9月14日から京都でヴィパッサナー瞑想合宿に参加して、今、西宮のバドさんのところに車を走らせているところです。
バドさんの生態所ですね。ご実家で生態所のあるところに向かっているという感じですね。
えーとね、瞑想合宿10日間ベースなんですけど、前後に1日ずつあるから、12日間、まあいいや、細かい話はいいんですけど。
とにかくメインが10日間の瞑想合宿に参加してきましたけどね。
いやー、やばかったですね。
なんかシュラシュシュシュっていう番組の方で、シュラさんとなずくるさんと3人でやっている番組ですね。
あれでなずくるさんが、どっちか、シュウさんはそれに参加してどっちかなんじゃないかみたいなめちゃくちゃドハマリするか、意外とピンとこなかったみたいな反応するか、どっちか両極端なんじゃないかって言ってましたけど、
まあどっちかっていうとドハマリなのかな。
でもね、なんかな、なんていうか、今日あえてこの久々に車を走らせながら撮ろうって思ったのは、理由がありまして、瞑想合宿そのものじゃないんですよね。
そのものもまあめっちゃ面白かったんですけど、僕がこの衝撃を受けましてですね、
それも初日、初日厳密に言うと10月14日に夕方受付をしたその日じゃなくて、瞑想合宿として本格的に始めた10月15日なんですけど、
日中朝4時には起きて1時間半とか1時間とかそういう瞑想を連続でずっとやっていく休憩とかご飯を除けば、ほとんどずっと瞑想を日がな1日やるんですよね。
夜7時から講和があるんですよね、毎日。
1時間半ぐらい、10日間全部夜7時から1時間半ぐらいは講和があるんですよ。
講和っていうのが、ヴィパッサナ瞑想のこの合宿のコースを作ったというか、ベースは元々あったんでしょうけど、
僕が今回参加したヴィパッサナ瞑想合宿、日本では京都と千葉にありますけど、
ヴィパッサナ瞑想センターの今の形で最終的に作られた方みたいなイメージなのかな、
そのご縁家さんが録音されたテープを聞く、音声を聞くんですよね。
それで初日に聞いた時点でね、僕の中でね、一言で言っちゃうとめっちゃ衝撃だったんですけど、
なんかね、一個一個はもしかしたら大体知ってたようなことなのかもしれないんですけど、
なんか全てがね、一本の線に繋がったっていう感じだったんですよ。
ヴィパッサナ瞑想自体は、ゴータマシダルタさん、ゴータマシブッダさん、
ブッダって言うと通常ゴータマさんのことを言うんですけど、厳密に言うとブッダって悟った人のことを言うらしいから、
ゴータマさんだけのことじゃないんですよね。
でも今回僕が衝撃を受けたのは2500年前に仏教の元になったゴータマブッダさんですよね。
そのブッダさんがそのヴィパッサナ瞑想を、という修行法を作った。
それもどこかで聞いてたのかもなぁ、古典コミュニティでもポニタンが前に受けられてたのを聞いてたり、
ポニタンの影響でリョウさんが受けて、その感想会でそのこと自体は聞いてたのかもしれないけど、
僕の中ではそれ結構意識から詰まってたんですよね。
どうだったっけな、ぐらいの感じなんですけど、法話の中でその話に触れられて、
僕が今から喋る話、めっちゃウロ覚えなんで、
法話は1時間半もあるし、初日だけでもそれだけある中での僕が受けた印象っていうので話しちゃうから、
いろいろ語弊があると思うから、これが全てだと思わないでください。
気になった方はご自身で調べるぐらいな感覚でいてもらった方がいいと思います。
でも僕の中では、どこから何を喋ったらいいんだろうな、本当にね。
僕の感覚なんでね、直感、感覚的な話になっちゃうから、
なんで衝撃を受けたかっていうことなんですけど、
ブッダさんがそのヴィッパッサの瞑想っていう修行法を作られて、
内容のことから話した方がいいのかな、
ブッダさんがどんなことをしてたのか、
どんなふうなことをその修行法として確立されたのかっていうか、
どんなことを考えてそこに至ったのかみたいなの。
古典ラジオの深井さんとかも、仏教って何回か扱われてて、
ゴータマブッダさんのことも何回か触れられてると思うんですけど、
めちゃくちゃロジックがすげえみたいな話されてたんですよ。
それは僕も覚えてて、ロジックがすげえみたいな。
西洋哲学もすごいけど、それに比べてもとにかく、
仏教というか東洋哲学というか、
ブッダに始まる教えがロジック、
徹底的にロジックで固められてるみたいな表現されてたと思うんですよね。
ただそのロジックに基づいた形で修行をして、
悟りに至るみたいなことを言ってるけど、
僕の記憶では、これ記憶あってるかわかんないけど、
深井さんの表現では、何か知らないけどある時バーンって、
突然悟るみたいな表現されてたと思うんですよ。
僕もああそうなんだなって思って、
なんとなく悟りってそういうイメージないですか?
