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Startup Now、資金調達を実施されたばかりの企業家の人生や事業ひも解くポッドキャスト、パーソナリティーのスタートポッツ稲荷田です。
同じく、パーソナリティーのアニマルスピリッツ中山です。
本日は、株式会社ログラス代表取締役、川友也さんにお越しいただきました。
ログラスさんは、クラウド経営管理システムログラスを筆頭に、新しいデータ経営の在り方を生み出すDXサービスを提供されているスタートアップでして、
2024年7月、シリーズBラウンドにて70億円の資金調達を実施されました。
布川さん、よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
今回、布川さんをお呼びさせていただいたのは、私稲荷田になります。
実は、私と布川さんは3年ぐらい前だと思うんですけれども、一度面談の機会をいただいております。
それがですね、ちょうど私が全職のサンサンを辞めるか辞めないかみたいなタイミングで、
実は当時、他のスタートアップに転職をするか、自分で起業するかっていうのが迷っていたタイミングでした。
そこで当時、勢いがあるなと感じていた布川さんとぜひ話してみたいなというところで、
カジュアル面談に応募させていただいておりました。
ただ実際にですね、その面談の日を迎えたタイミング、実はもうほぼほぼ起業の方に傾いていまして、
実際にこういった形で、他の会社さんとかも話したんですけど、中にはですね、
君何しに来たの?みたいな、結構戦慄した雰囲気になることもあってですね、
つまり転職前提じゃないのに、この会社の話聞きに来て、
ある意味、経営者の貴重な時間を奪ってって表現できると思うんですよね。
というシビアな経営者さんも当然いて、これは別に悪いことではないと思うんですけど。
ただ、布川さんですね、このタイミングでは本当に企業自体はすごく応援してくださって、
かつどんな事業をやろうとしているの?というところで、
かなり丁寧に事業に対するフィードバックもくださったんですよね。
そのあたりがもう非常に心に残っておりまして、
懐の深い素晴らしい経営者さんだなというふうに思っておりました。
その後、自分自身は結局起業せず、個人事業主になったりとかもあったんですけれども、
外から見ていてログラスさん、非常に順調に伸びていて、
自分の知り合いなんかもどんどん入っていって、
そして今回シリーズBで調達もされたというところで、
ぜひ布川さんにお話を伺いしたいなというところでお越しいただきました。
布川さんありがとうございます。
こちらこそありがとうございます。
さっきメッセンジャーちょっと見返してたんですけど、
2022年の6月頃ですよね。
多分最初にコミュニケーションしてたのが。
一応お互い認知もその時点ではあって、
ユートラストさんかなんかでお名前拝見して、
もちろんユートラさん経由でもお声掛けしつつ、
メッセンジャーでも転職するんですかみたいな話をしてたなと思っていて、
そこからこういうポッドキャストまで来るっていう、
もう2年以上経ってますんで、
時の流れはすごい素敵だなと思いながら聞いてました。
ありがとうございます。
その時は多分私の話ばっかりだったので、
今回は布川さんの話もどんどん深掘りたいなというふうに思っております。
なので前編では布川さんの生い立ちだったり、創業までのプロセスを、
そして後編ではログラスさんの経営や事業についても掛かってまいりますので、
ぜひ併せてお聞きいただければと思います。
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それでは深川さん、まずは簡単な自己紹介を1分程度よろしくお願いいたします。
改めまして株式会社ログラス代表の深川です。
2019年にログラスは創業しておりまして、
創業する前は投資銀行でエマンドエイトIPOのご支援ですね。
基本的にはPファンドと総合商社の担当していたので、
例えばPファンドさんが上場企業に対してTOBを買収を仕掛けるみたいな時のご支援ですとか、
