1. シュウの放すラジオ
  2. まだまだ迷い中な記録を残す
2022-03-25 37:09

まだまだ迷い中な記録を残す

spotify apple_podcasts

3月18日に #未知のり https://open.spotify.com/episode/0JnqZQwUDsmnTtZTqFyktFを収録

その翌日19日に車を運転しながら収録した音源

この日この時、こんな風に迷っていたのは確かなので、記録として残します


収録日:3月19日


#シュウ放

#樋口塾


シュウ放公式サイト:https://sakashushu.wixsite.com/shuhou

シュウに何かしらインプットしてくれる方:https://bit.ly/346qgnr


ギチ青柳貴哉さんゲスト回!その1~前回の「乞うご期待!」の続きに巻き込んじゃったの巻:https://spoti.fi/3Ch7CWG

ギチ青柳貴哉さんゲスト回!その2~お金のない世界?アウトプットが先?ギブネス?の巻:https://spoti.fi/3HRkap2


シュウ放インプッターさんご紹介:https://bit.ly/3sHPrGj


Twitter:https://twitter.com/sakashushu


ご意見、ご感想、ご質問等、お気軽にどうぞ

メール:sakashushu@gmail.com

Googleフォーム(匿名可):https://forms.gle/S2cff9Vbhy4owRFr7

00:01
今、3月24日木曜日が明けて、3月25日金曜日の0時48分になったところです。
昨日というか、3月23日日が明けちゃったから、昨日じゃなくて一昨日になっちゃいましたけど、
SHUとSHUの道のりへの道のりを2ヶ月半ぶりに配信しました。
収録日自体は3月18日だったんですね。先週の金曜日か。
SHOMAさんと一緒に収録をして、それの配信が23日になったという状態です。
そのちょっと前にSHUの放すラジオの生配信をしていて、
18日にSHUとSHOMAの道のりへの道のりを収録して、その翌日と翌翌日、19日20日の同日が長男のジャグリングがあったもので、
編集は週明けという形になって、道のりの配信も23日になったという経緯でした。
長男のジャグリング大道芸の1日目が終わった後に、自宅に帰る途中で録音した音源。
すごく迷いの中で録った音源なんですけど、車を運転しながら録ったので音質も良くないですが、
その日その時にそんな風に迷っていたなーっていうのはやっぱり本当だなぁと思ったので、
今はその状況からはちょっと抜け出てはいるんですけれども、一応記録として残すためにアップしようと思います。
それでは、もしよかったらお聞きください。
3月19日、お昼の3時50分ぐらいです。
今、長男のジャグリングのあった公園を後にして一人で一旦キロについている状態で録音しています。
最近はYouTube生配信で州のハナスラジオを録音することがほとんどなんですけども、
今帰りの車の中で樋口清則の世界を聞いていて、なんか急に録音したくなって撮ってみているという状況です。
最近のここ2回ぐらいの州のハナスラジオの配信でもそうなんですけど、
頭の中がぐるぐるして迷っているというような感じの状態ですね。
03:01
昨日も実は州と省の道のりへの道のりの収録をしまして、
迷ってもしょうがないというような感じもあるんですけど、
やっぱり迷いというところに今はいるんですよね。
何を迷っているんだろうというところを一旦残したいなと思って話し始めているんですけど、
僕の州のハナスラジオをポッドキャストで配信する根っこにある思いというのは、
基本的にはビビリが僕の気質としてあったことが発端になって、
世の中に対する違和感のようなものを敏感に感じ取る気質だったというか、
気質な人間として生まれた。
HSPというのは先天的なものらしいので、そういう気質の人間として生まれたという表現を使います。
なので小さい頃から違和感があるんですね、世の中に。
ジョージという言い方はちょっと正確ではないですね。
どこかのタイミングでおそらく違和感を感じてということを始めたんだと思うんですけど、
それにずっと突き動かされて生きてきたような気がするんですね。
突き動かされてというと大げさなんですけど、そこから逃げ続けてという表現でも当たりはまるかもしれないですね。
なんで世の中に戦争なんてものがあるんだろう。
なんで差別なんてものが生まれるんだろう。
