00:06
【サイタマニアクス】
クロムギさん、こんばんは。
こんばんは。
クロムギさんって、
はい。
えっとー、公募ってやったことあります?
公募?何かを募集するやつ?
はい。
そう、あのー、大井御茶の千流の公募とか、
はいはいはいはい。
なんか、ああいう投稿系の公募みたいなのとかって、なんかやったことあったりしますか?
多分やったことないかなー。
うーん、まあ、多分普通の人はあんまりやる機会ないですよね。
そうですかね。
うん。なんか、それこそ大井御茶の千流の公募とかは、まあ身近なところであったりとかするんですけど、
ええええ。
例えばなんか、生きてて身近なところで他にある公募っていうところで、
例えば最近の市町村の合併とかって、
はい。
なんか、新しい市の名前を公募で決めるみたいなのあったりしませんか?
はいはい、ありますね。
うん、なんかそれこそ埼玉県だと埼玉市とかって、
はい。
あのー、一回合併したときに、
はい。
市名どうするの?みたいなのあったんですけど。
ええ、ありましたね。
はいはい。あれ公募したときに1位だったのって、何て名前だったかって覚えてます?
あ、全然覚えてないですね。
あ、本当ですか。ちなみにですね、3位が大宮市。
ほう。
で、2位が平仮名の今の埼玉市。
ほう。
で、1位が漢字の埼玉市だったんですよ。
あー、なるほど。山形とか山口みたいな、県の名前をそのまま持ってきた。
あー、そうですそうですそうですそうです。
で、その中から最終委員会的なところで決めたやつが平仮名の埼玉市になったみたいな感じなんですけど。
なるほど。
はい。で、今ある市町村の名前って、
はい。
公募とかって最近の市町村の名前とかって公募で決めることもありますけど、
ええええ。
大体の場合って江戸時代ぐらいからその名前の村があって、その名前をそのまま使ってるパターンみたいなのが多いんですよ。
ええええ。
はい。
まあその以外でと、明治以降に特殊な経緯で、それこそ今の公募みたいな感じで、今の名前になった市町村とかもあるんですけど、
はい。
ちょっとその中でも成り立ちがちょっと面白いのが、北本市なんですよ。
ほう、北本。
はい。北本市がなんで北本市になったのかっていうのをちょっと今からちょっと語っていきたいなと思うんですけど、
なるほど。
はい。しかもこれを語っていくとですね、
はい。
なんと明治時代の地方自治の高校歴史の勉強にもなっちゃうっていうところがちょっと面白いなって思ってて。
03:08
なるほど。
はい。
ちょっとですね、あれ高校で高校日本史って取ってましたっけ?
高校日本史どころか大学は日本史の学科ですが、お勉強はあまりできませんよ。
あ、じゃあちょっと復習的なところになっちゃうかもしれないんですけど、
ちょっとその北本市の成り立ちを聞きながら、ちょっとその辺復習してみてばということでちょっとお話しさせていただこうと思います。
はい、よろしくお願いします。
はい、お願いします。
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はい。
じゃあ早速お話ししていこうと思うんですけど、
はい。
ちょっと江戸時代の歴史の復習をちょっと今からやっていきます。
はい、自信がないです。
はい。いや、大丈夫、大丈夫なんですけど。江戸時代に徳川家康が江戸にやってきましたと。
はい。
はい。その時に五海道っていうものを整備したんですけど、
はい。
五海道の内訳ってわかりますか?
おっと?東海道、中川道、あと何だっけ?東北とかだっけ?
