1. 一戸信哉の新潟のへラジオ
  2. Vol. 236 【北海道】豊富町で..
2023-09-04 21:57

Vol. 236 【北海道】豊富町で戦後酪農を始めた庄内の人々


---
stand.fmでは、この放送にいいね・コメント・レター送信ができます。
https://stand.fm/channels/6025d15185b142d0d8d931c2

サマリー

豊富町の戦後の酪農開拓についてのお話を伺いました。豊富町の歴史、土地改良、入植者の苦労などについて詳しく聞かせていただきました。また、豊富町で戦後に酪農を始めた庄内の方々のお話や、江別での撮影の様子についてもお伺いします。さらに、和歌内での勤務経験や北海道での勉強についても触れていただけます。

目次

00:08
こんにちは。おはようございます。いいですかね。新潟のへラジオ、一戸信哉です。今日は9月4日ですね。月曜日になります。
だいぶ間が空きましたけれども、皆さんお元気でしょうか。非常に暑い夏が続いておりましたが、
そんな中、8月、いつでしたっけ、お盆の時に上越で配信して、あとしばらくお休みをいただいていました。
お休みをいただいていたわけじゃなくて、配信しようと思ってたんですけど、ずっとお盆明けから遠征を続けておりまして、
なかなか配信するタイミングがつかめずに、いつの間にやら9月になっていたということです。
おはようございます。のっぽろうしやの新潟さん、コメントをいただきました。
何をやっていたかというと、8月の20日でしたかね、日曜日から北海道へずっと行ってまして、
10日ぐらいから8月の終わりまでずっと北海道で、その後佐渡とかですね。
結構忙しく過ごしていて、
やっと10日ほど家を空けていた間の疲れをですね、やっと戻ってきたかなみたいな、そんな感じです。
何をやっていたかというと、8月の20日から21日から前半はですね、
稚内の育英館大学というところで授業をやっていまして、授業をやりながら学生をいろんなところを連れて行ったりしたり、フィールドワークの時間もあったりしたんですけど、
その授業が終わった後で、新潟の学生たちが来まして、その学生たちとともに、稚内の豊富町、稚内じゃないな、北海道の隣、稚内の隣の豊富町というところで2、3日取材しまして、
その後、今度札幌に移りまして、札幌ではですね、まさに野幌ですよね。
実は、江別市ですね。江別市で、越後村と言われる地域のことを、越後会と言われる人たちで活動されている方にお話を伺うということで、
だから3つあったんですよね。3つあって、それで10日間という非常に長期間の滞在となりました。
野幌の方に入っていらっしゃるので、江別の話もしていいんですが、今日はまず先に豊富町の話をしたいと思います。
豊富町の開拓
今回豊富町に行ったのはですね、実は豊富町の中に戦後にですね、開拓に入った人たちの集落があって、そこの集落の人たちは、
庄内地方ですね。庄内地方という山形県の鶴岡とか佐方とか、海沿いの地域ですよね。その地域の出身の方々がまとまって入職した場所があるということがわかり、
うちの学生の中にたまたま庄内地方出身の学生がいたので、その学生と一緒にちょっと訪ねてみようということで、春先から準備を進めていて、ようやく行くことができたということです。
私もかなり6年いたので、当然豊富町は温泉とかですね、いろいろ観光地というか訪れていくところはありますし、隣町なのでよく行っていたんですけど、この庄内集落というのは知りませんでした。
行ってみたら、そうなんです。観光名所があったりとか、目立ったお店があるとかってもちろんないんですよね。普通の、あまり人がポツポツと住んでいる落の地帯ですので、ほとんど知らない人はわざわざ訪ねていくような感じもないような場所なんですけど、
でもここ一帯が庄内という場所で、ここに入っていた人たちの話を伺うことができました。
北海道はみんな開拓の人たちが入っていって作った場所だということでいえば、取り立てて不思議なことはないんですけれども、実際には豊富町もかなり開拓が進んで、言ってみれば良い土地には人が住んでいるというような状況になってから戦後になって、
いわゆるデータンチであまり条件が良くない場所で残っていったところに庄内から人が入っていったということでした。
なんでかというと、つまり戦争が終わって引き上げてきた人たちの戦後開拓と言いますけど、人たちが新しい土地を求めていくときに北海道というのが出てきて、残された土地が割り当てられていくということなんですかね。
それで青年団のようなものが庄内地区で組織されて、その人たちが入っていくとか、いろんな経緯があったみたいなんですが、そうやって山形の人たちがまとまって入っていって収録を作ったという話で、データンチの開拓というのは非常に大変な苦労があったという話を様々伺いました。
データンチをどのようにして活用していくか苦労したという話は、江別府の方でも同じような話が明治時代にあったという話も聞きましたけども、
戦後に入っていって、サロベツ原野の土地を改良しながら、なんとか生活できるような基盤を築いていったという話を伺いました。
