそれは最近の知見でいうと脳内ネットワークって言葉があるじゃない ですか
はいはいということはすでにインプットの前からある程度のウェブがあるわけですね頭の中にあるし そもそもそういうものを出していかないとものを読むってことはできない
そうだからそのウェブっての文字通りあの網なんでその網でもって読んでいるものを 包んでいくというかね
包んでいくってことは包み方があるわけじゃないですか その包み方が同じはずないじゃないですか
だからもうインプットしていると思っている時にはアウトプットが始まっちゃうわけですよ このアウトプットが一人一人全く違うはずなんですよ
インプットというよりは自分が持っている脳内ネットワークの網でキャプチャーしてるって 感じですね
キャプチャーなのかわかりませんかむしろクリエイトなんですけどね僕の感じで クリエイト
脳内でクリエイトしてるんですよこのクリエイトしている感じが集まり感情だと僕は思うん ですよね
うーんだから感情アウトプットしてるんですよ もう読んでるってこと
なるほどそうですねあの悲しんだり喜んだりしてるってその感情がアウトプットであると アウトプットだしそれはもう一人一人全然違うものなので
だからだから思うのは大原さんがよく言うところでは自分が好きなもとって言うんだけど そもそも好きじゃないものは読まない方がいいんじゃないって思うんですよね
だから夢中になって読みましょうみたいな話なんだけど夢中になれるものだけを追っていけばいいんじゃないかなって思うんですよね
それを繰り返していると出てきちゃうと思うんですよね いわゆる指キャプチャー的なことをしないのはそのせいなんですよ
なんかこう自分が読んでるともう出てきてると思うんですよね昔に読んだなんとかみたいなのが その時に出てくればそれで終わりなんですよそいつは
それをあえてメモっておいたりする意味って僕はあんま感じないんですよ じゃあもう思い出せたらそこで終わり
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そういうふうに思い出せるということは必要とあらばその思いでは必ず必要な時にまた出てくるはずだと思います
それがなかなか不安なんだよなもう二度と出会えないんじゃないかと思って でもね不安にならないはずなんだよねつまり夢中にもう一回なることはきっとあって
もう二度と夢中になれないんじゃないだろうかという不安 今のおはしさんのある意味聞こえるんですよ
僕はそんなことがありえないと思いますよ 何度でも夢中になれる別のことにね
で夢中になった時には多分その人ならではの割と類似したことが起きてて 起きてるはずだからもう夢中の後は進道を終えばいいんですよ
進道同じように夢中にだって多分なんだけどねみんな天下一武道会とか読んでる時相当夢中になったと思うんですよ
問題なのは内容じゃなくて同じように今夢中になれることってどれぐらいあるんだろうってことなんですよ
そういう時にインプットって思ってちゃダメだと思うんですよ同じぐらい夢中になれることなら何でもやってみないと同じように夢中になったら
その時の感覚はまた必ず再生されてくると思うしできるだけこういうのを喋ってる時もそう なんですけど
セミナーとかやってる時も同じように夢中になろうとしてるんですよ アウトプットとインプットは同じようになるはずだから
喋ってても天下一武道会読んだ時みたいに夢中になってればもう必要なものは全部上がってくるはずだと思うんですけど
そういう意味ではあれですね天下一武道会にしても夢中になって読んだものも全て出しで
まあそう出しでね
スープが取れればあの ok っていうことですね
そうですね取れるはずだって思うんですよね
だから自分の中にもし自分がそれを読むっていうことがアウトプットでないならば読めないと思うんだよなぁ
そのコンピューターは何も読んじゃいませんからね
なるほどなんだっけなさっき僕が不安を感じたことはね
人であったものはまた出会えると
目もしなくても
感情にはね
うんそうそう
その何か不穏な気持ちから思い出したのがセレンディビティという映画があってですね
はいはいはいはい
これはセレンディビティも今や有名な言葉ですけれども
そういうタイトルの映画でね
2001年の映画で
ちょうどから2001年9月13日公開だからもうすごいタイミングですよね
すごいタイミングですね
作ってる最中まだあったんだねあのタワーはね
でねこの話は要するにこの男女はたまたまね
なんか同じ手袋に手を伸ばしてぶつかってみたいな
そのよくある図書館で同じ本に手を伸ばすみたいな
まあありがちな出会い方なんですけど
でそこで話が弾むわけですよ
で弾んだ後にでもなんかもう一回出会えたら
