1. 「大人の近代史」今だからわかる日本の歴史
  2. #117「廃藩置県」幕藩体制が終..
2023-06-13 30:30

#117「廃藩置県」幕藩体制が終わり中央集権国家が誕生

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1871年に江戸時代まであった藩を廃止して中央政府直轄の「県」とした行政改革
廃藩置県によって、江戸時代から続いた幕藩体制が完全に終わり
中央政府が統治をする中央集権国家が誕生

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サマリー

明治維新により、幕府の廃止と藩を県に改組する行政改革である「廃藩置県」について解説しています。廃藩置県の背景として、天皇の命令、政府直轄軍の圧力、治藩寺への優遇策が挙げられます。また、廃藩置県とは幕末の王政復古の大号令によって藩の自治権が廃止され、中央集権の国家体制が誕生したことを指します。このエピソードでは、廃藩置県とは何か、また反石法観や体制法観との関連性について解説されています。

00:04
深く、これを害す。よって今さらに、藩を廃し、県となす。
始まりました、「大人の近代史」よろしくお願いします。
よろしくお願いします。なんかあれだね、漢文っぽいような感じの文だったね。
そうだね。これはもうそのまんまというか、藩を廃し、県となすって言ってるんで、廃藩置県のね、小書なんだよね。これ1文をちょっと抜き取ったんだけど。
そう、今日は廃藩置県をやろうと思います。
来ました、廃藩置県。なんか久々に、近代史っていう感じのさ、明治維新みたいなのが来たね。
そうだね、意外とやってなかったよね、これね。
うん、廃藩置県って言葉自体はね、結構出てたと思うけど、そこだけにフォーカスするようなのはなかったかな。
あ、そうそう。1回ちょっと、やっとこうかなと思って。
うん、いいんじゃない?
ということで、今日は廃藩置県なんですが、廃藩置県っていうのは、1871年に江戸時代まであった藩を廃止して、中央政府直轄の県とした行政改革なんだよね。
そうで、このね、ちょっと話をする前に、時代を少し遡って、幕末の浮世の世界を見とございます。
ちょっと、なんか雰囲気が。
まあいいや、はい。
幕藩体制と幕末の情勢
江戸時代のさ、体制は、幕藩体制って呼ばれていて、将軍をトップとする江戸幕府があって、その下に約270もの藩の大名がそれぞれの領地を統治してるっていう体制なんだよね。
で、幕府と各藩の関係っていうのは主従関係になっていて、ただこれって各藩にはそれぞれの政治を任せていて、藩ごとの独立性が高い状態だったんだよね。
これを地方文献国家とかそういう言い方もするんだけど、
ちなみに江戸幕府はね、藩っていう呼び名をね、一度も公式には使用していないんだって。
あ、そうなんだ。
そうそう。ね、それまではね、領文とか地業書っていうような呼び方をしてたんだよね。
これはね、明治政府になって藩っていう名称公式に使うようになって、なんか今そっちの方が今の人にとっても馴染みが深いものになってるんだよね。
藩を使ってないっていうのは、例えばさ、薩摩藩とか長州藩って呼んでなかったってこと?