あとは新規に上場、例えばPファンドさんとは商社さんが保有されている株式会社を新規に上場させるという時に、
その上場のご支援を投資銀行サイドとしてやらせていただくみたいな仕事を3年ほどやらせていただきました。
25になる手前ぐらいでゲームウィズという当時創業4年から5年ぐらいのタイミングで、
マザーズ、今で言うとグロースの市場に上場した会社さんに、
本当に上場して1年経ったか経ってないかぐらいのタイミングで経営企画の一人目社員としてジョインをさせていただいて、
そこではもう本当にIRから投資家対応から資金調達は当時なかったですけれども、
ファイナンス周りですとか、あとは経営管理、あとはエマンドエイを中心にお仕事をさせていただいて、
最初の新卒の頃ももちろん買収対象の会社さんの予算管理ですとか、
経営計画もらってバリエーションするみたいなこともやってたんですけど、
そこから事業会社に行って自分で経営管理をするっていう体験が自分の頭の中でコネクティングザドッツしてきて、
この領域すごくペイン課題もあるし、あとたまたま2018年ログラスの創業前夜に、
まさにログラスの競合のアメリカの会社が上場したりもしたので、
もうこれはやるしかってなって19年に創業したっていう流れですと。
これ自己紹介なんで、あとプライベートの話をすると、今子供が3人おりまして、
スタートアップ界屈指の子育て CEO として頑張っているというところです。
子育てをどれぐらい頑張れているのかというものでありますけれども、そんな人間です。よろしくお願いします。
ありがとうございます。すでに聞きたいことだらけで、一旦キャリアとかは後ほど、あと家族の話も絶対聞きたいなって思ってるんですけれども、
一番最初にまずお伺いしたいのは、大学だったりあるいはそれ以前の話も聞きたいなと思っていて、
結構ふかあさんのことを調べたんですけど、なかなか大学前の話ってあんま出てこなくてですね。
大学は経営経済いらっしゃって、水泳部で人材ペンチャーに携わられたりとかあったんですけど、
その前とかってどんな幼少期だったり、少年時代だったのかみたいなところ、何かエピソードとかあれば教えていただけますか。
父はいわゆるメガマンクの銀行員でしっかりとキャリア積んでいった人間で、まだまだ働いてるんですけど、
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母は図書館司書っていう小学校とか中学校の図書館にいらっしゃる職員の方ですね。
言い方あれですけど、企業界になる要素はその時点ではゼロの人間としてスタートをしていて、
ただ小学校の時結構転校が多かったんですよ。メガマンクの総合職で結構出世ルートに乗ってくる人って海外行ったりとか、
地方を回ったり、東京でも何回か転勤があったりして、そのために結構引っ越しがあったんですよね。
トータル小学校の時に3,4回引っ越しをしてて、
幼少期を形作ってるのは小学校1年生の時にシンガポールに転勤があって、父の。
それに私も当然ついていく形で家族総出でシンガポールに移住するっていう体験があって、
トータル1年半から2年ぐらい済ませていただいたんですけど、すごいいろんなカルチャーショックがあって、
例えば、そもそも小学校1年生の時に国語と変えるとか言語が違う国に行くって、
物心がギリついてるので、なんか幼稚園とかでいくと多分覚えてないんですよね、ほぼ。
なんですけど、やっぱり小学校1年生って物心ついて、地元の友達がいて、
日本語っていう母語がもう史上に秘めついてる段階でシンガポールに行くっていうのは、
私的には結構恐怖だったんですよね、当時。
恐怖だったんですね。
恐怖ですよ。もう南国のよくわからん国に行くって突然言われて、
シンガポールってそもそもどこみたいなところ。
で、脳内に走る映像イメージっていうのは基本ジャングルみたいな。
ジャングル。
ジャングル感がすごいあって、マジかみたいな。
で、すごい嫌だったというか怖いって言ったなっていう記憶があって、
ただ実際行ってみたら、結局日本人小学校に入ったんですよ、私はインターじゃなくて。
別に友達もできましたし、もちろん日々の生活は英語だし、
気候も全然日本と当然常夏の国なんで違うんですけど、
