1. シュウの放すラジオ
  2. 田んぼに水を入れる「水引き」..

ボクがお米を作り始めたきっかけは、田んぼに水を入れる「水引き」という作業を引き受けたことでした。

水引きについて、もうちょっと掘り下げて話し始めたんですが・・・


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#なるべくお金を使わない生活 #省マネ(省マネーの略)

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今年は年賀状をいつも出していないんですよ。
毎年、十何通ぐらいしか出していない人ではあったんですけど、今年はいつも出していません。
取り立てて強烈に出したくなくなったとか、そういう理由があるわけでもなんでもないんですけど、毎年そうではあったんですけど、年賀状を書くのってノルマみたいなイメージがあったんですよね。
年賀状自体がだいぶ少なくなって、もう年賀状は出さないよっていう人がどんどんどんどん増えてはいると思うんですけど、年賀状だけでしかやり取りしない相手ってやっぱりいるじゃないですか。
だからそこがちょっと気になってはいるし、どうしようかなーっていうのも思ってるんですけど、SNSとかで繋がってて普段からコメントとかメッセージでやり取りしてる相手だったらもう出さなくなって、そんなに問題ないのかなーっていう気はしないでもないですけど。
年賀状に全くなくなるとそれはそれで寂しい気もするしって言いながら今年は出せなかったんですけど、今年に関しては義務感みたいなのの方に引っ張られるのが嫌だったのかなー。
このポッドキャストを始めたきっかけがその辺の年末の12月の20日とか過ぎたあたりだったからもうこっちの方に夢中になっちゃってたっていうのが本当はメインの理由なんですけどね。
だからこのポッドキャストを始めてアップしたのもおみそか、その翌日の元日もアップするみたいな、年末年始の雰囲気とは全く違う。
まあポッドキャストの中でその雰囲気出せばよかったのかもしれないですけど、それはどっちかというとそっちのけでしたね。
自分の生活にそういう年末年始の雰囲気が全くなかったかっていうと別にそんなことはないんですけどね。
年越しそばも食べたし、元日には餅も食ったしゾウにも食べたしってやってはいたんですけど、年賀状は今年はダメでしたね。
03:10
今回は音声で届けるみたいなのを試してみようかなとは思ってます。
まだ撮ってはいないですけど、そんなに人数も多くないんで、音声でその人に対するメッセージをとって、送れる人には送ると。
ちょっと送り先がもう本当にハガキでしか住所しか届ける手段がないという人にはちょっとどうしようかなーっていうのは迷ってはいますけど、
試しにそういうふうにやってみようかなーなんて今んとこ思ってます。
明けましておめでとうございます。
今更ってことはないか。世間的にはまだ全然正月でもありなのかな。
今は1月5日の1時55分、もうちょっとで2時っていうようなタイミングでまた山の中で録音してます。
前回がお米作りをお米を作り始めたご縁についての説明でカモレオをやってる縁で仲良くさせてもらってるおじいちゃんって言ったら失礼にあたるか。
その人から紹介というか誘われるじゃないな、その人に言われて水引きっていう田んぼに水を引く作業者を去年はやってみたというところまで話し始めたところだったと思います。
その続きでどんなふうにお米を作り始めたかっていう話を今日メインにしようと思ってたんですけど、
水引きがどんな感じか、前回ざっくりとは話したんですけど、もうちょっとその内容を話さないとなんとなく伝わりづらいかなと思って水引きについてもうちょっとしゃべっとこうと思います。
水引き前回も言ったんですけど田んぼに水を引く作業、または作業者のことを水引きって言いますね。
あぜ道の脇にある水路、だいたいのところはヒューム管とかフリウム管とか、ちょっと前回ヒューム管で言っちゃったんですけど、なんかいろんな言い方をするんですよねこっちのじいちゃんたち。
ヒューム管かフリウム管か、前回ブロックで作ったなんて表現してたけど、コンクリートで作った土管のU字型になった水路、道路の脇にあるのと同じようなイメージでいいと思います。
それがほとんどかな、でもたまに単純に土を掘っただけ、土がむき出しの土がへこんだ水路みたいなのもまだところどころ残ってます。
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そんなところで石板っていう木の板を、木の板でその水路に流れてきた水をせき止めて、そこから脇の田んぼに入れるっていうような作業をするのが水引きですよね。
その水引きを、田んぼの時期3月、ここら辺では3月11日ぐらいから7月20日までかな、そんな風に決まってます。
お米としては普通作じゃなくて早期米ですね。
宮崎は台風が多いから、普通作じゃなくて早期米の方に力を入れてるところが多いと思います。
僕が住んでる琴地区なんかはもう完全に早期米で統一してますね。
前回言ったみたいに琴池っていう池から水を引くっていうところで、みんなで足並みを揃えるしかないんですね。
その池から水を引く水を流してるから、その池の容量分しか流せないわけですよ。
わかりますかね。
まあその要は単純にそこの池の水がなくなってしまったらもう引く水がなくなってしまうと。
そういう状況ですね。
だから毎朝水を引く作業者、水引きが何人かいて、その個体池から引くルートっていうのもいくつか分かれてるんですよ。
田んぼがいっぱいある、その個体池を囲むようにしていっぱい田んぼがあるような場所なんで。
その担当が、本来だったら2人でいいのかな。
でも僕はまだ作業慣れてないので、本来水引きがするエリアの半分にしておいた方がいいだろうっていう配慮をいただいて、
そこを2つに分けたので、本来2つに分かれてるところを、