あのね、一部で呼ばれてたのは実際あるんだよ。そういう藩っていう括りっていう認識はあったかもしれないんだけど、公式の名称じゃないんだよね、これ。
あ、そうなんだ。
そうそう。ま、あのここでちょっとわかりやすく藩って呼んじゃうけど。
うん、まあいいと思うよ。
そうそう、わけわかんなくなると思うから。
で、幕末になると、これ下級武士を中心に倒幕派って言われる、あの幕府を倒そうとする勢力がこう対等してくるんだよね。
その勢力が次第に拡大していって、江戸幕府は劣勢となっていって、そしてね、ある決断をするんだよね。
これから1867年にあった大政奉還をするんだよね。
これあの当時の将軍徳川義信が朝廷に政治の権限を返したんだけども、で、その後ね、すぐに王政復古の大号令っていうのを倒幕派の方が出すんだよね。
これは幕府の組織体制を廃止して、倒幕派による新しい組織体制とするものだったんだよね。
で、ここで幕府っていうのは廃止されて、たださ、その下にぶら下がってる藩っていうのは解体されずに、実はこの廃藩地権まで残り続けたんだよね。
そう、幕藩体制を廃止したいんであれば、幕府だけじゃなくてさ、本来ならその下にいる藩もさ、同様にこの時廃止すればいいんじゃないかって思う人もいるかもしれないんだけど、
そこにはさ、倒幕派っていうさ、その勢力そのものが藩に依存している組織だったんだよね。
倒幕派中心のさ、薩摩藩や長州藩の武士にしても藩っていう後ろ盾があって成り立ってるんだよね。
だからこの時藩を廃止することはしなかった。
というかその後も藩を廃止しようっていうのは、この時考えていなかったかもしれないんだよね。
このさ、さっき言った王政復古の大号令っていう名前なんだけど、復古っていう復元の復にさ、古来の復って書いて復古なんだけど、
名前からもちょっとわかる通り、天皇による新しい統治体制にしますよっていうんじゃなくて、
鎌倉時代よりさ、前はさ、もともとこの国は天皇を中心とする統治だった。
その時代に戻りましょうよっていうのが、そもそもの倒幕派のこの大義、名分なんだよね。
その後1868年に、倒幕市民の戦いで始まる母親戦争が起こって、倒幕派の優勢に進んで幕府軍は敗北をするんだよね。
これによって新政府の統治が始まっていくっていう。
新政府はさ、これまでの旧幕府領を自分たちの直轄地としたんだよね。
廃藩置県の具体的な実施
その後、全国にある各藩をまず大中小の3区分に分けた。
これは40万国以上が大藩って呼ばれる大きな藩で、10万国以上を中藩、1万国以上を小藩の3つに分けた。
それから新政府は各藩の大名に対して旧幕府が与えていた藩物っていうのを返却するよう要求するんだよね。
この藩物っていうのは徳川将軍が大名に領地を認めた文書なんだよね。
既に将軍を中心とする江戸幕府っていうのは、王政復興の大号令によって廃止されているので、各大名はこの返却に素直に応じるんだよね。
ここでちょっと注目なのが、藩物を返却するっていうことは、各大名がその土地を統治する権利を証明したものを失ったっていうことなんだよね。
その後、新政府は政大書っていうのを定める。この政大書はこれからの明治政府の統治体制を定めてるんだよね。
そこには新政府の直轄地を府または県として、その他の大名領を藩とするものだった。
この体制をよく不藩県三地体制っていう言い方するんだよね。
これは、それまでの藩を否定するんじゃなくて、直轄地である府と県とともに藩を共存させて統制していこうっていう目的だった。
ちなみに、この時、府はたくさんあって、函館とか長崎、神奈川なんかも府だったんだよね。
その後、結局1869年には京都、大阪、江戸のこの3都だけが府として残って、それ以外の直轄地は県っていう風になったんだよね。
この後、廃藩地権を語る上で必ず出てくるというか、1869年に藩籍奉還っていうのが行われる。
これは藩主が治めていた土地、これを藩っていう言い方もするんだけど、その土地の人民を籍っていう言い方をして、これが藩籍。
奉還は天皇に返すことなんで、これでも藩籍奉還って言い方をするんだよね。
これを新政府は各藩に要求するの。
これによって自主的に返した藩がほとんどで257藩が素直に応じたんだよね。
その後、自主的に応じない藩に関しては、命令をする形で返還に応じた藩が14藩いた。
271藩が藩籍奉還をして、特に反乱とかそういうのもなく、各藩は受け入れたんだよね。
それはなぜかっていうのは、いろいろ理由が言われてるんだけど、まずは藩主の影響力が低下していたっていうのがあるんだよね。
母親戦争を通しても、基本的には藩の下級武士中心で行われて、これ藩主が先導して行った戦争ではないんだよね。
それによって藩主と藩主の主従関係が崩れ始めていたっていうのもある。
藩主にとってその危機意識があって、藩籍奉還に素直に応じることで従来の地位を維持しようとしたんじゃないかっていう。