行けば全然普通に楽しめるし、適応もできる。
コンドミニアムっていう一緒にマンションに住んでる人たちも、
日本語圏じゃない人も結構いたんですけど、普通に公園で一緒に遊んだりとかっていうこともしてたんで、
行けばなんとかなるなみたいな価値観はそこでまずついたかもしれない。
プラスもう1個衝撃だったのは、やっぱり日本と違ってシンガポールってGDPグロスレートがすごい高かった。
今も高いですけど、今と5年前って比べると5、6倍ぐらいGDPが違うんですよね。
で、国全体の、会社の5倍も結構違うじゃないですか。フェーズ変わるじゃないですか。
例えば2兆億の会社が100億になったら随分な違いがあるわけですけど、
それが国ってなると、もう地下鉄が走ってる走ってないとか、
遊園地が国に1個もないところからUSAができてなんちゃらができてカジノができてとか、
そういう次元の差分なんですよね。
なんで僕はシンガポール行った時は、もちろん立派な国ではあったが、地下鉄全然ないんですよ。
MRTっていうゆりかもめみたいなやつがちょっと走ってるぐらいで、基本はもうタクシーとか車で移動だし、
ちょっと離れたところに行くと結構田舎、マーケット、本当にドリアンをその辺で売ってるめっちゃ臭いみたいなのが、
ちょっと遠くに行くと本当に怒ってるところから、今のシンガポールってもうどこ行っても結構都会らしいっていう差分があったりするんで、
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やっぱりそれを若干6歳7歳の時に、まずその当時のシンガポールを感じて、
今30ですけど、30歳の今のシンガポールっていうのを比較できて、
それはその差分を感じて、国としての自力とか勢いの差みたいなものを人生として感じれたっていうのは、
幼少期としては大きなイベントだったかなと思いますね。
なるほど。結構その起業に際してシンガポールのその経験が大きかったって現体験、いろんなところで話されてると思うんですけど、
じゃあ正確には当時のシンガポールを知っていた、そして今振り返ってみると全然そのギャップがすごくって、
そこの差が衝撃的で、それを日本でも再現していきたいと思いがられるってことなんですね。
そうですね。もう当然小学校の時のそのピンポイントの体験だけで、
やっぱり日本で起業せねばってなるやつって頭おかしいと思うんで、そんなやついないでしょって話なんで、
まさにおっしゃる通りで、その差分の体験と、とはいえ当時も感じたこととしては、
やっぱりシンガポールにいる子どもたちって、言い方ですけど海外駐在をしている優秀な層の子どもたちみたいなのが、
やっぱりたてつけとしてはあって、それが良い悪いはないと思うんですけど、やっぱりそういう集団で、
すごい勉強もやっぱりできるし、スポーツもめちゃめちゃできるんですよ。
で一方で僕は日本帰ってきた後は東京都荒川区の小学校に入ったんですけど、
子どももどんどん減ってて、当廃校は進んでた時期なんですよね、小学校の。
でもちろん割と下町なんで、子どもの学力の差とかもすごいあったりして、
当然公立の小学校なんで、僕当時中学受験したんですけど、
中学受験する子が、今はもうマジョリティーですけど、当時はクラスに1人2人みたいな、30分の1とかですよ。
もう2、3パーの世界のマイノリティだったんで、小学校の先生に、
いやお前、塾で学んだことを勝手に小学校の宿題とかで応用するなって言われたりしたんですよね。
そんなこと言われるんですね。
そうなんですよ。本当に当時そういうことがあったりして、なんだこれはって思ってた部分はあります。
シンガポールのあの学期とか、周りのレベルの高さに対して、
日本の一応東京の小学校で、なんでこんな感じなんだろうなっていうのは、
やっぱり小学校5、6年生ながら思ってた自分はいて、
それは日本っていう国自体が、やっぱりどんどんどんどん伸びなくなってきていて、
どんどん相対的に貧困になっていってるっていうのは、
どこまで言語化はもちろんされてなかったですけど、違和感を感じてるみたいなのは当時からありましたね。
そういうことだったんですね。で、中学受験で慶応に入られたってことですか?それまた違うんですか?