僕悟りに対して前々から憧れみたいなのもあって、
いいなーみたいな、自分みたいなものが簡単に悟れるものじゃないんだろうけど、
それでも憧れはあるなーみたいなのはあって、
なんか突然閃いたみたいに、
バーンって悟っちゃうようなものなのかなー、
そうなんだなー、そうなのかー、みたいな風に思ってたんですけど、
なんかね、違うぞって思ったんですよ、今回。
その講話を聞いてですね、ご縁加さんの講話を聞いて、
それ違うなーと思ったんですよ。
なんかね、深井さんも、
ゴートマーブッダさんが言われてたのは、
理論、ロジックがすごいんだけど、
そうじゃなくてでも悟りに至る道は、
心体地、これ深井さんの表現で言うと心体地なんですけど、
一般その瞑想、今回僕受けたご縁加さんの講話の中の表現で言うと、
自分の実体験みたいな表現だった気がします。
自分で体験したことしか、
今年かーって言うと5年あるかなー、
自分で体験したことが一番自分の今後の行動に効果があるというか、
頭でいくら分かってても、それを実践に移せないみたいな話、
それって今までもどこでも賢でも聞いてきたような気がするし、
その通りだなーって思う?
頭では分かってるけどなかなか行動に移すのは難しいよねーみたいな、
そんな話としては今までも幾度となく聞いてきていたんですけど、
大霊ブッダさんはですねー、
なんでしょー、なんでしょー、なんでしょーとかになっちゃってるなー、
えーとねー、僕の中で一本の線に繋がったから、
僕の中では前提としていろいろ分かったつもりになっているというか、
そういうもんだっていうふうに思っているものがいくつかあって、
それに今回プラスして乗っかった要素がいくつかあったと思ってて、
本当は1時間半分の内容を全部間違いのない表現で言っていかないと、
僕が受けたみたいな衝撃は受けられないとは思うんですけど、
あくまでもこれは僕がそういうふうに思った!みたいなことを、
今日じゃないと残せないなと思ったんで、
うまく喋れないことは分かってるけど、今こうやって喋ってるっていう感じなんですね。
でねー、正確な表現は、
こういうのも僕どんどん忘れていっちゃうタイプっていうのは、
この週の話すラジオを聞いてくださっている方々は十々承知だと思うんですけど、
ポイントとなるワードっていうのはいくつかさすがに覚えてまして、
このねー、大魂仏陀さんが言われたことはロジックがすごいんだけど、
基本的にはめっちゃシンプルなこと言われてると思ったんですよ。
何がすごくてそれがなんで悟りなんだ?みたいな話なんですけど、
いろいろ間違えますよ、間違えると思いますけど、
体と心っていう風に、
まあ仏陀さんが自分の修行、瞑想を通した修行の中で、
自分の心と体をめちゃくちゃ観察して観察しまくって、
自分の中での、大魂仏陀さんの中での解釈っていうか、
こういう風になるっていう風に思われたことの中に、
自分っていうものは何かっていう文脈の中で、
体と心に分かれるみたいな話で、
体は体っていうものが一つあって、
この肉体が自分である。
でもその中に心っていうものがあって、
その心がまた4つだか5つだかに分かれるんですよね。
これ4つかな?5つのような気もしないでもないけど、
なんか僕の記憶では4つしか覚えてないんですけど、
意識、認識、感覚、反応、
多分その4つだけだと思うんですけどね。
合ってるかな?