で、あと藩籍奉還で返した土地、人民がその後天皇によってまた再交付されるんじゃないかっていうのを期待してたんだよね。
すでに徳川将軍によって地位を保障された藩物を藩主はすでに返していたから、それと同様の保障が今度は天皇によってまた与えられるんじゃないかって考えていたんだよね。
でもこれ結果、藩籍奉還したものの再交付はなかったんだよね。
で、次に藩主の身分が保障されたっていうのがあるんだよね。
藩籍奉還によって旧藩主は肩書が治藩寺って変わっただけで、それまでと何ら変わらない役割を継続できたんだよね。
それに加えて政府は新たに家族って華やかな花に属って家族っていう称号を与えて身分保障したんだよね。
さらに藩の収入の1割分の家録って給料みたいなものが与えられたんだよね。
最後に財政の悪化っていうのがあったんだよね。
各藩は明治維新が起こる前から財政状況が結構厳しいものだった。
それが母親戦争による軍事費が加わって各藩の財政っていうのはさらに悪化してったんだよね。
それから1869年になると東北地方中心に共作となって、それが藩の財政にさらに追い打ちをかけたって言われてる。
ちょっとデータがあって1870年における各藩の借金の平均が収入の約3倍ほどになってるんだよね。
3倍か。
そうそう、結構多い。
これは特に小さい藩ほどより借金が多い傾向にあって、財政が逼迫してたんだよね。
こういった理由からも各藩は藩籍法官に素直に応じて藩欄もなかったって言われてる。
廃藩置県の背景と影響
そればかりか、これ以上もう藩を継続できないって言って、自ら藩を廃止する藩主も出てきていたんだよね。
この藩籍法官で重要なのは、藩主それぞれに認められていた個別の領有権が否定されて、天皇が唯一の領有者って制度的にはなったことでありんす。
なんでぶっこんだ?
ちょっとゴミだけ。
ささやかな抵抗みたいな。
その後、この不藩権三地体制をより強化するために、討伐の実力者でもある薩摩、長州、そして土佐藩による三藩が提携を結ぶんだよね。
そこでこの三藩から明治政府の直轄の軍を作るんだよね。
これは以前から薩摩藩は西郷隆盛を中心に、私族からなる常備軍を編成していた。
ただこれを維持するのは薩摩藩にとっても財政的に負担になるし、武士の身分を保障したいというふうに考えて、
その結果、西郷隆盛が政府直轄軍の案を明治政府に持ちかけて、これが実現していったという経緯がある。
この三藩による明治政府の直轄軍が招集されて、約6200名の規模となったんだよね。
これで廃藩地権にようやく移っていくんだけど、廃藩地権は極秘のうちに進められて、
事前に会議が行われて、鹿児島藩とか山口藩の一部の人だけで行われたんだよね。
出席者はね、鹿児島藩からは西郷隆盛、大久保利道、西郷次道、大山岩尾。
山口藩からは木戸孝吉、山形有とも井上薫っていうようなメンバーだった。
そこで廃藩地権を実行に移すことが決定するんだよね、その会議で。
その後、三条真根富とか岩倉智美に初めてそのことを告げて、その2日後に実施をされる。
だから三条真根富とか岩倉智美っていうのはそれまで知らなかったんだよね。
で、発表された日っていうのは雨上がりの午後のことでした。
雨上がり関係あんの?
なんか天気書いてあったからちょっと雰囲気だけね。
いやーあんま想像つかねえな。
で、皇居に治藩寺って元旧藩主の人たちが呼び出されて、
で、三条真根富が大独として天皇からの証書を読み上げたんだよね。
で、これ結構長いんだけど、その中に藩を廃止、県となすっていう言葉があって、廃藩地権が突然告げられるわけ。
で、これによって261の藩が廃止されて、新政府の直轄地である府県と合わせて3府302県っていう風になった。
で、さらに旧藩主の治藩寺らはもう非免されて、東京への移住を言い渡されたんだよね。
だからこれ発表したら事前の会議の中で反乱が起こるんじゃないかっていう予想もしてたんだよね。
だけど蓋を開けてみると、藩主からの大きな反乱っていうのは起きなかったんだよね。
その理由はね、これもちょっと何個か言われてるんだけど、
廃藩置県の発表と背景
まずは廃藩地権が天皇からの言葉として告げられたんだよね。
そもそも治藩寺の任命権自体も天皇にあるから、治藩寺から外されたとしてもそれに反抗するっていうものはいなかった。
で、2つ目は政府直轄軍の圧力っていうのがあったんだよね。
もし武力放棄をしたとしても政府の直轄軍がいるわけで、
しかもその直轄軍は薩摩、長州、土佐の3藩からなってるので、
その強力な3藩がバックにいるとなると反乱を起こそうっていうする者たちっていうのはいなかった。
3つ目は治藩寺に対する優遇策っていうのがある。
これは財政に苦しんでいた藩の借金を中央政府が背負い込んだんだよね。
これで各治藩寺は借金から解放されるわけで、
しかも家録っていう給料が保障されて、