付き合いましょうみたいな話になって
男子としてはもう今出会ってるからええやんと思ってるんだけど
でも彼女の方はもう一回出会えたらとかっていう風にね
なんかちょっとこう意地悪をするわけです
まあでも当然だからですね
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この2人はまた出会えるんですけど
でもそのねこのまさに男子の気持ちになったわけですよ
なるほどね
今目の前にいるのになんかね電話番号も交換しないで
どうすんだとかっていうね
でなんかその彼女はその電話番号書いたメモを本に挟んでね
でその本を古本屋さんに売るんですよ
でその古本をそのたまたままた見つけられたらまた出会えるねと
でもそんなさ遅い以上だったらさ
その電話番号変わるかもしれないし
中古本なんてもう手に入らないかもしれないじゃないですか
そうだそれはすごいね不安を味わわされるというね
まあそれはどうせあの狙いなんですけども
そういう気持ちを思い出そうということですね
僕らは結局具体的な何かに出会う確率を言ってしまうと
そういうことになるはずなんですよね
どう考えても低いので
だから皆さん本の中でこうこうというところを引用するとさ
キャプチャーするんだけれども
僕はそれよりもやっぱりそれを読んでる時の
感情と感覚のようなもの
つまり僕が思うにそれがアウトプットなんですけどね
それがインプットじゃなくて
そのアウトプットが一番大事で
キャプチャーできるわけがないので
それのキャプチャーを目指すのはもうほぼほぼやめたんですよね
引用じゃなくて
その時に思い浮かんだことをメモするのもダメなんですか
ダメではないです
どっちをメモするのも全然OKですけど
僕の中でそれの価値は極めて二義的なものだとは思います
そうか
じゃあ読書メモを一切残さずに
その時に思い浮かんだこともメモせずに
もう読み切る
読み切りますね
おお
なぜならそれは本を読んでるというその感覚の問題
あのねこれと全く同じシチュエーションを僕は
カウンセリングみたいな感じに置き換える
セミナーでもいいんですけど
ある人が僕のタスクシュートなりでもいいんですけど
押すっていうのに対して
結局何が大事かというと
その人がまあタスクシュートを僕が押したならば
使ってみるってところまで行けるのが大事じゃないですか
まあ一つのゴールとしてですね
そういうふうに持っていけるかどうか
その時の呼吸感とか
僕の言ってることの調子とか
その人にとってのこう受け入れられるかどうか
みたいなものが全部だと思うんですよ
その時に言うべきことは
こうだとかああだというメモではないと思うんですよ
でしかもその人に言って通ることと
別の人に言って通ることは
全く違うものだと思うんですよ
でそういうことが出せるか出せないかというのは
その時のなんていうんですかね
僕の言葉で言うならば
面白がり度によって決まると思うんですよね
いつもそういう形であるべきだと思うんですよ
だから文章書いてる時でも
この文章書いてる時の僕の面白がり度によって
この文章の価値は多分決定されると思うんです
そうするとそこに何を引用するかは
かなりにに的な話で
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多分十分それにさっきの大橋さんの言葉で言うと
夢中になれているならば必要だという引用は
僕の記憶の中にある分に関しては
一番いいものが出てくると思うんですよね
だからそれをエヴァノートから探すというのは
ちょっと残念なんです
だからそれはなんか
死んだ魚を探すみたいな感じになるんです
そうそういう感じになっちゃうんですよね
そういうことはね
そうやったってある程度は
担保できるとは思うんだけど
こうわざわざと二番煎じ的なところに
あまんじようねっていう話になりかねないと思うんですよね
なるほどね
これをやるのが大好きっていうケースもあるから
そうなってくるとちょっといろいろあるんだけど
僕はそれをやるのはそこまで好きじゃないから
自分の感覚の中からやっていきたいとは思いますね
でもそのメモをしなくても楽しみな感覚って言うとね
例えばあのご笑いとかね
あの落語とかを聞いてる時ってメモしないなと思ってね
なるほど
でもあれは夢中で楽しんで聞いてますよね
そうですね
まあ大橋さんでもメモしても不思議はないですよね
だからね大橋さんがそれを夢中でメモするというのは
僕の感じではそれはそれでいいんじゃないかと思うんだよね
だから人によるんだよねやっぱりねこういうのはね
僕はこれをメモする人ではないんですよ
こういうことを皆さんぜひ意識してほしいなって思うんですよね
メモをしないと忘れるっていうこの恐怖から自分を解放する?