とにかくそのね、その中の感覚と反応、
僕の中ではそれだけが分かっていれば十分と思ったんですよ。
僕も週のハナスラジオで散々今まで自分が経験してきて、
HSPだから花瓶に反応して、
世の中の育成が気になるみたいなことをやって、
それによってじゃあどうしていったらいいのかっていうのを
自分なりにつけつめて一生懸命考えてきて、
自分ができる言語化を精一杯してきたつもりなんですよね。
このポッドキャストでやってきたつもりだけど、
でも僕の感覚としては、
言語化っていうのはいつも絶対不十分で、
完璧な言語化っていうものはないって思っていたし、
今でもある程度そう思ってるんですけど、
ゴータマブッダさんの表現聞いたときに、
ここまでの言語化できるのかって思って、
だからまだフパッサナ瞑想の合宿の初日で、
僕の実感として実践して、
何かを実感として得たみたいなのが何もないのに、
講話を聞いただけで、その言語化だけで、
もう最初から僕衝撃受けたって言ってますけど、
今までの人生の中で受けた衝撃の中でも、
マックスレベルの衝撃を受けちゃったんですよね。
もう、それですやん!みたいに思ったんですよね。
意識・認識はともかくとして、
何から話したいんだろうな。
当時のインドは今よりもだいぶ苦しいというか、
生きるのが辛いというか、幼稚な表現になっちゃうな。
大変な世の中だったと思うんですよね。
生きるだけで人間は苦しい、辛いんだ、みたいな、
そういうベースから、そういう発想から、
そこを抜け出すためみたいな感じの思想だと思うんですよね。
ゴータマ・ブッダさんにしても、
当時のインドでのいろんな宗教的なものの考え方って、
そういうのがベースになってたと思うんですけど、
それから抜け出す、その苦しみとはなんだ、みたいなものを、
自分の体をひたすら観察して、
瞑想で、ビパッサナ・瞑想っていうのは、
ひたすらよく観察するみたいな意味なんですよね、確かね。
これもなんか微妙に間違ってる気がするけど、
ひたすら自分の内側を観察して、
そこで出てきたのが、自分の体の感覚、
それをめちゃくちゃ細かいところまで見ていく。
ゴータマ・ブッダさん、今の量子力学でようやく分かってきたことみたいなことを、
肺感覚である程度言語化してたみたいなんですよね。
素粒子みたいなものがあるっていうのを、
なんていう言い方だったっけな、カラーパだったっけな、
カラーパみたいなものが最小単位として体に限らずか、
世の中にはあるみたいなことを言ってたらしくて、
そのぐらいの解像度でめちゃめちゃに自分の中を観察して、
そういう感覚を得てたと思うんですよね。
その感覚で、自分にとって良い感覚と悪い感覚という風に分かれる。
その良い感覚と悪い感覚という風に分かれた時に、
その良い感覚を得た時に、その感覚から、
感覚に対しての反応というものがまた体、心かな、
心の反応として何かが起こると、何かの反応がある。
良い感覚に対する反応は渇望になる。
もっとこの良い感覚を得たい、得続けたいっていうんで渇望になっていって、
さらにそれが大きくなって執着になっていくみたいな話なんですよ。
悪い感覚を得た時の心の反応として、
体でもいいような気がする気がしてきたけど、
心と体は一つだみたいな感覚で聞いてもらえればいいと思うんですけど、
悪い感覚を得た時には嫌う、悪い、嫌悪の感覚が出ていって、
ひたすらそれを嫌悪していくみたいな、今度は悪循環が始まる。
どっちにしても苦しみが生まれるっていう風に言ってるみたいなんですよね。
でね、僕の中ではその言語化が、
要は感覚と反応を分けるっていう言語化が今まで自分の中でできたことがなくて、
どっかで聞いたことがあったのかもしれないけど、
自分の感じとしては、初めてそれがしっかり理解できたというか、
腑に落ちる形で理解できた、体に染み込んできたというか、
さっき言った、それですやん!みたいな感じになったんですよね。
それが言語化できているとできないのといえば、僕の中で大きな違いがあって、
僕がすべての行動、どんな行動をとったとしても、
いろんなバリエーションがある。
生き方もそれぞれ人によって分かれるし、
あとは気質も分かれていくけど、
僕なんかはHSPっていうのを知った瞬間にめちゃめちゃホッとして、
もうそれは受け入れていっていいんだ、みたいに思ったみたいなのがあるけど、
HSPであろうがなかろうが、ホッと奥深くの根本原理みたいなものを、
めちゃめちゃ分かりやすく単純に言語化してあるじゃん!って思ったんですよ。
そこで僕の中で全部のストーリーが、今までモヤモヤがかかっていたものが、