さらに反責奉還で与えられた家族っていう称号があったんだけども、
それまで武家家族と久家家族って同じ家族でも別々だったんだよね。
その区別をなくして、より特権的地位を獲得したんだよね。
こんなふうに廃藩治憲は大きな反乱を起きずに済んだんだよね。
ここでよくちょっとエピソードで挙げられるのが、
薩摩藩の島津久光っていうのはこれにちょっと怒り浸透して、
この人は最後高森を上京させる際に廃藩には絶対合意するなって念をしたにもかかわらず、
積極的に廃藩を進められて、
その怒りの現れとして彼は花火をいくつも打ち上げたっていうのが残ってるんだよね。
こんなちょっとささやかな抵抗をしたのがあって、
廃藩治憲によっては江戸時代から続いたこの幕藩体制っていうのはもう完全にここで終わって、
それから中央政府が統治をする中央集権国家が誕生したんだよね。
ちょっとその後の話をしようと思うんだけど、
これさらにいろいろ党配合されて、
府と県っていうのは3府72県にまでなったんだよね。
明治政府はこの時、府と県に序列を設けたんだよね。
順位みたいなもので、第1位が東京府、2位が京都府、大阪府っていう。
この3つはなんとなくわかるじゃん。
4位が神奈川県、次が兵庫県、長崎県、新潟県っていう風な。
今言った神奈川とか兵庫、長崎、新潟ってなんでこんな上位だと思う?
人口?
神奈川、兵庫、長崎、新潟、港か。
開港地を明治政府は重視してたっていうのがわかるんだよね。
ちなみにこれね、最下位は沖縄県なんだよね。
琉球処分からの歴史的な流れからしても、そういう風に位置づけられたのかなっていう風に思うけどね。
でもこれさ、今はないけどさ、順位付けられたら嫌だよね、出身者の人に。
あんまりいい気しないよね。
そうだよね。ちなみにうちらの出身の埼玉県、9位だと思う。
もう目立たないところだと思う。なんか23位みたいな。
意外とね、なんか8位なんだよね。
あ、そうなの?
ちょっと俺もなんでだろうっていうのは、どちらかというとこの順位はね、東京を中心に順位が高いね。
あ、そうなんだ。なんか新政府軍って西から来てるから、どちらかというと西の方が強いかと思ったけど。
あ、そうそう。この序列に関しては逆に西とか端っこの方が低いんだよね。
あ、そうなんだ。
藩名から県名への変更
そうそう。で、この廃藩地権直後っていうのは藩の名称がそのまま県として用いられてたんだけど、徐々に藩の名とは異なる名称になる県が多かったんだよね。
これはね、明治政府がその旧幕府時代の名称から変えようっていう意図があったって言われてる。
ただちょっと例外もあって、倒幕派に加わった大きな藩っていうのは、あの廃藩地権前に使用していた藩名がそのまま県名になってるところが多いんだよね。
鹿児島とか高知とか山口とか佐賀とかそうなんだけど。
ちなみにちょっと鹿児島っていきなりになっちゃったんだけど、薩摩藩って俗称で既に繁殖奉還の時に正式に鹿児島藩になってるってちょっと経緯があるんだけどね。
一つ一つ経緯が複雑だからちょっと最後にね、なんかいくつかエピソード出そうかなと思うんだけど。
さらにふと県には地方長官を任命したんだよね。
これはほとんどのふと県は他の出身者を地方長官にしてるの。
これは旧勢力との断絶をさせるっていう明治政府の方針なんだよね。
なるほどね。
そうそう。だけど倒幕派に加わった藩とかに多くて鹿児島とか高知とか佐賀とかそういったところは同じ出身者から地方長官が選ばれてるんだよね。
こんなふうにちょっと勝った側の倒幕派だった藩とそうでない藩とで大群に差があったっていうのはあるんだよね。
ちょっと全て一概には言えないところなんだけども。
で、それから党配合していって今みんなが知ってるその47都道府県になってるんでね。
47都道府県の形成とその経緯
これ地域によってねちょっと様々な経緯があるんでちょっといくつか例を挙げてみたいなと思います。
まずねちょっとこの47都道府県っていきなり党ってなんだよって思う人もいるかと思うからちょっと北海道を例にしたいんだけど、
これは府でも県でもないわけなんでね唯一。
この道っていうのは東海道とか北陸道のような日本はさ古来から地域を大きな括りで道っていう区分をしてたんだよね。
その道を取って明治2年に江戸地っていう呼び名から北海道にしたっていう経緯がある。
で、この時例えば北海県とかね県にしなかったのはその頃北海道はさまだ開拓の途中だったんだよね。
というのもあるし広い地域をまとめて呼ぶ名として道っていうのが昔からこうなじみがあるものだったからつけられたんじゃないかっていう説がある。
その後北海道は函館県札幌県根室県っていう県に分割されるんだよね。
で、ただねうまくね行政が機能しなくてやっぱり一つの北海道として元に戻ったんだよね。
それが今の北海道になってる。
で、あとね今大人の近代史を一番聞いてる地域は東京なんで。
あーそうなの?