中学校は埼玉の新学校に入りまして、そこで中高を6年間過ごしてたっていう感じですね。
で、大学で慶応ですね。
そうですね。
そこでやっぱり経済選ばれたっていうのは、やっぱり国の景気、景気ってことまで当時考えてなかったかもしれないですけれども、
経済力を上げていくってことに結構強い使命感とか感じてらっしゃったんですか?当時から。
そうですね。これは多分想像されているより言語化が当時進んでて、
高校2年生の時にもう東大の文化2類、経済学部か、慶応の経済学部、小学部か、
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ひとつ橋あたりに基本入りたいっていうふうに当時思ってて、もちろん他にも何校も受けてましたけど、
当時僕四季報を読むのがちょっと好きな時期があって、高校生ですよね。
なんでやねんとかですけど。
経済さえ知らなかったですね。
父が銀行員なんで、父の部屋とかに四季報が置いてあったりした後、私の祖父ですね、母方の祖父も自分でビジネス、
お茶屋をやってるんですけど、お茶屋をやってて、いって株式投資とかもやってた人なんで、
おじいちゃん家行くと四季報が置いてあるんですよ、ナチュラルに。
すごい。
で、僕は持ってる株これとこれとこれみたいなこと言ってて、
で、僕もパラパラめくるみたいなことを幼少期から体験としてはやってたんですけど、そんな本気で読んでたわけじゃないですけど、
で、その時にわかりやすく平均年収っていうのが載ってたり、会社の業績とかが載ってたりするんですけど、
もちろんその小学校の時の体験もあって、日本の経済良くするにはどうすればいいんだっていうのはちょっと醸成されてきた自分がいて、
その時に三菱商事に入りたいっていうむちゃくちゃ明快な目標があったんですよ。
高2の時に。で、その三菱商事とか金融の大手、野村とか大和とか日光とかああいう財界を動かしてそうな会社、当時の自分の浅はかなイメージで、
一番入ってるのが東大の経済とか慶応の経済だったんで、もうそこに行くのが一番グレートなルートだって自分を思い込ませて受験勉強励んでたって感じでしたね。
そこから学産しての大学だったんですね。
あとはもちろん早稲田さんの生計とかもすごい良い学部ですけど、そういうところに行けないんだったら絶対浪人するぐらいの感じでやってた感じですね。
そこまでいわゆる超ハイクラスに意識が高い大学生としてデビューされたと思うんですけど、そうなると大学時代ってのはどういうふうに過ごされるんですか?
これが結構ひどくて、僕大学1年生、水泳ずっとやったんですよ、中高で。
でも水泳はもうゴリゴリやってなって、大学生になったらもっと違うスポーツとか、いわゆるサークルとかもやりたいみたいな、ちょっと意識高いところと低いところは混在した自分がいてですね。
そんな時期もあったんですね。
だから大学1年生はとあるマイナーなスポーツのサークルに入って、そこ自体はめちゃめちゃちゃんと練習するサークルだったんですけど、
一言で言うと大学の授業が面白いと思えなかったりとか、あとこういう生活がしたくて大学来たんじゃないみたいな、よくある意識高い病みたいなのが発症しまして、
大学1年生の時は最初の3ヶ月ぐらいは楽しんでやってましたけど、半年ぐらいして大学行かなくなる時期があったんですよね。
なので大学1年生の成績マジで僕悪くて、結構単位もギリギリの戦いをしてたんですけど、
その時はもう家でひたすらFPSっていう、コールオブデューティーとか、ああいうシューティングゲームをひたすら家でやりまくるっていう背陣みたいなというか、
めちゃくちゃ意外ですね。
一時期してて、でそれが大学4学年入るじゃないですか。
で10月頃がまさにその背陣時期で、それが1ヶ月半から3ヶ月ぐらいそんな感じだったんですよね。
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である時、いやこれ本当にちょっと今思い返すとひでえ話だなと思ってるんですけど、
夜中もうずーっと徹夜して夜中ゲームずーっとやって、親も仕事してるんで、親とか妹が出かけた後に寝て大学行かないで起きて、
あたかも大学行ってきましたわみたいな雰囲気で家にいるみたいな生活をしてたんですけど、
ある時その朝の4時とか5時になぜかうちの母親が僕の部屋のドア開けてきた。
その時に僕がディスプレイの前でこう布団かぶってこうやってゲームして、
FPSでめちゃめちゃ打ってる自分みたいなの見て、
あんたそんなことのためにKO活かせたんじゃないってめちゃ吐き捨てられて、