一本の筋が通って、光が見えたみたいな感じだったんですよね。
光が見えたとか言うと、めっちゃ宗教的に聞こえますよね。
本当に見えたわけじゃないですからね。
でもそれをやるための修行法が、
ビパッサナ迷走っていう、大魂仏陀さんが作った迷走法だったんだっていうのを、
初めて知ったっていう、少なくともそんな感覚だったんですよ。
単語をつなぎ合わせるとそうなるみたいなところまでは、
ある程度、ざっくり9割くらい、実は知ってたのかもしれない。
でも僕にとって最後のパーツが、この感覚と反応が分かれるっていうところだったんですよね。
感覚と反応が分かれるから、その反応を、
この先にももちろんストーリーの話があるんですけど、
なんでビパッサナ迷走をやったら、
感覚と反応が分かれたときの、
その苦しみから逃れられるっていう話になるかっていうと、
ここから先は僕も今後実践していって、
体感していかないといけないことではあるんですけど、
その反応は、心の癖として現れるようになっていると。
それは人によって違う。
その反応がどんなふうに現れるか、代償もあるし、
現れ方の差もあるだろうし、
でも、それは要は無意識に、
もう習慣的に現れる反応だけど、
それを観察することによって、
その反応がめちゃめちゃ客観的に、
自分の体の中というか心の中みたいな、
そういう雰囲気で捉えてもらえれば今の段階ではいいと思うんですけど、
本当に客観的に人のことを見るみたいに、
その体の感覚を見ていって、
その良い感覚、悪い感覚みたいなのを、
自分で微細な感覚まで感じ取れるようになっていったときに、
これが現れたときには、
どういう反応があるというところまで見ることができるようになると言われていると。
初日の講話ではそういうふうに言われていたと思うんですよ。
表現間違ってると思います。間違ってると思うけど、
僕の中ではそう受け取って、
それで十分だったんですけど、
そうなっていったときに、
自分の感覚だから、
それに取り込まれてしまって、
例えば怒りの反応が出てきたとしましょう。
剣王から怒りに変わったみたいなことがあったとしたときに、
その怒りの火に焼かれてというか、
もう冷静ではいられない、とても平静ではいられない、
冷静って言い方しましたけど、平静って言い方に変えますね。
ビパソナミエストの中では平静っていう言い方が
めちゃめちゃ大事なキーワードになっていくので、
平静っていう言い方に変えますけど、
平らで静か、平静ですね。
平静でいられない状態になってしまう。
で、自分自身振り回されてしまうし、
自分が渇望だったり、剣王だったりっていう、
自分の良い悪いの判断、
判断じゃないな、判断みたいなちゃんとしたことができてるんじゃないんですよね。
瞬時に無意識に反応してるから、
自分のための動きなのに、それに振り回されて、
自分がめちゃくちゃ苦しむことになる苦しみを生み出して、
人生がどんどん苦しい方向に流れていってしまうっていう、
その仕組みがめちゃくちゃ腑に落ちちゃったんですよね。
少なくともそのロジックとして、
自分の感覚としてはそれも分かるというか、
そうですやんって思っちゃったんですよ。
本当に。
いやー、もともと僕は思い込みやすいタイプではあります。
人生もね、いろんな触れ幅でやってきました。
いろんな人の言ったことに、
俗言になってその人の真似をひたすらやってみたいな時期もあったし、
今回もそういうのが久々に来たのかなって言えなくもないんですけど、
少なくとも今本当にそう感じているからそれでいいと思ってはいるんですよね。
微発作の迷走的にはこういう状態はあまり良くないと思ってるんですけど、
今僕も喋ってて尻目ずれつだし、
平成、むしろ平成じゃない。
ばついているような状態だとは思うんですね。
ただその中でも平成さを保とうとしてみたいにもちょっとはしてるけど、
どっちかっていうと途中で言ったみたいに、
今日しかこの状態を残せないから、
むしろ平成でないんであればこれを残しておいて後で平成に見れるんだったら、
それはそれでいいかなとか、
こういうふうな状況になっている、
自分がすごく衝撃受けたみたいなことが、
全てが悪循環に落ちるとも限らないとも思ってるんで、
自分の中ではめちゃくちゃ意味のあることになるんじゃないかと思って今こうやって残してるんですけどね。
とにかくそういう感じで一本筋がビーッと通ってしまって、
少なくとも僕の人生に関しては今までフニャ落ちなかったことが一つ、
今のレベルで言うと原理原則に近い部分がめっちゃ納得できたっていう感じだったんですよ。