お、なるほど。残り3つは日光海道、あと欧州海道、欧州海道ですね。
はいはいはい。
はい。で、そのうちの中川道、日光海道、日光海道と欧州海道って宇都宮まで同じ道なんですけど、
はい。
それは埼玉県内を通ってるというところなんですよね。
はい。
で、その中でも中川道っていうのはやっぱり東海道と並ぶ主要な街道なわけですよ。京都まで行けるっていうところで。
へぇ。
はい。中川道って、東海道は53次って言葉があると思うんですけど、
はい。
中川道って69次あったんですね。
お、結構たくさんありますね。
そう、結構あるんですよ。で、埼玉県内に、例えば宿場として残ってる街って、
何か思い当たるところありますか。
中川道。
そうです。
大宮とか。
おおおお。
ありませんでしたっけ。
ありますあります。
ある、浦和も。
浦和もあります。
あとどこだろう。中川道が通ってるエリアですよね。
もちろんもちろん。
高崎線とかあの辺のエリアですね。
ああ、そうですそうです。その通りです。
というぐらいしかちょっとわからないですね。
ああ、なるほど。はいはい。
そうですね。えっと、埼玉県内だと、えっと、まず、えっと、わらび柄入って、わらび市区。
わらび浦和大宮。
はい。
あげを桶川。こうのす熊谷深谷本城ですね。
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ほう、なんか高崎線の快速みたいな並びですね。
まあまあまあまあ、そうですよね。まさにその通りなんで、これからこの先に高崎線は出てくるんですけど。
ほうほうほう。
この今あった宿場の中でも、こうのす宿にちょっと注目していただきたくて。
こうのすですか。
はい。こうのすって言ったら、まあイメージするもの何ですかって言うと、埼玉県民は一つしか答えられないっていうあるあるがあるんですけど。
へえ、どっかで聞きましたね。
ああ、そうですね。はい。まあそうなんですけど、今あるこうのすって、実はもともと別の場所にあったっていうのをご存知ですか。
あ、そうなんですか。それは知らなかった。
はい。実はもともとはもう少し南側にこうのす宿っていう宿場町があって、それが江戸時代の初めに移転したんですね。
へえ。
はい。でその、もともと南にあったって言ってるその南っていうのが今で言う北元の位置なんです。
ほう。
はい。でここがですね、ちょうどその先ほど言った桶川とえっとこうのすの宿場の間が、まあちょっと近すぎたというところがあって、もう少し北に離した方がいいんじゃないかってことで、江戸時代にその五海道整備するぐらいのタイミングで、まあ合わせて移転したって言った経緯があるんですね。
へえ。
うん。でその時にですね、その新しく移転した先、今で言うこうのすのところをこうのす宿っていうふうに呼んで、
はい。
でもともとあった場所、まあそのちょっと南にあった場所のことを、もとこうのす村って呼ぶようになってたんですよ。
ああ、まあありそうな名前ですね。
ありそう。そうですよね。で、まあそんな中、えっといつの頃からか、まあ江戸時代の元六年間とか言われてるんですけど、
はい。
まあもとこうのす村ってちょっと長かったらしいって言ったところもあったのかもしれないですけど、
ええ。
あの、まあもともとの宿場っていう意味で、元塾村っていうふうに呼ばれるようにいつしかなってました。
ほう。
はい。そうなんです。今の北本の辺りは元塾村っていう、まあ村でしたもともとは。
なるほど。
はい。でですね、時が明治時代になりまして、
はい。
こっからちょっと明治時代の地方自治の話をしていこうと思うんですけど、
はい。
明治時代最大の改革って言ったら、なんか思いつくものありますか?
え、どれだ?
まあいっぱいありますけどね、改革はね。
廃藩地権なのか?
お、素晴らしい。
流れ的にそうかな?
そうですね。まあいろんな改革はありますけど、その中でまあ結構重要視されてたのがこの廃藩地権っていうやつですね。
はい。
まあまあ簡単に言うとそれまで大名が管理してた藩っていうものを廃止して、
はい。
国が直轄して県という形で統治していこうというような動きにしたというものなんですけど、
はいはい。
で、その廃藩地権をやる流れの中で、明治4年に戸籍法っていう法律ができたんですよ。
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ええ。
はい。なんかこの辺の話とかって詳しいですか?ちなみに。
全然詳しくないですね。
廃藩地権ってさっき言ったように、国が県という形で土地とかを直轄したいっていう話があった通り、
はい。
直轄したいものは土地と、あとは人民も直轄したいというところがあったので、
まあその戸籍っていうのを厳密に中央集権で管理できるようにしようというところで戸籍法っていうのが作られたんですけど、
はい。
その時戸籍を管理する単位として、区っていうものが導入されたんですね。