事前に調べていた感じでは、そこに行った人たちはみんな庄内の人で、みんな山形の人だろうと思って行ったわけです。
実際その集落も庄内と言われている、庄内集落というふうに総称される地域なので、小学校も庄内小中学校で、実は庄内小中学校も並行されているのですが、非常に山形県とのつながりが強い地域でした。
小中学校は廃校になっていますが、やっぱり送り出していった経緯から言って、山形県としても大きな関心を寄せていたようで、知事のメッセージとか知事から送られたものとか、あるいは人を送り出した鶴岡、佐方、それからその周辺の町村ですね。
今はほとんど合併しちゃってるみたいですけど、そういうところでその地域から送られた人形とかですね、いろんなものが廃校になっている小学校の中にいっぱい展示されていました。
あと、集落の人から聞いたのは、小学校があった時代は、折々の村の集落のイベントの際には、みんなで山傘音頭を踊るというのが伝統としてあって、学校の中には山傘を取り寄せたんですか、忘れましたけど、山傘音頭を踊るための傘ですよね。
傘が学校の中に今も保存されているということです。残念ながら傘を見せてもらうことはできなかったんですけど、そういうことで非常に山形から出てきた人たちがみんなで結束して村を頑張って作ってきたという話を伺いました。
今コメントいただいているとき、水はけの問題です。これは非常に大きな問題で、デイタンチということもあるし、地理的にも水はけが非常に悪い場所なんですよね。
土地改良の苦労
それがサロベツ原野というのを形成していたということなんでしょうけど、サロベツ原野の自然をある種守りつつ、人との共生というのを図るということで、土地改良事業が昭和40年代に始まって、
そして徐々に大規模な牧草地というのを作れるようになって、生活が安定していくというような話でした。
ただ、それ前に入植していった人たちで離納していく人たちは多くいて、離納していく人たちが多いからこそ、最初小さな土地をみんなで分け合ってやっていた人たちも、
離納した人たちの土地を引き受けることで、ある程度大規模な牧草地を作っていくことができるようになったというような話もされていました。
この土地改良の経緯は、実はサロベツ原野のビジターセンターという、みんなサロベツ原野の花を見に行くところの中で、ちゃんと解説するビデオが作られていて、そこもご案内していただいて全部見ましたけど、
先人たちも多くは亡くなっている方が多かったと思いますが、戦後入っていった人たちの苦労というのが具体的な映像の証言として記録されていて、それを見ることができました。
そこに出てくる人たちは、山形の人たちは出て行って大変だったのねと、そういう話を見るのかなと思いきや、映像を見ていたら、長野県出身とか、そのうちに新潟県出身の人も出てくるんですよね。
なので、ちょっと詳しい経緯は分からないんですけど、最初に入っていった人たちは庄内の人たちがまとまって入っていったんだけども、全部が全部山形の人だけというわけではなく、もともと土地としては開かれているわけですから、いろんな経緯で他の土地から入っていった人たちも同じように老区を共有しながら進んでいったんだなということが、その映像を見ながら分かったと。
ただね、実は山形の取材を庄内で山形出身の人たちの話を聞いているときに、いろいろご案内してくださった方がいてですね、その方途中で帰っちゃったんですよね。
いろいろアレンジした上で帰られていて、あの方はという話をしたら、いや、あの方は実は庄内の出身じゃないので、私がそこにいても話せることがないんでって言って、お帰りになったと。
そういう話を聞いたんですが、そのビデオを見ていたら、その方のお父さんが証言者として出てきて、それが実は新潟県出身の方だったということで、そういうことなんですかと。
だからここでお帰りになった方は新潟県出身の方の息子さんだったっていうことが分かって、えー、それだったらちょっとね、新潟版も少しお話を聞きたかったなということでした。
残念ながらそれは今回取材叶いませんでしたので、またね、次の機会があれば新潟版の話も伺いたいなと思いますが、どれぐらいお話をしてくださる方がいらっしゃるのか。
あのビデオに出てきた先代、初代の方もご存命でいたということなんですけども、まあね、お願いできるのかどうかというようなところかなと思います。
で、豊富町は実は調べていくと、前に話をしたことがあったかもしれませんが、別の集落に対象…かなり早い段階で一人で入植していって、一人で森を切り開き、
えー、少し生活が落ち着いたところで親戚を呼び寄せて、何人かで集落を作っていったっていう新潟の人たちがいるっていう記録を読んだことがあって、それもね、ちょっとやってみたいなと思ってるんですけど、まあでもね、それももうもっとその戦後解説を読むともっとだいぶ前の話ですからね。
どれぐらい過去のところまでたどれるかはちょっとよくわからないというところかなと思います。
はい、まあというので、豊富町で落納をやっている人たちの話を色々聞くことができて、私自身も非常に面白かったですし、