でそこでめちゃめちゃ反省したんですよね、確かにみたいな。
でそこからたまたま高校の水泳部の同級生が一郎でKOに、彼は理工学部に入ってきたんですけど、
いやお前そんな大学生活はあかんってなぜかそいつに言われて、
俺と一緒に水泳部入ろうぜって言われて、2年生の新官ですよね、新入生歓迎の時期に水泳部の見学行って、
2年生から水泳部に入るっていう、そういう大学生のスタートでしたね。
そこはまた水泳だったんですね、そこはいわゆるインターンを始めてとかそういうのじゃないんですね。
じゃないですね。でも水泳部はほんと入ってよくて、朝6時、7時くらいから練習するんですよ。
早い。
で、家出るのも5時とかですよ、だから。急にFPSで夜中徹夜して朝、母親にお前はクズだ的なことを言われてる自分から、
朝5時とかに起きて朝ごはん食べて出かけてって練習して大学の授業出てっていう、超真面目学生2年生がシフトして、
2年生から成績も普通に良くなりましたし、部活で仲間もできて練習もして、成績ももちろんそれに合わせて良くなってっていうことが起きて、
その時に、その水泳部で出会ったのが今のリーナーテクノロジーの社長の大平さんっていう人と、
彼は一個上の先輩ですけど、彼と出会って、大学の時にやってた人材系のベンチャーはもう本当にフルタイムでやってたんですけど、
そこの仕事も彼と一緒に実はやってて、そういう出会いもあって徐々にベンチャーっていう世界を知るようになっていったっていう流れでしたね。
新卒はSMBCに商権さん、そこに入られて、そこはじゃあやっぱりベンチャーとかに行くんじゃなくて、
やっぱり経済に変えていくというところで、やっぱり金融から、それをある意味高校時代から思い描いた通りに近しい形で就活されたってことですか?
そこは完全にそうで、もちろんベンチャーも興味はもちろんありましたし、行きたいなっていう価値観もあったんですけど、
やっぱり自分の小学校ぐらいからのビルがつながっている商社であったり、金融の世界に一回入りたいって思いはもう自分の中でかなり一貫してたので、
割とそういう方向で就活はしてましたね。
三菱商事ではなかったんですか、そこは。
そこはそうじゃなかったのと、根本的に商社も五大商社で泣いてもらえたとこあったんですけど、三菱商事はご縁なくて、
もちろん金融で言うと投資銀行とか、コンサルとかももちろん見てはいたんですけど、やっぱりそっちにご縁があったので、そっちに行ったっていう流れでしたね。
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新卒で入られて、先ほどPEとか総合商社の支援をされていらっしゃったって話だったんですけど、これって新卒1年目からやれる仕事なんですか?
そうですね、SME市日高証券とか野村証券とかもそうなんですけど、投資銀行専門採用っていうのがあるんですよね。
もう給与形態からして違う採用があって、私はそのIBDルートっていうインベスティメントバンキングディビジョンでの採用っていう形で入ったので、
もう新卒1年目からそういう専門的な仕事をやらせてもらうっていう形ではありましたね。
それで3年間勤められて、やっぱ支援だけじゃなくて手触り感もってやらねば、みたいな使命感があられてゲームウィズさんに行かれたんですか?
いやー、当時なんで転職したかったのか、ほんと記憶曖昧なんですけど。
当時ですね、私が大学の時、給与で生徒会をやらせてもらってたんですけど、部活セットでやらせてもらってたんですけど、
そこで仲良くしてたやつが、新卒は三菱ブースさんに入ったんですけど、その後4スタートアップスさんに転職して、
それで多分4スタートアップスで見ている、いわゆるイケてるスタートアップの話とかを聞いていく中で、
一言で言うと彼にくどかれた感じだったかもしれないですけど、こういうスタートアップあるよ、興味あるない、みたいなのを言われて、
ちょっとずつそういう話を聞きに行ってみたりしてた記憶ですね。
当時でIBDの次がこういうスタートアップってすごく珍しいキャリアですよね。
今となっては結構いらっしゃいますけどね、スタートアップに転職していきますっていう投資銀行の人結構いらっしゃいますけど、
当時すごくメジャーだったかで言うとまだ数は少なかった。やっぱり外銀にそのまま転職したりとか、それこそプライベートエクイティファンドに転職したりとかの方がメジャーではあったかなと思いますね。
じゃあゲームウィズさんは1年ぐらいいたんですか?1年いなかった?