ほう。
今で言うっていうわけじゃないですけど、東京23区とかのあの区、漢字で言うとあの区ですね。
はい。
はい。その区の単位で土地とかを管理しようというところをやろうとしたんです。
ええ。
で、それが明治5年に埼玉県にも適用されて、
はい。
大区小区制っていうのが施行されることになります。
ほう。
大区小区制って聞いたことあります?ちなみに。
聞いたことはあるかなっていうぐらいですかね。
ああ、ですよね。はい。これ多分歴史とかやっても本当にさらっと流されるところなんですよね。
ええ。
簡単に言うと、いくつかある村をまとめて小さい区っていうのを作って、さらにそれをまとめた大きい区っていう、その大区と小区っていうのを作って、
はい。
例えば、私の村は第7大区6小区ですみたいな。
ほう。
そういう感じで、土地っていうのを管理しようというものだったんですけど、
はい。
まあ、今聞いても分かる通り、なんか分かりにくいですよね。
まあ、何番だっけってなりましょうですよね。
そうなんですよ。っていうこともあって、その導入された各県とかで、なんかこういうやり方がやりやすいよねみたいな感じで、
結構それぞれがオリジナリティ溢れる形で管理とかをしちゃってたんですよ。
ほう。
で、あの埼玉県もその大区小区制導入されたんですけど、
はい。
もうこれはこんな細かい単位で管理できないわって、
ほう。
勝手に小区って呼ばれるその小っちゃい区の方を廃止して、大きい区だけで管理することにしちゃったりとかしてたんですよ。
そんなんで良かったんですね。
まあ、なんでこれが許されてるのかよく分かんないですけど、
えー。
本当に千差万別で、それぞれの区ごとにやり方が全然違うっていうような状態ではありました。
へー。
埼玉県は24の大きい区だったんですけど、
はい。
隣に入馬県っていうのがその時はありましたけど、
はいはい。
入馬県は11大区と94小区っていう細かい単位で管理してたりとか、
94。
はい。
ほう。
逆にそれでどうやって管理するんだって感じもするんですけど、
そうですね。
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うん。
で、まあしかもこの区っていうのが、
それまで他の町とか村とかと、それぞれの各村っていうのは、周りの村ともちろん交流とかをしてたと思うんですけど、
えー。
そういう結びつきとかとあんま関係なく、本当に何だろう、1だけで区切るっていうんですかね。
ほう。
大体この大きさとこの大きさとこの大きさの村をまとめたら、ちょうどいいサイズになるなーみたいな感じで区を設定していたってことで、
ほう。
実際のその行政で管理したい単位と、えーと、町の繋がりとか結びつきっていう単位が全然バラバラだったっていうところもあって、
ほう。
あーもうこんなんずっとやってられんわってことで、すぐに改正されることになってしまうというのがありました。
なるほど。
はい。
ほう。
で、その改正っていうのが明治12年にやった軍区町村編成法か。
ほう。
っていうのがありましたと。
ほう。
えっと、簡単に言うと、軍と町と村で全部分けましょうっていうのがこのタイミングで設定されたっていう形になります。
なるほど。
はい。なんでまあ結構今の形に近い感じになると思うんですけど。
そうですね。
はい。まあ今でもなんとか軍っていうのがある通り、その軍の下に町とか村とかを設定して管理するっていう体制にしましたと。
ほう。
で、この時にですね、北足立軍っていうのができました。
はい。
えっと、さっき言ったその北本とかあの辺りが北足立軍と呼ばれる軍になったんですけど。
はい。
ちょっとなんとなく想像してほしいんですけど、この時その北足立軍っていう一つの軍の中に村って何個ぐらいあったと思いますか。
北足立軍。
うん。まあ今ある埼玉県の8分の1ぐらいのエリアかな、6分の1ぐらいかな、まあそのぐらいのサイズ感ですね。
そう、20ぐらいかな。
20ぐらいの村って感じですかね。
ですかね。
はいはい。
もっとあるから。
どうぞ続けて。
この時ですね、実は330あったんですよ。
は?300?
はい。一つの軍の中に。
だいぶ予想を超えました。
そうですよね。なんだろうな、イメージすると本当に集落一単位がもう村みたいな感じ。
そういうレベルなんですね。
はい。そのぐらいの感じだったってこともあって、330もあったんですよ。
収集がつかなそうですね。
いや収集つかないんですよ。例えばですね、その収集つかな一つの例として、同じ名前の村がいっぱいあるっていう。
区別できないじゃないですか。
そうなんですよ。
例えばこの北足地軍でこの時に一番多かったのが、辻村っていう村ですね。
あーなるほど。
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辻ってそのままの通りでいうと、あれ交差点みたいな意味でしたっけ?