そうそう。
まあ人口考えたらそうだよね。
なんでちょっと東京例にすると明治政府はさそれまで江戸っていう呼び名から東京っていう呼び名に変えたんだよね。
それまでさ朝廷が置かれてたのはさ京都であってその都をさ江戸に移すっていう構想があって京都の東にあるから東京っていう呼び名になったんじゃないかっていう説。
まあいろいろちょっとこれはあるからあれなんだけど。
ちなみにね当時はね東京って呼ぶ人の方が多かったんだって。
あー京京って呼ぶってことね。
そうそうそう。今みんな東京だけどね。
まあ東京って言ったって俺通じねぇな。
確かにね。だからなんかこれを聞いてちょっとね東京って言ってみたらちょっと洒落てるよね。
え?派って言われるよ多分。派って。
確かにね。理解してくれる人がね。
そういないと思う。
で、この廃藩地権によって東京府になるんだよね。
で、後にさ今のように東京都になるんだけどこの時はまだ府だったんだよね。
これもねちょっといろいろ言われてるんだけどいきなり東京都って都っていうのをつけると当時その反対意見も多くてやっぱり京都が都でしょっていう人も意見も多くて。
で、しばらく京都府とか大阪府と同じように東京府は大きな都市として位置づけたんだよね。
それとね東京府になった頃っていうのはまだね多摩地域とかは神奈川県の管轄だったんだよね。
ただねこれもね東京の人口がどんどん増加するにあたって水源の確保をする必要があったんだよね。
で、その目的もあって多摩地域を東京に取り入れたっていうふうに言われてる。
だからあの現在の東京ってさ江戸って呼ばれていた範囲よりさだいぶ広いんだよね。
他にもさまあいろいろ伊豆諸島とか小笠原諸島なんかも加わってるし、江戸イコール東京ではないっていうのをちょっと覚えてもらえればなと。
おー勉強になるね。
そう。だからAKB48イコール48人じゃないよっていうことなんでね。
え?え、そうなの?
そうだよ。今100人前後ぐらいいるよ。
マジで?じゃあグループ名が48ってついてるだけなの今?
そうだよ。
俺もあんま詳しくないけど。
そうそう。で、これはさ他の県にも言えて、例えば長州藩イコール山口県とかではないんだよね。
その範囲が微妙に変わってるんだよね。どこも大体。
あー。
そうそう。だからなんかそういう言い方って今難しいよねって思って。
まあ大体役イコールぐらいで使うよね。
あーそうそうそうそう。言っちゃうよね。
うん。
最後にちょっとじゃあ石川県を取り上げてみたいんだけど。
お、なんか石川県に急に言ったね。
いやこれはねもう本当にランダム。俺がパーってちょっと本を見ながらランダムで選んだんだけど。
あ、そうなの?