もうちょっと言うとどうしてそのメモを取っておきて
何したいのかっていうことなんですよね
取っておくのが大好きってのも僕はありだと思うし
これを使ってもうたとえ聴衆がそこで
軽減な顔してもエヴァノートを探すよっていうのは
それはそれでありだと思うんですよ
ただなんかこう取っておいた方がいいように思うっていうのでは
もう一歩足りないとは思います
何かの役に立ちそうだとか言うのでは足りないと思うんですよね
それじゃ役に立てられないんじゃないかなと思うし
仮にここの引用にはこれだよねっていうふうに思うというんだとしても
その時記憶じゃダメなんだろうかっていうのは
見当の余地があると思いますね
それこそセレンディビティが起きるぐらいに思っていても
いいんじゃないかと思いますよね
確かにあの全くエヴァノートに保存したり
メモしたりしないのに思い出せることってのありますからね
ありますよね
そしてその最近野球とか将棋とかも凄まじいですけれども
結構漫画とか読むとねそういうネタではダメなんですよ
例えば人は160キロは出せないとかって漫画に平気で書いてあるんですよ
で今では165キロとか大谷翔平とか出しちゃうわけじゃないですか
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そういうふうになっているのを見ても
意外とみんながミラクルだとか言ってることは頻繁に起きちゃうわけですよ
将棋もそうなんですよね
藤井聡太さんのとかは漫画でもなさそうなレベルなんですよ
ああいうことがポンポンポンポン起きてるのを見ると
あんまりねその滅多にないものを期待しちゃいけないっていうことを
システマティックに置き換えようってするのは
そもくさいくないって思いますね
それはだから知識を増やせば増やすほど
その可能性を狭めてしまうということなのかな
というか自分が感覚でやれることの凄さっていうのを
もっとこう使った方が良くないんでしょうかって感じですね
みんなはついつい専門家というものをすごく高く買うわけですよ
将棋指しなら将棋指し
もうこのセリフはしょっちゅう聞くけど
自分は何者でもない言うんだけど
昔、内谷監督が「采配」って本だと思うんですけど
本当に野球選手というのは皆さんがそんなに高く評価してくださるほど
すごいことをやっているんでしょうかねっていうのがあるんですよ
一説として出てきて
私の目から見ると
会社で難しそうな取引の仕事をやっている方が
大変難しそうに見えるんですがっていうのがあって
僕ね、あれ結構大事なんじゃないかなって思うんですよね
大橋さんなら大橋さんで
ブログや書いて仕事の作ってタスクシュートやってっていう
世界の第一人者に近いと思うんですよね
そういう人がなんでこう自分の感覚は信用ならないと
頭から信じているのかなという
なぜこう藤井壮太にできることが大橋さんにはできないことになっちゃうんだろうと
まあ大橋さんがそう考えているかどうかは分からないですけれども
僕らはある専門のあるカテゴリーにおける第一人者というもの
すごくこう人間離れしたものに見えるんだけど
僕らは二三十年間こういうことをやってるんですが
これは人間離れしてないのかなと思うんですよね
僕はそれは人間離れしてると思ってやった方がいいのではないかと
最近ずっと思ってますよ
じゃあ誰しもが自分の中にこう鳥山明を育ててるわけですね
まあそういう言い方をするならばね
だって僕の上には岡野淳さんがセミナー中にサラサラっと描くのを見ると
神業に近いなって思いますよ
ということは僕に同じようなことができてると
見出すべきなんじゃないかなと思います
まだ認識できてないだけで
例えばこうそうですね
1500字なりの文章をあまり悩まずに書いても
一応読める文章になるっていうのは
これは凡庸な技なのかなって考えると
そうでもないんじゃないかなって思いますけどね
誰にでもできるだろうかと思いますけど
例えばうちの母にでもできるか無理ですよね
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なぜ凡庸ってことになったんだろう
そういうふうに考えていくと
その一つの技としてサーカスみたいに示せるものはないけど
もうちょっと考え直してもいいことはあると思いますね
つまりこのまだファンはいないけど
十分ファンが突きうる何かがあるはずだと思いますね
僕は大橋さんによっていくらもあると思ってますけどね
これを聞いてる方も皆さんそれを持ってるはずであると
そうですね40歳になるまで同じ会社で20年も仕事をしてたという人が
何にもなく凡庸であるというのは僕はもう信じないですね
うーんなるほどね
だって野球選手だったら20年間一軍でやってた人は
もうすでに神業の領域にみんな達してますからね
なんでそれがサラリーマンではいけないのかっていうのは
ちょっとあれですよね
うーん
今日のまとめとしては
大橋さんなんかまとめの言葉はいいんですか
自分のやってる仕事の第一人者に近いところに自分がいると思ってみたら
なんか違うものが見えてくるかもしれないです
自分はすでに第一人者であると
うーん僕はそれに近いことはあり得ると思いますけどね
僕だって48になるまでのこの35年間を全部将棋だけにかけてきたら
まあそれで食えるようにはなってないと思うんですけど
それでも将棋は相当強いでしょ
うーん
それに近いことを仕事でやってるんじゃないですかね皆さん
まあそう思い込むというか
そうであるわけですね
そうであると思うんですね
だから自分のその感覚でやれてることを
もっとこう信用して使っていった方がいいと思いますよね
うーん
うん
はい
はい
ということでじゃあ今日はこの辺りで
はい
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