そうですね。辻はどこにでもありますからね。
どこにでもありますよね。それでも辻村は4個しかなかったんですけどね。
おお。
それよりも多いのが両桂村っていうやつですね。
あーそれもなんかよく聞く地名ですね。
よく聞きますよね。両桂村が6個ありました。
おおー。
でまあ同じような感じで、本塾村っていうさっき言った村も2つあったんですよ。
ほう。
で、一つは今の北本で、もう一つは埼玉市の桜区で元々浦和市の領域にあった土合の辺りにあったんですけど。
はいはい。
じゃあこうなった時に、さっきの郡長村の編成で言うと、どっちも同じく北足地軍元塾村になっちゃうんですよ。
そうですね。
どう区別しましょうっていう。
なるほど。
それで北本か。
そう、素晴らしい。その通りなんです。
北にある方を北元塾村、南にある方を南元塾村にしたんですよ。
なるほど。
はい。
まあ結構こういうパターン多くて、さっきの辻村とか両桂村とかも似たような感じで整理されたりとか、
あとはお隣の敷群にも元塾村実は2つあったんですけど、
こっちは東元塾村と西元塾村に分けたりとか。
へー。
なんかこんな感じで整理したりとかをしました。
なるほど。
あとは地名で聞くのはなんとか寮なんとかみたいな地名聞いたことありませんか。
なんとか寮なんとか。
そうですね。なんだろう。
インド寮みたいな、イギリス寮みたいな。
そうですね。川口市とか結構多いんですけど、安業寮とか、安業寮寧岸とか。
へー、そんな地名があるんですね。
あれは寝岸村っていうのが昔いっぱいあって、区別するために上になんとか寮っていうのを付けた名残だったりとかするんです。
へー。
なんかそんな感じで一応区別はしないとってことで、区別をした経緯が実は今でもちょっと残ってたりとかするんですけど。
なるほど。
はい。
まあそんなことを知ってですね、一応今北元塾村っていう村が成立しましたと。
ほう。
その後にですね、時代はどんどん流れていって明治22年になると、今度は市政町村制っていうのが施行されますと。
はい。
簡単に言うと、さっき言った軍区町村編成法っていう、その軍・町村でまとめましょうっていうやつの延長だと思ってもらえばいいんですけど。
はい。
その時にですね、町村合併を一緒にしてくださいという打診がお国の方から出されましたと。
ほう。
まあどう考えても村多すぎるやろと。
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そうですね。
はい。だったらもう周りで合併して、行政の単位とかを集約しましょうというのがあってですね、
その時に結構大きな合併が繰り広げられて、俗に言う明治の大合併っていうキャンペーンが始まることになります。
なるほど。
この時に合併する時って、スムーズにできるだけ合併してほしいじゃないですか。
そうですね。
っていうのがあったので、特に一番思えるのが、新しい村とか町の名前どうすんねんって言ったところになっちゃうと思うんですよね。
そうですね。愛着ある名前が消えるわけですからね。
そうそう。なので、もう大体この3パターンのうちのどれかにしろっていう指針を出していて。
ほう。
簡単に言うと、大きいところとちっちゃいところが合併する時は、大きい方の名前にしましょうと。
なるほど。
はい。あとは合併する村の名前とかの中で、その地域で有名な名前とか名称みたいなのがあったらその名前使った方がいいよと。
なるほど。
で、一番めんどくさいのが規模に差がない時とか。
はいはい。
の時は、それぞれの町とか村の名前を一文字ずつ取ってくっつけたらいいんじゃないみたいな。
ほう。
はい。そんな感じで指針っていうのは出てて。
はいはい。
で、その時もちろんさっき言った北本塾村っていうのも別に大した村じゃないので、周りの村と合併するってことになったんですね。
はい。
はい。で、この時、周りの村と合併した時に一番大きい村っていうのが別の村であって、北中丸村か、北中丸村っていうのがあって。
はい。
それにちなんで、北本塾は中丸村の一つが技になったっていう形になります。
ほう。
はい。ちなみにこの時なんで北中丸村っていう風にならなかったのかって想像つけますか?
名前が長いから?
いや、違うんですよ。この北中丸村っていうのも、もともと中丸村だったのが、さっき言った中丸村が2つあったから北にしちゃったっていうやつなんですよ。
あーなるほど。
はい。だから、北中丸村なので、中丸村なんですよ。
なるほど。
そいつ自体は。
ほう。
っていうのがあって、中丸村になりましたと。
ちなみに、南中丸村っていうのは埼玉市三沼区にある南中丸っていう地域があったりとかしてますけど、あそこが名残だったりしますね。
なるほど。
あそこはもともと中丸村だったんですけど、この北中丸、北に中丸村があったからこっちは南を取ったっていうので、埼玉市三沼区の方は南中丸になってますね。
21:00
へー。
っていうような経緯があって、ここまでの流れを整理すると、もともと幸之洲塾だったところが元幸之洲塾になって、それが元々の幸之洲塾っていう意味で元塾村になって、元塾村が2つあるから北元塾村になって、それが合併して中丸村大和北元塾っていうところになりました。
はい。
さてここからどうやって現在の北元市になるのかっていうのを一回ここで聞いて次回に続けたいと思います。
楽しみです。