なんで環境を破壊し続けてしまうんだろう。
そういう疑問・違和感が割と小さい頃からあって、それをずっと持ち続けて、
他の人は違和感を感じても忘れたり、その考えを捨ててしまったりする中で、
僕は捨てずに来たのかなというふうに思ったりもしていました。
ただ、頭の中でいろんなことをこねくり回して、本当に突き詰めて考えるという性質も僕は持っているみたいで、
本当に全てを突き詰めて考えると、全てに終わりがないんですよね。
06:07
境界線がないというか、卵が先か鶏が先かの話に終わりはない。
終わりはない。
これはもしかしたら配信するタイミングによってはしょうまさんがおっしゃってくれたことのネタバレになるんですけど、
中心に向かう渦のような、螺旋のような、同じところをぐるぐる回るんだけど、
心理のようなものと僕は解釈したんですけども、
全ての中心にある心理のような、理のようなものに向かって、
ぐるぐるぐるぐる中心に向かって進んでいくようなものだから、
ぐるぐる回ること自体は悪いことではないというふうなことをおっしゃってくれたと思っています。
それはそうなんですけど、ぐるぐるしていること自体に対する違和感ではないんですね。
今僕が迷っていると言っているのは、僕のその違和感というのが由来でいるということなのかもしれないなと思ったんですね。
僕の違和感って何だったんだろうというところを根本的に問い直す時期に来ているのかもしれないって思ったんですね。
僕は戦争がない社会でないと不自然と思ったんですよ。そんなのおかしいと思ったんですよ。
環境を破壊するなんておかしいと思ったんですね。差別をするのもおかしいと思った。
でも、逆側から見たらおかしくないというふうにも今は思えるんですね。
それは自然な結果であったというふうにも思えるようになったんですよ。
お金についてもそうです。だから僕はお金を使わない、なるべくお金を使わない生活をして、
今でもそこを続けていこうという感性の法則はまだ続くとは思っているんですけど、
自然に生まれて、自然にそういうふうになってきた状態、
陰謀論のように誰かが作り出したというふうには思えないし、作ったとしてもそれも含めて自然だと思うんですよね。
人間も自然の一部なので、だとしたら何が残るんだろう、
わら一本の革命という本を書かれた自然の王で有名な福岡正信さんは、
あるときに急に悟るような、電撃を受けるような体験をされたらしくて、
そのときに思ったこと、感じたことを、この世には何もないじゃないか、
09:07
この世には何もないじゃないかって思った。
そうとしか表現できないというふうに、わら一本の革命という本に書かれてたんですね。
僕は福岡正信さんの文章がすごく常に背景に流れている雰囲気がとても悲観的で、
その面で僕は福岡正信さんのことを好きになりきれないんですね。
言っていることはすごく共感できるし、自然にできる野菜みたいなものを追い求める、
そういう無理をしたってしょうがないっていう感覚、
そのときの電撃のような悟りでたどり着いた境地、
そこから自然に任せるのが一番っていう結果にたどり着いて、
動かれた一生をそうやって捧げた人っていうふうには感じるんですけど、
わら一本の革命、一冊しか僕は読んでないですけど、
いかんせん悲観的で、とてもとても悲観的で、
とてもとても悲観的で、そこが僕はどうにもこうにも好きになりきれなかったんですね。
僕自身が悲観的な人間なんで、よりその悲観を敏感に感じちゃうんでしょうね。
僕自身めちゃくちゃそうなりがちで、でもだからこそそうなりたくないんですけど、
福岡正信さんみたいに僕も電撃を受けたわけじゃないけど、
今ぐるぐる迷う中で、この世には何もないじゃないかっていう感覚はものすごくわかる気がしてるんですね。
福岡正信さんと同じように、僕もこの世には何もないじゃないかっていう感覚が今すごくわかるようになってます。
人が認識していること、これを有意識ではただ認識しているだけのことがあるだけなので、
ちょっと僕の表現では全部幼稚になりますけど、あると言い切ることはできないっていう風に書いてあります。
12:00
解釈していた記憶があります。
あると言えばある、ないと言えばない。
物事が常に動いている。物事、物質、認識、考え、感情、全部が常に動いている。
物質は常に動いている分子の周りを電子がぐるぐる回っているようなもので、全てが構成されているっていう風に僕は理解しています。
それ以外に人間がまだ認識できない、発見できないものがある可能性もあるとは思っているけれども、