ゲームウィズはもう1年ぴったりぐらいでしたね。
そうですよね。で、もう25歳でログラス創業ですよね。
そうです。で、厳密に言うとログラスの創業とゲームウィズのその退職のタイミング微妙に被ってるところがあって、
19年の5月創業になってるんですけど、ログラスって。その時まだ私はゲームウィズに在籍してて、で、これなぜかって言うと、
もう社長には起業しますって言ってて、社長もKOの先輩で言うかKO卒で、年も結構近いんですけど、彼に今泉さんに辞めますって話はして、
で、ただ株主総会までは経営企画で一番株主総会に重要な席を持ってる部署なんで、そこまではちゃんとやりますっていうことを社内にもコミットメントして、
なのでログラス5月に創業したけど、ゲームウィズ辞めたのは9末とかだったかな。8末とか9末に辞めてるっていう感じなので、
1年在籍してるけどログラスの創業はもうちょっと早いみたいな、ここは入れ子だった感じですね。
おだしょー 25歳でこの経営管理とか経営企画の領域でSaaSを作っていくって、一般的に考えるとすごくハードル高そうに見えたりするんですけど、
そこって実際どうだったのかってところと、実際そのハードルどう乗り越えたのかみたいなエピソードがあればお伺いしたいです。
三沢 そうですね、今でも30歳でB2B SaaSのM++やってますって人ってそんなにいらっしゃらない印象ではあって、基本みんな年上の方が多い印象で、
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ただハードルはそんなになかったなと振り返ると思っていて、具体的に言うと結局SaaSを作るときって業務の解像度であったりとか、
エンタープライズの企業様がどういう業務を社内でやってるのかの解像度が一定高いかどうかっていうことを問われると思ってるんですよね。
私はたまたま投資銀行で3年キャリア積んで、割と範囲なキャリアからゲームウィズに入らせてもらったんで、
ゲームウィズで任せてもらう仕事が多分一般的には40歳ぐらいにならないとできないようなことを24とか25でやらせてもらえたっていう、そこのタイムリープがあったっていうのは結構キーです。
プラス、エンジニアですね。これは当時ハードルじゃないですかってラクスルの永美さんとか、今NUもやってる青柳さんにエンジェル出資してくださいって言いに行ったことがあったんですよ、僕自身が。
その時は2人とも断られたんですけど、それはこのプロダクト作るのめちゃくちゃ難しそうっていうコメントを青柳さんの方に言われた記憶があって、
でもただ当時僕はすでにゲームウィズの中でもGoogle Apps Scriptとスプレッドシートと何やかんやを組み合わせて、若干プロトタイプチックなものを作ってたんですよ、すでに。
どういうふうに動いてほしいプロダクトなのかみたいなもののイメージがあったので、あとはエンジニアさえいれば作れるっていうフェーズではあったんですよね。
そこに共同創業者の今CTOやってる坂本さんがいろんなご縁があって見つかって、その人曰く大変だけど作れるんじゃないっていうことを言ってもらってっていうふうな条件が揃ったので、25の僕でもやれるっていう状態になったっていう、そんな流れでしたね。
そういうことですね。坂本さんの話も結構いろんなところで出ているので、そこはまた別途ぜひ皆さんに見ていただきたいなということ思いつつ、そろそろ時間なので、最後にどうしても差し込みたい質問と。
シリーズAで3人の子供がいて、漁家と家庭および子育ての両立、これノートも書かれてらっしゃったので、そこもご覧いただければと思うんですけど、ここは実際冒頭大変なんじゃないかなってことは思うんですが、この辺りは思いの部分を教えていただけますか。
実際大変かどうかで言うとめちゃくちゃ大変ですね。ただ、人の時間って24時間あるじゃないですか。睡眠を仮に7時間取るとしたら、17時間とかありますと。そのポートフォリオをどういうふうに、それこそリソースアロケーション、リソース分配するかって話だと思うんですけど、僕の場合はもう子育てと仕事以外のプライベートがほぼないっていう状態で、生きるっていう意思決定になってるだけで、そうとしかならないなと思ってるんですよね。