僕が行うべきところは、もう1人手伝いというか分担してやってくれる水引きさんが1人いたので、
3人、朝その個体池のメインの水門のところに集まって、
じゃあ今日はどのくらい水を流しましょうかっていうところから始めるんですよね。
流しすぎて、どんどん流すのが一番もちろん田んぼには水が溜まるんですけど、
雨が最近降らないよねとか、そんなぐらいの雨が降らない日が続くと、どんどん池の水がなくなっていくわけですよ。
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だから流しすぎてもいけない。でもあんまり流さなくても今度は田んぼに水が溜まらないっていう。
なかなかシビアまでいかないかもしれないですけど、微妙な加減を毎日迫られるというか判断しながらやってるのが水引きの作業でした。
そんな中でですね、いろいろ感じたのが、一番はその田んぼにそれぞれの人がやっぱり自分のところにちゃんとたっぷり水を溜まっててほしいわけですよね。
だから、我田飲水っていう言葉あると思うんですけど、僕その我田飲水、自分の我の田んぼに水を引くで我田飲水。
なんていうんですかね、ことわざ的な意味合いで今も使われてると。
自分のことだけを考えて他の人のことは二の次だっていうことを我田飲水って使われてることではもちろん知ってたので、そういう意味合いでだけ理解してたんですけど、
もう水引きをやってると、もろにその言葉の意味通りのことが起こるんですね。
通常はそんなに、僕の地区なんかは仲がいい穏やかな人が多いのでそこまでじゃないんですけど、
小田池に接する田んぼを持ってる人たちっていうと、小田地区の人だけじゃなくて隣の地区とかさらにもうちょっと隣の地区とかいろんな人たちが田んぼを持ってるわけですよ。
本当にちょっと離れた地区の人なんですけど、ぶっちゃけその田んぼの水をうちに引けて、
ちょっと気の短い人とか、昔こう荒っぽかった人っていうのもちらほらいて、だからもう極端な話、一回僕が目撃したのが特組合の喧嘩してましたね。
マジかと思って僕が留めに入っててのこともあったんですけど、本当そんなこともありました。
それぐらい田んぼの水っていうのはお米を作る農家、米農家にとっては大事な大事なものなんですね。
だからといって自分のところだけに水引けばっていうのはもちろんいいことじゃないんですけど、
未だに人の中にはそういう部分が全然残ってて、それがもうなくなりましたみたいなことでは全然ないなっていうのを本当に感じてます。
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自分の中にももちろんお米作りに限らずですけど、振り返ってみると本当に自分のことだけ考えて、
自分以外の人へ行くはずの水をせき止めてるようなことが、後から振り返るとそういうことだよなって思うことはいっぱいあるわけですよ。
だからそれ一つとってもそういうことにすごい気をつけないとなーって僕なんかは思ったんですけどね。
だからこそ世の中全体の流れを常に俯瞰して見ていたくて、僕はこのポッドキャストもタイトルに話すラジオってつけたんですね。
手放すの意味の話すなんですよ。
まあこうやって話をするのを話すとちょっとかかってたりするんですけど、
手放すラジオっていうよりなんか話すラジオっていう方がなんかちょっとしっくりきたんでそういう風にしたんですけど。
だから2回目の配信の時かな、
ボーダレスの田口さんと同じく地球のことを考えてハチドリ電力も僕のやってる活動も同じような意識だっていうのはそういう意味で言ってたんですよね。
だからお金自体がどうこう悪いとかいう話じゃないんですけど、
そこまで手放せるかなっていうのをまずは自分の中で実験的にやってみるっていう意味もあるし、
本当にこの欲を手放してみるっていう意識その方が本当は枕の視点で見た時に僕がどっちを望んでるかって自分で思うと、
ガデン院水みたいな自分のところにだけ水をひいて気持ちいいなんて全く思えないんですね。
だから自分だけが手放せばいいとはもちろん思ってないんですけど、どこまでやれるのかなって。
よく僕がSNSとかで書いたりすることがあるんですけど、イメージとしてはどんな状況でも生きている人っていうのはみんな幸せを感じる意味では、
意味ではっていうのはちょっと変なんですけどね、心の表現がうまくずっとできなくて。
でも一緒、どんな状況の人でも一緒じゃないかなと。
お金を稼ごう稼ごうってするけれども、お金をたくさん持った人とそうでない人が日々暮らしていく中で、
どうやって幸せを得るかっていうのとは本当はあんま関係ないんじゃないかなって思ってるんですよね。
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だから超貧困国の人でも、それは地理的な制約を除いた考え発想で、超貧困国な人でも、
あとは時間的な意味でも制約を除いて発想してて、
原始人でも人がどんなふうに幸せを感じるかっていう、その点では全く一緒なんじゃないかなと。
同じように心の持ち方で幸せを感じることができるんじゃないかなって思うんですよね。
そんな意味で今なるべく手放すっていうことを進めたくて、
進めるっていうのとまた違うのかな、どこまでやれるのかなってさっき言ったみたいに、
手放した方がすごく自分としても心が楽になっていってる感覚もあるんで、
それを今はやってみてるところですね。
そんな意味でなるべくお金を使わない生活をしているっていうことの、
結局はその紹介の方がメインになっちゃいましたね。
水引きの話でガデン・インスイの話からそんな風になっちゃいました。
また次回、水引きの話の続きをするかどうかはちょっとわからないですけども、
今日はこんな感じにしておきます。
はい、それでは。
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