少なくとも今人間が認識できる、発見できているもので言うと全てがそれでできているっていう風に僕は捉えています。
だからそれだけはあると人間が認識、発見できているっていうことだけは言えるのかもしれないなと思うんですけど、
そういうことを今僕は自分の頭の中で認識していると思っているんですね。
逆に言うとそれしかないんですかね。
その分子の周りを電子がぐるぐる回っているものが集まって、石ころになってみたり、空気になってみたり、植物になってみたり、動物、人間、農派になってみたりするんですよね。
農派の延長が感情になるのかな、思考には少なくともなりそうだなとかそのぐらいのふわっとしたことしか僕は理解していないんですけど、
そういうことが全然わかっていない時代からいう意識っていうものが考えられていたことはすごいなーって思います。
そんな状態で僕が今感じる違和感って何なんだろう。
ちっちゃい頃から感じていた違和感をずっと捨てずにきたっていうふうに僕最近まで言っていたんですけど、
何に対して今は違和感を感じるんだろうなっていうのがすごくわからなくなってきているんですよね。
15:01
そういう意味でのぐるぐる迷いの中にいる。
ずっと考え続けているっていう意味でバランスをとり続けるっていう意味でしょうまさんはぐるぐる中心に向かうフーズのことを話してくれたんだと思うんですけど、
もちろんそのぐるぐるの中での迷いだとは思っています。
でもしょうまさんがぐるぐるって言ってくれたのは迷いとは別の意味でのバランスをとる回転運動というふうに今は感じ直しました。
一晩経ってですね。
そうではないんだろうなと思うんですよね。
僕が今ぐるぐるしているっていう表現したのは中心に向かってぐるぐる向かう考えをやめないということとは別で、
本当に迷いのようなものがやっぱり生じているなと思ったんですよね。
それは玉ねぎの皮を剥いて剥いて最後に何も残っていないっていうふうな不安と同じような形で、
僕の根っこにあるものって何だったんだろう。
前回自分の皮を剥いて剥いて中に残っていたのはただのビビリだった。
ただそのビビリを元にしてやっぱり今は世の中に対しての違和感それだけは残っているので、
それを原動力にして発信し続けることが僕の価値だと思って、
衆の話すラジオを続けてきているっていうのが今の状態です。
戦争が嫌だなあ、すごく嫌だなあと思う。
僕自身は戦争を体験していないのにものすごく嫌なことだって僕の中では認識しているし、
絶対に怒ってほしくないっていうふうに思っているものです。
でも今でもやっぱり怒ってしまったなあって今は思っています。
僕はそこに対する違和感、今はどれだけそれに対する違和感を持ち続けていられるんだろうって思うんですよね。
直感的な部分では何も変わっていないんですけど、
頭の中でぐるぐるぐるぐるくねくり回して、電子だ分子だそんなところまで考えて、
18:07
物質の最小体に愛があるんじゃないかってことまで考えて、
全ては偶然、ダーウィンの進化論のように自然に淘汰されて残っていることが今の状態だっていうことでしかないのかもしれない。
誰か一人の意思で歴史を変えることができた人って、
今までには一人もいないっていうふうに言われた古典ラジオの深井さんの言葉を僕はそのままある意味間に受けているんですけども、
実際今までに学校で勉強した歴史の中でもそういうふうに感じられた人は一人もいなかったんで、
そうなんだろうなというふうに思っているんですけど、もし違うんであればもっと大きなカウンターがあるんじゃないかなと思うんですよね。
古典ラジオも相当有名なので、それが決定的に違うんであれば誰かが言っているんじゃないかなというふうに意味で、
間に受けていると言うと何も考えずにそのまま鵜呑みにしているって感じられることではありますけど、
ある程度そうなんだろうなというのは、間に受けるというよりは状況からそう推察できるなというふうに僕の中では冷静に考えているつもりなんですよね。
そんな偶然の連続で世の中が成り立っていて、
昨日しょうまさんと話した時にも虚無感みたいなのに襲われてしまいますよねっていう話もしたんですけど、
ある意味それもあります。
ただそれは僕の場合、今の僕に関して言うと、僕の違和感の大元が本当にわからなくなっているんですよね。
僕が違和感を感じたのは、それも偶然そのように感じる気質になったからだし、
そんな状況にいて僕が育った環境の中でそれに対する反動のようなものとしてあくまでもそんなふうに現れたものなんですよね。