まして庄内出身の学生からすると、やっぱりその自分の同じ出身地の人たちが北海道の土地に入っていって苦労しながらどうやって切り開いていったかと。
豊富町と江別での撮影
最初電気もなかったって言ってましたよね。そういうところでどうやって道を切り開いていったのかっていう話は非常に大きな刺激になったのではないかなと思います。
豊富町には輪っか内から通いましたので、輪っか内には大体1週間くらいいまして、久しぶりにまた輪っか内の風景、輪っか内の最近の状況みたいなのも色々勉強する機会がありましたので、
そのことをまたお話ししたいと思いますし、それから札幌に拠点を移して今度数日間江別の方も撮影に行きました。コメント書いていただいてますけど、エチ誤解。
エチ誤解というのがあって、これも非常に面白かったんですけど、でもやっぱり戦後の話ではなくて、要するに明治維新後、明治も時間が経ってから入っていってるので、北越植民者っていうのは。
あとではあるんですけど、もうよくわからなくなってきているというところかなと思いますし、でも一生懸命地元の人たちが新潟との繋がりみたいなのを一生懸命繋ごうとしている人たちがいるということはわかったので、その辺のお話もまた次回かな、どこかのタイミングでしてみたいと思います。
はい、今コメントをいただきまして、以前、和歌内にいたのは教職でしたか?はい、そうなんですね。和歌内にある、現在、育英館大学と言っている大学に6年間勤めていまして、当時は和歌内北西学園という学校だったんですが、そこで6年勤めていまして、
北海道の大学生たちのこととか、和歌内という場所とか、いろんなところ、いろんなことは勉強させてもらったと思っている一方で、でもこうして年一とかでちょっと行っていろいろ勉強してみると、
いやーやっぱり30代前半かな、30代前半の時代の自分はこの北海道のいろんなことを自分吸収する力っていうのはなかったなっていうかね、もうちょっといろいろ勉強しようと思えばもっといろいろ勉強吸収できたようなと思うところもありますよね、それはね。
ありますけれども、それはもう言ってもしょうがないので、この年になってまた勉強することっていうのももちろん見えてくるというところもあるんでしょうから、そういうことで、そういうものをまた改めて大事にしながら勉強していこうと、そんなところですね。
江別だってもちろんそうですね、江別だってほとんど、野幌って地名知ってましたけど、たぶんね、車で通過してただけだと思いますよ、札幌と。札幌と和歌内の間を車で往復しているときに野幌って通るのかな、でも地名の記憶はあります。地名の記憶はありますので、たぶん直接そのルート沿いにあったのかどうかはともかくとしてなんらか通ってるんですよね。
たぶん普通に稚内に向かうときはおそらく増毛とかの方に行くんですよ。厚田とか浜益とかの辺を通ってた記憶があるので、江別はその時のルートではないと思うんですけど、言ったことはあったと思うんですけど、でもほとんど何の印象もないって言ったら大変失礼ですけども、特に記憶はなくて。
でも当時、学生でやっぱり見てるんですよね。野幌から来ている人とか、野幌って何ですか?そこ「つ」はいるんですか?みたいなところからね、勉強はしていますので、そういう人にあいながら地名とかっていうのはインプットされていってという程度かなと思います。
今コメントいただきました。高速の江別西とか東とかね。この間江別西を利用しました。1回乗ってみてね、別に下で行っても大した変わんないなってことで、高速は今回1回だけで、あとずっと下で往復しましたけど、行きましたよ、江別西。
なんか学生がパンを食べようとか言ってね、どんぐりっていうパン屋さんが良さそうですよみたいな話になって、江別西に降りてすぐだったかな、どんぐりっていうパン屋に行って、すごい広くて、イートインスペースも広くてゆったりしててすごくいいですねみたいな。
いちいち大きいものに出会うと、これが北海道だみたいな感じの反応になっていて、そうじゃない北海道もあると思うんだけどっていう気もしたけど、確かに大きいんですよ。
で、総在パンが大変豊かでというコメントをいただいてますが、非常にいっぱいパン屋があって、もちろん新潟県もいっぱいパン屋があって、ああいういろんなパン屋があるお店はあるんですけど、なんかやっぱりちょっと雰囲気が違うっていうかね。
なんかちくわパンに感動してましたよ。ちくわパンは北海道のなんですよとか、それは私はあんまり知らなかったんで、なんかちくわパンも結構大きくフィーチャーされてて、それも食べてました。
そうですね。何時頃だったかな。もちろん平日の昼間に江別に向かっていく途中でちょっと時間取ってご飯食べたっていう感じなので、ちょっと半端な時間だったんですけど、結構たくさん人がいて人気のパン屋だなっていうのがわかりました。週末だともっと混むんじゃないですかね。
ということでちょっと江別の話も先にお話ししてしまいましたけど、また次の機会に江別のお話もしたいと思います。ということで今日はここまでにしたいと思います。ありがとうございました。
21:57

コメント

スクロール