最初は結構きつかったです。人間やっぱり自分の一人の時間とか、やりたいことやる時間が1日に、これなんか最近どっかのイギリスの大学の研究で出ておもろいなと思ったんですけど、5時間以上あっても不幸だし、2時間未満でも不幸っていうのがあって、つまり2、3時間自分の自由時間が毎日あると幸せっていうのがあるらしいんですけど、僕は今ゼロ年ので。
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もちろんランチで好きなものを食べるとかありますけど、いわゆる1人で自由な時間を持つみたいなのはほぼない状況なんで、1人目が生まれて最初の1年間とか、あと2人目が生まれての半年間、学んで子育てスタートしての1年半ぐらいはマジで毎日きついって思ってました。
それはもう包み隠さず言うと、もっと本当は仕事したいみたいな。経営者としてのもっと上に行きたいとか、時間を投下したいっていう、ある意味エゴなところであり、社会使命を追ってる人間としての深川智也と、家庭とはいえちゃんと支えなきゃいけないっていう深川智也がうまくバランスしない時期が結構長くて、今振り返るとパフォーマンスが良かったとも言い難いし、結構険しい顔をしながら仕事してたんじゃないかなって思いますかね。最初はそんな感じでした。
深川でもなんとか乗り越えられて両立を今されている、チャレンジされているってところなんですかね。
そうですね。これは乗り越えたと言えるか怪しいんですけど、結論何も変わってないんですよ。時間のポートフォリオに自分の時間を作るみたいなのができてるかっていうと、だいぶちょっといろんな工夫をして、例えば土曜日とか平日のところでベビーシッターの方に来てもらうとかして、自分の時間作れるように家族と調整したり、それは本当にパートナーにも感謝の言葉をかけるべきところなんですけど、そういうので徐々に徐々に調整できるようになってきましたが、根本的には変わってない。
それに対して結構、僕今エグゼキティブコーチングっていうのを本当に月2回とかやらせてもらってるんですけど、そこでそのきついと思ってる自分って状況としては変えづらいじゃないですかっていうところに対して、つらいと思わないメンタルを作りにいくってことを結構やってる。で、それがうまく回り始めて、この1年は割とコンディション整ってきてるっていう感じですね。
でも3人の子育てが大変ですって胸を張って言えるってことは本当にそれだけコミットされているんだなっていうのが伝わってきて、個人的にはすごい嬉しいというか誰なんだって感じですけど。
難しいところですね。コミットメントしてるの、そのコミットの仕方って人それぞれあると思いますし、これはもう本当に言い方間違えると結構いろんな議論を生んでしまう内容なのでコメントしすぎるのもあれですけど、ちゃんと過程が回るように自分の時間なりお金なりマインドなり言葉なりを割いていくっていうことはすごく大事だと思っていて。
やっぱり多くの人は自分の肉体を裂かねばならぬ、特に日本人ってそう思ってる部分あると思うんですけど、去年シリコンバレーに行ったときにシリコンバレーの知り合いの経営者とかが、うちはもう本当にナーサリーとか家のお手伝いさんとかもうめちゃめちゃフル活用してお互いに時間使えるようにコントロールしてるよみたいなことを言っていて、やっぱり欧米だと結構それ当たり前だったりするので、そこをいかに過程の中で調整するための会話を増やせるかっていうことが重要なんで。
今も出来きってるとは全く思わないですけど、割と出来てきてる方なのかなというふうには思ってます。そういう意味ではコミットしてると言えるかもしれないですね。
ありがとうございます。しましたらかなりホットな話題になってきたところですが、前編はここまでとさせていただきまして、後編ではそんな深澤さんが展開される事業を深掘りしながら今後の展望を伺ってまいりたいと思います。前編みなさんありがとうございました。
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ありがとうございました。