平和って何なんだろうなって思うんですよね。
戦争に対して平和があるのであれば、平和がある限り戦争はなくならないっていうような歌詞が、
21:05
急に歌詞の話ですけど、世界の終わりの何かの歌でそんな歌詞がありますよね。
植水さんを最初にゲストに呼んでお話した時、最初にというか植水さんをゲストに呼んだの一回だけですけど、
この間、逆にゲストに呼んでもらったことを思い出して最初にという言葉をつけちゃいましたけど、
週のハナスラジオの方に植水さんが来てくれたテスト会の時に、
僕がある意味世界平和のようなものを目指しているのかもしれないみたいな表現をしたような、
記憶があって、それに対して植水さんが、
全ての人がそういう価値観に染まるみたいなのは逆に不自然な感じがするっていうふうにおっしゃって、
その通りだと思うんですよね。
全てはバランスであるっていうふうに考えた時に、
一切絶対に戦争が起こり得ない世界の中で、
今、この迷いの中で僕は何に違和感を感じるんだろう。
しのごの言わずに、戦争は良くないんだから反対って言うのは簡単ですけど、
ことはそう単純じゃなくなってしまう。
それに対して植水さんが来てくれたテスト会の時に、
植水さんが来てくれた時に、
植水さんが来てくれた時に、
植水さんが来てくれた時に植水さんが来てくれた時に、
植水さんが来てくれた時に植水さんが来てくれた時に
高校が来てくれた時に植水さんが来てくれた時に
高校が来てくれた時に植水さんが来てくれた時に
植水さんが来てくれた時に
僕がそう思ったのか
戦争を何で起こさないといけないんだろう
って思ったときに
構造として
些細な喧嘩も同じことがあると思ったんですよね
相手を力づくで
自分の思う通りにしよう
そう思ったときに
喧嘩も戦争も起こる
って僕は思ったんですね
24:03
だから
力に対して
力で
立ち向かう限り
絶対に
戦争は無くならないんじゃないかって思った
そんなときに
ガンディは
非暴力
不服従
不服従
不服従
不服従の方は僕は当時
ちゃんと理解できてなかったのかもしれないな
って今は思いますけど
とにかくその非暴力
相手に反撃しないっていうところが
僕の中では衝撃だったんですよね
反撃したら絶対に喧嘩になる
絶対に戦争になる
だとしたら
反撃しないことが答えじゃん
ガンディが答え出したじゃん
って
僕は思いました
でも当時
そのガンディでも戦争は止められなかったんですよね
それはコテンラジオで聞いて
そうだったんだって分かった
答え出してるじゃんって中学生
小学校高学年かもしれないけど
そこで思った割には僕は
そこからガンディのことをもっと一人で深く調べよう
という風にはなってないんですよね
中途半端なやつですね
まあそれは置いといて
非暴力不服従の
不服従は
戦争に対して
ではなくて
圧勢に対してそうだったんだっけな
感じたらいいんだろう
感じたらいいんだろうっていうよりは
どう反応したらいいんだろう
この世には
何もないじゃないかっていう風に
思ったら
自分の誠意への
執着も
ある意味
なくなってもいいのかもしれないなーって
どっかで思う自分がいます
27:02
でも
それは逆に
多分
自然じゃない
っていう風にも思います
ちょっと前にゲストに呼んだ
ゲストにも呼んだけれども
大学生の脳みそ垂れ流しラジオの
枝さんとあやめちゃん
僕が今それを
話し始めたのは
彼女たちと話した時に
僕が言ったことを言おうとしたんですけど
それはゲストに呼んだ時じゃなくて
僕が彼女たちを
ゲストに呼ぶ前に
先に僕がゲストとして呼ばれた時
要するに
週の話すラジオの中で話したんじゃなくて
大学生の脳みそ垂れ流しラジオの中で
僕が話したことだったと思うんですけど
彼女たちが
韓国の
ドラマの中で
落馬するシーンを
撮影するために
馬の足を引っ掛けて
落馬させて
結果的にその馬が死んでしまったことが
問題になったことについて
話している回
その違和感の中で
彼女たちは
でも
馬を殺して食べる
っていうこともあるよね
っていうような
迷いの中で
そうやって殺して食べる以上は
自分たちも殺されてもしょうがない
動物に
妻とか
表現してたかな
ちょっと忘れましたけど
殺されてもしょうがない
その場にならないとわからないけれども
そうされてもしょうがない
っていう覚悟を持たないといけないのかな
っていうような
悩みを話していて
悩みというかもやもやを話していて
で僕は
最後の最後まで
生きようとするのが