で、これって僕が特殊っていうのも一つあるかもしれないけど、
めちゃめちゃ心と体の根っこの根っこの根っこの部分をすげえ観察した、
でもこれブッダ、大霊ブッダさんだけがそうなれたわけじゃないみたいなんですけどね。
歴史の中で大霊ブッダさんが現れるまでの間にも、
すごい数のブッダ、悟りを得た人っていうのが現れたし、
その後にもブッダのリパサナ瞑想に沿って修行してとか、
それに沿ってじゃなくてもブッダになった人、悟った人っていうのはもう数知れず現れたみたいなんですけど、
さっきのめちゃめちゃロジカルな実用的な理論的な科学者のように自分の体を実験しながら、
誰にでも伝わる言葉で言語化したのがその初めての人がブッダ、
単純にヴィパサマ瞑想にドハマリして、それをやるようになっているただのミーハーな奴って思われたら思われたで全然いいんですけど、
僕の中で全然違うんだよなあ。
それはそうなんですけど、結果として行動に現れてくるのはそういう行動になるかもしれないけど、
自分の中で一番大事なのは、初日に僕が受けた衝撃、全てが一本、全部が繋がって理論的に筋が通っちゃったっていうことなんです。
だからね、その後いろいろ大変だった。
普通の感覚で言うと、いろいろ大変。
動画間ずっと瞑想し続けるっていうのには、それはそれなりに大変かなみたいなことありました。
いろいろあった。足も痛かったし、全然集中できなかったし。
ありました。
しかもいろんな体験をする人がいるんですよね。
今までも、日韓界隈とかだったら、
アポニタンは何かという、瞑想中に神秘体験的な何かがあったり、
神秘体験って言うとあまり良くないかな。
まあとにかく、わーすげーみたいな感覚になったことがあるとか、
そういうの聞いてないかもしれないけど、
りょうさんとかはなんか、わーすげー、体の中で流れが、わーこれかーみたいなのが一回あったけど、
また次の時はなくなったとか。
でもまあ、一回その経験してたり、
あとはえっちゃんも、漫画に残してますけどね、
ビッパーさんのイベントを千葉で10日間受けられたときの体験を漫画に残されてて、
なんか、鼻を通る空気が左の鼻の方だけすごく、
うーん、鼻腔が広がってビローンって伸びたみたいに感じられたとか、
なんか頭のてっぺんからキングギドラみたいなのが出てきたみたいな感じがしたとか、
なんかそんなこと言ってた、書いてたような気がするけど、
そんなん僕全くなかったし、
今回の参加者の人たちの中でもいろいろ、いろんな体験された人がいたんですよね。
なんか涙が出てきたとか、
うーん、痛みが消えたとか、
一切なかったですね、僕ね。
ひたすら痛かったし、むしろなんならやればやるほどどんどん痛くなったし、
集中はちょっとできるようになったかなみたいな、そんな程度はあるけど、
でもね、関係ないんですよ、僕の中で。
それあんま関係なくて、
えーとね、衝撃一本筋が通って、
来たー!みたいな話と、
なんかね、そのブッダも人間だったー!みたいな、
僕と同じ人間だったー!って言うとなんか平凡だったー!みたいに聞こえるかもしれないけど、
そうじゃないんだけど、めちゃくちゃものすごい人だってことは、
もちろんわかるんですけど、
でもねー、その瞑想法、ピュアッサな瞑想法が、
その悟りというか、悟りって言うとやっぱ大げさなんだよな、
悟りじゃなくてもいいんですよ、僕の中では。
とにかくその、うーん、めっちゃ根本、心と体の根本の、
もう原理原則の一番根っこに関わるようなところを、
うーん、いい方向に改善していく、
えー、反応のことをね、
これ反応自体のことを言うんだっけな、
えー、サンカーラって言うんですよねー、
ファーリ語なのかなー、当時の言葉で、だと思うんですけど、
反応っていうことなのか、悪い反応の意味なのか、
その辺ちょっとちゃんと僕わかってないですけど、
まあそのサンカーラを観察することによって、
それが消えていく、
なんかこう魔法みたいな衝撃聞こえるかもしれないけど、
なんか、自分自身のことだったら、
めっちゃ怒ってるときってそのことに気付けないし、
その瞬間はそれがもう自分にとっての全てになるけど、
同じような出来事で、
例えば目の前の人が自分と同じような怒り方をしているとしたときに、
全然他人事として捉えられると思うんですよ。
その怒りに巻き込まれることがないというか、
まあまあちょっとは吊られる人もいるかもしれないけど、
基本的には自分の中での怒りが湧いたときとは全然違うと思うんですよね。
冷静に、またこれも冷静じゃなくて平静にというよ、