そう。加賀藩のさこれ一部が現在の石川県になってるんだよね。
うん。
で、加賀藩って言ったらさ江戸時代で江戸幕府を除いて最も大きな藩で102万石ぐらいあったんじゃないかって言われてるんだよね。
うん。
まあよく加賀100万石って言われるよね。
うん、そうだね。
で、その加賀藩が藩石奉還によって県庁がこの金沢になって金沢藩っていう風になるんだよね。
うん。
で、その後廃藩地権によって金沢県っていう名前になって。
うん。
この時その現在の富山県のね東側部分とかもそれまで領地だったのが結構ね削られてたりもするんだよね。
うん。
で、その後ね、なんかやっぱ県庁が北に寄り過ぎだっていう意見もあって、石川郡っていうところがあってそこにね県庁を移して県名もね石川県になったって言われてる。
うん。
ただやっぱり行政上不便だから県庁を金沢に戻して、ただね名前は金沢県には戻さなかったんだよね。
ああ、なるほどね。
そう、ちょっとなんかこの変な動きしてんじゃん、石川県。
うん。
これもちょっと推測も入っちゃうんだけど、金沢藩ってどちらかって最初幕府派でついたんだよね、明治維新の時。
うん。
っていうのもあって、あと金沢藩のさ前だけの城があったのが金沢なんでね。
うん。
で、旧幕府時代のやっぱり名残を嫌う明治政府が金沢だったものを石川に移したりとか、その後名前を金沢県に戻さなかったっていうのもそういう意図があったんじゃないかって言われてる。
うん。
さらにさ、1876年になると新川県って富山県の部分なんだけど、今の。
うん。
それと鶴賀県って福井県なんだけど、後のね。
それとね、この時併合して石川県はね、一時ね日本一人口が多い県になったんだよね。
おお。
そうそう。ただやっぱりちょっとうまくいかなくて、対立とかやっぱり県を分けたいっていう意見が多くなって、
富山県と福井県は別々の県になって、今の石川県があるんでね。
うん。
まぁちょっと最後は例を挙げてみましたが、いかがでしたでしょうか。
アリンスじゃねえんだ。
そうだね、そこアリンスだけよかったね。
廃藩置県とは
えっとね、この廃藩知見って言葉を聞く時にさ、俺いつもさ、受験生とかさ、なんかその学生とかがさ、よく廃藩知見と反石法観を結構混在して覚えてるってことをちょっとふと思い出して。
あー確かにね。
なんか似てんじゃん。あの意味合いもさ、まぁ違うけど似てんじゃん。
似てる似てる。
そう。で、同じ四文字の漢字だしさ、なんか結構混在して覚えてる人も多いなーって思った中、小片郎がさ今日もうペロって説明したからさ、受験生は今日の回聞いてほしいよね、ぜひ。
いやでもこんな長ったらしく話しててもわけわかんないでしょ、たぶん逆に。
でもね、廃藩知見って大事だからさ、廃藩知見をさ、もうこれなんだっていうのをしっかり覚えておくために、この30分ぐらいを聞くっていう価値は多いにあると思うよ。絶対忘れないじゃん。
いや忘れるでしょ。
いやいや。
でも俺思ったのはさ、反石法観と廃藩知見も似てるけど、反石法観とさ、体制法観もさ、ニュアンスが似てるよね。
あー、まあそうだね、ニュアンスっていうか。
要はさ、体制法観もさ、実態は幕府がまだ権力があったわけじゃん、体制法観しても。反石法観もさ、法観しても実際に藩主がいて、それまでと変わらずに統治をしてたみたいなさ。
うん。
なんとなくちょっとニュアンス似てるなーって思って。
まあ確かにね、どっちもさ、王政復古の大号令とさ、その後の廃藩知見で実質的に功力を失うみたいな、そんなところも似てるよね。
そうそう、だからもう受験生はごっちゃになっちゃうかもしんないねって。
そうなんだよ、俺多分ね、どっちかっていうと体制法観王政復古の大号令の方がめんどくせえと思ってるからさ。
あー確かに。
まあそれと合わせて是非ちょっとね、廃藩知見と反石法観を是非覚えていっていただけれたらなと。
これ受験生聞いてんの?ほぼほぼ層違うからね。
まあね、わかんないけど、歴史検定受ける人オススメですみたいな。
あ、そうなの、歴史検定っていうのがあるんだ。
日本史検定とか世界史検定ってあるはずだよ。
あーそうなの。
受けたことないけど。
じゃあまあ今回のテーマは反石…あ、ちげえ。
いやいや、早速間違ってんじゃないかよ。
いやいや、その流れで。今回のテーマは廃藩知見でした。
もしよかったらこの番組をフォローしていただけると、またね、次配信するときにお知らせがあったりするかもしれないんで、是非ねフォローしてみてください。
はい、是非ともよろしくお願いします。
はい、それでは最後まで聞いていただいてありがたき幸せ。
で、アリンス。
なんてそれ。
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