自然なんじゃないかなっていうことを
言いました
その意味において
この世には何もないじゃないかっていう風な感覚が
あっても
いつ死んでもいいっていう風な感覚には
今はやっぱりならない
ですよね
最後まで生きようとするのが人間だって思う
それを突き詰めていくと
やっぱり争いになる
側面っていうのは
あるんだろうなって思うんですよね
ウクライナもロシアも
必死で生きようとしている
30:00
だろうなって
思うんですよね
だいぶ前ですけど
トロッコ問題だったかな
ありますよね
ちょっと正確な表現は
忘れましたけど
トロッコ
の進路を変えることができる
状況にあって
片方は
3人とかだったかな
片方は1人
このまま行くと5人が
トロッコに引かれてしまう
そのトロッコ
の進路を変えることができる
そのレバーを
あなたが持ってたとして
その進路を変えた先には
1人
そのトロッコに引かれて死ぬ
ということが確実である
あなたはどうしますか
っていうような話だったと思うんですよね
さらにそれの
進化版として
自らその1人を
突き落として
そのトロッコを
止めることで5人が助かる
っていうようなバージョンもあったような気がします
それは偶然
死ぬ対象が
外部にいる人間ですけど
自分自身
自分自身だったらどうなんでしょうね
自分自身を
殺してでも
5人を救おうとするっていうのは
自然だと思えない
人は
生きてる以上やっぱり自分が
一番かわいい
人でなくても
全ての生命体がそう
だと思うんですよね
それが逆転したとしても
それはよく
言われる偽善だったり
自己犠牲を
自己犠牲という言葉を
批判的に使うときに
使われる状態だと思うんですよね
使われる状態
なんかちょっと今
日本語の表現だいぶ下手でしたけど
今人類の歴史の中で
人類は
知恵を発達させて
ものすごく
便利で
楽ができる社会を
作り上げてきたと思っています
それによって
世界の人口は
増え続けている
というふうに
僕は今認識しています
地球上にある物質が
33:03
自動的に増えない以上
人間が増え続けると
限界がきますよね
普通に限界がきますよね
地球上で
生命の
絶滅臭
というんですかね
それの絶滅していくスピードが
凄まじいらしいですよね
また
アバウトな表現ですけど
そういうふうに
おかしなことになってきますよね
おかしなというのも
あくまで
人間の都合にとってだけなんですけどね
自分たちの
首を絞めるんですよね
それがそもそもの作りなんだとしたら
僕はどこに違和感を
やっぱり感じるんだろうな
戦争と喧嘩を
程度の差というふうに
僕は捉えて
本質的には
小さいものが喧嘩で
それのめちゃくちゃ大きいものが
戦争
というふうに思ったんですけど
喧嘩はしょうがないって
割り切っちゃってもいいのかな
って急に次元の
低い話になってる気がするけど
戦争みたいな
本当に極端なもの
やっぱり
抑えたいって思うだけなのかな
メタ認知をすることで
自分たちが
一番ちょうどいい
絶滅種も増やさずに
人間の人口も増えすぎずに
っていうことを
本当にメタ認知する人が
全員とは言わないまでも
ある程度の数になったら
できるかもしれない
っていう感じは
どこかにしますよね
します
っていうぐらいの本当に直感的な
アバウトな話ですけど
そのぐらいが
今の僕の寄り所かもしれないな
と思います
何の結論も出てないですけど
ほんのちょっと
迷いから抜けてる
ちっちゃい
入り口が開いたような気がするので
今日はこのぐらいにしておきます
はい
この日はこんな感じでした
冒頭で
言ったように今はもう
この状態からはだいぶ抜けて
心がちょっとは
軽くなってるような状態です
36:01
ただ
それが言語化
どんなふうにできるかっていうところはまた
別問題だと思っているので
今後も週のハマスラジオで
自分の内面を
言語化したり
意識の持ち方の提案みたいなのを
もうちょっと健全に
やっていけるようになれたらいいな
というふうに思っています
なので次回はYouTube
生配信に戻ろうかなというふうに
今のところ思っています
今回は
インプッター紹介のコーナーとかもなかったので
申し訳なかったんですけれども
それも次回のYouTubeライブ配信で
できたらいいなというふうに
思っております
というところで
今回はこの時の
記録という形での配信でした
いつも
聞いてくださっている方
今日初めて来てくださった方
本当に感謝しています
ありがとうございます
ではまた
37:09

コメント

スクロール