平静にそのことを捉えられると思うんですね。
多分人がそういう風な怒りに我を忘れて、
ひどい状態になっているときに、
なんかそれに対して、
そうならない方がいいから何とかその人を救ってあげたいだったり、
何とかその人を落ち着けようとか、
そういう風にそんな感情が湧くと思うんですよ。
それが自分に対して湧くようなイメージを僕は持ったかな。
自分のことを徹底的に客観的に、
自分の体の反応というのを本当に微細な反応まで見れるようになっていったら、
自分が目の前にいる人みたいな感じの、
本当に客観的な捉え方ができるようになる。
それが微細な瞑想を日々真剣に修行することによって、
できるようになるっていう話としてだいたい捉えていて、
それは他のことと全部一緒だと思ったんですよね。
何を練習するにしてもコツコツコツコツ地道にやっていけば、
ちょっとずつ上達していくじゃないですか。
スポーツにしても。
勉強にしても何でもいいんですけど、
料理にしても何でもいいです。
全てのことはそうやってちょっとずつ継続していけば上達していく、
その途中にあるっていうことなんで、
その先に何があるかってあんまり関係ないんですよね。
より自分が苦しい状態に陥る負の連鎖から、
負の連鎖にいることすら自覚できないぐらい振り回されている状態から、
ちょっとでもマシになるというか抜け出ていくんであれば、
それは生きてる間ずっとそうし続けたがいいに決まってるやんみたいな、
そんな感覚なんです。
なんか文脈止まりました。
大体言いたいこと全部言った気がする。
繋がりは悪いかもしれないけど、
なんか言えてないことあるかな。
だからね、そういうのを初日にバチコーン、
少なくともまだ頭の理解だけですけど、
バチコーンときてしまったもんで、
あとは10日間の合宿自体もそうだし、今後の人生もそうだし、
コツコツコツコツやればそれでいいっていう話なんですよ。
せっかく10日間の瞑想合宿に来たから、
そこで得られるものは最大限得ようと思って、
一生懸命参加しました。
痛かったりしたけど、一生懸命参加しました。
それはしたけど、僕の中でそれは些細なことというか、
ごへやるか?
全然自分がそう思ったし、
確信したから、やりたいから一生懸命やりました。
そんな感じです。
全然、10日間大変でした。
こんだけ大変だった自分偉いとか、
そんなこと全く大しては思わない。
やりたかったからやってきた、楽しかったみたいな感じでしたね。
なんかね、
リパーサーの瞑想を受けた時に、
どうだったって、その内容、
どんな風な人が来てたりとか、
何をどう行動してとか、
一日の時間割はどうだったのかとか、
そういうことをみんな聞きたがる感じを受けていて、
僕もそういうのを聞いてた気がするけど、
そんなことはどうでもいいって今思っています。
でもね、僕にとってはそんな感じの人生で、
今まで何回も転機みたいなのがあったし、
今回のが転機になるかどうかわかんないけど、
インパクトかな?
人生におけるめちゃくちゃ大きなインパクトっていうのが、
何回かあったそのうちの一つではありました。
僕多分この人生で最後のインパクトは、
コテンラジオかな?みたいに思ってたけど、
コテンラジオのインパクトよりも
インパクト自体はでかかったかも。
背後のピースがハマったみたいな感じだったから、
コテンラジオはその瞬間のインパクトじゃなかったんですよね。
聞いていくうちに徐々にハマっていったみたいな感じで、
でもこれは人生レベルで変わっていくぞみたいになって、
ポッドキャスト始めて、
実際に変わっていったっていうのがあるけど、
今回のは単発のインパクトとしてめちゃくちゃすごかったですね。
だからこれがただの気のせいでしたみたいにならないといいなって思ってます。
それをただの気のせいみたいにしたくないからやるっていうことでは
本末先頭だから、そうじゃなくて本当だろうなと思ってちゃんとやるんですけど、
少なくとも今の僕の確信具合は、
まあまあ本当だろうって本当に思ってるんで、
続けていくと思います。
一日朝も一時間、夜も一時間というのはなかなか
瞑想を続けていくのは厳しい気がするけど、
今のところやろうと思ってます。
やれないかもしれないけど、
今のところ一生懸命やろうと思ってます。
自分がやりたいから、めちゃくちゃやりたいからっていう感じですね。
そんなことがもしかしたら、
ヴィパッサナー瞑想10日間らしくなかなかめちゃくちゃ
僕にとってはインパクト、僕にとっては初日だったけど、
まあ10日間通しても、
講話、どの講話もすげえよかったし、